アウトサイダー

“渓流岩

        アウトサイダー

1967年トーク

ロンドン 9月17日

クリシュナムルティ 我々は、誰かに、盲目的に、あるいは、知的に、あるいは、我々の傾向に従って、追随します。叡智的な追随というものは実際にはありません。盲目的な追随は、心理的に、追随者だけではなく、追随されるものにとっても、この上なく有害になります。そして、もし我々が、我々の傾向に従って、誰かに追随するなら、それは再び大いなる悲惨をもたらします。そのように、人は、いかなる形の追随も(もちろん、技術的な領域を除いて)この上なく破壊的であると観察します。あなたは、あなたがもっと知っていると考える人に追随します、その人の言うことを受け入れます、しかし、そうすることによって、あなたは、あなた自身の叡智を歪めます。人は叡智的に誰かに追随しうるのでしょうか? 心理的領域の何らかの権威に追随することは、あらゆる形の叡智を破壊するのではないのですか? ほとんどの我々は、いわゆる心理的領域の中で、我々の傾向に従って、何かを受け入れがちです、そして、それは本質的に快楽に基づいています。そして、あらゆる形の追随や模倣そして順応は、理解や学ぶことに反すると私には思われます。そのように、人は、正に、最初から、あらゆる形の心理的権威を脇へ除けることができます。しかし、それは、ほとんど人々にとって途方もなく難しいことです、なぜなら、人々は間違うことを恐れるからです、何らかの理解や経験にすぐに至らないのを恐れるからです、そして、もし誰かがそのような理解や経験を約束するなら、明らかに、それは非常に誘惑的です。追随する傾向は、その餌が非常に魅惑的であるとき―何かを約束する指導者やグルあるいは教師によって―強力になります。我々が追随したり模倣したりするとき、我々は自分自身を理解しなくなります―そのような理解が絶対に必要です。そのように、正に、最初から、我々は、あらゆる形の権威を脇へ除ける必要があります―グルや指導者、教師、救世主、聖職者、分析家、心理学者、哲学者、理論家(共産主義者あるいは精神的指導者)そして神学者などの権威です。
 我々はそれができますか? もし我々にそれができないなら―言葉ではなく、実際に、内面的に、直に、そして、シンプルに―私は我々が自由に学びうる方法を知りません。そして、人は独存できますか? なぜなら、もし人がいかなる形の権威にも追随しないなら、外面的にも内面的にも、否応なく、間違う恐れが生じるからです。人は、大なり小なり、何らかのシステムやグル、教師、心理学者、哲学者、神学者、聖職者などの外側の権威を知的に捨て去ることはできます。それは極めてシンプルです、なぜなら、人は、それら全ての正体を非常に素早く見抜くので、人はそれを比較的簡単に脇へ除けることができます。しかし、もっとずっと難しいのは、我々が、我々自身の経験や知識の権威を脇へ除けることのように私には思われます、それは、我々が学習して収集蓄積してきた権威であり、我々の指針となっているものです。従って、我々は過去を生きています、そうして、過去が大いなる尺度、大いなる教師になります―幾世紀にも及ぶ教会のプロパガンダによって確立した過去です、あるいは、我々自身の経験の過去です。時間が余すことなく理解されないのは、我々が過去に従うときがあるためです。そして、ほとんどの我々は、過去をこの上なく従順に受け入れます。技術的な領域では、明らかに、我々はこれまでのことに頼らなければなりません、これまでに収集蓄積してきたもの―いわゆる知識―に頼らなければなりません。それら全てを破壊して、改めて初めからやり直すのは馬鹿げているでしょう。しかし、心理的領域では、精神の背後にある領域では、言わば皮下の領域では、本質的に、我々の傾向や性向そして環境の圧力に基づく我々自身の知識や経験の権威が我々の指針原理になります。もし我々が自分自身を観察するなら、我々は、そのことを非常に簡単に見て取ることができます。我々は何かを昨日学びました、あるいは、何年間も生きてきて、何らかの知識を努力して、格闘して、悲しみや苦痛そして快楽を交えて収集蓄積してきました、そして、そのような記憶が指針や権威になります。従って、学ぶことが余すことなく消滅します。
