全く異なる生き方

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17 瞑想、人の生の全てに浸透する叡気の質

アラン W アンダーソン(A) 我々の前回の会話の最後で我々は我々がほとんど別のことを、瞑想的なテーマについて始めようとするところまで来ました。
クリシュナムルティ(K) 宜しいでしょうか、私はあなたが多くの瞑想施設に気づいているのかどうか知りません、例えば、インドや日本、中国のそれらです、禅であり、様々なキリスト教の観想会です、果てしなく毎日毎日祈り続ける人たちのことです、神の恵み―あるいはそれをその人たちが何と呼ぼうと―が与えられるのを待つ人たちのことです。私は、もし私にそう言わせてもらえるなら、我々はどれが正しい瞑想法かではなく瞑想とは何かから始めるべきであると思います。
 はい。
 そうすると、我々は瞑想とは何かのこの問いを一緒に推し進めて共に探求し共有することができます。その言葉そのものはじっくり考えること、結合すること、包含すること、非常に非常に深く考えることを意味します、それら全ての意味がその“瞑想”という一語の中に含まれています。しかし我々は瞑想が何であるのかを本当に知らないと言ってスタートできますか? 
 結構です。
 もし我々がオーソドックスで伝統的なキリスト教やヒンズー教、仏教の瞑想を受け入れるなら、そしてもちろんイスラム教徒たちのスーフィー瞑想もあります、もし我々がそれを受け入れるのなら、それは全て伝統に基づいています。
 はい。
 それは誰か他の人たちが経験したことであり、その人たちがその人たちの成し遂げたことを実践するためのメソッドやシステムを定めているのです。そうして恐らく何千もの瞑想施設があって、それらがこの国で増加しています、つまり、一日に三回瞑想しなさい、何らかの言葉や文句、マントラを念じなさいと。そしてそのためにあなたは三十五ドルあるいは百ドルを払い、何らかのサンスクリット語やギリシャ語を手にし、それを繰り返し繰り返し繰り返し唱えます。それから様々な呼吸法や禅を実践する多くの人たちがいます。それら全ては決まりきったことを確立することであり、精神を本質的に鈍くする何らかの実践です。なぜなら、もしあなたが何かを実践し実践し実践するなら、あなたは機械的な精神になります。そのように私はそれらのいずれも全く行ってきませんでした、なぜなら、個人的に、もし私自身のことを少し言わせてもらうなら、私はただ見てみるために様々な種類の集団を見守ってきたり、それらに参加してきたりしました。そして私は言いました、これは違うと。私はそれを即座に捨て去りました。そこで我々がそれら全てを捨て去れるかどうかです、つまり、ヒンズー教、仏教、キリスト教、そしてインドから来るグルたちによってもたらされる様々な瞑想の数々、そして様々な観想法、それら全ては他の人たちが言ってきたこと、他の人たちの体験、他の人たちの悟りなどを引き継ぐ伝統の何らかの継続です。我々が完全にそれら全てを、それらのメソッド、それらのシステム、それらの実践、それらの規律を捨て去れるかどうかです。彼らはみな真理や神など彼らの好きなことを言います、従ってそれはそこにある何かです。あなたはそこへ行くために実践します。それは固定的な何かです―彼らによると。もちろんそれは固定的でなければなりません。もし私がそこへ行くために実践し続けるなら、それは動かないでそこになければなりません。
 はい、もちろんです。
 しかし真理は静止していません。それは死んでいるものではありません。
 はい、それはよく分かります。
 そうすると、我々がそれら全てを脇へ除けて、こう問うことができるかどうかです、つまり、瞑想とは何かと。
 そうです。
 どのように瞑想するのかではないのです。そのように問うとき、つまり、瞑想とは何かと問うとき、我々は明らかにし始めます、自分自身で瞑想し始めます。私は私が明確に言っているのかどうか分かりません。
 はい、我々は再びこの区別に戻っています、活動のゴールがその活動の外側にあるのか、それともそれとは対照的にそれは本来それ自身に備わっているのかです。
 はい、そうです。そうすると、我々はこう言って始めることができますか、私は瞑想が何なのか知りませんと。
 はい、私は進んでそこからスタートします。
 もしあなたがそこからスタートするなら、それは本当に素晴らしいことです、そうするとあなたは大変謙虚になります。
 そしてまた人は遠くから自由を直観します。
 はい、そうです。“私は知らない”と言うことは、既知や既存の伝統、既存のメソッド、既存の諸施設や既知の様々な実践から自由であることを途轍もなく自認することです。
 その通りです。
 私は私の知らない何かから始めます。それが、私にとって、大いなる美です。そうすると、私は自由に動けます。
 その通りです。
 そのように問い掛けて私は自由に流れます、泳ぎます。そのように、私は知りません。そのようにそこから我々は始めることができます。最初に、瞑想は日常生活から切り離されるものですか? 日常的な振る舞いから、日常的な何らかの成就、野望、貪欲、嫉妬などの欲望から、日常的な競う、模倣する、順応する精神から、日常的な欲求から、官能的な、性的な、他の様々な形の欲求から、知的欲求などから切り離されるものですか? 瞑想はそれら全てから切り離されるものですか? それとも瞑想はそれら全ての中を流れるのですか、それら全てをカバーするのですか、それら全てを含むのですか? もしそうでないなら瞑想には何の意味もありません。お分かりですか?
