全く異なる生き方

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10 聴く霊妙な働き

アラン W アンダーソン(A) 前回我々は美について話しました、そして我々は、我々の会話の最後にきて、見ることと人間の変質との関係性を今回の会話で取り上げることにしました。
クリシュナムルティ(K) 宜しいでしょうか、見るとはどういうことですか、聴くとはどういうことですか、学ぶとはどういうことですか? 私はそれら三つは互いに関係していると思います、学ぶこと、聴くこと、見ることです。見るとは,知覚するとはどういうことですか? 我々は実際に見ていますか、それとも我々は何らかのスクリーンを通して暗く見ているのですか? それは偏見のスクリーンであったり、我々の特異性や経験、願望、快楽、恐れなどのスクリーンであったり、そして明らかに我々が見るものや自分自身についてのイメージのスクリーンであったりします。そのように我々は我々と知覚の対象との間に次から次へとスクリーンを差し挟みます。そうすると我々は物事を本当に見ているのでしょうか? それとも、見ることが我々の知識や経験によって、精神を条件づける我々のイメージや信念によって、精神が培ってきた記憶によって色付けされているので、損なわれているので、見ることに全くなっていないのかもしれないのですか? それでは精神がそれらのイメージや結論、信念、記憶、偏った見方、恐れなどを持たないことは可能ですか、それらのスクリーンを通さずにただ見ることは可能ですか? 私はこのことが非常に重要になると思います、なぜなら私が言っているように見るとき、あなたはただ行うしかないからです。引き延ばすという問題は起こりません。
 あるいは継続するとか間を置くという問題は起こりません。
なぜなら何らかの行為が何らかの信念や結論や観念に基づいているとき、そのような行為は時間に縛られています。そしてそのような行為は必然的に争いや後悔などその他の全てをもたらします。そのように見ることや知覚することがどういうことであるのか、聴くことがどういうことであるのかを明らかにすることが非常に重要になります。我々は本当に聴いているのでしょうか? 人が結婚していて妻や夫がいるとき、あるいは女友達や男友達がいるとき、私は本当に彼女や彼に耳を傾けているでしょうか? それとも私は私が彼女や彼について築き上げてきたイメージを通して聞いているのでしょうか? 苛立ちのスクリーンを通して、不快感や支配感覚のスクリーンを通してです、あなたは関係性の中で起こるあらゆるおぞましいことを知っていますか? 私はあなたの言うことを、何ら解釈することなく、それを変質させることなく、それを捻じ曲げることなく、本当に直に聴いているでしょうか? 私は本当に鳥の鳴き声や子供の泣き声や苦痛で泣き叫ぶ人に耳を傾けているでしょうか? お分かりでしょうか。私は何事にも本当に耳を傾けているでしょうか?
 それはまるで人々が耳を傾けるには意志の働きを必要とするとか、人々は自らを奮い立たせて何らかの種類の苦痛に満ちた思いもよらない展開の中にここで入る必要があるとかと考えるかのようです。人々が耳を傾けていないと主張する人を喜ばせるだけではなく、人々自身が耳を傾けるようになるためにも。
 はい。それでは、人間は、YやXは本当に耳を傾けているでしょうか? そして私が耳を傾けると何が起こるのでしょうか? 耳を傾けるというのは、何の口出しもせず、何の解釈もせず、何の結論も下さず、好き嫌いなどそれら全てとは無縁に聴くという意味です。私が実際に耳を傾けると何が起こりますか? 宜しいでしょうか、我々は前回言いました、我々はもし我々が苦しみや熱気を理解しないなら恐らく美とは何かを理解できないと。あなたはそのような発言を聞きます、そうすると精神はどうしますか? それは何らかの結論を引き出します、それは何らかの観念、言葉を使っての観念を形成しました、それは言葉を聞いて、何らかの結論を引き出し、そして何らかの観念を形成します。その種の発言が何らかの観念になります。そうして私は言います、どのようにして私はその観念を遂行したらよいのかと。そしてそれが何らかの問題になります。
 はい、もちろんそうなります。なぜならその観念は自然に従わないからです、そして他の人たちにもその人たちの観念があってその観念が遂行されてほしいと思うからです。そこで我々は衝突します。
 はい。精神はその発言をいかなる抽象化もせずに聴くことができますか? ただひたすら聴くのです。私は、同意するのでも同意しないのでもなく、ただその発言に実際に完全に耳を傾けます。
 あなたが言っていることは、仮に私が適切に聴くとするなら、あるいは、単にこう言いましょう、私は完全に聴いているのか、それとも私は完全に聴いていないのかのいずれかであると...
