クリシュナムルティ 我々は、我々がこの前ここで会ったときに言っていました、意識の中だけではなく、我々の目にする世界だけではなく、無意識の中にも、我々の内面の深いところにも深い危機が存在すると。何らかの危機が存在します、そして、ほとんどの我々は同意します、何らかの深い根本的な変化がなくてはならないと。今世界中に存在する状況に気づいている思慮深い人々はみな大なり小なり言います、何らかの革命が必要であると、何らかの緊急な変化が必要であると、それは単に知的な情動的な活動による変質ではなく、全意識の中に余すことなく起こる何かでなくてはならないと。単なるある特定の方向の意識の変化は、一般的に何らかのパターンに従った変化を意味します、それは環境によって作られたパターンであったり、非常に頭の良い博識な人によって作られたそれであったり、過去の変化を研究してきた人のそれで、それらの変化がどのように起こったのか、どんな影響や環境やどんなプレッシャーやストレスが人間の精神の中にある種の変化をもたらしてきたのかなどであったりします。それらの人々はそれらの事実を幅広く研究してきました。
あなたは共産主義者たちによってもたらされた変化を目にします、彼らの意図を目にします、そして、いわゆる宗教者たちの欲望によってもたらされた変化を目にします、それは何らかの復活であったり伝統への回帰であったりします。そして、プロパガンダによって精神を何らかの思考パターンに順応させようとする人たちがいます。何らかの変化を起こすための様々な方法があります。本当の変化が何かを検討する前に、我々は現実に存在する条件を見なければなりません、それを避けてはいけません。事実に向き合うことが非常に重要です、なぜなら、事実そのものこそが、それが理解されるなら、我々が事実に何をもたらすのかではなく、その事実こそが危機を生み出すからです、そして、そのような危機は、我々が完全に向き合わなければならない課題を我々に突き付けます。今宵、私はそのことを話したいと思います。
人は目にします、世界中でますます自由が奪われているのを、それでも政治家は自由について語るかもしれませんが。あなたは見ることができます、繁栄や工業化、教育、家族、宗教、それら全てがあらゆる自由の希求を、じわじわと、恐らく、意図的に拭い去っているのを。それは事実です。あなたが好もうと好まざるとにかかわらず、それは議論の余地のない事実です、教育やプロパガンダ、工業化、繁栄、そして、いわゆる宗教が、その宗教は本当はプロパガンダであり、伝統の絶え間ない繰り返しですが、それら全てが、精神を重く深く条件づけていて、自由は実質的に消えています。それはあなたや私が向き合わなければならない事実です、そして、それに向き合うとき、恐らく我々はそれをどのように打ち破るのかが分かるでしょう。
我々はそれを打ち破らなければなりません、そうでないと、我々は人間ではなく、何らかのプレッシャーやストレスを記憶するだけの機械にすぎません。そのように、我々はその事実に向き合わなければなりません、意図的なプロパガンダや様々なプレッシャーによって、人間は自由を否定されています。あらゆるプロパガンダが仕組まれています、宗教的プロパガンダ、政治的プロパガンダ、特定の政党によって仕組まれているプロパガンダなど様々です。何らかの意味や言葉を絶えず繰り返すのは、精神にある特定の観念をしつこく吹き込むことであり、それは、プロパガンダの言葉によって精神が破壊されることを、コントロールされることを、形作られることを意味します。それは事実です。なぜなら、あなたが自分自身をヒンズー教徒とか仏教徒とか中国人とか何とかと言うとき、それは、あなたが何世紀にもわたって繰り返しあなたはヒンズー教徒であり、何らかの壮大な伝統を受け継いでいると言われている結果であり、それがあなたの精神を形作ってきていて、あなたを特定の慣習や伝統に従ってヒンズー教徒として行動させるのです。どうかこのことを見て下さい。同意も否定もしないで下さい、なぜなら、私は何らかのプロパガンダを行っているのでもないし、何かであなたを説得しているのでもなく、私は本当に思うのです、もし我々が一緒になって知的に理性的に何らかの事実を観察するなら、そのような事実の観察から変化が生じると、そして、それは条件づけられた精神によってあらかじめ決められたそれではないと。
事実を純粋に見ることがとても重要です、人が育ってきた条件やパターンに従って事実を変えようとしないことです、なぜなら、そのような変化は、あらかじめ決められたものであり、精神がその奴隷となる別のパターンを作り出すからです。そのように、事実をその通りに見ることが非常に重要です、何らかの意見や観念や判断や事実についての価値評価を持ち出さないことです、なぜなら、価値評価や何らかの判断や意見は条件づけられたそれだからです、それは過去の結果であり、それはあなたが育ってきた社会や文化の結果だからです。そのように、もしあなたが事実をあなたの文化的背景から、あなたの社会的背景から、あなたの信念を背景にして見るなら、あなたは事実を見ていません、あなたは、ただあなたの信じることを、あなたの経験してきたことを、あなたの背景を事実に投影しているにすぎません。従って、それは事実ではありません。どうかそのことをしっかりと心に留めておいて下さい。この純粋な観察が、歪めることなく非常にはっきりとものを見ることが、あなたの余すことなく応じなければならない課題をもたらします、余すことなく応じることが、精神を条件づけから解き放します。
