クリシュナムルティ(K) 今朝は何について話しましょうか? 質問はありませんか?
質問者(Q)瞑想は日常生活の中でどのような意味を持ちますか? それをどうぞ説明してください。
K 瞑想は日常生活の中でどのような意味があるのか―それが質問ですか?
Q パーソナリティーとは何ですか?
K パーソナリティーとは何か。私は本当に知りません。
Q (フランス語)
K 分かりました。私の理解した限り、質問者はこのように問うていると私は思います、私が何気なく歩いていると何かが私の中に生じます、そしてそれが私を非常に心動かします、そしてそれは次第に消えていきます。そして再びそれが生じます。彼は彼の周りに目にするもので傷つきます。彼は苦しみが生じているのを目の当たりにして、それに居たたまれなくなります。
Q いいえ、彼は矛盾を目にします、彼が言ったのは、あなたがこのテントを出るや否や、たばこを吸うか何かをする人を彼は目にして、ここで言われたことと実際に外で起こっていることとの間に矛盾を感じるということです。
K 彼は傷つきます、ショックを受けます、苦しみます、外に出て彼の周りで実際に起こっていることを目にするとそうなります、これは矛盾です。ここで言われることと外で実際に起こっていることです。人はどうすれば良いのでしょうか? そう言うことですか?
他に質問はありませんか?
Q どのようにして意識はそれ自身を余すことなく意識するのでしょうか?
K どのように意識はそれ自身に気づくのか。私はそのことを今朝少しだけ話そうと思っていました、もし宜しければ。幾つかの質問がありました、他にありませんか? 一つは、瞑想は日常生活の中でどのような位置を占めるのか? そして人は世界がとても矛盾に満ちているのを目にします、我々の周りで起こっていることです、人々はとても苦しんでいることなどです、そしてそれはここで言われていることとは全く正反対です、人は何をしたらよいのでしょうか?
Q なぜ人は真理を恐れるのですか?
K 人はなぜ真理を恐れるのか。
Q 癒しのエネルギーについて何か言っていただけますか?
K 癒すエネルギーについて話してください。それでは…
Q (聞こえず)
K 最初の質問は分かりましたが、宜しいでしょうか、二つ目の質問はよく分かりません。
彼は何らかの秘儀を授かりました―どうか笑わないでください―彼は何らかの秘儀を授かりました、マハラージ師の何かを、つまり、その先生が彼に何らかの秘儀を授けました。そして彼はその通り生きてきましたが、彼は解放されていません、彼は解脱できません。分かりました。ちょっと待ってください、それで十分です。
日常生活の中の瞑想とは何か、そして、なぜ人は真理を恐れるのか、そして、意識はそれ自身に気づけるのか、そして、我々がこうしてこのテントの中で共にしていながら、我々が外に出ると、我々が多くの矛盾を目にして不安に駆られ苦悩するのはなぜか、そしてまた最後の質問は、誰かによって秘儀を授けられていても解放されるべきと思われることから解放されない自分がいること―それがその紳士の言うことです。それでは、どの質問を見ていきたいですか?
Q 意識はそれ自身に気づけるのか?
K その質問を一緒に話し合いたいですか、その紳士が問うた質問です、意識はそれ自身に気づけるのか、です。それを見て行きたいですか? つまり、思考は―我々はゆっくり始めます、ゆっくりそれを見て行きます―思考はそれ自身に気づけるのか、です。つまり、考えることによってその思考のルーツに気づけるのか、考える働きに、そして思考の全プロセスに気づけるのか、その働きはそれ自身に気づけるのか、ということです。それが問われた質問です、その紳士だけではなく、それは昨日の朝もここにいる誰かによって問われた質問です。同じ問いです、精神は、そのすべての内容を、決して一定ではなく、絶えず活動しているそれとともに、そのような働きはそれ自身に気づけるのか、ということです。
なぜあなたは知りたいのですか? なぜあなたはそうしたことを知りたいのですか? 私はただ、私は明らかにしたいのです。あなたがそのようなことを問うとき、なぜあなたはそれを問うのですか? なぜなら、もしあなたがそのことについて真剣なら、それは最も…なことの一つだからであり、それはとても気をつけていることによって、思考が、考えることが、それ自身の働きに気づけるのかどうかを明らかにすることになるからです。あなたは興味本位から、ただ問うためにのみそうしているのか、それとも、あなたはその問いを発して、思考するものと思考との分断を余すことなく消し去ろうとしているのか、そのいずれかです。あなたは私の問いかけが分かりますか?