 はい、分かります。このことによって私があなたに尋ねたい興味深い問いが起こります。私は今まで個人的に儀式的な性格をもつ瞑想を行ったことはありません、その種のものはある伝統の中や僧院的な徹底した方式に則って行われる瞑想の中にあります。私はそのような実践から生まれてきた文献をかなり深く読んできていて、私は例えばヘシュカスタイ伝統と呼ばれるものを研究した折に私が理解したことを考えています、そこではイエスの祈りと呼ばれるものが僧たちによって、とりわけアトス山で唱えられます、つまり、“主、イエスキリストよ、罪深い我に憐れみを施したまえ”と。このことが何度も何度も次のような願いのもとに繰り返されます、つまり、いつの日にかそれが無意識のうちに行われるようになって、現代の深層心理学が言うように、無意識がそれに取って代わるようになって、私が何を行おうと私の行うことが全てその祈りに向けられているようになりますようにと。それによると、このことが成し遂げられるとき、私がもはや普通の意味でその祈りを唱える必要がなくなるとき、その祈りが私の中で独りでに唱えていると。
 同じことが、宜しいでしょうか、インドで違うやり方で、マントラで表現されます。何らかの文句や言葉を繰り返し唱えることです、最初は大きな声で、それから声に出さずに唱えます。そうするとそれがあなたの体の中に入ってきて、その正に声が続いていて、その声からあなたは行動しますし、あなたはそのように生きます。しかしそれは全て何かに到達するために自己に何かを課したのです。例えば、あなたが繰り返し唱えるその祈りの中で、あなたは罪に言及しました―私は罪を受け入れません、私は罪が何なのか知りませんと。
 私はそれらの言葉を耳にした人の顔に浮かぶ恐怖が想像できます!
 それはその人たちが何らかの信念に条件づけられていることを意味します、イエスという人がいるとか、罪があるとか、その人たちは許されなければならないとか―それら全ては何らかの伝統をただ継続しているのです。
 このことは私に非常に個人的に注意を促します。何年か前にそれらのいずれも行わないように私が決断した基礎は、あなたの少し前に行った発言の中に体現されていました、つまり、それらの言葉から期待されることは...
 呼吸法などそれら全てから...
 ...どういうわけか私の全存在にそれが染み渡ってくると。そして私の頭に浮かぶ疑問は、そのような言明それ自身が、それがマントラであろうとイエスの祈りであろうと、何らかの限定されている表現ではないかということです。
 その通りです。
 従って、私はそこで何か奇妙なことを行っているのではないか、ということです。
 はい。
 そしてもし私が気をつけているに値する何かに気をつけているなら、それは恐らくそのためというよりもそれにもかかわらずそうしています。
 はい。
 従って、私は全く先へ進みません。
 全くその通りです。宜しいですか、それら全ては真理への道があることを意味します―キリスト教のそれであれ、ヒンズー教のそれであれ、禅のそれであれ、様々なグルとそれらのシステムであれ、悟りや真理、計り知れないあれやこれへのそれがあることを意味します。そしてそれはそこにあるということなので、あなたの行うことはただそれに向かって歩いて歩いて歩いて歩き続けるだけです。それはそれが確立されていること、固定されていること、静止していること、動いていないこと、生きていないことを意味します。
 そこで私の頭に浮かんでくるのは、聖書の中で神が私の足元にあって私の行く手を照らすランプの灯りとして描写されていることです。それは神がその行く手だとは言っていません。むしろ神はそのランプであり...