あなたと私、話し手とあなたが一緒に行おうとしていることを理解することが重要です。最初に言います、これは講話ではありません。あなたはここへただ何かを聞きに来ているのではありません、何らかの観念を聞きに来ているのではありません、それを好もうとも好まずとも、それに同意するとも同意せずとも。あなたは話を聞くけれども、それには関わるつもりはないと思ってここに来ているのかもしれません。しかし、我々は一緒に何事かを行っています、従って、これは講話ではありません。我々は一緒に歩を進めています、従って、これは話し手だけの歩みではありません。あなたと私が一緒になって何が真理なのかを明らかにしようとしています、従って、あなたは参加して共に歩を進めています、ただ聞いているのではありません。
それから、このことを理解することも非常に重要です、ポジティブ思考とネガティブ思考です、なぜなら、事実を見ることはネガティブ思考だからです。しかし、もしあなたが何らかの意見や判断や価値評価でもって事実に取り組むなら、それはポジティブ思考であり、それは事実を破壊します。もし私が何かを理解したいなら、私はそれを見なければなりません、それについて意見を抱いてはいけません。これは非常にシンプルな事実です。もし私があなたの言うことを理解したいと思うなら、私はあなたの言うことに文字通り気を付けていなければなりません。私が最後に同意しようがしまいが、私はあなたに耳を傾けなければなりません。私はあなたの言ったこと全てに終始耳を傾けていなければなりません、あちらこちらを断片的に聞くのではありません。あなたは言われていることに余すことなく耳を傾けていなければなりません、そうして、あなたは判断できます、もし何かを判断するとするなら、そうすると、あなたは何らかの選択をせずに、単に事実を見ているだけです。
そのように、我々は正に最初から非常にはっきりさせておかなければなりません、これはプロパガンダの集まりではありません、私はあなたを何かで説得しようとしてここに出て来ているのではありません。私は文字通り本気です、私はあなたが受け入れるのか拒否するのかには関心がありません。ここで扱うのは事実です。事実を理解するためには、あなたは探究的に取り組まなければなりません、それはポジティブ思考ではありません。ポジティブな精神、ポジティブな態度は決定された意見であって、それは条件づけられた見解であり、確立された伝統的な見方であって、あなたはそれに無批判的に反応します。ポジティブ思考こそがほとんどの我々の思考形態です。あなたは国家的自由というようなことを目にします、あるいは、あなたはバガバッドギータやウパニシャッドや他の何かの書物に言及します、そうすると、あなたは反応します、他の誰かがあなたに代わって考えたことにあなたは反応します、他の誰かがあなたが考えるべき事実について言ったことにあなたは反応します。書物や教授、グル、教師そして古代の賢い人々や集団、それらがあらゆることを考えて言葉にしてきました、そして、あなたはあなたが事実に向き合うとき、それらをただ繰り返すだけです、そのように、あなたが伝統的な見方や条件づけられた反応で事実と向き合うのをポジティブ思考と称します、しかし、それは思考でも何でもありません。あらゆる電子機械がそれを行います、もしそれがどう考えるのかをすでに言われているなら、そして、それが解決すべき問題を与えられているとき、それはオートマチックに反応します。電子頭脳は人間の頭脳の働きに基づいています。
そのように、事実について何らかの意見が差し挟まれるとき、それは思考でも何でもありません、それは単に反応しているだけであり、それは従前の経験によって条件づけられた反応にすぎません。どうか、私の言っていることを理解して下さい。それはあなたが慣れ親しんでいるものとは全く異なる何かです。なぜなら、あなたと私は今意見を交えずに事実を見ているからです。宜しいでしょうか、植物学的な花の見方があります。あなたは植物学的な見方を知っています、科学的な方法で花の全構造を見るのです。知識を引き合いに出さないで花を見守る見方があります、花を、純粋に、直に、何も介在させないで、我々にお馴染みのスクリーンを通さずに見守るのです。私はこの点をはっきりさせているでしょうか? もしそれがはっきりしないなら、私はそれをはっきりさせなければなりません、なぜなら、我々は、この本質的なことを理解することなしに先へは進めないからです。あなたを人間として理解するためには、私は言えません、あなたはヒンズー教徒である、あなたはこれである、あなたはあれであると、私は学ばなければなりません、私は意見を差し挟まずに、何の価値評価もしないで、あなたを見守らなければなりません、科学者のごとく。
