クリシュナムルティ これが最後のトークです、そうですね、少なくとも今年の。
我々は、我々の誰もが正面から向き合わなければならない様々な問題を、この三つのトークの中で検討してきました。外面的な堕落と人の内面的な劣化や科学の途方もない進歩や内面的な、死んでいる中心―幾世紀もの条件づけや幾世紀もの順応や恐れや模倣や従順の結果である中心―孤独や虚しさや罪悪感や深い欲求不満や絶えず何かを追い求める中心です。我々は、それら全てのことを、恐らくそれほど詳細にではないけれども、ある程度検討してきました。
そして、今宵、私は思います、もし宜しければ、我々は、我々がなぜそれら全てを追い求めるのかを検討する必要があると。なぜこの人間は、あらゆる感覚的な、物質的安寧を超えた何かを見つけようと、探し求めようと努力するのでしょうか? なぜ我々は、感覚的なものに満足しないで、いつもそれらを超えようと試みるのでしょうか? なぜ我々の誰もが、我々の心の深いところで、神や真理、平和、掻き乱されない精神状態を、そして、儚くはない、時間とは無縁の、狡賢い神学的な思考の結果ではないものを明らかにしようとしているのでしょうか? 私は、もし我々がそのことを少し今宵検討するなら、それは何らかの価値があると思います。
見たところ、人はこれまでいつも自分自身を超える何かを―神を―永遠の状態を探し求めてきました、そして、それらは様々な名で呼ばれています。そして、それを見つけることができないので、人は他の人たちを頼りにしてきました、つまり、聖者たちや救世主たち、何かを知っていると主張する人たちなどを頼りにしてきました。あるいは、人は何らかのシンボルを崇拝することに身を委ねてきました、それは何らかの樹木であったり、特定の河川や何らかのイデオロギーであったり、人の手と頭で拵えられた何らかのイメージなどであったりします。そして、人はそれを自分の嗜好に従って崇拝します―それは、実は、その人の快楽に従っています、人はそれを異なる名で呼ぶけれども―そして、人は自分の気質に従ってそうします、あるいは、ほとんどの人たちがそうであるように、環境によってそのように強いられます。ほとんどの人たちは信じるように育てられてきたので信じます―あるいは信じないように育てられてきたので信じません―それは何らかの教義や預言者や聖者の信仰です、あるいは、それは、その人たちが自分自身の背景から自分自身で思い描いた神などです。そして、我々の誰もがそのように行ってきたと私は思います。そして、それにさえも我々は満足しません、それさえも我々に十分な安心や確かさをもたらしません、それは生の指針ではありません。なぜなら、我々は良く知っているからです、我々が我々自身の背景や条件づけから思い描くものは我々の思考の一部であることを、それは我々自身の記憶や経験そして知識の結果であることを、従って、それは時間に縛られていて、それには何の根拠もないことを。深いところで、ほとんどの我々はそのことを知っています。そして、我々は外面的に装います、つまり、我々に都合の良いとき我々は神という言葉を使ってみたり、あるいは、何らかのイデオロギーを持ち出したり、あるいは、それら全ては知的ではなく、ブルジョア的であり、愚かであるなどと言ってみたりして、我々は外面的に装います。
そのように、我々はいつも何かを追い求めています。あなたたちは皆どうしてここにいるのでしょうか! 我々の誰もが探し求めているのは何でしょうか? そして、その“探し求める”という言葉はどういう意味でしょうか? なぜなら、そのような探求は我々の日常生活に関連しているからです。我々は我々の日常生活以外の何ものも探し求めたりはしません。もしそうでないなら、我々は二つの異なる、矛盾する世界を生きます、そして、それは途方もない悲惨と混乱をもたらします。あなたは何か一つを信じて、あなたはそれとは別のことを行います。あなたは崇拝します、あるいは、少なくとも崇拝しているふりをします、神を。そうすると、あなた自身の生はみすぼらしい、取るに足らない、浅薄な、何かを恐れている、大して意義のない生になります、あるいは、もしそれは大した意義のない生とあなたが見て取るなら、あなたは何らかの理論を発明することで、それに意義を与えようと努めます。そのように、我々はいつも何かを追い求めています!