 ...その行く手を照らす、はい。
 はい。足元を照らすランプであり、行く手を照らす灯りであると。しかしそれは神がその行く手であると言っていません。それは非常に興味深いことです。
 非常に。
 しかし恐らく誰もその言葉を本当に十分に吟味して見ません。
 宜しいでしょうか、あなたがそれをすでにどのように見ているのか、ということです。あなたはその言明の真理を見て取ります、その感じをつかみます。
 はい、はい。
 そうすると、それが一つです。瞑想は存在の全領域をカバーしますか? それともそれは生から全く別の何かですか? 生はビジネスや政治、性、快楽、野望、貪欲、嫉妬、不安、死、恐れなどであって、それら全てが私の生であり、生命であり、生きていることです。瞑想はそれとは別ですか、それともそれはそれら全てを含むのですか? もしそれがそれら全てを含まないなら、瞑想には何の意味もありません。
 今私の頭に浮かんだことはきっと非常に異端的に思われるのでしょう。しかしイエス自身の言葉です、つまり、“私がその行く手であり、その真理であり、その生です”と、このような議論によって明らかにされたことから理解すると、それは、彼の言ったその他のことに関連して、我々が教えられてきたこととは信じられないほど違った意味を帯びます。例えば、彼がペテロに彼は誰かと問うとき、つまり、“私は、イエスは誰か”と問うとき、ペテロは言います、“あなたはキリストです、生きている神の子です”と、彼は即座にペテロを見て言います、“肉と血はこのことをあなたに明らかにしません”と。肉と血ではありません、つまり、“しかし私の父は天国にいて”彼は言います、他のどこかのところで、彼と一体ですと。そのように彼は彼の父と一体です。そのように彼は祈ります、弟子たちが彼と彼の父が一つであるように彼と一つであることを。そのように彼らはみな一つなのかも知りません。私は私の言おうとしていることが、神学的に言えば、空想的に見られることに気づいていますが、彼が”私はその行く手であり、その真理であり、その生である”と言うとき、もしその一つであることが何らかの行為という観点からみられるなら、全てのことが全く変質します。
 はい。
 私は長い間何とかしてそのことを飲み込もうとしています。
 そのように、もし瞑想が生から切り離されるなら、瞑想には何の意味もありません。それは生からのただの逃亡です、我々のあらゆる労苦や悲惨、悲しみ、混乱などからの逃亡です、従ってそれには触れる価値さえありません。
 はい。
 もしそれがそうではないなら、それは私にとってそうではありません、そうすると瞑想とは何ですか? それは何らかの成就ですか、何らかのゴールへ到達することですか? それともそれは我々のあらゆる活動に染み渡る香りですか、美ですか、従ってそれには途轍もない意義があるのですか? 瞑想には途轍もない意義があります
 そうすると、次の問いは、それは何かを探し求めた結果ですか、ということになります。禅の会に参加したり、他の会に参加したり、これやあれに参加して、これやあれを実践し、あるいは実践しないで独身や清貧を誓い、あるいはそこへ行きつくために沈黙し断食します。私にとってそれら全ては全く必要ありません。なぜなら大切なことは、我々が昨日言ったように、誤りを見て取ることだからです、私がその誤りを真実であるとか誤りであるとかと判断するのではなく、そのような正に気づきがその真理あるいは誤りを露わにするのです。私はそれを見なければなりません、私の目が何の偏った見方とも無縁に、何の反射的な反応も起こすことなく、それを見なければなりません。そうすると私は言えます、これは誤りであり、私はそれに触れませんと。それが起こることです。私は触りません。人々は私のところへ来て言ってきました、“おお、あなたは人が行えることを何も考えていません”人々は言ってきました“あなたはこれやあれを行わなければなりません”と、私は言ってきました“何も行うことはない”と。私にとってそれは誤りです、なぜなら、それはあなたの生を含まないからです。
 はい。
 あなたは変わっていません。あなたは言うかもしれません、“私は愛に満ちています、私は真理にあふれています、私は知識にあふれています”と。私は言います、“それは全くのナンセンスです。それではあなたはそのように振る舞いますか? あなたは恐れから自由になっていますか? あなたは野望や貪欲、嫉妬やあらゆる領域での成功願望から自由になっていますか? もしそうなっていなければ、あなたはただ何らかのゲームを弄んでいるにすぎません。あなたは真剣ではありません”と。そのように、そこから我々は進めていきます。
 はい。
 瞑想は存在の全領域を含みます、芸術の世界であろうとビジネスの世界であろうと。なぜなら、私にとって、芸術家やビジネスマン、政治家、聖職者、学者、科学者などの分断は、我々がそれら全てを職業として断片化してきたやり方は、人間の断片化の表現だからです。
 はい、はい、私はその点について大学で起こっていることを考えています。我々はいつもお互いに言い合っています、“何としても秩序づける原理を見つけよう、それによってこれら全てをある種統合して学生が意味のあることを行っていると本当に感じられるように、単に学生が見てもいない長い列車の列にもう一つ貨車を付け加えると感じないように”と。
