生きるとは死ぬことと見つけたり

“生きるとは死ぬことと見つけたり”

生きるとは死ぬことと見つけたり 2

クリシュナムルティ 植物の蔓が伸びています。それらは朝顔と言われている植物だと思います。それらは植物のみが湛える途轍もなく淡い青色をしています、あるいは藤色か独特の白さを帯びた深い紫色をしています。生きている花々だけがそのような色彩を湛えます。それらラッパ型の花々は朝に萌え出て花を咲かせ、数時間の後に萎れてしまいます。あなたはそれらの花々を見たことがあるに違いありません。それらが朽ちるときは、それらが生きているときとほとんど同じくらい美しいのです。それらは数時間咲いて朽ちていきます。そしてそれらはその死の中にもその花の質を失わないのです。一方、我々はひどく争って惨めになり、束の間の楽しみを手にすることはあっても、三十年、四十年、六十年、八十年と生き、心に喜びを湛えることなく、ひどく惨めになって死ぬのです。そのように我々の死はその生と同様に醜いのです。
 私は、今宵、時間と悲しみと死について話したいと思います。我々は非常にはっきりさせなければならないと私は思います、我々が話しているのは何らかの観念ではなく事実だけであると。その花のことです、咲いて、美を湛え、繊細で、得も言われぬ香りを放つその花のことです。それが事実です。風が吹き、日が昇るとそれは数時間のうちに朽ちます、それでもそれはその死の中でその美を湛えています。それも事実です。そのように我々が見ていくのは事実であり、何らかの観念ではないのです。
 あなたが想像力を駆使するなら、あなたはそれらの花々の色彩を想像できます。あなたは頭の中に描きます、繊細な色を湛えるその蔓性植物をイメージします、その花々の繊細な色合いやその途轍もない美をイメージします。しかしあなたのイメージ、あなたのその植物についての観念、あなたがその植物について感じることはその植物そのものではありません。それらの花々を咲かせるその植物は事実です。一方、あなたのそれら花々についての観念は、それは頭の中で起こった一種の事実であるけれども、実際の事実ではありません。あなたは観念でその花に実際に触れているのではありません。このことはこのトークを通じて我々が心に留めておかなければならないことであると私は思います。我々は事実を検討しているのであり観念ではないのです。あなたは観念で事実に直に、直接、手に取るように触れることができないということです。死は経験しえません。人は何らかの観念でそれに直に触れることができません。ほとんどの我々は何らかの観念を抱いて生きています、何らかの方式や何らかの概念や記憶を抱いて生きています。そうすると我々はいかなるものにも全く触れていないことになります。我々は概ね観念を働かせていて、我々は事実に触れていません。
 そこで私は議論しようと思います、むしろそれについて話したいと思います、時間、悲しみ、そして死と称されるあの奇妙な現象です。人はそれらを何らかの観念として、何らかの結論として解釈しうるのか、それとも時間の全問題、時間の領域に触れうるのか、ということです。人は悲しみに直に触れることができます、その途方もない感じです。そして人は死と称されるものにも直に触れることができます。我々は時間や悲しみ、愛、死に直に触れることができるのか、それとも我々はそれらを何らかの一連の結論として、つまり死の不可避なことやその種の説明として単に扱いうるにすぎないのか、ということです。何らかの説明や結論、意見、信念、概念、シンボルなどは正に現実とは何の関係もありません、それらは現実の時間や悲しみ、死そして愛とは何の関係もありません。そしてもしあなたが単にあなたの観念やあなたの意見から時間や悲しみや死の領域にコンタクトしようとするだけなら、我々が言おうとしていることにはほとんど意味がありません。事実、あなたは全く耳を傾けようとしていません、あなたは単に言葉を聞いているだけで、あなた自身の観念やあなた自身の結論や意見にコンタクトしているにすぎなくて、あなたは直に触れようとしていません。
 私が触れると言うのはこういう意味です、私はこのテーブルに触れることができます、私はテーブルに直に触れます。しかしもし私がどのようにテーブルに触るべきかと考えるなら私はテーブルに触れていないことになります。そのように何らかの観念が、直に、何ものも差し挟まず、あらゆる問答を無用にして触れるのを妨げます。そしてこの一時間のトークの間、もしあなたがあなたの耳に傾けていることに直に触れていないなら、あなたは無駄な生を続けるでしょう。我々はこの生を生きているのです。我々は未来の生を議論しているのではありません。我々はそれについて間もなく言及するでしょう。我々はこの生を生きているのです。我々は無駄に生きてきました、それ自ら何の意義も持たない生を生きてきました。我々は労苦の中を、惨めに、相争うなどして生きていて、我々は決して生そのものに触れてきませんでした。もしあなたが、少なくとも私はそう思いますが、単に何らかの観念にコンタクトしているだけで事実に触れていないなら、それはひどく哀れなことでしょう。
