ププル・ジャヤカール(P) 私は新聞の短い記事を見ました、宇宙船が打ち上げられて宇宙空間を飛行するのだそうです、それは宇宙の一部でしょう―それには限りがないでしょう、なぜなら飛行するときに何の摩擦も起きないし、時間も計れないからです、それには終わりがないでしょう。自己の中に、人間の頭脳の中に、人間の精神の中に―それを何と呼ぼうと―物の中に、人の中に、樹木の中に、自然の中に限りのない空間はありますか? それは膨大に広がる何かの鏡像ですか?
クリシュナムルティ(K) あなたはこう尋ねているのですか、あなたの理解したことを、あなたの言ったことを繰り返させていただくなら、人間の頭脳の中に―私は頭脳と精神を区別したいと思います、我々はそのことを後で議論します―人間の頭脳の中に限りのない空間、時間とは無縁の永遠な何かがあるのかどうか、そういうことがありうるのかどうかを尋ねているのですか? 我々はそのことについて多くのことを推測できます、哲学者たちがそうしてきました、しかしそのような推測は実際の何かではありません。
P はい、しかしそれは宇宙空間が何なのかの洞察です。
K 人間の頭脳はある種の機械を作り出して、何というか、全体的な何かに入っていこうとしてきました。
P いいえ、それは初めにそのような可能性の洞察でした、そしてそれが今人々のそれを実験して立証することを可能にしました。
K 何というか、何かを超えていく機械を作り出すこと―それが宇宙の中へ入っていきます。
P もしあなたが何かを事実と仮定しないと、あなたは、何というか...さえできません。
K いいえ、私は問うています―私はこの点をはっきりさせたいと思います―我々はこの我々の会話で今何かを推測しているのか、あるいは何かを理論化しているのか、それとも我々は我々の中にそのような計り知れない何かがあるのかどうか、時間とは無縁の働きが実際にあるのかどうか、永久の何かがあるのかどうかを本当に明らかにしようとしているのかどうかです。宜しいですか?
P そのような探究をあなたはどのようにスタートさせるのですか? 何かを考察してですか、それともその問いを事実として仮定してそうするのですか? もしあなたがその問いを事実として仮定しないなら...
K 我々はその問いを事実として仮定しています。
P 我々は何らかの問いを事実として仮定する必要があります。
K 我々はそのことを問うています。
P そうなると、それが推測なのかそれとも考察なのかは、あなたのその取り組み方次第です。そのことが問われなければなりません。
K 我々はそのことを問うています。我々は問うています、頭脳が理解できるのかどうか―いや理解ではありません―その真理を悟ることができるのかどうかを、つまり永久な何かがあるという真理です、あるいはそれは永久ではないのかです。それが問いです、我々はそれを問いました。違いますか? そこであなたは問います、どのように我々はそのことを問い始めるのかと。どのようにしてあなたはこの本当に根本的な問いを恐る恐るためらいながら手探りし始めるのかと。その問いは何千年にもわたって問われてきました、つまり、人は永久に時間に縛られているのかどうかです、それとも、それはあるのか、起こりうるのか、想像ではなく、ロマンチックなことでもなく、それは実際に頭脳の中に起こりうるのかです―あるいは頭脳が永久の状態にあるそれ自身に気づくのかです。それが我々の問うていることです。
P このことに踏み込んでいくためにも、あなたは頭脳と精神を最初に区別しました。
K はい。
P 詳しく話してもらえますか?
K 我々は言っています、頭脳は条件づけられていると、少なくともそのある部分はと。そのような条件づけは経験を通じてもたらされます。そのような条件づけは知識です。そのような条件づけは記憶や経験、知識です、記憶は限られています、従って思考は限られています。宜しいでしょうか、我々は思考の領域の中で働いてきています。そうすると何か新しいことを発見するためには思考が働いていない、思考が止んでいるときが、少なくともある瞬間あるいは一定の間なければなりません。
P 頭脳は物質的なものです。
K はい。
P それにはそれ自身の活動があります。
K はい。それには思考とは無縁のそれ自身の働きがあります。
P しかし何世紀にもわたって脳の活動は思考の活動です。
K それが全てです。それが我々の言っている全てです。それが我々の言っている全てです、頭脳の全活動は、そしてこれまで使われてこなかった頭脳の領域もとにかく思考によって条件づけられています。そして思考はいつも限られているので、それは争うことを条件づけられています。限られているものは何らかの分断を生み出すに違いありません。
P それでは精神とは何ですか?
