アウトサイダー

“金柑横

        アウトサイダー

1966年トーク

マドラス 1月5日

クリシュナムルティ かつて、毎朝、弟子たちに説教する人がいて、ある朝、彼が演壇に立つと、鳥がやってきて窓枠に止まり鳴きだしました。そして、しばらくしてから鳥は飛び去りました。そうすると、その賢者は弟子たちに向かって言いました、“今朝の説教は終わりです”と、そして、彼は去ってしまいました。私は私たちも同じでありたいと思います!(クリシュナムルティのトークの前に鳥が鳴きだしました、そして、彼は笑ってそれを見ていました)
 私は、今朝、相当に重要であると思われること話したいと思います。そして、その重要性は、言語的な意思疎通ではなく、我々一人ひとりが自分自身でその真実を発見し検討し理解できることです。私が思うに、人は単なる説明に満足しがちです、話される言葉を真に受けがちです、そして、人は何らかの知識を獲得したと感じて、あるいは、自分自身理解していると感じて意気揚々と立ち去りがちです。人は他の誰かから理解を手にすることはできません、なぜなら、何かを理解することや、その真理は、自分自身で検討し、探究して感じ取るものだからです。従って、言語的な意思疎通は何らかの意味や、ある程度の深さを伝えるために重要になるだけです。しかし、人は言われていることを自分自身で非常に事細かく検討する必要があります、受け入れたり拒絶したりしないで、詳細に検討する必要があります。そして、本当に深く検討するためには、人は文字通り気を付ける必要があります。そして、文字通り気を付けることは最も難しいことの一つのように思われます、なぜなら、我々が文字通り気を付けようとするとき、我々は気が散るからです、思考が邪魔します、そこで、我々は思考に抵抗します、そうすると気が散ります。しかし、実際には、気が散ることは全くありえません。我々が精神集中しようとするときに我々の気が散ると考えるのは、気を散らすとあなたが考えるものに、あなたが抵抗していることを意味するだけです、実際には、気が散ることはありえません。あなたの思考が他のことに気を取られるとき、正にその気を取られている思考に文字通り気を付けて下さい、それを気が散るとは言わないで下さい。
 なぜなら、文字通り気を付けることは、大いなるエネルギーを意味します。余すことなく文字通り気を付けることは、余すことのないエネルギーを要します。宜しいでしょうか、メモを取らないで耳を傾けるようにしていただけませんか? なぜなら、あなたがメモを取っているとき、あなたは耳を傾けていないからです、あなたは文字通り気を付けていないからです。文字通り気を付けるのは、今です、あなたが家に帰って、そのメモを読むときではありません。これは講話ではありません、話し手は講義をする教授ではありません、むしろ、我々は生きることのこの複雑な問題を一緒に理解しようとしています。そして、それを理解するためには、人は文字通り気を付ける必要があります、人は理解するために余すことなく文字通り気を付ける必要があります。そして、あなたはあなたがメモを取っていると理解できません、文字通り気を付けて耳を傾けることができません。そして、あなたが夕日や樹木を見るとき、あるいは、あの鳥に耳を澄ますとき、それは気が散ることではありません、それは、この余すことなく文字通り気を付けている一部です。もしあなたが単にその鳥の出すノイズに抵抗して心乱されるなら、あるいは、もしあなたが言われていることに注意を集中したくて、あの夕日を見たくないなら、あなたはそうすると単に精神集中しているにすぎません、従って、あなたは抵抗しています。一方、もしあなたがあの鳥に耳を傾けるなら、あの夕日を見守るなら、通りの騒音にも耳をやるなら、木の葉を照らす夕日にも目をやるなら、それは余すことなく文字通り気を付けている一部です、そのように、それは気が散ることではありません。余すことなく文字通り気を付けるにはエネルギーを要します。そして、それが、今宵、私の議論しようとすることです。