 はい。そうすると、瞑想は、あなたがそれら全て―システム、メソッド、グルたち、権威―を否定するとき、宗教的な問い掛けになるはずです、あるいは、そうなります。
 はい、根本的に宗教的です。
 根本的に宗教的です。それでは、芸術家は社会的構造の中だけではなく宗教的な表現においてもどのような役割をするのですか? お分かりですか? 芸術家とは何ですか? その人は我々の日常生活とは別の何かですか、生きることの美や本当に宗教的な精神の質とは別の何かですか? お分かりですか? その人はその一部ですか? それともその人は変人であり、その外側にいるのですか? その人が何らかの才能を持っているからですか? そしてそのような才能の表現が途方もなくその人にとっても人々にとっても重要になります。
 我々の文化の中ではその人はしばしばそのような才能の表現で社会的な慣習と衝突します。
 そしてそれはその人自身の中の葛藤も表現します。
 もちろんです。はい、西洋文明の中にはアウトサイダーとしての芸術家の長い伝統があります。
 はい、外側の何かとして。しかしその人はもっとずっと感受性に富み、美や自然に対してもっとずっと鋭敏です、しかしそれを除くと、その人はただの普通の人です。
 はい、もちろんです。
 私にとっては、それは矛盾です。始めに完全な人間でいると、あなたが何を作り出そうと、あなたが何を行おうと、それは美しいのです。
 もちろんです。
 あなたが何を描こうと、あなたが何を行おうと。芸術家を途方もない何かに、あるいはビジネスマンを醜い何かに分けないようにしましょう。知的な世界にいるとだけ言っておきましょう、あるいは物理学の世界にいる科学者などとだけ言っておきましょう。しかし最初に人間がこなければなりません。お分かりですか? 人間という意味は、生、死、愛、美、関係性、責任、殺さないことを余すことなく理解している人間という意味です。それら全てが生きるということの中に意味されていて、それは自然との関係性を築き上げます。そしてそのような関係性の表現は、もしそれが全体的で健全なら、創造的です。
 このことは多くの芸術家がその人たちの仕事として感じることとは非常に非常に異なります。特に現代では芸術家たちはその人たちがある意味でその人たちの時代の断片を反映していると考えています。
 その通りです。
 そのように、その人たちはその断片が私たちを照らす鏡であると発言します、そしてそうすることでその断片をさらに強化しています!
 その通りです。
 はい、あなたの言っていることはよく分かります。
 宜しいですか、瞑想は存在の全領域をカバーします。瞑想はメソッド、システムからの自由を意味します、つまり、私は瞑想が何なのか知らないので、私はそこからスタートします。
 はい。
 従って、私は自由からスタートします、それらの重荷を背負うのではありません。
 素晴らしい。自由からスタートするのであって、それらの重荷を背負うのではない。そのように断片化をそのような観点から我々に示すということは本当にジャーナリズムの行うこと以上にはなりません。
 ジャーナリズム、その通りです。プロパガンダです。
 もちろんです、はい。
 従って、嘘です。そのように私はそれら全てを投げ捨てます。従って私は何も背負いません。それゆえに私は自由に探求します、つまり、瞑想とは何かです。
 素晴らしい。
 私はこのように行ってきました。お分かりでしょうか。それらは言葉による表現ではありません。私は私が生きてこなかったことは何も言いません。
 それはここに座ってあなたと会話している者として私にはとても明らかなことです。
 私は言いません。それは偽善です、私はそれらのことには関心がありません。私は瞑想が何であるのかを見て取ることに本当に関心があります。人はこの自由を手にしてスタートします。そして自由は精神を自由にすることを意味します、精神自身から他の人たちの重荷を取り除くことを意味します、その人たちのメソッド、その人たちのシステム、その人たちの権威の受け入れ、その人たちの信念、その人たちの希望を取り除くことを意味します、なぜなら、それら全てが私の一部だからです。従って私はそれら全てを投げ捨てます。そして今私はこう言ってスタートします、“私は瞑想が何なのか知りません”と。それは精神が自由であることを意味します、精神が大変に謙虚になっていることを意味します。知らないでいて私がそれを問わないでいると―誰か他の人がそれを満たすでしょう。
 その通りです。