K 精神は思考とは無縁の全く異なる次元です。説明させてください。頭脳は、思考の装置として機能してきた頭脳の領域は、そのような頭脳は条件づけられています、頭脳のその領域です。そして頭脳のその領域がその状態にとどまる限りは精神とのコミュニケーションは生まれません、完全なコミュニケーションは生まれません。そのようにそのような条件づけがないとき精神とのコミュニケーションが生まれます、それは全く異なる次元のことであり、そうするとそれは頭脳とコミュニケーションがとれて、思考を使って働くことができます。
P しかしあなたはすでに...を事実として仮定しています。
K おーっ、確かに。
P 思考の領域の外の状態を。
K その通りです。従って、時間の領域の外です。
P しかし時間がこの問題の本質的な核心であるように思われますので...
K 時間と思考です。
P 思考は時間の産物です。つまり、思考は時間です。
K それが本当の核心です。どこからあなたはスタートしますか、あなたが言っているのは...
P いいえ。恐らくもし我々がこの時間の流れの全てのことに踏み込めるなら、どのような瞬間にその流れを止めうるのですか?
K 止めるとはどういう意味ですか、私にはその言葉の使い方が分かりません。誰も...
P 私は流れを遮断すると言っているのではありません...
K それです。
P ...しかしそれは...
K ...その消滅です。
P 私は別の言葉を使おうとしましたが、あなたは“消滅”という言葉を使います。
K もっとシンプルな言葉を使いましょう。
P 時間は太古の昔に遡ります。
K はい、それが思考です。
P 思考も太古の昔からのもので、永久の未来を思い描きます。
K 思考の働きです。
P 永久の何かを。
K いいえ。未来は過去によって条件づけられます、人間の精神として。
P そうすると人間が消滅しないと、人がいなくならないと...
K 条件づけが止まない。
P はい、しかしあなたは依然として思考を使っています。
K いいえ。
P その内容は変化を遂げるでしょう、しかし思考のメカニズムは継続するでしょう。
K 思考のメカニズムは継続するでしょう―違う言い方をしましょう―宜しいですか、思考は我々の手にしている主な装置です。宜しいですね?
P はい。
K そしてその装置は何千年もの様々な努力や活動の後にその装置を鈍くしただけではなく、それは万策尽きてもいます、なぜなら思考には限りがあるからです、そして時間には限りがあるからです。宜しいですか、従って、それは条件づけられ、分断され、絶え間ない混乱の状態にあります。それではそれは消滅しえますか? それが問い掛けです。
P 私は遮断という言葉を使いました。思考としての過去のこの活動、昨日という過去としての...
K 今日としての...
P しかし今日とは何ですか?
K 今日は修正された過去―記憶―の活動です。我々は記憶の束です。
P それは本当です。しかし時間に触れると...
K ちょっと待ってください、時間に触れるとはどういう意味ですか? 時間は思考です。
P 心理的なプロセスとしての時間です―私は...に触れるということを言っていません。
K もちろんです―それら全てから離れてください。
P しかし心理的なプロセスとしての時間に触れるのは現在の働きです、違いますか? ...が気づきうるだけです。
K ププルジ、はっきりさせましょう。時間は思考です。宜しいですね。時間を思考とは違う何かのごとく切り離さないでください。
P はい、時間は思考です。
K そのようにそれは時間的思考です。
P はい。過去、現在そして未来として。
K あなたは、今とは何かと尋ねているのですか?
P はい、なぜなら私が言っているこの遮断というのは―しばらくこの私の言葉を使わせてください。
K わかりました。遮断というのが私は全く分かりません。
P 遮断というのは触れること、事実に触れることです。
K 思考の全活動...の事実に触れることですか?
P それら全てだけではなく、“現にあるもの”に触れるということです。
K それは何ですか?
P 何でもそうです、今のあなたの発言もそうです。あなたが今話していることと私があなたに耳を傾けていることが“現にあること”に触れることです。
K あーっ、分かりました。つまり―私の理解の仕方で言ってもよいですか? 過去、現在そして未来は時間的思考の活動です。どのようにあなたはそれを悟りますか?
P どのようにあなたはそれを悟るのか。
K どのようにあなたはその真理を、その事実を見て取るのか、ということです。
P 宜しいでしょうか、触れてみるというようなことがあります。
K 触れる、触れてみる、はい。
P 宜しいですか...
K 触れてみる。どのようにあなたはこのことに触れるのですか?
