クリシュナムルティ(K) 我々は七つのトークを行ってきて、そしてこれが五つ目のダイアログ、議論、会話です。私はそれらのトークと議論の中で我々はほとんどのことに触れてきたと思います―人間の関係性、我々の存在のあり方、我々の考え方、ものの見方です。そしてもし私に問わせていただくなら、我々はどれだけ、或いは、どの程度変わったのでしょうか。もし我々が我々の偏った考え方をよく知るのなら、そしてもし我々が…我々はそれらをどうするのですか? それらにしがみつくのですか、あるいは、それらをやり過ごすのですか? あるいは、もしあなたが誰かに執着していると分かると、何らかの理想に、何らかの信念に執着していると分かると、もしあなたがあなたの執着に気づいて、そのことをよく知っているなら、人はどの程度それらをやり過ごしましたか、あなたはそれらの執着が大きな悲しみや痛みなどその他の全てをもたらすのを知っています、我々はそこへ踏み込んで行きました。
そしてまたもし人が攻撃的なら、ほとんどの人間がそうであるように、多かれ少なかれそうであるように、もしこれらのトークと議論や対話や会話を共に行ってきて、もし我々が自由になっているなら、あるいは、もし我々が我々の攻撃的であることに気づいているなら、深くそのことを知るなら、そして我々が全く変わったのかどうかを知るなら、そしてもし我々が我々のプライドや虚栄心や習癖をよく知るなら、どれだけ我々はそれらから自由になっているのでしょうか? それとも、我々はそれらを次の年も引きずるのですか、あるいは何年も何年も引きずって、決して我々自身の特異性や個性、我々の攻撃性、我々の執着、我々の偏った見方や恐れなどに気づかないのでしょうか。そうすると、我々は単に言葉を生きているにすぎません。そして言葉は生命の抜けた灰です。そしてもしあなたがそれらの灰を生きたいのなら、僧侶としてではなく、ただ言葉の世界を生きたいのなら、人は非常に表面的で非常に意義の希薄な生を生きていると私は思います。
それでは、これが最後の議論です、我々は今朝何を話し合いましょうか?
質問者(Q)我々は秩序を我々の生活の中にもたらすとはどういう意味か話せますか?
K 秩序について話してください、そしてそれはどういう意味なのか。私がその意味を与えるのではなく、我々がその意味を見出すのです。
Q 我々は思考の消滅のことを昨日話しました、自由なエネルギーが思考の内容であるイメージの正に本質ですか? そういうことですか?
K はい、そうです。質問は何ですか?
Q 質問は、もし思考が消滅して自由になるエネルギーが、もしこのエネルギーが思考の内容の正に本質なら、それは思考が作るイメージを意味しますか?
K いいえ、違います、違います、我々は誤解しています。我々は昨日思考のあらゆる活動を検討しました、思考の源は何か、その源にあるのは物事を記録することです、経験や痛み、悲しみなどを記録することです、それらが頭脳の中に記録されます、そしてその記憶から思考が生じます。それは明らかです。そしてその思考がイメージを作り上げます、そしてそれら全てのエネルギーは限られています、条件づけられています、非常に狭い中に保持されています。そして我々は言いました、我々が思考の全構造と性質を理解すると、思考自らそれ自身の限界を知って、狭いところに押し込められていたそのエネルギーを解放すると。我々はそのことを非常に注意深く説明しました、我々はそれを検討しました。
Q 昨日あなたは頭脳が集団的であって何千年も経ていると言いました。その発言が本当かどうか私はよく分かりません。しかし私は世界中で起こっていることに非常に関心があります、そして私は人々を同類の集合と見ることによって世界に愛と慈悲心をどのようにもたらすのかが分かりません。
K 同類の何ですか?
Q 同類の集合です。みんな一緒ということです。
K いえ、いえ、我々はそう言っていません、私はもっと上手く…質問者は言います、もし我々があらゆる人間を同類の集合と見るなら、愛や慈悲心がどう生まれるのかが私には分からないと。我々はそのように言わなかったと私は思います、そういう意味ではありません。それでは議論しましょう、あなた方は何を議論したいのですか、おっしゃってください。
Q 我々は人を見ても人間性を見ません。人間性がその本質ですか、人の真理ですか、我々は人間性について話せますか?
K 我々は…について話せますか?
Q 我々は人の本質について話せますか、我々が見ていないその人間性です。我々は人を見てもその本質を見ません。
K あーっ、我々は人の本質を見ないで人ばかりを見ます。それではどれを議論しましょうか? 秩序の問題を話し合うのは意義のあることではありませんか? そうできますか? それを議論するのは意義のあることですか?