 私は自分自身について学びたいと思います。私は、我々が自分自身について学ぶことの途方もない重要さを分かるとは思いません―他の人たちが我々について話していることではありません(その人たちがどれほど偉大であろうと)、そうではなく、実際に、自分自身について学ぶことです、私は、我々がそのことについて非常に熱心であるとは思いません、我々は、自分自身についての二番煎じの情報をより容易く受け入れます。宜しいでしょうか、それら全てのヨーガ行者たち、学者たち、導師たちがいて、インドやこの国、ヨーロッパそしてアメリカを放浪しています。人々はとても騙されやすいのです、人々はとても簡単に何かを約束する人たちに従います。しかし、自分自身について学ぶためには、過去の余すことのない否定、我々が自分自身について学んできたあらゆるものの否定が必要です、なぜなら、我々は生きている何かだからです、それは、絶えず、ストレスやプレッシャー、日常生活、プロパガンダ、世界や関係性の不断のプレッシャーなどによって、絶えず、変化を遂げている活動する何かだからです。
 そして、我々は、その生きているものを過去の観点から解釈します、過去を通して検討します。それが、我々の自分自身について学ぶことを、とても途方もなく難しいと見ている理由です―なぜなら、我々には過去の基準があるからです、正しかったことや間違ったこと、良かったことや悪かったこと(良かったことや悪かったことがないというのではありません)。我々は、このようなイメージを過去に根差して確立してきました、そして、そのようなイメージが現在―それは生きている“私”です―を理解するうえで障害になります。
 そうすると、次の問いが起こります、あらゆる精神的システムの外側の権威を全て投げ捨てることは可能ではないのかどうかです、教会や書物、宗教的指導者たち、そして、実際に人を食い物にする神学者たちなどの権威です。それら全てを、言わば一振りで払い除けるとき、そしてまた、経験や知識を通して収集蓄積して学んでいる心理学的プロセスを払い除けるとき、そうすると、そこから、あなたが学び始める基礎が生まれます。そのことが正に意味するのは、このことを非常にシンプルに明瞭に観察している精神が―もしそれが全く正気で健全で、神経症でも情動的でもないなら―自身にこのように問うことができるのかということです、あなたは、あなたが完全に独存するときに否応なく生じる恐れに面と向かうことができるのかと。なぜなら、あなたが、外側の権威と同様に、内側の権威も否定するとき―あなたは間違うかもしれないと知りながら、あなたが自分自身について学んでいるとき、いかなる指導者とも、いかなる哲学者とも、いかなる友人とも、いかなる方向性とも無縁であると知りながら、そうするとき―その恐れが否応なく生じるからです。
 この恐れは、一様に、何かと比較することから生じます―誰かが悟りを開きました、そして、あなたはそうなっていません、そして、あなたはそうなりたいと思います。ミスを犯す恐れがあります、時間を浪費する恐れがあります。そしてまた、援助を受けられない恐れがあります、完全に単独になる恐れがあります。結局、人は正に単独でいる必要があります、人は正に単独です。あなたが社会の心理的全構造を否定するとき―それは社会の外にいることです、そして、あなたは心理的に社会の外にいなければなりません―そうすると、明らかに、あなたは単独です。しかし、それは聖職者の単独ではありません、それは孤立です。それは何らかの行動に献身的になっている人の単独でもありません、あるいは、見捨てられて社会の中に居場所をなくした人の単独でもありません。あなたが社会の心理的全構造を拒絶するとき、あなたは否応なく単独になります、そして、それもまた大いなる恐れを生じさせます。ほとんどのあなた方は、正に、過去なので、過去を生きているので、あなたが年齢を重ねれば重ねるほど、過去が途方もなく意義を持つようになります、そして、それが指針になります。