P どのようにあなたはこのことに触れるのか。
K そのようにあなたは―あなたの言葉を使うと―それに、その事実に触れるのか、ということです。私が全くの記憶の連なりである―それは時間的思考です―という事実に。
P もっと具体的になりましょう。私は午後ここを離れます、そして私はあなたと別れると考えます。それは思考です。
K それは思考です。それは実際のことです。
P 実際のことです。しかしあなたと別れる辛さから、それは感情的な、心理的な要素ですが、その辛さがその事実を覆います。
K はい、それは何ですか?
P そうするとどのようにして人は...何が触れられることになるのですか? 私がここを離れるという事実ではありません。
K そうするとそれは何ですか?
P そうするとこの辛さです。
K その辛さ。分かりました。あなたはこのように問うているのですか、つまり、ここを離れる辛さ、何年にもわたって心を痛める辛さ、幾世期にも及ぶ孤独や悲しみの苦悩などそれら全て、悲痛、苦悶、不安などそれら全て、それはそれを感じるあなたとは分離した何かですかと。
P それは分離していないかもしれません。
K それは私です。
P どこで、どのように私はそれに触れるのですか?
K 私は“どのように私はそれに触れるのですか”というあなたの言い方が全く分かりません。
P それは現在の中でのみ...
K あなたの言うことは分かります。
P このことは全てそこに基づきます。
K はい、それが私の言ったことです。それが私の言ったことです。今は過去、未来そして現在を含みます。違いますか?
P いいえ。
K このことを理解しましょう。現在は全ての過去と未来です。それが現在です。現在は私です、何千年もの全ての記憶とともに、そしてその何千年がいつも修正されていて、そしてそれが未来になります―それら全てが今です、現在です。違いますか?
P しかし現在もまた静止していません。それは...
K もちろんです、もちろんです、もちろんです。あなたが何かを言った瞬間にそれは消え去ります。
P 消え去ります。それではあなたが実際に見るものは何ですか? あなたは実際に何を観察するのですか?
K 実際に事実を観察します...
P 何の事実ですか?
K 事実―ちょっと待ってください―現在は時間と思考の全活動であるという事実です。その真理を見てください―“見る”という言葉は使わないことにしましょう―今が時間と思考の全てであるという閃きです、そのことに気づくのです。
P その気づきは頭脳から生ずるのですか?
K それは目や神経などで感知して生ずるのか、起こるのか、それともそのような気づきは時間と思考とは何の関係もない閃きなのかです。
P しかしそれは頭脳の中で起こるのですか?
K はい、それともそれは頭脳の外か、とあなたは問うています。
P それはとても重要です。
K 知っています、それが私のはっきりさせたいことです。それは頭脳の領域の中なのか、それともそれはその条件づけから自由なときにやってくる閃きなのかです、それは精神の働きであり、霊妙な叡智の働きです。お分かりですか?
P 分かりません。
K あーっ、はっきりさせましょう。頭脳は、どの領域であれ、時間と思考によって、時間的思考によって条件づけられています。そのような条件づけがある限り、閃きはありえません。あなたは時折何かの閃きを得るかもしれません、しかし私の言うのは純粋な閃きです、それは物事を余すことなく理解することです―はい、私は“余すことなく”という言葉を使うことにします、全体ということではありません、なぜならその言葉はあまりにも使われすぎているからです―それは完全な何かに気づくことです。宜しいですか? そのような閃きは時間的思考に由来しません。従って、そのような閃きは頭脳の異なる次元の領域です。
P 見ることなしに閃きは起こりえません。
K それが私の言っている全てです。
P そうすると見ること―気づくこと...
K はい、気づくことです。
P 気づくこと―聴くことは気づくことの中に含まれます―は閃きに必須の本質であるように思われます。
K それをもう一度ゆっくり言っていただけますか?
P “ひら・めき”という言葉を検討しましょう―それは何かの中を見ることです。
K 何かの中を、何かの中を見ることです。
P 何かの中を見ることです。見ることの中を見ることですか?
K いいえ。何かの中を見ること―ちょっと待ってください、その言葉を見てみましょう。見ること、それは何かを余すことなく理解すること、何かの膨大な何かを。違いますか? 閃きは思考と時間の働きが止んだときにのみ可能です。思考と時間は限られています、従って、そのような限界づけられた中に閃きは起こりえません。
P あなたの言っていることを理解するために私は聴く耳を持って目を見開いていなければなりません。その声から、その姿かたちから、その全体の...から。
K それらの言葉の意味などを、はいそうです。
P 何かを超えていく何らかの見る働きが生じます。私は何かをとらえようとしています。
K あなたは何をとらえようとしているのですか? 私は...
