生きるとは死ぬことと見つけたり

“生きるとは死ぬことと見つけたり”

生きるとは死ぬことと見つけたり 1

クリシュナムルティ 私は思います、もし我々の議論していることがさほど意味のない単なる言葉のやり取りであるなら、このような集まりは無駄であろうと。私は思うのです、ほとんどの我々は非常に真剣なことをややもすれば気楽に聞いていて、我々は生の深遠なことに思考を巡らせて、それらを自分自身で深く見ていく時間や気持ちをほとんど持ち合わせていないのだと。我々は非常に簡単に何かを受け入れたり否定したりします。しかしもしこれらの集まりで我々がただ表面的に聞いているのではなく、我々の話していることをその都度実際に我々が経験できるなら、ほとんどの我々に突き付けられているに違いない問題をここで議論することは何らかの価値があるでしょう。私は我々が何かに依存する問題を取り上げています。それは実際非常に複雑な問題ですが、もし我々がそのことを深く見ていけるなら、単に言葉による描写を聞いているのでないなら、我々一人ひとりがそのことに気づいて依存の全体的な意味やその結末が分かるなら、恐らく我々は自分自身で人が、あなたや私が、何かに依存することから余すことなく解放されうるのかどうかを発見するでしょう。
 私は思います、何かに依存することは、その心理的な深いところで、我々の思考や生を腐敗させると、そしてそれは人を食い物にし、権威を育み、従順さを育み、理解することなく何かを受け入れる感覚を育むと。もし我々が全く新しい種類の宗教を生み出そうとするなら、現今のそれとは全く異なる宗教を生み出そうとするなら、そして本当に宗教的な人間の全き革命が起こるとするなら、我々は依存することの途轍もない意味を理解して我々がそれから解放されなければならないと私は思います。
 ほとんどの我々は何かに依存しています、社会にだけではなく、近所の人たちにも、身近にいる夫や妻や子供たちにも、あるいは何らかの権威にも依存しています。我々の行為や活動は人に依存していて、我々はその依存する過程で自分自身を階級や人種や国と一体化させます、そしてこの心理的依存が欲求不満を生みます。きっと我々の幾人かは人が心理的に内面的に自由になりうるのかどうかを、心も精神も誰かに依存することから解放されうるのかどうかを自分自身に問うたことがあるに違いありません。
 明らかに、我々は日常生活で物理的に何かに全く依存しています、我々の生活は物理的に何かに依存することで成り立っています、そして他の何かに依存することはその意味で自然なことです。しかし我々の心理的な慰安や内面的な安心や安寧を他の何かに依存するのは全く自然ではありません。
 もし我々がこの依存のプロセスに正に気づくなら、我々はそれがもたらす何かが分かります。ひどく恐れることがその中に起こり、ついには欲求不満となります。他の何かに心理的に依存することは偽の安心感をもたらします。そしてもし我々の依存する対象が人でないなら、それは何らかの信念や理想や国や思想や知識の集積です。
 我々はそのように我々が心理的に何かに依存していることが分かります。私はこのことは誰にとっても明らかだと思います、その人が他の人や社会と何らかの関係性を持っているのに気づくなら明らかだと思います。
 それではなぜ我々は何かに依存するのでしょうか? 我々の精神が他の何かにこのように内面的に依存しないことは心理的に可能でしょうか? なぜ我々が何かに依存するのかを明らかにすることは非常に重要であると私は思います。そしてもし我々が何かに依存しないなら何が起こるのでしょうか? 我々を何かに依存させるように促すのは孤独感や空虚感や無力感でしょうか? 我々が何かに依存するのは我々の自信のなさでしょうか? そしてもし我々が自分自身に自信があるなら、それが自由をもたらすのでしょうか、あるいはそれは攻撃的で自己主張的な活動をもたらすだけでしょうか? 