 我々は最初に時間について話したいと思います。私はあなたがこの時間と称するものについて、抽象的にではなく、観念としてではなく、言葉の定義としてではなく、考えたことがあるのかどうか、実際に時間に触れてみたことがあるのかどうか知りません。あなたが空腹のとき、あなたは空腹を直に感じます。しかし何を食べるべきか、どのくらい食べるべきか、そして食べることで得たい楽しみなど、それらは全て観念です。事実と観念は別物です。そのようにこの時間という途方もない問題を理解するためには、あなたはそれに直接触れなければなりません、何らかの観念や結論をやり過ごして、何一つ間に差し挟まずに、直に時間に触れなければなりません。そうすると、あなたは時間の問題を検討することができるでしょう、そして精神が時間から自由になりうるのかどうか検討できるでしょう。
 明らかに時計的な時間、物理的な時間の問題があります。それは明らかに必要なことです。その中には記憶や計画、デザインなどが含まれます。我々はそのような時間、毎日の物理的な時間を議論しているのではありません。我々は時計的な時間ではない時間について話そうとしています。我々は物理的な時間だけで生きているのではありません、我々は時計的な時間ではない時間をはるかに多く生きています。我々にとって、物理的な時間ではない時間のほうが時計的な時間よりはるかに重要であり、はるかに意義を持ちます。つまり、物理的な時間は重要であるけれども、ほとんどの人にとって、もっとずっと重要で、もっと意義を持ち、もっと確かな根拠を持つのは心理的な時間です、それは継続するものとしての時間です、つまり昨日という時間であり、夥しい数の昨日という過去であり伝統です、そしてまた現在という時間だけではなく未来という時間もあります。
 そのように我々には過去という時間があります、記憶であり、知識であり、伝統であり経験であり、思い出される過去という時間です、そして昨日から明日へと通じる通路に現在の時間があり、それは過去によって形作られコントロールされた現在です。我々にとって、それは途轍もない意味を持ちます、そしてそれは時計的な時間ではありません、我々はその種の時間的な領域の中に生きています。我々は過去を生きていて、現在と格闘し、明日を作り出します。これは明らかな事実です。複雑なことは何もありません。そのように継続するものとしての時間があり、それは未来や過去という時間です。過去が我々の考え方、我々の行動、我々のものの見方を形作って未来を条件づけます。 我々は時間を何かを発展させる手段として使います、何かを成し遂げる手段として、徐々に変わっていく手段として使います。我々が怠惰で怠け者のせいで我々は時間を使います。我々は自分自身を即座に変質させる方法を見つけていないので、あるいは我々が即座に変わることやその結果を恐れるので我々は言うのです、“私は徐々に変わります”と。従って、我々は引き延ばしの手段として時間を使います、徐々に成し遂げる手段として、変化の手段として時間を使います。何かの技術を習得するためには時計的な時間が必要です、言葉を習得するためには時計的な時間が数か月必要です。しかし我々は時計的な時間ではなく心理的な時間を変化の手段として使うことによって我々は徐々に進行するプロセスというものを導入します、つまり、私はそれを徐々に成し遂げます、私は何かになります、私はこれやあれになります、時間を費やして。
 時間は思考の産物です。もしあなたが明日を考えないなら、あるいは過去を振り返らないなら、あなたは今を生きているでしょう、未来も過去もないでしょう、あなたはその一日を完全に生きていて、その一日にあなたは余すことなく完全に気を注ぐでしょう。我々はそのように完全に余すことなくエネルギーを注いで今日を生きることを知らないので、今日完全に変質することを知らないので、我々は明日という観念を編み出して言うのです、“私は明日変わります”“私は変わるでしょう”“私は明日に任せます”などと。そのように思考が心理的な時間を編み出します、そして思考は恐れをももたらします。
