アラン W アンダーソン(A) 前回の我々の会話の最後に、我々は生きることと愛と死の関係性を検討し始めていました。私は今日我々がこのことを我々の継続的な関心である人間の変質と関連させて追究できることを願っていました。
クリシュナムルティ(K) 通常、このことはそのように複雑な問題です、生きることです、それが意味することとその実際の現実です、そして愛です、先日我々はそのことを詳細かつかなり綿密に話しました、そしてこの途轍もない死の問題も話しました、あらゆる宗教が慰安をもたらす信仰や慰安をもたらす観念を提供してきて、彼らは彼らがその恐れや悲しみそして死の意味するあらゆることの解決を差し出していると願っています。そこで私は恐らく我々がその問いから始めるべきであると思います、つまり、生きるとはどういうことかです、そしてそこから進めて愛と死へと向かいます。
A 良いでしょう。
K 我々は我々が生きると呼ぶものを今検討すべきではないですか、実際に起こっていることを検討すべきではないですか?
A はい。
K 実際に起こっていることです、我々が存在、生きることと呼ぶものです、その二つの言葉が人の自分自身をよりよくしようとする努力のこの全領域をカバーします―技術的な世界だけではなく、心理的にも人は違っていたいと思います、人は現実の自分など以上の自分でありたいと思います。そのように我々が人間を見るとき、どこの国であろうと、どの人種や宗教であろうと、それがあなたの生まれた瞬間からあなたが死ぬまでに行う絶え間ない格闘です、それは戦いです。他の人間との関係の中だけではなく、親密であろうと親密ではなかろうと、経済的にも、社会的にも、倫理的にも、それは壮大な戦いです。私は誰もがそのことに同意すると思います―それは明らかです。争い、格闘、苦しみ、痛み、欲求不満、苦悶、絶望、暴力、残忍性、殺戮、それら全てが実際に起こっていることです。四十年、五十年をオフィスや工場で過ごして時折の休暇を一か月与えられます―狂気じみたそれです、なぜならその休暇は単調な生活の反動だからです。
A “タイム”です。
K あなたはその人たちをヨーロッパ中で目にします、アメリカ人は、例えば、美術館から美術館へ足を運んでこれやあれを見ます、その人たちの決まりきった日常の単調さからの逃亡として忙しなく見て回ります。そして彼らはインドへ行きます、およそ一万五千人にもなると思いますが、奇妙な服装をしたいわゆるヒッピー族が様々な僧院や都市にいてこの上もなく風変わりなことをしています―中にはドラッグを売っていたりする者もいたり、インド風の衣装を身に着けていたり、僧侶の服装を見に纏っていたりなどします。それは彼らの単調な、決まりきった日常生活からの一種の壮大で、ロマンティックで、感傷的な逃亡です。それが我々の生きると称するものです、関係性の中の戦いです、ビジネスの中の戦いです、経済的な環境の中の戦いです。それは絶え間なく格闘することです。
A しかしあなたの言ったことは生きることそのものの中に深くしみ込んでいるように思われます。我々にはことわざがあります、生は戦いであると、我々はそれをあなたの言った観点から解釈します。
K そして誰もがなぜそれはそのようになるのかと言わないように思われます。我々皆がそれを受け入れてきました。我々は言います、はい、それは我々の存在の一部です。もし我々が格闘しなければ我々は破壊されます、それは我々が自然に受け継いできたものの一部です。我々は動物がどのように格闘するのかを目にします、そのように我々は部分的には動物であり、部分的にはサルなので、我々は格闘して、格闘して、格闘し続けなければなりませんと。我々は決して言ってきませんでした、このことは正しいのかと。これが人の生き方ですかと。これが人の振る舞い方ですか、これが生きる美の感じ方ですかと。
A 通常の質問はどのようにしてその戦いをより効果的に戦うのかということになります。
K 効果的にあるいは成功裡に、なるべく傷を負わずに、なるべくストレスを受けずに、心臓への負担を最小限になどです。しかしその土台は格闘することに備えることです。僧侶もそうします、宗教的な人々もそうします、ビジネスマンも、芸術家も、画家も、あらゆる人間が、現にある通り様々に色分けされながら、戦っています。そしてそれを我々は生きることと称します。そしてそれを叡智の眼差しで見つめる人間は言うかもしれません、後生だから、それは人の生き方ではありません、他の生き方があるのかどうかを見つけ出しましょうと。誰もそう問いません! 私は世界中のとても沢山の政治家たちや多くのグルたちと話してきました、私は芸術家たちと、ビジネスマンたちと、職人たちと、労働者たちと、非常に非常に貧しい人たちと話してきました、それは一つの絶え間ない戦いです―富者、貧者、中流階級、科学者たち、お分かりでしょうか。
A おお、はい、分かっています。
K そして誰も言いません、これは間違っている、これは生きているのではありませんと―ひどいことです!
