はからない精神

 

カルカッタ・トーク

日常生活の意味

 我々はとても沢山のことについて話してきました、人間のとても沢山の問題について話してきました、そして我々は今夕もっと幾つかのことを検討する必要があります。あなたと話し手は一緒に考える必要があります、同意するのでもなく、無視したり拒絶したりするのでもなく一緒に考える必要があります。思考はこれまでの人間のあらゆる悲惨に責任があります、それは技術的な世界でこの上もなく途方もないことを作り出してきたけれども。我々が一緒に考え、一緒に協力し、自分自身で発見することが全くとても緊急に必要であるように思われます、なぜならこれ以上のいかなるリーダーも、政治家も、グルも必要ないからです。我々は自分自身に全く完全に責任があります。危機が深刻なので、我々は一緒に考えることができるのでなければなりません、そして、明らかに、それが行うことの最も難しいことの一つです、なぜなら我々の誰もがとても沢山の意見を、とても沢山の結論を持っていて、それが我々の一緒に行うことを妨げるからです。一緒に考えることは、あなたのあらゆる個人的な見方や偏見、意見そしてお互いのコミュニケーションを実際に妨げる様々な形の結論を脇に追いやることを意味します。我々はそれらを脇へ追いやって自分自身で真理を、生の現実を見つけ出すことができます、何の偏見ももたずにそれを見ることができます、共産主義者としてではなく、マルキスト、社会主義者としてではなく、あるいは何らかの宗派や宗教やナショナリティに属することなく、一緒に我々の生を間近に見ることができます。誰も我々の生を変えることにはなりません、いかなる環境も、いかなる権威も、いかなる書物も我々の生を変えることにはなりません。我々は現にあるとおりの我々自身を一緒に見る必要があります、そして存在の意味、我々の生の意味、我々の活動の意義を深遠に探究する必要があります。
 我々の生の全存在を一緒に見てみましょう。毎日々々職場へこの先四十年、五十年通って、その最後に死ぬこと―それら全ての醜悪さと残酷さです。我々は我々の生の、それぞれの生のこの全存在を見ることができなければなりません、それを観察することであり、それを指示するのでもなく、目標は何かを、私は何をすべきかを自分自身に問うことでもなく、はじめに自分自身をよく知ることであり、自分自身を理解することであり、現実の我々を、なぜ我々はある一定のことを行うのかを、なぜ我々はこれやあれに従うのかを理解することです。我々が我々の生を見ることが重要です。もしあなたが間近に見るなら、あなたはあなたの生が断片化されていてバラバラになっていることが分るでしょう。あなたはビジネスマンあるいは医者、外科医、技術者や何かです、そしてあなた自身の個人的な生の中には、あなたと他の人との間に、どんなに親密であっても、いつも分断があります。いつもこの分断、この戦い、この痛みがあります。もちろん、何らかの種類の喜び、楽しみはありますが、それも生の一部です。我々の生は、現にあるとおり、バラバラになっていて、断片化されています、そしてこの断片化は、我々の思考が断片的でもあるので起こります。
 我々の思考は知識の結果です、そして知識はいつも限られています。知識はいつも無知と隣り合わせです。どのようなものについても完全な知識というものはありません。我々の思考は、我々の知識から生まれる思考はいつもどのような条件の下でも限られています、たとえあなたが科学者であろうと心理学者であろうと技術者などであろうと。そのように思考、考えることには限りがあり、制限があります、そして限られているものは必然的に、その活動の中で、断片化を作り出すはずです。思考それ自身が全ての分断の、全ての断片化の原因です。人が思考の構造と性質を理解しないなら、人は非常に遠くまで行けません、そして非常に遠くへ行くためには、あなたは非常に近くから始めなければなりません、それはあなたであり、あなたがどう考えるかであり、あなたが何を考えるかです、そして自分自身で思考がいつも限られていることを発見することです。思考は神を発明できます、計り知れないものを、名づけようのないものを、見えないものを、至高のものを発明できます、しかしそれは依然として思考の産物です。そのように、思考は、我々の争いの、我々の悲惨の、我々の悲しみの主な要因の一つです。人がこのことを基本的に、非常に深く理解しないなら、知的にでもなく、言葉ででもなく、あるいは論争的にでも論理的にでもなく理解しないなら、あなたが思考の性質を理解しないなら、あなたは自分自身で新しい装置を、全く異なった装置を発見し始めることにはなりません。