 その通りです。
 私は何らかの答えをひねり出す必要はないでしょう。
 はい、あなたはその中にいます。
 聴く行為と見る行為が一つです。
 はい。
 それらは一つの行為です。
 その通りです。そうすると、私は何らかの発言に耳を傾けて、その発言の中の真理やその発言の中の誤りを見て取ることができますか、何の比較もせずに、あなたが行っている正に発言の中でそのように見て取ることができますか? つまり、私はその発言に耳を傾けます、すなわち、美は決して熱気なしに存在しえなくて、熱気は悲しみの理解から生まれるという発言です。私はその発言に耳を傾けます。私はその発言から何らかの観念を引き出しません、あるいは、その発言から何らかの観念を形成しません。私はただひたすら聴くだけです。何が起こるのでしょうか? あなたは真理を語っているかもしれませんし、あなたは誤った発言をしているかもしれません。私は分かりません、なぜなら私は比較しようとしていないからです。
 はい、あなたは見て取ろうとしています。
 私はただ耳を傾けているだけです。それは私が余すことなく気をつけていることを意味します―ただこのことに耳を傾けているだけです、あなたは何が起こるか分かります―私はあなたの言っていることに余すことなく気をつけています。そうするとあなたが何を言おうと言うまいと問題ではありません。あなたはこのことが分かりますか?
 もちろんです、もちろんです。
 重要なのは私の聴く行為です。そしてそのような聴く行為が、あなたの全ての発言から完全に自由であるという奇跡をもたらします―真実であろうと、誤りであろうと、本当であろうと―私の精神は完全に気をつけています。気をつけているということは境界がないことを意味します。私が何らかの境界を設けるや否や、私はあなたと争い始めます―同意したり同意しなかったりして―気をつけていることに何らかの境界ができるや否や概念が生まれます。しかしもし私が完全に、どのような思考も観念の働きも知的な活動も割り込むことなく、あなたに耳を傾けているなら、単にあなたに耳を傾けているだけなら、奇跡が起きています。それは余すことなく気をつけていることで私が、私の精神がその発言から放免されるのです。従って私の精神は途方もなく自由に振る舞います。
 このことが我々の一連の会話で私にとっては起こってきました。どの会話でも、これがビデオテープに残されているので、人は合図を受けると始めます、そして我々は時間が経過したことを伝えられます、そして通常はこの種の会話の中で人はそのような演出のことを考えています。
 もちろんです。
 しかし私が学んだことの一つは、私が非常に集中して耳を傾けてきていて、私は私の精神をこのように分断してきていないことです。しかし私は自分に問うてもいます、どのくらい私は余裕を持ってプログラムの演出的側面に注意を払うことと我々の会話に参加することとの間に区別をせずにいられるのかと。
 はい。
 しかし会話がより一層熱を帯びてくればくるほど...
 あなたはそうできます。
 より一層効果的に全てのことが進行します。
 宜しいでしょうか、あなたは我々の精神がとても商業的であると思いませんか、もし私が見返りを手にしないなら、私は何一つしませんというように。そして人の精神は市場の中を生きているようなものです、つまり、私はこれをあなたにあげます、あなたはそれを私によこします。我々はとても商業主義に慣れているので、精神的にも物理的にも、我々は何らかの見返りなしに、何かを得ることなしに、何らかの目的なしに何事も行いません。それは全て交換であるに違いありません、贈与ではなく交換です、つまり、私はこれをあなたに与えます、ですからあなたはそれを私にください、私は自分自身を宗教的に拷問にかけます、そうすると神が私のもとへやってくるに違いありません。それらは全て商業的な取引です。
 原理主義者たちにはその人たちの信仰生活に用いるある文句があります。その人たちは言います、私は神の約束を要求していると。あなたの言っていることからすると、それで精神の中にもたらしえないものがあるとするなら、それは何だというのでしょう!