A 私は自然界の幻想的文学について考えていました、それはその形と内容という点で三つに分けられる傾向があります。一方、我々には...生の戦いを事細かく扱う叙事詩があります。
K 我々にはオデュッセイアがあり、マハーバーラタがあり、とても沢山のその他の書物がみなこのことを称賛します。
A ...そして他のものは我々が生の漂泊と呼ぶものを扱います、オデュッセイアはその具体的な例でしょう、その中には個人間の対決という点で多くの戦いがあるけれども。それから成就するものとしての生の考え方を扱った文学作品があります。しかし我々は成就すること自体を問うところまでほとんど行きません。それらが研究されるとき、それらは文学作品という観点から研究されます、そしてあなたが取り上げた問い―それは私には学生に問い掛けられるべき問いであるように思われますが―は決して持ち上がりません。
K それが本当の問いであり、その問いが問われなければなりません。
A 私はあなたが話しているとき反省していました、授業ではこの戦いは当たり前のこととされていると。それは辛抱することなどに関係づけられることです、しかしその問いは起こりません。
K はい、それは幾人かの若い人たちに起こってきましたが、彼らは急に脇道へ逸れます。
A その通りです。
K 何らかのコミューンへ行くか、ヒンズー教徒になるか、彼らはどこか古代の国へ出向いて、ただ風化します、何もせず、何も考えず、ただ生きるだけです。
A それはただの連続的な活動であり、非連続的な活動ではありません。
K その通りです。そのようにそれは正当な根拠のある問いであり、それには正当な根拠のある答えがなければなりません、理論的な答えではなく、このように言う答えです、つまり、分かりました、私は異なる生き方をします。私は争いとは無縁に生きますと。その意味することを見てください。私はもしあなたが格闘しないならあなたは社会から抹殺されるのかどうか疑問に思います。個人的には私は決して格闘しませんでした、私は自分自身や他の誰かと争うことを考えたことは一度もありません。そのように私はその種の問いが言葉で問われるだけではなく、その言い回しの中に人は一人ひとりが別の生き方が可能かどうかを、ただの一つも争うことなく生きることが可能かどうかを見なければならないと思います。それは分断とは無縁であることを意味します、つまり、争いは分断を意味します、争いは対極関係にあるもの同士の戦いを意味します、争いはあなたと私、我々と彼ら、アメリカ人とロシア人、分断、分断、分断を意味します、内面的にだけではなく外面的にも断片化を意味します。断片化があるところには戦いがあるはずです、一つの断片が力を得て他の断片を支配します。そのように叡智の人は―もしそのような人がいれば―まどろむことのない、ぼんやりと暮らすことのない、何らかの幻想的、神秘的ビジョンやそれら全ての類に単に逃げ込むことのない生き方を、日常生活の中にいかなる種類の争いも消滅している生き方を見つけ出す必要があります。それは可能です。私はこのことを私の周りで過去五十年間見守ってきました、そのような争いが私のまわりで起こってきました、精神的にも、経済的にも、社会的にも、一つの階級が他の階級と争ってきました、独裁政治、ファシスト、共産主義者、ナチ、お分かりでしょうか。
A はい、分かります。
K それら全てがここにそのルーツがあります、つまり、従順であることを奨励すること、従順であることを止めさせること、模倣すること、順応すること、全てが戦いです。そのように生が戦いになっています。そして私にとって個人的にはそのように生きることはこの上もなく破壊的で非創造的な生き方です。私はそのようには生きません、そうでないなら私はむしろ消え去ります!
