クリシュナムルティ もし宜しければ、我々は我々が先日話していたことを続けたいと思います。我々は言いました、人間は、有史以来、記憶に残らないほど戦争をしてきて、人間は外面的にも内面的にも平和を全く手にしていないと。戦争が世界のどこかでいつも起きています―人々がナショナリティなどの名目で殺し合っています。そして、我々は戦争を外面的にも内面的にも我々の生き方として受け入れてきました。内面的な争いは外面的なそれよりもずっと複雑です。そして、人間はこの問題を全く解決できないできました。様々な宗教が何世紀にもわたって平和を説いてきました―“殺すな”と。いかなる宗教も戦争にはお手上げでした。そして、人間として―個人としてではなく―我々はこの問題に向き合ってきませんでした、そして、我々はそれが余すことなく解決できうるのかどうかを見てみる必要があります。
私は我々が個人と人間を区別する必要があると思います。個人は特定の場所に居住する存在であり、その場所に特有の慣習や習慣や伝統などを抱えています―その場所特有の地理的そして宗教的条件づけなどを抱えています。しかし、人間はその固有の条件づけや恐れや教条などを抱えたまま全世界に属している存在です。そのように、我々は人間が―インドに住んでいようと、ロシアや中国やアメリカに住んでいようと―この問題を解決できてこなかったことが分かります。そして、これは大きな問題です、我々の誰もが、人間として、解決しなければならない大きな問題です。
問題を解決するためには、人はその問題を非常に明瞭に見なければなりません。明瞭性と観察が必要です。観察するためには明瞭性と光がなければなりません―人口の光や日の光です。物理的に、もしあなたが木の葉を明瞭に見ようとするなら、あなたには光が必要です、そして、あなたはそれを目で観察しなければなりません。木の葉を客観的に観察するのは―光が与えられれば、それが人工の光であろうとそうでなかろうと―極めて簡単です、しかし、観察するのに、同じように明瞭性を要するあなたの内面にあなたが向き合うとき、それはずっと複雑になります。我々は人間の全現象を観察したいと思うかもしれません、その悲しみや惨めさ、その果てしない葛藤や欲望、絶望、欲求不満などの―機械的な問題だけではなく人間的な問題も含めた―山積する問題です。ここでも、人が人間存在のメカニズムを見て取るためには、何らかの明瞭性を要します、それは光です。そして、観察するためには、いかなる選択も無用です。あなたが何かを非常に明瞭に見るとき―あなたがこのマイクロホンやあの樹木やあなたの隣に座っている人を見るように―いかなる選択も無用です、いかなる葛藤も無用です。内にも外にも、何らかの争いが起こるのは、我々が明瞭に見ていないときです、我々の偏った見方や我々のナショナリティや我々自身に特有な傾向などが明瞭性を曇らせるのです、光を遮るのです。そして、光があるとあなたは観察できます。
観察と光は切り離せません、そうでないと、あなたは見て取ることができません。もし光が十分にないなら、あなたはあの樹木を見ることができません、その幹やその側面、その性質、その曲線、その美やその質を見て取ることができません。そして、あなたは文字通り気を付けて観察しなければなりません。あなたはその幹を何となく見て通り過ぎるかもしれません。しかし、あなたは文字通り気を付けて、愛情をもって、優しく、それを詳細に見て観察する必要があります―そのときのみ、あなたは観察できます。
そうすると、明瞭な観察にはいかなる選択も無用です。我々はこのことを非常に明瞭に理解しなければならないと私は思います、なぜなら、我々は大いなる観察を要する、余すことなく気づき、見て取り、耳を傾けなければならない問題や事柄を検討しようとしているからです。我々はいつも現象を扱います、戦争がそうです、それは現象です。そして、我々は我々がその原因を検証したり理解したりすれば、我々はその現象を理解すると考えます。そのように、我々は現象と原因の間を絶えず行き来して揺れ動いています、そして、我々はその原因にどう対処したらよいのか分かりません、数知れない障害や何らかの影響が行動を阻みます。
