アウトサイダー

“金柑横

        アウトサイダー

1966年トーク

オーハイ 11月12日

クリシュナムルティ 私は思うのです、我々の生の最も大きな問題の一つは、我々が年齢を重ねるにしたがって我々の精神は衰え、劣化することを知ることに違いないと、あるいは、人がまだ若くても劣化することがあることを知ることに違いないと、そして、私は思うのです、人が何らかの専門家であったり、あるいは人が生の複雑な全領域に全く気づいていなかったりしても、この劣化を防いで精神がいつも新鮮で、若々しく、明瞭で、決然としていられるようになることは可能かどうかを明らかにすることは大きな問題に違いないと。この劣化を食い止めることは可能でしょうか?
 今宵、もし宜しければ、私はこの問題を検討したいと思います。なぜなら、私にとって、瞑想は精神を既知から解放することだからです、そして、この問題を検討するためには―それは本当に非常に、非常に重要です―人は、私にはそう思われるのですが、我々一人ひとりが自分自身や他の人について抱くイメージの余すことのない成り立ちを知らなければならない、あるいは気づかなければならないと、そして、それらのイメージの成り立ちに気づくだけではなく、我々が自分自身に抱くそれらのイメージを我々が更にどのようにして膨らませるのかにも気づかなければならないと思われるのです。なぜなら、正にそれらのイメージが次第に結晶化して堅固になるからです。生は絶えず活動しています、絶えず流動しています、そして、この結晶化、このイメージの堅固になるプロセスが劣化の中心をなす事実です。
 人は気づきます、明らかに、人が年齢を重ねると、人は数知れない経験や傷、多くの重荷、争い、絶望、生の競争的なプロセスなどを背負っていると。それら全てと他の要因が頭脳細胞の感受性の欠如をもたらします。人が年齢を重ねると、人はそれが分かります。そして、また人は分かります、人が若いとき、何か特殊な訓練を受けた精神―その特殊なことに完全に精神集中して、生のこの途方もない全領域を避けている精神―は、脳細胞を非常に狭く、非常に小さくもして、生の余すことのない全活動に気づきません、そして、それが現代の教育であり、それが現代の生き方です。若い人だけではなく、人が成長して年齢を重ねると、人は気づきます、個人の域を超えて考えて、一つの中心からだけではなく、生を余すことなく見るシャープさや明瞭さ、精確さ、能力などが劣化するのに気づきます。そのような中心が高尚であろうとなかろうと、それは問題ではありません、それは独りよがりの中心です、そして、そこから次第に全脳細胞の結晶化が起こります。そうすると、精神のあらゆる働きが劣化して、人の墓場の用意が出来ます。
 そうすると、この問いが生じます、頭脳のこの劣化するプロセスを―精神も含めて、存在の余すことのない全体を含めて―防ぐことは可能なのかと。そしてまた、体形や身体を途方もなく生き生きと、鋭敏に、活力的に維持することなどは可能なのでしょうか? それは大きな問題であり、従って、それを明らかにすることは大きな課題であると私には思われます。
 宜しいでしょうか、このことを検討することが―言語的だけではなく非言語的にも―検討することが、探究することが瞑想です。その言葉はとても誤解されています、沢山の瞑想法があります、特にアジアからです、禅の瞑想法やヒンズー教の瞑想法など幾十の瞑想法があります。もし我々がその一つを理解するなら、我々は瞑想の全システムそして全方法を理解するでしょう。しかし、今宵、我々が一緒に話そうとしている中心の問題は、精神がそれ自身を若返らせることができるかどうかということです、それが新鮮になり、若くなり、何ものも恐れなくなるのかどうかです。そして、もし人がそれは不可能ですと言うなら、人は自分自身を妨げています。あなたがそれは可能であるとか不可能であるとかと言うとき、あらゆる探究が止んでしまいます。それは不可能であると言うポジティブな否定、あるいは、それは可能であると言うことは、私には両者とも問題外であると思われます、そして、それらは全て探究を妨げています。しかし、人が年齢を重ねると、精神が劣化するという事実は残ります。それは劣化します、なぜなら、人は、思考の全過程、頭脳の構造そして精神の余すことのない全過程が、何らかの争いや絶え間ない緊張、自己矛盾のプロセスなどであると見て取るからです。