A 私は恐らく、あなたがそれを表現したように、我々が自分自身をこの戦いと一体化するとき、何らかの混乱がここで我々の精神の中に起こっていると思います。我々がその問題を考え始めるとき、つまり、“このことを継続する必要があるのか”、そして我々が我々の目の前にある戦いのイメージを抱いているとき、我々は我々が本当に話しているのは“赤い血で染められた歯と爪をもつ自然の営み”の人間版を想像しがちです。しかしもし私があなたを正しく理解しているなら、これは基本的な間違いです、なぜなら我々の以前の会話の中であなたは非常にはっきりと指摘しました、我々は恐れと危険を区別しなければならないと、そして動物たちは、それら自身の環境の中で、危険を前にして明確かつ迅速に行動します、一方、我々はもし我々がこのアナロジーに基づいて人間の争いを研究しようとするなら過ちを犯すように思われます、なぜならそのアナロジーは、もし私があなたを正しく理解してきているなら、全く当てはまらないからです。
K 当てはまりません、はい。
A あなたはこれが我々のしがちなことであると思いませんか?
K もちろんです、もちろんそうです。我々は人間を理解するために動物や鳥を研究します。
A はい。
K ところが、あなたは人間を研究することができます、それはあなた自身です。あなたは人間を知るために動物へ向かう必要はありません。そのように、それは、宜しいでしょうか、本当に非常に重要な問題です、なぜなら私は、もし私に自分自身のことを少し言わせていただくなら、それら全てを見守ってきたからです。私はそれをインドで見守ってきました、つまり、托鉢僧たち、僧侶たち、グルたち、弟子たちや世界中の政治家たちです、私はどういうわけか偶然にもそれら全ての人と会っています。有名な作家たち、幾人かの画家たち、それらほとんどの人たちが私に会いに来ました。そして彼らは深い不安を感じています、もし彼らが格闘しないと、彼らは何ものでもなくなると、彼らは落伍者であると、彼らにとってはそのような生き方が唯一かつ正しい生き方なのです。
A 生産的と称されるものへ自分自身を鼓舞すること。
K そして我々は子供の時からこのように教えられています。
A はい。
K 我々の教育がそれです。戦うのです、自分自身だけではなくあなたの隣人とも戦うのです、それでもあなたはあなたの隣人を愛すのです、お分かりでしょうか。それはとても馬鹿げています。このように言ってきて、それでは争いとは無縁の生き方があるのでしょうか? 私はあると思います―それは明らかです―それは分断というものを理解することです、争いというものを理解することです、どのように我々が断片化されているのかを見て取ることです、それは様々な断片を統合しようとすることではありません、それは不可能です、そうではなく、そのように気づくことから統合するのとは全く異なる行為が生まれます。争いを生む、分断を生じさせる、この絶え間ない戦い、不安、緊張、心不全をもたらす断片化を見て取ることです。お分かりでしょうか。それが起こっていることです。それを見て取ること、それに気づくことです、そうするとその正に気づきが争う行為とは全く異なる行為をもたらします。なぜなら争う行為にはそれ自身のエネルギーがあり、それ自身のエネルギーをもたらします、そしてそれは分断的であり、破壊的であり、暴力的です。しかし気づいて行動するエネルギーは全く異なります、それは創造のエネルギーです。創造的であるならいかなるものも争うはずがありません。芸術家がその人の色彩と争っているなら、その人は創造的な人間ではありません。その人は完ぺきな職人的技能、完全な技術、絵の才能を持っているかもしれませんが...
A あなたが両方の活動に関して“エネルギー”という言葉をここで使ったことに私は非常に興味を覚えます。
K 両方に、はい。
A そしてあなたはそのエネルギーがその根本のところでは異なると言いませんでした。
K はい。
A 現象は異なります。
K はい。
A 人が成功し、繁栄し、勝利し、その活動の目的を遂げるとき、そしてこのような争いに従事するとき―人は自分を従事させると解釈します―人はいつも物事が自分に寄ってくると考えがちです。人がこのように行うとき、もし私があなたを正しく理解しているなら、エネルギーが放たれますが、それは断片的なパターンの中で放たれます。
K 争う形で、はい。
A はい。一方、気づきと共に放たれるエネルギーは同じエネルギーではあるが、それはいつも全体的です。
K 全体的。はい、そうです。従って、正気であり、健全であり、神聖なものです。
A はい、私は断片化したエネルギーのパターンへこのように粉々にされるエネルギーの放たれ方は、我々が“悪魔的”という言葉で我々が言おうとするものを本当に感じます。
K その通りです。
A それは強烈な表現です。
K それは秀逸な言い方です、それはこの上もなく破壊的なものです。
A その通りです。
K そしてそれは我々の社会、我々の文化のことです。
A 我々がその悪魔的!という言葉に言及したことで、私はソクラテスのことをちょっと考えていました、彼は彼の言うところの“ダイモン”に言及しています、それは全体の中で働くエネルギーを意味します。
K その通りです。
A そして我々はその言葉を“ソクラテスの弁明”の中に正にあるギリシャ語から取ってきているのですが、我々はその意味を逆さまにして、今やそれが...を意味します。
K ...悪魔。
A はい。そして同じことが“アスラ”という言葉の使い方でも起こりました。元々のベーダではこれは悪魔的なことを意味していなくて、根本的な意味の分極化は起こっていませんでした。それでもついに我々は神と悪魔ということにしてしまいました。
K はい。
A それは、私が思うに、我々自身の...が全くもって思い描いたものの他の何ものでもないとあなたは示唆しています。
K ...断片化した...