最初に、‘秩序’という言葉で我々は何を意味しますか? それは我々に何を意味しますか? あなたが‘秩序’という言葉を聞くとき、それはどういう意味ですか、あなたはどういう感じを抱きますか、あなたはどう反応しますか、あなたは直観的にどう答えますか? 秩序は、専制国家の中の人々にとって、少数の者に従うことです、そしてその人たちが作り上げたある種のパターンに順応することです。私はそれを極めて単純化して言っています、しかしそれで十分です、我々が‘秩序’という言葉を検討するとき我々が何を意味しているのかを理解するためには。それが人々の意味するところです。意見の相違はないのでしょう、我々はみな同じように考えます、我々はみな国家のために働きます、国家がどのようなものであろうと、それはレーニンやマルクスなどに従うことです。ですから、それから逸脱するものは誰でも反体制者と呼ばれて抹殺されます。それが秩序の一つです。我々はそれを問おうとしています。
それからビクトリア朝時代の秩序があります―もし私がビクトリア朝時代という言葉を十九世紀の終わりごろという意味で使えるなら、それは表面上のあらゆるものを秩序正しくして置くことを意味しました、しかし内側には無秩序や混乱、悲惨、セックスがあるのかもしれません、そして外側ではあなたは非常に秩序正しく振る舞うのです。それに反射的に反応して、それに反対して、我々は近年寛大な文化を培ってきました―あなたのしたいことをするのです。違いますか? 寛大な社会の中を生きる男にとても女にとっても秩序は唾棄すべきものです。そしてビクトリア朝時代を生きる男にとっても女にとっても秩序はコントロールであり、感情を表に表わさないことであり、控えめにしていることであり、抑制することです。そして専制国家の秩序があります。違いますか? それらは非常にシンプルな事実であり、日常的な事実です。そして我々は内面的には―外面的には言います、我々は秩序を持たなければならないと―内面的には我々は非常に秩序が乱れています。違いますか? あなたはその通りであると言いますか、それともそうではないと言いますか? 秩序の乱れは矛盾や混乱や一つのことに重きを置いて他のことに反対することを意味します、セックスがとてつもなく重要になります、そして恐らくそれがただ一つの重要なことです、そしてその他のことをあなたは脇へ除けます、あるいは第二の位置に追いやります。そして内面的には絶えず葛藤しています、争っています―それら全てが秩序の乱れです。違いますか? このことは…間違いなく、極めて明らかです。
それでは、何が秩序の乱れをもたらすのですか、外面的にも内面的にも? そして我々は我々が秩序の乱れの中を生きているのを知っていますか、気づいていますか、よく分かっていますか、認識していますか? 外面的には戦争が起こると秩序の乱れが生じます、それは完全な秩序の乱れです、それは完全なテロリズムです―組織された、聖職者たちやお上によってお墨付きを与えられたテロリズムです。つまり、完全なテロリズムは明らかに秩序の乱れです、しかしそれはお墨付きを与えられた秩序の乱れです、あらゆる人間によって必要なことであると認識された秩序の乱れです。ナショナリティなどその他の全てが存在するときには秩序の乱れが生じます。そのように外側にも秩序の乱れがあり、内側にも秩序の乱れがあります。違いますか? そして我々は我々の内側の秩序の乱れをよく知っていますか? 我々は知っています、我々は新聞や雑誌などを読んで、この秩序の乱れが存在するのをよく知っています。それではそれはもっとずっと骨の折れることです、あるいは、人は我々の内側の秩序の乱れの何たるかに気をつけてきませんでした。違いますか? そこで私は自分自身に問うています、そしてあなたは問うています、この秩序の乱れのルーツは何なのかと、なぜ我々はこのように生きているのかと。私の言っていることが分かりますか? なぜ我々はこのように生きているのですか? なぜ我々はそれを我慢するのですか? ちょっと待ってください。なぜ我々はそれを受け入れるのですか? 男と女の間に秩序の乱れがあります、その関係性の中に、どれほど親密であっても、どれほど楽しくても、どれほど安楽でも、どれほど満足などしていても。男と女の間に絶えず戦いが生まれます、その関係性の中に、それは秩序の乱れです。違いますか?
Q それは必ずしもそうではありません。それはいつもそうではありません。
K おーっ、それはいつもそうではない。例外があるかもしれません、なるほど。一人や二人、あるいは何人か、世界の中には少数の人たちが驚くべき関係性を結んでいるかもしれませんが、世界とのぞっとするような、恐ろしい関係のことです。私は言いました、恐らくそうだろうと。
それでは、我々は、最初に、このことをよく知っていますか? 我々は内にも外にも…我々は内面的によく知っていますか、知っていますか、気づいていますか、認識していますか、見ていますか、あるいは、観察していますか、我々は秩序の乱れの中を生きていると―例外はあります、あの婦人や少数の人たちです。もし我々が我々は秩序の乱れの中を生きていると気づかないなら、誰があなたにあなたは秩序の乱れの中を生きていると言うのでしょうか? 誰も構いはしません。その反対に、その人たちはあなたに秩序の乱れの中を生きていてほしいのです。違いますか? 社会にとっては、ビジネスの世界などその他の全てにとっては、あなたが秩序の乱れの中を生きていることが利益になるのです、なぜなら、あなたが自分の中に秩序を手にすると、あなたは危険人物になるからです。
