アウトサイダー

“渡良瀬川

アウトサイダー

1962年トーク

ニューデリー 2月14日

クリシュナムルティ これが最後のトークです。私は、もし宜しければ、今宵は自由そして新しい生き方を見つけるために必要なエネルギーの質について話したいと思います。我々は普段の日常生活に関わる多くのこと話してきました。我々は抽象的なことや何らかの概念について話してきているのではありませんし、我々は学問的あるいは神学的な概念や方式に関わってきているのでもありません。我々は事実を扱ってきています。もし極めて残念なことがあるとすれば、あなた方が耳を傾けてきたここで言われていることを単なる概念や結論にしてしまい、それらが奨励されていると考えて、それらを何らかのメソッドにして、あなた方の考える究極の真理にあなた方が到達しようとすることです。
 我々はいかなる方式も提示してきていません、なぜなら、いかなる方式も方法もシステムもないからです。我々は生の全体に、余すことのない生の全体に関心があります、一つの局面、一つの部分、一つの観念あるいは一連の観念には関心がありません。我々は生きることに、生の余すことのない全体に関心があります。そして我々が我々の日常の活動を観察すると、我々の問題や悲しみを観察すると、我々の生はますます複雑になっています。我々や社会の中に、個人としての我々や社会的集団としての社会の中に、ますます分断や矛盾が増大しています。
 ますます自由が否定されています、宗教という名目で、あるいは組織化された思考や信仰という形で、あるいは制度化された政治的活動によって。もしあなたが観察するなら、そのために大いなる叡智を必要としません、あなたは分かります、政治が途方もなく重要になっていることが、そして政治的指導者が彼らの思考や彼らの活動や彼らの発言や沈黙によって全世界を強奪していることが。我々は彼らによって条件づけられています。かつては宗教の聖職者たちが我々の精神を形作りましたが、今は政治家たちや新聞などのメディヤが我々の思考を形作って、彼らが聖職者になっています。それが示すのは、我々がいかに途方もなく表面的で、いかに皮相的な生を送っているのかということです。我々は表面的な次元で自由を語ります。我々は何かからの自由を語ります。何かからの自由は本当の自由でしょうか、それとも、それは単なる反射的反応であり、従って、それは自由では全くないのでしょうか?
 我々には自由がなければなりません、それは言語的な自由ではありません、単なる政治的自由ではありません、組織宗教からの自由ではありません。私は思います、世界の状況に気づいているほとんどの人たちは、そのような制度的な生き方から離れていると、そして、それらが我々の生に表面的な影響を及ぼすことはあっても深く影響を及ぼしてはいないと。もし人が自由とは何かを明らかにする必要があるなら、人はあらゆることを問わなければなりません、あらゆる制度を問わなければなりません、家族であり、宗教であり、結婚であり、伝統であり、社会が我々に課してきた価値です、教育であり、社会的そして倫理的組織の全構造です。しかし、我々は真理が何かを発見しようと問わずに、出口を見つけようと問います、従って、我々は心理的に自由では決してありません。我々は抵抗することにより関心があって、自由にではありません。私はこのことを理解することが重要であると思います。