 私はあなたが私の行っているようにこのことは生の重要な問題であると考えるのかどうか分かりません。恐らく我々は我々の心理的依存性に気づいていません、しかしもし我々がそれに気づくなら、我々はその依存性の背後に非常に大きな恐れがあって、我々が何かに依存するのはその恐れから逃げることに他ならないときっと思うはずです。心理的に我々はかき乱されたくありません、あるいは我々が依存するものを取り除かれたくありません、それが国家であろうと、何らかの観念であろうと、あるいは人物であろうと。従って我々が依存するものが我々の生の中で非常に重要になり、我々はそれをいつも守っています。
 我々は我々が無意識のうちに我々の中に存在すると思う恐れから正に逃げるために、我々は誰かに慰安を与えてもらいたいのです、愛を与えてもらいたいのです、我々を励ましてもらいたいのです。それが正に依存のプロセスです。それでは精神はこの依存性から抜け出して恐れの全問題に向き合うことができるでしょうか? 恐れを深く理解することなく、それから解放されないまま、真実や神や幸福を単に探求してもそれは全く無駄です、なぜならあなたが探究していることがあなたの再び依存するものになるからです。恐れから内面的に解放されている精神のみが真実の恵みを知ることができます、そして何も依存しないときにだけ精神は恐れから自由でいられます。
 それでは我々は恐れに向き合うことができますか? 恐れとは何ですか? 恐れは確かに何かとの関係の中でのみ存在します。恐れはそれ自身では存在しません。それでは我々が恐れているのは何ですか? 我々は意識して我々の恐れに気づかないかもしれません、しかし無意識的に我々は不安になります、そしてそのような無意識の恐れは我々が恐れを抑えたり否定したりする努力よりもはるかに強力な力を我々の日常の思考や活動に及ぼします。
 それではほとんどの我々が恐れているのは何ですか? 表面的な恐れがあります、仕事を失うなどです、しかしそれらの恐れに対して我々は一般的に適応できます。もしあなたが職を失うなら、あなたは生活する何か他の手段を見つけるでしょう。より大きな恐れは社会的な安心についてではなく、それはそれよりも深いところに潜んでいます。私は精神が自らそれが本質的に恐れているものを明らかにできるほど深くそれ自身に進んで向き合うのかどうか分かりません。あなたが自分自身であなたの恐れの深い源泉を発見するのでなければ、恐れから逃れようとするあらゆる努力や徳の積み重ねなどは何の役にも立ちません、なぜなら恐れは我々の不安をあおるほとんどのものの根本に潜んでいるからです。それでは我々は我々が恐れているのは何なのか、我々一人ひとりが恐れているのは何なのかを明らかにできますか? 恐れの原因は我々全てに共通する何かですか、死のように? それともそれは我々一人ひとりが自分自身で発見しなければならない、向き合わなければならない、見ていかなければならない何かですか? 
 ほとんどの我々は孤独でいることを恐れます。我々は無意識に我々が空しいことに気づきます、我々が何ものでもないことに気づきます。我々は何らかの肩書や仕事、地位、力、お金などその他の全てを手にしているかもしれませんが、それら全ての根底に虚しさ、成就されない願望、孤独と解される空虚が横たわっていて、自己あるいは“私”が精神をその状態の中に閉じ込めています。恐らくそれが我々の恐れの正に根源です。我々はそれを理解するためにそれと向き合うことができますか? というのは、もし我々がそれを超えていくのであれば、我々はそれを理解しなければならないと私は思うからです。
 ほとんどの我々の活動は恐れに基づいています、違いますか? つまり、我々は決してある通りの自分自身に向き合いたくないのです、自分自身を完全に知りたくないのです。より深く徹底的にあなたが自分自身を見ていくと、あなたは虚しさがより強くなるのが分かるでしょう。我々が学んできたあらゆるもの、我々が獲得してきた知識、我々が育んできた徳、それら全ては表面的なものであり、もし人が自分自身をより深く見つめるなら、それらにはわずかの意味しかありません、というのは人が自分自身を見つめると人はその途方もない虚しさに直面するからです。あなたはそれを時々孤独感や無力感として一瞬垣間見たかもしれませんが、あなたはそうするとラジオを聴いたり、お喋りをしたり、何か他のことを行ってそのような気持ちから逃れます。そのような気持ち、そのような自分は何ものでもないという感じが恐れの原因かもしれません。