ですから、どうか、もしあなたがこのことを議論したいのなら、お互いに会話を交わしたいのなら、そしてこの秩序の問題に踏み込んで行きたいのなら、どうか自分自身で明らかにしてください、あなたの内面の働きをあなたが良く知っているかどうか、知っているかどうか、気づいているかどうか、認識しているかどうかを(笑)、それは秩序正しいのか、それともそれは秩序の乱れなのかどうかを明らかにしてください。秩序正しいということは何らかのパターンに順応することを意味するのかもしれません。違いますか? 何らかの秩序に順応することです。それが一般的に秩序正しいと呼ばれています。宗教的な人たちの言ってきたことに順応することです―僧侶たちやグルたち、教師たち、そしていわゆる神聖な書物に書かれていることなどです、もしあなたがそれらに従うと、それらに順応すると、あなたは言います、“私は秩序正しく生きている”と。何かに順応することによって秩序が生まれるのですか? それとも、それは正に秩序の乱れの源ですか? 人はここではズボンやシャツを身に纏うことでこの国の文化に順応しています。人がインドへ行くと人は違う衣服を身に纏います。それは今議論している順応性ではありません。我々は心理的な、内面的な順応性のことを話しています。あなたは何かに順応していますか? 人は知りますか、悟りますか、あなたが何かに順応していることを。
Q 宜しいでしょうか、我々は分かりますか、秩序の乱れの原因が堕落の原因と同じであることを。
K はい、そうです…いいえ、止めてください、我々が堕落について話してきたことを忘れてください。それを持ち込まないでください、というのは、あなたが同じ古いパターンに戻っているからです。
最初に、あなたは分かりますか、あなたは自分自身で気づいていますか、あなたが何かに順応していることに―結婚という観念に、あるいは非婚という観念に、両方とも同じ観念です。あなたは女子あるいは男子と生活しているかもしれません、そして言います、“我々は何にも順応していません”、しかし結婚している人たち、その人たちも何かに順応しているのですか、なぜなら、その人たちは何らかの書類や何かに署名しているからです。お分かりですか? あなたは認識する必要があります、気づく必要があります、あなたが何かに順応しているのかどうかに。
Q 何らかの観念に、何らかに順応する思考です、なぜなら、もしその思考が何かを繰り返しているなら、それは順応しているからです。
K 宜しいでしょうか、他のことを持ち込まないでください―更にちょっと複雑になります―我々はこのことに更に深く踏み込んで行きます。このことから始めてください、つまり、私あるいはあなたは何らかのパターンに順応していますか、それが社会によって確立されているものであろうと、私が自分自身で築き上げてきたものであろうと、それは依然として順応することです。お分かりですか? 私は目に見える権威にことごとく反対するかもしれません、しかし内面的には私は私の経験という権威を、私の知識という権威を身に纏っていて、私はそれに順応します。そしてそれもまた順応です。それでは、あなたはこの事実に自分自身で気づきますか? もし気づかないなら、誰があなたに気づかせるのですか? 誰があなたに圧力をかけて、こうあなたに言わせるのですか、“はい、私の秩序は乱れています、私は悟りました”と。なぜなら、何らかの圧力によってあなたは悟らないからです。あなたを順応させるのは、あるいは順応させないのは、正に外側からの圧力に他なりません。それでは、もし私に再び問わせていただくなら、もしあなたが自分自身に問うているなら、あなたは心理的に何らかに順応していませんか? 宜しいでしょうか、このことは最も微妙で重要なことの一つです、もしあなたがそのことに非常に深く踏み込むなら。あなたはある種の法律に順応しなければなりません、あなたはヨーロッパでは右側を走行しなければなりません、そしてイギリスでは左側です。もしあなたが、“私は従いません”と言って右側を走れば、警官があなたの後ろからやって来て、あなたに言うでしょう、“どうぞ、左側を走行してください”と。
そのように、私は問うています―どうか自分自身に問うてください、あなたが何らかの伝統に順応しているかどうか、あなたの攻撃的な、暴力的な性格に順応していないかどうか、あなたはそれら全てに順応していませんか? あなたはこのことがとても難しくて途轍もない問題であると分かります。そしてもしあなたが何かを模倣しているなら、外面的にではなく、私は外面的な模倣のことを話しているのではありません―ロングヘア―、ショートヘア、あごひげやあごひげを生やさないことなどその他の全てです―内面的に心理的に何かを模倣するなら…ゆっくりと時間をかけて、午後あるいは夕刻あるいは一日の内のある時間、自分自身を見つめてみませんか? 宜しいですか? それは今あなたの行っていることです、つまり、もし私に心から敬意を込めて指摘させていただくなら、あなたは自分自身を見て発見しています、あなたが何かに順応しているのかどうかを、何かを模倣しているのかどうかを、そしてもしあなたが何らかのパターンに順応していて、他の人も別の何かに順応しているなら、二人の間に争いが生じます、従って秩序の乱れが生じます。違いますか?
そこで、もしあなたが気づくなら、知るなら、悟るなら、分かるなら、あなたの秩序は乱れていると…そうするとあなたはそこに留まりますか―お分かりですか?―それを変えようとしないことです、“私はそれを超えて行かなければならない、私はそれを封じ込めなければならない、私はそれを理解しなければならない、私はそれを合理的に解釈しなければならない”と言おうとしないことです、そうではなく、それを言わば両手で抱えるのです、そしてそれをどうにかしようとはしないのです。赤ん坊はあなたの手の中で眠っています(笑)、あなたが動くと、その子は目覚めて泣き始めます。お分かりでしょうか? 私は明確に話しているでしょうか、どうですか?