 もし私に指摘させてもらえるなら、私は、あなたが言われていることにどのように耳を傾けているのかを明らかにすることは賢明なことだと思います、なぜなら、我々は何らかの観念には興味がないからです。人は様々な観念を携えることができます、それらに更に付け加えたり、それらを書物にしたり、それらについての書物を読んだりできます。思考やそのプロセスに関する書物が次から次へと出版されるなどしています、そして、それら全てに関する理論や分析的事実などを携えたそれら全ての心理学者たちがいます。我々はそれら一連の言葉や文章や観念に耳を傾けているのでしょうか? それとも、我々は我々自身の精神の実際の状態に耳を傾けて観察しているのでしょうか? 私はこのことは非常に重要であると思います、とりわけ、我々が議論や意見や個人的な傾向や個人的な見解を超えた何かなどについて話しているときは特にそうです。事実は劣化するということです、そして、もし人がそれを見て、その劣化を解釈したり、それを乗り越えようとしたり、あるいは個人的な傾向や気質などの視点から、それを乗り越えるなどするなら、それは非常に見掛け倒しのものになります。しかし、もし人がそれを、あなたが樹木や夕日、水面のきらめき、青い丘の姿かたちなどを観察するように観察するなら、ただそれを観察するなら―我々の一人ひとりの中で実際に起こっているプロセスをただ観察するなら―我々は共に歩むことになります。もしあなたがそのようにできないなら、何らかの齟齬が生じて、我々は共に歩むことはできないでしょう。
 そしてまた、このことのためには、あなたは絶えず文字通り気を付けている必要があります、二分や三分ではなく、この一時間、文字通り気を付けている必要があります。もし人が身を引き締めて、文字通り気を付けて耳を傾けているなら、言われていることだけではなく、言われていることをあなたの中のあなた自身の活動に関連付けて耳を傾けているなら、そのように耳を傾けることは途方もない行為になります。しかし、もしあなたが単に何らかの観念や言葉に耳を傾けているだけなら、あなたはあれやこれやの観念を手にすることになり、あなたはあれやこれやの意見を受け入れることになります。我々は何らかの意見を扱っているのではありません―それは論証的な議論に陥るだけです―我々が話しているのは、全く違う何かです、我々は生の余すことのない全プロセスに関心があります、そして、この生の全プロセスは、人が観察するなら、いつも我々自身や他の人たちについてのイメージを創り出しています―何らかの経験や争いを通じて作り上げられるイメージのことです。そのようなイメージは付け加えられたり、取り除かれたりしますが、そのようなイメージを作り出すエネルギーの主要な要因はいつも変わりません。それをやり過ごすことは可能でしょうか? そして、我々は我々一人ひとりの中に自分自身についての何らかのイメージが―意識的にも無意識的にも―あることに気づいているでしょうか? 私は、人は、自分は優れているというイメージ、あるいは、自分は何らかの能力に欠けるというイメージ、あるいは、自分は攻勢的で尊大であるというイメージなどを持っているかもしれないと言っています。確かに、誰もが自分自身についてこのようなイメージを持っています。そして、人が年齢を重ねるにつれて―年齢はそれとは何の関係もないかもしれません―人の非常に、非常に若いときのイメージがますます強くなってきて、それがますます結晶化します、そして、それが最後は消えてなくなることになります。
 人はそのことに気づいていますか? そして、もし人がそのことに気づいているなら、そのイメージに気づいている当のものは何でしょうか? 問題がお分かりでしょうか? そのイメージはイメージを作るその当のものと異なりますか? それとも、そのイメージを作るその当のものと、そのイメージは同じものですか? なぜなら、もし人がこのことを非常に明瞭に理解しないなら、我々が検討しようとしていることは明瞭になりません。
 お分かりでしょうか? 私は見て取れます、私が自分自身について何らかのイメージを抱いていることを―私は偉大である、私は詰まらない人間である、あるいは、私は有名である、私は有名ではない―お分かりでしょうか、自分自身についての言語的な構築や非言語的な構築です、意識的そして無意識的なそれです。私はそのようなイメージが私の中にあるのが分かります、もし私が気を付けていれば、見守っていれば。私はそのようなイメージが絶えず形成されるのが分かります。そして、そのようなイメージに気づく観察者は、自分自身をそのイメージとは異なると感じます。それが起こっていることではありませんか? 違いますか? 私はこのことが我々に明瞭になっていることを願います。