我々は一体なぜ探し求めるのでしょうか? 宗教史の中で言われてきました、もしあなたが何らかのことを行うなら―何らかのパターンに順応するなら、あなたの精神に何らかの苦役を課すなら、あなたの欲望を抑えるなら、あなたの思考をコントロールするなら、性に耽ることがないなら、あなたの嗜好を制限するなら―あなたは自分に十分な苦役を課した後に、魂と精神と身体を十分歪めた後に、あなたは何か超えるものを見つけるでしょうと。そして、それが人の行ってきたことです、一人で砂漠を放浪するか、山中や洞穴に籠るか、村々を渡り歩くか、僧院に籠って精神を何らかのパターン―それは確立されたパターンで、もしあなたがそれを行うなら、あなたが何かを見るけることをそれは保証します―に順応させるかなどです。苦役を課せられた精神、歪められた精神、壊された精神、何らかの規律や順応性によって鈍くなった精神―明らかに、そのような精神は、どんなにそれが探し求めようと、それが見つけようと欲するものを見つけるでしょう、それは、苦役を課せられたそれ自身の形に従って、その見つけようと欲するものを見つけるでしょう。
そのように、精神が時間を費やして探し求めてきた何かがあるのかないのかを実際に明らかにするためには、確かに、異なる取り組み方、異なる差し迫った何かが必要になります。なぜなら、明らかに、もし人があるいは少数の人がそのような本当のものを見つけていたなら、生は全く異なるでしょう、そうすると、生は苦役を課された、絶望的な、不安な、罪悪感を抱く、競争的な存在ではないでしょう。それらの人たちは、それが何なのかなどを主張していたでしょう。
そのように、私には、人は全く異なる取り組み方を見つける必要があると思われます。我々は、周辺から、外側の境界から取り組みます、そして、ゆっくりと、時間を費やして、何かを実践して、何かを放棄して、何かを否定して、何かをコントロールして、何かに従属して、数知れない虚偽に会うなどして、我々は徐々に中心に向かいます。つまり、我々は周辺から、外側から、内側へ向かいます。それが我々の行ってきたことです、少なくとも、それが人のそうするように教えられてきたことです、つまり、感覚のコントロールから始めます、あなたの思考をコントロールして精神集中し、それを引き締め、それがふらつかないようにします、欲望に振り回されないようにします、情動的にならないようにして、情動を献身的なものに変えて、純化させます、精神を狭い、小さな、取るに足らない、みすぼらしい精神にするために、あらゆることを行います、そして、外側から、徐々に、あなたは、あの内面の花、内面の美、愛などへと向かいます。それが伝統的な取り組み方になってきました、外側から始めて内側へ向かいます、少しずつ剥がしていきます、時間をかけます、時間は次の生あるいは明日まで掛かるでしょう、しかし、あなたは、あなたが正に中心に至るまで剥がして取り除きます。そして、あなたが中心に至ると、あなたは徐々に分かります、そこには全く何もない!と。なぜなら、あなたの精神は無能だからです、それは鈍く鈍感になっています。不確実の中を恐れて生きてきた精神は、確実な何かを、恐れないでいる状態を見つけようと願っています―それが、あらゆる宗教の人々に認知された規範になってきました。
そしてまた、それらの人たちは言ってきました、正しく行動しなさい、他の人を助けなさい、他の人を愛しなさい、親切になりなさいと。そして、それら―とりわけ組織的宗教―はいつも強調してきました、性的になるな、他の何かを行いなさい、そうなるな、競いなさい、無慈悲になりなさい、戦争しなさい、戦い合いなさい、破壊し合いなさい、貪欲になりなさい、主張しなさい、支配しなさい、残酷になりなさい、その一つだけを行うなと。
そのように、もし人が世界中の、そして人類の宗教史のこのプロセスを観察したなら、人は自分自身に問います、全く異なる取り組み方がないのかどうかを。人は、それがとても未熟で、子供じみていて、幼稚であると分かります。少なくとも、もし人がそれら全てを理解したなら、人はそれら全てを拒絶します。全く異なる取り組み方はないのでしょうか? つまり、中心から沸き起こって、中心から爆発するのです、周辺からではありません。つまり、全く異なる世界から行動し、存在し、感じ、考え、生きるのです―それは精神によって発明された世界あるいは次元ではありません、そのようなものは神経症的な状態、バランスを欠いた存在をもたらすだけです。最初に、そこに含まれている困難を見て下さい。