なぜなら、我々がいま手にしている唯一の装置は思考だからです、そして思考は信じられない問題を作り出してきました、この上なく複雑な問題を作り出してきました、そして思考はそれらの問題を解決しようとして、そのために更に多くの問題を作り出します。あなたは、政治的に、宗教的に、このことに気づいているに違いありません。我々は一緒に新しい装置を見つけなければなりません、そしてそれが死や宗教や瞑想について我々が話すとき我々の行おうとしていることです。そして人の手になるものではない何かを理解すること、発見すること、そしてそれに出会うこと、そのような何かは時間を超えているに違いありません、あらゆるはかりごとを超えているに違いありません。
 死後何が起こるかよりも死の前に何が起こるのかを理解することの方がずっと重要です。我々はいつも死後何が起こるのかを問うていますが、我々は死の前に何が起こっているのかを決して問いません、最後の日あるいは最後の瞬間ではなく、我々の三十年間、四十年間、五十年間以上の生き方を問いません。時間は死です、時間―それは内面的な時間です、心理的な時間です、思考的な観念を作り出してきた時間です、「私は何かになりたいと思います、私は裕福になりたいと思います、私は聖者あるいは特別な人間になりたいと思います」。内面的な時間、希望する心理的な時間、成し遂げようとする時間、他の何かになるように変わろうとする時間―それら全ては物理的にも心理的にも時間を含みます。我々は心理的時間について話しています、言わば皮膚の下の時間です―そのような時間は死です。時間的な観点から考えることは分断、断片化をもたらします、現在よりも未来に大きな意義をもたせます。
 時間は思考によって発明された活動です。心理的な時間は思考によって発明されます、そして思考自身が時間の産物です。思考は時間の産物です、なぜなら人は長い進化を通じて知識を獲得してきたからです、進化は時間を意味します、そして我々が時間的な観点から考えるとき、我々は生を分断します、我々は生を断片化します―私はヒンズー教徒です、あなたは仏教徒です、私はイスラム教徒です、あなたはキリスト教徒などです。このような断片化はそれ自身が限られている思考の産物です。そして心理的な時間は思考によって発明されます。あなたが、「私は今こうです、私はそうなるでしょう、私は今こうですが、私はいつか異なるでしょう」と言うとき、そのようなギャップは、現実のあなたとあるべきあなた或いはあなたがそうありたいと思うこととの間のそのようなギャップは時間です。あなたがそのような時間をもつと、断片化が起こるに違いありません。今生きている生があり、その生の中で我々は死を生きていることから分離してきました。
 我々は死の遥か前に何が起こるのかを、我々の生に何が起こるのかを決して深く問いません。非常に少数の人たちだけしかそれを問いません。人々はみな死後に何が起こるのかに関心があります―あなたは生きていることになるのかどうか、あなたはあなたの兄弟と会うのかどうかなどです、しかし三十年、四十年、五十年の長い期間には―その方が死後に何が起こるのかよりもはるかにずっと重要ですが―関心がありません。そこで我々は我々の生とは何かを検討することにします、観察することにします。なぜなら、もしあなたがそのことを深く理解しないなら、あなたが死に直面するとき、あなたは怯えるからです、そうしてあなたはあらゆるものに全く盲目になるからです。我々は我々が日々生きている我々の生を検討する必要があります、それには何か意義があるのかどうか、それには価値、深さ、美があるのかどうかを検討する必要があります。恐らく、残りの生涯、あなたは九時から五時まで働くために職場へ通います。あなたはそれがどれほどの悲劇か考えたことがありますか? そしてあなたは何のために働いているのですか? あなたは言います、私の責任です、私の家族への義務です、私はお金を稼がなくてはなりません、従って私はこの先六十年職場へ通って九時から五時まで働きます、そうして私は退職して、そして死にます。あなたは生から退くことができません、あなたは異なった法衣をまとうかもしれませんが、生はあなたの現にいるところにあります、現実のあなたです、そしてそれら四十年、五十年の間、絶え間ない戦いがあります、絶え間ない争いがあります、痛み、僅かの喜び、快楽の追求があって、そして避けようがない死と向き合います。それが、手短に言えば、我々の生です。あなたはそれを否定できません、そういうことなのです。宜しいですか、これが地上のあらゆる人間の生です、その人が豊かな社会に住んでいようと、独裁主義の下にいようと、専制国家の中にいようと、その人がマルキスト、レーニン主義者或いは民主主義者であろうと。これが人の生です―痛み、戦い、争い、朝から晩まで働きます。あなたはそのような人間に何が起こるか知っていますか、その人の考える能力に何が起こるか知っていますか? これがあらゆる人間の状態です、それが人の意識です。
