全く異なる生き方

全く異なる生き方

5 秩序は秩序の乱れの理解からもたらされます

アラン W アンダーソン(A) クリシュナムルティさん、我々が前回話したとき、我々は秩序を議論し始めるところまで行きました、私は恐らく我々がそれを今日始めることができると思います。
クリシュナムルティ(K) 我々は自由、責任そして関係性について話していました、そして我々が更に歩を進める前に、我々は我々がこの秩序の問題を一緒に話したと考えました。自由の中の秩序とは何ですか? 人が世界中を観察すると、そのような途方もない秩序の乱れが内面的にも外面的にも存在します。人はなぜそのような秩序の乱れが存在するのだろうかと思います。あなたがインドへ行くと、あなたは人々であふれかえる通りを目にします、そしてあなたはとても沢山の宗派、とても沢山のグルたち、とても沢山の教師たち、とても沢山の矛盾した嘘やそのような悲惨を目にします。そしてあなたがヨーロッパへ来ると、少しはましな秩序がありますが、あなたがこの表面的な秩序の中をのぞくと、あなたは同じような秩序の乱れが存在するのを目にします。そしてあなたがこの国へ来ると―あなたはそれがどういうものなのか私以上に知っています―完全な秩序の乱れが存在します。あなたは非常に注意深く車を運転するかもしれませんが、そのいわゆる見かけの秩序の背後に回ると、あなたは酷く混乱した無秩序を、個人的な関係の中だけではなく、性的にも、倫理的にも、とても沢山の腐敗と共に目にします。あらゆる政府が腐敗しています、大なり小なり。しかしどうしてこのような秩序の乱れの全現象が生じるのでしょうか? それはこれをしなさい、あれはしてはいけませんと言ってきた宗教の過ちですか? そして今人々はそれら全てに反旗をひるがえしているのですか?
 それは政府がとても腐敗しているので誰も政府を信用していないということですか? それはビジネスの世界の中にとても腐敗が存在するので、誰も、懸命な人や本当に真剣な人でさえもそれを見たくないということですか? そしてあなたが家庭生活を見てみると、そのような秩序の乱れが存在します。そうすると、その現象を全体として捉えて見ると、なぜそのような秩序の乱れが存在するのでしょうか? 何がそれをもたらしてきたのでしょうか?
 ある種の、ほとんど組み込まれた進歩のようなものが存在するようなことはありませんか、我々が前に言っていたように、そしてそのように思い描かれた秩序が一度既存の秩序の上に二重写しにされると、それは希望を抱くことに影響するだけではなく、それは我々が新しい取り組み方を必要とすると考える新しい状況をも作り出します、そしてその新しい取り組み方も依然としてそれが二重写しになっているものです。
 ロシアや中国で共産主義者たちが行おうとしてきたように。彼らは秩序を押し付けてきました、彼らが秩序と呼ぶものを、秩序の乱れている精神に押し付けてきました、従って反乱が起こります。そのようにこれらを見ていると、それは非常に興味深いことです、このような秩序の乱れている現象を見ていると、それでは、秩序とは何ですか? 秩序は押しつけられる何かですか、軍隊の中で兵士に押し付けるように、それは何かに順応する、何らかの抑圧をもたらす、何かを模倣する規律ですか? 秩序は何かに順応することですか?