 何らかの書物が現れ、何らかの学者、教授、心理学者がやってきて言います、“あなたは知りません。私は知っているのです、私がそれをあなたに教えましょう”と。私は言います、“止めてください。私は何も知りません。あなたも何も知りません。なぜならあなたは他の人たちの言ってきたことを繰り返し言っているからです”と。そのように私はそれら全てを投げ捨てます。そこで私は探求し始めます。私は探求する立場にいます。何かを成就しようとしているのではありません、人が悟りと称するものや何かに到達しようとしているのではありません。私は悟りと称されるものがあるのかどうか知りません。私はこの大いなる謙虚の気持ち―知らない―で始めます、従って私の精神は、私の精神は本当に探求することができます。そのように私は探求します。最初に私は私の生を見つめます、なぜなら始めに私が言ったように瞑想は生の全領域をカバーすることを意味するからです。私の生、我々の生は、始めに日常の意識的な活動です。私は検討してきました、私はそれを見つめてきました。何らかの矛盾などが生じます―我々はそのことを話してきました。そしてまた睡眠の問題も生じます。私は八時間、九時間、十時間眠ります。睡眠とは何ですか? 私は知らないと言ってスタートします。他の人たちの言ってきたことは受け入れません。お分かりでしょうか。
 はい、分かります。
 私は宗教の本当の精神である瞑想に関して探究しています。つまり、ある次元から全く異なる次元へ進むためのあらゆるエネルギーの集積です、しかしそれは我々のこの次元から切り離されることを意味しません。そうすると睡眠とは何ですか? そして覚めているとはどういうことですか? 私は覚めていますか? それとも、私は何らかの危機が生じるときにだけ覚めるのですか、何らかのショックを受けるとき、何らかの挑戦を受けるとき、何らかの事故や死、不和、失敗が生じるときにだけ覚めるのですか? お分かりですか。それとも私は一日中いつも覚めているのですか? そうすると、覚めているとはどういうことですか? お分かりでしょうか。
 はい、分かります。あなたが瞑想は全存在に浸透するに違いないと言っているので、明らかに覚めているのが一時的であるはずがありません。
 その通りです、一時的であるはずがありませんし、何かに刺激されるものであるはずがありません。
 至高体験と称されるはずがありません。
 はい。どのような形の刺激も、それが外的なものであれ内的なものであれ、あなたがまどろんでいて何らかの刺激を必要とすることを意味します、それがコーヒーであれ、セックスであれ、トランキライザーであれ。全てあなたを覚めさせておくものです。
 眠るために一服を盛り、覚めるために一服を盛る。
 そこで私が探究するとき、私は問うています、私は覚めているのかと。覚めているとはどういう意味ですか? 政治的に、経済的に、社会的に起こっていることに覚めているということではありません、それは明らかなことです。そうではなく、覚めていることです。それはどういう意味ですか? 私はもし私が何らかの重荷を背負っているなら覚めていません。何らかの恐れが生じているときには覚めているという感覚は生まれません。もし私が何らかの幻想と共に生きているなら、もし私の行動が神経症的なら、覚めているという状態は生まれません。そこで私は検討しています、私は私の内と外で起こっていることに非常に敏感になることによってのみ探究できると。そうすると、精神は私の内と外で起こっていることに日中完全に覚めていますか?
 一瞬一瞬。
 その通りです、そうでなければ私は覚めていません。
 家で我々は鳥を飼っていますし猫も飼っています。鳥たちは部屋の中を猫がいるとき飛び回りませんが、鳥たちが夕方になって寝床につくと、猫が部屋に入って来て鳥たちと一緒にいます、恐らく一、二時間そこにいて鳥たちを見ています。鳥たちを世話しなければならないと感じているかのようにです。そして日中、私はしばしば猫が座って鳥たちを計り知れなく集中して見ているのを目にしてきました、そしてそのことで起こる普通の反応は、“おお、何と、あなたはそのようなことをこれまで見たことがありませんか、この辛抱強い集中力は何なんだろう”というものです。しかし猫は見守っています。
 その通りです。
 そして猫の目はいつも宝石のように...
 輝いています。
 ...集中力と輝き、炎よりも輝いています。そしてそれは決して止みません。そして猫が眠ると、猫は本当に眠ります。あなたが私に眠るとはどういうことかと問うたとき、猫の完全に眠る能力と完全に覚めている能力に何らかの関係があるに違いありません。
 その通りです。そこで眠るとはどういうことかを問うて検討するとき、私は覚めているとはどういうことかも問わなければなりません。
 もちろんです。
 私は覚めていますか、それとも過去がとても生き生きとしていてそれが現在の私の生を指図するのですか? そうすると私は眠っています。
 それをもう一度言ってくださいませんか? それは非常に重要なことです。
 それを別の言い方で言いましょう。私は覚めているのですか? 私の精神は過去の重荷を背負っているのですか? 従って、何らかの重荷を背負っていると、私は現在覚めていません。
 現在覚めていない、その通りです。
 私は話しているとき覚めていません。
 その通りです。
 なぜなら私は私の過去の何かから話しているからです、私の経験であり、私の過ちであり、私の傷であり、私の落胆です、従ってその過去が私を支配していて今の私を眠らせています。
 睡眠薬です。
 睡眠薬です。従って、私はその過去をどうすればよいのでしょうか? お分かりでしょうか?