そのように、それが要点です、つまり、人は何らかのルールや規律やコントロールや抑圧で人の生の中に秩序を理解して生み出すのでしょうか、それとも、あなたは自分自身の中に秩序の乱れを観察して、それから逃げずに、それをあなた自身の個性や気質や攻撃的性格としないで…ただそれを見守りますか、それを観察しますか、それを見つめますか?
我々は言いました、もしあなたが理解しているなら―もし私にそれを続けさせてもらえるなら―我々は昨日言いました、あるいはこれらの議論やトークの中で言いました、‘アート’という言葉は物事をその本来の働きに委ねることであると。違いますか? その本来の働きです、何か一つに或いは他の何かに重きを置くことではありません。もしあなたが何らかの技術に重きを置くなら、技術以外の分野が軽んじられ、従って調和を欠くことになります。もしあなたがセックスに、ほとんどの人がそうであるように、もちろん例外はありますが、この上なく重きを置くなら、セックスに何が何でも最高位の重要性を与えるなら、セックスが生の中で唯一重要なものであるとするなら、あなたは再び一つのことに重きを置いて調和を乱します。もしあなたがお金を最重要のものとするなら、再び矛盾が生じます。あるいは、もしあなたが力や支配が最重要であると言うなら、再び…従って、調和して生きることはあらゆるものをその本来の働きに任せることを意味します―あなたはそうしますか? それともあなたはただ…(笑)あなたはこのようにしますか―西欧世界のように身体に途轍もない重要性を課さないことです、どのように見えるか、どのように着こなすか―お分かりですか?―このような途轍もない関心です、しかしそれは正しく上品にするなどその他の全てに気を配って着こなしてはいけないということを意味するのではありません。あなたはそうしますか? もしあなたがそうしないなら、なぜあなたは秩序を口にするのですか? それは全く意味のないことです! しかし、もし人が秩序正しく生きたいのなら、従って大いなる美と調和して生きたいのなら、そして恐らく平和に生きたいのなら、あなたは秩序を手にしなければなりません。
秩序は店から店へ行くことではありません―ウィンドウショッピングではありません! ‘ウィンドウショッピング’と言うのが分かりますか? 決して何も買わないで見て歩くだけです(笑)―お分かりですか?―店から店へ見て歩くだけです、そして、あなたはそれが途轍もなく広い見識だと考えるのです―書物から書物へ、教師から教師へ、グルからグルへ、哲学者から哲学者へ渡り歩くのです。お分かりですか? 決して、決して、決して一カ所に留まって明らかにしないのです。なぜ人々はそのようにするのですか? あなたはそれを不思議に思ったことがないのですか? 人々はインドへ行きます、その人たちはこちらの聖職者たちにうんざりしています、そこで恐らくそこには何かがあると思うのです、ロマンチックな考えです―しかしそれらは全てナンセンスです。そしてこれが知識の収集と呼ばれています、あるいは、開かれた精神と呼ばれています。それは実際には開かれた精神ではありません、それは大きな‘ざる’であり、大きな穴が開いています、それはその中に穴が開いているただの‘ざる’にすぎません。我々はこのようなことをいつも異なった仕方で行っています。そこで我々は問うています、あなたは本当に真剣に、本当に献身的に、本当に身も心も注いで、余すことなき秩序の生を生きようとしているのですかと。
Q 秩序の乱れた生を生きる方が容易いように思われます。
K 聞こえません。
Q (フランス語)
K あーっ、秩序の乱れた生を生きる方がずっと容易である―そうですか?
Q はい、はい。
Q 人々は秩序の乱れがどういうものか全く理解していません、もしその人たちが秩序の乱れた生を生きたいと言うなら。
K どうか、今朝のこの一時間を費やして、我々自身で明らかにしましょう、我々は秩序の乱れた生を生きたいのかどうか、見たところほとんどの人たちがそうしています、部屋の中が乱雑になっているような類です―もし人々がそうしたいなら、それはそれで何も言うことはありません。しかし、もしあなたがこう言うなら、秩序の乱れた生を生きることによって、人の生は大混乱に陥ると、惨めになると、混乱をきたすと、暴力などその他の全てが生じると、そうすると、明らかに人は自分の秩序の乱れに気づかなければなりません、それを認識しなければなりません、分からなければなりません、よく知らなければなりません。それを少なくとも一時間、あるいは残された三十分、あるいは四十五分の間、ここに静かに座って話している間、行ってください―明らかにしてください。グループセラピーとしてではなく、それはとても馬鹿げています、しかし宜しいですか、静かに座って明らかにしてください、自分自身のことをよく知ってください。
もしあなたがあなたは秩序の乱れた生を生きていると分かるなら、自分自身でそれを発見するなら、人は何をすることになりますか、宜しいですか? お分かりですか? 宜しいでしょうか? 何をすることになるのか、あるいは何をしないのか、そのためには人はこの問いに踏み込んで行かなければなりません、つまり、秩序の乱れの根本の原因は何なのかです。これら全ての混乱や争い、悲惨を生み出す根本原因は何ですか―お分かりですか? 我々の生の中にある様々な秩序の乱れの、そのルーツとは何ですか? 言わないでください、“それは私です”と、あるいは、私のエゴであると―それらは言葉にしかすぎません―あるいは思考にしかすぎません。そうではなく―お分かりですか?―自分自身で明らかにするのです。
Q クリシュナジ、世界中で、それは秩序であると言う道化じみた大多数が引き起こす恐怖を我々は受け入れます。私は怒りの炎を燃やして、慈悲心から叫びます、そうすると私は…(聞こえず)…面と向かって言われるのです、あなたはクリシュナムルティにはとても及ばない、とか何とか言われるのです。
K 宜しいでしょうか、それら全てを放り捨てなさい、クリシュナムルティや何やらを全て放り出しなさい、そして自分自身で明らかにしてください。宜しいですか、私は本当に自分自身には興味がありません、私はそれら全ての子供じみた類のことを相手にするには年を取りすぎています。
Q 我々は他の人のことは構いません、それが秩序の乱れの源です。
K 何と言いましたか?