 人為的に押し付けられるという意味での何かではありません、違います。
 そういう意味の何かではありません。もし私が何らかの秩序に順応するなら、私は秩序の乱れを作り出しています。
 はい、あなたの言うことは分かります。我々が“順応”という言葉を使うとき、我々はしばしばそれによって事の自然な様子とそれに相応しい或いはそれに従う活動との間の自然な関係を意味します。しかしそのようなその言葉の使い方は、我々がここで関心を持っているその通常の使い方ではありません。
 それでは、秩序は何かに順応することですか? 秩序は何かを模倣することですか? 秩序は何かを受け入れることですか、何かに従うことですか? それとも我々が何かに順応してきたので、我々が何かに従ってきたので、我々が何かを受け入れてきたので、我々は秩序の乱れを作り出してきたのですか? なぜなら、規律は、その言葉の通常の、一般的に受け入れられている意味では、何かに順応することだからです。
 はい、我々は英語で言いますね、規律を乱す奴に、まっとうになれと。
 まっとうになれ、はい。
 我々がそのように正すことを引き合いに出すために使うイメージはいつも厳格なそれです。
 はい。そのように、そのような権威が、少数の共産主義者の権威であろうと、聖職者の権威であろうと、“知っているのは私であり、あなたではない”と言う誰かの権威であろうと、それが秩序の乱れを生み出してきた要因の一つです。そしてこの秩序の乱れの別の要因は我々が本当の文化に欠けていることです。我々は非常に洗練されていて、非常にいわゆる文明化されています、我々は清潔であり、浴室を備えていて、我々はより良い食事などそれらを手にしています、しかし内面的には我々は文化的ではありません。我々は健康な、全人間的な存在ではありません。
 我々の内的な断片化が我々の外でなすことに染み出しています。
 そのように、もし我々が秩序の乱れを理解しないなら、秩序の性質と構造を理解しないなら、我々は秩序が何であるのかを決して明らかにできません。秩序の乱れの理解から秩序が生まれます。はじめに秩序を探して、それからその秩序を秩序の乱れに押し付けるのではないのです。
 はい。私は考えています、あなたが学問の世界と教えることと学ぶことの世界の中のそのような現象を話しているとき、我々はそれらをありきたりに理解していると。私が我々の会話の中で気づいたことは、あなたがいつも我々に我々が何らかの機能不全を学ぶことを勧めていることです。我々はそのようにすることを決して奨励されていません、我々は、我々が研究すべきものはそのうちに含まれている原理であると言われます。そのための議論は、もちろん、人は病気を理解するためには健康を引き合いに出すべきであるということになります。
 なるほど。
 しかしそうすると、健康への言及が、それがそう述べられるとき、純粋に概念的に受け取られます。
 その通りです。
 そうすると我々が今研究しているのは何らかの概念です。
 それは実際のことであるよりも、“現実”であるよりも何らかの概念です。
 そして我々は本当の仕事から逸れてしまいます。秩序の乱れはそれ自身の条件づけによって秩序をもたらす原理をもたないという単純な理由から、我々が秩序の乱れを研究するように言われても、それを理解するのが困難になります。従って、それはそれが持ち出されると私が研究に向かない何かを研究するように言われているかのように聞こえます。しかしその反対に...
 その反対です。秩序の乱れを理解することがなければなりません、それがなぜ起こるのかです。その要因の一つは、宜しいでしょうか、私は思うのですが、基本的に思考は“もの”であり、そして思考はその正に性質上断片的であるということです。思考は分断します、“私”と“私でないもの”、我々と彼ら、私の国とあなたの国、私の観念とあなたの観念、私の宗教とあなたの宗教などです。思考の正に活動が分断的です、なぜなら思考は記憶の反応であり、経験の反応だからであり、それは過去だからです。そして我々はこの問題に本当に非常に、非常に深く踏み込んでいく必要があります、思考の活動であり、秩序の乱れの活動...
 “活動”というのが私にはキイワードであるように思えます、あなたの話を聞いていると。秩序の乱れの活動を研究することは、私には、それをその言葉よりも、秩序の乱れを研究することよりも、更に深く踏み込んでいくことのように思えます。
 その活動です。
 はい、私はそれが秩序の乱れを研究することは不可能な追究に向かうことだとする異議を排除すると思います。そのような異議は人がこのように言うときその力を失います、つまり、我々がここで扱っているのは概念としての秩序の乱れではなく、それはその活動であり、それはそれ自体の経緯であり、それはその足跡であり、それはそのようにそれがもたらすあらゆる腐敗であると。
 おお、全くその通りです。
 しかし、宜しいですか、それはめったに真剣に受け取られない...
 知っています。宜しいですか、我々はえてして概念を扱います、“現実”ではなく、実際に現にあることではなく。方式や概念や観念の議論よりも、“現実”が秩序の乱れです、そしてその秩序の乱れが世界中に広がっています、それは何らかの活動です、それは生きている秩序の乱れです。それは死んでいる秩序の乱れではありません。それは生きているものであり、活動していて、腐敗し、破壊しています。
 はい、その通りです。しかし、それは、あなたがしばしば指摘してきたように、その活動を見ていくには極度の精神集中を要します、そして我々の中にその活動を見ていくことに対する抵抗感が、恐らく離反する抵抗感が生じます、なぜなら我々はその活動の変遷は理解できないと直観するからです。
 もちろんです。
 そして我々はそれを願いません。我々は理解できない何かがあるという考え方に耐えられません、ですから我々はそのことに精神を集中的に活動させません。
 それは河の岸辺に座って水の流れるのを見ているかのようです。あなたはその水流を変えることはできません、あなたはその水流の中身や運動を変えることはできません。それと同じように、この秩序の乱れの活動は我々の一部であり、そして我々の外側にも流れています。ですから我々はそれを見る必要があります。
 そしてそのように行うとき混乱は生じません。
 明らかに生じません。最初に、宜しいでしょうか、それを非常に、非常に注意深く見ていきましょう。秩序の乱れの要因は何ですか? 秩序の乱れは矛盾を意味します、違いますか?