 私はほとんどの我々がまれにそのような状態を経験したことがあると思います。そして我々がそれを束の間経験するとき、我々はそれから一般的に逃げ去ります、何らかの娯楽を通じて、何らかの知識を通じて、いわゆる文明社会が用意する壮大な逃亡のメカニズムを通じて逃げ去ります。しかしもし我々が逃げなければ何が起こりますか? 精神はそれを見ていくことができますか? 私はできるに違いないと思います。なぜならそのような空しい状態を深く見ていくと我々は全く新しい何かを発見して完全に恐れから解放されるかもしれないからです。
 何かを理解するためには我々はどのような非難もやり過ごしてそれに取り組まなければなりません、違いますか? もし私があなたを理解したいと思うなら、私は記憶の束であってはなりません、私の精神はドイツ人やインド人、ロシア人など何々人という知識を抱いていてはいけません。理解するためには私はあらゆる意味の非難や価値づけから解放されていなければなりません。同じように、もし私が私の空虚や孤独や無力感と称したその状態を理解しようとするなら、私はいかなる非難もせずにそれと向き合わなければなりません。もし私が子供を理解したいなら、私はその子を非難したり、その子を他の子と比較したりすることをしてはなりません。私はその子のあらゆる気持ちを、その子が遊んだり、泣いたり、何かを食べていたり、話していたりするとき、観察しなければなりません。そのようにして精神はその空虚感をいかなる非難も拒絶もせずに見守るのでなければなりません。なぜなら私がそのような感情を非難したり拒絶したりするや否や、私はすでに恐れの障壁を作り出しているからです。
 それでは人は自分自身に向き合うことができますか、いかなる非難もせずに、この無力感に向き合うことができますか? 結局、非難するというのは言葉にするプロセスです、違いますか? 人は非難すると本当のコミュニケーションは生まれません。
 私はあなたがこのことに付いてくるのを願います、なぜなら今それを理解することが非常に重要であると私は思うからです、あなたが耳を傾けているとき、それを実際に実験することが重要であって、単にここを立ち去った後でそれについて考えることではないのです。それは私の言うことを実験するということではなく、あなた自身の孤独や虚しさを発見する実験です、つまり恐れをもたらす無力感を発見する実験です。そしてもしあなたが何らかの非難を抱いてその状態に取り組めば、あなたは自由に発見することができません。
 それでは我々は今そのことに向き合えますか、我々が虚しさ、孤独、無力感と称するものです。我々は我々がいつもそのことを理解するよりもそのことから逃げてきたことを分かっています。私は重要なのはそのことを理解することであると分かります、そしてもし私に何らかの非難する気持ちがあるなら、私はそれを理解できないのです。そこで非難する気持ちをやり過ごして私は全く異なる精神で、全体的な自由な精神でそれに取り組みます。そうすると私は分かります、精神はそれ自身を虚しさと分離できないと、なぜなら精神自身がその虚しさだからです。もしあなたが本当にそのことを非常に深く自分自身で見ていくなら、あらゆる非難を捨てて見ていくなら、あなたは我々が虚しさや無力感、恐れと称してきたものから途方もない状態が生まれるのが分かるでしょう、精神は完全に鎮まり、何の要求もせず、何ものも恐れません、そうするとその沈黙のなかに創造性、真実、神などとあなたの好きなように言ってよい何かが生まれるのが分かるでしょう。そのような恐れることのない内面的な状態が生まれうるのは、あなたがあなた自身の思考の全プロセスを理解するときのみです、そこで私は思うのです、人は自分自身で永遠なる何かを発見することができると。
質問 ほとんどの我々は毎日の仕事にかかりきりでうんざりしていますが、我々の生活はそれに依存しています。なぜ我々は仕事をしていて幸福ではないのですか?