 それら全てを否定することが必要です、なぜなら、私は自分自身について学びたいからです。そして、私がそれら全てを否定するとき、自分自身について学ぶ何かがありますか? 私はすでに学びました、私は学ぶことを終えました。私は、あなたがこのことを分かるのかどうか知りません。私は自分自身について何を学んでいるのでしょうか? 私は自分自身について学びたいのです、そして、私は分かります、学ぶためには、あらゆる形の権威から自由でなければならないと、単に言葉の上ではなく、一日の毎秒、毎分、自由でなければならないと。そうすると、私は私の中に誰かに従う傾向のあることが分かります、なぜなら、私は恐れるからです。私は私の中に危険を感じます、全く単独になる恐れを感じます。私は私の中にミスをする恐れを感じます、何かに到達しない、何かを成就しない、あらゆる思考や経験を超えた何かを獲得しない恐れを感じます。
 そして、私がそれら全てを検討したとき、学ぶべき何かが“私”の他にあるのでしょうか? 私はすでに学びました、私は私自身の全性質を学びました。しかし、恐れと称されるものがまだ残っています。そして、いかなる形であれ、恐れに囚われた精神は、意識的であろうと無意識的であろうと、暗い世界を生きているに違いありません、物事を歪んで見ているに違いありません、それは本当の自由の何かを決して理解しえません。恐れていると、我々は自然に否応なく逃げるための網の目を広げます、それがサッカー場であろうと、教会であろうと、居酒屋であろうと。
 それでは、恐れから自由になることは可能でしょうか? なぜなら、それは私の一部だからです。私は権威に対する反射的反応を検討してきました―従うことや模倣、受容、従属などです―そして私は分かります、それら全ての背後に恐れの質があることが。そして、この恐れと称されるものから完全に余すことなく自由になることは可能でしょうか?
 宜しいでしょうか、それを理解するためには、そして、それを検討するためには、誰かが私に私は恐れていると言うからではなく、私はそれに気づかなければなりません。確かに、人が空腹を感じることと、あなたは空腹であると人に言われることとは違います。ほとんどの我々は、我々が空腹であると言われます。そうすると、我々は逃げないで、正当化しないで、非難しないで、恐れに気づくことは可能でしょうか―死ぬことを恐れることや、夫や妻を恐れること、社会を恐れること、仕事を失うことを恐れること、幾つも恐れることがあります。
 我々は、我々がそれについて話している今、気づくことができますか? あなた自身の恐れのどれか一つを取り上げて、我々はその根源を検討します。我々は集団で恐れを分析しているのではありません。一人ひとりが、それを自分で行っています。話し手は、単なる鏡か、あなたが耳を傾けている受話器にしかすぎません。しかし、もしあなたが自分の中のこの恐れを見ていないなら、見守っていないなら、この恐れに耳を傾けていないなら、そのように聴くことにはほとんど意味がないでしょう。そのように、それはあなたの責任です、それは全てあなたが行うことです、話し手ではありません。
 あなたは、話し手に文字通り気を付けて耳を傾けているだけではなく、あなたが耳を傾けているとき、自分自身を観察してもいます。そのように、耳を傾けることは、あなたと話し手が一体になったプロセスです。それは、あなたが話し手に耳を傾けて、それから、あなた自身を見るのではありません、正に耳を傾けていることが、あなた自身の観察です。それは宜しいでしょうか?
