アウトサイダー

“湯川

        アウトサイダー

1965年トーク

ニューデリー 11月18日

クリシュナムルティ 我々にとって最も難しいことの一つは、我々が学ぶことができないということのように私には思われます。そして、我々は、学ぶという言葉を単なる知識の収集蓄積という意味で使っているのではありません、あるいは、行動するための経験の集積という意味でもありません、我々はその言葉を違う意味で使っています。我々が周りを見渡すと、この国だけではなく、世界中を見渡すと、人が苦しんでいるのが分かります、外面的にだけではなく、様々な出来事や事故、健康不良、不運などの外面的なことだけではなく、内面的にも更にずっと苦しんでいるのが分かります、物理的にだけではなく、心理的にも苦しんでいるのが分かります。我々は、外面的にだけではなく、内面的にも、とても貧しいのです。そして、戦争が起こります―何らかの集団同士で、何らかの共同体同士で、何らかの種族の間で戦争が起こります。我々は戦争をしてきました、太古の昔から、有史以前から、我々は戦争をしてきました。それらを見ていると、それらを知ると、我々は学ぶことができないようです。我々は何らかの不運や戦争、憎悪、貧困、専制政治などに順応することはできます。
 順応するのは、学ぶことではありません。人と動物の違いは、人が何らかの気候や食べ物、条件、環境的な影響などに順応できることです、動物はできません。そして、そのように絶えず我々の環境に順応するのは、学ぶことではありません。学ぶことは全く違う何かです、学ぶことは、収集蓄積することではありません、我々は学びません、そして、我々は何かを学び終えてから、行動します―それがほとんどの我々が行うことです。
 正に行動することから学ぶことがあります、それは正に何かを行うことから学ぶことです、何かを学んだあとで、行動を起こすのではありません、正に何かを行っている中で、学び行動します。そして、我々のあらゆる惨めさから、数限りない欲求不満から、内や外の争いから、我々が何かを学ぶことはあっても―我々は、我々自身の中に根本的な革命を起こすことを学ぶことができないように思われます。この正に何かを行っていることから学ぶのが、我々の緊急の課題―従って、あなたに行動を指図する、いかなるパターンも権威も存在しません―であるように、私には思われます。あなたが、アメリカの工場でより生産性を高めるために、その類の実験をしている記事を読んだことがあるのかどうか、私は知りません。そして、あなたが何かを継続していると、あるいは、人が同じことを繰り返し、繰り返し行っていると、それは単調になります、そうすると、人の生産性は落ちます。一方、もし人が何かを生産しているときに学ぶなら、何かを行っている正にそのときに学ぶなら、人の生産性は高まります。
 そして、我々は、何千年と、内面的にも外面的にも苦しんできているにもかかわらず、我々は学ぶことができないようです。そして、それが指し示すのは、違いますか、我々は生きることに、自由に生きることに、余すことなく自由に生きることに、いかなる争いや悲しみとも無縁に生を生きることに、それほど興味を持っていないということです。我々は悲しみの構造や恐れの性質を知ろうとは思わないのです。我々は、それをただ受け入れるだけです、あるいは、我々はそれに順応して何事も我慢するのです、勿論、もしそれがよほどの身体的苦痛をもたらすものでないなら―そのときには我々は医者へ行くなど何かしら行動します。しかし、我々は心理的苦痛を受け入れます。
 そして、私には、恐れが我々の大きな問題の一つであるように思われます。なぜなら、恐れている、臆病になっている、不安を抱えている精神は、明瞭に考えることができないからです、それは暗く生きています、それは様々な形の神経症、様々な形の矛盾を抱えています。そして、ほとんどの我々は、もし我々が何かを恐れていると気づくと、何かが恐ろしいと気づくと、我々はそれから逃げ出すか、それからできるだけ遠ざかるか、あるいは、我々はそれに屈するかします、我々はそれを受け入れて、そのような影の中を生きます。