そのように、我々の問題は非常にシンプルです、つまり、非常に明瞭に見て取るためには、大いなる光を必要とするということです、そして、その光は観察を抜きにしては生じません、それはあなたがあなたの思考や感情の働きを詳細に見て取るときに生まれます。そして、明瞭に見て取るためには、いかなる葛藤もいかなる選択もあってはなりません。
なぜなら、我々は戦争を外面的にも内面的にも終わらせる生き方を見つける必要があるからです。そして、奇妙な事実あるいは現象は、何千年にもわたって、“傷つけるな、殺すな、優しくあれ、非暴力であれ”と説いてきたこの国にあって、正しいと思うことのために―それは“殺すな”ということです―敢然と立ち上がる人が一人もいないということです、世の流れに抗して立ち上がる人のことです、そのためには牢に繋がれもしますし、撃たれもしますという人のことです。どうか、そのことを考えて下さい、そうすると、あなたは途方もないことが分かるでしょう、あなた方の誰も“私は殺しません”と言わなかったことが白日の下に露わになるでしょう―仲間内でこう囁くのではありません、“戦争はいけないことだ、人は何をすれば良いのか”と、そうではなく、声高に叫ぶことです、そして、そのためには牢に繋がれもすれば撃たれて死にもする人のことです! そうするとあなたは言うでしょう、“それで何が解決するのか”と。それは何も解決しません、しかし、少なくとも、あなたは相応の振舞をしています―あなたの行為は、そうすると、愛情や愛に促された行為です、何らかの観念に基づく行為ではありません。どうか、このことを時間のあるときによく考えて見て下さい―なぜあなたはあなたが心の中で感じたことのために立ち上がろうとしないのかを。あなたの経典、あなたの文化、あらゆるものが言ってきました、“優しくあれ、人を殺すな”と。それが指し示すのは、違いますか、我々は言葉や観念によって生きているということです。しかし、言葉や説明は事実ではありません。事実は内面的な争いと物理的な戦争です。有史以来、我々は、毎年、二つ半の戦争を経験してきています。それを最後の戦争にしてくれと最初に叫んで願ってきたのは女性のはずです、そして、我々は依然として戦争を続けています。ここ南部にいて、あなたは完全に安全であると感じて言うかもしれません、“北部の連中に戦わせておこう”あるいは“ベトナムの連中に戦わせておこう”と―あなたが安全である限り、そう言います。しかし、これはあなたの問題であり、人間の問題です、人間の精神と心の中に、どのようにして変化をもたらすのかの問題です。
我々が言っていたように、この問題は、他のあらゆる問題と同様に、その現象と原因を伴うこの問題は、我々が、異なる領域、全く異なる分野に入っていかなければ決して解決されません。お分かりでしょうか? 内面的に、人間は、このいつ終わるとも知れない苦しみや争い、惨めさなどの波に飲み込まれてきました、そして、人間は、いつも、それを現在との関係の中で、社会的、環境的、宗教的条件づけとの関連の中で解決しようとしてきました。人間はいつも現象を扱ってきました、あるいは、原因を発見しようと努めてきました、しかし、それは何らかの抵抗を意味します、そして、あなたが抵抗するとき、依然として何らかの争いが生じます。
そのように、あらゆる人間が抱える問題は―その現象と原因と共に―もし人間一人ひとりが全く異なる次元に入っていかなければ、異なる問いかけをしなければ、解決されません。そして、それが正に我々の提案することです。我々は戦争が起こっているのを知っています。我々は知っています、主権国家が存在する以上、政治家たちや地理的分断、軍隊、ナショナリズム、宗教的対立―イスラム教、ヒンズー教、これやあれ―などがある限り、あなたは戦争を続けるでしょう、たとえコンピュータが導入されて、あなたにこう言っても、“それを行ってはいけない、あなたの国のために他の誰かを殺しても、それはもはや何の利益にもならない”と。コンピュータや人工頭脳は、あなたのすべきことやすべきではないことを指し示そうとします、そして、あなたの行動は機械が指示するそれとは全く異なります。
