全く異なる生き方

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14 死、生、愛は分断されません―不死の性質

アラン W アンダーソン(A) 前回の我々の会話の中で我々は意識とその死との関係を全体的な活動としての生きるということの中で話し始めました、そして最後に我々は輪廻転生という言葉にさえ触れました。私は我々が議論を再開できることを願います。
クリシュナムルティ(K) 宜しいですか、死の中の要因の一つは精神がその言葉を怖がって誰もそれを口にしないことです。それは日常会話のテーマではありません、それは避けられるべき何かです、それは当然起こる何かです、従ってどうかそれをできるだけ遠ざけておいてください!
 我々は死体をそれらが死んでいないかのごとく見せようとしてそれらに化粧を施します!
 それはこの上なく馬鹿げたことです。宜しいでしょうか、我々が議論していることは死を理解することであり、その生きることと愛と称されるものとの関係です。人は恐らく死と称されるこのことの計り知れなさを―それは計り知れません―理解できません、もし恐れから自由でないなら。それが我々の以前に恐れの問題を話した理由です。もし精神が本当に恐れから自由でないなら、死の途方もない美や力強さや活力を理解することは不可能です。
 それは非常に注目すべき言い方です、つまり、“死の活力”という言い方です。普通我々はそれを生の完全な否定であると考えます。
 生の完全な否定であると、その通りです。そのようにもし我々が死の問題を探求していくなら、恐れが我々の中で完全に消えていなければなりません。そうすると我々は進むことができます、そうして我々は死の意味することを明らかにすることができます。我々は少しだけ輪廻転生に触れてきました、それは東洋で維持されている信仰であり、それは日常生活にとって何の現実味もありません、それは毎週日曜日に教会へ行って残りの全ての曜日に災いをなすようなものです。そのようにもし本当に真剣な人が、本当に気をつけている人がこの死の問題に踏み込むなら、その人はその意味することを、その終末ではなく、その質を理解しなければなりません。それが我々の今回少し踏み込んでいくところです。
 古代エジプト人たち、様々な王朝のファラオたちは死に備えました。彼らは言いました、我々はその河をあらゆる我々の品々と共に、あらゆる我々の二輪戦車と共に、あらゆる我々の所持品と共に、あらゆる我々の財産と共に渡ると、従って彼らの洞穴や墓は彼らの日常生活の品々で、穀物などで満たされました。そのように生きることは消滅することの、すなわち死んでゆくことの手段にすぎませんでした。それがその一つの見方です。他の見方は輪廻転生であり、それはインド人の見方であり、アジア的な見方です。そしてキリスト教徒の抱く復活という全くの観念があります。生まれ変わって天使ガブリエルの手で運ばれて天国でその報酬を受けるのです。それでは、何が事実ですか? それらは全て理論であり、仮説であり、信念であって事実ではありません。つまり、イエスとして生まれると思われる誰かが墓場から出てきて物理的に復活するのです。それはただの信仰です。そのどこにもカメラは置いてありません! 十人が言います、はい、私はそれを見ましたと。それは誰かが想像した何かにすぎません。
 そのように古代エジプト人が行ったようにこのような生きることと死に備えることがあり、そして輪廻転生があり、そしてさらに復活というものがあります。それでは、もし人が深刻に怖がらないなら、死とは何ですか? 死ぬのは何ですか、有機体は別にして。有機体は存続するかもしれません、もしあなたがそれを非常に大事にするなら、八十年、九十年あるいは百年存続するかもしれません。もしあなたが病気をしないなら、もしあなたが事故に会わないで、正気で健全な生き方をすれば、恐らくあなたは百年あるいは百十年生きるでしょう。そうするとそれは何なのですか? あなたは百年生きます、何のために? このような生のためにですか―争いや喧嘩、口論、辛辣さ、怒り、嫉妬、不毛さ、意味のない存在などの生のためですか? それは我々が今生きているような意味のない存在です。
 そして我々がすでに言ってきたように、これが意識の全内容です。
 その通りです。そうすると死ぬとはどういうことですか? そうすると人が恐れるのは何ですか? 死に際して人が恐れるのは何ですか? 知っていることを失くすことですか? 妻を亡くすことですか? 家をなくすことですか? 私が獲得してきたもの全てを失うことですか? この意識の内容を失うことですか? そこで私の質問はこうです、つまり、意識の内容を余すことなく空にできますかということです。お分かりでしょうか。
 はい、分かります。
 それが生きることです。死ぬことが生きることです、その内容が余すことなく空になるとき、死ぬことが生きることです。それは執着のないことを意味します。それは残酷な切り離しではなくて、何かへの執着や依存、何かを獲得すること、力、地位、不安などそれら全てを理解することです。そのようなことを無くして空にすることが本当の死です。従って意識を空にするということは、それ自身の限界をその内容によって作り出してきた意識が消滅することを意味します。どうでしょうか、分かりましたか?