 我々は、恐れをどう扱っていいのか知りません、なぜなら、我々は、何千年と、恐れと共に生きてきたからです。そして、我々が恐れの性質とその解決の仕方を知らないので、我々は宗教に頼ります、飲酒に頼ります、あるいは、我々は攻撃的になります、暴力的になるなどします。そのように、人は様々な種類の恐れを抱いています―意識的にも無意識的にも。そして、恐れを部分的にではなく、余すことなく取り除くには、恐れを検討して理解することが必要になります、恐れに対して勇気を奮い起こすのではありません、恐れを理解するのです、その方が勇気を奮い起こすよりも遥かに重要です。我々は職を失うことを恐れます、我々は暗闇を恐れます、我々は死を恐れます、我々は世論を恐れます、我々は沢山のことを恐れます、そして、我々はそのような恐れと共に生きています。宜しいでしょうか、人は言われていることに耳を傾けることができます。しかし、単なる言葉や知性では、そのような恐れは恐らく解決できません。人が行わなければならないことは、それを実地に試すことです、恐れと直に触れあうことです、それから逃げないことです。というのは、世界中の宗教が、人に究極の恐れである死から逃げるように説いてきたからです。それらは、人に死後の希望を様々な形で説いてきました。様々な宗教が人を飼いならそうとしてきました、人を教化して、もっと人間らしくしようとしてきました、しかし、宗教は、戦争をなくすことはできませんでした。我々が先日言ったように、人類は一万四千以上の戦争を経験してきました、毎年、世界中で、平均すると二つ半の戦争を我々は目撃しています。そして、我々は戦争を無くすことを学んできていません。そして、様々な宗教が言ってきました、“殺すな、隣人を愛せよ、親切になれ、優しくなれ、他の人のことを考えなさい”と。そして、我々はそれらのいずれも行ってきていません。宗教が単なる儀式になっています、大企業のようになっています、それには何の意味もありません。
 そして、人間は宗教的な精神を持つことが絶対的に必要です、信仰や教条、教会、儀式などの宗教ではなく、恐れから余すことなく解放された宗教的な精神です。そして、恐れから解放された精神はいつも単独です―それは孤立しているのではなく、単独です。何かを恐れている、不安を抱いている、罪悪感を抱く、貪欲な、嫉妬する精神のみが、いつも仲間を探していて、単独であることを恐れます。そして、宗教的精神のみが、全く単独でいられます、なぜなら、それはあらゆる恐れから余すことなく解放されているからです。
 そして、我々は、今宵、この死の問題を話し合いたいと思います。なぜなら、これが我々の恐れることだからです、我々はそれを避けようとするけれども、我々はそれについて考えたくないけれども、我々はそれを不快なものとして退けて、それを後回しにするけれども。我々はそれを恐れるので、我々は何らかの信仰を抱きます、復活の信仰です、何らかの継続の信仰です、不死の信仰あるいは輪廻転生の信仰です。しかし、それらの信仰は恐れの問題を解決しません。科学者たちは言っています、人は限りなく生きることができると。その人たちは、恐らく、人間の寿命を引き延ばす方法や手段を見つけるでしょう。しかし、そのような延命は恐れの問題を解決しません。
 そして、この死の問題を解決していない社会や人間は、非常に表面的な生を生きています。なぜなら、もし死や絶滅、破壊、消滅があるとすると、人は、可能な限り、生を惨めなまま、不安を抱えたまま生きるからです、従って、生には何の意味もありません、生は意味のない、それほど意義のないものとなります―それが現代世界で起こっていることです。そして、多くの文明がこの死の問題を解決しようとしてきました。
 そして、我々がそれを理解できないので、我々は我々に満足のいく、慰安をもたらす理論を発明しようと努めます。そこで、もし宜しければ、今宵、我々は、このことを話したいと思います、一緒に話し合いたいと思います―一緒にそうするのです、つまり、あなたと私が一緒に深く考えるのです、検討するのです、探究するのです―この恐れや死そして愛の問題について我々は通じ合いたいと思います、そして、更に大いなる何かについて、あらゆる宗教を超えた何か、つまり、創造について我々は通じ合いたいと思います。
 そして、我々が先日言ったように、この種の問題で我々が通じ合うことは、あなたと私が同意し合ったり、あなたが話し手に同意したり同意しなかったりすることを意味しません。これは途方もなく大きな問題なので、何らかのカテゴリーに分類できません。そして、この種のことを探究するには、あなた自身が自ら大いに探究する必要があります、それは何かを受け入れたり否定したりすることではありません。それには叡智を要します、それは意見という巧みで狡賢い論証的な理由付けとは違います、むしろ、あなたと私がこの途轍もない生と死の問題に共に踏み込むのです。