そのように、我々の問題はこうです、それら全ての問題を全く異なる領域から、異なる分野から、異なる次元から見て、生きて、理解することは可能かということです。どうか、何らかの結論を出さないで下さい、つまり、神であり、自己に内在する何かであり、高位の自己あるいはアートマンなどです。それら全ての言葉には何の意味もありません! なぜなら、あなたはそれらの言葉に何千年も魅了されてきて、あなたのそれら全ての経典があなたにそれらについて語ってきましたが、それでもあなたは、人間として、葛藤していて、惨めで、あなたは内面的にも外面的にも戦っているからです。内面の戦いとは、何らかの競争であり欲望や嫉妬であり、もっと手に入れようとすることなどです。その戦いは、あなたの中でいつ終わるとも知れず続きます。そして、あなたは、それらの原因を明らかにすることで、それらの原因を運よく見つけることを期待して―共産主義者的な方法や社会主義者的な方法、宗教的方式などで―それらの問題、それらの現象に答えようと努めます。しかし、事実は、人間は、恐らく一人か二人を除いて、争いの問題を決して解決してきませんでした。
そして、この問題を理解するために、我々は異なる精神を持たなければなりません―このかび臭い死んだ精神ではありません。精神はいつも現象について精力的です、現象について答えて言います、それは問題を解決したと。我々には新しい精神が必要です、何かを見て取る精神です、それは光があるときにのみ見て取ることができます、それは争いの痕跡が、意識的にも無意識的にも、どこにもない精神を意味します。なぜなら、闇をもたらすのは正にこの争いだからです、その精神は、観察のためのあなたの知的能力とは違います。あなた方はみな非常に賢い観察者です! あなたは戦争の原因が何か知っています、あなたはあなた自身の内面的な葛藤の原因が何か知っています。それは、知的に観察するなら非常にシンプルです。しかし、行動は知性からは生まれません。行動は全く異なる次元から生まれます。そして、我々は行動を起こさなければなりません。我々は、我々がこのナショナリズムや戦争、争い、競争、欲望、嫉妬、悲しみなどを抱えていると踏み出せません。宜しいでしょうか、それら全てが何世紀にもわたって続いてきています。コンピュータが、骨の折れる人間のあらゆる仕事を引き受けようとしています、会社でも政治的にも、そして、工場ではそれが人間に代わって、あらゆる仕事を引き受けようとしています。そうすると、人間には大いなる余暇が生じるでしょう。それは事実です。あなたはそれを今すぐに目撃することはないかもしれませんが、それはすぐそこに来ていて、出番を待っています。途轍もない波が押し寄せていて、あなたはあなたの余暇に何をしようかと選択することになります。
我々は“選択”と言いました、それは様々な形の楽しみや娯楽の中から選ぶことです―その中には、あらゆる宗教的現象が含まれます、寺院やミサ、経典を読むことなどです―それら全ては何らかの娯楽です。どうか、笑わないで下さい。我々の話していることは十分に真剣なことです。あなたは家が燃えているとき笑えないはずです。ただ我々は実際に起こっていることを考えるのを拒否しているだけです。そして、あなたはあれこれ選択しようとするのです。そして、選択に迷うと、いつも何らかの葛藤が生じます、つまり、二つの選択の余地があるとき、その選択は単に更なる葛藤を生むだけです。しかし、もしあなたが、非常にはっきりと、自分自身の中で見て取ると―全世界に属する人間として、単に地理的に分断されたちっぽけな、取るに足らない国に属する人間としてではなく、あるいは階級的分断やブラフマン、非ブラフマンなどその他の全てとは無縁に、そうすると―もしあなたがこのことを明瞭に見て取ると、選択の余地はありません。従って、選択とは無縁な行動は葛藤を生みません。
そして、明瞭に見て取るために、あなたには光が必要です。どうか、このことを多少なりとも理解して下さい、たとえあなたがそれを知的に理解するのであっても、それで十分です、なぜなら、そこで何かが根を下ろすからです。そして、もしあなたが言葉や説明はそれが伝えようとするその当のものではないと悟らないなら、あなたは明瞭になりえません。樹木という言葉は、その当の樹木ではありません。そして、その事実を見て取るためには、言葉は必要ありません。我々が何か客観的なものを指摘すると、あなたはそれに触れて、それを感じます、そのようにして、あなたはそれを非常に明瞭に見て取ります。しかし、内面的にあなたが深く踏み込むと、そのことは更に微妙になります、更に捉えどころがなくなります、あなたはそれを捉まえておけません―そのため、あなたは更なる明瞭性を必要とします。明瞭性は、あなたが言葉はそれが伝えようとするその当のものではないと見て取り始めるとき生まれます、明瞭性は、言葉が思考の反射的反応を生まないと見て取るとき生まれます―思考は、記憶や経験や知識などの反射的反応です。