クリシュナムルティ 確かに現代文明は個人として我々の好きではない仕事を我々に押し付けます。現代の社会は競争や冷酷さ、戦争、様々な需要などを基礎に据えて成り立っています、つまり、技術者や科学者です、その人たちは世界中至る所で必要とされます、なぜならその人たちが戦争兵器をさらに発達させて国家をその冷酷さでより一層効率的にするからです。そのように教育は概ね個人を技術者や科学者に仕立て上げることに寄与しています、その人がそれに適していようがいまいが。技術者として教育を受けている人はそれを願わないかもしれません。その人は画家に、あるいは音楽家に、あるいは他の何かになりたいのかもしれません。しかし環境が、つまり教育や家族、伝統、社会の要請などがその人に技術者を志すように強いるのです。そのように我々はほとんどの我々がその中に組み込まれる決まりきった何かを作り出してきました、そうして残りの生涯を我々は欲求不満を抱いて、惨めに、面白くもなく送るのです。我々はこのことをよく知っています。
 それは根本的に教育の問題です、違いますか? 我々は異なる種類の教育をもたらすことができますか、誰もが、学生と同様に教師も、そのことを愛する教育です。愛するというその正に言葉通りのことです。しかしあなたはあなたの行っていることを愛せません、もしあなたがいつもそれを成功や力、地位、名声などの手段として使うなら。
 確かに、現実の仕組みとして、社会は全くつまらない個人を作り出します、その人たちが行っている決まりきったことに埋没する個人を作り出します。そのように全く異なる環境を生み出すためには、学生たちや子供たちが進んで愛して育つのを助ける環境を生み出すためには、教育やあらゆるものの中に途轍もない革命を必要とするでしょう、違いますか? 
 現実には、我々は決まりきったことに、退屈なことに耐えなければなりませんので、我々は様々なことで逃げようとします。我々は様々な娯楽を通じて、テレビやラジオや書物、そしていわゆる宗教を通じて逃げようとするので、我々の生は非常に底の浅い、空しい、生気のないものになります。この浅薄さが翻って権威の受け入れに転じて、我々に特殊ではなく普遍的であるかのような気持ち、そのような力や地位を得た感じをもたらします。我々はこのことを心理的に分かっていますが、そのことから抜け出すのは非常に難しいのです、なぜなら、そうするには通常の感覚ではない思考やエネルギーや骨の折れる取り組みを要するからです。
 そうすると、もしあなたが新しい世界を作り出したいのなら、確かにそれらの恐ろしい戦争を経た後、人間が経験した悲惨と恐怖を経た後、あなたはそうしなければなりませんが、そうすると我々一人ひとりの中に宗教的な革命が起こらなければなりません、それは新しい文化や全く新しい宗教を生み出す革命です、そしてその宗教は何の権威も帯びない、僧侶とは無縁の、教条や儀式とは無縁の何かです。全く異なる種類の社会を生み出すためには、このような宗教的な革命が起こらなければなりません、つまりそれは個人の中に生まれる革命であり、恐ろしい流血のそれではないのです、そのような外面的なそれはたださらに専制国家を生むだけであり、もっと惨めに恐ろしくなるだけです。もし我々が新しい世界を作ろうとするなら、全く異なる意味の新しい世界を作ろうとするなら、それは我々の世界でなければならなくて、ドイツの世界でも、ロシアの世界でも、インドの世界でもありません、というのも我々はみな同じ人間であり、地球は我々の地球だからです。
 しかし不幸なことに非常に少数の人しかこれらのことを深く感じません、なぜならそれには愛を要するからです、感情や情緒ではないのです。愛は見つけにくいのです、そして感情的で情緒的な人は一般的に残酷です。全く異なる文化を生み出すには、私はそう思いますが、一人ひとりの中にこのような宗教的な革命が起こらなければなりません、それには自由がなければなりません、あらゆる信条や教条から自由になるだけではなく、個人的な野心や自己中心的な活動から解放されていなければなりません。そのときにのみ新しい世界が生まれます。