 そして、恐らく、我々は、もし我々に自分自身でこのことの真理を探究し発見する活力やエネルギーや熱気がないなら、共に歩むことはできません。このエネルギー、この熱気、この活力は、エネルギーを集めても生まれません、正に検討することによって、エネルギーが生まれます、正に探究することで、エネルギーが生じます。しかし、ほとんどの我々は考えます、エネルギーが最初になければならないと、様々な手段でエネルギーを蓄えておかなければならないと、そうして、そのエネルギーから事を進めるのであると。我々が言っているのはその逆です、検討するためのエネルギーは、探究することから生まれると我々は言っています、問うことから生まれると、求めることから生まれると、疑問を投げかけることから生まれると、疑うことから生まれると言っています、何かを受け入れることからではないと言っています。我々は、いかなる政治的あるいは宗教的方式も受け入れていません、我々は、誰それの権威や、いかなる書物の権威も受け入れていません。そのように、何ものも受け入れないことから―それは非常にポジティブな行為です―エネルギーが生まれます。我々は検討します、我々は問います、そして、そのように正に問うことで、エネルギーが生まれます。そのように、それが我々の一緒に行おうとしていることです、我々はそのように踏み出そうとしています、そして、あなたは話し手と同じように真剣に歩を進めようとしています。というのは、ほとんどの我々にとって、この種のトークは、一般的に話し手の仕事であり、あなたは単なる聞き手だからです。今宵、あなたは話し手と同じように真剣に歩を進める必要があります。
 我々は、決して、恐れに直に触れていません。どうか、このことに少し気を付けて下さい。何かに触れるというのは、あなたの感覚でそれを感じることです、あるいは、事実とあなた自身との間に心理的な壁を築かないことです。直に、何かに関わることは、触れることを意味します、直に、何かに触れるというのは、直に、事実に触れるというのは、私がこのマイクロホンに触れるようなことです。私は、もし何か邪魔するものや壁があると、それに触れられません。その壁は言葉かもしれませんし、事実に向き合うのを避ける願望かもしれませんし、恐れを知的に合理化することかもしれませんし、その壁に気づかないことかもしれません、意識的にも無意識的にも。そのように、それらが事実に、直に触れることを妨げます。そして、今宵、我々は恐れの事実に触れようとしています、知的にではありません、恐れについて何をなすべきか、あるいは何をなすべきではないかということではありません、そうではなく、恐れの性質を知ろうとしています。そうすると、正に何かに直に触れることは、その事実を理解することになります。そのように、あなたが何かを理解すると、それはもはや誤りではありません。
 我々は沢山のことを恐れます。当然、我々は恐れの―意識的にも無意識的にも―様々な形を検討する時間も機会もありません。特に、無意識的な恐れを検討することはとても難しいことです。意識的な恐れについて人は何かできます。しかし、無意識的な恐れは、より強くて、より深いのです、そして、そのような恐れは、睡眠中に夢の形を取るなど様々です。私は、今、それら全てを検討するつもりはありません。しかし、あらゆる人間に、どれほど長く生きようと、この死の問題が付きまといます。もし人がそれを理解しないなら、この問いに、この問題に直に触れないなら、その人の生は非常に表面的です、そして、その人はいつまでも表面的なままでしょう。そうすると、表面的な精神は、その条件付けに従って、その環境に従って、それが育った社会に従って、その生に何らかの意義を与えようとします。どうかこのことに耳を傾けて下さい、しばらくの間、このことに気を付けていて下さい。