 我々の生はすべて何らかの抵抗と防御の上に築かれています。防御的な精神は決して自由ではありません、我々には自由が必要です、完全な絶対的な自由です。しかし自由の質と深さを理解するためには、人は、最初に、我々がどのような仕方と深さで心理的に防御と抵抗を築き上げてきたのかに気づく必要があります、そして、いかに我々がそれらの防御と抵抗に依存しているのかに気づく必要があります。それらの壁越しに我々は生を眺めます、それらの抵抗を試みたうえで、我々は生を見て解釈します。そこで、自由とは何かを探究し明らかにする前に、我々は我々が築き上げてきた抵抗を理解して、再びいかなる形の抵抗も決して我々が築かない必要があります。これら二つが自由の生まれる前に理解されなければなりません。我々は何らかの抵抗を思想的に言語的に伝統的に築き上げてきました、なぜなら、心理的に我々はそれらの抵抗を盾にしてきたからです。もしあなたが自分自身を観察するなら、あなたはこのことが事実であるのが分かるでしょう。そして、我々は議論しているのではありません、我々が話しているのは単なる言葉によるコミュニケーションではありません、我々は自分自身を理解することに関心があります。あなたは自分自身を現にある通りに知ることなしに非常に遠くへはいけません、至高の自己ではありません、神聖な自己ではありません、そのような神学的な類のナンセンスや観念ではありません、実際に一瞬一瞬の現にある自己です、何らかの観念ではありません、あなたがそうありたいと願う何かではなく、現にあるあなたの事実です、絶えず変化していて決して静止することのない事実です。人はそのことを理解する必要があります、それは自己知であり、自分自身を知らなければなりません。自分自身を知ることなしに幻想のなかを生きないことは不可能です。
 そのように我々は観念を探究しているのではありません、新しい方式や新しい思索的理論を探究しているのではなく、我々は実際に自分自身を見ています、現にある通りに、鏡に映して、そしてそのような観察から、自由とは何かを自分自身で発見しようとしています。もし我々が自分自身を歪めることなく見る能力があるなら、実際に現にある通りの我々を見る能力があるなら、あらゆる形の抵抗やあらゆる形の依存が消え去ります。それを我々は行おうとしています。私が言っているように、我々は何らかの抵抗を築き上げてきました、なぜなら我々はいつも何かを争っているからです。我々は一時も何らかの格闘や困苦や悲しみや争いや何らかの形の混乱の中にいないことはありません。そして、このような混乱や悲しみや無力感や存在の貧しさから逃げるために、我々は壁を築いてきました、そして、そのような壁越しに我々は安全性を追い求めます。そして、それらの壁は何らかの観念であり、それらには何の価値もありません、それらはただの観念であり、それらは単なる言語的な構築物です。あなたは自分自身をヒンズー教徒あるいはイスラム教徒あるいはキリスト教徒などと称します、しかし、それらは単なる観念であり、そのような言葉にはリアリティーはなく、それらはただのシンボルにすぎません。シンボルにはリアリティーはなく、それは単なる影にすぎません。しかし、そのような影の背後に何があるのかを明らかにするためには、人はそのような隠れ家や逃げ場所や抵抗の正体を見て取る必要があります。あなたはこれまで抵抗の壁を築いてきました、何らかの観念の壁です、何らかの理想の壁です。あなたがいわゆる精神的であればあるほど、あなたは理想の壁を高くします。そして、何らかの理想は抵抗であり、それらは事実ではありません。あなたが暴力的である事実がリアルなことであり、非暴力という理想は紛れもない理論であり、それには何の価値もありません。そのような理想は一つの抵抗の形であり、それはあなたが暴力的であるという事実から目をそらします。
 自由がなければなりません、私はそれをこれから探究しようと思います、あなたはその本当の意義が分かるでしょう。自由を探究している精神はロマンティックな観念から完全に自由でなければなりません、なぜなら、そのような観念はリアルではないからです。教会が築き上げてきた、宗教が築き上げてきた、聖者たちが築き上げてきた理想は、それぞれが抵抗の異なる形であり、それらに何の妥当性もありません。妥当性は事実の中にあって、それはあなたが暴力的であることであり、あなたが野心的で貪欲で嫉妬深くて敵意を育んでいる事実です。そして、ほとんどの精神がそうであるように、書物やグルや社会から手に入れた理想に浸っている精神は、決して自由ではありえません、なぜなら、我々は現実を、事実を扱っているからであり、理想や理論や思索的何かを扱っているのではないからです。以前に私が指摘したように、宗教的精神は事実に関心があります、科学的精神が顕微鏡を覗いて観察できる事実に関心があるように、我々は心理的な事実に関心があります。そして、我々がそのような心理的事実を検証しているとき変質が生じるのは、抵抗とは無縁の自由の中だけです。