 はい、そして争いです。
 矛盾です。これはそれと対立する、あるいは、これはそれと対立するという二重性です。
 互いに排除し合う二つのものの間の論争です。
 この二重性や争いをもたらすものは何ですか? 二重性というものが本当にあるのですか?
 行為の中には確かにありません、二重性というものはありません。それは全くありえません。しかし二重性は、もちろん、区別という点で現にありますが、それは分断という点からではありません。
 分断という点からは、その通りです。なんといっても、男性と女性、黒色と白色などはありますが、暴力と反対のものがありますか? お分かりですか?
 はい、私は真剣に聞いています。
 あるいは暴力だけがあるのですか? しかし我々はその反対のものを作り出してきました。思考は非暴力としてその反対のものを作り出してきました、そうしてその二つの間で争いが生じてきました。非暴力というのは“現実”から抽象されたものです、思考はそうしてきました。
 昨日私はこのことについて授業で難しい時間を過ごしました。私は言いました、悪徳は徳の反対のものではないと。徳は悪徳の反対のものではありません、しかしどういうわけか私はそのことをうまく伝えることができませんでした、というのは学生がその問題を純粋に概念的な構造の観点から扱うことを主張したからです。
 宜しいでしょうか、私は我々が今このことに踏み込みたいのかどうか分かりませんが、比較してはかるという必要性は古代ギリシャにまで戻ります。そして全ヨーロッパの文明は“はかる”ことを基礎としてします、そしてそれは思考です。
 このことは実践的に引き継がれているという点で確かに真実です。そしてこの点での皮肉なことは、ギリシャの偉大な思想家たちの仕事を見てきた歴史家が思い直して言います、まあ、ちょっと待ってください、単に物事を計算尺ではかることよりも物事をもっと遥かに有機的に捉えることを勧めたアリストテレスやプラトンに関する文献がありますと、しかしそれはあなたの指摘していることではありません。
 宜しいでしょうか、あなたは世界で、西洋世界で何が起こっているか見ることができます、科学技術や商業主義と消費者主義が今進行している最も活動的なものです。
 その通りです。
 それははかることを基礎にしています。
 はい。
 それは思考です。それではそれをちょっと見てください、それをちょっと手に取って見てください、そうするとあなたは何かむしろ奇妙なことが起こっているのが分かります。東洋で、とりわけインドが違う意味で東洋中を席巻しました、そして彼らは言いました、はかることは幻想であると。計り知れないものを見つけるためには、はかることを止めなければならないと。私はこのことを非常に大胆に手短に言っています。
 いいえ、私にはあなたはそのことを我々のこの関心が行為にあるという点で非常に的確に言っているように思えます。
 それは非常に興味深いことです、なぜなら私はそれを見てきたからです。西洋では、科学技術、商業主義や消費者主義そして神、救世主、教会などそれらは外側にあります。それは弄ぶ何かです。そしてあなたはそれを土曜日や日曜日に弄ぶだけであり、残りの一週間は...