そのように、観察するためには、明瞭性が殊の外重要です。しかし、内面の明瞭性は、自前の明瞭性でなければなりません、二番煎じのそれではなりません。そして、ほとんどの我々、ほとんどの人間が手にしているのは、二番煎じのそれです、二番煎じの光です、それは伝統の光であり、経典の光であり、政治家や環境的影響や共産主義などの光です―それらは全て観念であり人工的な光を放っています―そして、我々はそのような光の下で生きようとしています、従って、いつも我々の中に矛盾が生じます。つまり、観念は事実とは全く異なります、樹木という言葉が樹木ではないように、“善”や“欲望”あるいは“悲しみ”という言葉は、それらが伝えようとするその当の事実ではありません。そして、事実を観察するためには、思考をその連想や記憶、経験、知識などと共に生み出す言葉が、何らかの反射的反応をもたらすようであってはなりません。私はそれを検討します、あなたは明瞭に見て取るでしょう。
我々が話しているのは、いかなる争いとも無縁の生、そのようなこの地上の生です―天上のそれではなく、何らかのユートピアではなく、争いの現象や影のない実際の日常生活の生です。なぜなら、平和が存在するときにのみ、善きことが開花するからです、あなたが争っているときではありません、あなたが善くなろうと努めているときではありません、あなたが善き観念を理想的に追い求めているときではありません。平和なときに、それは開花します。従って、明瞭なときには選択の余地はありません、従って、そこには意思の出番はありません。なぜなら、あなたが見て取るとき、あなたが非常に明瞭に見て取るとき、何らかの選択や意思の必要はないからです。選択や意思は争いを生みます。それでも我々は選択と意思によって生きてきました。意思は、抵抗やコントロールや抑圧を意味します、そして、抑圧やコントロールや抵抗は選択に拠ります。そして、選択しないと意思の働きもありません。
それでは、人間として、この世界を生きる人間として、選択と意思があるときに生じるいかなる争いとも無縁に機能することは可能ですか? 最初に、このことを理解するためには、人は意識的な精神だけではなく、無意識的な精神も見て、観察して、理解する必要があります。我々は意識的な精神のことはよく知っています―あなたの行う日常的な活動やあなたの話すこと、毎日毎日、この先四十年間、会社に行くこと、精神がますます鈍くなること、鈍重になること、愚かになること、役人的になること、決まりきった機械的な生活を継続することなどです。そして、そのような表面的な意識や外面的な意識は、観察して理解するのが極めて簡単です。しかし、単に外面的な意識の層だけではなく、相当に深い何かが我々にはあります、そして、それを理解することなしに、単に表面的な静けさを確立しても、それは解決しません。そのように、人は人間のこの全意識を理解する必要があります、表面的な意識だけではなく、それより深い層も理解する必要があります。
我々が観察するとき、心理学者たち―フロイドやユングなどその他の全ての現代の哲学者たちや心理学者たち―の書物を読むまでもなく、我々は無意識が何であるのか知っています、それは人種的な遺産や人種の経験、社会的条件、環境、伝統、文化などです―政治的、宗教的、教育的文化などです―それら全てが我々の無意識の中に埋め込まれています。それでは、あなたはそれを見ることができますか、それを観察できますか、もし光が全くないとするなら。私の質問がお分かりですか? 観察するためには、あなたは光を手にしなければなりません、そして、無意識を観察するためには、あなたは光を、明瞭な何かを手にしなければなりません。どのようにしてあなたはあなたの知らない何かについての明瞭な何かを手にすることができるのでしょうか? あなたは何らかの観念を持っています、それは概念にすぎなくて現実ではありません。そして、無意識を理解することなしに、表面を単に調整するだけでは、平和に生きるための自由は生まれません。