人間は、精神によっては計られない何かに取り組むために、精神を何らかの行動パターンや教義を受け入れるように、何らかの儀式を執り行うように、そして徐々にそこへ向かうように精神を強いるよう教えられてきました。それが規範や伝統になってきました。そして、あなたはそれを一生涯あるいは幾世にもわたって続けることができます、そして、あなたはそれを決して手にすることはないでしょう、なぜなら、明らかに、あなたの精神は、鈍く鈍感になっている精神だからです、バガバッドギータやバイブルなどの文句を繰り返すことはできても、美が何であるのかを感じない、愛が何であるのかを知らない精神だからです。そのような苦役を課せられた精神―それは何を見つけることができるのでしょうか? 何らかの観念や概念以外には何も見つけられません。そして、そのような観念や概念は、何かを恐れている、何らかの罪悪感を抱く、孤独な精神によって、あらゆる騒動から逃れたいと思っている精神によって、外側の世界を全く否定してきた精神によって思い描かれてきたものです。そのような精神は外側の世界を生きて苦役を課せられているけれども、それはその世界を否定します。そうすると、そのような精神は何を見つけることができるのでしょうか? 明らかに、それはそれ自身の思い描いたものを見つけます、従って、それはそれを拒絶しうるのです。
宜しいでしょうか、あなたは、十分に、言われていることに耳を傾けています、あるいは聞いています。しかし、もっと深く、そのことを検討するためには、あなたはそれを拒絶する必要があります、知的にではありません、実際にです、完全にです、つまり、あらゆる形式や組織宗教、教条、儀式を拒絶する必要があります―あなたはそれら全てを完全に拒絶する必要があります。このことは、あなたがすでに独存していることを意味します。世界は伝統的な取り組み方に従い、それを受け入れるので、あなたはそのような取り組み方を余すことなく否定します、従って、あなたはすでに社会や両親や隣人やあなたの世界ととてもより深く争っています、そして、あなたは争わなければなりません、そうでないと、あなたは社会の期待する人間になります、そして、社会から期待される人間は、恐らく、あの無限の計り知れない現実に近づけません。
そのように、あなたは全くの虚偽を否定することによって歩み始めました―何らかの反射的反応としてではなく、そうしています、もしそれが何らかの反射的反応なら、あなたはあなたが囚われる何らかのパターンを作り出すでしょう。あなたは否定します、なぜなら、あなたは苦役を課せられてきた精神の不毛や愚かさを理解するからです。そして、あなたが様々な宗教の主張してきた方法を否定するので、あなたは非宗教的と称されるかもしれません。しかし、それが本当の宗教の歩む道です、つまり、虚偽を完全に否定するのです。あなたはそうしなければなりません。もしあなたが、知的に、それは良い考えであると言って、それを行わないなら、あなたはそれ以上先へ進めません。あなたがそれを行うとき、あなたはそれを途轍もない叡智を働かせて行います、なぜなら、あなたは自由だからです、あなたは何かを恐れているのではないからです、従って、あなたは自分自身の中や自分自身の周りをとても騒がしくします、従って、あなたは社会が期待する人間像の罠から抜け出します。
そうすると、あなたはもはや追い求めていません。それが最初に理解することです、つまり、なにも全く追い求めないことです。なぜなら、あなたが追い求めるとき、あなたは何を追い求めているのでしょうか? それを検討して下さい。あなたが追い求めるとき、あなたは実にウィンドウショッピングをしています―一つの神から別のそれへ、キリスト教のそれへ、カトリックのそれへ、プロテスタントのそれへ、ヒンズー教のそれへ、ヒンズー教の様々な分派や亜流へなどです。追い求める衝動とは何でしょうか? そして、あなたは何を見つけようとしているのでしょうか? 明らかに、あなたが追い求めるとき、あなたは実際の事実を離れて、あなたにより大いなる快楽をもたらすような何かを追い求めています。これら全てにどうか耳を傾けて下さい。人は、人が通常の浅薄な、狭い、狡賢い存在に不満なので追い求めています。あなたはそれに不満です、それは何の意味もありません。会社での長い退屈な時間、台所の長い時間、決まりきったこと、習慣―それら全てがこの上なく途方もないほど耐えがたく苦痛になります、そして、あなたはそれら全てを避けて逃げ出したくなります。それでもあなたは従います。あなたが権威を拒絶したので―分別のある、叡智を働かせるあらゆる人は、あらゆる宗教的権威を拒絶します、話し手のそれを含めて―あなたが従わないとき、あなたは何を追い求めているのでしょうか? 