恐らく我々はこのことに踏み込んで行って、我々は瞑想が日常生活の中でどのような働きをなすのかをも検討します。そして人は誰かに身を任せることができるのかどうかを検討します―それがあの紳士の問うたことです。
我々はその最後の質問を先ず片付けることができますか? つまり、何かしらを身に帯びた―お分かりですね、その他のあらゆることです、それらのグルたちです―彼らはやって来て言います、あなたを私に預けなさい。分かっています、あなたはそうしませんが、あなたを私に預ければ、私はあなたを助けるでしょう。あなたの財産、あなたのお金、あなたの全てを差し出しなさい、そうすればあなたにはいかなるお金の問題も生じません―お分かりですか? これが世界中で実際に起こっている事実です。我々は途轍もなく騙されやすいのです。同じようなことが世界中の教会で繰り返されてきています―あなたを神に、キリストに、これやあれに預けなさい、あなたの持っている全てのものを預ければ、我々があなたの面倒を見ますから、我々の仲間になりなさい。彼らはそう約束します。そして結局あなたはどうなりますか? お金を失います。多くの人がこの問題を抱えて、彼らの持っている全て―家や財産、お金―を誰かに預けて、私のところへやって来ます―お分かりですか―彼らは彼らの家を出るのです、そしてその先生は立ち去ります、そのグルは何とも素敵な邸宅の中にいなくなり、あなたは途方に暮れるのです。それでは始めにこのことに関することです、いかなる権威も受け入れないでください。宜しいですか? 優れた医師の権威というものがあります、しかしいわゆる精神的なことの中には、精神的、心理的な事柄については権威というものはありえません、従って誰もあなたを何事かの中へ導き入れることができません。それは人間が他の人間に仕掛ける罠の一つです。
次の質問はこうです、瞑想は生活の中で、日常生活の中でどのような位置を占めるのか、です。あるいは、瞑想は日常生活とは分離した何かであるのか、です。あるいは、瞑想という観念を日常生活の中に持ち込むのか、ということです。お分かりですか。三つの問題が、更にもっと多くのことがこのことの中に含まれています。つまり、あなたは瞑想という観念を―それは観念です―持ち出して、その観念が日常生活の中でどのような働きをするのかを明らかにしようとしています。最初に、それは何らかの観念ですか―あなたは瞑想しなければならない、あなたはこれをしなければならない、あなたはそれをしなければならない―あなたは何らかの結論に達して、その概念を日常生活の中に導入するのですか? 宜しいでしょうか。あなたはこのような問いかけを理解しましたか? あるいは、人の行為は意識に余すことなく気づくこととどのような関係にあるのかを明らかにしようとしているのですか?
つまり、なぜ人はそもそも瞑想するのですか? 我々はややもすれば不幸な、みすぼらしい、争いの起こる、惨めな、苦悩する、他の人たちに欺かれるなどする日常生活を送っています。それが我々の日常生活です。なぜあなたは瞑想をその中へ導入したいのですか? それとも、争いや、悲しみ、傲慢なこと、プライドなど、それらの意味を理解すること、それらの構造、そのような反射的な反応を理解すること、それが瞑想の一部ですか? 瞑想して行動に移すのではないです、それを日常生活の中に導入するのではないのです、そうではなく、日常生活の中で、オフィスにいるとき、工場で働いているとき、農作業をしているとき、妻や夫、女子や男子と話しているとき、あなたはあなたの反射的反応に気づいています、そのような反射的反応を理解しています、知的な理解ではなく、なぜあなたは嫉妬するのか、なぜこのような不安な気持ちになるのか、なぜあなたは何らかの権威を受け入れるのか、なぜあなたは他の人に依存するのか、そのようなことの探求の中に、そのことの中に踏み込んで行くこと自体が瞑想です―その逆ではないのです。もしあなたが瞑想してあなたが日常生活の中の瞑想と考えるものを導入するなら、そこには何らかの葛藤が生じます。あなたはこれがそうであると考えて、それを日常生活の中で行動に移します、そうすると何らかの矛盾が生じるに違いありません。一方、もし人が嫉妬深いなら、ほとんどの我々がそうですが、嫉妬の性質とは何かです、なぜ我々は嫉妬深いのか、言い悪いではありません、我々は何かであってはならない、我々は何かであるべきであるということではありません、なぜこのような嫉妬が生まれるのかです。そのことに踏み込んで行って、そうすることによって貪欲や嫉妬から解放されること、それが瞑想の働きです。その中に葛藤は生じません、あなたは絶えず踏み込んで行って明らかにしています。違いますか? このことのためには気をつけている必要があります、あなたは真剣でなければなりません、ただ単に言葉を弄しているのではないのです。