 はい、私は非常に注意深くあなたに耳を傾けていました、そして私に思い当たったことは誕生と死との間に根本的な関係があるということです、しかしその二つは―全サイクルの中の瞬間瞬間として見られるとき―あなたが話し始めているその深さで理解されないということです。私は正しいですか?
 その通りです。そのように死が生きることになります、意識の内容が、それ自身の境界や限界を作る意識の内容が消滅するとき死が生きることになります。そしてこれは理論ではありません、これは何らかの推測的な知的な理解ではなく、執着に実際に気づくことです―私はそれを一つの例として取り上げています、何かに執着することです、財産に、男性に、女性に、私が書いてきた本あるいは私が獲得してきた知識に執着することです。執着と脱執着との戦いです、なぜなら執着は痛みをもたらすからです。従って私は自分に言います、私は執着を捨てなければならないと、そしてその戦いが始まります。そのように意識の全内容がこれです、我々が以前に言い表したあの戦いです。それでは、そのような内容はそれ自身を空にできますか、それともそれは気づくことによってそれを空にできるのですか? それはこの全内容が観察されうるのかを意味します、その無意識の内容をも含めて観察されうるのかを意味します。お分かりでしょうか。
 はい、分かります。
 私は私の意識の内容に意識的に気づくことができます―私の家であり、私の財産であり、私の妻であり、私の子供たちであり、私の仕事であり、私が獲得してきたものであり、私が学んできたものです。私はそれら全てに意識的に気づけます。しかし私の精神の非常に奥深いところにもさらに深い内容があります、それは人種的集団的に獲得されたものであり、 無意識的に私が収集してきたものです、私が受ける様々な影響であり、プレッシャーであり、腐敗した世に生きることの緊張感などです。それら全てがしみ込んできています、それら全てがそこに集まってきています。
 個人的にも個人的ではなくても。このことはそうすると深層心理学者たちが個人的な意識と同様に集団的無意識と呼ぶものも含みます。
 集団的なものも。それではそれら全てが露わにされえますか? というのは、このことが非常に重要であるからです。なぜならもし精神が本当に死の意味の全てを、その壮大さを、“はい、それは消滅しました”と言う精神の大いなる質を理解したいと思うなら、それは途轍もない活力、エネルギーをもたらします。そのように私の質問はこうです、精神はその全ての内容に余すことなく気づけるのかということです、オープンになっているものと同様に隠れているものにも、集団的な意識や個人的な意識、人種的な意識、一時的な意識などに気づけるのかということです。お分かりですか。その全てにです。宜しいですか、我々は通常それは分析を通じて可能ですと言います。
 はい、そうです。
 私は言ってきました、分析とは分析不能の謂いであると。なぜなら、分析というものはあらゆるものが完全でなければならないからです、絶対でなければならないからです、そしてあなたは怯えます、それは絶対ではないかもしれないと、そしてもしあなたがそれを絶対なものにしていないと、あなたはそれを何らかの記憶として引きずります、そうしてそれが次の出来事を分析します。そのようにどの分析もそれ自身の不完全さをもたらします、従ってそれは全くの分析不能を意味します。
 あなたの言っていることに耳を傾けていて、私が非常に驚くのは、我々が通常死と考えることと一連の果てしない分析的行為についてあなたの言ってきたこととが非常に明確な関連性を持つことです。
 はい、そうです。
 我々は死をいわば線上の終点と考えます。
 はい、我々の水平思考のせいです。
 我々の水平思考です。しかしあなたが言っていることは、反対に、我々はこのことを垂直的に考えなければならないということです。
 はい。
 そしてそれを垂直的に考えると、我々はもはや死を単なる終末と考えません。全くの質的な変化がここにあります、それは我々が価値のある何かを喪失したかのように我々が後悔しなければならない何かの停止ではありません。