 どうかこのことに付いてきて下さい。もしあなたが私の話しているこれらを今理解しないなら、あなたはこれらを最後まで理解しないでしょう。そうすると、それらはただの言葉に過ぎなくて、あなたはその抜け殻を手にするだけでしょう。
 ほとんどの我々は何らかの恐れを抱いています、医者を恐れ、病気を恐れ、何かを成し遂げない恐れ、一人取り残される恐れ、年を取る恐れ、貧しさの恐れなどで、それらは外面的な恐れです。一方、数多くの内面的な恐れがあります、世間の評判を恐れること、死を恐れること、完全に取り残されて一人で生きなければならない恐怖、孤独の恐怖、あなたが神と呼ぶものにたどり着けない恐怖などです。そのように人は数多くの恐れを抱いています。そして人は恐れるあまり、それが緻密であろうと粗雑であろうと、巨大な何かのネットワークの中に逃げ込みます、あるいは人はそれらの恐れを合理化します、あるいは人はそれを理解できなく解決しえないので神経症に陥ります、あるいは人は恐怖から完全に逃げ去ります、様々な恐怖から逃げ去ります、何かと一体化することによって、社会活動、何らかの改革、政治的グループへ参加することなどによって逃げ去ります。
 宜しいでしょうか、私は何らかの観念を話しているのではなく、あなた方一人ひとりの中で実際に起こっていることを話しているのです。ですからあなたは単に私の言葉に耳を傾けているだけではなく、言われているこれらの言葉を通して、あなたはあなた自身を見てもいるのです。あなたは自分自身を見ています、何らかの観念を通してではなく、あなたが恐れている事実に直に触れているのです、そのことはあなたが恐れている観念とは全く異なります。
 そのように、もしあなたが恐れの性質を理解しないで、それから完全に余すことなく抜け出していないなら、あなたの神々やあなたの逃亡の数々、あなたのあらゆる種類の社会活動などには何の意味もありません、なぜなら、そうすることによってあなたは破壊的な人間になるからです、あなたはそれらを自分の都合に合わせて利用しているだけで、あなたにはこの恐れを解消することができないからです。数知れない恐れを抱いた神経症的な人間は、何を行おうと、それがたとえ良いことであっても、いつもその人間の行為に破壊の種を、退廃の種を植え付けます、なぜならその人間の行為は事実からの逃亡だからです。
 ほとんどの我々は何かを恐れています、密かに恐れを抱いています、そして何かを恐れるので我々はそれらから逃げ出します。事実からの逃亡が意味するのは逃げた先のものが事実よりもはるかに重要になることです。お分かりでしょうか? 私は恐れています、だから私はそれから逃げ出しました、酒を飲んで、寺院へ行くことによって、神などを通じて逃げ出しました、そうすると神や寺院、酒場が恐れよりもはるかに重要になります。私は神や寺院、酒場をもっとずっと精力的に守ります、なぜなら私にとってそれらが途方もなく重要になったからです、それらは私が恐れから逃げ出せる確約の象徴だからです。寺院や神、ナショナリズム、献身的政治活動、人が信奉する何らかの方式が恐れの解消よりもはるかに重要になります。そのようにもしあなたが恐れを余すことなく解消しないなら、あなたは恐れが何なのかを、愛が何なのかを、あるいは悲しみが何なのかを恐らく理解できません。
 本当に宗教的な精神は、本当に社会的な精神は、創造的な精神は、この恐れの問題を完全に余すことなく片づける必要があります、あるいは理解する必要があります、あるいは解決する必要があります。もしあなたが何らかの恐れを抱いて生きるなら、あなたはあなたの生を浪費しています、なぜなら恐れはあなたを暗くするからです。私はあなたが何かを恐れているときあなたに何が起こっているのかあなたは気づいているのかどうか知りません。あなたの全神経、あなたの心、あらゆるものが締め付けられて、硬直し、怯えます。あなたはそのことに気づいたことがないですか? 物理的恐怖だけではなく心理的な恐怖もあり、それはもっとずっと恐ろしいのです。物理的恐怖は自衛的な物理的反応であり自然なことです。あなたは蛇を見ると、あなたはそれから離れます、飛び跳ねます、それは自然なことであり、自衛的な恐怖です。それは本当は恐れではなく、それは単なる生きるための反応であり、それは恐れではありません、なぜならあなたはその毒に気づいて立ち去るからです。我々は物理的恐怖を話しているだけではなく、思考が作り出した恐れについてもさらに多くを話しているのです。