Q 彼女は、我々は他の人のことを構わないと言っています。
K 何と言いましたか…我々は他の人のことを構わない? 我々は秩序の乱れのことを話しているのですよ、マダム。
Q (フランス語)
K 秩序の乱れの原因は何か。それが私の問うていることです。秩序の乱れの原因、源、その本質は何ですか? ちょっと待ってください、誰も引き合いに出さないでください、私を含めて。ちょっと待ってください、宜しいでしょうか。もしあなたが誰かを引き合いに出すなら、あなたは他の人たちの言った何かを言って答えているだけです。ですから、他の人たちの言ったことは放り投げてください、この人物も含めて。クリシュナムルティに追随しないでください。それは致命的なことです。クリシュナムルティグループを作らないでください、後生だから、お願いします。
Q (聞こえず)
K いいえ、そうではありません、ちょっと待ってください、分かってます、ちょっと…宜しいでしょうか、後生だから、このことを言わせてください!
秩序の乱れの原因とは何ですか? 限られているものは何でも―お分かりですか?―非常に狭い空間の中で働くものは何でも秩序の乱れを作り出すに違いありません。もし私が一人の人間としてあなたを愛して他の人たちを憎むなら(笑)、それは秩序の乱れを作り出すに違いありません。違いますか? もし私があなたに執着していて、あなたと私が私たちのささやかな家で完全に幸せである限り、私は世界で何が起ころうと構いはしません。そうすると我々は何かを発見しています、つまり、非常に狭い空間の中で、非常に狭い殻の中で―その殻が巨大な殻であっても、その殻の中で―活動し生きているなら、それはいずれにしても限られた活動です。狭い空間の中で活動するもの、機能するもの、働くものはどのようなものも秩序の乱れを作り出すに違いありません。もし私がそのグルに従って、他のグルたちに従わないとするなら、私は非常に限られたことをしています。違いますか? それは明らかです。しかし、もし私がグルというものとは無縁なら、私が誰にも全く従わないなら、私は遍く活動します。
そこで私はあなたに問います、秩序の乱れは限られた生き方によってもたらされるのですかと。私の主人がいて、そして他の赤の他人がいるのです。私は親切でなければならない、私は思いやりがなければならない、私は憐れみ深くなければならない、私は人々を愛さなければならない―しかし、それらはただの言葉です、なぜなら全てが一人の人間を中心に据えた世界だからです、一つのことを中心に据えた活動だからです。それは秩序の乱れをもたらすかもしれません。そのように、私は悟りました、どのような活動も、限りのあるどのような活動も秩序の乱れをもたらすに違いないと。つまり、もし私がナショナリストとして活動するなら、それは秩序の乱れです。もし私がカソリック教徒として、プロテスタント教徒、ヒンズー教徒、仏教徒などその他の全てとして活動するなら、それは秩序の乱れです。
それでは、あなたは自分自身を見てみて、自分自身をよく知ってみて、“やれやれ、その通りだ、私はそれを葬ります―全て葬りました”と言いますか? もしあなたが秩序の何であるのかを明らかにすることに興味があるなら、秩序の乱れを生み出すあらゆるものが即座に葬り去られます。研究に没頭している科学者のように、それがその人の主要な関心事です、他のことは二の次であり、それが主要な仕事であって、その人はそれに全精力を傾けます。そのように、あなたは自分自身であなたが狭いサークルの中で活動しているのかどうか、その中を生きているのかどうかを明らかにできますか?
Q あなたは自分自身を変えることは極めて容易であると、そのことに閃くことは容易であると思いますか―秩序の乱れがあり、そしてこれがその理由であり、そして次の日に…
K 自分自身を変えることは極めて容易ですかと―あなたはそう問いましたか? それが主要な問いです。ちょっと待ってください、宜しいでしょうか、御免なさい、あなたが言ったことは分かります、あなたは…私は忘れました。御免なさい。自分自身を変えることは極めて容易ですか? 私は“はい”と言います。それを信じないでください、なぜなら、あなたはそう簡単には変わらないからです。しかし、もしあなたが危険を目の当たりにするなら―お分かりですか? 宜しいでしょうか―差し迫った危険です、断崖絶壁に出くわせば、あなたは後ずさりします。しかし、あなたは限られた活動、限られた生き方に潜む危険を見ようとしません。つまり、私はあなたに執着しています、そしてあなたは私のものです、どうかお願いだから、一緒に平和に暮らしましょう、喧嘩するのはやめましょう―お分かりですか?―世の中のことは忘れましょう、お金を稼ぐなどその類のことのために働きに出なければなりませんが、私たち二人は一緒です。これは余りにも子供じみています!