 私は何かを恐れています。抽象的なものとして恐れは生じません、それは何かとの関連です。私は何かを恐れます―過去や人々の言うこと、死、愛の欠如、妻や夫を恐れるなどです。宜しいでしょうか、どのように私はその恐れを見るのでしょうか? どうか、ゆっくり少しずつそのことを検討しましょう。私は私がその恐れを観察していると言います、私は私が恐れているのが分かります、そして、私はその恐れに対する私の反射的反応が分かります。そして、今、私はそれから逃げないようにしています、それを抑え込まないようにしています、あるいは、それを分析しないようにしています、なぜなら、分析はエネルギーの無駄だからです。どうか、このことを理解して下さい、あなたが何かを非常に間近に見るとき、余すことなく文字通り気を付けているとき、あなたはそれを分析する必要はありません、それは全てそこにあります。あなたが文字通り気を付けていないときにのみ、あなたは分析する時間を手にします。しかし、ものが目の前にあるとき、余すことなく文字通り気を付けることを要するとき、あなたは、いかなる分析的プロセスとも無縁に、その全てを見て取るでしょう。
 重要なのは、どのようにあなたが観察するのかです。人は恐れについてではなく―しばらくの間―どのように観察するのか、どのように見守るのかを学ぶ必要があります。もし私がどのように見守るのか分かるなら、もし私が本当に見守ること、観察すること、見て取ることについて学ぶなら、そうすると、恐らく、恐れを検討する必要が全くなくなります。
 そうすると、私は見守ることについて学ぶ必要があります、そして、それはどういう意味でしょうか―見守ること、観察すること、見て取ること、耳を傾けることです。もしすでに何らかの結論があるなら、私が見守る何らかの方式があるなら、私が何らかの記憶に指図されて見守るなら、あるいは、私がそれまでの経験から見守るなら、観察することや見守ること、耳を傾けることは可能でしょうか? 自分自身でそれを検討して下さい、そうすると、あなたは観察することや見て取ることがいかに難しいかが分かるでしょう。何らかの結論や判断、私が見守ろうとすることについての何らかの意見がすでにあるとき、それは記憶に基づいています―その記憶から思考が生じます。そのように、思考を働かせて見守っているときは、全く見守っていません、違いますか? そうすると、私は何らかの結論を抱かずに見守ることを学ばねばなりません。それは―漠然となることなく、抽象的になることなく、空想的になることなく―可能でしょうか? つまり、私が余すことなく文字通り気を付けて見守るとき、何らかの結論が存在しているでしょうか? 私が何かを余すことなく文字通り気を付けて見守るとき、何らかの結論や方式、記憶、あるいは、それを指図する経験の這い入る余地があるでしょうか?
 私は花を見守ります、そして、私がそれを見守っていると、その花の植物的知識が這い寄ってきて、私が見守っているのを邪魔します―私は、その花や樹木についての植物的知識を持つべきではないということではありません。しかし、そのような知識は、見守ることを妨げます。私が余すことなく文字通り気を付けてその花を見守っているとき、植物的知識の這い入る余地は全くありません。私が文字通り気を付けていないときにのみ、他のものが這い寄ってきます。あなたはそのことを自分自身で試みて、それを非常にシンプルに観察できます。
 そのように、それは何らかの結論を持たないという問題ではありません、あるいは、何らかの結論をどのように取り除くのかという問題ではありません、あるいは、何らかの方式を持たないということでも、その方式をいかに取り除くのかということなどでもありません。私は、余すことなく文字通り気を付けて、その花を、その雲を、水面のきらめきを、あるいは山の輪郭を見守ることができます。それはとても簡単です。しかし、自分自身を見守ることはもっとずっと難しいことです、なぜなら、その欲求がとても急だからです、その反射的反応が非常に瞬間的だからです。
 私は、恐れを、何らかの結論を持たずに、私がその恐れについて収集蓄積してきた知識の妨害なしに―それはそれを見守ることを妨げます―見守ることができますか? もしそれが邪魔するなら、私の見守っているのは過去であり、その恐れではありません。そうすると、私が余すことなく文字通り気を付けて見守るとき、私は、それを初めて、過去の妨害なしに見守っています。そうすると、私は学び始めます、そうすると、私は学ぶ態勢になります。そのように、学ぶことは収集蓄積ではありません、それは収集蓄積のプロセスではなくて、あらゆる収集蓄積がその中で消滅しているプロセスです、従って、私はじっとしていません。学ぶことは、学んでから私の学んだことを応用するプロセスではありません。それどころか、それは現にある事実と共に絶えず活動している何かです。
 そうすると、私は恐れを見守ることができますか、何ら逃げることなく、いかなる言葉にもよらずに―言葉にするのは思考です、そして、言葉にするのは思考が記憶として作り上げてきたイメージです―そのように見ることができますか? もし人がそれら全てを理解するなら、その正に理解が、何らかの規律そのものです、なぜなら、見守るためには、途轍もない規律を要するからです。それは理解するために課した規律ではありません、そうするとその中には何らかの葛藤や矛盾が生じます。しかし、私が見守るとき、そして、あらゆる形の結論や判断、価値評価、記憶がそのように見守ることを歪めると知るとき、そして、私がそれら全てに気づくとき、それは途轍もない規律です。そのような規律は自由の結果です。そのように私は恐れを見守ることができますか?