 我々はこの恐れの問題を見ていこうと思います。もしあなたが一歩一歩これに付いてこないなら、あなたはそれを解決できないでしょう。我々は恐れに直に触れようと思います、それはあなたが恐れている何かではないのです。あなたが恐れているのは何らかの観念であって、恐れ自体は観念ではないのです。人が世評を恐れているとしましょう、死を恐れているとしましょう、老いも若きもほとんどの人が恐れているように。人々が何を恐れているのかは問題ではなく、あなた自身の場合はどうであるのか見て下さい。私は死を取り上げます。私は死を恐れます。恐れは何らかの関係性の中でのみ生じます。恐れはそれ自ら存在しなくて、何かとの関係の中でのみ生じます。私は世評を恐れます。私は死を恐れます、私は暗闇を恐れます、私は職を失うのを恐れます。そのように恐れは何かとの関係の中で生じます。
 私が死を恐れているとしましょう。私は死を見てきました。私は死体が焼かれるのを見てきました。私は枯れ葉が落下するのを見てきました。私はとてもたくさんの死んだものを見てきました。そして私は死ぬこと、命が尽きるのを恐れます。宜しいでしょうか、死や孤独や様々なことに関連して恐れが生じます。私はどのように恐れを見るのでしょうか、あるいは私がこのテーブルに触れるように、どのように私は恐れに触れるのでしょうか? お分かりでしょうか? 恐れに直に触れるのです、あなたがそのように行っていることを私は願います、単に耳を傾けているだけではなく、そのようにしていることを願います、その感情に、“恐れ”と称されるその感じに直に触れるのです、言葉や思考や観念が少しでも入ってはいけません。宜しいでしょうか。つまり、人に触れるためには私はその人の手に触れなければなりません、私はその人の手を取らなければなりません。しかし私はその人の手を取っていてもその人に触れていません、もし私がその人について何らかの観念を抱いているなら、もし私がその人に何らかの偏見を抱いているなら、もし私がその人を好きだったり嫌いだったりしたら。そのように、その人の手を取っていても何らかのイメージや観念、思考がその人に直に触れることを妨げます。そうすると、同じように、あなたの恐れに直に触れるためには、それが意識的であろうと無意識的であろうと、あなた自身の恐れに直に触れるためには、あなたはあなたの観念をやり過ごしてそれに触れなければなりません。
 そこで人は最初に観念がどのようにして触れることを妨げるのかを見なければなりません。観念が触れることを妨げるのをあなたが理解すると、あなたはもはや観念と争いません。あなたが観念を理解すると、観念は意見であったり、何らかの方式であったりしますが、あなたはそうするとあなたの恐れに直に触れます。もはやあなたは言葉で逃げたりしません、何らかの結論や意見など、いかなる形でも逃げたりしません。あなたが恐れに触れると、そのように感じると、あなたは気づくでしょう、我々が議論しているときあなたが我々の話していることに気づくように、恐れが全く消え去っていることに。精神はあらゆる恐れから抜け出していなければなりません、密かな恐れだけではなく明白な恐れからも、あなたの意識する恐れからも抜け出していなければなりません。そうするときにだけあなたは悲しみと称されるものに向き合うことができます。
 宜しいでしょうか、人は何千年も何千年も悲しみと共に生きてきました。あなたは悲しみと共に生きてきて、それを解決していません。あなたは悲しみを何かを悟るための手段にするか、それとも悲しみから逃れるかのいずれかです。我々は悲しみを一人の人間を象徴する祭壇に供えるのか、それともそれを合理化するのか、それともそれから逃れるのかのいずれかです。しかし悲しみはそこにあります。
 私が悲しみと言うのは誰かを失うことであったり、何かを失敗することであったり、あなたが自分は役立たずの無能であると分かる悲しみであったり、あなたには心の中に愛がないと分かる悲しみであったり、あなたが全く醜くて卑しい精神の持ち主であると分かる悲しみなどです、そしてあなたが愛すると思う人を失う悲しみがあります。我々は昼も夜もこの悲しみと共に生きていて、決してそれを越えることはありません、決してそれを消し去ることはありません。さらに、悲しみを負った精神は鈍感になります、内に籠るようになります、それには愛情がありません、それには思いやりがありません、それは思いやりを言葉にするかもしれませんが、それ自身、その心には思いやりや愛情や愛はありません。そして悲しみは自己憐憫を生みます。ほとんどの我々はこの重荷を生涯背負います、そして我々はそれを消し去ることができないように思われます。そして時間の悲しみがあります。お分かりでしょうか? 我々はこの悲しみを生涯背負い、それを解決できません。もっとずっと大きな悲しみがあります、あなたが理解できないことと共に生きることです、それはあなたの心と精神を蝕んで、あなたの生を暗くします。孤独の悲しみもあります、完全に一人でいることです、孤独であり、交わる相手もなく、あらゆる関係が絶たれていて、ついには神経症や精神疾患、心身の病に至ります。