そのように瞑想は日常生活の中の働きであり、あなたの存在のあらゆる性質と構造に踏み込んで行く働きです―あなたの反射的反応、あなたの意識の状態、なぜあなたは何かを信じるのか、信じないのか、なぜあなたは何らかの組織や機関に影響されているのかなど―それら全てが瞑想の実際の働きです。違いますか? もし人が実際に、理論的にではなく、そのことを実際に行っているなら、あなたは意識の性質を理解し始めます。違いますか? あなたはそれに何らかの色付けをしているのではありません、フロイトを借りて、どこかの心理学者に従って、どこかのグルや誰それに従って何らかの色付けをしているのではありません。あなたはあなたの全存在に踏み入っています、その存在とはあなたの意識のことです。
そうすると我々はそれらに答えて、我々はこのことに相対します。それでは非常にゆっくりと始めましょう、そこへ踏み込んで行きましょう、もし宜しければ。私は思うのですが、あなたはこれまで思考のあらゆる働きを検討したことがあるのでしょうか、考えるあらゆる働きです、思考は、考えることは、それ自身が活動しているのを見て取ることができるのかどうかです。質問が分かりますか? 質問が明瞭になっているかどうかはっきりさせましょう。どうか、このことはかなり重要です、もしあなたがそのことに踏み込んで行きたいのなら、もしあなたがこのことにとても真剣なら、始めに、その質問を理解することが本当に非常に重要です。つまり、私は言えます、“私は私の意識に気づきます”と―私の信念から、私の恐怖から、私の快楽から、私の悲しみから。そのように、私の意識の内容に私は気づくことができて私はこう言います、“はい、私は恐れています、私は貪欲です、私は苦しんでいます、私は傲慢です、私にはプライドがあります”などと、それは私が気づく意識の内容です。違いますか? そうすると、その中に“私は私の意識とは異なる”ということが起こります。違いますか? このことに興味がありますか? 私はそう願いたいのです。
そうすると、‘私’というのが生じます、彼の意識を観察している観察者です。しかし‘私’が貪欲であり、‘私’が不安であり、‘私’が驚いていて、‘私’が全く不安なのであり、不確かなのであり、悲しいのです、それが私の意識です、従って、私は私の意識と異なりません。違いますか? そのことは宜しいですか? 私は私の考えることと異なりません。私は私の経験してきたことと異なりません。私は私の不安や恐れなどその他の全てと異なりません、あるいはそれらと全く反対の何かではありません。私はそれら全てです。私は私が神であると考えるかもしれませんが、そのように考えることが正に私の一部であり、その私が神を発明します。私はあなたにこれらのことを分かってほしいと思うのです。
そうすると我々はこの問いに向かいます、もし観察者が観察されている当のものなら、それはその意識ですが、次の問いが生じます、そのような意識はそれ自身の働きに気づけるのか、ということです。非常に、非常に、単純に言ってみると、怒りが生じるのに気づくことがあるのかということです―怒りそのものです―従って、怒りとは異なる私はいないのか、ということです。どうか、もう少し踏み込んで行っても宜しいですか。これらのことに興味がありますか?
そこのところを見てみましょう、つまり、人は怒っています、その怒りの瞬間には怒っているという認識がありません。違いますか? 気づきましたか? その瞬間には、激しい怒りの瞬間にはその状態があるだけです。後からあなたはそれを怒りと呼びます。違いますか? 一瞬後にそう言います。それはあなたが過去の出来事を過去にさかのぼって認識したことを意味します、そしてそれが今起こっていることで、あなたは言います、“はい、それは怒りです”と。違いますか? お分かりでしょうか。それでは、どうかこのことについてきてください。怒りが生じます、その怒りの瞬間にはその認識はありません、その反応は言葉にされていません。一瞬後に言葉にされます、過去にさかのぼって言葉にされます、言葉は過去からの認識です、それが現在の反射的な反応になります。それでは、あなたは現在の反射的な反応を言葉にせずにいられますか、ただそれを言葉にせずに観察できますか? あなたがそれを言葉にするや否や、あなたはそれを認識して、その反応を強めます。あなたはこのことが分かるでしょうか。それは非常に興味深いのです。
つまり、言葉はそれが伝えようとするその当のものではありません。‘テント’という言葉、‘大天幕’という言葉は実際の事実そのものではないが、我々はその言葉に振り回されます、事実にではありません。そのように、何らかの理解のためには、言葉がとてつもなく重要になっていることを見て取って、事実を見ることです、言葉はそれが伝えようとするその当のものではないことを見て取ることです。そのように、怒りが生じるとき、それは何らかの反射的反応ですが、それを言葉にしないで観察することです、そうするとその反射的反応は萎えて行きます。あなたがそれを言葉にするや否や、あなたはそれを強めます、その強化は過去からなされます。それでは、もしそのことが明瞭なら、我々は次のことに移ります。つまり、感覚は、それは感覚の反射的反応ですが、感覚は自身に気づくことができるのか、ということです、あなたが感覚に気づくのではありません、そうではなく、感覚それ自体がむき出しになりえるのか、ということです。私はそこへ歩を進めます。どうか、もしあなたが私の言うことに従うのではなく、あなたの中の感覚の反応をあなたが観察するなら。宜しいですか。
