クリシュナムルティ 我々は余すことのない革命の必要性について話してきています、財政的あるいは社会的あるいは単なる経済的な外面的な革命ではなく、むしろ意識の全構造の中の何らかの変質、何らかの完全な変化のことです。もし宜しければ、今夜、私は、人間―あらゆる複雑なことを抱えた現代世界の中に置かれていて、現にこのように生きている人間―が、そのような根本的な変化を生み出すことができるのかどうかの問題を検討したいと思います。それは精神の本当の若返り、新生を意味します、違いますか? そして、頭脳は、余すことなく、精神同様、何らかの機械のように、その使用や習慣や慣習による不断の摩擦によって摩耗します。機械は、もしそれがスムーズに働き続けるなら、摩擦は全く生じないでしょう。そして、摩擦が生じるや否や、エネルギーの浪費になります。我々はこのことをよく知っています、少なくとも理論的には。
そして、人は自分自身に問います、最初に、人はあらゆる摩擦から解放されうるのかどうかを、そして、次に、何らかのパターンの中で使われてきた精神が、それと同じように機能してきた頭脳細胞も同様に、そのような自由の中で、それ自身を変質させうるのかどうかを問います。我々は分かります、人間の精神、人間の頭脳は、様々な何かとの関係の中で―それは財産であったり、人々や何らかの観念や思想であったりします―絶えず、何らかの摩擦に晒されていると。いつも何らかの摩擦が生じます、そのような何らかの関係性の中の摩擦は、頭脳細胞を自然と摩耗させるに違いありません。そして、人はまた自分自身に問います、そのような摩擦をなくすことは可能かどうか、その不断の格闘や努力を、別の一連の規範やパターン―それらが新たな摩擦になります―を作り出さずに、なくすことは可能かどうかを、つまり、人はこの世界の中で、最初に、いかなる摩擦とも無縁に生きることが可能かどうかを、そして、機械的に機能してきて、技術的であろうと心理的であろうと、何らかの決まりきったことや習慣に従ってきた頭脳―子供の時から何らかの摩擦を生じさせながら働いてきて、絶えず、自らを摩耗させている頭脳―は若返ることが可能かどうか、すこぶる若く新鮮になりうるのかどうかを。それが問題の一つです。
我々は世界のあらゆるものが退化するのが分かります、誕生があり、死である次第に起こる退化があります、死は有機組織の終焉だけではなく、心理的な終焉でもあり、継続できない恐れでもあります。
そして、人は分かります、自然の中で、自分自身の中でも同じように、継続性には始まりがないと。消滅する何かのみ、新しい始まりがあります。同様に、季節がはっきり分かれている気候―春夏秋冬―の中では、樹木が春になると若返るのが分かります、新芽を出し、花が咲き、新鮮な香りが漂います、そして、冬になると、それは再び生まれ変わるために、再生するために、枯れていきます。問題は、頭脳細胞自身が生まれ変われるのかどうかです、あらゆる関係性の中で、ほとんど機械的に機能してきた細胞が生まれ変われるのかどうかです。
宜しいでしょうか、このことを理解するためには、それを余すことなく検討するためには、人は全意識を詳しく検討する必要があります―我々はこの“意識”という言葉を、哲学的な意味でも、理論的な意味でも、仮説的な意味でもなく、実際の何かとして使っています―自分自身でこの意識とは何かを発見する必要があります。我々は、その言葉を非常に安易に使います、しかし、我々はそれが何なのかを決して自分自身に問いません。もし人がそれは何かを自分自身に問うなら、人は自分自身で発見します、他の人に言われるまでもありません、それは思考や感情そして行動の余すことのない全体です。それは、思考が機能する、あるいは、関係性が存在する、余すことのない領域の全体です。あらゆる動機や意図、欲望、快楽、一過性の幸せや恐れ、インスピレーション、願望、希望、絶望、不安、罪悪感、恐れなど―それら全てがその領域の中です。そして、我々はその余すことのない全体に決して文字通り気を付けていません。人は、人の意識に余すことなく文字通り気を付ける必要があります、その周辺ではなく、その境界線の外側ではなく、正に内側から外に向かって、そして外から内に向かって、文字通り気を付ける必要があります。