 そのように壮大な悲しみがあります、人間の悲しみだけではなく人種の悲しみもあります。あなたはどのように悲しみを解決するのですか? あなたはそれを解決しなければなりません、あなたが正に恐れを解決するように。未来というものはありません、しかしあなたは何らかの未来を編み出します。叡智と共に生きる人に未来はありません、その人は感受性が鋭敏であり、生き生きとしていて、若く、瑞々しく、無垢です。従ってあなたは恐れを解決しなければなりません、あなたは悲しみを消滅させなければなりません。
 もう一度言いますが、悲しみを消滅させることはその途方もない感情に触れることです、自己憐憫とは無縁に、意見を捨てて、何らかの方式を投げ捨てて、いかなる説明もしないで、それに正に直に触れるのです、人がテーブルに直に触れるように。そしてそれが人々の行う最も難しいことの一つです、観念を投げ捨てて直に触れることです。 次に、死の問題があります、死の問題と共に老年の問題があります。死が避けがたいことをあなた方は皆知っています、老化によって、老年によって、病によって、事故によってそれが避けがたいのは知っています。科学者たちはさらに五十年生を引き延ばそうと試みていますが死は避けがたいのです。なぜその人たちはこの苦悶する存在を引き延ばしたいのでしょうか、私には分かりません! しかしこれが我々の望むことです。そして死を理解するためには我々は死に触れなければなりません、それには恐れない精神を要します、それは時間的な思考を止めることであり、時間の領域にいないことです。私はそのことを説明しました。生死不二、私はこのことを検討しようと思います。
 宜しいでしょうか、我々は死を生の終わりに置きます、それはどこか遠くにあります。そして我々はそれをできるだけ遠くに置きます、できるだけ遥か遠くに。我々は死が来るのは知っています。そこで我々は来世を編み出します。我々は言います、“私は生きてきました、私は人格を形成してきました、私は様々なことを行ってきました。すべてのことが死で消滅するのですか? 何かしら未来があるに違いありません。”と。未来、来世、輪廻転生、これらすべてが今日という事実からの逃亡です、死に触れる事実からの逃亡です。
 あなたの生を考えて下さい、それは何ですか? あなたが引き延ばしたいと思うあなたの生を実際に見て下さい。あなたの生とは何ですか? 絶え間ない争い、絶え間ない混乱、時折生ずる楽しみ、退屈、悲しみ、恐れ、苦悶、絶望、嫉妬、妬み、野心、それがあなたの実際の生です、病気を抱えたり、憐れみを抱いたりします。そしてあなたはそのような生を死後も引き延ばしたいのです!
 そしてもしあなたが輪廻転生を信じるなら、あなたが信じているように、あなたの経典に書かれているように、大事なのは今のあなたです。なぜなら今のあなたがあなたの未来を条件づけるからです。ですから、あなたの佇まい、あなたの行うこと、あなたの考えること、あなたの感じること、あなたの生き方、それら全てが限りなく重要です。もしあなたが輪廻転生を全く信じないなら、この生しかなくて、あなたのなすこと、考えること、感じること、あなたが人を食い物にしているのかいないのか、あなたに愛があるのかどうか、感情があるのかどうか、あなたは感受性が豊かなのかどうか、あなたは美に触れているのかどうかが途轍もなく重要になります。しかしそのように生きるためにはあなたは死を理解しなければなりません、それをあなたの生の終わりに遠ざけないようにする必要があります、あなたの生は悲しみの生であり、恐れを抱く生であり、絶望の生であり、不確かな生なのです。そこであなたは死を間近に置く必要があります、つまり、あなたは死ぬ必要があるのです。
 あなたは死ぬとはどういうことか分かりますか? あなたは死を十分見てきました。あなたは焼かれるために火葬場に運ばれて行く人を見てきました。あなたは死を見てきました。ほとんどの人が死を恐れます。死はあの花が枯れるようなことです、あの蔓性植物が朝の輝きと共に朽ち果てるようなことです。それは、その美と共に、その繊細さと共に、後悔することなく、議論することなく、朽ち果てます、消滅します。しかし我々は時間を持ち出して死から逃れます、つまり、それは向こうのほうにあるのです。我々は言います、“私はさらに何年か生きて、次の生を授かります”と、あるいは、“これが唯一の生です、だからできるだけ使わせて下さい、それを満喫させて下さい、それをできるだけ華々しくさせて下さい”と。そのようにして我々は死と称される途方もないものに決して触れません。死は過去のあらゆるものを死んでやり過ごすことです、あなたの快楽を死んでやり過ごすことです。