 はい。
 そしてあなたがインドへ行くと、あなたはこれを見つけます。“ma”というサンスクリット語は“はかる”ことを意味します、そして彼らは言いました、真実は計り知れないと。それを検討してください、その美を見てください。
 はい、分かります。
 はかっている精神は、あるいははかることに囚われている精神は決して真理を見つけることはできません、私はそのように言っています―彼らはそのようには言いません。そうして彼らは言いました、真実を、計り知れないものを見つけるためには、はかることが無くならなければならないと。しかしそのとき彼らは言いました、思考はコントロールされなければならないと。
 そのように、計り知れないものを見つけるためには、あなたは思考をコントロールしなければなりません。そして思考をコントロールするものは誰ですか? 思考のもう一つの断片です。私はあなたが付いてきているのかどうか分かりません。
 おお、私は完全にあなたに付いてきています。
 そのように、彼らははかることを乗り越えようとしてはかることを使います、従って彼らは決してそれを乗り越えることはできませんでした。彼らは何か他の種類の幻想に囚われました、しかしそれは依然として思考の産物です。私は私がこのことを伝えているのかどうか分かりません。
 私は分かります。信じられないくらい皮肉なことは、彼らの正に目の前にブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッドの中のこの深遠な声明が置かれていることです、“これは満ちている、あれも満ちている、満ちているものが満ちることから流れ出る!”、そして次に“満ちているものを満ちることから取り去ると、満ちることそれ自体が残る”と続きます。宜しいですか、彼らはそれを読んでいます、しかしもし彼らがそれをあなたの言い表したように取り組むなら、彼らは彼らがそこで言われていることに気をつけていなかったことが分るでしょう、なぜなら、そのような声明の完全な拒絶こそが思考のコントロールの中に含まれるだろうからです。
 はい、もちろんです。宜しいですか、それが私の言おうとしていたことです。思考は世界を物理的に分断してきました、アメリカ、インド、ロシア、中国、お分かりですか、世界を分断してきました。思考は人間の活動を断片化してきました、ビジネスマン、芸術家、政治家、乞食、お分かりですか?
 はい。
 思考は人間を断片化してきました。思考はこの断片化に基づいた社会を作り出してきました、そして思考は神々、救世主、キリスト、クリシュナ、ブッダなどを作り出してきました―それらは全て、ある意味で、はかり知られるものです。あなたはキリストのようにならなければならない、あるいは、あなたは善い人でなければならない。全てがはかることに基づいた文化による裁可です。
 いったん我々が何らかの見通しをもってスタートすると、我々が基本的にもつように、我々は必然的に五、六、七...四百、四千と無制限に分断していこうとします。そして全てが、そのように主張されます、明確さに関心があるのであると。
 そのように、もし我々が思考の活動を理解しないなら、我々は恐らく秩序の乱れを理解できません。思考こそが秩序の乱れを生み出してきたのです。それは矛盾するように聞こえるかもしれませんが、そういうことなのです、思考は断片的であり、思考は時間です、そして我々がその領域の中で機能している限り、秩序の乱れが生じるに違いありません。それが意味するのは、それぞれの断片がそれ自身のために働いていることです、他の断片と対立して働いていることです。私は、キリスト教徒である私はヒンズー教徒と対立しています、私は愛や善やその他の全てについて語るけれども。
 私は彼をとても愛しているので、私は彼が救われるのを見たいと願います、そこで私は出向いていって彼を私たち信者の中に引き入れます。
 救われます。私たちの“収容所”にやって来なさい!
 はい。
 恐らく秩序の乱れの基本的要因は思考の断片化です。私は先日言われました、エスキモーの文化では思考は外側にあることを意味すると。
 それは非常に興味深いことです。
 彼らが外側という言葉を使うとき、彼らは思考という言葉を使います。
 そして我々はそれを内側と考えます。
 そのように、思考はいつも外側にあります。あなたは言えます、私は内面的に考えていると。思考は外のものと内のものを分断してきました。そのように、このような矛盾の全てを理解するためには、はかること、時間、分断、断片化、甚だしい無秩序そして秩序の乱れを理解するためには、人は思考とはどういうものなのか、考えるとはどういうことなのかの問題に本当に踏み込んでいかなければなりません。精神は、とても断片の中に、とても断片化の中に条件づけられてきた精神は、この秩序の乱れの全活動を断片的ではなく観察できるのでしょうか?