そして、我々はこの意識を活動的なものと潜在的なもの、高位のものと低位のものに分けてきました。意識の上位の次元は、毎日の活動に関連しています―会社へ行くようなことです―それら全てが外面的に起こります、新しい技術を学ぶなどします。そして、下位のそれは、いわゆる無意識です、それは我々の全く馴染みのないもので、時折、何らかの暗示やヒントあるいは夢で表現されます。
そのように、我々はこの意識を―それは何らかの全領域です―意識的なもの―小さな領域とその他のもの―と無意識に分けてきました。どうか、このことを理解して下さい、同意するのでもなく同意しないのでもなく。我々は何らかの事実を話しています、そして、事実については同意も不同意もありません。それはそういうことなのです。あなたが事実を解釈したり、事実を説明したりすると、それは、あなたの意見やあなたの条件づけ、あなたの欲望、あなたの快楽などに従います、そうすると、そこから何らかの意見が生じます。もしあなたがこれはマイクロホンではなく電話であると言うなら、もしあなたがそれについて堅固な意見を持ち、私がこれについて堅固な意見を持つなら、あなたと私は決して触れ合いません。しかし、もし我々が事実に固執するなら、樹木は樹木です、それは外面的にも、そして正に内面的にも事実です。
そのように、我々は事実を扱っています、何らかの意見ではありません―シャンカラや仏陀の意見ではありません、その人たちが言った、あるいは言わなかった意見ではありません、哲学者たちや現代の心理学者たちなどの意見ではありません。我々は事実を扱っています、そして、あなたと私はそれらを事実として発見できます、従って、我々は同意するとかしないとかの問題は脇へ除けることができます。
我々が言ってきたように、我々はこの意識を意識的なものと無意識的なものに分けてきました。我々はその小さな領域―それが我々の生のほとんどです―に囚われています、そして、それ以外は我々に意識されません、我々はそれをどのように検討するのか知りさえしません。我々は、何らかの危機が生じるときのみ、何らかの緊急の事態や即座に対応しなければならない何らかの問題に出くわすときのみ、それを知ります、そのときのみ我々は余すことのない全体として行動します。我々は意識を意識的なものと無意識的なものに分けてきたので、我々は意識の全体を―その小さな領域にすぎない―意識的なものから見ます。
宜しいでしょうか、話し手は問うています、無意識というものが一体あるのかと。隠れている何かがあるのでしょうか、我々は、我々が無意識と称してきたものを夢や検証や分析などで解釈する必要があるのでしょうか? それとも、あなたは、あなたが意識と称するこの小さな領域に多くの気を割いてきて、全領域に余すことなく文字通り気を付けてこなかったので、あなたはその全内容に気づいていないだけでしょうか? このことを非常に注意深く検討するためには、あなたは、あなた自身の意識を見てみる必要があります、あなたは私にただ同意するのではありません、あなたはただ頷いて数語を受け入れるのではありません。なぜなら、もしあなたがこのことを理解しないなら、あなたはこの先のことを理解できないでしょう。私は先のことは知りません。私はトークをあらかじめ準備していません、しかし、私は歩を進めています、検証しています、従って、もしあなたが私と一緒に詳しく検証できないなら、あなたは先へ進めないでしょう。
それでは、意識のこの全領域に余すことなく気づくことは可能でしょうか、単なるその断面、その部分、その断片ではありません。もし人がその余すことのない全体に気づけるなら、人はいつも―分断的でもなく部分的でもなく―余すことなく文字通り気を付けて機能しています。このことを理解することは重要です、なぜなら、そうすると我々は意識の全領域に余すことなく文字通り気を付けているからです、そして、摩擦は生じないからです。あなたが意識を周辺や境界や中心あるいは表面や深層に分けるときのみ、あなたはそれを分断します。そして、意識の余すことのない全体が機能するとき―それは思考や感情や行動などあらゆるものです―摩擦は全く生じません。つまり、あなたが何かに余すことなく文字通り気を付けているとき、分断は生じません。もしあなたがあの夕日やあの樹木、あるいは婦人のサリーや服装の色彩に余すことなく文字通り気を付けているなら、その中には観察者と観察されるものとしての分断は生じません。何らかの分断があるときのみ、摩擦が生じます。