 そのように、死に関する恐れの問題があります。宜しいでしょうか、この問いを理解するためには、人はあらゆる信念、あらゆるあなたの観念―輪廻転生や復活あるいは個人的な不死―から解放される必要があります。あなたはそれについて何も知りません。たとえあなたが知っていても、それは何らかの伝統であり、何らかの言語的な条件づけです。あなたは死に直に触れていません、あるいは、その事実の恐れに直に触れていません。そして、我々が言ったように、人間にとって、このような戦争や敵意に満ちた醜い、野蛮な、恐ろしい世界を生きていくうえで、この事実を理解することが緊急の課題です、そうでないと我々の生は全く意味のないものになります。毎日、この先三十年、二十年あるいは四十年、会社に行って決まりきったことを繰り返し行い、幾人かの子供を育て、そして絶えず自分自身と葛藤するのです―それには何の意味もありません。あなたが知的であればあるほど、あなたは世界にますます注意を配り、何が起こっているのかに気を付けます、あなたは表面的なことから逃げようと飲酒や様々な娯楽に手を染めます、あるいは、何らかの哲学を発明します、あるいは、何らかの書物の何らかの哲学に回帰します。そのように、必要なことは―もしあなたが生をそれ自体意義のあるものにするなら、意味のある生にするなら、豊かで申し分のない、余すことのない生にするなら―恐れと死のこの問いをあなたが理解することです。
 宜しいでしょうか、我々は恐れが何であるのか知っています、それは何らかの反射的反応です、我々の知らないものに対する反射的反応です、我々が直接経験していないものや知識に対する反射的反応です。我々は死を見てきました、我々はそれを毎日目にします、この戦争で思い知らされました。しかし、人間の精神―健全で健康に生きていて、神経症を患っていない人間の精神―は、それに直に触れてきませんでした。そして、あなたがその意味を見て取る何かと直に触れるときにのみ、あなたはその意義、その深さ、その美を理解し始めます。
 そのように、死のこの問いを理解するためには、我々は、様々な死後の理論や不死や輪廻転生を発明する恐れを取り除かなければなりません。そのように、我々は言います、東洋で言います、輪廻転生があると、再生があると、絶えず我々は新しく生まれ変わっているなどと―魂のことです、魂と称されるものです。
 宜しいでしょうか、どうか気を付けて耳を傾けて下さい。そのようなものがありますか? 我々はそのようなものがあると考えたいのです、なぜなら、それが我々に何らかの快楽をもたらすからです、なぜなら、それが思考や言葉や何やかやを超えていると我々が想定した何かだからです、それは永遠の精神的な何かであり、決して消滅することのない何かです、従って、思考がそれにしがみつきます。しかし、魂というそのようなものがありますか、そのような時間を超えた何かが、思考を超えた何かが、人間によって発明されたのではない何かが、人間の性質を超えた何かが、狡賢い精神によって作り上げられたのではない何かがありますか? なぜなら、精神はそのような途轍もない不確かさや混乱を見ているからです、生には永遠なものは何もないと見ているからです―そのようなものはありません。あなたの妻との関係、あなたの夫との関係、あなたの仕事のこと―何もかも永遠ではありません。そこで精神は永遠な何かを発明します、それを魂と称します。しかし、精神がそれを考え出すので、思考がそれを考え出すので、そして、思考がそれを思いつくなら、それは依然として時間の領域の中です―当然そうなります。もし私が何かを考え付くなら、それは私の思考の一部です。そして、私の思考は時間の、経験の、知識の産物です。そのように、魂は依然として時間の領域の中の何かです。違いますか? 宜しいでしょうか、我々は何も受け入れたり否定したりしていません。私は何らかの理論を喧伝しているのではありません、それは未熟なことであり、子供じみています。我々は一緒に探究しています。そして、そのような探究によって、もしあなたが一歩一歩進んで非常に深く検討するなら、あなたはあなたが恐れる何かに触れるでしょう。
 そのように、何回も繰り返し生まれ変わる魂が継続して存在するという観念は意味をなしません、なぜなら、それは何かを恐れている精神、永遠に続く何かを願って、それを追い求める精神、希望に満ちた確かさを願う精神などの発明だからです。そして、人はそのような観念にしがみつきます、従って、人は多くの生を手にするはずです、それは永遠なる何かです。つまり、それには、今、あなたがどのように振舞うかが重要です―もしあなたが輪廻転生を信じるなら―なぜなら、次の世で、あなたは今振舞っていることの代償を払うことになるからです。しかし、あなたは正しく振舞うことに興味がありません。もしあなたが本当に輪廻転生を信じるなら、あなたの行動、あなたの考え方、あなたの生き方、あなたのあらゆる人に対する無神経や無関心は消え去るでしょう、なぜなら、次の世で、あなたはその代償を払うからです、あなたは苦しむからです。しかし、あなたはそれを全く信じません、実際にあなたは信じません。あなたは考えます、それはただの観念であり、それは非常に観念的であって、全くのナンセンスであると。しかし、死の恐怖の事実は残ります、そして、西洋ではそれは異なる形を取ります―復活であったり、異なる領域へ再生して継続することであったりします。