Q 実際に秩序以外に何もないのですか、そして秩序の乱れは、もし私がこの秩序の流れから何かをとらえるなら、そうするとそれは止んで…
K いいえ、違います、秩序の流れというものはありません。私は分かります、それは単なる想像です、至高の秩序が存在するという想像です、それは神です。
Q いえ、いえ。私はそう言っていません。私が言っているのは、秩序はあらゆるものそれ自体です、物自体の中に秩序があります、もし私が理解するなら、もし周りの全てのものを理解すれば。そうすると秩序が生まれます。
K そうすると秩序が生まれます。あなたが生の秩序の乱れの危険を理解すると、それは様々な仕方で表現されます―何かに順応することであったり、狭い限られた生き方であったり、その限られた世界は非常に大きかったりしますが、それは依然として狭い世界です、もしあなたがそれら全てを見て取るなら、言葉ではなく、知的にではなく、実際にその危険性を見て取るなら、それで終わりです。秩序が生まれます。
Q 自分を変えることはそれほど簡単ではないと私は思います。私が今何かに閃いたとすると、私がそれは危険であると悟ると、私は街の中へ戻ります、私は友人たちのところへ戻ります、そして私はそれを忘れます。
K 街や仕事、妻、夫は最も危険です(笑)、なぜならそれらは全て執着を意味するからです。
Q そうすると、あなたの考えは…
K お分かりですか? それは危険です。ちょっと待ってください。それはあなたが結婚できないことを意味しません、女友達や何かを持てないことを意味しません、そうではなく、宜しいでしょうか、我々が狭い非常に小さな世界の中で暮らしている危険を見てください。違いますか? 宜しいでしょうか、ザーネン、この小さな村では、人々はドイツ語を話します、そしてあなたが二マイル行くと、フランス語を話す人たちがいます、そしてそれらのフランス語を話す人たちはドイツ語を話す人たちと会おうとはしません―お分かりですか?―人々は非常に狭い小さな世界の中にいます。宜しいですか、我々も同じことを行っています。あなたはそのような生き方がはらむ危険性を実際に感じませんか? それが全てです。もしあなたがそれを見て取らないなら、どのようにして人はあなたにそれを見て取らせるのですか、人はどうすればよいのですか? ちょっと待ってください。私は何らかの伝統に順応することの危険が分かりません、何らかのパターンに順応することの危険が分かりません、それが外面的であろうと内面的であろうと、私はそれが秩序の乱れをもたらす原因であることが分かりません。あなたは私に様々な角度からそれを説明しました、そして私はそれを受け付けません。お分かりですか? なぜなら、それは非常に私の心をかき乱すからです。私が何らかの秩序の乱れた生き方に慣れ親しんでいるとき、あなたは私にそれをよく見るように促しているのです、私はぞっとします。もしあなたが専制国家の中にいる人たちに語りかけるなら、その人たちは言います、“はい、私たちはこの生活に慣れています”と―違いますか?
Q その人たちはその生活に慣れてはいません。
K マダム、どうしてそう言えるのですか?
Q 宜しいですか、人は耳を傾けます。起こっていることを見ます。
K 一人、二人は異議を唱えます。宜しいですか…一人、二人です。その人たちは例外です。一人、二人は異議を唱えるけれども、その人たちは収容所へ送られます、精神病院へ送られます、そして、ありとあらゆる恐ろしいことが待ち受けています。しかし大多数の人たちは、明らかに私はあなたに言っているのです…なぜなら私はそれら多くの人たちと話をしてきたからです、その人たちは言います、“我々はそれに慣れてしまいました”と。あなたは秩序の乱れに慣れています、あなたは戦争に慣れています、あなたは妻や夫と喧嘩することに慣れています。そのように、あなたはこの無秩序の生き方に慣れています。宜しいでしょうか、非常に興味深いことがあります、つまりこうです、コスモスは秩序を意味します、コスモスという言葉は秩序を意味するのです。宇宙は秩序正しいのです、完全な秩序です。そして我々は秩序の乱れた生を生きていて、コスモスを理解しようとしています、宇宙を理解しようとしています。あなたは私の言っていることが分かるでしょうか―分かりませんか? どうして私は余すことのない秩序である何かを、私自身が秩序の乱れた中にいるとき、それをやり過ごさないで、理解できるのでしょうか? 私は理解できません、ですから私は秩序には関心がありません。私は秩序の乱れに関心があり、私は言います、“そこで私はその秩序の乱れをどのように解消するのかを明らかにしようと思います。私は明らかにしようと思います、私は私の生をそのことに捧げたいと思います”―お分かりですか?―それは重要なことです。そして私は秩序の乱れをもたらす様々な要因を見て取ります、それで十分です。そこで私は言います、“分かりました、私はとても関心があります、私はその熱気にあふれています、私は秩序に関心があります”と。そのように、私は秩序の乱れから始めて、その原因を明らかにします、そうすると、それはとてもシンプルです。つまり、私の関心の要点は秩序正しく生きることです。私はそれがどういうことなのか分からないので、私は引き返して明らかにします。お分かりですか? 私は時間とエネルギーを費やして、それを探求します。
私の熱意に同調しないでください、あるいは私の関心に、私の熱気に同調しないででください! なぜなら、それはあなたのそれではないからです。
Q しかし宜しいでしょうか、私は弱いのです、私にはそれほどの力がありません。私はあるときそれを試みました、私は秩序の乱れの原因が分かりました、そして私はそれを何としても見失いたくありません、ですから私はそこで止めます、恐らく。あるいは、私はそれを忘れます。
K 分かりました。それでは他の言い方をすると、あなたは秩序の乱れた生き方をしたいのです。私はそれを非難しているのではありません、それが起こることであると私は言っているのです。
Q あなたは秩序がそこに内在していると言いませんか、そしてそれは我々の限界であると。
K 秩序は人間に内在していると、そして秩序の乱れをもたらすのは正に思考のみであると。お分かりですか? これは全ての宗教的な人たちの古くからの発言です、つまり、秩序が存在する、神が秩序である、天国に秩序がある、私は天国に生まれる―お分かりですか?―それが私の中にも垣間見える瞬間があると、それがいつか花開いて秩序の乱れを放逐すると。これは、宜しいでしょうか、我々が遥か昔から弄んできたゲームです。あなたは我々の精神がどのように働くのか分かります、それは伝統です。お分かりですか?