宜しいでしょうか、頭脳は、断片化するという点で、それ自身の機能や思考をばらばらにしてきた頭脳は、余すことなく全領域に気づくことができるのでしょうか? 私の質問がお分かりでしょうか? 私は明瞭に話していますか? 宜しいでしょうか、私が言ったように、私は前もってトークを準備してきていません、私はそこから何かを引き出しているのではありません。ですから、私は、一歩一歩、話を進めていかなければなりません。私は問うています、意識―それは思考や感情そして行動です、そして、その中には恐れや絶望、野心、競争、苦悩、罪悪感、途轍もない悲しみなどがあります―である生のこの断片的なプロセスに余すことなく気づくことは可能かどうかを。頭脳細胞は、この意識を作り出してきた頭脳細胞は、それ自身を新しくすることができるのでしょうか? それが余すことなく新しくなるときのみ、あなたはそれを余すことなく見ることができます。
宜しいでしょうか、違う言い方をしましょう。最初に、我々が言ったように、何かが消滅するときにのみ、新しい何かが始まります、時間が消滅するときにのみ、新しい生き方が誕生します。宜しいでしょうか、それらの頭脳細胞は、何らかの継続性に馴れています、何らかの習慣や伝統、安全や安心を求めるそれ自身の欲求などによって継続することに馴れています。もし人が自身の思考を検証するなら、人は分かるでしょう、頭脳は、何らかのイデオロギー―それはいつも持続的です、何らかの修正が施されることはあっても―に囚われた頭脳は、そのように機能してきたと分かるでしょう。人はそれを死んでやり過ごすことができますか? 機械的に、反射的に反応するように機能してきた頭脳、動物的な何かを、貪欲や支配欲などそれらの思考や感情を受け継いできた頭脳細胞―昨日の記憶であるそれら全てが消滅するのは可能ですか? 昨日の記憶、数知れない昨日の記憶、そこから思考が生じます、そして、それは今です、そして、昨日を作り上げるそれらの思考―その記憶が完全に消滅することは可能でしょうか? 我々は人間が幾世紀にもわたって収集蓄積してきた技術的、科学的、経済的知識の消滅のことを話しているのではありません―人はそれを消滅させてはなりません。しかし、我々は頭脳細胞が収集してきて、それがものと化している昨日の記憶を死んでやり過ごすことを話しています。そこから思考が生じて、それがエネルギーになり、それが再びものの形を変えて、それが再び未来の思考を条件づけます。
あなたはこれまで何の葛藤もなく、いかなる抑圧もせず、何のコントロールもしないで―それをただ解き放つように―何らかの快楽を死んでやり過ごしたことがありますか? あなたはこれまでそのようにしたことがありますか? あなたはこれまで何らかの快楽を実際に死んでやり過ごしたことがありますか―何の議論もせずに―そうする価値があるのか、そうすべきか、そうすべきではないとか―そのような快楽を維持しようと思い巡らすことなく、そのような快楽を瞬時に死んでやり過ごしたことがありますか? 私はないと思います。もしあなたがそれを試みたことがあるなら、あなたは分かるでしょう、その中にはいかなる摩擦もないと、それはいかなる努力とも無縁であると。それはあなたに快楽をもたらしてきた何かの消滅です、誰かがあなたにそれを諦めるように勧めるからではなく、あなたが快楽の全構造とその意味を見て取るからです。正に見て取ることが、我々が前回ここで会ったとき言ったように、行動です、従って、その行動がその消滅です。
あなたはどのように快楽が生まれるのか分かりますか? 我々はそれを極めて手短に検討しなければなりません、なぜなら、今宵は沢山のことを一緒に話し合うからです。宜しいでしょうか、人は快楽が何らかの欲望から生まれるのが分かります。そして、どのようにして欲望は生まれるのでしょうか? 再び、実際のことです、理論的にではなく、仮説的にではなく、なぜなら、誰かがそれについて何かを話してきているからです、そして、あなたはそれを読んで、記憶して、繰り返してきています、そして、それがあなたの知識の一部になっています、そして、あなたはその知識をあなた自身のもののごとく表現します。あなたはあなたがそれを理解したと考えます、しかし、実際には、あなたは単にあなたが読んできた何かを繰り返しているにすぎません、そして、それには何の価値もありません。しかし、もしあなたが自分自身でそれを発見するなら、そこに、途方もない、間髪を入れない、衝撃が走ります。