 エネルギーは力です。非常に僅かの人しか我々自身の中に根本的な変質をもたらすエネルギーを手にしていません。力、エネルギー、駆り立てる何か、熱気、深い意思―非常に僅かの人しかそれを手にしていません。そして、そのようなエネルギー―この途轍もなく力強い何か、熱気、駆り立てる何か、力などを内に秘めたエネルギー―を集めるために、手にするために、我々は何らかの形の習慣が必要であると考えます―何らかの立ち居振る舞いや倫理の確立、感覚に対する何らかの抵抗などです、それらを我々は極めてよく知っています。我々は長い間生きてきて、何世代も生きてきて、何千年も生きてきて、我々はいまだ我々の生き方や我々の考え方や感じ方を変質させるエネルギーを見つけていません。そして、私は、もし宜しければ、この問題を検討したいと思います、なぜなら、これが我々の必要とするものだと私には思われるからです、単なる刺激とは違う、思考に依存しない、思考によって作られたのではない異なる種類のエネルギー、熱気です。
 そして、このエネルギーと出会うためには、我々は惰性を理解しなければなりません、このエネルギーをどのように生み出すのかではなく、我々の誰の中にもある惰性を理解しなければなりません。私が意味する惰性は、何らかの行動を起こすために本来備わっている力―内在する力―を欠く惰性のことです。人が自分自身を観察すると、深い惰性の全領域が分かります。私は怠惰や無精のことを言っているではありません、それらとは全く違う何かです。あなたは身体的に無精になりえますが、それは惰性の働きではないかもしれません。あなたは疲れているかもしれません、無精かもしれません、気が進まないかもしれません―それは惰性とは全く異なります。あなたは自分に鞭を打って行動を起こせます、無精にならないように、怠惰にならないように自分を鞭打てます、そして、あなたは朝早く起きるように、何かを規則正しく行うように、何らかの慣習などに従うように自身を律することができます。しかし、それは我々の話している惰性ではありません。それらは容易に理解されて対処できます。我々は少し後でこのことを検討します、もし時間が許すなら。
 我々の関心は我々の誰の中にもあるこの惰性です、それに向き合って何かを行うのは我々の中の非常に僅かの人たちだけです。我々は無精に関して何をすべきか知っています、我々は鈍い精神に関して何をすべきか知っています。あなたはそれを鋭くできます、それに磨きをかけることができます、それについて自由に議論できます、しかし、それは我々の話していることではありません。我々は行動を起こすための力を欠く惰性、我々の誰の中にもある、深いところにある惰性のこの問題を検討したいと思います。この惰性は本質的に時間の結果です。この惰性は収集蓄積の結果です。そして、収集蓄積されているのは時間です。人は情報や知識や経験を収集するだけではなく、その経験や知識や情報に従って行動するためにも時間が必要です。
 そのように、ほとんどの我々があまり意識しないこの収集蓄積するプロセスが進行しています。無意識的にも意識的にも、この収集蓄積するプロセスがいつも進行しています。あなたが私に耳を傾けるとき、あなたは何かを収集しています、あなたは何かを受け入れています、収集蓄積しています。そのような正に収集蓄積が惰性につながります。あなたはそれを見て取ります、もしあなたがこのことを少し注意して検討するなら、あなたは見て取ります。私は何らかの技術を学びます、そして、それには時計的時間を要します、一日あるいは一年を要します、そして、私はそれを蓄えます。そして、その知識に従って、その技術に従って、私は機能します。しかし、同様に、より深い次元で、この収集蓄積するプロセスが知識として、伝統として、私自身の経験として、私が書物の中で得てきたものなどとして進行しています。そしてまた私が全く意識していないその収集蓄積するプロセスが進行してもいます。
 どうか、もし宜しければ、単に言葉だけに耳を傾けないで下さい、言われていることを実際に経験してみて下さい、あなたの中でこのプロセスが進行するのを実際に見て下さい。
 宜しいでしょうか! もしあなたがヒンズー教徒なら、あなたは神について、あれやこれやについて途轍もない知識を収集蓄積してきました。あなたはそれを様々な理由で受け入れてきました、明らかに、それは恐れや順応性や世論などのせいです。あなたはそれを受け入れてきました、あなたは意識的にも無意識的にも―両者の間に分断はなく、それは一つの働きです―それを受け入れてきて、それをいま手にしています。そのような収集蓄積は惰性です、そして、その惰性は時間です。収集蓄積するためには、あなたは時間を必要とします、そうでなければ、あなたは収集できません。どうか言わないで下さい、“収集蓄積しないためには私はどうすればよいのですか”と。あなたが、“収集蓄積しないためには私はどうすればよいのですか”と言うとき、あなたは再び収集蓄積しています、必然的に、あなたはそうしています。宜しいでしょうか、このことを理解するためには注意深く検討してよく考えてみる必要があります。