P 私がとらえようとしているのは―あなたは閃きのことを話します。宜しいでしょうか、閃きは気をつけていなくては起こりえません。
K いいえ。“気をつけている”という言葉を持ち出さないで下さい。
P あるいは光景、見ること。
K もし我々が同じことから逸れないでいられるなら、つまり、閃きは時間的思考が働いている限りはありえないということです。
P 宜しいでしょうか、それはどちらが先かということのようです。どちらが先かです。
K どういう意味ですか?
P 意識の中では―私のこのことの取り組み方では―私は閃きからスタートできません。私は何かを観察することからスタートしうるのみです。
K あなたはその真理を悟ることからスタートしうるのみです、つまり、時間は、心理的な時間と思考はいつも限られているという真理です。それが事実です。
P クリシュナジ、それは事実です。
K 待ってください、そこからスタートすると、それが何を行おうと、それはいつも限られていて矛盾しています、従ってそれはいつも分断的であって、その争いには限がありません。それが私の言っている全てです。あなたはその事実を見て取ることができます。
P あなたはその事実をあなた自身の外に見ることができます。
K 待って、待ってください。あなたはそれを政治的に見て取ることができます...
P あなたはそれをあなた自身の外に見ることができます。
K いいえ、待ってください。あなたはそれを政治的に、宗教的に、世界中のあらゆるところで見て取ることができます、それは事実です、時間と思考がその働きで世界中に大混乱をもたらしてきたのを見て取ることができます。それは事実です。
P はい、はい。
K 宜しいでしょうか、そうすると問題はこうです、その限界は消滅しうるのか、ということです。それとも人間は永久に時間的思考の領域の中で生きるように条件づけられているのですか?
P 宜しいでしょうか、このことを理解することの難しさは脳細胞と感覚的なふるまい―私は“思考”という言葉を今は使いません―との関係性がこのような発言の中でどのようになるのかです、つまり、あなたはその事実を見て取るのか、時間、思考...
K ...が限られている。
P ...が限られているのですか? それは厳密にはどういう意味ですか、どのようにして人はそれを見て取るのですか? それは、あなたは幻想です、と言わんばかりです。
K 何ですって?
P それは、正にププルは幻想ですと私に言っているようなものです。
K いいえ、私はそうは言いませんでした。
P しかし私はそう言っています。
K いいえ、あなたは幻想ではありません。
P いいえ、宜しいでしょうか、全くその通りです。
K 違います。
P なぜなら、あなたが、結局のところ、ププルは心理的な過去の束であると言うや否や...
K 時間と思考の心理的な活動です、それが人間の精神です。
P それが人間の精神。
K その精神は...
P 限られている。
K 限られている。それが何を行おうと、それは限られている。
P それでは問います、それが限られていて何が悪いのですか?
K 何も悪くありません。もしあなたが絶え間なく心理的な争いの中を生きたいなら何も悪くありません。
P 分かりました、先へ行きましょう。それを消滅させることは、それは限られていると言ったり、感じたりするだけではなく、それを消滅させる何かがなければなりません。
K 私はあると言いました。
P これを消滅させるものとは何ですか?
K 消滅するとはどういう意味ですか?
P ただ...を見ることです。
K その“消滅する”という言葉を見てみましょう―私はあなたと私が使っている、我々が使っている言葉をはっきりさせなければなりません、その同じ言葉の意味を理解しなければなりません、何かを消滅させることです、執着を消滅させること、消滅させることです、喫煙を止めることです、これやあれを止めることです、それを葬ることです―消滅させることです。
P その流れが止みます。
K はい、もしそのように言いたければ。思考と時間の活動が止みます、心理的に。何が難しいのですか? あなたはそれをひどく複雑にしています、それはシンプルなことです。
P いいえ、そうは思いません。気づく瞬間があります、閃きの瞬間です、閃く瞬間とはどのような瞬間ですか?
K 閃く瞬間とはどういう意味ですか?
P 私が見て取るところ...どのような時間的空間の中で私はそれを見て取るのですか?
K 宜しいですか、ププル、シンプルに見ていきましょう。時間と思考が世界を分断してきました―政治的にも、地理的にも、宗教的にも―それは事実です。宜しいですね。違いますか? あなたはその事実が見て取れませんか?
P 見て取れないのです。私は外側を見ます...
K 待って、待ってください。外側を見ないでください。
P はい。私は事実が見て取れないのです。
K 私は事実が見て取れないとはどういう意味ですか?