そのようにあなたは見守らなければなりません、そして、見守ることがとても重要です、意見ではありません。どうか、このことに気を付けて下さい、なぜなら、あなたはいわゆるポジティブ思考にとても馴染んでいるからです。バガバッドギータやウパニシャッドはこう言います、あなたのグルはこう言います、あなたの家の伝統的な教育はこう教えています、そのようなあなたの記憶の働きで、その収集蓄積された知識から、あなたは何かを見て、それに反応します、それがあなたの言う思考です。私はそれを思考とは全く思いません、それは単なる記憶の反復であり、記憶の反応です。それは条件づけられています、過去に、文化に、社会に、宗教的経験に、教育に、書物に、そして、あなたが事実と向き合うとき、その記憶的機械が発動して反応します、そのように、それは全くのナンセンスです。しかし、もしあなたが事実にネガティブに取り組めるなら、そのように事実を見るなら、それは、それを非難したり条件づけたりするためにあなたの意見や知識を持ち出さないことですが、そうすると、あなたは事実を純粋に見続けます。このことがはっきりしていることを願います。もしこのことがはっきりしているなら、あなたがどのような種類の事実でも純粋に見ることができるとき―記憶の事実、嫉妬の事実、ナショナリズムの事実、憎悪の事実、権力や地位や名声を願望すること―事実は計り知れない力を露わにします。そうすると事実が花開きます、そして、事実の開花の中には、事実の理解だけではなく、事実が生み出す働きがあります。
そのように、我々は多くの事実に関心があります、世界の途方もない混乱の事実です、人間の増大する悲惨さの事実、減ずるどころか増大する悲しみの事実、増大する欲求不満、混乱、争い、共産主義者たちやいわゆる民主的な政治家たちや我々自身の中にあるそれらの事実です。全ての宗教が機能しなくなってきていて、もはや意味をなさなくなっている事実、それらの組織宗教に属する人たちが一連の決まりきった言葉を繰り返し口にして、驚くほど幸せを感じる事実、ちょうど薬物に染まる人たちのように、それら全てはあなたが見守らなければならない多くの事実です。事実を純粋に見守ることからのみ、何かを行う意識が、人間の意識の変質が生じます。そして、それが必要とされることです、古い何かに逆戻りするのではないのです、信仰復興運動でもなく、新しい理論を発明するのでもないのです、なぜなら、それらは現代の危機に答えないからです。我々は現代の危機を知っています、少数のいわゆる政治的指導者たちが世界を完全に破壊する途方もない可能性です、彼らは彼らの理論や観念に従ってそうするのです。それら指導者たちは人間性には全く関心がなくて、あなたやあなたの隣人たちには関心がなくて、彼らの関心は彼らの観念や権力や地位にあります。宗教的指導者たちは人間の向上には関心がなく、彼らの関心は神学にあります。人間の中に計り知れなく深い欲求不満があるのは事実です。きっとあなた方はそれを知っていると私は思います、何らかの不安であり、罪の意識であり、絶望です。そして、あなたが観察すればするほど悲しみは深まります。人は壊しがたい生を送ります、毎日五十年間会社へ通う退屈です、それはあらゆる能力や感受性を破壊します、増える家族を養うために働きます、文明のプレッシャーがあります、あなたは私と同じようにそれらを知っています。私は会社へは行きませんが、あなたは行きます、あなたには家族があります。あなたは会社へおよそ五十年毎日通ってから、ふと今度は神に転じて、何らかの愚劣な儀式を行い、あなたは宗教的になります。若者たちも明日は正に同じことを行います。笑わないで下さい。これは真剣な集まりであり、何らかのエンターテインメントではありません。私はただ事実を描写しているのにすぎません。
もう一つの大きな事実は、我々がもはや自由ではないことです。あなたは外面的には自由です、我々はここでこのように話しますが、恐らく、これは中国やロシアでは許されません、しかし、それは自由ではありません。自由は全く違う何かです、それは野心や貪欲や嫉妬や恐れからの自由です。精神はそれ自身の中に非常に深く歩むことができます、時間と空間の限界を超えていきます。しかし、あなたは、計り知れなく、長く無限に歩み続けることができません、もしあなたの精神が野心の残虐さや貪欲の野蛮さや嫉妬による破壊に囚われているなら。そこには内面の自由がありません。外面的にあなたは言うかもしれません、あなたには自由があると、あなたは、この国や西欧やアメリカでは、政府についてあなたの好むことや好まないことを言えます、しかし、あなたはそれをロシアや中国ではできないかもしれません、しかし、それは自由ではありません。あなたはあなたがヒンズー教徒として教えられてきたことを越えて追究できませんし、救世主を掲げるキリスト教徒も同様です。それでは、それらの事実が分かって、我々はどのように変わるのでしょうか? どのように変質は生じるのでしょうか?