宜しいでしょうか、我々は何か深い哲学を語っているのではありません、それは非常にシンプルです。意識というのは言葉です、違いますか? 宜しいでしょうか、言葉はそれが伝えようとするその当のものではありません。“意識”という言葉は、もしあなたが観察するなら、連想を通して思考を働かせる何かを意味します、そして、あなたは言います、意識はこれやあれや他の何かであると。もしあなたがいわゆる宗教的な精神の持ち主なら、あなたは言うでしょう、精神的な何かがあるなどと。もしあなたがそうでないなら、あなたは言うでしょう、それは単に環境の産物であると。それが全てです。しかし、言葉はそれが伝えようとするその当のものではありません―“樹木”という言葉は、その当の樹木ではありません。そのように、意識―それは言葉です―はその当のものではありません。どうか、このことを理解して下さい。
そのように、明瞭性を手にするには、あなたは事実を言葉とは無縁に観察する必要があります、それはあなたが思考を働かせずに観察することを意味します。そして、思考の働きが意識です。違いますか? どうか、それをよく見て下さい! 話し手は言います、人を殺すのは良くないことだと。そうすると何が起こりましたか? 彼が何らかの意見を言いました、そして、あなたはその意見に対して、あなたの条件づけに従って、あなたの差し迫った必要性から、他の国々の圧力に従うなどして反応します。そのように、あなたは反射的に反応して、思考を働かせます、従って、あなたは事実に耳を傾けていません、あなたは事実を見ていなくて、あなたの思考が反射的に反応しています。違いますか? これは非常にシンプルなことです。そのように、言葉はそれが伝えようとするその当のものではありません。そのように、無意識を探究する必要は全くありません、もし言葉がそれの伝えようとするその当のものではないなら、無意識を探究することは全く意味をなしません、それでもあなたは観察しています。そうすると、あなたは余すことなく文字通り気を付けていることになります、あなたは何も歪めずに見ています、それはあなたが余すことなく文字通り気を付けていることを意味します。余すことなく文字通り気を付けることは、意識の本質です、そして、それを超えた何かです。つまり、あなたが意識しているのは、何らかの摩擦が生じているときだけです、そうでないなら意識は生じません。つまり、あなたが何らかの問題に直面すると、あなたは反応します。もしその反応がその問題に対してこの上なく適切なら、何の齟齬も生じませんし、いかなる摩擦も生じません。それに不適切に反応するときのみ、摩擦が生じます。この摩擦こそが、意識の要因です、それが意識を生じさせます。
どうか、それを自分の中で観察して下さい、そうすると、もしあなたが死を避ける方法を見つけることができるなら―私はそれを一つの例として取り上げています、我々は死について別の機会に話し合います―もしあなたが死を乗り越える方法を医学的に、科学的に、あるいは他の方法で見つけることができるなら、あなたは決してそれを恐れないでしょう。従って、生きることと死ぬこととの間でいかなる争いも起きないでしょう、従って、あなたは死を全く意識しないでしょう。何らかの摩擦が生じるときのみ―それが恐れです―意識が生じます、そして、その意識が言います、“私は死ぬのが怖い”と。
そのように、我々が話しているのは、争いが全く取り除かれている精神の状態です、何らかの選択や意思によらずに、あるいは、そのように主張するのでもなく、あるいは、何らかの教条を受け入れるのでもなく、あるいは、何らかの活動に献身的になるのでもなく―そのような活動は、あなたが何らかの事柄や献身事に自己同一化していることを忘れさせます、そして、あなたはあなたが平和に生きていると考えます、ところが、依然として、あなたが何らかの抵抗を続けている限り、あなたはそうではありません。