P なぜならもし私が事実を見て取るなら、本当に事実を見て取るなら...
K あなたはその種のことを止めるでしょう。
P ...それは終わるでしょう。
K それが私の言っている全てです。
P なぜでしょうか、もしそれがそんなにシンプルなことなら―私はそうは思いませんが、なぜならそれはひどく回りくどいからです。
K いいえ。それが核心です―それが私の言っている点で、我々はそれを異なった言葉で恐らく言っているのです―もしあなたがこう閃いたのなら、つまり、思考と時間の活動は分断的であると、どのような次元でも、どのような世界でも、どのような領域でも、それは限のない心理的な争いの活動であると。それは事実です。イギリスはある島をめぐって戦いました。それは事実です。なぜならイギリス、イギリス、フランス、フランス、ドイツ、ロシア―それらはみな分断的です。そしてインド人と他の何々人との対立です―これらはみな時間と思考の活動です。それは事実です。
P はい、しかしあなたはそれがあなたの外側の出来事であるときに見て取れます。
K それが核心です。もしあなたがそれを外側に見て取れるなら、この活動を、それが世界で行っていることを見て取れるなら、それが世界中で引き起こしてきている悲惨を見て取れるなら、その内側の人間の精神は時間と思考の活動です。この働きがそれを作り出してきたのです。これはシンプルです。この心理的な働きが、この分断的な心理的な働きが外側の事実を作り出してきたのです。違いますか? 私はインド人です、だから私は安心です。私はドイツ人です、私はその言葉に安心を覚えます、私が何かに属しているという感じに私は安心を覚えます。
P 宜しいですか、クリシュナジ、私は言おうと思います、これら全ては、インド人であることや欲望は、それら全ては時間的思考のこの活動の産物として人は見てきていると。
K それが私の言っている全てです。
P しかしそれは、それは十分には...
K 何が難しいのですか、ププル。
P それら全ての中に、“私は存在する”という感じがあります。
K 私は人間の精神がそれだとは理解しません!
P それは本質的に...の性質。
K なぜそうではないのか? なぜなら―それはとてもシンプルです、なぜあなたはそれを複雑にするのですか―なぜなら私は考えたからです、人間の精神は条件づけられた状態とは異なる何かであると。私は考えました、私の中に何かがあると、頭脳の中に、あるいはどこかに時間とは無縁の何かがあると、神であれ、何であれ、何かがあると、そしてもし私がそこへ至りさえすれば、あらゆるものが整うと。それは私の条件づけの一部です、なぜなら私は不確かだからです、混乱しているからです、神が私を安心させてくれるのです、私を守ってくれるのです、私に確かな何かを与えてくれるのです。それが全てです。神や最高原理、あるいは何らかの信念です。
P 閃きはどこから生まれるのですか?
K 私はあなたに言いました。閃きは時間と思考から自由なときに生まれうるだけです。
P それはある種の終わりのない...
K いいえ、そうではありません。あなたは非常にシンプルな事実を複雑にしています、ほとんどの我々がそうするように。もしあなたが平和に暮らしたいと思うなら、平和に暮らすのはただ何かが花開くだけのことです、平和の途方もない世界を理解することです。平和は思考によってもたらされうるものではありません。
P 宜しいでしょうか、どうか理解してください、クリシュナジ、そのような発言に耳を傾けるのは頭脳自身です。
K はい、それは耳を傾けています。そうすると何が起こりますか? ちょっと待ってください。何が起こります? それが耳を傾けるなら、それは静かにしています。
P それは静かにしています。
K それはあれこれ考えていません、それは言い続けません、“おやまあ、彼は何を言っているの”と、それはあれこれおしゃべりしていません、それは静かにしています。違いますか? ちょっと待ってください。それが実際に、静かにさせられているのではなく、実際にそれが耳を澄ましているとき、それは静かになります、そうすると閃きが生まれます。私は思考の限界をいろいろと説明する必要はありません、それはそうなのです。
P あなたの言うことは分かります。そのほかに何かがありますか?