 このような惰性は、本来備わっている活動の力を欠いています。本来備わっている活動とは、人が知識として、観念として、傾向として、気質として、能力として、あるいは才能や素質として収集蓄積してきたものから行動しない働きのことです。本質的に、何らかの才能や素質や知識は惰性です、そして、我々はこの惰性を様々な形の抵抗によって強めます。私は何らかの形の変化に抵抗します、外面的にも内面的にも、そして、私は何らかの危険を恐れるなどして、それに抵抗します―人はそれを詳細に検討する必要はありません。
 そのように、収集蓄積や抵抗そして何らかの活動に献身的になることによって惰性が生じます。どうか、このことを少しだけでも理解して下さい。惰性、それは自ら行動する力の欠如です、そして、それはそれが何らかの動機を抱えている結果でもあります。違いますか? これは極めてシンプルなことです。そのように、この惰性は何らかの動機によって築かれます、作られます、知識や情報や伝統として収集蓄積されることによって築かれます―何らかの技術として築かれます、何らかの一連の活動に専念することによって築かれます。共産主義者や社会主義者もそうなら、何らかの方式で瞑想する特異なタイプの人もそうです、人がそのように何かに献身的になることによって、そのような献身的行為が惰性を強めます。人はすこぶる外交的で、至る所に足を運んで、あらゆる改革を遂行し、あらゆる種類のことを行うかもしれませんが、それは依然として惰性を強める活動です。そして、惰性は様々な抵抗によって築かれます、つまり、私は好きです、私は好きではありません、私はあなたが好きです、私はあなたが好きではありません、これは楽しい、これは楽しくありません。そのように、何かに対する順応性や何らかの活動などによって築かれる惰性があります。あなたはこのようなことがあなたの中で起こるのが分かります。私は何か空想的なことを言っているのではありません。このようなことは我々の中でいつも起こっていることです。
 そのように、我々は様々な形の知識や献身、活動、動機、抵抗などによって、そのような惰性の分野を広げています。そして、このことを意識して、あなたは言います、“私はそうしてはいけない、私はいかなる活動にも献身的にならない”、あるいは、“私は動機を持たないようにしよう”、あるいは、“私は抵抗しないようにしよう”と。どうか、このことを理解して下さい。あなたがこう言うや否や、“私はそうしません”あるいは“私はそうすべきです”、あなたは惰性を強めているだけです。それは極めて明らかです、つまり、ポジティブなプロセスは惰性の強化です、ネガティブなプロセスと同様です。そのように、我々は、我々の全ての生、我々の全ての活動、我々の全ての考え方がこの惰性を強めているというこの事実を理解する必要があります。どうか、このことを理解して下さい。あなたは何らかの理論を受け入れているのではありません、あなたはあなた自身の意見で何らかの観念と論争しているのではありません。これは事実です、心理的な事実です、もしあなたが自分自身を非常に深く見るなら、あなたはこのことを観察できます。もしあなたがそのように見ることができないなら、同意したり同意しなかったりしないで、それを検討して下さい。
 そうすると、人は何をしたらよいのでしょうか? どうすればこの惰性は打破されるのでしょうか? 最初に、私はそれを意識しなければなりません。私は言えません、“私は惰性的です”と、それは何の意味もありません。あなたはそれを無精と解釈するでしょう、あるいは、あなたはそれを身体的活動の不足とか精神的追究や刺激の不足と解釈するでしょう。それは我々の話していることではありません。我々はもっと深い次元の何かのことを話しています、つまり、全意識は惰性であるということです、なぜなら、全意識は模倣や順応性、受容、拒絶、伝統、収集などに基づいているからです、そして、知識や技術あるいは経験として、そのように収集したものから精神は活動するからです。何万年ものプロパガンダが意識です。この途方もない状態を悟る精神―それは何をすればよいのでしょうか?