 あなたが実際には他の全ての人間です。これは論理的な結論ではありません、これは事実です。あなたはこの事実を理解しなければなりません、そうでなければ、我々が死について更に話すとき、あなたはその意義を理解しないでしょう、それはあなたの意識です、その内容と共にあなたの意識です。その内容は信念であり、教条、名前、姿かたち、痛み、不安、孤独、憂鬱、欲望などです、それら全てがあなたです。それら全てが現実のあなたです。この意識は全ての人間の意識です。もしあなたがその深さを感じるなら、その途方もない美を感じるなら、あなたが全ての人間であると感じるなら、それは事実であると感じるなら、そしてあなたがそれをあなたの血肉の中に、あなたの心の中に、あなたの精神の中に感じると、あなたはもはや一個人ではありません。私はあなたがこのことを飲み込むことが、或いは、それについて考えることさえもが難しいのを知っています、なぜならあなたは個人であることを条件づけられているからです、しかしあなたはそうではありません。あなたは背が高いかもしれないし、背が低いかもしれません、或いはあなたは賢いかもしれない、というようなことがありますが、内面的には、あなたは他の全ての人間と同じです。
 もしあなたが他の全ての人間なら、あなたが正に人間です。そうするとあなたの人間に対する責任とは何ですか? 世界中で起こっていることに対するあなたの責任とは何ですか? 恐らく、あなたはこのような問いかけを決して自分自身にしてきませんでした。あなたは言います、私の責任は私の家族に対するもの、私の国に対するものですと。しかし、あなたの国という観念は、思考の単なるもう一つの発明にしかすぎません。あなたがその問いを発するとき、全ての人間に対する私の責任とは何ですか、あなたは自分自身であなたの責任とは何かを、正しい行動とは何かを明らかにする必要があります。あなたはそれから逃れることはできません。あなたはあなた自身を何らかの目先の責任に限定するかもしれませんが、他の全ての人間である人間としてのあなたは、あなたは人間にも責任があります。そのように、あなたの意識はあなたのものではありません。それはこの地上に生きる全ての人間によって共有されています。人々はみなあらゆる種類の悲惨、あらゆる種類の苦しみを経験します―痛み、不安、絶望そして全くの孤独感などです。もしあなたが世界中で起こっていることに正に気づくなら、あなたは自分自身に問う必要があります、あなたの責任とは何かを、あなたの行動とはどういうものかを。
 宜しいですか、あなたはあなたが一個人であると考えます、あなたはあなたが他の全ての人間から分離していると考えます、そしてあなたは問います、「私が死ぬと私に何が起こるのか、私は生まれ変わらないのか」と。そのことを注意深く検討しましょう。あなたは何ですか? あなたが、私は来世に生まれたい、私は生まれ変わりを信じるなどと言うとき、生まれ変わろうとするのは何ですか? あなたは何ですか? それを一緒に冷静に検討しましょう。あなたはその名前であり、その姿かたちであり、その身体です。あなたはあなたが考えることであり、あなたはあなたが受けてきた教育の結果です、もしあなたが教育を受けてきたのなら。そしてその教育はとても堕落しているので、それはあなたをただ何らかの技術者、秘書あるいはこれやあれになるように条件づけるだけです。あなたは生の美や全体性を理解するように条件づけられていません。あなたは沢山の知識を与えられているので、あなたは世界の中で巧みに行動するか、それとも拙く行動するかのいずれかです。それは教育ではありません。それは教育の非常に小さな一部分です。教育は全人間性を育むことであり、人間の精神の解放、開花であって、専門化されることによって損なわれることではないのです。そうすると、あなたとは何ですか? あなたは言葉の連なりですか、観念の連なりですか、繰り返される記憶ですか、信念の継続ですか? それが全てです。そういうことなのです。