 そうすると、恐れのこの問題が生じます、我々の知らない何かを恐れる問題が生じます、それを我々は死と称します。そのように、我々は生を、生きることを死から分離します。我々は生を理解してきませんでした、同様に、我々は死を理解してきませんでした。なぜなら、生を理解することは生に入っていくこと、生に触れることを意味するからです―生は欲望であり嫉妬、残虐性、憎悪、戦争、逃亡、残忍性、権力や地位の渇望などです。それが我々の生と称するものです。それがあなたの毎日送る生です、あなたが托鉢僧であろうと、ビジネスマンであろうと、芸術家であろうと。何かが内面の中で逆巻いています、それを我々は生と称します。そして、我々はそれを理解していません、我々はそれから解放されていません、我々は我々の不安や罪悪感や苦悩から解放されていません、同様に、我々はこの死と称する途轍もないものを理解していません。そのように、我々は生を理解していないように、我々は死ぬことの途轍もない意義を理解していません。
 宜しいでしょうか、あなたは生を理解しなければなりません―生きることです、戦うことではありません、争うことではありません、ひどく苦しむことではありません、神を見つけようとひどく苦しむことではありません。神を見つけようと苦悩する人間がいますが、そのような苦悩には何の価値もありません。その人は神―あるいはそれが何であれ―を決して見つけないでしょう。何かを歪めて、あなたは真理を見つけることはできません。あなたには明瞭な、健全な、理にかなった、健康な精神が必要です、ひどく苦しんでいない、歪んでいない精神が必要です。
 そのように、あなたは解放されなければなりません、生それ自身の恐れから解放されなければなりません、あなたの不安や争い、強欲、貪欲、嫉妬から解放されなければなりません、それらが金銭あるいは神のためであれ何であれ。あなたはそれらから解放されなければなりません、そうすると、あなたは生に直に触れます、そうすると、生きることが死ぬことと関連します。どうか、このことに文字通り気を付けて下さい。確かに、愛を手にしていない人はいつも絶望しています、その人は何らかの権威や地位や特権などを追い求めています、その人は嫉妬深くて冷淡です、そのような人は生きていません。その人は生が何であるのか知りません、その人の知っている全てが取るに足らない精神です―その人が政治家であろうと、托鉢僧であろうと、ビジネスマンであろうと、芸術家であろうと―取るに足らない精神です、取るに足らない些末な精神とその心配事です。それがその人の知っている全てです。そして、その人がそのような取るに足らなさや恐れから解放されるときのみ、その人は生きることが何であるのかを知るだけです。そして、生きることが何であるのかをその人が知ると、その人は死ぬことが何であるのかを知るでしょう。なぜなら、我々は生きることを死ぬことから分離してきたからです―死ぬというのは心理的にも生理的に消滅することです。そして、我々は生きていると考えます。そして、我々の生は悲しみです。そのように、もし悲しみが消滅しないと死を理解することはできません。
 そのように、人は自分自身で明らかにしなければなりません、他の誰かがそう言うからではありません。あなたは他の人たちの発見に頼ってきました、そして、今も頼っています、あなたは伝統に縛られています、何らかの権威や恐れに縛られています、あなたは人間として―この世界に生きて、ひどく踏みにじられて、苦しんでいます―どのように苦しみを消滅させるのかを明らかにしてきませんでした。我々は、飲酒や娯楽、セックス、寺院に行くことや読書などで、どうすれば苦しみから逃れるか知っています―幾つもの方法を我々は手にしています―しかし、我々はそれに触れる必要があります、そして、それを消滅させる必要があります。悲しみを消滅させる精神のみが叡智を手にします。そして、悲しみから解放された精神のみが愛することがどういう意味なのかを知ることができます。