 そうすると、次の問いが起こります、見守っているのは誰ですかと。その恐れを観察している当のものは誰ですか? 私は恐れを見守ります、そして、私は自分に問います、“見守っている者は誰ですか、観察者は誰ですか”と。そして、なぜその人は恐れを見守っているのでしょうか? 重要なのは見守っていることです―見守っている観察者ではありません。違いますか? 私はあなたがこのことに付いてきているのかどうか分かりません。
 私の関心は、恐れを見守ることです。私が、“私は恐れを見守っている”と言うとき、私は見守ることから全く遠ざかっています、なぜなら、私は“私”を観察者の中に思い描いたからです。そうすると、人は、“私は恐れを見守らなければならない”と言うその観察者とは誰であるのかを明らかにする必要があります。観察者は恐れを願わない監視者です。観察者は、“恐れは恐ろしいものだから、それを取り除くように”と言う収集蓄積された知識です。観察者は、その恐れに関するその人の余すことのないあらゆる経験です。そのように、観察者はその人が恐れと称するものと分離しています。観察者と観察されるものとの間に何らかの空間ができます。そうすると、人はそれを乗り越えようとします、その代わりを見つけようとします、それから逃げようとします、それを変えようとします、従って、観察されている恐れと観察者との間で葛藤が生じます。その二つの間の絶え間ない争いは、エネルギーの浪費です。
 しかし、今、私は観察者が誰なのか検討し始めています―私が学んだことから引き出した何らかの結論などその他の全てを手にすることなく。私は観察者が誰なのか実際に明らかにしたいと思います、そして、観察者を見守りたいと思います。以前、私は恐れを見守っていました、その恐れは様々な逃げ道を作り出していました、私は、様々な結論や判断を手にして、その恐れに取り組んできていました、それを取り除くことを考えたりするなどして取り組んできていました。しかし、今、私は見守っています、あるいは、むしろ見守ることが生じています―“私が見守っている”のではありません。観察者を見守っています。以前、私は恐れを見守りました。今、観察者である“私”を見守っています。
 宜しいでしょうか、観察者とは何でしょうか? 私はそれを見守っています。観察者は、それら全ての収集蓄積された、条件づけられたその当のものです―キリスト教徒やナショナリスト、共産主義者、社会主義者、ローマカトリック教徒、様々な経験や記憶などとして。私はそれら全てです、収集蓄積されて人種的に受け継がれてきたあらゆる記憶と共に。私はそれら全てです。それが正に見ています、従って、それは全く理解できません、なぜなら、それは過去に基づいているからです。しかし、恐れは活動している何かです、そして、過去の収集蓄積を手にして観察者は言います、“私は見ようと思います”と。宜しいでしょうか、観察者は見守っているだけです、“私が恐れを見守っている”のではありません。
 そうして、私が見守っていると、私は観察者について学びます、そして、私は、観察者が、何らかの観念や記憶の束としてのそれを除けば、何の根拠も実体もない単なる一連の観念や記憶にすぎないと学びます。しかし、恐れは何らかの現実です。そうすると、私は事実を何らかの抽象を交えて理解しようとします―そうすると私は理解しません。
 従って、観察者が見守るとき、正に見守っているだけになります、それは“見守るものと見守られるもの”ではありません。私は、あなたがその二つの間の違いを分かるかどうか知りません。人が恐れを見守るとき、観察者と観察されるものとの間に、見守るものと見守られるものとの間に何らかの空間が生じます。その空間の中で―それは時間的な間隙です―恐れを取り除こうとする努力が生じます、そして、それを取り除くには時間を要します―“私はその恐れについて何かをする必要があるでしょう”、“私はそれを支配しなければならない”、“私はそれを非難しなければならない”となります。見守るものと見守られるものとの間に空間が生じるとき、私は言います、“私はそれから逃げなければならない”、“私はその恐れを取り除くのを助けてくれる何らかの方法や人物を見つけなければならない”と。