質問 あなたは規律や外面的な秩序を否定して、我々は内面的な衝動だけで行動すべきだと言います。それは人々の不安定さを増すことになりませんか、そして無責任な衝動に駆られることに手を貸しませんか、特に我々の時代の若者たちは自分だけ楽しんで、すでに何かに流されています。
クリシュナムルティ 質問者は我々が話していることを全く理解していないと私は思います。私はあなたに規律を捨てるように言っていません。たとえあなたがそれを捨てようとしても、あなたの社会や近所の人たち、あなたの妻や夫、あなたの周りにいる人々があなたに規律を取り戻すように強いるでしょう。我々が議論しているのは規律を捨てることではなく、正に規律そのものの問題です。もし我々が規律の非常に深い意味を理解できるなら、何らかの秩序が生まれるでしょう、そしてそれは強制や無理強いや恐れに基づきません。
 確かに規律は抑圧を意味します、違いますか? どうか私と一緒に考えて、それをただ拒絶しないでください。私はあなた方がみな規律を非常に好むのを知っています、従うこと、後に続くことです、しかし私の言っていることを簡単に拒絶しないでください。自分を律するとき、私はもっと偉大な価値に適合するために、社会の要請に応えるなどその他の何かのために私の欲するものを抑えます。そのような抑制は必要なことかもしれません、あるいはそれは自発的かもしれませんし楽しいかもしれませんが、それは依然としてあれやこれやの欲望を脇へ除けることです、つまり、それはそれを抑圧することであり、それを否定することであり、社会や教師あるいは何らかの体制によって敷かれたパターンに自分自身を適合させることです。もし我々が秩序の外面的な形を拒絶すると、我々は自分自身の秩序を打ち立てます。我々は言います、“私はこれを行ってはならない、それは間違っている、私は正しいこと、良いこと、崇高なことを行わなければならない、私が醜い考えを抱けば、私はそれを抑えなければならない、私は自分を律しなければならない、私は絶えず自分を見守っていなければならない”と。
 宜しいでしょうか、何らかの適合や規律や抑圧が、意識的であろうと無意識であろうと起こるとき、絶えず何らかの争いが生じます、違いますか? 我々はこの事実をよく知っています。私は何か新しいことを言っているのではありません、我々は絶えず起こっていることを直に検証しています。何かに適合するように抑圧され強要された精神は結局あらゆる種類の混乱した行動に打って出ます、それが実際に起こることです。
 我々が自己を律するのは、我々の欲する何かを手に入れようとするためです。結局、いわゆる宗教的な人たちが自己を律するのは、その人たちがいつか成し遂げたいと願う未だ手の届かぬ観念を追い求めるためです。理想化や夢想家は明日という視点で考えて未来の理想を打ち立て、いつも自分はこうあるべきと思うことに従おうと努めます。その人は決して自分の中で実際に起こっていることを理解しなくて、その理想にだけ気を取られています。“あるべき様”はパターンであり、その人はそれに自分を適合させようとします、なぜならそのパターンの中にその人が願う大いなる幸福、大いなる喜悦、真理の発見、神などその他の全てが生じると願うからです。
 そのようになぜ精神は自らを律するのかを明らかにすることは重要ではないのですか、単にそうすべきではないと言うだけではなく。私は思います、もし精神が規律を通じて何を追い求めているのかを我々が本当に理解するなら、従うことや強制することとは違う全く種類の異なる適合があるのではないかと。結局、あなたは安心するために自分を律します。本質的にそれが本当のことではないのですか? あなたはこの世だけではなくあの世でも安心したいのです、もしあの世があるなら。安心を追い求める精神は何かに従うに違いありません、そして何かに従うことは規律を意味します。あなたはその道の達人や先達を見つけたいのです、そのようにしてあなたは自分を律します、あなたは瞑想します、あなたは何らかの欲望を抑えます、あなたはあなたの精神を何らかの枠にはめ込みます。そうするとあなたの全生活が、あなたの全意識が捻じ曲げられます。