 はい、私は私の妻や子供たちから去って行きます。
 はい。
 そして私の財産や私の銀行口座から! 宜しいでしょうか、もし人がこのことに非常に深く踏み込むなら、つまり、このような内容が存在します、私の意識です、これまで獲得してきた、引き継がれてきた、課されてきた、影響を受けてきた意識です、プロパガンダ、執着、脱執着、不安、恐れ、快楽などそれら全てであり、そして隠れているものもそうです。私は見て取ります、分析は本当に分析不能のことであり、知的な推測ではなく、実際に完全な行為ではないので、それは決して完全な行為を生みえないと、そして結局のところ、その正に“分析”という言葉がそもそも細かく分け離すことを意味すると。
 従って私はそれを全く拒絶します。私は分析しません、なぜなら私はその愚かさを、その無能のプロセスを見て取るからです。そうすると、私は何をするのでしょうか? それは伝統です、つまり、それは自己観察であったり、自己あるいは専門家による分析であったりして、それが現代の流行です。そうすると、もし精神がこのことの真理を見て取ると、それゆえに分析は脱落します、そうすると精神はその内容をどうするのでしょうか。我々はその内容が何かを知っています、我々はそれを詳細に言い表す必要はありません。そうすると、それは何をするのでしょうか? それは空になる必要があります。そうでないとそれは単なる継続です。
 はい、すでにそこにあるものを分析しても無駄です、なぜなら、そのようなことはそれをいかなる形や姿にも変えないからです。そのことは非常に非常に明確であるように思えます。恐らくあなたはなぜ我々がそのように見ることを全く拒むのかをしばらくの間説明するのでしょうか。我々は分析的な探求が啓示的であることを信じています、我々はそれを信じています。
 宜しいでしょうか、あなたはそれを瞬時に見て取ることができます、つまり、分析は分析するものと分析されるものを意味します。
 はい。
 分析するものが正に分析される当のものです
 はい、我々は観察者と観察されるものに戻ります。
 私は私の怒りを分析しています。分析する当のものとは何ですか? 怒りである断片の一部です。そのように分析する当のものが分析されるものとは違うようなふりをします。しかし私が分析するものが正に分析される当のものであるという真理を見て取るとき、全く異なった行動が起こります。そうすると分析するものと分析されるものとの間の争いがなくなります。即座の行動、何らかの気づきが生まれます、そしてそれは“現実”の消滅であり、それを超えていくことです。
 私がその説明を求めた理由は以前に知識について持ち上がった関心からです。
 結局のところ、観察者は知識です。
 はい、私の関心は研究が、その正しい形では、そのように利益を生まないと我々の議論の中で考えられていなかったことです。
 はい。
 我々はそう言っていません。
 我々はそれを議論さえしませんでした、それはとても明らかのことです。
 はい、全くその通りです。はい、私はあなたが分析についてそのように言うことが今分かります。
 分析は、宜しいでしょうか、分析するものと分析されるものです。
 その通りです。
 分析するものが正に分析される当のものです。そしてまた分析は時間を意味します、持続を意味します。私は何かを明るみに出すためには、何かを暴くためには時間を要します、そしてそれは私の生涯を要します。
 このことは我々が時間に関連して死についても抱く混乱です。
 その通りです、私はそこへ行っています。そのように精神は気づくときに分析を完全に捨て去ります。それが利益を生まないからではなく、それが私のそうありたいと思うところへ私を導かないからではなく、私が意識からその内容を空にすることの不可能を見て取るからです、もし精神がその手法でそれに取り組むなら、つまり、分析するもの、時間そして四十年後も私は依然として分析しているという全くの不毛な事実です!