 変化は現在に対する抵抗を意味していて、それは修正された現在の継続です、しかし、それは依然として“現にあること”の継続であり、修正されたそれにすぎません。それは変質ではありません。我々が自由に関心をもつとき、我々は変化の問題をも探究しなければなりません。徐々に変化していくことに、長い期間を通じて、何らかのプロセスを経て変化していくことに関心がある精神は、修正された変化を経験しているのにすぎません、しかし、それは同じ古いパターンの継続です。変質は徐々に起こる変化ではありません。あなたが徐々に変わるという考えは、抵抗の別の形です。あなたが瞬時に変わるのか、それともあなたは全く変わらないのかのいずれかです。あなたは変わりません、なぜなら、変わるという正にそのプロセスが革命と称するものの意味だからであり、そこには何かが起こるかもしれないという恐怖があるからです。
 そのように、恐れることによって、あなたはあらゆる形の変化に抵抗します、そして、変化に抵抗する精神は決して変質の意味することを理解できません。あなたは怒っていて言います、私はこれを乗り越えると、私は怒りを超越した存在になると。そうすると、あなたは別の問題を抱えます、それは理想です、従って、現実のあなたとあるべき姿との間で葛藤が生じます。そうすると、その観念が徐々に変化する手段になります、従って、あなたは本当に変わっていません。変質が生じるのは、あなたが怒りを瞬時に見て取って、防御の観念を築き上げないときだけです。どうかこのことを観察して下さい、そのことをよく考えて下さい、そのことをよく見て下さい。私が説明しているとき、どうか自分自身をよく見て下さい。我々が話していることを受け入れないで下さい。精神的なことについての権威など世界中どこにもいません、もしあなたが権威を受け入れるなら、あなたは死んでいるのも同然です。そのように、あなたが時間的要素を取り入れて、私は徐々に変わりますと言うとき、あなたは全く変わっていません。徐々にというプロセスは抵抗の形です、なぜなら、あなたはリアリティーのない観念を持ち出したからです。リアリティーはあなたが怒っていることであり、あなたに悪意のあることであり、あなたが野心的で嫉妬深くて貪欲であることです。それらが事実です。宜しいでしょうか、それらをよく見て取って、それらから瞬時に解放されることが何よりも重要です。そして、あなたはそれらを瞬時に変えられます、あなたがいかなる観念も理想も持たずに、あなたがそれらをよく見て取ることができるとき。
 そのように、自由は心理的な事実を歪めないで見守る能力です、そして、そのような自由は、最初にあるのであり、最後にあるのではないのです。あなたは理解しなければなりません、時間は逃避のプロセスであり事実ではありません、物理学的な時間を除いて、それは事実です。しかし、我々が持ち出した心理的な時間―我々自身の中に徐々に変化をもたらす―には妥当性がありません。なぜなら、あなたが怒っているとき、野心的であるとき、あなたが嫉妬深いとき、あなたはそれに快感を抱いていて、それを望んでいるからです、あなたが徐々に変わるという観念は全く底の浅い代物です。そのように、人は事実を観察することによって、心理的な抵抗を取り除きます、そして、精神が、リアルではない観念的な理論的なことに囚われないようにするのです。あなたが事実と向き合うとき、抵抗は生じえません、事実がそこに存在するのです。