追求するあなたの動機とは何でしょうか? 科学者の研究室では、科学者はその人が何を追い求めているのかよく知っています、その人はその人の動機が何であるのか知っています。しかし、今、ここで、人間として、あなたは何を追い求めているのでしょうか? そのような追求は我々の社会との関係に途轍もない意味をもちます。どうか、このことに耳を傾けて下さい。我々の誰もが夢中になっている追求は、我々の誰もが作り出した社会から我々が逃げ出しているので、社会と直接の関係があります。このことを理解して下さい。我々の誰もが現代社会の構造を作り出してきました。そのような構造を作り出しておいて、人はその構造から逃げ出そうとしています、その野心やその欲望、その恐れ、その馬鹿げた活動から逃げ出そうとしています。人が作り出した正にそれを否定しないで、それから単に逃げ出すことは人にとっても社会にとっても全く根拠を欠く関係性をもたらします。
私はあなたがその意味を理解しているかどうか分かりません。私は、恐らく、私が作り出してきた何かから逃れることはできません、私の私が作り出してきたものとの関係性から逃れることはできません。私は、私が作り出してきたそのものの構造を否定するときにのみ、それから去ることができるだけです。つまり、私がもはやそれに同意しないときに、私がもはやいかなる宗教的権威や儀式を受け入れないときに、私は社会の構造を否定します。そして、私がそれを否定して、それから逃げださないとき、私は私に責任のあるその社会の構造の外にいます。もし我々の誰もがそのように行わないなら、あなたは、あなたの好きなだけ、あなたが何らかの現実を見つけようとしていると、何らかの現実を追い求めていると装うことができます―あなたは偉大な先生たちを追い求めることができます、あなたは聖者たちに従うことができます―それら全ては何の意味もありません。
人は人の追い求めているものが何かを明らかにできます。お分かりでしょうか? それまでは、あなたの追求は、あなたの傾向やあなたが置かれている環境によって促されたあなた自身の快楽の単なる増幅にすぎません。もしあなたがそこまで進みうるなら、あなたはあなたの追い求めているものが何なのかを問うことができます。ほとんどの我々はより大いなる経験を欲します―日常のそれではない経験です―より大いなる、より広い、もっと意義のある経験です。そして、それが最新の薬物であるLSDがアメリカで蔓延し、ヨーロッパに広がり、そして、もしそれがすでに来ていなくても、ここにやって来る理由です。それは人に途轍もない経験をもたらします。それは頭脳細胞や思考の構造を変える化学物質です、そして、それは大いなる感受性を、高揚した知覚をもたらします、そして、その経験が人の一生を変えて、人に疑似現実をもたらすかもしれません。しかし、それは何もないよりましかもしれません、なぜなら、毎日会社へ行くことや軍隊へ入ること、聖職者になること、経営者になることは非常に退屈だからです! 少なくとも、それはあなたに何らかの新しい喜びや新しい経験をもたらすでしょう、そして、それは恐らくあなたの生き方を変えるでしょう。
そのように、ほとんどの人間は何らかの経験を追い求めています、そして、人々はそれらの経験が永遠に続くことを願います。あなたは、これまで、経験のこの全構造とその意味を検討したことがありますか? 経験するとはどういう意味でしょうか? 最初に、それは認識することを意味します、つまり、新しい経験を現にある通りに認識することです。認識は必要です、そうでなければ、それは経験ではありません。何らかの問題が起こり、何らかの反応が生じます、そして、そのような問題や反応について、もし認識される経験が存在しないなら、それはもはや経験ではありません。それは極めてシンプルです。従って、経験にとっては認識が欠かせません、それは精神が前もって経験しているに違いありません、そうでないなら、それは認識できません。従って、新しい経験というものはありえません。どうかそれを検討して下さい、あなたはそれを自分自身で見て取れます。いかなる経験も、いかに大きくても、崇高でも、馬鹿げていても、愚かでも、それが認識されるとき、それが経験と称されます。そして、認識はいつも過去の記憶から生れます。従って、その経験は過去に属します、それは新しい経験ではありません、なぜなら、あなたがそれを認識したからです。従って、人は全ての経験を疑わなければなりません。