 そして私の意識の内容は質的に全く変わっていません、それはその腐敗を強めています。
 その通りです。しかし精神はその内容を見なければなりません、それに余すことなく気づかなければなりません、その断片ではありません。どのようにしてそれはそうしますか? お分かりでしょうか。
 はい、分かります。
 なぜならそれが死との関連で非常に重要だからです。なぜなら私の意識の内容が意識だからです。その意識とは私であり、私の自我であり、私が“私とあなた”“我々と彼ら”と言うことです―彼らが共産主義者であろうと、カトリック教徒であろうと、プロテスタント教徒やヒンズー教徒であろうと―“我々と彼ら”です。そのように意識からその内容を空にできるかどうかを明らかにすることが非常に重要なことです。それは“私”を死んでやり過ごすことを意味します。お分かりですか。
 はい分かります。
 なぜならそれ“私”だからです
 ここに恐怖が生じます。
 そこに恐怖が生まれます。
 その通りです。そこに直観が働きます、もし私がこの意識の内容を死んでやり過ごすとすると、私は消えてなくなると。
 はい、そこで私は、これまで働いてきた私は、正しい生活あるいは正しくはない生活を送ってきた私は、とても沢山のことを、災いをなすことであろうと良いことであろうと、行ってきた私は、自分自身をより良くしようと格闘してきました、私は非常に親切でいようと、非常に優しくしていようとしてきました、非常に怒りっぽかったり、非常に辛辣であったりしてきました、そしてあなたは言います、あなたの意識を空にしなさいと、それはあなたが私にそれら全てを死んでやり過ごしなさいと言っていることを意味します。そのようにしてあなたは正に恐れのルーツに触れています。
 はい、その通りです。
 存在しない恐怖のルーツに触れています。おお、正にそれです! そして私はそのような“私”に永遠性を与えたいと思います。私は有名になる本を書いてそうします。あるいは絵を描いて、仕事を通じて、善行を働いて、これやあれを築き上げて、私は自分自身を不滅にします。
 それは家族の中に非常に有害な結果をもたらします、なぜなら我々は...するために息子をもうけなければならないからです。
 ...維持する。
 名前を永遠に残すために。
 従って家族が何らかの危険性を帯びます。
 その通りです。
 そうすると、宜しいでしょうか、我々がしてきたことを見てください、古代のエジプト人たちは自分自身に永遠性を与えました、彼らは持続することを考えて彼らの生を不滅にしました。
 永久にしました。
 永久にしました。そして盗掘者たちがやって来て、それら全てをバラバラに引き裂きます。ツタンカーメンは今単にマスクだけです、金のマスクとミイラなどです。そのように人は様々なことをして不死なるものを探してきました、不死なるもの、つまり、死を超えたものを見つけようとあらゆることをして不死なるものを探してきました。
 非常に注目すべきことは正に“不死”という言葉が否定的な言葉であることです。
 はい、死なないということです。
 それは現実のことを言っていません(笑)。
 我々は現実を明らかにしようとしています。お分かりでしょうか、これは非常に非常に真剣なことです。それは何らかの会話を楽しんでいる二人の人間の戯言ではありません。それは途轍もなく重要なことです。
 私はその皮肉さを笑いました。その言葉の構造の中に本来ある何らかの警告です、そして我々はその赤信号を正に通り抜けます。
 そうすると不死とは何ですか? 書物ではありません、私が描いてきた絵画ではありません、月へ行ってそこに馬鹿げた旗を立てることではありません。正しい生活を送ることではありません、あるいは正しくはない生活を送ることではありません。そうすると不死とは何ですか? 大聖堂は驚くほど美しいのです、それでも地震に見舞われるとそれらは消えてなくなります。ミケランジェロは大理石で驚くべきものを彫り上げました、そして火事がそれを破壊しました、あるいは気のふれた者がやって来てハンマーでそれを打ち壊します。そのようにそれはそれらのどこの中にもありません。
 はい。
 なぜならそれは破壊されうるからです。彫像はどれも死んだものです、あらゆる詩、あらゆる絵画もそうです。そうして人は問います、不死とは何ですかと。それは建物の中にはありません―それをただ見てください―それは大聖堂の中にはありません、それはあなたが発明した聖者の中にはありません、それは思考が発明したものです、人が自分自身のイメージから作り出してきた神々の中にはありません。そうすると不死とは何ですか? というのは、それが意識や死と関連しているからです。もし私がそれを明らかにしないなら、死は恐怖です。
 もちろんです。
 私は私自身に永遠性を与えようと試みてきました、ブラフマンが存在する、神が存在する、永遠性が存在する、名状しがたきものが存在すると考えることによって不死になろうと試みてきました、そして私はそれに近づくためにあらゆることを行ないます。従って私は正しい生活を送ります、従って私は祈ります、私は希います、私は従います、私は清貧な生活、純潔な生活などを送ります、そのような不死の現実を手にするためにそのように行ないます。しかし私は知っています、それら全てが思考から生まれていることを。宜しいでしょうか?