K おーっ、はい、あります。もっとたくさんあります。それは、耳を傾けるということは音の響きを意味しますか? 音の響きというのは何らかの領域の中のことですか、あるいは、わたしはあなたの言っていることをその声をやり過ごして聴いているのですか? もしそれが音であるなら私は耳を傾けていません、私はただその言葉を理解しているだけです。しかしあなたはその言葉以上の何かを私に伝えたいのです、ですからもしその言葉の音を私が聞いているのなら、私はあなたの言っていることを深く理解できていません。
そこで私はもっと何かを明らかにしたいと思います。我々は現在からスタートしました。現在は今です、今は時間的思考の全活動です。宜しいですか。それがその仕組みの全てです。もし時間的思考の仕組みが消滅すると、今は全く異なる意味を持ちます。そうすると今には何もありません。つまり、我々が“何もない”という言葉を使うとき、その“ゼロ”は全ての数を含みます。宜しいですか。そうすると“何もない”というのは全てを含むことを意味します。しかし我々は何もないことを恐れます。
P あなたがそれは全てを含むと言うとき、それは全ての人間の本質が、人種や環境のそれが、自然や宇宙のそれが、そういうことであると言うのですか?
K はい。いいえ、私はむしろ...宜しいですか、私は何もないと悟る事実を話しているのです。人間の精神は記憶の束です―宜しいですか―そしてそれらの記憶には生命がありません。それらは活動します、機能します、しかしそれらは過ぎ去った過去の経験の産物です。私は記憶の活動です。違いますか? 今もし私がそのことに閃くと何もありません。私は存在しません。
P あなたは音の響きのことを話しました。
K はい。
P そして耳を傾けることです。
K 音をやり過ごして耳を傾けるのです。その美が分かりますか?
P はい、精神自体が全く静まっているときそれは可能です。
K いいえ、精神を当面は持ち出さないでください。頭脳が静まっているとき、それは完全に静まっているので、言葉が作り出す音がやり過ごされます。
P 言葉が作り出す音がやり過ごされる。
K もちろんです。それが本当に耳を傾けることです。言葉はあなたが私に伝えたいことを私に伝えました。違いますか? あなたは私に言いたいのです、“私は午後ここを離れます”と。私はそれに耳を傾けます...
P しかし頭脳は耳を傾けていませんでした。
K はい。そして頭脳は、それが活動しているとき、それは何らかの雑音です、何らかの音です。
戻りましょう、さらに何かがあります、我々はそのことを含めます、音のことを後で取り上げます、なぜなら音とは何かということは非常に興味深いからです。音は空間と静寂が生まれるときにのみ存在します、純粋な音が存在します、そうでなければ、それはただの雑音です。
それではこの問いに戻りたいと思います、つまり、我々の全ての教育は、我々の全ての過去の経験や知識は何かになろうとする活動です、外面的にも内面的にも、心理的にも。何かになることは記憶の収集蓄積です。違いますか? もっと、もっと、もっと記憶すること、それが知識と称されます。宜しいですね。そうすると、そのような活動が存在する限り、何もないことが恐怖になります。しかし人が本当にこの虚偽を見て取ると、何かになることの幻想を見て取ると、正にその気づきによって、何かになることは果てしのない時間的思考であり、その心理的争いであると見て取ると、それはそれ以外の何ものでもないと見て取るその閃きが、それを消滅させます。つまり、それは人間の精神である、時間的思考である活動の消滅です。その消滅は何もないことです。何もないことは、そうすると、全宇宙を含みます―それは私の些細な恐れや不安などの問題ではないのです、宜しいですね、私の様々な悲しみの問題ではないのです。
結局のところ、ププルジ、何もないということは慈悲心の世界を意味するのです―慈悲心というのは何もないことです。従って、そのような何もないことは霊妙な叡智の働きです。それが存在する全てです。私は私がこのことを伝えているのかどうか分かりません。それではなぜ人間は―普通の、賢い人間は―何もないことを恐れるのですか? もし私が私は本当に言語的な幻想であると見て取るなら、私は生命のない記憶に他ならないと見て取るなら、それは事実です。しかし私は私がただの記憶にしか過ぎないと考えたくないのです。しかし真理は私が記憶であるということです。もし私が記憶しないなら、私は健忘症か、それとも私は記憶の全活動を理解して、時間的思考であるそれを理解して、この活動が続く限り、心理的争いや心理的格闘、苦痛が果てしなく続くに違いないという事実を見て取るかのかのいずれかです。そしてこのことに閃くと、何もないことは全く異なる意味を持ちます。そしてその何もないことは現在のことです。それは様々に変化する現在ではありません、それはある日これで次の日はあれというのではありません―何もないことは時間とは無縁です、従って、それはある日終わって別の日に始まるというのではありません。
宜しいですか、もし人がこの問題に理論的にではなく、実際に踏み込んでいくなら、それは本当に非常に興味深いのです。宇宙物理学は宇宙を理解しようとしています。その人たちは宇宙空間の気体を観測して理解しうるにすぎませんが、それはこの人間存在の一部としての、ここかしこに存在する測りがたき何かではありません。それは時間と思考の影が微塵もないということでなければなりません。ププル、結局のところ、それが本当の瞑想です、それがサンスクリット語の“空”です。しかし我々はそれを様々に解釈してきました、これやあれと注釈してきました、しかし実際の事実は我々が言葉や意見や判断以外の何ものでもないということです―それらは全く取るに足りないことです。従って、我々の生が取るに足らなくなります。
そこでゼロの中に全ての数が含まれることを見て取ることです、理解することです。宜しいですか。そのように、何もない中に、全ての世界が―何らかの痛みやそれらではなく―それらは全てとても些末なことです。私はそれらの叫び声を知っています、私が苦しんでいるとき、それが私のできる唯一のことです。あるいは何らかの恐怖に出会うとき、叫ぶしかありません。しかし私はそれがどれほど些末なことか分かりません。
それでは、これらのことに耳を傾けてきて、あなたは何を悟りますか? もしあなたがそれを言葉にできるなら、ププルジ、それはそれで良しとしましょう。あなたやこれらのことに―それはくだらないかもしれませんし、真実かもしれません―耳を傾けようとしている人たち、その人たちは何を見て取りますか、何を理解しますか、それら全ての計り知れなさを見て取りますか?