宜しいですね、我々は…働いています、我々の感覚は別々に働いています―見ること、味わうこと、聞くこと、香りをかぐことなどです。それらはみな別々です。お分かりですか? それでは、あなたは…観察できますか、あらゆる感覚が余すことなく一緒に働くことがありえますか? 私の言っていることが何なのかを理解しましたか? お分かりですか、このことを明らかにすることは本当に極めて心躍ることなのです、なぜなら、そうするとあなたはあなたが…のように観察しているかどうかが分かるからです、人を、海水の動きを、山々の躍動を、鳥たちや何かの動きを、あるいは、あなたの友人、あなたの親しい友人の仕草の観察が、あらゆる感覚を働かせての観察なのかどうかが分かるからです、そうするとあなたがそこから観察している中心というものがないのが分かるからです。お分かりですか? どうかそのようにしてください、やってみてください、試してみてください、話し手の言うことは何も受け入れないでください。自分自身で試してみてください。あなたが何か愛おしいものの香りをかぐとき、早朝の香りをかぐとき、空気が雨に洗われていて新鮮で大地に美が漂っているときなど、どれか一つの感覚が目覚めているのですか、それとも、あなたはあなたのあらゆる感覚を働かせて早朝の途轍もない繊細さや美を観察しているのですか? お分かりですか? 分かります? もちろん分かります。
Q もし私が私は私の意識の全ての内容と異ならないと見て取るなら、私は私の無意識を意識できるかどうかに関する問いはカメラがそれ自身を映せるかと問うようなもののように思われます。
K しかし、宜しいでしょうか、私はその点を見て行きたいと思います。私はゆっくりとそこへ歩を進めていきます。もし宜しければ。なぜなら、もしあなたが感覚的反応を理解しないなら…感覚的反応がバラバラになっているのかどうか―お分かりですか?―それともあらゆる感覚が共に反応しているのかどうか、ということです。もしある一つの感覚が反応しているなら、ある一つの感じです、何が起こりますか? お分かりですか? 香りにだけ反応しているとき、嗅覚でのみ反応しているとき、その他の全ての感覚は大なり小なり休止状態にあります。違いますか? 宜しいでしょうか。テストしてください、それを試みてください。そこで私は問うています、あなたが花の香りをかぐとき、あらゆる感覚が余すことなく反応していますか、嗅覚的な反応だけではなく、あなたの存在全体があなたの感覚を余すことなく働かせて反応していますか? 私はこのことを明確に述べているでしょうか? どうですか? 同意しないでください。
Q (イタリア語)宜しいでしょうか、今列車が通り過ぎたとき、列車は音を立てます。私はそれを耳で聞きました。どのようにしてあらゆる感覚で聞くことができるのですか?
K はい、彼はあの通り過ぎる列車の音を聞きます―それは非常に良い質問です。みなさんはあの通り過ぎる列車の音を聞きましたね―聞きませんでしたか? あなたはあの音に完全に反応しましたか? お分かりでしょうか? 従って、その音に何の抵抗もしません、その音に何の苛立ちも覚えません。あなたは余すことなくその音と共にいます。あの山々を見てください、あなたは恐らく、毎日、毎晩、毎朝、見ています、あの山々をあなたの目だけではなく、視覚的に見るだけではなく、あなたのあらゆる感覚を働かせて、全存在を総動員して、あの山々に気づけますか? もしそのような気づきが生まれるなら、あなたの存在の中に中心となるべきものが存在しません、そこからあなたが見ているという中心が存在しません。試してみてください。今あなたはそれを試せませんが、もしあなたがこのテントを見るなら、あなたはそれを試せます、あるいは、あなたの友人を見てください、あるいは誰でも見てください、あなたの全存在を、あなたの全感覚を余すことなく働かせて見るかのように見てください。そうすると、あなたはあなたが何かを始めて見ているのが分かるでしょう、関心が失せた眼差しでもなく、記憶に詰まった眼差しでもなく見ているのが分かるでしょう。我々はそこへ歩を進めます。
そうするとそこから次の問いが生まれます―必ずしもそこからではなく、我々が歩を進めていると―思考はそれ自身に気づけるのか、ということです。私はあなたがこのことを理解しているとは思えません。それとも我々は何か非常に、非常に、複雑で不必要なことに踏み込んでいるのですか? あなた方は全く黙っています。
Q 我々はその聞くことを今試すことはできませんか、余すことなく聞くことです。あなたが先ほど言ったことですが…
K はい、しかし私は次のことを問うているのです、宜しいでしょうか、つまり、今あなたは何かを考えています、違いますか? 私が何かをあなたに問うと、考えるあらゆる活動が生じます。違いますか? それは明らかです。そこで私は問うています、その考えることそれ自身は自身が考えていることを見て取りますか、と。いいえ、それは不可能です、違いますか?