 はい。
 そのように私は思考やその産物が不妊の女性の“子供たち”であることを見て取ります。
 その通りです。
 何が起こるのか見てください。そうすると不死とは何ですか? 教会の中の美―私が教会を建てるのではありません―大聖堂の中の美、詩の中の美、彫刻の中の美がありますが、美のことです、美の対象ではありません。
 美そのものです。
 そのものです。それが不死です。そして私はそれを把握することができません、精神はそれを把握することができません、なぜなら美が意識の領域の中にはないからです。
 はい。そうです、あなたの言っていたことは再びそれら全てが頭で立っていることを意味します。我々は頭で考えます、我々が大切にしてきた何かがなくなると、その消え去ったものと共にある意味で美もなくなると。
 消え去ると、はい。
 実際それは私が個人的にそれに触れる特権を有すると考えていたそのような美を失っているという感情です。その信念が正に消滅しました、単に無くなったのではありません、なぜなら無くなったものはその性質上それが見つかるように仕向けられるからです。しかし消滅することは全く消え去ることです、違いますか。そのようにその信念は深いのです。
 おお、非常に深いです。
 あなたが消滅すると言う意味でそれは極めて深いのです。事実その言葉はほとんど使われません、なぜならそれは恐ろしい言葉だからです。我々はいつも何かを失うことについて話しますが、我々は何かが消滅するとはほとんど言いません。そこで私が頭で立っていると言ったことに戻ります。そのイメージは隠喩として私の頭に浮かびました―私はそれがあなたの話していたそれらのイメージの一つでないことを望みます―美は、何かが消滅するとき閉じ込められてそれゆえに全く無効にされるというよりは、それを単に解き放つということです。ある意味で美はその表現を解き放ちます。それは普通に考えらえれていることとは反対です。
 分かります、分かります。
 そしてそれは恐らく瞬時にそれを解き放ちます。
 その通りです。
 それはとても驚くべきことです。
 そのように不死は時間の領域の中にあると考えられています、そして死もまたそうして時間の領域の中にあると。なぜなら私は作り出してきたからです、思考を通じて、時間的なものを。そして死はその消滅です、あるいは時間とは無縁の状態の始まりです。そのことを私は恐れます。そのように私はあらゆるものが時間の領域の中に保持されていてほしいのです。そしてそれを我々は不死と呼びます―彫像であり、詩であり、教会であり、大聖堂です、そして私はそれら全てが腐敗するのを、事故や地震で破壊されるのを、あらゆるものが消えてなくなるのを見ても取ります。そのように不死は時間の領域の中にはありません、そして時間は思考です。
 もちろんです、はい、そうです。
 そのように思考が作り出すものは何もかもが時間の領域の中にあるに違いありません。それでも思考は不死を探し求めようとします、しかしそれはそれ自身の不死であり、それが作り出してきたものの不死です。
 はい。
 そこで問題は、精神がこれら全てを見て取ることができるのかということです、それを見て取れますか? それを見て取っていると想像することではありません。
 はい、実際にそれを見て取ることです。
 実際にそれを見て取るのです。
 そして時間の領域はもう一つの断片であると。