 そのように、自由はいかなる観念とも無縁に事実を見守ることです、思考とは無縁に事実を見守ることです。私はそのことを後で検討します、あなたは私の意味することが分かるでしょう。あなたが事実を言葉を通して見るなら、それは思考です、何らかの結論を抱いて見るなら、それもまた思考であり言葉です、あるいは、それまでに獲得した知識を通して見るなら、それもまた経験に基づく言葉です、それらは、つまり、あらゆる形の経験を条件づける記憶の結果です。そのように、あなたは思考とは無縁に見守る必要があります、それはぼんやりと空しく見ることを意味しません、それは思考のあらゆる働きを理解したうえで見守ることを意味します。
 宜しいでしょうか、一言、言わせて下さい。幾人かの人たちがメモを取っています。どうかメモを取らないで下さい。これは講話ではありません、あなたが家へ持ち帰って考えてみる何かではありません。あなたは、今、正にそれに取り組んでいます。あなたは、今、耳を傾けています、それは明日のことでもこの集まりの後のことでもありません。あなたがメモを取っていると、あなたは耳を傾けることができません。耳を傾けることは、文字通り気を付けていることを意味します、あなたが他の様々なことを行っていると、あなたは文字通り気を付けて耳を傾けることができません、あなたがあなたの言葉にして聞いていると、あなたは文字通り気を付けて耳を傾けることができません。文字通り気を付けるということは、何かに完全に耳を傾けることを意味します、それは精神集中ではありません、あなたの全存在が、あなたの心と精神が耳を傾けるのです、なぜなら、これは我々の生に関わることだからです。我々は感じています、何もかもが楽々と我々の前にもたらされるに違いなくて、我々は何もする必要がないと。しかし、我々は途轍もなくハードに取り組む必要があります、この政治的世界の、この宗教的世界の、社会のこの混乱する悲惨さから我々自身を救い出すために、そうしないと、我々は破壊されています。これは大袈裟な言い方ではなく、実際の事実です。
 そのように、もしあなたが本当に真剣なら、あなたがここに来て一時間を過ごすためには、あなたはある程度真剣でなければなりません、どうか文字通り気を付けていて下さい。書き留めないで下さい、手を動かさないで下さい、あなたの全精神を傾けて下さい。あなたの生が余すことなくかかっているのです。
 あなたが事実に向き合うとき、あらゆる思考が抵抗になります。なぜあなたは思考するのですか? あなたは何かを思考しないで見守ることができます? あなたは花を、樹木を、女性を、男性を、子供を、動物を、思考しないで見守ることができますか? つまり、あなたは花を植物学とは関係なく見守ることができますか、あなたはその花について何らかの知識があるかもしれませんが、それがどの種に属するのか、それが何という種類なのかなどの知識です。その色、その香り、その美しさ、それらがその花を見守るのを妨げます、つまり、思考的プロセスが見守ることを妨げます。このことを素直に理解して下さい。言わないで下さい、どのようにして私はその段階に至るのでしょうかと、いつ私は思考しないで見守ることができるのでしょうかと。いかなるシステムもありません、いかなる能力も要りません。しかし、もしあなたがこのように理解するなら―思考が働いていると、あなたは何も、明瞭に、はっきりと、歪めないで見守っていない―そうすると、あなたは思考しないで見守ります。
 そのように、自由はそのような精神の状態です、それが生じるのは、精神が事実だけに文字通り気を付けていて、意見を差し挟まないときだけです。そして、もしあなたが自分自身をそのような自由の鏡の中で見守るなら―そのあなたがどうであれ―思考が歪めることなくそのように見守るなら、瞬時に、即時に、変質が生じます。もしあなたがあなたの怒っているとき、自分自身を見守ることができるなら、もしあなたがその事実を知るなら、あなたが怒っている、嫉妬している、貪欲であるなどと知るなら、そして、そのような嫉妬や貪欲さや野心などが社会的基盤の全構造を形成していると知るなら、もしあなたが人との関係性を築く社会の倫理観を見守ることができるなら、そうすると、あなたは実際にある通りの自分自身を思考の働きとは無縁に見守るので、絶対的な変質がそこに生じます、そうすると、あなたはもはや野心的ではありません。