 あなたは議論をやり過ごして、促されることもなく、強いられることもなく、何かのためでもなく、何らかの快楽を死んでやり過ごしたことがこれまでありますか? あなたは必ず死んで行きます。しかしあなたは今日、易々と、嬉々として、あなたの快楽を、あなたの思い出を、あなたの憎悪を、あなたの野心を、金を稼ごうとするあなたの衝動を死んでやり過ごしましたか? あなたがあなたの生の中で欲するのは全てお金であり、地位であり、力です、そしてあなたは他の人を嫉妬します。あなたはそれらを死んでやり過ごすことができますか、あなたはあなたの知っていることを、易々と、いかなる議論もやり過ごして、いかなる説明とも無縁に、死んでやり過ごすことができますか? どうか心に留めておいて下さい、あなたは少しばかりの言葉や観念を聞いているのではなく、あなたは実際に何らかの快楽に触れています、例えばあなたの性的な快楽です、そしてそれを死んでやり過ごすのです。それがあなたの何としても行うことです。あなたは死ぬのです、つまり、あなたの知っているあらゆること、あなたの体、あなたの精神、あなたが築き上げてきたことを死んでやり過ごすのです。そこであなた言います、“それは全てですか? 私の生の全てが死の中で消滅するのですか?”と。あなたの行ってきた全てのもの、何らかの貢献、書物、知識、経験、様々な快楽、愛情、家族、全てが死の中で消滅します、そのことがあなたに突き付けられています。あなたはそれらを今死んでやり過ごすのか、それとも、あなたはその時が来て否応なく死ぬのかのいずれかです。全てのプロセスを理解する叡智の人のみが宗教的な人です。
 修行僧の衣服を纏って、髭を生やし、寺院へ行き、生から逃げ去る人間、その人は宗教的な人ではありません。宗教的な人は毎日死んで毎日生まれ変わる人です。つまり、その人の精神は若く、無垢で、瑞々しいのです。あなたの悲しみを死んでやり過ごすのです、あなたの快楽を死んでやり過ごすのです、あなたがひそかに心の中に抱いているものを死んでやり過ごすのです、それを行って下さい、そうするとあなたはあなたがあなたの生を無駄にしていないのが分かるでしょう、そうやってあなたは信じがたい、誰もこれまで気づかなかった何かが分かるでしょう。それは何らかの見返りではありません。見返りというのもまたありません。あなたは進んで死ぬのか、それとも、あなたは否応なく死ぬのかのいずれかです。あなたは自然に死ぬ必要があります、毎日、その花が枯れるように、花が豊かに咲いて満開になり、そしてその美を死んでやり過ごすように、その豊かさを死んでやり過ごすように、そのような愛、経験、知識を死んでやり過ごすのです、死んでやり過ごすことで、毎日、あなたは生まれ変わり、そうやってあなたは瑞々しい精神を手にするのです。
 あなたは瑞々しい精神を必要とします、そうでないならあなたは愛が何か分かりません。もしあなたが死なないなら、あなたの愛は単なる記憶です、そうするとあなたの愛は妬みや嫉妬に囚われます。あなたは毎日死ななくてはなりません、あなたの知っているあらゆるものを死んでやり過ごす必要があります、あなたの憎悪、あなたの受けた侮辱やへつらいを死んでやり過ごす必要があります。それらを死んでやり過ごすのです、そうするとあなたは時間には全く意味がないのが分かるでしょう、そうすると明日はありません、昨日や今日や明日を超えている今があるだけです。そして今の中にだけ愛が存在します。
 愛と無縁の人は真理に近づけません。愛なしには、あなたが何を行おうと、自己を全て犠牲にしようと、独身を誓おうと、社会活動を行おうと、自己を啓発しようと、何を行おうと何の価値もありません。そしてあなたはあなたの記憶を毎日死んでやり過ごすのでなければ愛すことができません。というのは愛が記憶に由来しないからであり、生きているものだからです。生きているものは何らかの活動であり、その活動は言葉の籠の中に、思考の籠の中に、単なる自己追求の籠の中に閉じ込めることはできないのです。時間を理解した精神のみが、悲しみを消滅させたそれのみが、恐れを抱かないそれのみが、そのような精神のみが死の何かが分かるのです、従ってそのような精神に生命が息づくのです。
                            1965年 2月24日 ボンベイ
                                 中野 多一郎 訳