 そうすると精神は、これら全てに気づいていて、もしそれが気を抜かずに気をつけているなら、もしそれが我々の議論してきているときずっといつも注意深く見守ってきているなら、何の努力もせずにその全内容が露わにされるのを必ず見て取るに違いありません。それは地図を読むようなものです。あなたはそれを広げて見ます。しかしもしあなたがある特定の方向へ行きたいのなら、あなたは全地図を見ていません。そうするとあなたは言います、私はここからそこへ行きたいと思う、方向はそっちで何マイルもありますと、あなたはその他を見ていません。我々が問うているのは、方向を定めないで、ただ見なさい。あなたの意識の内容を方向を見定めずに何ら取捨選択することなく見なさい。いかなる認識も働かせることなくそれに気づきなさい。この途方もない地図に何ら取捨選択することなく気づきなさいということです。そうすると、その取捨選択とは無縁の気づきがあなたにそれを超えるための途轍もないエネルギーをもたらします。そしてあなたにはそれを超えるためのエネルギーが必要です。
 このことは我々が先に触れ始めた輪廻転生という考え方に私を導きます、私はその中に悪魔的なルーツを見ます。
 はい、そうです、次の世に輪廻転生するのです。誰も言いません、今生まれ変われと。
 はい、その通りです。
 あなたはあなたが意識の内容を死んでやり過ごすときにだけ今生まれ変わることができます。あなたは、もしあなたがその内容を死んでやり過ごすなら、生まれ変われます、全く再生されます。
 はい。そしてこの輪廻転生の教義には暗黒的側面、悪魔的側面の真理があります、というのはもし意識のその内容が空にならないと、それが打ち勝つに違いないからです。
 それが打ち勝ちます。そうすると何が起こりますか? 私は知りません、人間として、どのようにしてこれを空にするのかを。私は興味さえ持ちません、私は怖いだけです。
 死ぬほど怖いのです。
 死ぬほど怖い。そうして私は何かを保持します、そして私は死んで、焼かれて土の中に埋葬されます。その内容は継続します。我々が言ったように、“私”の内容はあなたの内容でもあります、それは大して異なっていません。
 はい。
 少し修正されていたり、少し誇張されていたり、何らかの傾向が加えられていたりします、そしてそれはあなたの環境的な条件などによるものです、しかしそれは本質的に同じ意識です。もし人間がそのような意識を空にしなければ、そのような意識は河のように継続します―取集したり、蓄積したりして、それらは全て継続します。そしてそのような河から亡くなった人の何らかの表明やら何らかの表出があります。降霊術の会で霊媒師が言います、あなたの兄弟、あなたの叔父、あなたの妻はここにいますと、起こったことは彼らの格闘や痛みや不幸などそれら全てが継続する意識のそのような河から彼らが自分自身を表明したのです。そして意識をよく観察し見てきて、それを空にする人はそのような河に全く属しません。そうすると、その人は一瞬一瞬を新しく生きています、なぜならその人は一瞬一瞬を死んでいるからです。お分かりでしょうか?
 おお、はい分かります。
 表現されなければならない“私”というものの収集蓄積はありません。その人は一瞬一瞬死んでいます、一瞬一瞬生きています、そして一瞬一瞬死んでいます。従ってその中には―何て言うのでしょう―内容がありません。お分かりでしょうか。
 はい。
 それは行動する途轍もないエネルギーのようです。
 このことは“来世”という言葉で我々が言おうとすることの全く異なる理解をもたらします。一方で、この意識の乱れた内容の継続があり...