 知っています。宜しいですか、人がこのことに非常に深く踏み込むとき、つまり、行為が何らかの観念や方式や信念に基づいていないとき、見ることが行うことであると非常に深く踏み込むとき、そうすると見るとはどういうことですか、聴くとはどういうことですか、我々はそれを検討しました。見ることが完全に気をつけていることです、そして行為がそのように気をつけている中に生まれます。そして困難なことは、人々は尋ねます、どのようにしてあなたはそのように気をつけているのでしょうかと。
 はい、そして人々は始めようとさえしてきていません。
 はい、どのようにしてあなたはそうしているのですかと尋ねます。それは人々が見返りを求めていることを意味します。
 その通りです。
 私はそれを実践します、私は見返りに何かを手にするためにそのように気をつけているようにあらゆることを行ないます。気をつけていることは何らかの結果ではありません、気をつけていることには原因がありません。原因があれば結果を伴います、そして結果が原因になります。それは一つの循環です、しかし気をつけていることはそうではありません。気をつけていることによってあなたは見返りを手にしません。気をつけていることで、その反対に、何の賞罰も生じません、なぜならそれには境界がないからです。
 はい、このことはあなたが徳行という言葉に言及した時の我々の前の会話を呼び起こします。
 はい、その通りです。
 そして物ごころのついた子供が―その子の育てられ方を考慮すれば―徳行それ自体が見返りであると何とか理解するようになるのは難しいことだけれども。
 おお、それです。
 そして、もちろん、その子の生きている条件づけられた状況の中でそれについて何が健全であるのかを理解することは不可能です。
 はい、そうするとそれはただの観念にすぎません。
 そうして後になって我々が人々は人々が行った良いことの見返りを要求しすぎると誰かに思い出させる必要があるとき、我々は人々に言います、あなたは徳行それ自体が見返りであることを忘れましたかと。それが一つの罰の形になります。
 そうすると人はこうも問わなければなりません、学ぶとはどういうことですかと。なぜならそれらは全て関連しているからです、学ぶこと、見ること、聴くこと、行うことです、それら全てです。それは全て一つの活動です、それらは分離した章ではなく一つの章です。
 区別は分断ではありません。
 はい。それでは学ぶとはどういうことですか? 学ぶことは何らかの収集蓄積するプロセスですか? それとも学ぶことは非収集蓄積的な何かですか? 我々は両方の問い掛けを一緒にしています。それを見てみましょう。私は―人は言語を習います―イタリア語、フランス語あるいは何らかの言語を習って言葉や不規則動詞などを収集蓄積します、そして人は話すことができます。そのように言語を学んでそれを話すことができるということがあります、自転車の乗り方を学ぶということがあります、車の運転の仕方を学ぶことがあります、何かの機械の組み立て方や電子工学などを学ぶことがあります。それらは全て活動するときの知識を獲得するために学びます。そして私は問うています、何か他の学ぶ形はありますかと。最初に我々が思いつくのは、我々が知識の獲得に馴染んでいるということです。それでは他の種類の学び方がありますか、収集蓄積するのではなく、正に行っている学び方がありますか? 
 はい、そのような収集蓄積は我々が何も理解してきていないことを意味します。
 はい、私は見返りを得るために、あるいは罰を避けるために学びます、私は生計を得るためにある特定の仕事や技術を学びます。それは絶対に必要です。そこで私は問うています、他の種類の学びがあるのかと。最初のものは記憶力を培うということであり、それは頭脳に蓄えられた経験や知識の結果であって、それが働きます、自転車の乗り方を問われるとき、車の運転の仕方などを問われるとき、それが働きます。それでは他の種類の学びがありますか? それともそれだけですか? 人が私は私の経験から学んだと言うとき、それが意味するのは、私は学びました、私はそのような経験から何らかの記憶を蓄積しました、そしてそれらの記憶は見返りか罰であるということです。そのように、そのような形の学びは全て機械的です。そして教育は通常頭脳を決まりきったことの中で働くように、機械的に働くように鍛えることです、なぜならその中が大変安全であるからです。そうするとそれは安心です、そうして我々の精神は機械的になります。私の父はそうしました、ですから私もそうします―お分かりですか、全てのことが機械的です。それでは非機械的な頭脳というものが一体あるのでしょうか? 未来とも過去とも無縁な、従って時間に縛られていないという意味での非実利的な学びです。私は私がこのことを明確にしているかどうか分かりません。