宜しいでしょうか、もしあなたが、あなたのこの上なく驚くべき、神々しい、愛すべき、至高と思える経験をして、それに固執するなら―ほとんどの聖者たちや宗教的指導者たちがそうするように―そのような経験は破壊的になるだけではなく、人々の中に分断をもたらします、預言者や救世主、シャンカラ派などのように。
そのように、追い求めることは経験することです、そうではないなら、あなたは追い求めないでしょう。従って、経験は、それまでのことの単なる修正された継続にすぎません。そして、経験を欲している精神は、真実が何であるのかに気づくことができない精神です。どうかこのことを理解して下さい。精神が経験のこの全プロセスを認識するとき、それはもはや経験を追い求めません―それは精神が鈍くなることを意味しません。ほとんどの我々は、もし我々が何らかの問題に出くわさないなら、通常は眼を閉じてしまいます。従って、ほとんどの精神にとって、何らかの問題とその反応は必要です、そうではないと、人は怠惰に、無気力に、適応能力を欠くようになります、この国で起こっているように―問題が起こりません、誰もあなたを追い立てません、そして腐敗が進行します! 鈍い精神を目覚めさせるためには何らかの問題が必要です。しかし、あなたがそのことを認識するとき、あなたの精神はすでに経験のこの問題の全てに目覚めていて、あなたは、精神がいかなる経験とも無縁に、いかなる問題とも無縁に目覚めうるのかどうかを検討し始めています。
あなたはこれらのことがお分かりでしょうか? 言葉によってではありません、宜しいでしょうか、言葉によるなら、あなたは無意味な灰を家に持ち帰ることになります! しかし、もしあなたが実際に歩を進めているなら、歩んでいるなら、一緒に取り組んでいるなら、話し手の言っていることを共有しているなら―共有しているなら、従っているのではなく、模倣しているのではなく、反復しているのではなく、記憶して順応しているのではなく―あなたは言葉にだけ耳を傾けているのではありません、あなたは実際にそれを行っています、なぜなら、行っているうちに学んでいるからです―学んでから行うのではありません。従って、我々は学んでいます、そして、学んでいる中で行っています。
そうすると、精神は問います、それが目覚めるためには、何らかの経験、何らかの問題―外面的に作り上げられたものであろうと、内面的に作り上げられたものであろうと―が必要になるのかどうかを。そして、我々は、何らかの儀式や言葉の復唱、何かへの順応、儀式的習慣、儀式的生き方などを通して、それを目覚めさせることを考えてきました、そのようにして我々は精神を途方もなく柔軟に、生き生きと、明瞭に、光と喜びに溢れているようにしておくことを願います。しかし、我々は分かります、我々が何かに依存すると、精神は鈍くなることを。そうすると、精神はいかなる問題とも無縁に目覚めることは可能でしょうか―それは、いかなる問いかけや疑問、追求、働きかけとも無縁であることを意味します。
我々は行動の背後に何らかの動機があるので行動します。そして、何らかの動機があるとき、その動機が熱気を作り出します、つまり、何かを行う熱気です、何かに仕える熱気、何かを改革する熱気、指導者になる熱気です。その背後に熱気があるので―善いことを行うことや権力を持つこと、改革すること、征服することなど―そのような動機が何らかの熱気をもたらします、そのことは世界中で事実として観察されえます。そして、何らかの動機とは無縁の熱気があるのでしょうか? そのような何らかの動機とは無縁の熱気は、もはや、何ものも追い求めないとき、経験の快楽を全く求めないときに生まれます。
そのように、追い求めている精神は、熱気のある精神ではありません。そして、動機とは無縁の熱気なしに、あなたは愛せません。なぜなら、我々が先日言ったように、愛は欲望ではないからです、愛は快楽ではないからです、愛は嫉妬ではないからです、愛は憎悪の反対でもないからです。なぜなら、あなたが憎悪や暴力を否定しても、あなたがそれらをあなたから取り除いても、それは必ずしも愛が生まれることを意味しないからです。愛は全く異なる何かです―無言の静寂のように、無言の静寂はノイズの止んだ結果ではありません。
そこで、我々は問うています、最初に問うたように、精神はそのように途方もなく見て取るようになりうるのでしょうかと、周辺からではなく、外側からではなく、何も追い求めることなく、そうなりうるのでしょうかと。そして、何も追い求めることなくそうなりうることが、それを見つける唯一の方法です。なぜなら、知らないうちにそのようになりうるときは、いかなる努力とも無縁だからです、何も追い求めていないからです、いかなる経験とも無縁だからです、そして、その中心、その開花に至るための全ての実践を余すことなく否定するからです。そうすると、精神は極めて研ぎ澄まされます、極めてよく目覚めます、そして、精神は、もはや、それ自身を目覚めさせるいかなる経験にも依存していません。