A ...我々が自分自身で生み出してきた悪魔的な行為。
K その通りです。
A 私にはこのことが途轍もなくよく分かります。
K そのように我々の今の生き方はこの上もなく非現実的で不健全な生き方です、そして我々はその不健全な生き方がもっと現実的になってほしいのです! それが我々のいつも要求していることです。我々は決して言いません、全体的で従って正気で神聖な生き方を見つけようと。そしてそのような生き方に気づくとき非断片的で余すことのないエネルギーが放たれる行為が生まれます、従ってそれは芸術家やビジネスマン、政治家、聖職者や世俗の人のそれとは何の関係もありません。そこでそのような精神、そのような生き方をもたらすためには、人が内と外で、我々の内側と外側で実際に起こっていることを観察する必要があります、そしてそれはそれを見守ることであり、それを一変させようとか、違った順応の仕方をしようとかではなく、現実を実際に見ることです。私は山を見ます、私はそれを変えられません、たとえブルドーザーでもそれを変えられません、しかし我々は我々の見るものを変えたいと思います。観察者が正に観察されている当のものです、お分かりでしょうか。従ってその中には変化というものはありません。一方、気づくとき観察者というものはいません、従ってただ見て取って行うだけです。
A このことはあなたが美や熱気、苦しみや行為に言及した我々の以前の会話を照らし出します。
K ...行為、はい。
A 私はそれらの中で正しい関係性を回復するためには我々が苦しみから始めなければならないかどうかをあなたに尋ねたことを覚えています、その苦しみが、もしそれが知覚されるべくして知覚されるなら、熱気を生むということを覚えています。
K その通りです。
A 人はそれを引き出そうとする必要はありません、それは起こります。そして同時に美と愛が現れ出ます。そのように熱気自体が慈悲心です。“遍く慈しむこと”が熱気と共に生じます。
K 熱気と共に、その通りです。
A はい。
K それでは宜しいでしょうか、もし教授あるいは教師あるいは親としてあなたがこのことを指摘できるなら、我々が生きている非現実的な生き方、その破壊性、地球に対する全くの無関心を指摘できるなら―我々は我々が触るものは何でも破壊しています―そして争いの全くない生き方を指摘できるなら、それは、私にはそう思えますが、教育のこの上もない最高の働きです。
A はい、このことは教師自身が争いとは無縁でいなければならないことを正に要求すると私には思われますが。このことは我々の教育構造の中で起こることから非常に異なった観点で離れることです。私は教育の学位をもつ私の同僚たちが教育上の技術に途轍もなく重きを置くことに気づいていました。
K もちろんです。
A そしてあなたが議論してきている種類の何らかの変質を遂げている個々の教師の問題は根本的な関心事とは見なされません。利他的な関心事としてはもちろん教師が学生たちに心から興味を持つことなどその類であり、それは確かにそれ自体称賛されるべきことです、しかしそれは教師の変質の後にやってくるものです。
K 宜しいでしょうか、始めに私が自分自身を変質させなければなりません、そうすると私は教えることができます。
A その通りです。
K しかし、宜しいですか、そのことの中にあまりはっきりしていないことがあります。それは私は私が変わるまで待つというものです。なぜ私は変わることができないのですか、もし私が教育者なら、その正に教えているときに、なぜ私は変わることができないのですか? 男子も女子も、学生たちは争って生きています、教育者たちも争って生きています。そこでもし私が教育者で多くの学生を抱えているなら、私はそのことから始めてそして言います、私は争っています、あなたも争っています、議論しているとき、授業で我々の関係性に気づいているとき、私やあなたがこのような争いを解決できるのかどうかを見てみましょうと言います。そうすると何らかの行為が生まれます。しかしもし私が私の全ての争いがなくなるまで待つなら、私は永久に待ち続けることになります。
A 私は今あなたの言っていることがはっきり分かります。あなたの言っていることは正にこうです、つまり、教師が、現実に争っている教師がこのことを素直に自覚して、教室へ入って行く...