 そうすると問題はこうです、いつか将来ではなく、今―この世界を生きている今―悲しみから解放されることは可能かということです、そして、我々が知らない何かに―我々が死と称する何かに、不可知な何かに―触れることは可能かということです。我々が恐れるのは不可知の何かではなく、既知を手放すことです、違いますか? あなたは死を、消滅することを恐れていません、あなたはあなたの手にしているものを失うことを恐れています、あなたの知っていること―あなたの経験やあなたの家族、あなたのささやかな楽しみ、あなたの知識、あなたの技術―あなたの知っているものです。そして、あなたは言います、“何とまあ、私はとても沢山学んできました、私は多くのことを知っています、そして私が死ぬとき、私は全てを失うでしょう”と。そして、それがあなたの恐れることです、死の途方もない性質ではありません。そして、あなたは何にしがみついているのですか? 既知です。既知とは何ですか? あなたの家族やあなたの小さな家、その家の汚れ、通りの塵芥、美の欠如、何らかの努力、嫉妬、不安、会社の取るに足らなさ、上司などです、お分かりでしょうか。それがあなたの知っている全てです、そして、我々はそれらを手放すのを恐れるのです。そうすると、あなたがそれらを手放すとき、喜んで、易々と、優雅に、美と共に手放すとき、それが既知を死んでやり過ごすことです。そうすると、あなたは死ぬことがどういうことであるのか知るでしょう、そうして、あなたは不可知を知るでしょう。
 宜しいでしょうか、どうか、このことに耳を傾けて下さい。あなたは即座に消滅させることができますか、時間とは無縁に、徐々にではなく、何らかの規律によるのではなく、自分を痛めつけてそうするのではなく―あなたはあなたの恐れを即座に消滅させることができますか? それが本当の問いかけです、死後に何が起こるのかではありません。しかし、あなたは何らかの習慣を消滅させることができますか―性的習慣、心理的習慣、物理的習慣―それらを即座に消滅させることができますか? それらを消滅させることは、それらから解放されることです、あなたの心配事や恐れ、欲望、強くなって権力を手に入れたいという願望、あなたが大物であると思い描くことなどを葬ることです。なぜなら、もしあなたがそれら生の取るに足らないもの―あなたの知っているもの、精神がそれらにしがみついているもの―をどのように消滅させるのか知らないなら、あなたは絶えず大混乱した状態の中を生きて狼狽するでしょう。そして、狼狽した精神のみが悲しみに包まれます、それは明瞭に考える精神ではありません、事実に直に触れる精神ではありません。
 そのように、死ぬことはあなたの知っていることをやり過ごすことです、知っている不愉快なことだけではなく、心地よいことも死んでやり過ごすことです。あなたは苦痛をもたらす記憶を、侮辱された記憶を脇へ除きたいと、死んでやり過ごしたいと思います、そして、あなたは心地よい記憶、あなたを満足させる記憶を取っておきたいと思います。しかし、心地よいことだけではなく、苦痛をもたらすものも共に葬るために、共に死んでやり過ごすために、あなたの行うことは、あなたがあらゆる思考や感情に文字通り余すことなく気を付けることです―文字通り気を付けるのです、それは“私はこれが好きです、私はこれが嫌いです”と言う自家撞着に陥ることではありません―ただ文字通り気を付けるのです。
 あなたは何かに文字通り気を付けることがどういうことか知っていますか? 文字通り気を付けることは精神集中ではありません。あなたが精神集中すると、ほとんどの人たちが試みるように―あなたが精神集中していると何が起こりますか? あなたは自分自身を切り離します、抵抗します、特定の思考や行為を除いて、あらゆる思考を脇へ除きます。そのように、あなたの精神集中は抵抗を伴います、従って、精神集中は自由をもたらしません。宜しいでしょうか、このことは、もしあなたが自分自身でそれを観察するなら非常にシンプルなことです。