Q あなたはあなたの学校には他の学校よりも秩序があると言いますか?
K 宜しいでしょうか、あなたは彼が何を見逃しているか分かりますか? 宜しいですか、彼は私が関係している学校のことを言っています。彼は彼が秩序の乱れた生を生きているのかどうかを探求しているのではなく、彼はその学校の秩序が乱れているのかどうかを明らかにしたいと思います。彼が何から逸れているか分かりますか?
Q それは逸れているのではなく、単なる興味です。
K いいえ、そうではありません。私はこの…に興味がありません―御免なさい。
Q それは非常に真剣な問題です。もしそれに関係している人たちが…
K 宜しいでしょうか、どうか、お願いします、どうか…
Q …それらの学校に携わり、そしてその人たちがあなたの、言わば、秩序に頼って学校を運営していると、それは非常に真剣な問題です。
K おーっ、いいえ。誰もここではさしあたりその学校のことに関心はありません、あるいはそこの教師たちに関心はありません。我々は我々の中の秩序の乱れに関心があります。
Q 恐らく…
K …は止めてください、宜しいでしょうか。
Q …あなたの関与は秩序の乱れの一部です。
K ……
Q あなたの学校への関与は秩序の乱れの一部である、と彼は言っているのだと私は思います。
Q 恐らくそうです。私はそう言いました。
K このことは他の何かへ逃げてしまう人たちと議論するときに起こることです。
Q あるいは、あなたは、言わば、あなたのシステムに従って、つまり、あなたの述べる秩序に我々が組み込まれることによって、我々に催眠術(笑)を掛けようとしているのかのどちらかです。もし我々が秩序を明らかにしたいのなら、我々は自分自身に従ってそれを行う必要があります。宜しいですか、私はあなたの言うことはどれも受け入れがたいと思います、そして時々私はあなたが完全に秩序正しい人間だとは正直思えません。時々あなたは間違いを冒します、私はあなたが完全であるとは受け入れがたいのです。
K 宜しいでしょうか、分かりました、宜しいでしょうか。私はあなたにホールを借りてトークを催すことを勧めます。
Q あなたは質問を受け付けないのですか? これは議論ではないのですか?
K ……
Q 我々はそれに関心がありません。
Q 分かりました、要するに、あなたは自分自身の窮状を大事にしているのです。
K はい、それです。
Q (聞こえず)(拍手)
K 今何時ですか?
Q …二十五分過ぎです。
K 我々は一時間近く、ほとんど一時間話してきました―我々はどこにいますか?
Q 秩序の乱れた中にいます。(笑)
K あなたは秩序の乱れの良い例を手にしています、とその婦人はいいます。他の何かに話を逸らして、自分自身の秩序の乱れに関心を示さない人のことです。私はあなたの秩序が乱れているとかいないとか言っているのではありません、そうではなく、自分自身であなたの秩序が乱れているのかどうかを明らかにしてくださいと言っています、クリシュナムルティ方式というものはありません。
Q 私は秩序の乱れがここにあるように感じますが…
K 宜しいでしょうか、自分自身で明らかにするために十分間いただけますか? あなた方はここにいます、恐らくあなた方の幾人かはここにいるのがうれしいと思っています(笑)私はもうあなたを攻撃したりしません、しかし、十分間、自分自身で、あなたが秩序の乱れた生を生きているのかどうか、あるいは秩序正しい生を生きているのかどうかを明らかにできますか、そして秩序の乱れが何なのかを明らかにできますか、そしてさらに秩序を何かに順応するための手段として導入しないでいられますか? お分かりですか? 私はそれらのことを説明してきました。我々は十分間一緒に真剣になってあなたと私が秩序の乱れた生を送っているかどうかを明らかにできますか?