K その通りです。
A ...争いのない人としてではなく...
K その通りです。
A ...彼は教室へ入って行きます、そして言います、さあ、我々はそれと面と向き合っています、そして彼は学生たちを見てそれを目の前に広げます。
K それが私の最初に議論することであり、技術的なテーマではありません。なぜならそれが生きていることだからです! そしてまた技術的なテーマを正に教えているときでも私は言います、良いですか、我々がそれをどう取り組むのか見てみましょう、そのことから学生と教育者が両者の抱える争いを知り、それらを解決することに興味を持ち、従って途轍もなくそれに興味を持つことを学びましょうと。そのことは途方もない関係性を生みます、私はそれを見守ってきました、私がインドやイギリスの幾つかの学校へ行くとそれが起こります。
A それが起こっているとき愛が生まれます。
K もちろんです、それがその正に本質です、なぜなら私は気遣うからです、私は責任を感じます。
A このことに少しだけ踏み込んでも良いですか。この一連の会話で私が気にかけていたことの一つは、我々の思考と知識の議論の中で我々が言っていたことが、思考と知識の中にそれら自体の性質に関係する、思考の性質と知識の性質に関係する何らかの機能不全があると人によっては感じるだろうということです、そしてそれは、私があなたから理解した限り、思考や知識が正しく使われているというよりも思考は何らかの病であり、知識は何らかの病であるという印象を非常に強く与えうるということです。
K もちろんです。
A それらの性質はそのようには腐敗していません。
K 確かに腐敗していません、それはそれらの使い方です。
A はい。従って、私が思うに、あなたの言っていることを理解するとき、思考の使い方と知識の使い方について心に留めておく矯正的な手段に気づいておくことがこの上なく重要なことです、そしてそれと同時に思考の原理や知識の原理それ自体はその性質上腐敗していると仮定しないことがこの上なく重要なことです。
K 明らかにそうです。マイクロフォンはマイクロフォンです。それは何も腐敗していません。
A その通りです、しかし宜しいですか、途轍もなく強く痛切に感じることは、人が彼の学生たちとの関係の中でこのことをやり始めなければならないことです。私は私自身のことをここで少し話さなければなりません。何年か前に私はあなたの講演を聞きに行き私は非常に注意深く―私は思いました―耳を傾けました。しかし、もちろん一つの講演それ自体は、少なくとも私のようなものにとっては、十分ではありません。あるいはもっと正直に言うと、私はその時その講演に十分満足しませんでした、なぜならそれは、今思い返すと、我々が議論してきた原理をあなたはその時非常に明確に話したからです。私はある印象を抱いてその講演から離れていきました、つまり、あなたの言っていることと仏教との間に非常に近い関連性があると、そして私は全てを、学者たちがしがちなことですが―あなたは我々が世界をどのように何らかの種に分断するのを知っています―レッテルを張り付けるようにして考えていました。そして我々の一連の会話の中で今私は私が根本的に間違っていたことに思い至りました。そして私は自分を戒めるように、お分かりですか、考えています、私はその時私がそれまでに考えたことを考えていたかもしれないと、そしてそれはあなたが関心を示すこととは何の関係もなかったことであると。人は人が教室へ入って行く前に授業を始めるにあたって何らかの権威の証となるものを持っている必要がないということは目から鱗が落ちることです。我々は我々が話すのを避けなければならないことがあると信じています、なぜならそれらは意見の相違や分裂をもたらしたり我々を不快にしたりするからです、従って争いについて話すのは止めましょうとなるからです。あるいはもし我々がそれを話そうとするなら、それを光を手にする人が光を持たない人を照らすという観点から、我々が彼らに良いニュースを届けるという観点から話すようにしましょうとなるからです。
K グルのように。
A はい、しかし率直に教室へ入って行き言うのです、つまり、私はこれを手にしていてあなたはそうではない、あるいはあなたは手にしていて私はそうではないと私が考えるようないかなる前提条件も持たずに、さあ一緒に見てみようと言うのです。我々はそれを共に手にしているだけです。
K そうです、共有しています。
A それを共有しています。我々の会話が終わってから、私は教室へ入って行ってこのように行ないます!