しかし、一方で、もしあなたが文字通り気を付けているなら、あなたの周りで起こるあらゆることに文字通り気を付けているなら―通りの汚れや塵芥に気を付けているなら、とても汚れているバスに気を付けているなら、あなたの言葉や態度、あなたの上司に対するあなたの話し方、あなたの使用人に対するあなたの話し方、先輩や後輩や尊敬される人に対するあなたの話し方に気を付けているなら、あなたより下位と思われる人たちに対するあなたの無神経さ、その言葉遣い、その思い込みに気を付けているなら―もしあなたがそれら全てに文字通り気を付けているなら、正すのではありません、そのように文字通り気を付けていると、あなたは違う種類の精神集中を知ることになります。そうすると、あなたは周囲の状況に気づきます、人々のノイズに気づきます、上の階の人たちの話し声に気づきます、話すのを止めて静かにしてもらうようにお願いしてあなたは満足します、あなたは様々な色彩や衣装に気づきます、それでも、あなたは精神集中しています。そのような精神集中は努力とは無縁という点で何も排除しません、一方、単なる精神集中は努力を要します。
 そのように、もしあなたが恐れを理解するために余すことなく文字通り気を付けているなら―つまり、あなたの神経や目、耳、精神、頭脳などで文字通り完全に気を付けているなら―あなたはあなたが即座にそれから完全に解放されているのが分かるでしょう。なぜなら、正に明瞭な精神のみが、恐れの暗闇の中を生きていない精神のみが、多くの願望を抱えた混乱状態の中にいない精神のみが―そのような、明瞭な、明晰な精神のみが死を乗り越えることができます、なぜなら、それは生を理解したからです。生きることは何らかの戦いではありません、何らかの苦痛ではありません、生きることは山々や寺院へ逃亡する何かではありません。我々は逃亡します、なぜなら、生きることが何らかの苦痛だからです、醜悪な悪夢だからです。そして、もしあなたが一つのことに文字通り気を付けるなら、その自由から、あなたは愛が何かを見て取るでしょう、分かるでしょう。なぜなら、多くの我々にとって、愛はほとんど意味をなさないからです、多くの我々にとって、愛は嫉妬や憎悪に包まれているからです。あなたが会社で誰かと何かを競い合っているとき、どうして愛が生まれるでしょうか? どうか耳を傾けて下さい。愛なしには、この美の感覚なしには、当然のごとく、生は全く虚しいものになります。そして、その虚しさから、我々は人の手で作られた神々を追い求めます、その虚しさから、信仰や教条や儀式が非常に重要になります。そして、我々は、その虚しさを過度に飾り立てられたあれやこれやで満たします、人の手になる度を越した、けばけばしい行事でそれを満たします。そのように、もしあなたが愛の何であるのかを知ろうとするなら、あなたは嫉妬や何らかの争い、支配欲、権力欲などから解放されていなければなりません、それは、あなたが愛の何であるのかを知るためには、平和に生きなければならないことを意味します、生の外ではなく、実際に、毎日、そのように生きなければならないことを意味します。
 そうすると、生にはもう一つ重要なことがあります―創造です。我々は創造が何であるのかを知りません、なぜなら、我々が権威に縛られているからです。“権威”という言葉は作家を意味します、何かを最初に作り出した人です、何らかの観念や概念、ビジョン、その人によって考え抜かれた生き方、あるいは、その人が生きてみた生き方などです。その人はその創始者です、そして、我々は、その人をそのように生きている、そのように感じている、そのように考えている人であると見ます、そして、我々はそれを望みます、従って、我々はそれを模倣します。従って、その人、あるいは、その観念や概念や理想が権威になります、伝統の権威であり、あなたが夢中になっている宗教の権威です。そして、権威を後生大事にする精神は、権威に縛られた精神は、決して創造の状態にはありえません。なぜなら、宜しいでしょうか、権威は恐れを生み出すからです、あなたの関心の全ては何を行うかを告げられることです、そして、我々はそれを実行します、技術的にも心理的にも、それを実行します。それが、この世界にそれら数知れないグルがいる理由です、なぜなら、我々は何かを恐れているからです。その人たちが知っていて、あなたは知らないのです、その人たちがあなたに、科学者として、医者として、あなたのなすべきことをあなたに告げるのです。そのように、あなたは権威に頼ります。