P それは本当に自己の心理的性質の消滅です、なぜならそれは...になっているからです。
K ちょっと待ってください、ププルジ、私は問いました、なぜならもしあなたがそうできるなら、それは我々全てにとって非常な助けになるからです、あなたはこれらのことに耳を傾けていて、あなたはどのように応じますか、あなたはどのように反応しますか、あなたは何を悟りましたか、あなたは何を―言ってください、おーっ、私はとらえた、私はその香りに触れたと。
P 宜しいでしょうか、それはとても...私にそのように聞かないでください、なぜなら私の言うことは何でも...に聞こえるからです。あなたが話すので何らかの計り知れなさを感じたのです。
K はい。ちょっと待ってください。それはありました、私はそれを感じることができました。その緊張感がありました。しかしそれは一時的ですか、それは一瞬ですか、それは一瞬のことですぐに消え去るのですか? そしてそれを思い出したり、それをとらえようとしたり、それを招き入れたりする類のことが始まるのですか?
P あーっ、違います、人は少なくともそこから離れていると私は思います。そして人が悟る別のことは、世の中で最も難しいことは全くシンプルになることです。
K シンプルになること、その通りです。もし人がシンプルなら、そうするとあなたは途轍もない複雑なことを理解できます。しかし我々は全く複雑なことからスタートして決してシンプルなことを見ません。そのように我々はトレーニングされています。我々は複雑なことを見て、その複雑なことの答えを見つけるように我々の頭脳を鍛えてきました。しかし我々は生の途方もなくシンプルなことを見ません―事実の、むしろ途方もなくシンプルなことを。
P インドの伝統では、少し脇道へ逸れてもよいなら...
K どうぞ、話してください。
P 音からあらゆる要素が誕生しました。
K 宜しいですか...
P 響き渡るけれども聞こえない音です。
K それです、それです。しかし、ププルジ、特にインドの伝統では、ブッダからナーガルジュナの古代のインド人たちは言いました、そのような何もない状態があると、つまり、彼らは言いました、あなたは全てのものを否定しなければならないと。ナーガルジュナは言います―彼はそのことに行きつきました、私が理解する限り、私は間違っているかもしれませんが、私が言われたのは―彼はあらゆることを否定しました、人間の精神のあらゆる活動を。
P 何かになるという脳細胞のあらゆる活動です。
K はい。書物の中に書かれているものです、伝統の中にあるものです。なぜ人々はその状態を追究してこなかったのですか? 最も賢明な人たちでさえ、最も宗教的に献身的な人たちでさえ―何らかの構造でなく、何というか、その感じを、神聖な感じを、神聖な何かの感覚を―なぜ人々はその状態を追究してこなかったのですか、他のことは否定しても、世界ではありません―あなたは世界を否定できません、人々は言葉を否定してきました、そしてそれらの人たちの生を混乱させました―しかしそれは“私”の余すことのない否定ではありません。
P 本当にそうです、宜しいでしょうか、克己―この言葉を使わせてください―は“私”の否定です。
K はい、しかし“私”は依然として存在しています。私は私の家を捨てるかもしれません、私は私の記憶から離れるかもしれません、しかし―お分かりですか?