Q 我々はいつもこういう印象を抱いています、つまり、考えている誰かがいるが、それは他の何かであると考えると。我々はいつもそういう印象を抱いています、ここに、あるいは私の体の他の部分があると。
K それがその理由です、宜しいでしょうか、それがあなたのこのことを非常に深く検討してこなかった理由です。そのように言って御免なさい、私はただ問うているだけです。お分かりでしょうか、私が問うているのは、人はいかなる葛藤とも無縁に、いかなる努力とも無縁に、いかなる形のコントロールとも無縁に生きられるのか、ということです。どうかこのことに耳を傾けてください。というのは、我々が何らかの努力をして生きているからです、我々は何かと格闘しているからです。違いますか? 我々はいつも何かを成し遂げようとしていて、何らかの活動をしています、従って、我々は絶え間なくあがく生を、絶え間なく争う生を、絶え間ない矛盾の生を生きています。違いますか? 私はこれをしなければならない、私はそれをしてはならない、なぜ私は自分自身をコントロールしなければならないのか、それは古い慣習です、私は私の好きなことをします―それら全てが暴力的な振る舞いです。違いますか? 違うでしょうか。それでは、もし人が探究するなら、コントロールの微塵の影もない生を生きることは可能ですか? それはあなたの行ないたいことを何もかも行うことを意味しません、それはとても子供じみています、なぜなら、あなたはそうはできないからです。自由気ままに振る舞うこと―人々は今逆行しています。人々はその危険を見て取り、勝手気ままを許しません、そしてコントロールします。そこで私は問うています、いかなるコントロールとも無縁に生きることは可能かと。恐らくあなたは自分自身にそのように問うたことはありません。そこで私はあなたに問うています。コントロールするときにはいつでも葛藤が起こります。違いますか? 戦いが起こります、そしてそれは様々な形で表現されます、このような戦いは―暴力であったり、抑圧であったり、神経症であったり、そして自由気ままであったりします、それら全てが生じます。そこで私は自分自身とあなたに問うています、コントロールの微塵の影もない日常生活を生きることは可能かと。そのように生きるためには、コントロールするものとは何なのかを私は明らかにする必要があります。お分かりですか? コントロールするものはコントロールされるものと異なりますか? もしそれらが同じなら、コントロールする必要性は生じません。あなたはこのことが分かるでしょうか。
つまり、宜しいでしょうか、私は嫉妬しています、なぜならあなたがあらゆるものを持っているからです、そして私は何も持っていないからです。そしてその嫉妬から怒りが生じます、憎悪、妬みが生じます、あなたの持っている全てを所有したいという暴力的な思いが生じます、そしてもし私がそれを手にできないなら、私は敵意を抱き、憤るなどその他の全てに囚われます。違いますか? それでは、私は嫉妬とは無縁に生きられますか、それは比較をしないことを意味します。試してみてください。あなたは日常生活を何の比較もせずに生きられますか? もちろん私がこの種類のズボンを選ぶときには何らかの比較をします、私はそのことを話しているのではありません。私が話しているのは心理的に全くはからない精神です、それは比較をしないことです。もしあなたが全くはからないなら、あなたは退化しますか、あなたはつまらない存在になりますか、何もしなくなりますか? お分かりですか? 沈滞しますか? あるいは、あなたが何らかの比較をしているので、あなたが何らかの格闘をしているので、あなたは生きていると考えますが、もしあなたが格闘しないなら、それは全く異なる生き方かもしれません。
Q そうなるようにしましょう。
K いいえ、そうなるようにするのではありません、宜しいでしょうか、それを見てください。あなたは非常に知的な人に会います、博識で、学者的で、お分かりですね、一級の教養を見に着けた、明晰な頭脳を持つなどその他の全てを備えた人です、そしてあなたは言います、“おーっ、素晴らしい、私は彼のようにありたいものだ”と。我々の受ける全ての教育がそれに基づいています、あなたはあなたの兄のように賢くなければなりません、たとえそれ以上ではなくても。違いますか? 試験というのがそれに基づいているなど、様々なことがそうです。そこであなたは、それら全てのプロセスを経てきて、比較し、格闘し、暴力的になるなどその他の全てを経てきて、あなたは言えますか“私はそのような生き方の馬鹿々々しさを見て取り、私は比較することをしません”と。私は私自身の愚かさを、私自身の状態を他の誰かの何かと秤にかけません。私自身を非常に賢い誰かと比較することによって、私は私が恐ろしく鈍いのが分かります。違いますか? お分かりですか? しかし、もし私がとてつもなく聡明で知的な人と比較しないなら、私は鈍いのですか? 答えてください。私は鈍いのですか? その反対です。
それでは、あなたは比較しないで生きられますか、誰かを模範にしないで生きられますか?