 いいえ、その活動それ自体は。
 その活動それ自体。
 活動それ自体、はい。しかしそれはとてもぞっとするようなことです―そのような活動を見ることです。あなたがこの問題を正確に的を射続けている言い方で問うていることは興味深いことです、なぜなら、はかることは―それを非常に正確に、無駄を省いた省略的な言い方で言うと―可能性であり、それは無限に分断しうることです。それは行動で消滅するだけです。そして私が行為から分断している限り、私は自分自身を非常に深く考える思考者であると見なします。私は呑気に構えて完全に想像上の幻想的な代替物を探究しています。
 そのことははかることが比較することを意味する点につながります。我々の社会や文明は比較することに基づいています。子供のころから学校や単科大学や総合大学まで、それは比較することを宗としています。
 その通りです。
 聡明さと鈍さ、背が高いと低い、黒色、白色と紫色などその他の全てとの間の―成功しているかいないかの―比較です。そして我々の宗教も見てください。司祭、司教、お分かりですか、序列階層的な外観です、そして究極的には法王あるいは大司教です。全構造が比較することに基づいています、それははかることであり、それは本質的に思考です。
 はい。プロテスタントたちはカトリックの序列階層について不満を言いますが、それでも彼らの教義、彼らのバイブルはカトリックのある人たちが指摘する彼らの紙の法王です。
 もちろんです。
 正に何かの拒絶によって、他の何かがそれにとって代わりますが、それが更に分断的になります。
 そうすると、はかることなく見ることは可能ですか、それは比較しないことを意味します。比較する影が付きまとうことなく生を生きること―生きていくこと、振る舞うこと、生の全体、笑い、涙―は可能ですか? 宜しいでしょうか、私は自慢しているのではありません、私はただ事実を言っているだけです、私は決して自分自身を他の誰かと比較したことはありません。
 それは非常に注目すべきことです。
 私はそういうことを考えたことさえ決してありません―誰かが私よりずっと賢い、誰かがもっとずっと優秀である、とても聡明である、誰かがもっと偉大である、精神的である―そのようなことは起こりませんでした。そこで私は自分自身に問います、はかることが、比較することが、模倣することが秩序の乱れの大きな要因ではないのかと。
 私は何回か前の会話であなたが言ったことをずっと考えていました、あなたが少年のとき、あなたは決して分断的な仕方でなされる区別を受け入れることはなかった...
 おお、もちろんです。
 そして社会的な秩序の中の区別を... 私自身の子供のころ、私は分断という点でこの区別を受け入れました、しかし私は自然に対してはそうしませんでした。しかしそのことが私に葛藤をもたらしました、というのは、私は理解できませんでした、どうして私は世界の中の一存在として自然な存在であるのに、私はどういうわけか、我々が自然と呼ぶものの中で、物事のあるとおりに物事と関係していないということがありえるのか私は理解できませんでした。そうして私に思い当たったのは、そのように考えているとき、私はすでに自分自身を自然から分断していて、私は決してその問題から抜け出さないだろうということでした。
 はい。
 そして何年か前にあることが突然ひらめきました、そのとき私はバンコクのある寺院の庭にいました。朝早く散歩をしていると、私の眼がハスの葉の上の水滴に引きつけられました。それは完全な球形でした。そして私は思いました、その形の基礎はどこにあるのだろうかと。どうしてそれは安定していられるのかと。なぜそれは転げ落ちないのかと。私が疑問を重ねているうちに、私は疲れ果ててしまい、私は深呼吸して自分自身に言いました、よし、黙ってただ静かに見ていようと。そして私はあらゆるものがそれ自身の自然をこのように驚くべきバランスを保ちながら何の混乱も起こさずに維持していることが分かりました。そして私はただ静かにしていました。
 なるほど。
 ただ静かにしていました。私はそれがあなたの事実について意味することの何かであると思いました。それは事実でした。
 ただ事実と共にあって、事実を見ることです。
 その驚くべきハスの葉の上の小球事実です
 そうです。宜しいでしょうか、このことから生まれてくる問い掛けは、人が学生を比較することとは無縁な生を生きるように教育することができるのかということです―より大きな車、より小さな車と比較して考えることです、お分かりですか? あなたは賢い、私は賢くない。もし私が全く比較しないなら何が起こりますか? 私は鈍くなりますか?