 もしあなたが何らかの快感を手にするなら、もしあなたが嫉妬することや野心的であることから何かを手に入れるなら、ほとんどの政治家たちがそうであるように、あなたは言われていることに耳を傾けません。しかし、自由の全プロセスを探究している人は、変質が時間とは無縁に生じるこのことを見て取らなければなりません。そして、それは思考が事実に干渉しないときにのみ起こりうるだけです、そうすると抵抗はなくなります。あなたはこのことが分かります―我々のほとんどが何かを争っていること、矛盾する生を生きていること、外面的だけではなく内面的にもそうであること。矛盾は努力を意味します。どうか自分自身を見て下さい。私は説明していますが、私はあなたのことを言っているのです。努力は何らかの浪費であり、エネルギーの浪費です。矛盾するところには争いが生じます。争いが生じると、それを乗り越えようと努力します、それは別の形の抵抗です。そして、抵抗するとき、何らかのエネルギーがまた生じます、あなたは知っています、あなたが何かに抵抗すると、その正に抵抗がエネルギーを生むことを。私はあなたの言っていることに抵抗します、あなたの言っていることに抵抗することは、一つのエネルギーの形です、そして、そのエネルギーが矛盾から抜け出すのを妨げます。宜しいでしょうか、抵抗することによって、あなたはエネルギーを作り出します、矛盾することによって、あなたはエネルギーを作り出します、ほとんどの人たちがそうするように。あなたは知っています、矛盾する自己、相反する自己、こうしたいと思う自己とそうしたくない自己を抱える人々がいることを。その二つの要素が、良いことと悪いこと、それらがせめぎ合うとき我々に行動を促します。
 あらゆる行動がこのせめぎ合いに基づきます、私はこうしなければならない、私はそうしてはならないと。そして、この形の抵抗、この形の争いがエネルギーを作り出します、しかし、そのようなエネルギーは、もしあなたが非常によく観察するなら、非常に破壊的であり、創造的ではありません。私はその“創造的”という言葉を全く異なる意味で使っています、私はそれを検討します、あなたはそれを理解するでしょう。ほとんどの人たちは何らかの矛盾を抱えています。そして、人々が、書く才能、描く才能、これやあれやの才能をもっていると、そのような矛盾の摩擦が、その人たちに、表現する、作り出す、書く、存在するエネルギーを与えます。摩擦が強ければ強いほど、争いが激しければ激しいほど、生み出されるものは際立ちます、そして、それを我々は創造と称します。しかし、それは創造では全くありません。それは争った結果です。あなたが争っている事実、あなたが矛盾を抱えている事実に向き合うことが、抵抗の結果ではないエネルギーの質をもたらします。
 どうかこのことを理解して下さい。宜しいでしょうか、あなた方のほとんどが恐らく毎朝会社へ行きます。恐らく、あなたはこの十年あるいは二十年そうしてきました。それは恐ろしく退屈で苦しいことに違いありません、もしあなたが完全に機械的になって機械のように働くのでないなら。宜しいでしょうか、その事実を観察して下さい、あなたは退屈です、あなたはその機械によって破壊されています、それをただ観察して下さい、よく見て下さい。言わないで下さい、私はこうしなければならない、私はそうしなければならない、私は何をすればよいのか、どうすれば私は退屈でなくなるのかと、そうではなく、ただ事実を観察して下さい。そうすると、そのような事実の観察から、あなたはあなたの精神がいかに機械的になっているかが分かるでしょう、いかに会社や仕事が生に、生きることに取って代わっているかが分かるでしょう、しかし、それは仕事を止めることを意味するのではなく、行動の意義を余すことなく理解し始めることを意味します。