K そうすると、宜しいでしょうか、争いによって生み出されるエネルギーは破壊的です。争いや格闘、戦いによって生み出されるエネルギーは暴力やヒステリー、神経症的な行動などを生みます。一方、気づく行為は全体的であり、非断片的です、従ってそれは健全であり、正気であり、細心の気遣いや責任をもたらします。宜しいですか、それが生き方です、つまり、見て取ること、行うこと、見て取ること、行うこと、いつでもそうです。私は見て取ることができません、もし観察されるものと異なる観察者がいるなら、つまり、観察者が正に観察されている当のものです。
A このことは我々がいわゆる死と向き合うことを通じて驚くべきことを行ないます。
K 我々はそのことに至ります、はい。
A 恐らく私は先を急ぎすぎています。
K いいえ、その通りです。そのように、宜しいですか、我々の意識の全内容は争いであり、戦場です、そしてこれを我々は生きていると称します。そうするとそのような戦いの中にどうして愛が存在しえますか? もし私があなたを叩いているなら、もし私があなたと競っているなら、もし私があなたを超えようとしているなら、成功しているなら、冷酷なら、愛や慈悲心、優しさ、寛大さの炎がどこでそれら全ての中に灯るのですか? 灯りません。それが今の現実の我々の社会の行為という点あるいは愛という点で倫理的責任感を欠いている理由です。それは存在しません。
A 私は教室での私自身の経験に戻りたいと思います。私にはバガヴァドギーターの中の最初の章の最初の一節、“ダルマの領域の中で、クルの領域の中で”は同格の言明であり、その領域は一つであるというようにいつも思ってきました。私が教室へ入って行って我々がバガヴァドギーターを紐解くとき、私はいつも言語的にも、私にとってはそれが原典から明確なので、全体の精神という点からもこのことは言われている通りであって、それは一つの領域であり、二つの領域ではないことを示そうとしてきました。しかし今私があなたに耳を傾けてきて、私はこう言って他のやり方で始めていたらその方が良かったと思います、つまりこうです、それが一つの領域かどうかを見てみましょうと。我々はこの点で原典を読もうとしているのでは全くありません、我々はここで始めようとしているだけです。ここがその領域です。その教室がその領域です。それでは見てみましょう。その方がよりよいやり方だったでしょう。
K もし教室がその領域であるとあなたが理解したのなら、あなたはその全体的なことを理解しました。
A はい。しかし私は、このことを理解してみると、それを単に言葉で詳細に説明することで十分であるという考え方をして教室へ入って行きました。しかし明らかにそれは違います。そしてこれは恐ろしいことです。なぜなら、たとえもしあなたが教室で我々が正しいと呼ぶものとして見かけの上で通ることを言うとしても、それは依然としてこのような行為という点で首尾よくいかないでしょう...