そうすると、観察者は自分自身に語り出します、そのようなイメージが劣化をもたらす要因であると、従って、人はより良い結果を得るために、そのようなイメージを破壊しなければならないと、精神を若く新鮮にするなどのために、そうしなければならないと、なぜなら、人は分かるからです、そのようなイメージが劣化の主な要因であると、従って、人は努力してそのようなイメージを取り除こうとします。違いますか? 我々は一緒に歩を進めていますか? 人は格闘します、人は説明します、人は正当化します、あるいは、何かを付けくわえたりします、それをより良いイメージに変えようと骨を折ります、それを違う次元に移そうとします、あるいは、人が生と称するものの異なる分野へ、それを移行させようとします。そのように、観察者の関心は、そのようなイメージの破壊か、それに何かを付けくわえるか、あるいは、そのようなイメージを乗り越えるかなどです。それが我々のいつも行っていることです。そして、人は、観察者がイメージを作るその当のものではないのかどうかを、従って、観察者が正にその当のイメージであるのかどうかを検討するのを決して止めませんでした。違いますか? 従って、その要因が非常に明確に―非言語的に実際のこととして―理解されると、つまり、観察者がそのイメージの作り手であり、観察者が何を行おうと、観察者は自分自身についての現在のイメージを破壊するだけではなく、観察者は別のイメージを作り出しもして、それを絶えず継続している―格闘したり、強要したり、コントロールしたり、抑圧したり、注意したり、適応したりしている―と理解されると、人は、観察者が正に観察される当のものであると見て取れます、そうすると、そのようなイメージを変えようとするあらゆる努力が止みます、あるいはそのようなイメージをやり過ごします。
 このことには、大いなる洞察と文字通り気を付けることを要します、それはただあなたが何らかの説明を受け入れることではありません。なぜなら、説明や言葉は事実ではないからです。そして、このことを理解すると、主な要因を理解すると、あらゆる努力が無用になります。このことを理解することは非常に重要です。様々な形の努力や格闘―物理的にも心理的にも、何らかの競争や野心、攻撃性、暴力、プライド、鬱積した憤りなど―は劣化の一つの要因です。そのように、人が、観察者は正にイメージを作り上げるその当のものであると理解するとき、我々の思考の全プロセスが途轍もない変化を受けます。そうすると、イメージは既知の何かです、違いますか? あなたはそれに気づかないかもしれません、あなたはイメージの内容に、その姿かたちに、その独特なニュアンスに、そのようなイメージの微妙な点に気づかないかもしれません、しかし、そのイメージは、人がそれを意識しようとしまいと、既知の領域の中です。違いますか?
 恐らく、我々は後でこの問題を議論して答えることができます。しばらくの間、我々は我々が話していることを続けます。全精神―それは精神であり頭脳であり身体です―がイメージの領域―それは既知です、人がそれを意識しようとしまいと―の中で機能している限り、その領域の中に劣化の要因があります。違いますか? どうか、それを観念として受け入れないで下さい、それはあなたが家に帰って考えることです―あなたはそうしません、いずれにしても。しかし、今、我々はそうしています、一緒に取り組んでいます、従って、あなたは、今、そのようにしなければなりません、これは、家に帰ってから、こう言うことではありません、“私はメモを取りました、私はそれを理解しました、私はそれについて考えてみます”と。メモを取らないで下さい、なぜなら、それは何の役にも立たないからです。
 そうすると、問題は精神が―それは時間の結果です、心理的時間でも物理的時間でも、それは数多くの経験の結果です、それは数多くのストレスや緊張の、技術的知識の、希望の、絶望の、人間が経験しているあらゆるものの、数知れない恐れの形の結果です―そのような精神がいつもそのような領域―既知の領域―の中で機能しているのかどうかです。私は“既知”という言葉を、そこにあるかもしれないがあなたは見たことがないものも含めて使っています、それでもそれは既知の何かです。
 それは精神がその中で機能する領域です、それはいつも既知の領域の中で機能します、既知はイメージです、それが知性や多くの感傷的、情動的あるいはロマンティックな思考によって作り上げられていようと。その活動や思考や働きが既知の領域の中にある限り―それがイメージを作り出します―劣化が起こるに違いありません、あなたが何を行おうと。そうすると、この問いが生じます、精神を既知から解放することは可能かということです。お分かりでしょうか? 私はこのことを明瞭にしていますか? それは問題ではありません!