変化と変質は全く異なります。変化は何かに向かっての変化を意味します、それはあなたがすでに知っている何かです、あなたがすでに知覚している何かです、すでに形成されている何かです、すでに思考された何かです、そのためのパターンが用意されている何かです。従って、そのような変化には動機があります、目的があります、それは強制されてもたらされます、順応させられてもたらされます、恐怖によって、何らかの発明を通じてもたらされます。そのような変化にはその背後に何らかの目的があります、そして、そのような目的はいつも過去に条件づけられています、従って、そのような変化はすでに修正されているものの継続です、違いますか? 従って、それは変質では全くありません。それはある宗教から別のそれへ乗り換える人のようです、その人は変化しています。人は一つの社会を去って別のそれに加わります、一つのクラブを去って別のそれに加わります、なぜなら、その方が都合がよいからです、そうすることによって、その人は変化したと考えます。そのような変化がなされなければならない理由は数多くあるかもしれませんが、そのような変化は事実からの逃亡です。本当は変化は変化でも何でもありません、もしその変化の背後に何らかの動機があるなら、もし何らかの目的があるなら。動機は何らかのパターンに条件づけられています、何らかの伝統に、希望や絶望に、あなたの不安や罪の意識や野心や嫉妬や妬みなどに条件づけられています。そのような変化は、これまでの継続です、修正された継続です、従って、それは変質ではありません。従って、そのような変化から生まれる反応は、世界を全く変えません、それは単にパターンを変えるのにすぎません。それは意識の根本的な変質をもたらしません。
我々が話しているのは意識の中の完全な変質です。そして、それのみが新しい世界をもたらすでしょう、新しい文明を、新しい生き方を、人と人との新しい関係をもたらすでしょう。これは何らかの理論ではありません、なぜなら、変質は可能だからです、そして、変質には何の目的もありません。宜しいでしょうか、我々は非常に安易に愛という言葉を使っています。もしあなたが何らかの動機を抱いて愛するなら、それはもはや愛ではありません、それは商取引です。もしあなたが何らかの目的をもって愛するなら、それは卑しくて品位を欠きます。愛には目的はありません。同様に、変質は目的や動機とは無縁に生じます。どうか、そのことを見て下さい、どうか、その違いを見て下さい、何らかの目的を持つ変化があります、何らかの強制による、適応することによる、プレッシャーを受けることによる、必要性による、恐怖や野心による、工業化による変化があり、それら全てには動機があります、そして、何の目的も持たない変質があります。正に見守ることによってもたらされるそのような変質があります、つまり、あなたが何かを見守るとき、あなたはそれを直ちに理解します。そのような真理が、人の生に対する態度の中に余すことのない変質をもたらします。
耳で聞くことと耳を傾けることは二つの異なる何かです。何かを耳で聞くこと、言われていることを単に耳で聞くことと言われていることに耳を傾けることは違います。ほとんどの我々はそのように耳で聞きます、そのように耳で聞いて受け入れたり否定したりします。もし我々がそれを好きなら我々はそれを受け入れます、もしそうでないなら我々は拒否します、そして、そのように耳で聞くことは非常に表面的です、それには深い効果は生まれません。一方、耳を傾けることは全く異なる何かです。あなたはこれまで何かに耳を傾けて、あなたが耳を傾けていることを理解し、感じ、愛することがあったのかどうか私は知りません、たとえそれが心地よいことであれ不快なことであれ。どうか、文字通り気を付けて、努力せずに、耳を傾けて下さい、そうすると、その正に耳を傾けている行為の中で、あなたは何が真理で何が間違いかを何も介在させることなく見て取るでしょう、そうすると、それは機械的な行為ではありません。あなたは、何が真理そのものなのかを明らかにするために、見て取るために、全存在を注いで、耳を傾ける必要があります、あなたの意見や経験や知識とは無縁にそうする必要があります。