これは言語的な構造です。しかしあなたは言います、それが全てではない、もっと深い何かがあると。あなたがもっと深い何かがあると言うとき、神やアートマンやあなたがそれを何と言いたかろうと―キリスト教徒のようにそれを魂と呼ぼうと、あなたがそれを他の名で呼ぼうと―あなたが私はそれら全てではない、私はそれ以上の何かです、私の中に光るものがあると言うとき、あなたが単に物理的に帰するもの以上の何かがあると言うとき、単なる結論、概念、信念や言葉以上の何かがあると言うとき、何か超えたものがあると言うとき、あなたがあなたはそれら以上であると言うとき、それもまた思考の発明です。それは明らかです。あなたは思考によって作り上げられています。あなたは自分をヒンズー教徒と呼び、他の人は自分をイスラム教徒などと呼びます。それら全ての分断は思考の結果です。あなたは実際には記憶の連なりであり、あなたの知識や経験やあなたの精神の質に基づいた反射的な反応や様々な反応の連なりです。それが現実のあなたであり、それは本質的に死です。あなたは過去の中を生きているのであり、過去は死です。全ての知識は過去の中にあります、従って、あなたが過去である知識でもって生きていると、過去は過ぎ去っているので、あなたとは何ですか? あなたが鏡を見るように、自分自身を見てください。それが現実のあなたです。そしてあなたは言います、「もし私が死ぬと、私は別の世に生まれ変わる」と、それは同じことを次の世に持ち込むことです。もしあなたが未来の生を、つまり、来世を信じるなら、あなたが今行っていることが一層重要です、なぜなら来世であなたはその代償を払うからです。これがあなたの信念です。これがあなたのしがみつくものです、それは死んだ観念であり、終わってしまってもいる沢山の記憶です。そのように、あなたの生の内容はそれです。それが、非常に沢山のことを信じる、非常に沢山の信仰、非常に沢山の迷信を抱える、この国の輪廻転生を信じる理由です。それがこの地で緩やかな死が進行している理由です。
 宜しいですか、そうすると質問は、死とは何かです。どうか、このことを問うてください、あなたは記憶、言葉、思い描くもの、シンボルの壮大なただの貯水池ですか? あなたの意識は他の全ての人間ですか、あなたは一個人ではないのですか? あなたの考えること、他の人々が考えること、あなたの思考は、個人的なものではなく、ただ思考というものが働いているだけですか? あなたが、あなたは異なる姿かたち、異なる頭の形をしていて、異なる仕事などをしているけれども、あなたは一個人ではないと悟ると、内面的にはあなたは他の全ての人間と同様であると悟ると、死は何を意味しますか? 宜しいでしょうか。仮に私がそれら全てであるなら―名前、思考、教育、身体的反応、心理的な反射的反応、受け継がれている人種的な全ての記憶や個人的な記憶、それらは全て過去の中にあります、私はそれら全てです、そして他の全ての人間がそうです、他の全ての人間の意識がそれです、そうすると死ぬとはどういう意味ですか? どうぞ、このことを問うてください。宜しいですか、我々は生きています、繰り返しながら活動しています、機械的に活動しています、ほとんどの人達がそうしているように、しかしあなたは活動しています、あなたには生命が宿っています、あなたには感情があります、あなたは反応します、知覚します、そして死がやってくると、それら全てが拭い去られます。それが我々の死と呼ぶものです、それはあなたが保持してきたあらゆるものが消滅することです、あなたの喜び、あなたの家、あなたの銀行口座、あなたの妻、あなたの子供たち、それら全てをあなたは消滅させます、あなたとあなたの執着するものです、それが死です。しかしあなたはそれをただの観念や単に思い描いたもの、単なる自己成就である来世に持ち込みたいのです。どうか耳を傾けてください、生きている間に、あなたは執着を消滅させることができますか? なぜなら、あなたが死ぬと、全ての執着が消滅するからです。あなたは執着の消滅を招き入れることができますか? あなたはこのことが分かりますか? それが消滅です。消滅は死です。そこで、あなたは、生きている間に、勢力旺盛で、活動的であるときに、あなたの執着を消滅させることができますか、何らかの独特の習慣を自ら進んで、容易く、静かに消滅させることができますか? なぜなら、そうすると、消滅するところに、全く異なる始まりがあるからです。あなたが執着のような何かを消滅させると、何らかの異なる活動が生まれるからです、現在の今に生まれ変わるのです。それが創造性です。これらを行いたいと思うかどうかはあなた次第です。