それでは、あなたはあなたの問題を解決できないと知って、抑圧や受容、従属、順応、模倣などでは―それらを人は幾世紀にもわたって行ってきました―解決できないと知って、あなたはこの世界を生きることができるでしょうか? あなたは全く異なる生を生きることができるでしょうか? それでは、あなたがそのことを自分自身に問うとき、あなたがその難問に相対するとき、あなたの答えは何ですか? 明らかに、最初の答えは―あなたの叡智が答えるなら―“私は知りません”となります。あるいは、それは不可能ですと、あなたは主張するでしょう、あるいは、あなたの条件づけに従って、あなたの観念に従って、あなたは答えるでしょう。従って、あなたのその問題に対する対応は不適切です。あなたはその問いに耳を傾ける必要があります、つまり、この世界を、孤立することなく、僧院に入るのでもなく、僧としてでもなく、人間として、内面的にも外面的にも、とりわけ内面的に、大いに平和に生きることは可能かということです。もし我々が内面的に平和に生きることができれば、あらゆる活動が平和をもたらして、戦争に終止符が打たれるでしょう。
そのように、争いとは無縁に生きることが可能かどうかを明らかにするためには、最初に、人は争いとは何であるのかを理解する必要があります、その現象ではありません。お分かりでしょうか? 人は、あなたにその現象や要因を示すことができます、しかし、その要因や現象を見ても、その現象や要因を解消することにはなりません。明らかに、あなたはそれに直に触れる必要があります、我々は決してそうしません。説明させて下さい。
人は苦しんできました、人は、内面的に、いつも戦場の中を生きてきました、なぜなら、自己中心的な活動が存在するからです―自分第一で他の人は二の次だからです。“ミーファースト”―自分の関心事、自分の安全、自分の快楽、自分の成功、自分の地位、自分の特権です。“ミーファースト”―国家や家族や教条などと一体化するのです。そして、我々は、何かと一体化することによって、我々は自己を解消したいと願うのです。我々はその理由を知っています、その理由は利己主義です、率直に言えば、理由は自己中心的な活動です。我々はみなそれを知っています。我々はその結果も知っています、それが物理的に世界に何をもたらすのかも知っています、即ち、戦争です。戦争は内面的な争いの究極の表現です。戦争が絶えず起こっています、ビジネスの世界で、政治の世界で、宗教的な人々の世界で、様々なグルたちの間で、様々なセクトの間で、様々な教条の間で起こっています。我々はこのことを知っています。叡智はそのように我々に語ります、しかし、それでも我々は平和に生きていません。
そのように、平和は、原因や現象の単なる分析によってはもたらせません。そこで、人は異なる領域、異なる次元に入っていく必要があります。
宜しいでしょうか、異なる次元に入っていくために―もしあなたが私と一緒に今そうするなら―あなたは自分自身で、知的にではなく、情動的にではなく、言葉でではなく、どうするのか明らかにするでしょう。なぜなら、あなたはそれら全てを今まで試みてきたからです、あなたは知性と戯れてきました、あなたの頭脳は針のごとくシャープです、しかし、あなたは問題を解決してきませんでした。あなたは、もしあなたの息子や夫や兄弟が殺されると泣き叫びます、あなたは感傷的で情動的です、しかし、あなたはそれを解決してきませんでした。そのように、知性や情動、言葉による単なる主張、バガバッドギータをひっきりなしに繰り返し読むこと、人が宗教の名で行うそれら全ての馬鹿げたこと、何らかの打ち続く大騒ぎなど―それら全ては、人々の殺し合いに終止符を打つことができませんでした。あなたは殺します、銃剣や銃でだけではなく、言葉や態度でも殺します、あなたが会社で誰かと競うとき、あなたが攻撃的なとき、野蛮なとき、あなたが自分自身の成功を追い求めるとき―それら全てが戦争です。そのように、知性や情動や観念―それは組織的に作り上げられた言葉です―はあなたのいかなる問題も決して解決してきませんでした、あなたは争いとは全く無縁の異なる生き方を見つける必要があります。
どのようにしてそれは生まれるのでしょうか? なぜなら時間はいずれにしても秩序の乱れです。もしあなたがこう言うなら、“私はそれを明日あるいは次の世で手にするでしょう”、それらは全く取るに足りません。人が苦しんでいるとき、人は明日や次の世のことを考えません、その人は答えが欲しいのです。そして、もしあなたが答えを見つけないなら、あなたは言葉や信念や教条を糧にして生きます―そして、それらは何の価値もありません、それらは逃亡になります。我々はそれら全てを知っています。