どのように欲望は生まれるのでしょうか? あなたが何かを見ます、最初に、あなたは見ます、あの夕日、あの樹木、あの顔、あの車を見ます。そして、あなたがそれを見ると、何らかの感覚が生じます、そして、それに触ります、そうすると何らかの関係が生じます、“それは何と心地よいのだろう!何と美しい顔なのだろう!何と素敵な車なのだろう!”となります。そのように、観察することによって、見ることによって、何らかの感覚が生じます、そして、その感覚から、あなたは見たものに触ろうとします、実際に、あなたは触るか、それとも、そのような心理的所有感覚をあなたは抱きます、そして、その感覚から、欲望が生じます。それは非常にシンプルなことです。そして、そのような欲望が、あの夕日を見ることによって生じると、思考が生じて言います、“何て素晴らしいのか!何て美しいのか!”と。思考がその欲望を持続させます。そして、その欲望を持続するこの思考が快楽になります。あなたはこのことが分かりますか? 私がそう言うからではなく、このことは実際の事実です、もしあなたが観察するなら。あなたは美しい車を見てきました―不幸にも、多くはインド製ではありません―その形やその色、それが搭載する馬力などです。そして、あなたに何らかの欲望が起きます、そうすると、その欲望はそれを所有することに傾きます。そして、あなたはその車についてあれこれ思いをめぐらします、それを所有することを想像します―その中の居心地や、それに乗った自分を誇示することなど―それら全てが快楽をもたらします。そのように、欲望を通じて、思考が快楽を生んで、それを維持します。これは非常にシンプルなことです。性的な記憶やそれについて絶えず考えること―そのイメージやその印象など―それら全てが思考のプロセスです、そして、そこから何らかの快楽が生じます、そして、それをあなたは繰り返し考えることになります。そして、その同じプロセスが恐れや悲しみについても生じます。何かについて絶えず考えることは、快楽や恐れを生じさせます。快楽は―快楽の全構造がその中に含まれる―恐れや悲しみ、欲求不満、苦痛などを意味します。そして、快楽を消滅させるためには、あなたは快楽の全構造を余すことなく見て取る必要があります。その全構造を余すことなく見て取ることは、快楽に余すことなく文字通り気を付けることです。そして、あなたが快楽に余すことなく文字通り気を付けているとき、“私はそれを維持しなければならない、あるいは、私はそれを捨て去らなければならない”と言う観察者はいません。そうすると、それは余すことなく消滅します。
そのように、何らかの出来事の記憶を通して、快楽を収集蓄積してきて、その記憶からそのような出来事を思い描いたり、考えたりする精神や頭脳が快楽の構造に余すことなく文字通り気を付けるとき、快楽を余すことなく消滅させることができます。我々が今話しているとき、どうか見て下さい、もしあなたに可能なら、余すことなく文字通り気を付けて、あの樹木を見て下さい。文字通り気を付けることは精神集中ではありません―精神集中は気に病む馬鹿げた何かです。文字通り気を付けているとき、思考は存在しません、それを強いる何ものも存在しません。あなたがあの樹木に余すことなく文字通り気を付けているとき、そのように文字通り気を付けている状態の中に言葉の入る余地はありません、あなたを強いる何ものもありません、あなたはいかなる模倣とも無縁です、あなたはただその樹木を全身で観察しているだけです―あなたの身体で、あなたの神経で、あなたの目で、あなたの耳で、あなたの精神で、あなたの余すことのないエネルギーで。そして、あなたがそのように行うとき、観察者は全く存在しません、ただ余すことなく文字通り気を付けているだけです。文字通り気を付けていないときにのみ、観察者と観察されるものに分かれます。