 人はこのことを問うてきたのに違いありません―それをやり過ごすことは可能かどうか―何となく、あるいは何らかの目的をもって、なぜなら、人は苦しんでいるからです、人は不安を抱えているからです、あるいは、人は何となくそのヒントを手にしています。宜しいでしょうか、我々は、そのことが答えられなければならない問題として問うています、向き合わなければならない問題として問うています、そして、この問題は外面的な問題ではなく、心理的な、内面的な問題です。そして、我々は精神を既知から解放することが可能かどうかを明らかにしようとしています。私は、我々の“既知”の意味を説明してきました。
 宜しいでしょうか、これは精神を空にするプロセスのことです、そのように精神を空にするのが瞑想です、そして、人はこの瞑想の問題を検討しなければなりません、それを少し説明しなければなりません。全てのアジアの人々は、この言葉に条件づけられています、いわゆる宗教的で真剣な人々が、この言葉に条件づけられています、なぜなら、瞑想を通じて、その人たちは単なる日常的な生ではない、それを超えた何かを見つけようと願うからです。そして、それを見つけるために、その人たちは様々なシステムを手にしています、それは非常に、非常に繊細なそれであったり、あるいは禅のように非常に粗野な―規律あり、強要あり、叩くことありの―それであったり、あるいは何かを見つめたり、途轍もなく足の指に気をつけて、その動き方を見て、それらを意識するなどの様々な方法があります。そしてまた、それらのいわゆる瞑想システムの中には、精神集中が含まれます、精神を一つの観念、一つの思考、あるいは、一つのシンボルなどに集中させます。小学生が本を読むとき、あるいは、本を読まされるとき、小学生はみなそうします、そして、小学生と、一つの観念や一つのイメージに途轍もなく精神を集中させて何らかの真実をそうすることで発見しようとする非常に深い思索者との間には、それほどの違いはありません。
 そしてまた、様々な形の刺激があります、自己をねじ伏せて、自己を刺激して、人が生を全く異なるように見る何らかの視点を人は手に入れようとします、それは意識を意思や努力、精神集中、決意などによって強制的に広げることを意味します、そのように、意識を広げることによって、人は異なる状態あるいは異なる次元に到達しようと願います、あるいは、意識的な精神では不可能な地点に到達しようと願います。あるいは、人は様々な薬物―最近のLSDを含みます―などを手にします。それによって人は束の間の途方もない刺激を身体に受けます、そして、そのような状態の中で、人は途方もないことを経験します―何らかの刺激や精神集中、規律、飢餓、断食などによる途方もない何かです。もし人が何日間か断食すると、人は特異なこと―明らかにそれは特異なことです―が起こるのが分かります。そして、人は様々な薬物を手にします、そして、身体が、しばらくの間、途方もなく敏感になります、あなたはそれまで見たこともないこの上なく途方もない色彩を見ます。あなたはあらゆるものがとてもはっきり見えます、あなたとあなたの見ているものとの間の空間がなくなります。そして、このことが様々な形で世界中に広まっています、何らかの言葉を繰り返し唱えること―例えば、カトリック教会の中で行われているように―が、あるいは、そのような祈りが、精神を少し鎮めて穏やかにします、明らかに、それはトリックです。もしあなたが何かを繰り返し、繰り返し、繰り返し唱えるなら、あなたは鈍くなって、明らかに、あなたは眠くなります、そして、あなたはそれを非常に鎮まった精神と考えます。(笑) 宜しいでしょうか!