 それは全く秩序が乱れています、その通りです。
 その性質は誰かが単に息を永久に止めただけでは質的に根本的な影響を受けません。はい。それはまだ途上です。
 途上です。
 従って人の死後にしばしばこの意識の流れにコンタクトしようとする人々の試みは、同じ意識の質の中でなされるとき、人々自身の生の中でその意識を強める以外は何も成し遂げられません。
 その通りです。
 そしてそれはこれまで生きてきた意識のその内容に酷いことをします、というのは、それがそのような意識にもっと何かをもたらすからです。
 その通りです。
 はい、私はそれが分かります。
 ある人が私に会いに来ました、彼の妻が死んだのです。彼は本当に彼の妻を愛したと思いました。そして彼は言いました、“私は妻にまた会わなければなりません。私を助けてくれますか”と。私は言いました、“どの妻にあなたは会いたいのですか、料理していた妻ですか、子供たちを生んだ妻ですか、セックスした妻ですか、あなたと喧嘩した妻ですか、あなたを支配し、あなたを恐れさせた妻ですか”と。彼は言いました、“私はそのいずれの妻にも会いたくありません、私は彼女の善いところに会いたいのです”と。お分かりですか。
 はい。
 彼女の中から築き上げてきた善いイメージです。醜いそれらのいずれでもなく、あるいは彼が醜いと考えたそれではなく、彼が彼女の中から選りすぐった善いイメージです、そしてそれが彼の会いたいと思うイメージです。私は言いました、“子供じみたことを言わないでください、あなたはとても全く未熟な人間です、あなたが彼女と寝たときや彼女と喧嘩したときなどそれら全てを願わないで、あなたはただあなたが彼女の善い点について抱くイメージを願うのです”と。すると、お分かりでしょうか、彼は泣き出しました、本当に初めて泣きました。彼は後から言いました、“私は彼女が死んだとき泣きました、しかしその涙は自己憐憫のそれでした、私の孤独感でした、私の喪失感でした。私は今泣いています、なぜなら私は私のしてきたことが分かるからです”と。お分かりでしょうか。
 はい、分かります。
 そのように死を理解するためには恐れが消えていなければなりません。死の恐れや恐怖は意識の内容が理解されていないときにだけ存在します、そしてその内容とは“私”のことです、そして“私”とはその椅子のことです!
 はい。
 私が執着するあらゆるものです! それはとても馬鹿げています。そして私はそれを怯えます、銀行口座を失うことを、家族を失うことを、お分かりですか。
 はい、分かります。
 そのようにもし人が本当に深くこのことに真剣でないなら、あなたはその言葉の深い意味で今生まれ変わることができません、そうすると不死は書物の中に、彫像の中に、大聖堂の中に、私が作り上げてきたものの中に、私が思考によって作り上げてきたものの中にあることになります。それは全て時間の領域です。
 はい。私が今思い当たったことは、我々がプラトンに対してこのように絶え間なくその文献を学問的に分析しようとすることによってしばしばとても酷いことをしてきたということです、彼は率直に言いました、哲学者の仕事は―すなわち根本的な変化と再生に興味を抱く人のことで、彼はそれを知恵と関連づけました―死んでいることを実践することであると。私は彼が決まりきったことや繰り返すことを言ったのではないと思います、彼はそのことを“進行形”で言っています、なぜなら彼は行為が抜け落ちるのを望まないからです。私は私がこの文句をいつも使うのを知っていますが、それは私の言いたいことを言っているように思えます。行為が抜け落ちて恐怖や時間の悪魔的な流れに陥ることはありえますが、人が行為しているときは全てのことが進行形で働きます。
 そうすると、宜しいでしょうか、時間が止まります。
 その通りです。
 その美を見てください。そしてその美こそが不死であって、思考が作り上げてきたものではないのです。
 はい。
 そのように生きることが死ぬことです。
 はい。
 そして愛は本質的に“私”を死んでやり過ごすことです。思考が言ってきた愛というものではありません―性愛、愛の快楽などです。時間を死んでやり過ごすことが愛です。そのように、生きること、愛、死は一つであり、分断されず、分離されず、離されず、時間の領域の中にはなく、完全に生きていて、活動していて、分断できないものです。そしてそれが不死です。
 はい。
 宜しいですか、ほとんどの我々は間違って教育されています。
 それは全く本当です。
 子供のときから我々は真剣になることを決して教えられません。子供のときから我々は思考を育むこと、その表現の仕方やそのすばらしさを教えられます。我々の全ての哲学、書物などあらゆるものがそれを基礎にしています。そしてあなたが、それら全てを死んでやり過ごしなさい、と言うとき、あなたは本当に知らないことの恐怖を呼び起こします。それは私に知っているという安心感をもたらすのです。
 はい。
 そうして知識が私の安全な領域になるのです。そしてあなたが私にそれら全てを諦めなさい、それら全てを死んでやり過ごしなさいと言います。そして私は言います、あなたは気が変です。どうして私がそれら全てを死んでやり過ごせますか、それは私の一部ですと!