秩序の乱れは偏った見方を意味します。この秩序の乱れは何かに順応することによって、心理的に何かに順応することによって引き起こされます、それは伝統に従うことです―何らかのパターンに従うことです、何かに従うことであり、そしてその対極でもあります、つまり、従わないことです、そして何かに反射的に反応することなどであり、それも依然として何らかの順応性です。それではこの秩序の乱れのルーツとは何ですか? 我々は言いました、そのルーツは非常に狭い閉じた世界の中で行動し考えることかもしれない、心理的にと。あなたは世界中を旅行するかもしれませんが、内面的には心理的には人は非常に、非常に狭い空間の中を生きているのかもしれません、あるいは、その空間を広げて、言います、“私は広い心をもって考えなければならない、あらゆるものを見なければならない”と、そしてそう願って行動するなどします。それでは、あなたはこの十分間あなたのエネルギーを費やして、あなたが秩序の乱れた生を生きているのかどうかを、そしてその原因を明らかにできますか?
どうか、瞑想に逃げないでください。あなたは見守るためにそこにいます。もしあなたがそうであると分かるなら、あなたが何かに順応していると分かるなら、あなたが非常に、非常に狭い小さな世界の中で活動していると分かるなら、あなたはそれを見守ることができますか、それを観察することができますか、そしてそれについて何かをしようとはしないでいられますか? 我々が先日言ったように、科学者たち―優れた科学者たち、一級の科学者たち、最先端の科学者たち―が細胞を顕微鏡で見守るとき、あるいは何であれ科学者たちが顕微鏡で見守るとき、もし科学者たちが何らかの憶測を抱いて、何らかの偏った見方をして、それを理解しようとする欲望を抱いて取り組むなら、その科学者たちはその人たちの観念をそこに投影しています、従って、その人たちはその細胞や何かをありのままに見ていません。そのように、科学者たちは発見しました、もしあなたが何の‘偏見’も抱かずに観察するなら、そのもの自身が働き始めます、自ら変質し始めます―私の言っていることが分かりますか? そのように、あなたは、同じように、あなたが見守っているものに対して反射的に反応しないで見守ることができますか? つまり、秩序の乱れを観察していて、その原因を観察していて、それを見守っているとき、あなたはそれを超越したいと思わないことです、それを乗り越えたいと、それを抑圧したいと、それから逃げ出したいと思わないことです、あるいは、“これは問題ない”と言わないことです―ただ、何もしないで見守ることです。そうすると、もしあなたがそのように見守っているなら、あなたが見守っているものが自ら変質し始めます。自ずから変質することが秩序です…
Q 私はあなたにも何らかの楽しみがあるのかどうか分かりません、恐らくあるのかもしれませんが。
Q 我々は今静かにできますか?
K それは私にとって楽しみということではありません、マダム。
Q 私はそれほど確かではありません。
K 分かりました、分かりました、あなたはそれほど確かではありません。分かりました。あなた方は分かりましたか? 宜しいでしょうか、あなたは耳を傾けますか? 宜しいですか? 私は言いたいと思います。どうか―ちょっと耳を傾けてください、楽しむつもりで聞いてください。
あなたが何かを過去とは無縁に観察するとき、そのような偏見とは無縁に観察するとき、何ものとも無縁に観察するとき、あなたの見守っている正にそのものが息づき、蠢き、変わり始めます、従って、それは決してじっとしていません。一方、秩序の乱れはいつまでもそのままです―いつまでも秩序の乱れたままです―私の言っていることが分かりますか? しかし、もしあなたがそれを見守るなら、その秩序の乱れそのものが変質していきます、他の何かになります。そのように、あなたはそれを見守っていますか?
Q 認識はこの見守りの中に含まれますか?
K それは認識ではありません。おーっ、何と…私は言いました、もしあなたがそれを認識するなら、それは何らかの記憶ですと。もしあなたがこう言うなら、“はい、それは秩序の乱れです、私はそれを見守ろうと思います”、あなたには秩序の乱れという記憶が頭にあります、それは秩序の乱れという観念であり、秩序の乱れという概念や定型などです、そしてそれらの概念であなたは見ているのです。そうすると、あなたは秩序の乱れを外延的に見ています。しかし、もしあなたがいかなる記憶とも無縁に見守るなら、“それは秩序の乱れである”と言うことなく見守るなら、そして“私はそこで何が起こっているのか見守りたい。私はそこで起こると私の考えたことをそこに持ち込みたくありません”と言う科学者のように見守るなら…私は科学者たちがそのように行うのかどうか知りませんが、私はその人たちがそうであってほしいと言っています。そうすると、あなたが観察している当のものが途轍もない変質を遂げます。
Q もし記憶とは無縁に見守るなら、その活動を見ることができないのではないのですか、なぜなら…
K それです、何の活動も起こさずにただ観察しているだけです。
Q なぜなら、活動を認識することがすでに記憶だからでしょう。
K はい。あなたはこれらを行いますか? 試してみてください、実際に、日常生活の中で試してみてください。それが生きる‘アート’(‘霊妙なる働き’―盤珪永琢)です。即ち、あらゆるものをその本来の働きに委ねることです、そうすると秩序の乱れは生じません。しかし、もし、そうすると都合が良いからという理由で、それがエネルギーを無駄にしないからという理由で、そうすれば秩序を手にするからと考えて(笑)、あなたがあらゆることをそのように行うなら、あなたは秩序の乱れを作り出しています。違いますか? 終わりです。
1978年 7月30日 ザーネン ダイアログ 5
中野多一郎 訳