簡単な例を取り挙げます。神を信じる人も信じない人も同じです。神を発見するためには、もし存在するなら、あなたは探究しなければなりません、あなたは検討しなければなりません、あなたは明らかにしなければなりません、あなたは非常に深く掘り下げなければなりません、あらゆる信念や観念を脇へ追いやって、そうしなければなりません、なぜなら、それは驚くべき何かかもしれないからです、今まで考えられたことのない何かかもしれないからです、そのはずです。何かを明らかにするためには、あらゆる形の知識や信念や条件が取り除かれなければなりません。それは事実です、違いますか? 何かを見つけるためには、あなたはあなたの精神を完全に新たにして、伝統的な精神を持たずに、悲哀や悲しみや不安や欲望にまみれた精神ではない精神にする必要があります。精神は若く、フレッシュで、新しくなければなりません、そうであるときにのみあなたは明らかにすることができます。同様に、変質とは何かを明らかにすることや、変質がどのように生じうるのかは、非常に重要なことです、なぜなら、変化はどこへも導かないからです。変化は、あらゆる経済的社会的革命と同じように、それまでに起こったことに反射的に反応しているにすぎません、共産主義が資本主義に反射的に反応しているように、それらは、明らかに、同じパターンを違った方法で異なる権力者たちが演じているだけです。しかし、我々は変質に関心を持たなければなりません、なぜなら、現代の課題はあなたの選択を許さない全く異なる何かだからです。課題はいつも新しいのです、しかし、不幸なことに、我々は、それに古い何かで、我々の記憶で、相対するのです、従って、その対応は決して適切ではありません、従って、悲しみや悲惨がもたらされるのです。
そうすると、我々の関心は、意識の中にこの変質をもたらす行為とは何かということです。宜しいでしょうか、私はあなたが真剣かどうか分かりません。私が意味する真剣ということは、思考や観念や感情を徹底的に最後まで追究する能力のことです、そうすることで、何が起ころうと構わずに、あなたやあなたの家族やあなたの国家や他の何かに何が起ころうと構わずに、結果がどうであれ、何が真理かを明らかにするために、最後まで徹底的に追究する能力のことです。そのような人が真剣な人間です、他の人は生を弄んでいて、十全な生を生きていません。ですから、私はあなたが真剣な思いでここに来ていることを望みます―それは、この変質が何を意味するのかを明らかにしようと一緒に最後まで行くことを意味します―あなたが、あなたの家族や仕事や現在の社会やその他のあらゆることを脇へ除けて、最後まで行くことを望みます。なぜなら、明らかにするためには、あなたは引き下がる必要があります、明らかにするためには、あなたはあらゆるものを放り出す必要があります。
我々は、年を取った人も若い人も、決して問うことをしてきませんでした。いつも専門家の権威を突き付けられます、宗教の専門家、教育の専門家、政治の専門家がいます、そしてバガバッドギータやウパニシャッドの権威がいて、彼らは決して問われないできました。あなたはいつも教えられてきました、彼が知っていて、あなたは知りません、従って、問わないで従って下さいと。従ったり受け入れたりする精神は鈍い精神です、それは眠っていて創造的ではない精神です、それは死んでいる精神で、あらゆる真理を破壊します、それは、それの理解できないことや洞察できないことに機械的に反対します。それは、明らかにするために、無心に心地よく問えません。それが、あなたと私がここに一緒にいる理由です、問うのです。私はあなたのグルではありません。私はいかなる種類の権威も信じません、政府の権威を除いて、あなたには海外旅行するときパスポートが要ります、あなたは税金を払わなければなりません、あなたは手紙に切手を張らなければなりません。しかし、グルの権威、ウパニシャッドの権威、自分の経験的な権威、伝統的な権威、それらは真理を明らかにするためにことごとく破壊されなければなりません。それが我々の一緒に行うことです、問うことによって、何が真理かを発見するのです。あなたが自分自身で問うや否や、あなたは自分が間違っているのが分かるかもしれません。それのどこが悪いのでしょうか? 若い精神、無垢な精神は間違いを犯します、そして、間違いを犯し続けます、その正に間違いを犯す中に発見があります、そして、そのような発見が真理です。真理は、古い世代や年を重ねた人たちがあなたに言ってきたことではなく、あなたが発見する何かです、従って、あなたは夜も昼も問わなければなりません、間断なく、あなたが明らかにするまで。そのような精神が真剣な精神と呼ばれます。あなたは絶えず問わなければなりません、事実を無心に見なければなりません、あなたが問うているとき、生まれるかもしれないあらゆる恐れを脇へ置いて、誰にも決して従わないで、そうしなければなりません。そうすると、そのような無心さから、そのような探究から、あなたは真理が何であるのかを明らかにします。同じように、あなたと私は、どのように、どのようにして、どのようなことで、この変質が起こりうるのかを明らかにするでしょう。