 はい、分かります。
 過去は必要です。
 もちろんです、はい、知識の全領域です。
 知識です。過去は必要です。しかし過去が現在を覆うと、私は眠ってしまっています。そうすると、過去が何であるのかを知って、それを現在に流れ込ませないことは可能ですか? そのように問うとそのような現実が自ずから何かをもたらします。従って私は言います、はいと、私はその意味することが分かります。私は生きることができます、私は大きく目を見開いて余すことなく覚めていて、それでもなおかつ知識の領域の中で働くことができます。そうすると何の矛盾も起きません。私は私がこのことを伝えているのかどうか分かりません。
 はい、伝わっています。
 そのように両者が調和して働いています。一方が他方の後塵を拝していません、両者は矛盾していません。両者は調和しています。
 私がここで見ているのは、もし私が正しく理解しているなら、一方で我々は知識を手にして、実用的なことに関するノウハウという点でその必要性を理解し...
 もちろんです。
 ...他方で我々は見て取ります、理解します。そして瞑想することはそれら両者を結びつけて...活動の流れを中断しない。
 その通りです。
 理解することや知ることの...
 それが瞑想の一部です。
 もちろんです。
 何が起こっているか見てください。そうすると眠るとはどういうことですか? 私は覚めているということの意味を今理解しました。それは私が見守っていることを意味します。私は気づいています。私は全く取捨選択することなく気づいています、取捨選択とは無縁の気づきです、私は見守っています、見つめています、観察しています、聞いています、内と外で起こっていることを、人々が私に言うことを、それらが諂いであろうと侮辱であろうと。私は見守っています。そのように私は正しく気づいています。それでは眠るとはどういうことですか? 私は睡眠が何かは知っています、つまり、休息です、目を閉じて九時に、十時あるいはもっと遅くに眠りにつきます。眠るとはどういうことですか? そして眠っているときに夢を見ます。夢とは何ですか? 私は他の人たちの言うことは知りません、私は他の人たちの言うことに興味はありません。お分かりでしょうか。なぜなら、私が行っている探究は瞑想が生の全領域をカバーするのかどうかを明らかにすることだからです、単なるその一断面ではありません。
 再び、私の探究は私が私は知らないと言うことから始まります。
 その通りです。そのようにして私は進めます。私は夢を見ます。なぜ私は夢を見るのですか? そうすると、私はなぜ私が夢を見るのかを明らかにしなければなりません。夢とは何ですか? 夢は私の日常のまどろみの継続です。つまりそれは、私は理解していません―何が起こっているのかをどうか見てください―私は私の日常生活を理解していません。私は私の日常生活を見守ります。私の日常の秩序は乱れています、そうして私が眠りにつくとその秩序の乱れが継続します、そして頭脳が言います、私は秩序を手にしなければならない、そうしなければ私は機能できないと。そのようにもし精神の中に日中秩序の乱れが生じていると、頭脳は夜中に秩序をもたらそうとします。
 夢によって。
 夢によって、ほのめかしによって。私が覚めているとき、私は言います、はい、私は確かにこのことがなされなければならないと感じますと。そうすると何が起こるのか見てください。精神が日中覚めているとき、それは秩序を手にします、それは秩序を確立します、我々が以前に議論してきた意味で、秩序を確立します、秩序は秩序の乱れを理解することからやってきます。秩序の乱れの否定が秩序であり、何らかの青写真やパターンに従うことではありません、それら全ては秩序の乱れです。そのように、日中精神や頭脳は秩序を確立します。そうすると、私が眠っているとき、頭脳は安全になるためにそれ自身の中にどうやって秩序を確立しようかと思案していません。従って頭脳は休息しています。
 なるほど。
 従って頭脳は穏やかになって夢を見ずに眠ります。それはあなたが食べ物に当たるなどすれば浅い夢を見るかもしれません。私はそのようなことを言っているのではありません。そのように睡眠は頭脳の再生を意味します。
 私はここであなたに夢についてあることを問うことができるでしょうか、それは夢の性質という点で夢の中に何らかの区別をもたらすかもしれません。時々我々は耳にします、我々が未来の出来事を暗示する夢を見てきたと。
 それは別の事柄です。
 それはあなたが話していることと全く異なります。
 はい。
 そうすると我々は言えます...