 このような惰性に気づいている精神は、全意識が本質的に惰性であると言葉ではなく実際に知っている精神は、何をすればよいのでしょうか? それはそれ自身が思い描いた領域の中で活動できます、それはそれ自身の概念や知識、情報、伝統、収集された経験などの領域の中で活動できます。そのような収集―それは意識です―は本質的に惰性です。違いますか? どうか、言われていることを受け入れないで下さい。もしあなたがそれを非常に深く見るなら、あなたはそうであると分かるでしょう。あなたは発明するかもしれません、あなたは惰性を超えた精神の状態があると思いつくかもしれません―神やあれやこれを―しかし、それは依然としてそのような意識の一部です。そうすると、人は何をすればよいのでしょうか? 人は何かできるでしょうか?
 宜しいでしょうか、何をすべきで何をすべきでないのかを明らかにすることが瞑想です。今、私はそれを検討しようと思います。最初に、その瞑想という言葉は非常に誤解されて骨抜きにされています。特にこの国やこの国の東方においてそうです、その言葉はあらゆる種類の反応を呼び起こします。あなたはすぐに背筋を伸ばして座ります―私はそうするのを見ています。あなたは少し注意します、あなたはあなたの伝統に従って反応します。あるいは、あなたは何年も実践してきました―その実践が何であろうと―あなたはマントラや何らかの文句について考えてきました、そして、あなたはそれらを繰り返し行うなどそれら全てのことを行っています、そして、正に瞑想の話になると、それら全てが持ち上がって、あなたはそのような考えに囚われます。話し手にとって、それは瞑想でも何でもありません、それは一つの自己催眠です、それはヒンズー教徒や仏教徒あるいはキリスト教徒として条件づけられたあなたの精神が思い描いたものをあなたが正に崇拝しているのです、そして、あなたはその驚くべき―キリストや仏陀やあなた自身の神々やその他の全てを見るという―ビジョンに囚われるのです。しかし、それは瞑想では全くありません。あなたは何らかの絵画の前に、いつまでも座ることができます、しかし、あなたはその絵画を超えた何ものも見つけることは決してないでしょう。そして、あなたは何かを発明できます。
 宜しいでしょうか、こう言う話があります、古老が一人で樹木の下に座っていると、弟子あるいは求道者がやって来て、彼の前に座りました、足を組んで背筋を伸ばすなどして座りました。しばらくして古老が言います、“友よ、あなたは何をしているのですか?”と。弟子は言います、“私は高位の意識に到達しようとしています”と。そして古老は言います、“続けなさい”と。しばらくすると、古老は石を二つ手に持ち、それらを擦って音を出します。そうすると弟子は言います、“古老よ、あなたは何をしているのですか?”と。古老は答えます、“私は二つの石を擦って鏡を作ろうとしています”と。そうすると弟子は笑って言います、“古老よ、あなたが千年そうやっても、それは鏡にはならないでしょう”と。そうすると古老は言います、“あなたは千年そのように座っていられます!”と。
 そのように、瞑想は全く異なる何かです。もしあなたがそれを検討するなら、あなたは自然にあなたの全ての瞑想の概念を捨てるはずです、あなたの全ての方式、あなたの実践、あなたの規律、あなたの精神集中を捨てるはずです、なぜなら、あなたは全く新しい何かの領域に入っていくからです。しかし、あなたの実践やビジョンや規律は全て収集蓄積された活動の結果です、従って、それらは本質的により深い惰性につながります。そうすると、我々の関心は、精神は何をすればよいのでしょうか、ということになります、それはこの惰性に気づいています、それは惰性がどのように生ずるのか分かっています。それでは、それは何かできるのでしょうか? 