 もし我々が、表面的にではなく、本当に深く規律の内面的な意味を理解するなら、我々は分かります、それが精神を何かに従わせること、兵士が従わせられるように、そして何らかのパターンに単に従う精神は、それがどんなに崇高でも、明らかに自由ではありえないこと、従って決して真実な何かに触れることができないこと、我々はこれらのことが分かります。このことは精神が何を行ってもよいと言うのではありません。それが好きなことを行うと、それはすぐにいつも苦痛や悲しみが最後に待ち構えているのが分かるでしょう。しかしもし精神がこれらの意味を十分に見て取るなら、あなたは強制や抑圧とは無縁に即座に理解するということがあるのが分かるでしょう。
 我々の難しさの一つは、我々が抑えるように、従うように訓練され教育されているので我々は本当に自由であることを恐れるのです、我々は恐れるのです、自由になると我々は醜悪な何かを行うかもしれないと。しかしもし我々が規律のあらゆるパターンを理解し始めると、それは我々が何かに到達したり、何かを手に入れたり、安心するために何かに従うことですが、我々は気づきの全く異なるプロセスがあるのが分かるでしょう、そしてそれは抑制することや従うことを全く必要としないのが分かるでしょう。
質問 死後何が起こりますか? あなたは輪廻転生を信じますか?
クリシュナムルティ これはあらゆる人に関わる非常に複雑な問題です、若かろうが老いていようが、ロシアに住んでいようが、そこでは公式には死後の信仰は存在しません、あるいはインドであろうと、ここ西洋であろうと、ここにはあらゆる種類の信仰が存在します。
 それには非常に注意深い探求を要します、それは単なる何らかの信仰の受容や拒絶の問題ではないのです。それでは非常に注意深くそのことを一緒に考えてみましょう。
 死は誰にとっても避けられなくて、我々はそれを知っています。我々はそれを合理的に考えるかもしれないし、その全く不可知の不確かさから輪廻転生や復活などを通じてそれから逃れるかもしれませんが、我々は依然として恐れています。体つまり身体組織は否応なく消耗します、あらゆる機械と同じように。あなたや私は病気や事故や老年によって我々が消え去るのを知っています。我々は言います、“はい、その通りです”と、そして我々はそれを受け入れます、従って本当はそれが我々の問題ではありません。我々の問題はもっと深いのです。我々は我々が手にしてきた、理解してきた、集積してきたあらゆるものを失うのを恐れます、我々は我々が何ものでもないことを恐れます、我々は不可知なものを恐れます。我々は生きてきました、集積してきました、学んできました、経験してきました、苦しんできました、そして我々は精神を教育して自分自身を律してきました、それでは死はそれら全ての消滅ですか? 我々はそうは考えたくありません。そこで我々は言います、死後何かがあるに違いありません、生は継続するに違いないと、地球に戻るのでないなら、他のどこかでそれは継続するに違いないと。そしてほとんどの我々が輪廻転生の説を信じることに安心を覚えます。
 私にとって、信念は重要ではありません、なぜなら何らかの観念や何らかの説を信じることは、それがどれほど安心をもたらすものであっても、どれほど満足するものであっても、死の意義を余すことなく与えることにはならないからです。間違いなく死は全く知ることができない何かであり、完全に新しい何かです。私がどんなに熱心に死を探求しようと、それは私の知らない何かのままです。あなたや私の知っている全ては過去であり、現在を通じて未来を思い描く過去の継続です。私の家や私の家族、私の名前、私の獲得したもの、徳、争い、経験などと一体化した記憶、それら全ては“私”であり、我々は“私”の継続を願うのです。あるいはもしあなたが“私”にうんざりしていると、あなたは言います、“有難い、死が全てを終わらせる”と、しかしそれも問題を解決しません。