 宜しいでしょうか、我々はそれを非常に簡単に理解できます。先日我々がインドの高い丘の上を歩いていると眼下に川が流れていました。すると二艘の船が反対方向から接近してきて、どの辺りでそれらが鉢合わせするのか分かりました。
 はい。
 あなたが高いところにいると、あなたはそれらの船がどこで衝突するのか分かります。
 それは非常に客観的です。それは私の主観的でおおざっぱな見方とは何の関係もありません。
 はい。
 それはあなたの話していた他のことです。
 その通りです。
 はい、よく分かります。あなたのすべきことを全て終えて眠りにつくということは驚くべきことです。そしてもし秩序によってあなたに...がもたらされると。
 はい、そうです。
 何らかの理解が...
 もちろんです。
 そうすると、そのような理解は覚めているときも寝ているときも決して止みません。
 その通りです。
 はい、もちろんです、素晴らしい。
 そうすると、宜しいですか、そのように頭脳は再生されます、若く保たれます、争いとは無縁です。争いは頭脳を疲弊させます。
 はい。
 そのように、眠りは秩序や若返り、無垢を意味するだけではなく、眠っているときに、あなたがあなたの目で物理的な目で全く見たことのない何かを探求したり見抜いたりする完全な自由の生まれる状態にもなります。
 はい。
 そのように我々はそれを描写しました、我々はそれが分かります。そうすると、私は、精神は、日中そのような生を生きますか?
 それはまれにしかそうならないでしょう。
 そうでないならそれは瞑想ではありません。
 そうでないならそれは瞑想ではない、もちろんです。
 私は何らかのゲームを弄びたくありません、偽善的なゲームを弄びたくありません、なぜなら私は誰も欺いていないからです。私は自分自身を欺いています、そして私は自分自身を欺きたくありません。私はどの点で自分自身を欺くのかが分かりません、なぜなら私は偉大な男や大成功者などになりたいと思わないからです。それはあまりにも子供じみています。そこで私は言います、私はそのように生きているのかと。もしそうでないなら、何が起こっているのですか? そしてそのように生きることは私にエネルギーをもたらします、なぜなら私は他の人たちの重荷を背負っていないからです。
 そのことで私は昔の日本のある剣士とその三人の息子の話を思い出します。その剣士は年を重ねてきて彼の剣法の極意を彼の息子たちに伝えようと思って、彼は息子たち一人ひとりに彼の部屋へ来るように言い、息子たちと話そうとしました。彼は剣法の達人であるだけではなく人間的にも達人でした。彼は彼らの気づかないうちに戸口の上の長押に小玉を置きました。一番下の息子が最初に呼ばれました、そしてその小玉が落ちてくると、その息子は一瞬にしてその小玉を彼の剣で真っ二つにしました。そして父は言いました、“別室で待ちなさい”と。二番目の息子が入って来て、その玉が落ちてきて彼の頭に触れようとした瞬間に彼は手を伸ばしてそれを捕まえました。そして父は言いました、“別室で待ちなさい”と。それから長男が入って来て彼が戸口を開けると彼は手を伸ばしてその小玉を掴みました。そして父は彼らを呼び入れて、彼は一番下の息子に言い渡しました。彼は言いました、“よくできた。お前は技を習得したがお前は何も分かっていない”と。彼は二番目の息子に言いました、“お前はもう少しだ、これまで通り励みなさい”と。そして長男に彼は言いました、“よし、お前は学ぶことができる”と。それはプラジナという言葉のようです、プラは前を意味し、ジナは知ることを意味していて、前もって知るということですが、それは我々が研究室で行うラットの研究に基づいた予知行動という意味ではなく、そのように行為の全活動の後先を理解するということです。
 はい、そうです。そのように私はこのことを見て取ります、なぜなら私は瞑想を日常生活から分離しないからです。そうでないならそれには何の意味もありません。そうすると、私は日中覚めているときの秩序の重要性が分かります。従って、精神を、頭脳を争いなどそれら全てから解き放つと、眠っているとき、そうすると頭脳は完全に休息します。それが一つです。そうすると、コントロールとは何ですか? なぜ私はコントロールするのですか? 人々はみな言ってきました、“コントロールしなさい”と。あらゆる宗教が言ってきました、“コントロールせよ”と。コントロールしなさい、欲から離れなさい、自分自身のことを考えるのは止めなさい。お分かりですか。それら全てです。私は自分自身に問います、私はコントロールすることなしに生きられるのかと。お分かりでしょうか。
 おお、分かります、人は最初にそのようにも問い掛けなければなりません。
 私はそのように問い掛けています、それが私の行っていることです。
 はい、私はそれを繰り返し言っています、そのことを繰り返して言っているだけです。