人が自分自身に問うとき、人は言葉で問うかもしれません、ほとんどの人たちにとって、自然と、それは言葉であるに違いありません。そして、人は理解しなければなりません、言葉はそれが伝えようとするその当のものではないことを、“樹木”という言葉はその当の樹木ではありません、現実の事実ではありません。現実の事実は、人がそれに触れるときです、言葉によるのではなく、人が実際にそれに触れるときです。そうすると、それが現実です―それは、言葉が人々を幻惑させる力をなくしたことを意味します。例えば、“神”という言葉はとても誤解されて骨抜きにされています、そして、それは人々をとても幻惑してきたので、人々はそれを受け入れたり否定したりして、籠の中のリスのように機能します。そのように、言葉やシンボルは脇へ除けられなければなりません。
宜しいでしょうか、中心から働き、生き、行動することは可能でしょうか? あなたは私の意味する“中心”が分かりますか? 精神によって作り上げられた中心ではありません、どこかの哲学者や神学者によって人工的に生み出された中心ではない、何らかの精神の状態です―我々はそれを中心とさえ称しません―それはあらゆる苦役を経てきていなくて、その無垢や熱気を保持しています、それは生のあらゆる騒動を経ているけれども、それらの騒動はそれに決して触れません。人は過ちを犯すかもしれません、人は嘘をつくかもしれません、しかし、人はそれを脇へ除けて遠くまで行きます、罪の意識は決してありません、争う感覚は決して起こりません。しかし、このことのためは、途轍もなく正直である必要があります。
正直は謙虚です。正に不正直な人のみが謙虚を装います。あなたがこの謙虚の感覚を真剣に深く持つや否や、あなたは何かを決して這い上がったりしません、あなたは何かに決して到達しようとしません、何かに到達することは決してありません。従って、追い求める精神は謙虚の精神ではありません、それは謙虚が何であるのかを知りません。しかし、自分自身を謙虚にする、謙虚に変える、謙虚の香りを漂わす精神は厳格な精神になります。そして、この国には本質的に虚栄心が強いせいで厳格な人たちが大勢います。
そのように、もし人が真剣なら、人は自分自身に問います、この世界をそのような状態から生きること―会社へ行くこと、もし必要なら、あるいは生計を全く立てないこと―は可能かどうかを。“私は生計を立てなければならない”と言わない沢山の人たちがいます、その人たちは生計が約束される通常の次元とは違う取り組み方をします。
宜しいでしょうか、どのようにすると人はそうなるのでしょうか? 私の質問がお分かりでしょうか? 我々は瞑想してきました、自分を犠牲にしてきました、独身でいました、あるいは独身でいるのを止めました、我々は伝統や儀式を受け入れてきました、我々は香や偶像に途轍もなく気持ちを高ぶらせてきました、我々は幾度も寺院を巡ってひれ伏してきました―我々はそれら全ての児戯に等しいことを行ってきました。そして、もし我々がそれら全てを行ってきているなら、我々はそれら全ての全くの不毛さを見てきました、なぜなら、それらは恐れから生まれているからです、何らかの希望を願う感覚から生まれているからです、なぜなら、ほとんどの我々が絶望しているからです。しかし、絶望から解放されるのは希望によってではありません。絶望から解放されるためには、あなたは絶望自体を理解する必要があります、希望という観念を導入することではありません。このことを理解することは非常に重要です、なぜなら、そうなると、あなたは二重性を作り上げるからです、そして、二重性の回廊には出口がありません。しかし、もしあなたが、“私は絶望している”と言うなら、なぜなのかを明らかにしなさい、それを検討しなさい、あなたの頭脳を使って明らかにしなさい。人はあなたがなぜ絶望しているのか分かります、それは生に、見ての通り、何の意味もないからです、それはひどく退屈です―家族を養います、会社へ行きます、絵画を見たり、音楽を聴いたりして束の間の喜びに浸ります、あるいは、素敵な夕日を見ます、そうでないなら、生には何の意味もありません。そして、我々はそれに何らかの意味を施します、そして、そのような意味付けは知性のまやかしです。そして、ついにあなたは絶望して希望を失います。