宜しいでしょうか、あなたは、あなたがあの樹木に余すことなく文字通り気を付けたように、この意識の領域に余すことなく文字通り気を付けることができますか? 樹木に余すことなく文字通り気を付けることは、その樹木の言語化ではありません、その樹木を言葉にしないことです。あなたが、“私はその樹木が好きです、私はそれが好きではありません”と言うとき、あなたは文字通り気を付けていません。そのように、文字通り気を付けることが生じるのは、あなたが摩擦や努力の性質を理解したときのみです。あなたが文字通り気を付けることを毎日毎日実践することで―それは全くのナンセンスです―自分自身を文字通り気を付けているように強いることはできません。あなたは毎日毎日何かを実践することで精神集中を手にできますが、それは排除のプロセスです。しかし、文字通り気を付けているときには、いかなる実践とも無縁です、あなたは即座に文字通り気を付けています。それは一秒かもしれませんし、それは一時間かもしれません、しかし、それは即座のことです。そして、そのように即座に文字通り気を付けていることは、あなたが快楽の性質、摩擦の性質、精神集中の性質を理解したときに生じます。
そのように、昨日の心理的記憶に余すことなく文字通り気を付けるとき、その記憶は消滅します、そうすると、頭脳細胞や精神は自由になります。つまり、言い方を変えると、生は経験のプロセスです、それは何らかの問題とそれに対する何らかの反応です、そして、その反応は頭脳細胞の条件付けに従います。それは確かです! つまり、あなたはヒンズー教徒、イスラム教徒あるいは他の何かとして条件づけられています。そして、何か問題が起こると、あなたは自然にあなたの条件付けから反応します。その反応が適切でなければ、その経験も同様に適切ではありません。何事であれ、そのような不適切な反応は何らかの記憶として残ります。あなたはこれらのことがお分かりでしょうか? もしあなたが何かを余すことなく生きたなら、それはいかなる痕跡も残しません。その痕跡は記憶です。しかし、もしあなたが部分的に、不完全に生きるなら、もしあなたがそれをその究極にまで突き詰めていないなら、そうすると、その部分的で不適切な反応は記憶である何らかの痕跡を残します、そして、その記憶から、あなたは再び明日の問題に反応します、そして、それが再び記憶を強化するなどします。
そのように、昨日を死んでやり過ごすとき、今日が新しくなります。しかし、ほとんどの我々は、それを死んでやり過ごすのを恐れます、なぜなら、我々は言うからです、“私は明日何が起こるのか分からない”と。そして、死は避けられません。宜しいでしょうか、死は有機組織の死だけではなく、心理的な死をも意味します。もしあなたが完全に生き切っているなら、あなたは毎日死んでいます、従って、あなたは何も恐れません。あなたが心理的に固執するあらゆるものを死んでやり過ごすとき―つまり、あなたの記憶や希望、絶望、自己憐憫など―あなたは復活します。そのように死んでやり過ごすことが再生です。
宜しいでしょうか、ほとんどの我々は死の到来を知っていますが、我々はそれとどう向き合うのかを知りません、従って、我々は輪廻転生のような様々な理論を発明します、つまり、あなたや魂、アートマンなど何であれ、何らかの永遠な何かが次の生でも継続するということです。そして、次の生は現在の生の結果になるでしょう、それが意味するのは、次の生はあなたが現在の生をどう生きるのかに掛かっているということです、あなたの振舞、あなたの考え方、あなたの感じ方、あなたの生き方の全てに関わることです、それは会社へ行って帰宅するだけのことではありません。もしあなたが輪廻転生―つまり、あなたが次の生に生まれ変わること―を信じるなら、その生は現在の生に条件づけられているでしょう。それは明らかです! そのように、もしあなたが輪廻転生を信じるなら、重要なのは今あなたがどう生きるのかです。しかし、あなたはそれを信じません、なぜなら、それはただの理論だからです。しかし、もしあなたが本当にそれを信じるなら、あなたは躍動する、切迫した何かであり、あなたの毎日の立ち居振る舞いは全く異なるものになるでしょう。そのような信仰は単に死の恐れから逃れるための隠れ蓑にすぎず、どのように生きるのかではありません!