精神のいかなる活動も依然として意識であるこの惰性の結果であると分かるとき、そのような精神は、どのようにして余すことなく鎮まりながら、余すことなく気づくのでしょうか? 質問がお分かりでしょうか? つまり、人は自分自身の中にこの惰性の領域を深く見て取るのです。そして、人は悟ります、頭脳のいかなる活動も―いかなる活動、あらゆる分野のいかなる働きも―依然として意識の領域の中であると、従って、それは模倣的であり、収集蓄積的であると、従って、それは惰性を強めると人は悟ります。そして、人はまた同じように悟ります、そのような惰性を強めないようにするためのいかなる実践もありえないと、そして、人はこう言えないと、“私は惰性的ではなくなろう”、それは同じことのぶり返しになります。そこで、人は何が求められているのかを見て取ります、即ち、それが“不動の動”であると見て取ります。
 それでは、どのようにして精神は鎮まるのでしょうか? 私が“どのように”という言葉を使うとき、それは何らかのメソッドやシステムではありません。私は問うています、精神は―頭脳もそうです―余すことなく気づいていて余すことなく鎮まることは可能かと。頭脳は時間の結果です、あらゆる収集蓄積された知識や情報や理由付けや条件付けと共に時間の結果です。そして、頭脳は、あなたがそれをコントロールするために、とても素早く反応します、なぜなら、それはそう反応するように何世紀にもわたって訓練されてきたからです。そのように、頭脳細胞は精神が余すことなく鎮まるためには鎮まる必要があります。あなたはこの問題の難しさが分かるでしょうか? 言わないで下さい、“私は自分自身をねじ伏せます、私は私の思考をコントロールします”と―それはとても馬鹿げていて、とても子供じみています、それは意味をなしません。
 そのように、人は意識のあらゆる分野のあらゆる次元のあらゆる活動が―意識的であれ無意識的であれ―惰性のこの量、この分野、この領域を強めると分かります、従って、精神は余すことなく鎮まる必要があります、頭脳も鎮まる必要があります。そして、それらが余すことなく鎮まるときにのみ惰性ではない活動が生まれます。しかし、もしあなたが“私は私の精神を鎮めます”と言って、あらゆる種類のトリックを実践するなら、薬物に手を出すなら、あらゆる種類のことを実践して行うなら、あなたは依然としてその惰性の領域の中で何かを作り上げています。精神が―当然にも、頭脳や身体を含めて―余すことなく鎮まっているときにのみ、正に惰性ではない働きが生まれます。明らかに、無言の静寂は意識の領域の外です、そして、そのような無言の静寂は、意識や思考、欲望、動機、抵抗、実践、人が弄ぶ何らかのトリックなどによって生み出されるのではありません。あなたはこれらのことがお分かりでしょうか? そのように、そのような無言の静寂は、それらとは全く別の何かです、そして、そのような無言の静寂は、頭脳や精神がその中のいかなる活動も惰性を強めていると悟るときにのみ生まれうるだけです。
 そのように、瞑想は何らかの伝統ではありません、それはそれら全てのナンセンスとは何の関係もありません。私はそれをナンセンスと言います、なぜなら、大人なら誰でも通常の、伝統的に受け入れられている瞑想に含まれる基本的な事実を見て取れます、それは自己催眠であり、何かを繰り返し行う習慣です、従って、精神が鈍く、愚かで、醜くなります。我々はそのような瞑想のことを言っているのではありません。我々はそれとは全く異なる何かである瞑想のことを話しています、そして、その瞑想の中には、大いなる喜びや途轍もない歓喜や全く新しい状態が存在します。そして、それはただ生まれうるだけであり、探し求められうるものではありません―あなたはそれを探し求めることはできません、あなたはそれを追究することはできません、あなたはそれを問うことはできません、“どのようにして私はそれを手にするのでしょうか?”と。それらは全て意味をなしません。瞑想は、そうすると、意識の全プロセスを理解すること、それに気づくことであり、そして、それについて何もしないことです―それは過去を瞬時に死んでやり過ごすことを意味します。