K 行為、はい。
A ...我々が話してきていた。
K その通りです。宜しいでしょうか、そこから行きましょう。我々は生、生きることを議論してきました、その中には愛は全く存在しません。愛は、我々が言ったように、知覚するものが知覚される当のものであってそのように行動するときにだけ存在しえます。そうすると、そのような炎、そのような慈悲心、あなたの手の中に地球を抱くそのような感覚が生まれます、もしそのことが理解されるなら、そしてそのことから振る舞うなら―なぜならそれが土台だからです、もし争って振る舞うという意味で振る舞わないなら―そうするとそれを我々自身の中に確立したあと或いはそれを観察するとき我々は次の死の問題に進みます。なぜなら死の問題は計り知れないことだからです。私にとっては生きることや愛そして死は分離していません、それらは一つの活動です。それは私が二十年後あるいは明日出合うその死ではありません。それはそこにあります、それは愛と共に、死と共にそこにあります、つまり、それは継続的な活動であり、非分断的です。これが私の生き方であり、考え方であり、感じ方です。それが私の生です。私は本気でこう言っています、それらは私にとって単なる言葉ではありません。
しかし我々が死の問題に行く前に我々はこの問いを検討しなければなりません、つまり、意識とは何かです。なぜなら人は意識が何であるのかを、その説明ではなく、その叙述ではなく、その言葉による表現ではなく、意識の現実を理解しなければならないからです。私は人間として正に意識していますか? それでは意識しているとはどういうことですか? 気づいているとはどういうことですか? 私は余すことなく気づいていますか、それとも私はただ時折何らかの危機が生じるときに気づくだけですか、その他のときには私はまどろんでいるのですか? そのようにそれが意識が何であるのかを明らかにすることが非常に重要であることの理由です。
A はい、あなたが今言ったことは我々が継続する活動としての意識、全く行動の中に置かれた意識と“自然の睡眠コース”内のとぎれ、言わば爆発とを区別しているように私には思えます。
K その通りです。
A はい、それは分かります。
K それでは意識とは何ですか? 意識とはその内容のことです。私はそれを非常に単純に言っています。私はそれらのことをむしろ非常に単純に話すほうを好みます、手の込んだ言語的な描写や理論や仮定などその他の全ての類によらずに話すのを好みます。個人的にはそれは私にとって何の意味もありません。
A もしそれが真理ならそれは単純でしょう。
K 単純です。意識は正にその内容です、つまり、その内容が意識です。その二つは分離していません。つまり、思考すること、不安に思うこと、何かと一体化すること、争うこと、不安、執着、無関心、恐れ、快楽、苦悩、苦しみ、信念、神経症的な行動、それら全てが私の意識です。なぜならそれがその内容だからです。
A これは世界は私であり、私は世界であると言うことに相通じる発言です。
K その通りです。
A そのようにそこには何らかの継続性があります。
K はい、そのように、その内容であるそれが言います、それは私の家具です、それが私の神です、それが私の信念です、様々なニュアンスで、細かい区別をしてそう言います、それら全てが私の意識の一部です、つまり、私です、私はそれです、私はその家具ですと言う意識の一部です。私がそれは私の家具ですと言うとき、私はそれと一体化しています、そうすると私はそれに執着します、私はそれです。私は私が獲得してきたその知識です、私がそれで成長してきたその知識です、私がそれで成功を収めてきたその知識です、私に大いなる快楽や家、地位、力を与えてきたその知識です。そのような家が私です。私が経験してきた戦い、苦しみ、苦悩、それが私です、それが私の意識です。そのように意識は正にその内容です、その内容から分離している意識としての分断はありません。私は意識を縦にも横にも引き延ばしたり広げたりできますが、それは依然としてその領域の中です。私はそれを引き延ばすことができて言います、神は計り知れないと、つまり、それは私の信念です。私は私の意識をそれが拡げられると想像することによって広げてきました。思考が世界の中で何を作り出してこようと、それは私の内面の中にあるものであり、その内容です。全世界は、とりわけ西洋世界は思考に基づいています、つまり、その活動、その探求、それが成し遂げること、その宗教などは根本的に思考の結果です、そのイメージなどと共に思考の結果です。そのようにそれは意識の内容です。違いますか?
A いいえ。
K そうすると、そこからこの問いが起こります、死とは何かです。死はその内容と共に意識の消滅ですか? それとも死はそのような意識の何らかの継続ですか? あなたの意識は私のそれと全く異なりません。それには小さな相違や小さな修正、もう少しの広がり、もう少しの縮小などがあるかもしれませんが、本質的に意識は私の意識であるのと同様にあなたの意識でもあります、なぜなら私はあなたと同様に私の家に執着しているからです。私は私の知識に執着しています、私は私の家族に執着しています、私は絶望しています、私がインドあるいはイギリスあるいはアメリカやどこにいようと。そのように、そのような意識は共通しています。このことは反駁できません。お分かりですか?