 違う言い方をさせて下さい。ほとんどの我々にとって、我々の行動は何らかの観念に基づいています、私は期待される人間でなければなりません、インドは国家です、従って、私は抵抗しなければなりません、私は築き上げなければならない―何らかの観念を、そしてそれから行動を起こします。従って、もしあなたが観察するなら、あなたは分かるでしょう、その中には矛盾が生じていることを、そして、その矛盾を克服するために、あなたはさらに観念を作り出します。あなたは観念を変えます、しかし、いつも行動は観念に基づいています。宜しいでしょうか、もしあなたがあなたの行動が観念に基づいているのを観察するなら、あなたは分かるでしょう、その観念は完全な行動に対する一つの抵抗の形であると。宜しいでしょうか、あなたが貪欲で嫉妬深く野心的で権力や地位や特権を追い求めている限り、社会はそれを承認します、そして、そのことにあなたの行動は基づいています。そのような行動が、社会に期待されて道徳的であると見なされます、しかし、それは道徳的でも何でもありません。どのような権力も邪悪です、夫の妻に対する、妻の夫に対する権力、政治家たちの権力です。専制的であればあるほど、頑迷であればあるほど、宗教的であればあるほど、その権力は邪悪です。それは事実です、それは証明できる観察可能な事実です、しかし、社会はそれを承認します。あなた方はみな権力を持つ人間を敬います、そして、あなたの行動はその権力に基づきます。そのように、もしあなたがあなたの行動が権力欲や成功願望やこの腐敗した世界で名を遂げたい願望に基づいているのを観察するなら、そのような事実と面と向き合うことが全く異なる行動をもたらします、それが本当の行動です、それは社会が個人に課してきた行動ではありません。そのように、社会的道徳は道徳では全くありません―それは不道徳です―それは自分自身を防御する別の形です、従って、我々は徐々に社会によって破壊されています。自由を理解する人は、何が何でも社会から自由でなければなりません、心理的に、物理的にではありません。あなたは物理的に社会から自由になれません、なぜなら、あらゆるものをあなたは社会に依存するからです、衣類やお金などです。外面的に、心理的にではなく、あなたは社会に依存しています。しかし、社会から自由であることは、心理的な自由を意味します、つまり、野心や嫉妬、貪欲、権力、地位、特権などから余すことなく解放されていることです。しかし、不幸なことに、我々は社会からの自由をこの上なく馬鹿々々しく解釈します。我々は社会からの自由を服装を変えるようなことと考えます、あなたは、あなたが行者服を身に纏うと世界から自由になると考えます、あるいは、あなたが僧になると、あなたは世界や社会を幾分か破壊していると考えます。それどころか、あなたは腰巻一枚の人かもしれません、しかし、内面的には、あなたは社会に心理的に縛られています、なぜなら、あなたは依然として、野心的で嫉妬深く権力を追い求めているからです。そのように、自由を探究している精神は、社会から心理的に余すことなく解放されていなければなりません、そして、家族に依存することからも解放されていなければなりません。
 宜しいでしょうか、家族は抵抗の最も手ごろな形です、なぜなら、そのような抵抗を社会が最も期待するからです、そして、もしあなたが観察するなら、あなたは分かるでしょう、いかに精神が家族に取り込まれているのかが。家族があなたの何らかの成就の手段になっています、家族があなたの不死の手段になっています、その名前によって、その観念によって、何らかの伝統によって。私は家族が破壊されなければならないと言っているのではありません―あらゆる革命がそれを試みてきました―家族は破壊されえません。しかし、人は心理的に家族から解放されなければなりません、内面的に家族に依存しないことです。なぜ人は依存するのでしょうか?