 インドを含むアジアやヨーロッパに、精神を鎮めるための様々なシステムが存在します。人は精神を鎮めるために、途方もない苦役を経験します。しかし、精神は、非常に簡単に、トランキライザーを服用することで鎮まります、それはあなたを何となく目覚めさせて鎮めます。しかし、それは瞑想ではありません。人はそれら全てを払い除けることができます―たとえ人がそれに献身的であっても―我々はそれら全てを窓から投げ捨てることができます。そして、あなたが耳を傾けているとき、私はあなたがそれを投げ捨てるのを願います、なぜなら、我々は、何らかの奇妙な経験やその他の様々なことを経験してきた非常に賢い精神によるそれらの発明よりも、もっと深い何かを検討しようとしているからです。これらのことを詳細にではないけれども十分に見て取ると、人は、それら全てを本当に脇へ除けることができます。なぜなら、人が何らかの規律を実践すればするほど、精神はますます鈍く機械的になるからです、そして、そのような機械的な決まりきったプロセスは、精神を幾分か鎮めますが、それは、途方もないエネルギーや理解の静けさではありません。
 それらを未熟で全く意味をなさないものとして脇へ払い除けると―それらは途方もない結果を生むけれども―我々は精神を既知から―一千年もの既知だけではなく、昨日の既知からも、記憶である昨日の既知からも―解放することができるのかどうかに歩を進めることができます、しかし、それは私が自分の家に帰る道や何らかの技術を忘れることを意味しません。明らかに、人はそれらを忘れることはできません。それは基本的なことです、そうでなければ我々は生きていけません。しかし、我々はもっと深い次元の何かを話しています、イメージがいつも活動している、より深い次元のことです―そこでは、既知であるイメージがいつも機能しています―そして、そのようなイメージから、観察者であるイメージを作り上げることから、精神を解放することは可能かどうかを話しています。そして、そのような既知から精神を解放することが瞑想です。我々はそのことを少し検討しようと思います。私は、あなたがそのことを検討するためのエネルギーをここまで維持しているのかどうか、あなたがそのように文字通り気を付けているのかどうか知りません。
 人は非常に明瞭に見て取れます、精神が完全に鎮まるときのみ、何らかの理解がそこに生まれると、何らかの行動が生まれると。違いますか? つまり、私は何かを理解すると言います、あるいは、私は何かを非常に明瞭に見て取ると言います、精神が余すことのなく鎮まっているとき。違いますか? あなたが私に何か言います、そして、あなたは私に何か私の好きでないこと、あるいは好きなことを言います。もし私が好きなら、私は少し注意を払います、もし私が好きでないなら、私は全く注意を払いません。あるいは、私はあなたの言っていることに耳を傾けて、それを私の個性や私の傾向などから解釈します、正当化するなどします、つまり、私は全く耳を貸しません。あるいは、私はあなたの言っていることに反対します、なぜなら、私には自分自身についてのイメージがあるからです、そして、そのイメージが反応します。宜しいでしょうか、私はあなたがこれらのことを行っていることを願います!
 そのように、私は耳を傾けていません、私は聞いていません、私は反対します、私は同意しません、私は攻撃的です。しかし、それら全てが、明らかに、私の理解を妨げます。私はあなたを理解したいのです。私は、私があなたについて何のイメージも持っていないときのみ、あなたを理解できます。そして、もしあなたが全く見知らぬ人なら、私は気にしません、私はあなたを理解しようとさえしません、なぜなら、あなたは私のイメージの領域の外にいるからです、そして、私はあなたとは何の関係もありません。しかし、もしあなたが友人や親せきなどなら、夫や妻などその他の全てなら、私は何らかのイメージを抱いています、そして、あなたが私に持つイメージ、私があなたに持つイメージ、そのようなイメージが何らかの関係を作り出します。我々の全ての関係はそのことに基づいています。人は非常に明瞭に見て取れます、イメージ―知識や思考や情動などとしてのイメージ―が干渉しないときのみ、正に私は見て取ることができます、私は聞くことができます、私は理解することができます。そのようなことが我々全てに起こっています。あなたが議論し論争し指摘などする後に、突然、あなたの精神が鎮まります、そして、あなたはそのことを見て取ります、そして、あなたは言います、“その通りだ、私は理解しました”と。そのような理解が正に行動であり、それは何らかの観念ではありません。違いますか?