そこで何が起こるのか見てください。私はこの内容を今まで検討してきませんでした。私はそれを間近に今まで見てきていなくて私は怯えています、私が死と呼ぶものに、未知のものに怯えています。それをしばらくの間そう呼びましょう、未知のものと。そのように私は怯えています。それに対する答えはありません。誰かが来て言います、はい、友よ、死後の生というものがあります、私はその証拠を握っていますと。私はそれが存在するのを知っています、なぜなら私は私の死んだ兄弟や私の死んだ息子とコンタクトを取ってきているからですと―我々はそこへ間もなく踏み込んでいきます。そうして私は、怯えて、不安になって、恐ろしくなって、病んで、お分かりですか、私はそれを途轍もなく、即座に受け入れて、言います、はい、輪廻転生がありますと。私は次の世に生まれ変わります、そしてその生はカルマに関係していますと。カルマという言葉は行うことを意味していて、それはそれに付随する全てのくだらない長話ではなく、それはただ行うことを意味します。それが何を意味するのかを見てください。つまり、もし私が輪廻転生を信じるなら、それはその内容を伴ったこの意識のことです、それは“私”であり、私の自我であり、私自身であり、私の活動であり、私の希望や快楽であって、それら全てが私の意識であり、そのような意識が次の世に生まれ変わるのです、そしてそれはあなたや私、彼や彼女の共通の意識です。それが次の世に生まれ変わるのです、そして彼らは言います、もしあなたが今正しく振る舞うならあなたは次の世で報われるでしょうと、それは因果関係の一部です。
A それは意識の内容の一部です。
K 原因と結果です。
A はい。
K そのように、気をつけて振る舞いなさい、なぜなら、そうしないとあなたはあなたの次の世で罰せられますと。もしあなたが気をつけて振る舞うなら、あなたはあなたの次の世で報われるでしょうと。全東洋世界が輪廻転生に基づいていてそれを信じています。そうすると何が起こりますか? 私は何らかの信念に慰めを見出してきました、それは言います、今気をつけて振る舞いなさい、今良い人でいなさい、今他の人を傷つけてはいけません―しかし実際には私はそれを実行していません!
A その考え方は、私は今気をつけて振る舞うべきである、私はこうすべきである、そうすべきである、後々何かが起こるから私は他のことをすべきであるということです。しかし、そうすると私はそれが果てしのないプロセスであり、私には別のチャンスがあるということをそれに何とか組み込んできました。そのようにして私は何とか引き延ばすことができます、私は引き延ばすことができます。
K 私は引き延ばすことができます、私は後回しにすることができます、私は気をつけることなく振る舞うことができます。
A はい、なぜなら我々は全て最後にはそうするように運命づけられているからです。
K 結局は、はい。
A そのことはあなたがこれらの会話を通じて言ってきたことを理解していないことを示します、つまり、行為の即時性と緊急性です。
K その通りです。
A はい、分かります。
K ヒンズー教徒が恐らくこの考え方の創始者でした―原因と結果です。結果は次の原因によって修正されるでしょう、そうするとこの果てしない連鎖が生じます。そしてもしそれが果てしないなら、我々はそれをいつか破るでしょう。従ってあなたが今何をしようとそれは問題ではありません。そのような信念はあなたが引き続き存在して、あなたはあなたの兄弟や妻や夫や誰それと一緒にいると仮定することによってあなたに大いなる慰めを与えます。しかしその間はあまり気をもむな、あまり真剣に生をとらえるなということです。
A その通りです、はい。
K 楽しみなさい、実際のところ楽しくやりなさい。あるいは、あなたのしたいことをしなさい、その代償を次の世で少しばかり払いなさい、しかし続けなさいと。
A 私がこのことについて高名なヒンズー教教師と話をしていて、私はあなたが正に指摘したこの正に同じ点を指摘しました、そして私は何かの力が働いていると思いました。そして私は言いました、“宜しいですか、繰り返すことを止める見込みは立ちません、もし何らかの行為がこの点に関して即座になされなければ、従ってこのような考え方に染まっている全ての人々の意識の内容という点で何らかの行為が即座になされなければ、果てしなく繰り返すこと以外に何もありえなくて、それについての本当の関心が生まれません”と。
K 彼は何と言いましたか?
A 彼はただ笑うばかりでした、まるで私がほとんどの人たちの本当にはわざわざ頭を悩まして見ようとはしていないことをどういうわけか知覚したかのように。しかし私にとって途方もないことは彼が彼の知的に認識したことに何の関心も示さないことでした。
K 宜しいでしょうか、かれらは偽善者です、彼らはそのようなことを信じて全く反対のことをするのです。
A はい、聖書的に厳密に言うと。我々の次回の会話で我々は死のことを続けることができますか、というのはそれが私にとって...と思われるからです。
K おお、はい、このことにはもっと沢山のことが意味されています。我々はそこへ踏み込んでいきます。
1974年2月26日
中野 多一郎 訳