 反対です。
 私は比較することを通じて私が鈍いと知ります。もし私が比較しないなら、私は私がどうなのか分かりません。そうすると私はそこから始めます
 はい。世界は無限に近くなります。
 おお、そうすると、あらゆるものが途方もなく違うことになります。競争は起こりません、不安は生まれません、お互い同士の争いは起こりません。
 このことがあなたの“余すことなく”という言葉をしばしば使う理由ですね? そのことを表現するためには一つの条件から他の条件へと引き継がれる何ものもありません。そこには何のリンクもありません、そこには何の橋渡しもありません、つまり、“余すことなく”秩序が乱れているのであったり、“余すことのない”秩序であったりします。
 その通りです。
 そしてあなたは“その通り”という言葉をしばしば使います。
 宜しいでしょうか、何といっても、数学は秩序です。この上なく数学的な探究をするためにはあなたが余すことなく秩序正しい精神をもたなければなりません。
 数学に関して他の驚くべきことは、それが量の研究であるにもかかわらず、あなたは一つの整数から別の整数へ、例えば2を大きくすることでは進めないことです。2は2で終了します。2と2分の1はもはや2ではありません。
 はい。
 しかし私の知る限り、子供は、子供が数学を教えられるとき、そのようなことを決して手引きされません。
 宜しいでしょうか、我々の教え方はとても馬鹿げています。秩序の乱れの活動をそれ自身がすでに秩序の乱れた状態にある精神で観察することができますか? そのように秩序の乱れは外にあるのではなくこの内にあります。それでは、精神は秩序正しいという観察者という要因を持ち込むことなくそのような秩序の乱れを観察することができますか?
 二重写しに見る観察者。
 はい。従って知覚するものなしに観察し、秩序の乱れに気づくのです。私は私が意味をなしているのかどうか分かりません。
 はい、分かります。
 つまり、秩序の乱れを理解するためには我々が秩序正しい精神を必要とすると考えることです。
 秩序の乱れた精神に対して。
 しかし精神自身がこの秩序の乱れを作り出してきました、そしてそれは思考やその他の全てです。そうすると精神はそこにある秩序の乱れを見るのではなく、この内にある秩序の乱れの作り手を見ることができますか?
 それはそれ自身秩序の乱れの中の精神です。
 精神それ自身が秩序の乱れです。
 はい、しかしそのことが概念的に言われるや否や...
 いえ、いえ、概念は用済みです。
 はい、しかし我々は言葉を使っています。
 我々は分かりあうために言葉を使っています。
 その通りです。しかし私の言いたい点は、我々が秩序の乱れた精神こそが秩序の乱れを助長しているけれども、その秩序の乱れた精神こそ正にそれを見なければならないという言い方を耳にするとき、我々は何を言おうとしているのかということです。
 私はあなたに示そうと思います、あなたはすぐに何が起こるのか分かるでしょう。秩序の乱れは私の外側にあるのではなく、秩序の乱れは私の中にあります。それは事実です。なぜなら精神の秩序が乱れているので、その活動は全て秩序の乱れであるに違いありません。そしてそれらの秩序の乱れた活動が急増しています、あるいは世界中で進行しています。それでは、この精神はそれ自身を―秩序の乱れた精神の対極としての―秩序正しい精神という要因を招き入れることなく観察できますか? それはそのような対極としての観察者とは無縁に観察できますか?
 それが問題です。
 それではそれをよく見てください、宜しいでしょうか、もしあなたがそれに本当に興味を抱くなら。あなたは分かるでしょう。観察者が正に観察されている当のものです。観察者が言います、“私は秩序正しい、従って私は乱れた秩序に秩序をもたらさなければならない”と。それが一般的に起こることです。しかし観察者が秩序の乱れの要因です。なぜなら観察者は過去であり、分断の要因だからです。分断があるところには争いだけではなく秩序の乱れも生じます。あなたはこのことを目にすることができます、宜しいでしょうか、それが実際に世界中で起こっていることです。エネルギーや戦争や平和などの全てのそれらの問題は、分離したそれぞれの政府、それぞれの国家の軍隊が存在しないで、我々が“さあ、後生だから、この問題をみんなで一緒に解決しよう。我々は人間です。この地球はそこに生きる我々のためにあります―アラブ人とイスラエル人、そしてアメリカ人とロシア人というような敵対する我々のためにあるのではありません―それは我々の地球です”と言うとき完全に解決されえます。しかし我々は決してこのようには行いません、なぜなら我々の精神が秩序の乱れの中を生きるように、争いの中を生きるようにとても強く条件づけされているからです。
 そして何らかの宗教的使命を帯びることが、私の秩序の観念でその秩序の乱れを正す仕事と見なされます。
 あなたの秩序の観念が秩序の乱れを生み出してきたというのが事実です。
 その通りです。
 そこで今ある問い掛けが起こります、宜しいでしょうか、それはとても興味深いことです、つまり、精神はそれ自身を観察者とは無縁に観察できるのか、ということです。なぜなら観察者が正に観察されている当のものだからです。観察者が言います、“私が乱れた秩序の中に秩序をもたらす”と、その観察者それ自身が秩序の乱れの断片の一つです、従ってそれは決して秩序をもたらすことはできません。そうすると、精神は乱れた秩序の活動としてのそれ自身に気づくことができますか、それを正そうとするのではなく、それを修正しようとするのではなく、それを何らかの形にしようとするのではなく、ただ観察することができますか? 私が前に言ったように、川の岸辺に腰をおろして、流れていく水を観察し見守るのです。宜しいですか、そうするとあなたはより多くのものを見て取ります。しかしもしあなたがその中に入って泳いでいるなら、あなたは何も見ないでしょう。
 私はそれが私の問うことを止めたときであることを忘れていません、それが私のその葉の上の滴の水球の前で立ち止まったときであることを、そしてあらゆるものが全く変わったことを決して忘れていません、あなたの言うことは本当です、一度そのような何かが起こると、そこから後戻りすることはありえません。
 宜しいでしょうか、それは一度ではありません、それは...