 この死の問題を少し検討させて下さい。人は決して死を理解してきませんでした、人はそれを丁重に扱ってきました。人は死ぬために生きてきました、人は生きることよりも死を重要視してきました。文化はそのようにしてきました、社会はそのようにしてきました。そして、人々は死から逃れる様々な方法を手にしています、輪廻転生や復活、不死などあらゆる種類の方法があります。輪廻転生を信じる人々―それが事実であってもなくても―もしその人たちが本当にそれを信じるなら、その人たちは明らかに今―明日ではなく―どんな生き方をしているのかに興味を持つでしょう。もしあなたが今正しい生活をしているなら、途轍もなく充実した生活を送っているなら、明日は存在しません、そして、もし何らかの明日があるなら、それは戯れ三昧の生になります。我々は輪廻転生も他の何かも信じません、しかし、我々はそれらの言葉を弄んでいます。というのは、もし我々が本当に信じるなら、あらゆる言葉や思考や行いなどあらゆるものが今重要になるからです。そのように、人はこの死という途方もない現象を決して理解してきませんでした。物理的な死のことではありません、私はそのことを言っているのではありません、それは明らかに起こります、科学者たちが寿命を延ばそうとしているけれども、人間の寿命は恐らく限りなく伸ばせるとその人たちは言うけれども。そうなると、我々は我々の惨めさや取るに足りなさや満たされない野心、この先何百年も会社へ行くなどのことを果てしなく続けることになります。
 そして、我々は死と向き合う様々な方法や手段を手にしています、つまり、それを合理化したり、それから逃げたり、何らかの信仰や教条、希望などその他の全てを手にしていたりします。しかし、我々はそれを決して理解してきませんでした、我々は死の意味する何かに触れてきませんでした。もし我々がこの現象を心理的に理解しないなら―身体的にではなく―我々は無言の余すことない静寂から生まれる新しい活動の感覚を決して理解できません。お分かりでしょうか? それが、人の、人が知るあらゆるもの―意識や過去や時間の収集蓄積された結果―を死んでやり過ごす必要がある理由です。なぜなら、死の中にのみ、余すことない死の中にのみ、新しい何かが生まれるからです、その中にのみ異なる種類の生を生きる無言の余すことない静寂が生まれるからです。私はあなたを催眠にかけているのではありません。どうか文字通り気を付けて耳を傾けて下さい。余すことない死が意味するのは、人は―人が収集蓄積してきた何かをではなく、それは比較的簡単です―死んでやり過ごして、そのために、何もその無言の余すことない静寂の中に入っていかないことはありえますか、ということです。お分かりでしょうか?
 宜しいでしょうか、この許すという全問題が生じます。私は思います、許すことは何か本質的に誤りであると。どうか、私が言い終わるまで耳を傾けて下さい。あなたは傷つきます、侮辱されます。私はそのことをよく検討してみて言います、“私はその人を許します”と。しかし、もしあなたが全く傷つかないなら、許すことは起きません。お分かりでしょうか? それは、あなたが自分自身の周りに壁を築いていて何も通さないことを意味しません―ほとんどの人がいずれにしてもそうします。しかし、私が言っているのは、あなたがとても生き生きしていて、とても鋭敏で、とても明瞭なので、何も入ってこないということです―あなたは何かを蓄えておく必要がありません、あなたは何も検討する必要がありません、ですから、あなたは許しや思いやりとして行動を起こす必要がありません、何らかの観念に基づいて行動を起こす必要がありません。お分かりでしょうか?