 そのように、我々が知っている行動とは違う、イメージや既知の行動とは違う意味の理解、行動があります。我々が話しているのは、精神が完全に鎮まっていて、行動である理解が生じるときの、その行動である理解のことです。違いますか? 精神が完全に鎮まっているときにのみ、理解と行動が生じます、そして、そのように鎮まっている精神は、依然として、何らかの規律や努力によってもたらされる何かではありません。明らかに、もし何らかの努力がなされるなら、それは、イメージがそれ自身を超えようとして、別のイメージを作り出すことに他なりません―あなたはそれら全てのトリックが分かります。人は、精神が鎮まっているときにのみ、理解している行動が生まれると分かります、そして、そのような静けさは、注意深い、狡賢い思考によってもたらされるのでも、思い描かれるのでも、生み出されるのでもありません。そして、瞑想は―人は、人がバスに乗っているとき、通りを歩いているとき、あるいは食器を洗っているときなどあらゆるときに瞑想しうるのです―瞑想は何らかの呼吸法などそれら全てとは、あるいは何らかの姿勢を取ることとは何の関係もありません。我々はそれら全てを、それら全ての児戯に等しいことを払い除けてきました。
 観察者が正にその当のイメージであるとき、従って、そのイメージを変えようする努力あるいはそのイメージを受け入れようとする努力が存在しないとき、現にある通りの事実のみが、現にある通りの事実の観察が、事実それ自体の中の根本的な変化をもたらします。そして、それは観察者が正に観察されているその当のものであるときにのみ起こりえます。そのことについては何も不思議なことはありません。生の不思議はそれら全てを超えています―イメージや努力を超えています、自己に集中する、自分本位の、主観的な、自己中心的な活動を超えています。既知によっては決して見いだせない何か壮大な領域があります。精神を空にすることは非言語的にのみ起こりえます、観察者と観察されるものが存在しないときにのみ起こりえます。それら全てが起こるためには、途轍もなく文字通り気を付けていて気づく必要があります、精神集中ではなく気づく必要があります。
 宜しいでしょうか、精神集中は努力です、書物の特定のページや観念、イメージ、シンボルなどに注意を集中することです。精神集中は排除のプロセスです。あなたは生徒に言います、“窓の外を見てはいけません、本に集中しなさい”と。生徒は外を見たいのです、生徒は本を見るように、ページに集中するように自分に言い聞かせます、そうすると、何らかの葛藤が生じます。この絶えず精神集中しようとする努力は排除のプロセスです、それは気づきとは何の関係もありません。気づきは人が観察するときに生まれます―あなたはそのようにできます、誰でもそのようにできます―外のものだけではなく、樹木や人々の言うこと、人の考えることなどの外面的なことだけではなく、内面的にもいかなる選択もせずに気づくことです、いかなる選択とも無縁にただ観察するだけです。なぜなら、あなたが何らかの選択をするときにのみ、何らかの選択が生じるときにのみ、混乱が生じます、明瞭なときには生じません。
 気づきは選択とは無縁のときにのみ生まれます、あるいは、あなたが、あらゆる葛藤する選択や葛藤する欲望や緊張に気づくとき―あなたが矛盾するあらゆる活動をただ観察するときにのみ生まれます。観察者が正に観察されているその当のものであると知ると、そのプロセスの中には、いかなる選択も生じません、ただ“現にあるもの”を見守っているだけです、そして、それは精神集中とは全く異なります。そのような気づきは、観察者も観察されるものも存在しないで、文字通り気を付けているという質をもたらします。あなたが文字通り気を付けるとき、もしあなたがその通り行うと―我々はみな時々そうします―あなたが完全に文字通り気を付けるとき、あなたが、今、行っているように、もしあなたが本当にそのように耳を傾けているなら、そうすると、聞き手も話し手も存在しません。そのように文字通り気を付けている中に、無言の静寂が生まれます、そして、そのような文字通り気を付けている状態が、途方もない新鮮さ、若々しさを生み出します―“若々しさ”ではありません、アメリカでは、その言葉がひどい意味で使われます―精神に途方もない新鮮な感覚、新しい質をもたらします。精神を、それが抱えてきたあらゆる経験から解放することが瞑想です。人は数知れない経験をしてきたけれども―我々は数知れない経験の結果です―あらゆる経験が、人がそれぞれの経験に気づくときにのみ、人がいかなる選択とも無縁にその全内容を見て取るときにのみ、解放されえます、従って、それは消え去ります、それは過ぎ去っていきます、そうすると、何らかの傷としての、何らかの記憶としての、認識して保持する何かとしての、そのような経験のいかなる痕跡も跡かたなく消え去ります。