 非常に素晴らしい禅の言い方があります、それが正しく理解されると、それはこのことに関係すると思われます。それはこう言います、徒手空拳で崖から飛び降りなさいと。手はいつも過去をつかんでいたり未来に手を伸ばしたりしていて、我々は決してそのような水平的な地平から抜け出しません。
 そうするとこの問いが起こります、現在を生きるとはどういうことですか? 死は未来の何かであり、私は四十年生きてきました、その全ての収集蓄積と共に生きてきました。そうすると現在とは何ですか? 現在とは意識の内容の死のことです。お分かりでしょうか。
 はい。
 それには計り知れない美があります。なぜならそれは争いのないことを、お分かりでしょうか、明日がないことを意味するからです。しかしもしあなたが誰かを愛する人に、連れ添う相手を喜ばせようとしている人に明日はないと言うなら、その人は言うでしょう、あなたは一体何を言っているのと。
 はい、知っています。あなたが時々言うように、それは馬鹿げているように聞こえます。
 もちろんです。
 そして、もちろん、我々が教えられてきた点からも、それは馬鹿げているように聞こえます。
 従って、宜しいでしょうか、我々は子供たちや学生たちに全く異なる生き方を教えられますか? この意識の内容を理解する感覚やその全くの美と共に生きて理解して行動することです。
 もし私があなたを正しく理解しているなら、その問いに対する答えはただ一つであり、はい、です。私は今あなたが非時間的に関連している死と生について言うことが分かります、それは我々が先にそれらの関係について取り上げた問いに関することです、なぜなら、あなたがこの今生まれ変わることが起こると言うとき、瞬時に...
 はい、そうです。もしあなたがその美を見て取るなら、何事かが起こります。
 そうしてそれは起こりました。
 それは思考作用の結果ではありません。
 はい。
 それは人の思考、思考、思考の結果ではありません。これは“現実”に実際に気づくことです。
 そして驚くことはそれが根本的には同じエネルギーだということです。
 その通りです。
 それは神と称する異なったエネルギーである何かをそこに含みません。
 はい、それは外から働きかけてくる何かを導き入れているのです。
 はい。
 それはもはや浪費も消散もされない同じ浪費され消散されたエネルギーです。
 その通りです。
 従ってそれは...
 余すことのない変化が起こります。そして各個人の変質は全体的なものです。
 それは時間や知識の領域の中ではありません。
 それは時間や知識の領域の中ではない。
 あなたはそれらがどのように関連しているのかが分かります。
 そしてもし私が他の一つをここで付け加えてもよいなら、なぜならそれは一人がもう一人に対して何かを行うという責任ではないように私には思えるからです。我々は一緒に...を始めます。
 はい、そうです。共有します。
 一緒に見ます。
 一緒に学びます。
 ただ静かに見ることです。そしてそのような活動は前もって計画されていません―この会話で驚くべきことの一つは、それが、あなたの美しい言葉を使うなら、花開くのです。
 それが花開きます、はい。
 それは何事かを拡大して課したり、どうにかこうにか上手くやろうとしたり、何かをどうにかしようとする必要がないことです。
 はい。
 ともかくもそれはそれ自身で咲き出します。
 これは素晴らしい啓示でした、死、生きることそして愛について全てが素晴らしい啓示でした。私は我々の次の会話で我々がこのことをさらに教育に関連して追究できることを強く願います。
 はい、そうしましょう。
                            1974年2月26日
                             中野 多一郎 訳