 我々は時々言いませんか、私は経験から学んだと、我々が厳密な意味で何時々々に閃いたと言えないと感じる何かを伝えたいと思うときに。
 宜しいでしょうか、我々は経験から何かを学びますか? 私はどこかで読みました、我々は有史以来五千の戦争を経験してきたと。五千の戦争です。殺して、殺して、殺して、手足を切り刻んできました。そして我々は何かを学んできたのでしょうか、我々は悲しみから何かを学んできたのでしょうか? 人は苦しんできました、我々は不確かさの苦悩やその他の全ての経験から何かを学んできたのでしょうか? そのように我々が我々は学んできたと言うとき、私はそれを疑問に思います。お分かりですか。そのように言うのはとても酷いことのように思われます、私は経験から学んできたと。我々は何一つ学んできていません、知識の領域を除いて。
 はい、それは本当に非常に注目すべきことです。
 宜しいですか、それが我々の教育や我々の文明が、我々の周りのあらゆることが、我々の精神を繰り返される反射的反応や繰り返される要求、繰り返される追求によってとても機械的にしてきた理由です。同じことが毎年々々何千年も繰り返されています、私の国であり、あなたの国であり、私はあなたを殺します、そしてあなたは私を殺します。お分かりでしょうか、あらゆることが機械的です。宜しいですか、それは精神が決して自由になりえないことを意味します。思考は決して自由ではありません、思考はいつも古いのです。新しい思考というものはありません。
 ある人々は、私が想像するに、その考えに反対すると思います、我々は戦争という経験から学ばないとする考え方に、なぜなら戦争が連続して、世代から世代へと引き続いて起こる傾向にあるからです、そして人は成長しなければならないからだと。しかしそれは本当ではありません、なぜなら一つ以上の戦争が同世代の中でしばしば起こるからです、そのように何も学ばれてきていません。
 その人たちは何を言っているのでしょうか、我々は二つの戦争を経験してきました!
 何も全く学ばれてきませんでした。誰かが忽然と現れてそのように言うのを聞くことは恐ろしいことです、誰も経験から何も学ばないと。
 はい、経験という言葉は通り抜けるということをも意味します。
 はい。
 しかしあなたは決して通り抜けていません。
 その通りです。
 あなたはいつも途中で止まるか、あるいは初めから決して通ろうとしません。
 はい。それは、私が正しく記憶しているなら、そのもともとの意味という点で、それは物事をテストして、それが続いているあいだ正しく振る舞うということを意味します、そしてそれはあなたが正に見る必要があること、よく見てみる必要があることを意味します。
 もちろんです。我々の文明、我々の文化、我々の教育は、ますます機械的になっていて、従って時間に縛られていて、その結果決して自由の感覚を生まない精神を生み出してきました。自由はそうなると何らかの観念になります、あなたはそれを哲学的にもてあそびますが、それには何の意味もありません。しかしこのように言う人は、“それでは私は明らかにしたい、私は本当にこのことに足を踏み入れて自由があるのかどうかを発見したい”、そのような人は知識の限界を、あるいはむしろ知識の消滅と全く新しい何かの始まりを理解する必要があります。私は私が何かを伝えているのかどうか分かりません。
 あなたはそうしています。
 そうすると学ぶとはどういうことですか? もしそれが機械的ではないなら、学ぶとはどういうことですか? 学ぶということが本当にあるのですか、何について学ぶのですか? 私は月へ行く方法を学びます、これやあれの組み立て方を学びます、車の運転の仕方などを学びます。その領域の中ではただ学ぶだけです。他の領域の中に、心理的に、精神的に、学ぶということがありますか? 精神は人々が神と呼ぶものについて学ぶことができますか? 
 人が神について学ぶとき、人はあなたの指摘していることを行っているはずがありません、もしそのことがあなたの取り上げた中に付け加えられる何かなら。
 宜しいでしょうか、それはとても明快です。
 はい、そうです。
 私は言語を学びます、自転車に乗ります、車を運転します、機械を組み立てます。それは重要です。そこで私は神について学びたいと思います。このことにただ耳を傾けてください。神は私が作るものであり、神が神のイメージで私を作ったのではありません、私が私のイメージで神を作りました。そこで私はその神について学ぼうとします。
 はい、私は自分自身に語りかけています。
 私がキリストやブッダや何であれそれについて築き上げてきたイメージについて学んでいます。が築き上げてきたイメージです。そうすると私は何を学んでいるのですか? 私が築き上げてきたイメージについて学んでいます。
 その通りです。
 従って機械的に学ぶことを除いて他の種類の学びがありますか? 私の質問が分かりますか?