 我々は宗教とは何か、宗教的な生とは何か、宗教的な精神とは何かについて一緒に話し合う必要があります。我々は宗教的な生とは何か、瞑想とは何か、そして思考によって触れられてこなかった何かがあるのかどうかを一緒に問おうとしています。あなたは世界中の現在の宗教を宗教的であると言いますか? あなたはヒンズー教徒です、あなたは信じます、あなたの宗教がこれやあれを語ります、あなたは偶像を信じます、イスラム教徒は違いますが、イスラム教徒にはそれ自身の崇拝の形があります。キリスト教徒にはそのシンボルがあります―その儀式や教条、信念、迷信などそれらです。宗教的社会の序列階層的構造、あなたはそれらを宗教と呼びます。あなたの信念は神です。もしあなたが神や何らかの至高の原理を信じなければ、あなたは宗教的ではないと見なされます。我々は自分自身に言います、「何かそれ以上のものがあるはずである、守ってくれる、何かを与えてくれる、創造する何かがあるはずである」と。思考は観念を作り出します、それは書物や伝統に基づいています、神を信じるようにプログラムされています。それは確かに宗教ではありません。あなたはそのことに同意しますか? もちろん、同意しません。しかしそれは宗教ではありません、あなたの信念やあなたが何かを崇拝すること、寺院へ行くこと、モスクへ行くこと、教会へ行くこと、何らかの文句を繰り返し唱えることは日常生活と全くかけ離れています。日常生活を理解すること、その生活に根本的な変化をもたらすこと、迷信的ではない頭脳をもつこと―それは実際に事実と向き合うことであり、現実の自分と向き合って、“現実”を超えていくことです。それが宗教的精神とは何かの始まりです。日常生活の全ての意味を理解すること―それはお互いの関係性を理解することです―愛すること、その愛の質を手にすること、その香りを放つこと、その美を身に帯びること、その炎を内に抱くこと、それが宗教です。それが宗教的精神です。争いとは無縁の生を生きること、愛を伴った、叡智を伴った、慈悲の心をもつ生を生きること、それが宗教的生です。慈悲心は叡智です。それが宗教的生です。しかしそれはまだ十分ではありません。我々がもっとずっと深く理解しなければならないことがあります、それは瞑想とは何かです。
 瞑想とは何ですか? それはある姿勢を取って座り、目を閉じ、何らかの文句を、何らかのマントラを繰り返し唱えることですか? マントラという言葉はサンスクリット語でじっくり考える、熟考する、何かにならないことを意味します。あなたが何かにならないと、あなたは何ですか? そしてまたその言葉は解決することや自己中心的活動を脇へ追いやることを意味します。それがマントラという言葉の本当の意味です。宜しいですか、あなたがその言葉でこれまで行ってきたことを見てください。あなたは何らかの言葉を繰り返し唱えて、それをマントラと呼びます。我々が言ったように、宗教的な生は内面的に何にもならないことです、我々はそれよりもずっと深く行かなければなりません。瞑想ははかることを止めることです。私はそれを検討します。それでは瞑想とは何ですか、どのように瞑想するのかではありません。あなたが“どのように”と言うとき、あなたが“どのように”という言葉を使うとき、それは「私にそのシステムを教えてください、どうか私に何を行うべきか教えてください、私にその方法を見せてください」ということを意味します。もしあなたがその“どのように”という言葉をあなたの精神から全て取り除いて、それを見るとき、瞑想とは何ですか? 何らかのシステムやメソッド、何らかの実践、何らかの規律、呼吸を正しく深くするなど、それらは全て瞑想ではありません。それはある種の交換であり、そのグルがあなたに何かを売って、あなたがそれを実践するという、ある種の商取引です。我々は瞑想とは何かを見ていきます。瞑想は何らかのシステムの実践ではありません。なぜなら、あなたが何らかのシステムを実践すると、あなたの頭脳は委縮し、鈍くなります。それは生き生きとしていなくて、活動的ではありません。もしあなたが本当に、深く瞑想に関心があるなら、システムやメソッドというものはありえません。毎日実践するのは、静かに半時間座るのは、瞑想ではありません。あなたはそれら全てを否定できますか、なぜならあなたはあなたが何らかのメソッドを実践することの馬鹿馬鹿しさを見て取るからです、それが決まりきったことをもたらすのを見て取るからです。ところが瞑想の中には、自由があるはずです―恐れからの自由、嫉妬や貪欲、悲しみからの自由、そして人が子供のころから受けてきたあらゆる心理的損傷や傷からの自由です。人はそれら全てから自由になるべきです。