 瞑想は非常に骨の折れるプロセスです、何の関係もない紳士淑女たちが戯れに行うことではありません。そのためには、一貫して途轍もなく文字通り気を付けている必要があります。そうすると、あなたは自分自身で見つけるでしょう―否、経験の問題ではありません、見つけることはできません。精神が、いかなる暗示や催眠の形とも無縁に完全に鎮まっているとき、あるいは、何らかのメソッドとも無縁で、精神が完全に鎮まっているとき、思考が恐らく決して想像あるいは経験できない質や何らかの異なる次元が生まれます。そうすると、それはあらゆる探究を超えています、それは探究できません。光に満ちた精神は探究しません、鈍い、混乱している精神のみが、いつも探し求めていて、見つけることを願います。結局、それが見つけるのはそれ自身の混乱です。
 これらのことについて話したり、問うたり、尋ねたりすることに価値がありますか?
質問者 あります、あります。
クリシュナムルティ 分かりました。進めて下さい。
質問者 決意には二つの要素があるのではないでしょうか、イメージの作り手だけではなく、間違った生き方や間違った食べ物などです。
クリシュナムルティ それは明らかです。それははっきりしています、違いますか? それら全てのためには、そのような途方もない感受性が必要です、身体と精神のそれです、その二つは分離していません。もし人が観察者と観察されるもののこの問題を検討しないなら、人が恐らく理解できない何らかの分離が起こります。明らかに、人はどのように生きるのか、人は何を考えるのか、人の日常活動は何なのか、それは怒りなどその他の全てなのかを問うことは重要なことです。
質問者 クリシュナジ、イメージは既知です、あなたの言う通り。我々が今ここで非イメージ、不可知、無意識を一緒に検討することは理にかなっていますか?
クリシュナムルティ 我々が先日言ったように、実際には無意識というそのような状態はありません。御免なさい!(笑) 私は思います、人は夢を見ますが、人は決して自分に問いません、人はなぜ夢を見るのかと。人は過食などすると夢を見ます。その通りです。それははっきりしています。しかし、私が言うのは、解釈を必要とするそれらの夢のことです、人々が夢について騒がしくなるそれらの夢のことです! なぜあなたは夢を見るのでしょうか? あなたが目覚めると、精神が新鮮で、明瞭で、無垢になるように夢を見ないでいることは可能でしょうか? 人は夢を見ます、なぜなら、日中、あなたは文字通り気を付けていなかったからです、あなたはあなたの言っていることやあなたの考えていること、あなたの感じていること、あなたが他の人と話していることなどを見守っていなかったからです。あなたは空や樹木の美を見守っていませんでした。そのように、検討されていなかった、見守られていなかった、見つめられていなかったあらゆる領域が、精神の夢うつつの状態のときに、自然と、何らかのイメージや観念や何らかの光景として現れます、そして、それが解釈などを必要とする夢になります。
 人が気づいているとき、あらゆるものを見守っているとき、いかなる選択もせずに、見つめているとき、いかなる解釈もせずにそうしているとき、あなたは自分自身で分かります、あなたは全く夢を見ないと、なぜなら、あなたが活動しているとき、あなたはあらゆるものを理解していたからです。