そして、関連する別の問題があります、思考は、“私”としての何らかのものと一体化しているのかどうかです、そして、そのような思考は思考として、魂としてではなく、継続するのかどうかです。なぜなら、魂やアートマンは依然として思考の発明だからです、シャンカラがそう言おうと他の誰かがそう言おうと、それは思考の単なる発明です、従って、それには全く根拠がありません。しかし、根拠を有するのは、あなたがこの二十年、四十年、五十年、八十年非常に狭い領域の中、不安や希望、絶望、悲しみ、惨めさ、争いなど苦悩する存在の領域の中を生きてきたという事実です。そして、問題は、そのような思考には何らかの継続性があるのかどうかです、永遠の思考ではありません―永遠の思考というようなものはありません。新しい思考というようなものはありません。思考はいつも古いのです、なぜなら、それは昨日の記憶の反応だからです。
そのように、我々が継続性について話すとき、継続するものは既知です、そして、既知は思考です。そして、我々は、“私”としての既知が絶えず変化を遂げているのかどうかを明らかにする必要があります。有機的に、有機組織や身体はいつも変化しています。しかし、心理的に我々はいつも変化していません、我々には何らかの固定した中心があります―それは記憶です―そこから全ての思考が生じます、そして、我々はその中心を―それは昨日の記憶です―維持したいと思うのです。そして、そのような思考に何らかの継続性があるのかどうかは別の問題であり、我々はそれを今は全く検討するつもりはありません、なぜなら、それは物質的ではないからです、そして、私は精神が行うことが分かるからです―すぐにあなたはあなたの希望を思考の継続性に託します。以前、あなたは希望を永遠の何かや魂やアートマンなどその他の全てに託しました。そして、あなたはあなたの希望をそれに託してきました、なぜなら、あなたは死んでやり過ごすことがどういうことであるのかを決して理解してこなかったからです。しかし、思考に継続性があるなら、そのような思考はいつもそれ自身を修正しています。そして、もしそれが完全に理解されないと、あなたは希望をそれに託すでしょう、アートマンの代わりに。つまり、あなたはあなた自身の特別な、みすぼらしい、取るに足らない思考が継続するのを願うのです!
そのように、我々が話しているのは新しい始まりをもたらす消滅のことです、消滅する何かをやり過ごして新しい何かが始まる消滅のことです。意識は思考や感情そして行動です。記憶や絶望、苦悶、悲しみ、野心、権力、特権など―それら全てがあなたの意識と称するその領域の中です。我々は問うています、意識の全てが余すことなく消滅して、全く新しい領域、新しい次元が生まれるのかどうかを。そして、それはあなたがどのように死んでやり過ごすのかを知るときにのみ、昨日を死んでやり過ごすときにのみ生まれうるのです。我々は問うています、頭脳細胞はその記憶と共に消滅しうるのかどうかを。頭脳細胞にはそれ自身の技術的な継続性があります、そして、我々はその消滅のことを話しているのではなく、収集蓄積された記憶や伝統や恐れの消滅のことを話しているのです。そして、あなたは気づきます、それは、あなたがあなたの行っていることに余すことなく文字通り気を付けているときに消滅しうると。
あなたは瞑想が何なのか知っているでしょうか? 瞑想という言葉には非常な困難が付きまといます、なぜなら、その言葉は様々な偏見によって骨抜きにされているからです。様々な瞑想のシステムがあります、何らかの言葉を毎日繰り返し唱えることなどを実践する人たちがいます、その人たちは何かに精神集中します、その人たちは何らかのメソッドを学びます―それら全てが瞑想と称されます。しかし、それは全く瞑想でも何でもありません、それは何らかの結果を求めて新しいテクニックを学んでいるのです。あなたが機械の操作を学ぶように、あなたは何らかの心理的な機械の操作を学んで、あなたがすでにオリジナルなものとして、究極の至福として確立していた何らかの至福に到達するのです、そのためにあなたは実践するのです。そして、そのような毎日の実践が、究極の至福や何やらに到達することを期待して、瞑想と称されます。その中に、何らかの摩擦や抑圧、分離、精神集中、排除などが生じます、それは文字通り気を付けていることとは何の関係もありません。そして、我々が話している瞑想は、言葉によって骨抜きにされた、あなたの知っている瞑想ではありません。