 あなたはこれまで心理的な依存性の問題を検討したことがあるでしょうか? もしあなたがそれを非常に深く検討したことがあるなら、あなたは分かるでしょう、ほとんどの我々が恐ろしく孤独であることが。ほとんどの我々が、そのような薄っぺらな空しい精神の持ち主です。ほとんどの我々は、愛の意味することを知りません。そうして、そのような孤独から、そのような満たされない何かから、生の欠乏感から我々は何かにしがみつきます、家族にしがみつきます、我々はそれに依存します。そして、妻や夫が我々に背を向けると、我々は嫉妬します。嫉妬は愛ではありません、しかし、社会が認める家族愛は称賛されます。それは別の形の防御であり、それは我々の自分自身からの別の形の逃亡です。そのように、あらゆる形の抵抗が依存性を育みます。そして、何かに依存する精神は決して自由ではありません。
 あなたは自由である必要があります、なぜなら、あなたは分かるからです、自由な精神にこそ謙遜性の本質が備わると。そのような精神、自由、従って、謙遜性を備えた精神こそが“学ぶこと”ができます、それは抵抗する精神ではありません。“学ぶこと”は途方もないことです、“学ぶこと”は知識の収集蓄積ではありません。知識の収集蓄積は全く異なることです。いわゆる知識は比較的安易です、なぜなら、それは既知から既知への働きだからです。しかし、“学ぶこと”は既知から不可知への行為です―あなたはそのようにしてのみ学びます、違いますか? どうか自分自身を観察して下さい。あなたが何かを知るや否や、あなたは言います、私は学びますと、そのようにして、あなたはあなたがすでに持っている知識にそれを付け加えます。そうすると、あなたは決して学んでいません、あなたは単に獲得して付け加えているだけです、それは加算的なプロセスです。しかし、学ぶことは自由な何かです。あなたは自由の中でのみ学ぶことができます、何かを獲得する中ではありません。自由な精神が学びます、従って、そこには決して腐敗することのない途方もないエネルギーの可能性があります。
 精神は抵抗することによってエネルギーを手にします、争うことによって、矛盾することによってエネルギーを手にします。我々はみなそのような形のエネルギーを知っています。しかし、いかなる争いも生じないとき生まれるエネルギーがあります、従って、それは全く腐敗しません。私はそれをこれから説明しようと思います。私が精神と言うとき、それは余すことのない意識とそれ以上の何かを意味しています。頭脳と精神は別物です。頭脳―それは時間の結果です、それは何らかの感覚です、それは幾世紀もの経験を通して得られた知識の収集蓄積です―そのような頭脳は条件づけられています、意識が余すことなく条件づけられているように。これらの言葉―意識や条件付け―は非常にシンプルです。現にある通りのあなた―教育を受けてきたあなた、あなたの無意識、収集蓄積された精神、収集蓄積された時間的意識―それら全てがあなたです。あなたの考えること、あなたが自分自身をヒンズー教徒と称するとき、あなたの感じること、あなたが自分自身をイスラム教徒あるいはキリスト教徒あるいはあれやそれと称するとき―それら自分自身についての物語の全てがあなたの余すことのない意識です。あなたが自分自身を至高の自己あるいは偉大なアートマンなどあれやこれと考えようが、それは依然として意識の領域の中です、思考の領域の中です。そして思考は条件づけられています。
 宜しいでしょうか、そのような条件づけの状態―生に対する抵抗―の中で、あなたはエネルギーを作り出します。抵抗すればするほど、争えば争うほど、あなたはさらにエネルギーを手にします、そして、そのようなエネルギーはこの上なく破壊的です。これが実際に世界中で起こっていることです。そのようなエネルギーはそれ自ら消散します。それはいつも腐敗します。従って、それはいつも刺激を必要としています、それはいつも何かに取りつく必要があり、そうすることによって、それは力やエネルギーを手に入れて成長していきます。どうかこれらのことを理解して下さい。人がそのような事実を理解して、そのような事実を見て取ると―我々のエネルギーが抵抗することによって作り出される事実―そしてあなたが自分自身の中の矛盾するあらゆる物語を理解したとき、あなたがそのように事実を見て取ると、異なる種類のエネルギーが生まれます。