それが意味するのは、私が何らかの判断基準を設けたということです―違いますか?―その判断基準がはかるということであり、それに基づいて私ははかって言うのです、“これは正しい”そして私はそれに従って生きなければならない。そのように、はかることはコントロールを意味します。そしてもしあなたが自分自身を何らかの秤にかけなければ、聡明な他の誰かと比較して自分自身を鈍いと呼ばなければ…あなたが鈍いのはあなたが比較するときです、しかし比較を全くしないとき、あなたは他の何かです。宜しいですか。それではそこから歩を進めましょう。
Q 私はこう思います、あるいはこう感じます、考えるプロセスはとても強力に働くので、私はそれを脇へ除けて、私はもう考えませんとは言えないと。
K 私はそう言ってはいません。御免なさい。
Q 私が言っているのはこうです。あなたの教えの中で言われていることに、余すことのない変質というこの考え方があります、精神の変異です。宜しいでしょうか、このことは意識それ自体の根本的な変化であるように思われます。宜しいでしょうか、私はこれが突然の閃きとして起こると想像します、一瞬の理解として、意識それ自体の意識的経験として起こると想像します。…は可能ですか?
K 宜しいでしょうか、お尋ねしても良いですか? あなたは何を私に言おうとしているのですか?
Q 私があなたに言おうとしているのは、この美しい夕日を御覧なさい、そして…そのような考え方を絶えず繰り返されることに実際非常に飽き飽きしているということです。
K 宜しいでしょうか、ちょっと待ってください。もしあなたが飽きたのならテントから出てください。
Q 私は実際にはそれほどまだ飽きてはいません! 私はまだあなたが何かを伝えてくれること願っています。私の言ったことを聞きましたか? 私はまだあなたの言うことに期待しています。
K もしあなたが幾分か飽きているなら…私はあなたの言っていることが分かりません。
Q あなたは聞きたくないのです。
K 宜しければ、あなたの言いたいことを簡潔に私に話していただけますか?
Q 私はある意味であなたがその変質を、その閃きを、意識の気づきを説明するのを待っています。
K はい、あなたは私がどのように変質が起こるのか説明するのを待っています。それは非常に簡単です。変質が起こるときは、コントロールしないときです、はからないときです、物事に働きかける‘私’という感覚が存在しないときです、心理的な意味で存在しないときです。それが全てです! そして、もしそれがはっきりしないなら、我々はそこへ踏み込んで行きます。そしてもしあなたがこう言うなら、“私はそのことの繰り返しには飽きています、あなたの言うことに、何回も何回も繰り返すことに飽きています”、私は謝ります。もしあなたが飽きたのなら、テントから出てください。もしあなたが幾分か飽きていると言うのなら、どうか辛抱してください、そしてもしあなたが本当にそれを理解したいなら、それに注意を注いでください。それが全てです。もしそうしないなら、それはそれで結構です。
Q あるいは自由気ままはコントロールの産物ですか?
K はい、そうです、自由気ままはコントロールに対する反射的反応です、それは明らかです。我々は子供のころから躾けられてきました、ある歴史的時代を経て、ビクトリア朝と言われる時代です、コントロールしなさいと、感情を表してはいけません、従いなさい、後からついてきなさいなどそれら全てです。今日ではそれら全てに反発して我々は言います、それら全てのナンセンスはお払い箱だ、私は私の好きなことをやるつもりだと。そして両親たちも感じます、コントロールするべきではないと、あるいは心理学者の中には子供たちをコントロールするのは酷いことで、子供たちは子供たちの好きなことをしなければならないと言う人たちもいます。我々はそれら全てを見てきました。
そのように、我々は言っています、コントロールは全く必要ないと…自由気ままという反対方向に向かうのではなく、コントロールの何たるかをあなたが理解するときコントロールは全く必要ないと。それが全てです。
Q それは正しい考えですか?