 そのように、過去を死んでやり過ごすことは、違いますか、過去が消滅するだけではなく、現在もそこに入ってこなくて、収集蓄積せず、意識や惰性を生じさせないことを意味します。あなたがこれらのことを理解するのかどうか私は知りません。宜しいでしょうか! 途轍もない光には影がありません、それは明瞭です。そのような明瞭さから生まれる行動は、混乱や収集蓄積などその他の全てから生じる行動とは全く異なります。そのように、我々はあらゆる既知を死んでやり過ごして、光の中で機能すること―会社へ行くなどのこと―を話しています、そのように、既知から解放されて機能することを話しています。
 宜しいでしょうか! あなたは何らかの快楽を死んでやり過ごすことができますか―それを議論するのでもコントロールするのでも抑圧するのでもありません、ただそれを死んでやり過ごすのです。あなたは何かが好きです、そして、いかなる議論とも無縁に、いかなる思考とも無縁に、いかなるお喋りもせずに、ただそれを死んでやり過ごすのです、ただそれが脱落するのです。宜しいでしょうか、あなたがそのように行うと、異なる質の精神が生じます。あなたがそのように行ったことがあるのかどうか私は知りません。それは根も葉もなく難しい何かではありません―それはいかなる動機とも無縁に何かを手放すことです。あなたが何かを非常に明瞭に見るとき、そのように見て取ることが、そのような閃きが光を生みます、そして、その光が行動します―“あなたが判断する”のでも“あなたが判断しない”のでもありません。あなたが何かを非常に明瞭に見て取るとき、思考に促された行動とは全く異なる行動が生まれます。
 そのように、我々は、人が経験してきたもの、知っているもの、収集蓄積してきたものを死んでやり過ごして、精神が新鮮になること、精神が若くなることを話しています。なぜなら、非常に若い精神のみが無言になりうるからです、死んだ精神ではありません、古い精神ではありません。科学者たちは、子供は生まれたときすでに条件づけられているなどその類の全てのことを言いますが、私は“若い”という言葉を違う意味で使っています。
 そのように、無言の静寂、瞑想そして死は密接に関連しています。もし昨日を死んでやり過ごすのでないなら、無言の静寂は生まれません。そして、収集蓄積的ではない行動には、従って、惰性的ではない行動には、無言の静寂が必要です、絶対になければなりません。あなたがあなたの収集蓄積してきたものを失うことになるとき、死は醜く恐ろしいものになります。しかし、もしあなたがいかなる収集蓄積とも無縁のとき―生涯を通じて、これから先も―そうなるとあなたが死と称するものは存在しません、そうすると、生きることが死ぬことになります。その二つは分離していません。
 我々が知っている生は惨めで混乱や騒動、苦悩、努力などであり、時折、美や愛や喜びを束の間垣間見る生です。そして、それは惰性的で、自ら新しい行動を起こせないこの意識の結果です。新しい生、新しい生き方を見つけようとする人は、この途方もない無言の静寂の質を探究して手にしなければなりません。そして、いかなる議論とも無縁に、いかなる動機とも無縁に、いかなる見返りも期待せず、過去を死んでやり過ごすときにのみ、無言の静寂が生まれます。この全プロセスが瞑想です。それは途方もない精神の緊張をもたらします、そして、その中には一点の曇りもありません、光の当たらないところはどこにもありません、つまり、あなたが触れないところはどこにもありません。
 そのように、瞑想は途方もない何かです、それはそれ自体が途轍もない喜びです。というのは、そうすると、その中に無言の静寂が生まれるからです、そして、それはそれ自体が何らかの活動です、それは無言の静寂を内に含む活動です。そうすると、生が、毎日の生が、無言の静寂から活動します、それは知識的活動ではありません―技術的知識は除きます。そして、それが正に人の出会いたいと願う唯一の変質です。そうでないと、我々は全く意味のない生を送ります、悲しみや悲惨や混乱を抱えた生を送ります。