瞑想は意識の領域に余すことなく気づくことです、それは思考の余すことのない全プロセスを意味します―それは技術を学ぶ思考プロセスだけではなく、語学を学んだり、機械の操作を学んだり、コンピュータの操作を学んだりすることなどだけではなく、それは思考や感情の有機組織でもあります。それら全てに、いかなる選択もすることなく、文字通り気を付けていることが瞑想の状態です。そのような瞑想の状態の中では、頭脳細胞は全く鎮まっていて、いかなる思考も希望も欲望も快楽も思い描きません―それらは全て過去の反応です。頭脳細胞は、意識に―それは思考や感情そして行動です―余すことなく文字通り気を付けているときにのみ、完全に鎮まることができます。そうすると、もしあなたがそこまで歩を進めるなら、あなたは、文字通り気を付けている状態の中に、いかなる反射的反応とも無縁の不動の動の頭脳細胞を見て取るでしょう。
何て素晴らしい夕日でしょう! それを見て下さい! 我々は無言の静寂が何であるのかを知りません。我々はノイズが止んだときの静寂を知るだけです、そして、我々は意識のノイズに部分的に気づくだけです。しかし、我々は、意識のノイズは別にして、無言の静寂が何なのか知りません。我々は、ノイズの消滅ではない、無言の静寂のことを話しています―美や愛のような―それは何かの消滅ではありません。愛は憎しみの消滅ではありません、あるいは欲望の消滅ではありません。愛は欲望や憎しみとは全く異なる何かです。あなたは欲望を抑圧することによっては―文学や聖者たちやその他の全てによって教えられてきたように―愛に出会いません。
あなたがノイズをなくすのは、あなたが静寂を願うからです、しかし、ノイズが止むときに生まれる静寂は無言の静寂では全くありません。昨夜、隣の部屋で結婚式がありました。それはおよそ五時半に始まり十時まで続いて、再び今朝四時半に始まり、九時ごろ終わりました、そして再び午後始まりました。そして、その人たちは、その人たちが音楽と称する凄まじいノイズを作り出していました! 私は、それを聞いていた人たち、それを楽しんでいた人たちを批判しているのではありません。そして、そのノイズが止むと、途方もない静寂に包まれました。そして、それが我々の知る全てです―ノイズが止んだ後の静寂です、思考が止んだ後の静寂です。しかし、それは無言の静寂では全くありません。
無言の静寂は全く異なる何かです―美や愛のように。そして、この無言の静寂は、静かな精神の産物ではありません、全構造を理解して、“後生だから、私を静かにさせてくれ”と言う頭脳細胞の産物ではありません。そうすると、頭脳細胞がそれ自身でその無言の静寂を生むことになりますが、それは無言の静寂ではありません。無言の静寂は、全く異なる何かです。無言の静寂は文字通り気を付けている―観察者が正に観察されるその当のものであり、いかなる摩擦も生じない―結果ではありません―それは別の形の静寂を生みますが、それは無言の静寂ではありません。無言の静寂をあなたは表現できません。あなたは話し手がそれを表現するのを待っています、そして、あなたはそれを何かと比較します、それを解釈します、それを家へ持ち帰って、それをどこかに仕舞っておきます! 無言の静寂は表現できません。表現されうるものは既知のものです、そして、既知から解放されるのは既知を―様々な傷やへつらい、あなたがあなたの妻や夫、あなたの社会、あなたの政治的指導者、あなたの宗教的指導者について築き上げてきたイメージなど―を毎日死んでやり過ごすときにのみ可能です、そうすると頭脳細胞自身が新鮮で若々しく無垢になります。しかし、そのような無垢や新鮮さ、そのような優しさや思いやりの質は愛を生みません。それは美や無言の静寂の質ではありません。もし精神がそのことに気づいていないなら、我々の生はひどく浅薄で空しい、意味のないものになります。
しかし、ノイズの消滅ではないそのような無言の静寂は端緒にすぎません。それは小さな穴を通り抜けて途轍もなく広大な大洋へ、計り知れない、時間とは無縁の状態へ入っていくようなものです。しかし、そのような状態を人は言葉で表現できません。あなたは意識の全構造とその意味を理解する必要があります―その快楽や絶望、それら全てです―そして、頭脳細胞は鎮まる必要があります。そうすると、恐らく、あなたは、誰も与えられない、誰も表現できない、その不可思議に出会うかもしれません。