 そこで我々はこの問題の真実を確実に明らかにしなければなりません。あなたが輪廻転生を信じるにしても信じないにしても、その中に真実はありません。しかし死後何が起こるかを問う代わりに、我々は死とは何かの真実を発見できませんか? なぜなら生そのものが死のプロセスかもしれないからです。なぜ我々は生を死から切り離すのですか? 我々がそうするのは我々が生は継続のプロセスであり、収集蓄積のプロセスであると考えるからであり、そして死はその停止であり、我々が収集蓄積してきた全ての消滅だからだと考えるからです。そのように我々は生きることを死から分離してきました。しかし生は全く異なるのかもしれません、それは我々の知らない真実のプロセスかもしれません、一瞬一瞬生きることと死ぬことのプロセスかもしれません。我々の知っている全ては何らかの継続です、昨日の私であり、今日の私であり、明日そうありたいと願う私です。それが我々の知っている全てです。そして精神はそのような継続に執着するので、それはそれが死と呼ぶものを恐れるのです。
 それでは生きている精神は死を知ることができますか? 問題がお分かりですか? それは死後何が起こるのかの問題ではなく、生きている精神が、病を患っている精神ではなく、油断することなく気を張り巡らせている精神が、死と称されるその状態を経験できるのかということです。それが意味するのは、あなたは生きているということが何なのかを本当に知っているのですか、ということです。なぜなら生きることは死ぬことかもしれないからです、我々の記憶を死んでやり過ごすという意味で。どうかこのことに付いてきて下さい、そうすると恐らくあなたはこの死と称されるものの途轍もない意味が分かるでしょう。
 我々は既知の世界に生きています、違いますか? 既知とは私が自分自身を同一化してきたものです、私の家族であり、私の国であり、私の経験であり、私の仕事であり、私の友人であり、徳であり、資質であり、私が収集蓄積してきた知識であり、私の知っている全てです。そのように精神は過去の産物であり、精神は過去です。精神は既知を背負っています。それでは精神は既知から自分自身を解放できますか? つまり、私は私が収集蓄積してきた全てを死んでやり過ごすことができますか、よぼよぼの老人になってからではなく、今そのようにできますか? 私にまだ十分な生命力や明晰な理解力があるとき、私はこれまでの私の全てを、私のこれからそうなろうとする全てを、あるいは私が私はこうであるべきと思う全てを死んでやり過ごすことができますか? つまり、私は既知を死んでやり過ごすことができますか、あらゆる瞬間を死んでやり過ごすことができますか? 私は死を招き入れて死の館に生きているとき入ることができますか?
 あなたが死の館に入れるのは精神が既知から解放されているときだけです、既知とはあなたが収集蓄積してきた全てであり、あなたの全てであり、あなたが考えるあなたとあなたの願う全てです。これら全てが完全になくなるのでなければなりません。そうすると生きることと死ぬこととの分断はあるのですか、それとも全く異なる精神の状態があるだけですか? 
 もしあなたが単に言葉を聞いているだけなら、あなたは言われている意味を理解しないと私は思います。しかしもしあなたが耳を傾けているなら、あなたは自分自身で分かります、生きることは一瞬一瞬死ぬことのプロセスであり、新しく生まれ変わることであると。そうでないならあなたは実は生きていないのです、違いますか? あなたはただ既知の領域の精神の状態を継続しているにすぎないのです、それは決まりきった何かであり、退屈な何かです。あなたは死んでやり過ごすときにだけ確かに生きているのです、意識的に、叡智を働かせて、余すことなく気づくことによって、あなたのこれまでの全てを、数多くの昨日を死んでやり過ごすときにだけ生きているのです。そうすると死の問題は全く異なります。何の問題もないのかもしれません。時間が存在しない精神の状態があるのかもしれません。時間は既知と一体化するときにだけ存在します。既知を背負っている精神は絶えず不可知を恐れます。それが何を行おうと、その信念や教条や希望が何であれ、それらはみな恐れに基づいています、そしてこの恐れこそが生きることを堕落させます。
                               1956年9月15日
                                 中野 多一郎 訳