P 基本的に克己は決して外面的なことではありません。
K 内面的です。それはどういう意味ですか? 執着してはいけない。あなたの最高原理にさえも。あなたの単衣に執着してはいけない。そこで私は思います、起こっていることは我々が何かに囚われているということです、言葉の網に、何らかの理論に本当に囚われているということです、それは実際の何かではないのです。私は苦しいのです、私はそれが消えてなくなる方法を見つけなければなりません、何らかの愚かな幻想へ逃げ込むことではないのです。なぜ人間は事実に向き合わないで事実を変えてきたのですか? 私の質問が分かりますか? それは我々が観念的な幻想とともに生きているからですか、何らかの理想や結論など―非現実的な―それらとともに生きているからですか? それはとても明らかなことです、それら全てがそうです。
P 我々は人類の歴史とともに生きています。それが人類の歴史です。
K それが人類の歴史です。そして人類とは私のことです。そして私はこれです―果てしない悲惨です。ですからもしあなたがこのような悲惨を終わらせたいのなら、“私”を消滅させるのです。“私”の消滅は意思の働きではありません。“私”の消滅は断食によってもたらされるのではありません―あなたは人間が行ってきた、聖者と呼ばれる人たちが行ってきた、それら子供じみた類のことを知っています。
P それが本当の時間の消滅です、違うでしょうか?
K はい。そういうことではないのですか? 時間的思考の消滅です。それは音をやり過ごして耳を傾けることです―音をやり過ごして宇宙に耳を傾けることです。
(しばらく沈黙して)
我々が先日ニューヨークで話していたとき、そこに一人の紳士がいました、彼は医者でした―彼は著名な人であったと思います。彼は言いました、それら全ての問いかけは良いことであると思いますが、根本的な問題は何かしら条件づけられている脳細胞が本当にそれ自身の中に何らかの変質をもたらしうるのかどうかですと。そうすると全てがシンプルになります。私は言いました、それは何らかの閃きによってのみ可能であると―我々はそこへ踏み込んでいきました、我々が今行ったように。宜しいでしょうか、誰も進んでこのことの全てに耳を傾けようとしません、人々は部分的に聞くのです―人々はある点で同意します、しかし人々はあるところまでは一緒に登っても、そこで止めてしまうのです。もし人が本当に私は平和な世界を手にしなければならない、そうして私は平和に生きなければならないと言うなら、世界に平和が生まれます。しかし人は平和に生きたいとは思いません、人はそれに反するあらゆることを行います―人の抱く野望であり、人の傲慢さであり、人の愚かな些細な恐れなどその他の全てです。
そのように我々はこれら全ての膨大な何かの中にいて取るに足らない些細なことを行っているのです。あなたはこのことを悟りますか、ププル。そのように我々はそうした取るに足らない生を生きているのです。私は、このことは上下に関係なくあらゆる人に当てはまると思います。
(しばらく沈黙して)
P あなたにとって音とは何でしょうか?
K 音は樹木です。音は―ちょっと待ってください―音楽を例にとります、それがインド古来の純粋な聖歌であろうと、ベーダの聖歌であろうと、そしてグレゴリオ聖歌であろうと、それらは途方もなく近い関係にあります。そして人はそれらの讃歌を聞きます―それらは、あなたはそれらが何であるのか知っています! それからあなたは波の音を聞きます、樹々の中を吹き抜ける音を聞きます、何年もあなたと暮らしてきた人の声を聞きます。あなたはそれら全てに慣れています。しかしもしあなたがこれら全てに慣れていないなら、音や声は途方もない意味を持ちます。そうするとあなたはあらゆるものを新鮮に聞きます。例えば、あなたは私に言います、時間と思考が人の生の全活動であると、従って人の生は限られていると。今あなたは私にシンプルな事実を伝えました、そして私はそれに耳を傾けます。私は言葉の音をやり過ごしてそれに耳を傾けます、私はその意義を見て取りました、その発言の深みに触れました。それがわたしから消え去ることはありえません。私が今それを聞いて私が外へ出るとそれは消えてしまうというようなことではありません。私はその全体の何かに耳を傾けました。それはその音声がそういうことなのですという事実を伝えたことを意味します。そしてそういうこととは絶対的な何かであり、いつでもそうなのです。
私は信じます、ヘブライの伝統の中にある、エホバであれ何であれ、名状しがたき何かのみが“私は存在する”と言いうるのだということを、サンスクリット語でいう“真如”などと同様に。
私はこれで十分だと思います。
1983年 6月25日 ブロックウッドパーク
中野多一郎 訳