 宜しいでしょうか、法の権威と恐れの権威は二つの異なるものです。人は法の権威に従わなければなりません、車は左側通行です、それを守らなければなりません。あなたは税金を払わなければなりません、手紙を出すには切手を買わなければならないなどです。しかし、宗教的観念として社会的にパターン化された権威―神として、あれやこれや、伝統的に確立されている概念、宗教的権威、あなたが盲目的に受け入れる宗教的承認、あるいは、あなたは検討してきたと考えるが、恐ろしさのあまり、あなたは検討していない宗教的承認―そのような権威は、どのような形であれ、心理的に、この上なく破壊的なものです。なぜなら、それはあなたをそれに従わせるからです、あなたはそれに従います、あなたは検討しません、あなたは明らかにしません、あなたは自分自身で探究して発見しません。
 しかし、結局、真理は、あなたに与えられうる何かではありません。あなたは自分自身でそれを明らかにする必要があります。そして、それを自分自身で明らかにするためには、あなたが自分自身の法でなければなりません、あなたが自分自身のガイドでなければなりません、それは世界を救おうとする政治家でも共産主義者でも何らかの指導者や托鉢僧、書物などでもありません、あなたがそのように生きる必要があります、あなたが自分自身の法になる必要があります。従って、あなたは権威とは無縁です―それは完全に独存することを意味します、外面的にではなく内面的に、完全に単独であるであることを意味します、それは恐れとは無縁であることを意味します。そして、精神が、恐れの性質や死の性質そして愛と称されるその途方もないものを理解すると、それは理解して、言葉でもなく思考でもなく、実際にそのように生きています。そうすると、そのような理解から、精神は不動にして動の精神になります。生をこのように理解すること、自分自身をあらゆる争いから解放すること、将来のいつかではなく、即座にそうすること、そのことに余すことなく文字通り気を付けること―それら全てが瞑想です。それは部屋の隅に座り、鼻をつまんで、馬鹿な言葉を繰り返し唱えて、自己を催眠に掛けることではありません、それは瞑想でも何でもありません、それは自己催眠です。しかし、生を理解すること、悲しみから解放されること―実際に、言葉ではなく、理論ではなく、実際に―恐れや死から解放されることで、不動の精神が生まれます。そして、それら全てが瞑想です。
 そして、正に不動の精神のみが、何らかの規律とは無縁の不動の精神のみが、理解して解放されます。そのような不動の精神のみが、創造の何であるのかを知りえます。なぜなら、“神”という言葉が骨抜きにされているからです。あなたはその言葉を他の言い方に変えることができます、あなたは“犬”と言えます、それはもう全く意味をなしません。ヒットラーは神を信じました、そして、あなたの政治家たちは神を信じます、その人たちは互いに破壊し合います、殺し合います、拷問に掛け合います。神を見つけるために、自分自身を拷問に掛ける人たちがいます。そのように、その言葉はもう意味をなしません、それはただの言葉にしかすぎません。しかし、時間を超えた何かを明らかにするためには、あなたは不動の精神を手にしなければなりません。そして、その不動の精神は死んだ精神ではなく、途轍もなく活動的な精神です、それは、この上ない速さで活動しても常に鎮まっている精神です。“心配事”を抱える鈍い精神のみが不安になって恐れを抱きます。そのような精神は決して鎮まりません。そして、不動の精神のみが宗教的精神です。そして、不動の精神のみが、創造の何であるのかを明らかにして、その中にいます。そして、そのような精神のみが、世界に平和をもたらすことができます。そして、そのような平和を生み出すのは、あなたの責任です、我々一人ひとりの責任です、政治家のでも兵士や弁護士、ビジネスマン、共産主義者、社会主義者などの責任ではありません―誰の責任でもありません。それはあなたの責任です、それはあなたがどのように生きているのか、あなたがあなたの日常をどのように生きているのかに掛かっています。もしあなたが世界の平和を願うなら、あなたは平和に生きる必要があります、お互いに憎み合うことなく、嫉妬することなく、権力を追い求めることなく、お互いに競い合うことなく生きる必要があります。なぜなら、それらから解放されることによって、あなたは愛を手にするからです。愛することができる精神のみが、平和に生きることがどういうことであるのかを知るでしょう。