 はい、分かります。
 そうすると生の機械的プロセスを学ぶことだけがあるのですか? それの意味することを見てください。私は自分自身について学ぶことができます。私自身は知られます。知られるというのはこういう意味です―私はそれを知らないかもしれませんが、私は自分自身を見つめることで知ることができます、私は自分自身を知ることができます。そのように私自身は過去の知識の収集蓄積されたものです。“私”は言います、私は貪欲です、私は嫉妬深いです、私は成功者です、私は怯えています、私は裏切ってしまいました、私は後悔していますと、それら全てが“私”です、そしてそれは私が“私”の中の存在として発明してきた魂も含みます―ブラフマンやアートマンです―それは依然として全て“私”です。“私”は神のイメージを作り出してきました、そして私は神について学ぼうとしています。これには何の意味もありません。そうすると、もし他の学びがないとすると何が起こりますか? お分かりですか。精神は物事の知識の獲得に慣れています―我々はそれを違った言い方で言います―機械的なものの獲得に慣れています。そして精神がそこで使われるとき、学びの他のプロセスがあるでしょうか? それは心理的なことを、内面的なことを意味します―あるでしょうか? 内面的なものは外面的なものに対する思考の発明です。私はあなたがこのことを分かるかどうか知りません。もし私が外面的なものを理解しているなら、私は内面的なものを理解しています。なぜなら内面的なものが外面的なものを作り出してきたからです。外面的なものとは社会的な構造、宗教的な裁可という意味であり、それら全てが思考によって発明されています、作り上げられています―キリスト、ブッダなどそれら全てです。そうすると、そこで学ぶこととは何ですか? 何が露わになってくるのかの美を見てください。
 はい、それは知識の終わりとしてのベーダーンタについてのあなたの発言に戻ります。私にとってサンスクリット語の構造で興味深いことは、もし私が間違っていなければ、それは終点として、言葉として、その終わりを意味しません、なぜならそれは単に新しい一連の何かの始まりであろうからです。それは全く新しい始まりがスタートするという意味での完全な終わりの成就です。
 それは、宜しいでしょうか、精神が既知の活動を知るということを意味します。
 その通りです、はい。それは知識の成就です。
 知識の成就。それでは既知から自由で、それでいて知識の中で働く精神の状態とはどういうことですか? 
 それでもその中で働く。
 お分かりですか?
 はい。それは完全に見ることです。
 そこへぜひ踏み込んでみてください、あなたは非常に不思議なことが起こるのが分かるでしょう。始めに、それは可能ですか? お分かりですか? なぜなら頭脳は機械的に働いているからです、それは安全性を願います、そうでなければそれは機能しえません。もし我々が安全でなければ、我々はここに一緒に座っていないでしょう。我々は安全なので我々は会話ができます。頭脳は完全に安全な中でのみ機能しうるだけです。そのような安全性は神経症的な信念の中に見つかります―あらゆる信念やあらゆる観念はその意味で神経症的です―そのように頭脳はそれを、例えば、善の最高の形としてのナショナリティを受け入れる中に見つけます、あるいは最高の徳としての成功を受け入れる中に見つけます。それは信念を見つけます、そうすると安全性がそこにあります。そこであなたは頭脳に請うています、機械的になっていて、何世紀もそのように訓練されてきた頭脳に請うています、機械的ではない他の領域を見て取るように請うています。別の領域がありますか? あなたは質問が分かりますか?