宜しいでしょうか、“どのように”という言葉は、何らかのパターンを意味します。あなたと私が“どのように”と言うとき、その言葉は正に何らかのパターンやメソッドや実践法を見つけることを意味します、それは、あなたが私に何かを告げて、私がそれに従うことを意味します。私はその言葉をそのような意味で使っていません、“どのように”は単なる疑問符です。私があなたに何かを告げるのではなく、あなたがそのような問いを発して、社会が設えるパターンの罠に陥らないことです、そうすると、あなたの精神は、何世紀にもわたる権威や伝統によって鈍くなっているそれは、目覚めて生き生きとなり、熱気を帯びて問えるのです。我々一人ひとりの中に、そのような変質が起こりうるでしょうか? それは可能であるとか不可能であるとか言わないで下さい。たとえあなたがそれは可能であると言っても、あなたは知りません。もしあなたがそれは不可能であると言っても、やはりあなたは知りません、そうすると、あなたはすでに検討することや問うことを止めています。ですから、あなたの精神を自由に保って下さい、何ものにも染まらないでいて下さい、そうすると、あなたは自分自身で明らかにすることができます。
変質は可能でしょうか? あなたが変化という観点から考え始めると、それは不可能です。あなたが変化という観点から考え始めるとき、変化は持続を意味します、時間を意味します、ここからそこを意味します、一方、変質は瞬時に起こる何らかのプロセスです。あなたはこれら二つの真理を見て取る必要があります、変化と変質です、その意味するところを見て取って下さい、単に知的にそうするのではないのです、なぜなら、それでは単なる言葉によるコミュニケーションにすぎなくなるからです。言葉によるコミュニケーションは事実ではありません、“樹木”という言葉は当の樹木ではありません。しかし、ほとんどの我々は、とりわけ、いわゆる知的な人々は、言葉に囚われています、その人たちは単に言葉を扱っているにすぎません。生は言葉ではありません、生は生きものです、生は苦痛であり、生は苦悩であり、生は絶望です―言葉や説明ではありません。あなたは変質が生じなければならない事実を見て取る必要があります、変化ではありません、それは余すことのない革命であって、修正された適応ではありません。
変化は、それが徐々に進行するプロセスを意味します。あなたは人々がこう言うのを聞いてきました、あなたは理想を持たなければならないと、あなたが非暴力という理想を掲げると、徐々にあなたはその理想に向かって変わっていくでしょうと。私は、それは馬鹿げた未熟な考えであると思います。なぜなら、事実はあなたが暴力的だということです、そして、あなたはそれと取り組むことができますが、あなたが取り組むのは単なる理論的な発明にすぎない理想ではないのです。事実は、あなたが嫉妬深いことであり、野心的であることであり、残酷であることであり、残虐であることです。事実と取り組んで下さい、行動を引き延ばすだけの単なる仮説的な発明にすぎない理想と取り組むのではないのです。宜しいでしょうか、我々は理想を相手にしていません、我々は仮説を相手にしていません、我々は事実と取り組んでいます。あなたは事実を見て取ります、変化というものが時間を意味する事実を見て取ります、変化が、引き延ばしである、徐々に進行するプロセスであるという事実を見て取ります。どうか、このことを理解して下さい。引き延ばす人は、その人の精神を破壊します、問題に向き合うことを引き延ばすと、その問題はその人の精神と心を食い尽くします、従って、その人は若くもフレッシュでもなく無垢でもありません。あなたが取り組んでいる事実はこういうことです、つまり、我々自身の伝統に基づくあらゆる変化は変化では全くないという事実です、教授たちや教師たちやグルたちやその他の人たちの言っていることに基づく変化は変化では全く、それは劣化であり破壊です。もしあなたがその事実を見て取るなら、そうすると、あなたは何らかの変質が起こっていることに気づくでしょう。このことがお分かりでしょうか?