 しかし、観察者を見守っているとき、観察者は単なる収集蓄積された、条件づけられた記憶の束にすぎないという気づきが生じます。そうすると、観察者が正に観察されるその当のものです。従って、見守ることが何にも増して重要です、それは“観察者と観察されるもの”ではありません。そして、人がそのように余すことなく文字通り気を付けて見守るとき、恐れが生じるでしょうか―理論的にではなく、実際に。
 私は外側の恐れを観察できます、つまり、意識的な次元の恐れです、意識の上位で私は様々な形の恐れを観察できます。深い次元で、無意識の次元で、恐れを観察することは可能でしょうか? なぜなら、私が全く意識しない隠れた恐れがあるからです。そうすると、問題が生じます、どのようにして私は隠れている何かを、私が計れない何かを意識的な努力でもって見守るのでしょうかと。そうすると、私は夢に頼ります、分析家に頼ります、そして、様々な解釈の大騒ぎになります。しかし、私は私がなぜ夢を見るのかを決して問いません。夢を見る必要がありますか? 私は、多くの分析家たちが、もしあなたが夢を見ないとあなたは気が違うから、あなたは夢を見なければならないと言うのを知っています。しかし、我々は夢を見る必要があるのかどうかを自分自身に決して問うてきませんでした。
 我々は問うています、無意識を、その全ての恐れや動機と共に、どのようにして我々は検討するのかと、どのようにして我々はそれを意識するのかと、どのようにして我々はそれを露わにするのか、暴くのかと。そのような恐れは意識的精神が恐らく入っていけない領域に深く根差しています。意識的精神―その精神の上位層―はそれ自身だけしか検討できません、それはそれの知らないことを検討できません。無意識は、睡眠中に、それ自身を夢の中で描き出します、それは非常に複雑なプロセスです。その夢が何であるのかを、人が睡眠中に、目覚めて解釈することなく、理解することは可能です。しかし、なぜ人は夢を見るのでしょうか? それは非常に重要な問いかけです。人は夢を見て、その夢の解釈をするべきであるというのではありません、それは時間の浪費です。問題は、むしろ、なぜ人は夢を見るのかということです。なぜなら、睡眠中の夢やその活動はエネルギーの浪費だからです、なぜなら、睡眠中に精神はそれ自身を新鮮にするからです。しかし、もし人が夢を見ながら、活動的で、騒ぎ立てて、気を揉んでいるなら、精神は新鮮になりません。そうすると、人はなぜ人が夢を見るのか、夢を見ないことは可能かどうかを明らかにする必要があります。
 夢を見ないことは可能です、そして、それは日中あなたが起きて目覚めているとき、あらゆる思考や感情そして反射的反応の働きに気づいているときにのみ可能です。そうすると、あなたは無意識を暴き始めます、そして、それは恐らく意識的精神のできないことです。そうすると、あなたは、あなたがバスに乗っていて見守っていると、発見し始めます―もしあなたが見守っているなら、いつまでも雑誌や新聞を読んでいないで―その恐れのヒントや暗示があることを、そして、あなたはそれを見守りながら、それを追究できます。そのように、あなたは無意識の内容を、そのように見守りながら、それに気づくことによって、暴きます。
 そこで、再び、あなたは見守る必要があります、目覚めている必要があります。そして、もしあなたがそうするなら―他に何もすることがない暇なときにではなく―真剣に、それを追究するために、脇目も振らずに―そうすると、あなたは自分自身で心理的に恐れから完全に解放されうることを明らかにするでしょう。あなたはその意味が分かりますか? 内面的にも外面的にも、些かの影もありません。あなたは物事を現にある通りに明瞭に見て取ります。それは精神の明瞭性です、それは物事を、客観的に、外面的にも内面的にも、現にある通りに見て取ることです。あなたが明瞭に見るとき、いかなる問題も生じません。ほとんどの我々が様々な問題に取り巻かれているとき、何らかの問題を理解することは、その全プロセスを理解することです―特定の問題ではありません、なぜなら、一つの問題はあらゆる他の問題と関連しているからです。そして、あなたが一つの問題を完全に、その行き着く先まで理解し始めると、あなたはあらゆる問題を理解しました。