K 彼女は知りたいと思う、コントロールしないで生きること、それは正しい考えかと。お分かりですか、このことはとても…になる。宜しいでしょうか、どうか耳を傾けてください。私は間違っているかもしれません、明らかにしましょう。思考ははかることです、違いますか? 思考は何らかの方向性を持つ働きです、違いますか? そのように方向性を持つ働きはいかなるものも時間を含みます。違いますか? ここからあそこへなどです、心理的にも物理的にも時間を含みます。時間ははかることです、違いますか? つまり、思考のあらゆる働きははかることです。
Q それもまた事実にすぎないのではないのですか?
K いいえ、どうか、ちょっと待ってください。それでは再び私は始めなければなりません。我々はこのことを理解し合っていますか、我々は言います、息づいている思考は、働いている思考は、活動している思考は、時間であると―過去です、過去が現在を通過して自らを修正し未来へ向かっていると、それは時間的な活動です。それが思考の働きです。そしてそれはまたはかる働きでもあります、物理的にも心理的にも。これはとてもシンプルです。宜しいですか? そこで私は問うています、人はそのように生きています、人はいつも過去に囚われています、人は過去です、そしてその過去がいつもそれ自身を修正しています、そして前に進んでいます。過去が、自らを修正して、未来へ向かっています。このあらゆる活動が時間であり、はかる働きです。違いますか? それが全てです。それではなぜ我々はいつも過去の中を生きているのですか? なぜ我々は過去をやり過ごしてないのですか、それはあなたが過去を忘れることを意味しません、あなたは過去の全性質を理解して、その意味することを明らかにします―私が言っているのではありません、試みてください、それを実験してみてください―今を完全に生きるとは何を意味するのかを。それは過去の何ものももはや機能していないことを意味します。
つまり、違う言い方をすると、もしあなたがそのことにもっと踏み込みたいなら…つまり、人々は何世紀にもわたって時間は止まるのかどうかを問うてきました。違いますか? 物理的な時間ではありません、太陽が永久に一カ所にいることがありえるのかどうかではなく、心理的に時間が止まることがありえるのかどうかです。あなたはこのように問うことはありませんか? あるいは、あなたはこの働きを観察しさえしません。それはつまり、違う言い方をすると、知識がとてつもなく重要になっているということです。違いますか? 技術的にだけではなく、そこではあなたは知識を持たねばなりませんが、経験としての知識も同様です、更なる知識です―もっと、もっと、もっと理解することです。違いますか? そのように我々は知識を崇拝しています。私はこのことを何百回も言ってきました、もしあなたがそれに飽きているなら、どうかそれに耐えてください、辛抱してください、もしあなたがそれに耐えられないのなら、このテントから出てください。話し手はこのことをあなたに話すことに興味があります。彼はあなたに絶え間ない繰り返し以上の異なる何かを明らかにしてほしいのです。もしあなたがそうしないなら、彼の言ってきたことは単なる繰り返しになります。それは話し手にとって単なる繰り返しではないのです。私はその紳士よりもっとずっと退屈になります、もし私がこのことを毎回毎回のトークで私自身に単に繰り返していたら、そうなら私はこのテントから出て行くでしょう。私はここに座っていないでしょう。しかしあなたがこのことに踏み込んで行くと、あなたはもっとずっと何かを見て取ります、もっとずっと深く、そして広く見て取ります。‘深さ’ははかってのそれではありません。私はそのことでは非常に注意深くなければなりません!
もし人がこの真理を見て取るなら、我々がどのように生きているのか、ということです、我々はいつも過去から機能しています、我々の生は記憶の働きです、何ごとかを頭脳に留めて、そして行動します。記録するテープのように、我々の頭脳は記録します、そしてその記録から行動します、それは全て時間の働きです。
そこで人は問います、もしあなたに興味があるなら、もし私にいろいろな言い方ができるなら、私はそれを行ってきました、これまで五十年間行ってきました、頭脳は絶対的に必要なことを記録して、何らかの技術や車の運転やこれやあれなどその他のことを記録して、心理的に、内面的に、何一つ記録しないことができますか? あなたが傷つくとき、物理的にではなく、心理的に、内面的に傷つくとき、なぜそれを記録しなければならないのですか? 質問がお分かりですか? この傷を何年も何年も何年も抱えている必要性とは何ですか、何のためですか、なぜあなたはそれを記録するのですか? もしあなたがその一つの問いに答えることができて、その傷を記録しないことが可能かどうかを明らかにできるなら、恐らく頭脳は絶対的に生理的に必要なものを記録するだけで、心理的、情動的などそれらの何ものも記録しないでしょう。違いますか?