他方、あなたは絶望を検討しなければなりません、そして、あなたはその対極を作り出しません、あなたはなぜあなたが絶望しているのかを明らかにする必要があります。あなたが絶望しているのは、あなたが何かを成就したいと思うからです、そして、その成就にはいつも欲求不満が付きまといます。あるいは、あなたが絶望しているのは、あなたが理解しないからです、あるいは、あなたの息子やあなたの母、あなたの妻、あなたの夫か誰かが死んだからです、そして、あなたはそのことを全く理解できません、あるいは、あなたが愛されないからです。あなたが愛されないのは、あなたが愛し方を知らないからです。そのように、あなたは絶えず戦っています、そして、その戦いから欲求不満や果てしない惨めさ、絶望が生まれます。そして、そのような果てしない絶望から逃れるために、あなたは偽りの希望を幻想します、そうやって、あなたは果てしない希望の回廊を築きますが、絶望は続きます。
そうすると、我々は核心に至ります、精神はいかなる規律とも無縁に、いかなる思考とも無縁に、いかなる強制とも無縁に、いかなる書物とも無縁に、いかなる指導者とも無縁に、いかなる教師とも無縁に、いかなるものとも無縁にそれに出会うことができますか? 精神は、あなたがあの素敵な夕日に出会うように、それに出会うことはできますか? いつあなたはそれに出会うのでしょうか? いいえ、どのようにして人はそれに出会うのか、ではありません。あなたをそれに出会わせるためのメカニズムのことではありません―そうすると、それは別のただのまやかしにすぎません。
私には、必要とする何らかの絶対的なものがあるように思われます―それは獲得される何かではありません、あなたが実践する何かではありません、あなたが毎日毎日行う何かではありません。つまり、動機とは無縁の熱気がなければなりません。お分かりでしょうか? 何かへの献身や何らかの執着や動機の結果ではない熱気です、なぜなら、熱気なしにあなたは美を見ることができないからです。それは、あのような夕日の美ではありません、何らかの構造物の美ではありません、詩の美ではありません、梢に止まった小鳥の美ではありません、その美は知的なものではありません、何かと比較されるものではありません、社会的なものではありません。そして、そのような美と出会うためには、熱気がなければなりません。そのような熱気をもつためには、愛がなければなりません。ただ耳を傾けて下さい。あなたはそれら全てについて何一つできません、あなたは愛を実践できません、そうすると、それは単なる親切になります、寛大さになります、優しさになります、非暴力や平和の状態になります、しかし、それらは愛とは全く何の関係もありません。そして、熱気や美なしに愛はありえません。ただそのことに耳を傾けて下さい。論争しないで下さい、“方法”を議論しないで下さい。
それはドアーを開けておくようなものです。もしあなたが夕暮れにドアーを開けておくと、爽やかな風が入ってきます。あなたはそれを招き寄せることはできません、あなたはそれに備えることはできません、あなたは言えません、“私は何かをしなければならない、何かをしてはならない”と、あなたは何らかの儀式などへ赴くことはできません、ただドアーを開けておくだけです。それは非常にシンプルな行為を意味します、それは意志の行為ではありません、それは快楽的な行為ではありません、それは狡賢い精神によって思い描かれた行為ではありません。ただドアーを開けておくだけです―それがあなたのできる全てです、あなたはそれ以外に何もできません。あなたは瞑想するために、精神を力づくで、無理やり、規律を施して、黙らせるために座ることはできません。そのような沈黙はノイズであり永久に続く悲惨です。あなたのできる全ては、あなたの精神のドアーを開けておくことです。そして、もしあなたが自由でないなら、あなたはそのドアーを開けておけません。
そのように、あなたは自分自身を、精神が作り出してきた馬鹿げた心理的発明の全てから解きほぐしだします―それら全てから自由になるのです―ドアーを開けておくためではなく、ただ自由になるために。それは部屋を片付けて奇麗に整頓しておくようなものです、それが全てです。そうすると、いかなる意図とも無縁に、いかなる動機とも無縁に、いかなる願望も抱かず、あなたがドアーを開けておくとき、そのドアーを通って時間や経験では計りえない何かがやってきます、それは精神のいかなる活動とも無縁です。そうすると、あなたは自分自身で分かります、何の疑いもなく、人のあらゆる想像を遥かに超えた、時間を超えた、あらゆる探究を超えた何かがあるのが。