 ...永久に。
 それは起こったただの出来事ではありません。私の生は何らかの出来事ではなく、それは何らかの活動です、そしてその活動の中で私はこの秩序の乱れた活動を観察します。従って精神自身が秩序の乱れであるなら、どのようにしてそのような秩序の乱れた、無秩序な、矛盾した、馬鹿げた取るに足りない精神が秩序をもたらすことができるのでしょうか? それはできません。従って新しい要素が必要です。そしてその新しい要素は知覚するものとは無縁に観察することであり、気づくことであり、見て取ることです。
 知覚するものとは無縁に気づくこと、知覚するものとは無縁に気づくこと。
 なぜなら知覚するものが正に知覚されている当のものだからです。
 はい。
 もし一度あなたがそのことを把握すれば、あなたはあらゆるものを知覚するものとは無縁に見て取ります。あなたはあなたの個性やあなたの自我、あなたの自己中心性を持ち込むことはありません。あなたは秩序の乱れは私の中にある要素であり、外のどこかにあるのではないと言います。政治家たちは自分自身がひどく腐敗していて秩序を生み出そうとしています。お分かりでしょうか。どうして彼らが秩序を生み出すことができますか?
 それは不可能です。
 それが世界中で起こっていることです。政治家たちが世界を支配しています、モスクワから、ニューデリーから、ワシントンから、それがどこであろうと、それは同じパターンの繰り返しです。甚だしく無秩序な生を、腐敗した生を生きていながら、あなたは世界の中に秩序をもたらそうとします。それは子供じみています。従って、それが精神の変質はあなたの精神や私の精神のそれではなく、それは精神の、人間の精神の変質である理由です。
 秩序をもたらそうとする精神自身でさえなく。
 どうしてそれができますか、それは盲人が色彩を生み出そうとしているようなものです! 盲人が言います、“それは灰色です”と。それには意味がありません。それでは精神はそれ自身の中のこの秩序の乱れを秩序の乱れを作り出した観察者とは無縁に観察できますか? 宜しいでしょうか、このことは非常に単純なことを引き合いに出します。樹木を、女性を、山を、鳥あるいは光が射している水の流れを、その美を、見るものとは無縁に見ることです。見るものが割り込んでくるや否や、観察者が割り込んでくるや否や、それが分断します。それが描写的である限り、分断は致し方ありません。しかしあなたが生きているとき、そのような分断は破壊的です。
 はい、私の頭の中で駆け巡っていたのは精神を静めるために役に立つテクニックについて我々が耳にするこの絶え間ないプロパガンダでした、しかしそれはそれを静めるために静めるものを必要とします、従ってそのような可能性は全く、私はあなたの言葉を使っていますが、全く完全に問題外です。
 しかしそれがグルたちの行っていることです。輸入されたグルたちも生え抜きのグルたちもこのようなことを行っています。彼らは本当に人々を破壊しています。しかし我々はそのことを後で話すでしょう。我々が今関心をもつのは、はかることが、商業主義、消費者主義、科学技術の全活動であるはかることが、今や世界中のパターンであるという事実です。西洋で始まって、西洋で益々完全にされ、それが世界中に広がっています。インドやどこかの小さな町へ行くと、同じパターンが繰り返されています。村々では人々がとても惨めで、不幸で、一日一食です。しかしそれでもそれは依然として同じパターンが繰り返されます。そして世界中の政府はそれぞれが分離したままでそれらの問題を解決しようとします、フランスはフランスで、ロシアはロシアでなどと。それは人間の問題であるので、それはワシントンの思惑ではなく、ロンドンの思惑ではなく、モスクワの思惑ではなく、人間の精神で、“さあ、これは我々の問題です、後生だから、一緒になってそれを解決しよう”と言う精神で取り組む必要があります。それは気遣うことを意味します、そしてそれはあらゆる人間に責任を負うことを意味します。