 コントロールしないで生きることは可能ですか? というのは、コントロールとは何かということです。そしてコントロールする当のものとは何ですか? コントロールするものが正にコントロールされている当のものです。私が私の思考をコントロールしなければならないと言うとき、そのコントロールしようとするものは思考の産物です。ですから思考が思考をコントロールするのです。それには何の意味もありません。一つの断片が別の断片をコントロールするのです、従ってそれらは断片のままです。そこで私は言います、コントロールとは無縁の生き方があるのでしょうかと。それゆえに争いもなければ対極関係もない。一つの欲望が別の欲望と対立することもないし、一つの思考が別の思考に反することもないし、一方を成し遂げると他方が成し遂げられないということもない。そのようにコントロールすることがない。そのようなことは可能ですか? というのは、私は明らかにしなければならないからです。お分かりでしょうか。それは何かをただ問うて、それをただ放っておくのではありません。私は今エネルギーを手にしています、なぜなら私はもう人々の重荷を背負っていないからです。同じように私は自分自身の重荷も背負っていません、なぜなら人々の重荷は私の重荷だからです。私がそれらを捨て去ると私はこれも捨て去ります。そのように、私が“コントロールとは無縁に生きることは可能ですか?”と問うとき、私はエネルギーを手にしています。それは途轍もないことです、私は明らかにしなければなりません。というのは、コントロールする人々、彼らは言ってきました、コントロールすることによってあなたはニルバーナや天国に至ると―私にとって、それは間違いであり、全く馬鹿げたことです。そこで私は問います、“私はコントロールとは無縁の瞑想的な生を生きることができますか”と。
 叡智が働くとき、我々が以前に見たように、それと共に秩序が生まれて、その秩序が...
 正にそれです。叡智が秩序です。
 叡智がその秩序です、見て取ることが行うことです。
 行うこと、はい。
 従ってコントロールするということが全く起こりません。
 そうすると、私はコントロールとは無縁の生を生きますか、それが可能かというだけではなく、私はそのように生きますか? 私には欲望があります、つまり、私は車を見ます、女性を、家を、素敵な庭を、美しい衣服やあれやこれを見ます、そうすると即座にあらゆる欲望が起きます。そして争わないことです。そしてそれでも負けないことです。もし私がお金を持っていれば、私は行ってそれを買います。それは明らかです。それは答えにはなりません。もし私がお金を持っていないなら私は言います、“ごめんなさい、私はお金を持っていません、そのうちにお金が用意できます。そしたら戻って来てそれを私は買います”と。それは同じことです。欲望が起こっているのです。見て、触れて、感じて、そして欲望が生まれます。宜しいですか、そのような欲望がそこに生じています、それを切り離すのはそれを抑圧することです。それをコントロールするのはそれを抑えることです。それに負けるのは、手に入れたり失ったりして生を別の形の断片的な生にすることです。私は私がこのことをうまく伝えているのかどうか分かりません。
 はい、はい。
 そのようにコントロールしないで欲望が花開くのをやり過ごすのです。お分かりでしょうか。
 はい、分かります。
 そうすると、その正に花開くことがそのような欲望の消滅です。しかしもしあなたがそれを断ち切ると、それは再び生えてきます。私はこれが明瞭であるのかどうか分かりません。
 はい、それは終点と完了の違いです。
 その通りです。そのように、私はその欲望のままに花開かせて、それを見守ります。それを見守ります、それに屈したり、それに抵抗したりしません。ただそれを花開かせて、起こっていることに十分に気づいています。そうするとコントロールすることはありません。
 そうすると秩序の乱れも生じません。
 はい、もちろんです。あなたがコントロールするや否や秩序の乱れが生じます。なぜなら、あなたは抑圧したり受け入れたりなど―お分かりですか―その他の全てを行っているからです。そのように、それが秩序の乱れです。しかしあなたがそれの花開くのを許して、それを見守るとき、それに余すことなく気づいているという意味でそれを見守るとき―その花びらを、その微妙な形の所有欲を、所有しまいとすることを、所有することは何らかの快楽であり、所有しないことも何らかの快楽です、お分かりですか―欲望のそれら全活動です...
 その通りです。
 そしてそのためにはあなたは非常に感受性豊かに見守らなければなりません、非常に鋭敏に、取捨選択することなく見守らなければなりません。
 あなたが比喩的に示したこの植物のイメージ、我々はそれを我々の次の会話の中で追究して、そしてさらに瞑想に踏み込んでいくことができますか?
 我々は瞑想をまだ済ましていません、それにはもっと沢山のことが含まれます。
 そうです、そうです。
                            1974年2月28日
                            中野 多一郎 訳