 そこで、我々は最初に気づくということが何を意味するのかを検討する必要があります。それは三つのことを意味します―気づくとはどういう意味か、精神集中とはどういう意味か、そして気をつけるとはどういう意味なのかです。なぜなら、これら全てが瞑想の中に含まれているからです―気づくことです、あなたの環境に気づくこと、あなたの話し方、歩き方、食べ方、食べるものに気づくことです、そしてあなたが他の人とどのように話すのか、あなたは他の人をどのように扱うのかに気づくことです、さらに、あなたがそこに座っているとき、あなたの隣の人に気づくことです、そのコートの色、その人の容姿に気づくことです。批判したりしないで、ただ気づくのです。そうすることによってあなたの感受性は鋭敏になります、感情移入が起こります、そうするとあなたの身体は繊細に、鋭敏になり、あなたの周りで起こっているあらゆることに気づきます。何の取捨選択もせずに気づくことです、あなたのいる場所を見るのです、話し手を見るのです、あなたの周りの全てを何の取捨選択もせずに見るのです、ただ見るのです―それは気づくことです。
 次に、精神集中を見てみましょう。あなたが精神集中すると何が起こりますか? 一つの思考を除いて他の全ての思考をコントロールします、それは何かに精神を集中させることです、本に精神を集中させることです、あなたの行っていることに精神を集中させることです、精神を集中するというのは一つの思考を除いて他の全ての思考を閉ざすことです、全ての思考をある一点に集中することです―それが一般的に精神集中の意味することです。つまり、あなたが精神集中しているとき、他の全ての思考は彷徨っていたり、押し入ったり、出たり入ったりしています。そこであなたは、一つの思考、ひとつの観念を除いて、あらゆる他の思考に対して抵抗の壁を築きます。それを見てください。それが一般的に精神集中と呼ばれるものです。
 次に、気をつけているということが起こります。あなたは何かに気をつけていたことがありますか、あなたの全てのエネルギーを注いで、余すことなく他の人に耳を傾けたことがありますか、完全に気をつけていたことがありますか? 気をつけるように訓練されている兵士のようにではなく、もしあなたが気づきや精神集中の性質を理解するなら、気をつけているとはどういうことですか? もしあなたが今完全に話されていることに気をつけているなら、その気をつけている中には“私”という中心がありません。あなたは話されていることにそのように気をつけていますか? つまり、あなたの全てのエネルギーを注いで、活力に溢れて耳を傾け、生き生きと気をつけていますか? もしあなたがそのようにしているなら、あなたは“私”という中心が気をつけているのではないことが分るでしょう。そうすると、あなたがとても深く気をつけていると、頭脳は自然と静かになります。お喋りは起こらず、コントロールすることも起こりません。思考をコントロールするそのコントロールしようとする当のものは何ですか? コントロールしようとするその当のものは思考の別の一部です、違いますか? 思考の一部が言います、「私が見届けます、私は私の思考をコントロールしようと思う」と。コントロールするものがコントロールされる当のものです。瞑想の中にはコントロールする当のものはいません、意志の活動はありません、それは欲望です。そうすると、頭脳は、頭脳の全活動は―それ自身のリズムをもつそれ自身の不安から離れて―全く静まります、沈黙します。それは思考によって育まれた沈黙ではありません。それは叡智の沈黙です、至高の叡智の沈黙です。その沈黙の中に、思考によっては触れられない、努力しても、懸命に努力しても触れられないものがやってきます。それは慈悲心の働きである叡智の働きです。そのように神聖なものは永遠です。それが瞑想です。そのような生が宗教的な生です。その中に大いなる美があります。
                                               1982年11月28日
                                                     カルカッタ
                                                 中野 多一郎 訳