 そうすると我々はこのことに戻ります、我々が言ったように、秩序は秩序の乱れを理解することでのみ生まれます。その中には何らかの二重写しを課すこともなければ、その中には争いも起こらないし、その中には何らかの抑圧も生まれません。あなたがあなたの何かを押さえつけるとき、あなたは反発します、あなたはそれらの類を知っています。そのように秩序は全く異なった種類の活動です。そしてそのような秩序が本当の徳行です。なぜなら徳行なしに秩序はありえないからです。そうなると無法狼藉が蔓延ります。
 はい。
 政治的にも、他のどのようなことでも、宗教的にも。徳行で―徳行は何らかの行為です―毎日善き何かが花開きます。これは何らかの理論ではありません、宜しいでしょうか、それは実際に起こります、あなたがそのように生きているとき。
 易経の中で行為と呼ばれる六線星形も“歩を運ぶこと”と解釈されます。
 歩を運ぶことと。
 歩を運ぶこと、それは何らかの活動を意味します。
 もちろんです。
 何らかの活動です。そしてそれは行為の通常の考え方の相当に異なった理解の仕方です。しかし私は、あなたの言ってきたことから、あなたの徳行としての、秩序としての“行為”という言葉の使い方が行うこと、何らかの活動に正確に方向づけされていることを理解します。
 はい、その通りです。宜しいですか、秩序の乱れから何かを行う人はますます秩序の乱れを作り出しています。政治家の生きざまを見てください、野心的で、貪欲で、権力と地位を追い求めています。
 選挙のために駆け回っています。
 そしてその人は世界の中に秩序を作り出そうとしている人間です。その悲劇たるや、我々はそれを受け入れるのです! お分かりですか?
 はい、我々はそれが当たり前のことであると信じています。
 従って我々は無責任です。
 なぜならその人はそれを行って、私は行わないからです。はい。
 なぜなら我々は我々の生の中に秩序の乱れを受け入れるからです。私は私の生の中に秩序の乱れを受け入れません、私は秩序正しい生を生きたいと思います、そしてそれは私が秩序の乱れを理解しなければならないことを意味します、そして秩序が生まれているところでは頭脳はより良く働きます。
 そこに奇跡が起こります。私が秩序の乱れの活動を捉えるや否や...
 精神がそれを捉えるや否や。
 はい、はい。そうすると秩序が生まれます。それは本当に奇跡的です。恐らくそれが唯一の奇跡です。
 他のそれらはあります、しかし...
 その言葉の深い意味でです、それら全てはそのことに関連しているはずです、そうでないと我々はそれらのいずれも手にしないでしょう、それが本当の核心であり、本当の真髄です。
 それが、宜しいでしょうか、関係性の中に、コミュニケーション、責任、自由そして秩序の乱れからのこの自由の中に、大いなる美の感覚が生まれる理由です。美しい生です、善きことの中に本当に花開く生です。もし我々がそのような人間を生み出さないと、世界は駄目になるでしょう。
 はい。
 これが起こっていることです。そして私はそれが私の責任であると感じます、私にはこのことのための熱気があります、私があなたに話すとき、あなたがそれを理解し、それを生き、あなたがそのように働き、そのように歩むのを見届けるのが私の責任です。
 私は気をつけていることに戻ります、このことに余すことなく気をつけていることをあなたが途轍もなく強調した点です。私は、人が人々のあなたが言っていることを真剣に受け取っていると考え始めるときに、何が起こるのかを理解し始めると思います。私は言いませんでした、それを真剣に受け止めてみなさいと、人々は人々が...し始めていると考えます。事実、人々は人々がそのことに引きつけられていることを見守り始めています。もちろん、まだ何も始まっていません。しかし非常に奇妙なことが、私はそのことに引きつけられているという思いと共に、精神の中で起こります。私は恐ろしくなり始めています、私は何かをひどく恐れています。次回我々は恐れを議論できますか?
                            1974年2月20日
                             中野 多一郎 訳