どのようにしてあなたは新しい生に―今です、明日ではありません―入っていって、あなたの過去を完全にやり過ごすのでしょうか? 宜しいでしょうか、我々が混乱しているとき、我々は過去を仰ぎ見るか、過去に戻るか、あるいはユートピアを育むかします、そのようにして我々はそれを解決したいと願います。経済的革命や社会革命を願う人々はこのユートピア的観念を抱いてきました、そして、その人たちは、それをもたらすことはありませんでした、ロシアにおいても他の地域においても。そのように、言葉にはもう何の意味もありません、観念も同様です。もしあなたがそれ―言葉や観念や情動主義や知性主義―を精神から取り除かないなら、あなたは我々が次に話し合うことに付いてこられないでしょう。
それでは、あなたが未来に目を向けないとき、何が起こるのでしょうか? 明日はありません―あなたが会社へ行かなければならない明日を除いて、何らかの約束を守らなければならない明日などを除いて。心理的に明日はありません。なぜ明日がないのか私はあなたに説明します、知的に、詳しく。明日はありません、実際に、なぜなら、それは思考の発明だからです、心理的に、それは人の自分自身の安寧の継続を確かにするためです。実際にあるのは今だけです、今、生きているだけです、そして、あなたは、もしあなたが過去を背負っているなら、今、生きることはできません。
そうすると、何が精神の中に余すことのない変質をもたらすのでしょうか? お分かりでしょうか? 我々はあなたに人間の生の地図を広げて見せました、詳細にではないですが。我々はあなたにその地図を見せました、そして、我々はみな言います、“新しい精神がなければならない、新しい生き方がなければならない”と。それはどのようにして生まれるのでしょうか? どうかこのことに耳を傾けて下さい。それはどのようして生まれるのでしょうか? どのようにしてあなたはそれを見つけるのでしょうか? あなたは私があなたに言うのを待っているのですか? 笑わないで下さい、真剣になって下さい。あなたは話し手があなたに言うのを待っているのですか? もしそうなら、それは別の摩擦を作り出すことになります、従って、あなたは何らかの摩擦から解放されないでしょう、従って、何らかの争いが生じるでしょう。しかし、もしあなたが言葉や情動や知性の中に答えがないと理解するなら、何が起こりますか? あなたが発明してきた全ての扉―社会主義者の扉、共産主義者の扉、宗教的扉、心理学的扉―が閉じられました、出口は全くありません。あなたがそれを知ると、何があなたに起きますか?
今、本当の瞑想が始まります。お分かりでしょうか? 今、もはやいかなる外的あるいは内的影響にも促されない精神が始動します、それは、もはや何らかの観念や快楽にコントロールされない精神です、それは、精神がそれ自身のためにガイドとして作り出してきたいかなる価値によってももはやコントロールされない精神です。それら全ては消え去りました、それら全ては惨めに敗退しました、それらはもはや何の意味もありません。そうすると、もしあなたが実際にそのように行っていると、何が起こっていますか? あなたは再び言いません、“私は明日それについて考えます、同意するか同意しないか考えます”と―そうすると、あなたと私はお互いに通じ合っていません。しかし、もしあなたが実際にこのことを非常に明瞭に理解するなら、何が起こりますか? 実際に起こるのは光、明瞭性です。そして、明瞭性、光は、いつもネガティブです、なぜなら、正に何らかの表現が、その表現の模倣と同様に、光を妨げるポジティブな行為だからです。
私はあなたと私が一緒に歩を進めていることを願います。あなたが耳を傾けていると何が起こりますか―言葉にではありません、あなたの反射的反応にではありません、何らかの意見に対するあなたの同意や不同意にではありません。あなたが静かにしているとき、あなたは学びます、あなたの精神、あなたの全存在が身を引き締めて文字通り気を付けています、そして、あなたは耳を傾けています。そうすると、あなたが見て取るとき、何かが起こります。宜しいでしょうか、そのように文字通り気を付けている中に、そのように耳を傾けている中に、明瞭性が生じます。それが明瞭性です。
(雨になり、トークは終了しました)