 我々が話しているエネルギーは宗教によって説かれるエネルギーではありません、それはセックスを拒絶する独身修行者のエネルギーではありません、なぜなら、彼は至高の経験を手に入れたいと願うからです、なぜなら、彼の生の全プロセス、修行者の生あるいは僧侶の生が抵抗の形だからです、そして、それはあなたに何らかのエネルギーをもたらします―それは非常に限られた狭小な破壊的なエネルギーであり、それがほとんどの宗教がもたらすエネルギーです。しかし我々が話しているのは全く異なる種類のエネルギーです。そのようなエネルギーは自由から生まれます、何らかの抵抗からではありません、自己否定からではありません、思索的な追究や議論からではありません。
 もしあなたが私の話してきたこれら全てを理解して、それらの事実に向き合うなら、腐敗しないエネルギーがそこから生まれます、なぜなら、そのようなエネルギーは熱気だからです。セックスの熱気ではありません、あるいは、自分自身を国家や何らかの観念と一体化する熱気ではありません―そのような熱気は破壊的です―それはあなたに奇妙な種類のエネルギーをもたらします。あなたは気づいたでしょうか、自分自身を国家や国や仕事と一体化してきた人たちが持っている奇妙なエネルギーのこと。そしてまた、ほとんどの政治家たち、ほとんどのいわゆる宣教師たち、あるいは自分自身を何らかの観念や信念や教義と一体化してきた人たち、共産主義者たちがそうするように―その人たちは奇妙なエネルギーを持っていて、それは極めて破壊的です。しかし、この上なく創造的なエネルギーは何ものとも一体化しません、それは自由から生まれます、そのようなエネルギーこそが“創造”です。
 人は長いあいだ神を追い求めてきました、それを否定したり受け入れたりしてきました。人はそれを否定してきました、無神論者あるいは共産主義者として育てられている人たちのように、あるいは人は受け入れてきました、ヒンズー教徒であるあなた方のように、なぜなら、あなたはその信仰の中で育てられてきたからです。しかし、あなたが宗教的でないのは、信仰とは無関係に育てられている人と同じです。あなた方はみなほとんど同じです。一方は、あなたが神を信じるように、他方は、彼が神を信じないようにさせます。それはあなたが受けた教育の問題であり、あなたが受けている環境的文化的影響の問題です。しかし、人は何世紀もの間このことを追究してきました。計り知れない何かがあります、人によっては計れない何かがあります、何らかの抵抗や野心や嫉妬や貪欲さに囚われた精神では理解できない何かがあります。そのような精神はこの創造的なエネルギーを決して理解できません。
 この全く腐敗しないエネルギーが存在します。それはこの世界に存在して機能します。毎日それはあなたの会社やあなたの家庭の中で機能します、なぜなら、そのようなエネルギーは愛だからです―あなたの妻や子供を愛することではありません、それは愛では全くありません。そのような創造、そのようなエネルギーは破壊的です。そのようなエネルギーを明らかにしようとあなたの行ってきたことを見て下さい! あなたはあなたの身の回りの全てを心理的に破壊しました、内面的に、あなたは、社会や宗教や政治家たちが築き上げてきたあらゆるものを完全に打ち壊しました。
 そのように、そのようなエネルギーは死です。死は余すことなく破壊的です。そのようなエネルギーは愛です、従って、愛は破壊的です―家庭的な従順さではありません、宗教が育んできた従順さではありません。そのように、そのようなエネルギーは創造です―あなたが書く詩ではありません、大理石に刻まれた何かではありません、そのようなことはあなたが感じる何かを表現する単なる能力や才能にすぎません。しかし、我々が話しているのは、感情を超えた何かです、あらゆる思考を超えた何かです。心理的に社会から完全に解放されていない精神―社会とは野心であり嫉妬、貪欲、所有欲、権力などです―そのような精神は、それが何を行おうと、それを決して見つけることはできないでしょう。そして、我々はそれを見つけなければなりません、なぜなら、それのみが人を救い出すからです、なぜなら、その中にのみ本当の行動が生まれるからです。そして、それ自体が―それが働くとき―行動です。