 はい、分かります。それは全くとても素晴らしいことです。
 他の領域―待ってください、待ってください―がありますか? 宜しいですか、もし頭脳や精神が知識の全活動を理解しないなら―それは何らかの活動であり、それは単に滞っているのではなくて、付け加えたり、取り除いたりなどしています―もしそれがそれら全てを理解しないなら、それは恐らくその他の問いを発することはできません。
 その通りです。
 そうすると、それがそのように問うとき、何が起こりますか? 宜しいでしょうか、これが本当の瞑想です、お分かりですか。そうするとあなたはこれらが何を意味するか分かります。人はいつも知識で聞いています、知識で見ています。
 それは何らかの眼鏡を通して暗く見ているということです。
 はい。それでは沈黙から聴くということがありますか? それが気をつけていることです、そしてそれは時間に縛られていません、なぜならそのような沈黙の中で私は何も望んでいないからです。それは私が自分自身について学ぼうとしているのはありません、それは私が罰せられたり、あるいは見返りを手にしたりするのではありません。そのような完全な沈黙の中で私は耳を傾けます。
 それら全てのことで驚くのは、この瞑想が継続して行われる何かではないことです。
 宜しいでしょうか、我々が瞑想を語るとき、我々はそのことに非常に深く踏み込んでいく必要があります、なぜならその言葉がその意味を失っているからです。それらのインドやその他から来るさもしい取るに足らない連中がそれを破壊してきたからです。
 私は先日ある人のことを耳にしました、その人は超越瞑想を学んでいて午後三時にそれを行うということでした。
 それを習うのに沢山のお金を払うのです。それはとても罰当たりなことです。
 それで午後三時が審判の日です。もしあなたがあなたの都合でそれを行わないと、世界は明らかに消滅しているのでした。
 そのように、宜しいでしょうか、それが起こることです。我々は今朝美から始めて、熱気、苦しみ、そして行為へと進めてきました。観念に基づく行為は行為ではありません。それは奇怪に聞こえますが、そうなのです、そしてそのことから我々は言いました、見るとはどういうことですか、そして聴くとはどういうことですかと。見ることと聞くことが機械的になっています。我々は新しい何かを決して見ません。夜通し咲いていた花でさえ決して新しくありません。我々は言います、バラの花だ、私はそれを期待していた、それが今咲き出した、美しいと。それはいつも既知から既知へです、それは時間の中の活動です、従って時間に縛られています、従って決して自由ではありません。それでも我々は自由について語っています、それについての哲学があり、自由についての講義を聞きに行ったりなどしています。そして共産主義者たちはそれをブルジョア的なことと言います、あなたがそれを知識に限定するときに自由について語るのは愚かであるという意味でそれはそうです。しかしあなたが知識の全活動を理解するとき自由というものが生まれます。そうすると、あなたは沈黙から観察することができますか、そして観察して知識の領域の中で行って両方が調和しているようなことがありえますか?
 見ることがそうするとあらかじめ予定されていません。はい、もちろんです。私はあなたがこのように言えると思います、知識を背景にした自由の古典的な定義は、それが行動の財産あるいは質であるというようなことであると。我々が言ってきたことからすると、恐ろしいことですが、人はそのような発言を読むことができて、それをあなたにそれがそれ自身を明らかにするようにさせないことです。
 はい。
 もしそれがそれ自身をあなたに明らかにするなら、あなたはそれに直面して、あなたは真剣になる必要があるでしょう。もしあなたが哲学の学生で、それを読んで、それがあなたの中で機能し始めるなら、あなたは言うでしょう、私はそれを私が進む前に解決させなければならないと。たぶん私は決して卒業しないでしょう、それは重要ではありません。
 それは重要ではない、はいそうです。そして私は考えていました、東洋と同じように西洋でも、あなたは工場あるいはオフィスへ毎日生涯行かなければなりません。六時、八時に起きて車を運転して、歩いて、働いて、働いて、五十年間働きます、決まりきったことを行い、虐待され、侮辱され、成功を崇めます。再びそれは繰り返しです。そして時折神について語るなどします、もしそのことが重宝するなら。これは奇怪な生です! そしてそれが我々の子供たちを我々が教育する目的です。
 それは本当の生きている死です。
 そして誰も言いません、後生だから、これら全てを新しく見直そうと! 我々の目から過去を拭い去って我々が行っていることを見てみよう、我々が行っていることに気をつけていよう、気を配っていようと。
 そこで我々はこの問いを代りに発します、我々はそれについて何をしたらよいのでしょうかと。そうするとそれがあなたの挙げた幾つかのリストに加えられる新規のものになります。
 それは異なる形をした過去の継続です。
 そしてその連鎖が果てしなく更に更に更に更に続きます。