宜しいでしょうか、意識は時間です、従って、“私は明日あるいは一年後に変わるでしょう”と言うのも時間です。それは時間の奴隷にすぎません、従って、それは変化でも何でもありません。変質は、それまであったことを完全にひっくり返すことです、それまであったあらゆることを完全に根こそぎ引き抜いてしまうことです、知っていますか、広島と長崎の原爆の後に遺伝子の変質が起こったことを、そして、異なる人間が生まれました。宜しいでしょうか、何らかの変質が我々の中に起こる必要があります、そうして、粉砕され破壊され醜くなり残虐になり鈍くなっている精神が一夜にして若い精神にフレッシュな精神になる必要があります。そして、私は思います、それはあなたが問題にネガティブに取り組むときにだけ可能であると、ポジティブにではないと。ネガティブに取り組むことは、あらゆる変化やあらゆる情報を余すことなく否定することです、なぜなら、あなたはそれが何であるのかを理解するからです。それは反射的な反応ではありません、なぜなら、あなたは変化が意味するものを見て取るからです。あなたが変化の意味を理解したので、あなたが変化を否定するとき、あなたは本当に変わりました、誰かに言われてそうなるのではありません。あなたが変化を花開かせるとき、あなたはその質が分かります、そうすると、あなたはそれを破壊します、それを完全に取り除きます、そうすると、あなたは決して変化や理想などその他の全ての観点から考えません。あなたが変化を否定するや否や、あなたの精神はそれまでとは異なる状態の中にいます。それはすでに新しい質を手にしています。お分かりでしょうか? あなたが何かを否定するとき、反射的反応ではなくそうするとき、精神はすでに新鮮です。しかし、我々は決して否定しません、なぜなら、それは都合が悪いからです、それは恐怖をもたらすかもしれないからです、そこで我々は模倣します、我々は適応します、我々は、我々が生きている社会の要請に従って我々自身を修正します。あなたは否定します、なぜなら、あなたはあなたが否定するものを理解したからです。
例えばナショナリズムです、そのために人々は死ぬ覚悟をします。私はナショナリズムを否定します、従って、私はどこかの国民ではありません、私にはナショナリズムは何の意味もありません。従って、私が何かを否定するとき、それに意義があります。あなたが否定するとき、あなたの精神はすでに新鮮であり新しくなっています、なぜなら、あなたはナショナリズムの問題を検討してきているからです、それを探究してきているからです、その真理を突き止めてきているからです、発見しているからです。あなたが何かを否定するとき、あなたが誤りを否定するとき、真理が生まれます。しかし、誤りを否定するためには、あなたはそれにネガティブに向き合わなければなりません、それは、あなたがいかなる偏見も抱かずに、いかなる意見や判断や価値評価とも無縁に、それに向き合う必要があることを意味します。あなたはそのように試みます、私がそう言うからではありません、あなたの生がそのように要請するからです、あなたの生がそれを望むからです。
あなたの社会を見て下さい、それは争いや悲惨、権力、何かのための戦い、果てしのない金銭欲、言葉の絶え間ない繰り返しです、あなた自身の空しい、浅ましい生を見て下さい、それは恐れや不安や罪の意識に満ちた生です、そのように生きるのは、生きているのでは全くありません。そして、あなたはそのような精神を変えられません、あなたはそのような精神を破壊するだけです、そうして、あなたは新しい精神を誕生させます。
そのように、古いものの破壊が絶対に必要です、古いものとは、恐れや野心、貪欲、嫉妬などであり、安全性の追求です。それこそが精神を鈍くしています、そのような精神は決して問いません、いつも何かを受け入れています、それは権威に縛られています、従って、決して自由を手にしません。真理があるのかどうかをあなたが発見できるのは、自由の中のみです。あなたが愛とは何かを明らかにすることができるのは、自由の中だけです。