 待って下さい、私はまだ終えていません、マダム。どうか、文字通り気を付けて見守って下さい。もしあなたが一つの問題を理解すると、あなたはあらゆる問題を理解しています。我々が問うている、問われてきている問題は、意識的精神が無意識を検討できるのかどうかです、隠れている何かを調べることができるかどうかです、分析できるかどうかです、それはできます、明らかにできます。それは関係性の中で様々な動機や反射的反応などを見て取ることができます。それは明らかに分析できます、そして、そのプロセスは全領域の一部を分析しています。その部分は全領域の何らかの分野です、そして、それは無意識と称されます、それが我々の騒ぎ立てる対象です、それは、非常に静かに、分析とは無縁に全領域をただ見守ることによって検討できます。そして、全領域は意識です。全領域は限られています、その全範囲は限定的です、なぜなら、そこにはいつも中心があるからです、観察者や批評者、監視者、思考者などがいるからです。あなたは全領域を観察できます、いわゆる無意識と意識です、それらはその領域の中です、観察者が全く存在しないときにのみ、“現にある通りのもの”を変えようと試みないときにのみ、あなたが余すことなく文字通り気を付けているときにのみ、全領域を完全に文字通り気を付けているときにのみ、あなたは全領域を観察できます。そうすると、あなたは自分自身で無意識というそのようなもののないこと、そのように検討される何ものもないことを明らかにするでしょう。見る対象はそこにあります、ただあなたは見方を知らないだけです、そして、我々は見たくないのです。我々がそれを見るとき、我々はそれを我々の快楽に、我々の個性に、我々の好みに変えたいのです、そうすると、それはひどく個人的になります、そして、それがほとんどの我々の興味の対象です、それは個人的なことになります。
質問者 何かを発見する静かな精神の状態とは何でしょうか? それらの発見は残りの他の領域と何か違う扱いをされるのでしょうか?
クリシュナムルティ 明らかに違います。鎮まった精神、静かな精神は決して経験しません。経験するのは観察者だけです、従って、それは鎮まった精神ではありません。
質問者 誤りを誤りとして見て取ること、あるいはそれは真実ではないと理解することは非常に難しいことです。
クリシュナムルティ はい、そうです。あなたが何らかの概念を保持している限り、あなたは決して何が真実であるのか分かりません。
質問者 私が難しいと感じる主なことは、十分に長い時間気を付けていられないことです―恐らく、それは二、三秒か二、三分です―そして私は眠ってしまいます、このことが何年も続いています。
クリシュナムルティ 気づく瞬間に文字通り気を付けていること、あなたが気づく瞬間に文字通り気を付けていること、それで十分です。しかし、あなたがこう言うとき、“私はそれを引き延ばさなければならない、それを続けなければならない”と、そうすると問題が起こります。そうすると、あなたはそれを何らかの快楽として欲します。この問題の背後にあるのは、何かを永遠に手にしていたいという欲望です、永遠の気づき、永遠に気を付けている状態です。重要なことは、文字通り気を付けることです、その瞬間、余すことなく文字通り気を付けていることです。それは一秒かもしれません、あなたは、一秒、完全に文字通り気を付けています、そして、次の一秒、あなたは気を付けていません。しかし、あなたはあなたが気を付けていないことを分かっています。言わないで下さい、“気を付けていない状態を、気を付けている状態にしなければならない”と、そうすると、あなたは葛藤します、そして、そのように葛藤していると、気づくことも気を付けることも全くありえません。
質問者 宜しいでしょうか、もし無意識の精神や無意識の思考のようなものが存在しないなら、催眠後の暗示のような現象をあなたはどう説明するのでしょうか?
クリシュナムルティ 私が無意識のようなものはないと言ったとき、私は言ってきています、“言われていることを受け入れないで下さい”と。それを検証して下さい、受け入れるのでもなく否定するのでもなく。あなたの質問、宜しいでしょうか、“催眠後など、あるいは催眠を通じて何が起こるのか”は非常によく説明できます、全ては依然として既知の、意識の領域の中であるということです。
 これらのことを、何かを問うて答えや説明を手に入れることを理解するうえで重要なことは、説明には何の価値もないということです。どのようにあなたが問うて、何をあなたがその問いから期待しているのかに価値があります。もしあなたがあなたの問うていることに文字通り気を付けているなら、あなたはその問いが何の困難もなく答えられるのが分かるでしょう。
 従って、教師はいません。あなた自身が全てです、あなた自身が教師であり生徒です。そうすると、あなたには問う途轍もない自由があります。違うでしょうか?