 原因が結果になり、結果が原因になります。そのように我々がこれらのことを語るとき、それは非常に真剣なことです、なぜなら生が恐ろしいほど真剣なことになるからです。そしてこの真剣な人こそが正に生きている人なのです、娯楽を、それが宗教的でなものであれ他の何であれ、娯楽を追い求める人たちではないのです。
 私は昨日授業であなたの言っていることを理解するのに非常に興味深い機会を得ました。私は学生たちにアリストテレスの言う活動中の四つの原因の古典的な理解はそれらが非時間的な関係にあるということであることを見るように手助けしようと試みていました。そして私は言いました、陶工がその手を土に触れるとき、その土に触れた手はその手が土に触れた後では土からの反応を受けないと。そしてこのことが授業に加わっていたある教授に恐らくそうではないという印象を与えました、そして私は彼の表情から彼は何らかの問題を抱えていると分かりました、そこで私は言いました、何が問題ですかと。彼は言いました、時間的な介入があるように思いますと。そこで私は彼に机の上にあったものを手に取るように言いました、そして私は言いました、それにあなたの指を触れてください、そして指で触れた瞬間、それがそれの触られた後でその指に反応を起こすかどうかを私に話してください、さあ、試してみてくださいと。誰かにその四つの原因のような知識的な論拠を実地にテストするように問うことでさえ我々が知っている教育的プロセスを中断することになります。なぜなら、あなたが学生にその四つの原因について教えて、学生がそれについて考えるとき、学生は決して外へ出て行って物事をそのように見たり、あるいはそれについて何かを行ったりしないからです。そのように我々は授業で何かを取り上げていました、そして我々はこのことを古典的な教えとして語られていたことが―もちろん現代世界ではそれは拒絶されています―たまたま事実であるという新たな発見であるようについに思われるまで行っていました。そして私は言いました、これは見てみる必要があると。これがあなたの言う意味です。
 見ること、もちろんです。
 もちろんです。しかしそこの一歩に戻ると、なぜその人や他の多くの学生たちは実際の問題が持ち上がる地点で苦悩したのでしょうか? 彼らは崖の上にいるという感じを抱いたのだと私は思います。
 はい、はい。
 そうすると自ずから気を抜かずに気をつけていることが要求されます。しかし気を抜かずに気をつけていることが、我々は崖の上にいる、だから一番にすることは踵を返して引き返すことだとなります!
 宜しいでしょうか、私は思います、我々はとても言葉に囚われています。私にとって言葉はそれが伝えようとするその当のものではありません、何らかの表現は表現されようとしているその当のものでありません。我々にとっては表現が全てです、なぜなら我々は言葉の奴隷だからです。
 そして儀式の。
 儀式などその他の全ての奴隷です。そこであなたがこう言うと、“宜しいですか、物事が言葉以上に重要です”、人々は言います、“どのようにして我々は言葉を取り除くのですか、もし我々が言葉を持っていないなら、我々はどのようにしてコミュニケーションをとるのですか”と。あなたは人々がどれほど本題から外れているか分かりますか? 人々は物事ではなく言葉に関心があります。
 はい。
 “ドアー”は言葉です。ですから我々が言葉に囚われているとき、“ドアー”という言葉が途方もなく重要になります、“ドアー”そのものではありません。
 そして私は実際にそのドアーと折り合う必要がありません、私は自分に言います、私はその言葉を手にしているので、私はそれを全て手にしていると。
 教育はこのことを行ってきました。教育の大部分が事実を抽象化する言葉を、“現実”を抽象化する言葉を受け入れることです。あらゆる哲学者たちがこのことを基礎にしています、つまり、理論化,理論化、理論化であり限がありません、人がどのように生きたらよいのかについてのそれです、そして哲学者自身は生きていません。
 はい、知っています。
 あなたはこのことをあらゆるところで目にします。
 幾人かの哲学者たちがこの点で私には奇怪に思われてきました。私は私の同僚たちに時々尋ねてきました、“もしあなたがそのことを信じるなら、なぜあなたはそうしないのか”と。そしてその人たちは私を、私がまるで気がふれているかのように、誰一人そのようなことは真剣に問うたりしないかのように、見ます。
 はい。
 しかしもしあなたがそれを問えないなら、問うに値する問いとは何ですか?
 その通りです。
 私はあなたが話していた猿の話のことを考えていました、その猿があなたと握手をしたとき、誰もその猿に握手の仕方を教えていませんでした。それは言葉によるコミュニケーションでそうするように教えられたことではありませんでした、それはそのときに相応しいことでした、誰もその相応しさを推し量ることなくそうしました。
 はい。
 以前あなたが言っていたように、それらのことは直に瞑想に関連しています。我々はすんなりと...するようになるとあなたは思いますか?
 おお、我々は幾つかのことをまだ議論しなければなりません―愛とは何か、死とは何か、瞑想とは何か、生きる全活動とは何かなどです。我々は行うことが沢山あります。
                            1974年2月22日
                             中野 多一郎 訳