Q その問いは、あらゆる意識がそれ自身を意識できることを見て取らずに、探求しえますか?
K 宜しいでしょうか、もし宜しければ、我々はこの全意識の問題に取り組みます、それがそれ自身に気づけるのかどうかの問題です、我々がその繰り返す活動の全過程を理解するときそうします。私は‘繰り返す’という言葉を使いますが、それには繰り返しているという感じはありません。
Q 我々は傷ついたとき次にまた傷つかないように記録することはできませんか?
K 我々は他の傷から身を守ろうとしませんか―違いますか?―私は一度傷つきました、私は再び傷つきたくありません、そこで心理的に私は自分の周りに壁を築きます、もうそれ以上傷つかないように壁を築きます―宜しいですか? それがあなたの言っていることですか? それは何を意味しますか? 私は傷つかないように孤立します。違いますか? それは明らかです。あなたは私を一度傷つけました、そしてあなたは再び私を傷つけるかもしれません、従って私は引き下がります、私は抵抗の壁を築きます、私は傷つかないように孤立します。そうすると、その孤立していることから暴力的な何かが生じます、それは明らかです―それは恐れです。それではなぜ私は最初の傷を温めているのですか? 全く傷つかないことは可能ですか? ‘無垢’という言葉は傷つかない精神を意味します、決して傷ついたことのない精神です、子羊に例えられるその類のことではなく、実際に決して傷ついたことのない精神のことです。それは中傷されると傷つきます。違いますか? それでは、それを完全にやり過ごすことは、傷つかないことは可能ですか? それはあなたが残酷になったり抵抗したりすることではありません。あなたは明らかにしたいですか、鈍感になるのでもなく、無関心になるのでもなく、傲慢などその他の全てになるのでもなく、全く傷つかないことは可能かどうかを。
Q 私は私が赤ん坊のとき、私が二、三歳のときに受けた傷、私の覚えているその傷から解放されることはありえますか?
K このことに踏み込んで行く時間はありますか、あなたは今このことに踏み込んで行きたいですか? 私にこのことを終えるために二分ください。もしあなたが耳を傾けたくなければ聞かないでください、お分かりですか、自由に外に出てください。
人は子供のとき両親のせいで傷つきました、他の男の子や女の子のせいで傷つきました、人は学校で、大学で傷つきます、人は傷ついています。違いますか? そこで、つまり、今、人は五十歳です、それは過去のことです、その傷は昔のことです、そしてあなたは問うています、その傷は、昔の、古い、過去のそれは完全に拭い去られるのかと。違いますか? それが質問です。宜しいですか? それは分析によるのではありません。違いますか? それを見てみる必要がありますか? つまり、もしあなたが初めてここにいるのなら、手短にそのことを話させてください。分析する者は分析されているものとは別であると考えます。分析者は傷ついていませんが、分析されるものが傷ついています。そのように、傷ついているのは自分ではないと思っている分析者が、自分は別であると思っている分析者がその傷を検証しようとします。違いますか? しかし分析者も同様に傷ついています。違いますか?
そうすると、分析するものが分析される当のものであると分かると、精神を傷から解放しようとする分析にはほとんど意味がありません。私はそこへ踏み込んで行かなければなりません。どうか…
そのように、分析というものはありえないのです。なぜ私は傷ついているのですか? なぜ私は傷を抱えているのですか? なぜあなたは傷を抱えるのですか? それはあなたの一部です。違いますか? 恐らく、もしあなたが傷を取り除くなら、あなたは自分自身を取り除くかもしれません。そこで次の問いはこうです、どのようにしてその傷は余すことなく解除されるのか、一つの傷跡も残さずに解除されるのか、ということです。そうすると、私は傷とは何かという問いに踏み込んで行かなければなりません、傷とは何ですか? 宜しいですか? 私について抱いているイメージが傷つきます。違いますか? 私は自分がすごい人間だと思っています、あなたがやって来て、私に言います、“馬鹿者”と、それで私は傷つきます、なぜなら私は自分自身について何らかのイメージを持っているからです、私はすごい人間である、賢くて、知的で、聡明であるなどその他の全てのくだらないイメージを持っているからです、そしてあなたがやって来て言います、“おーっ、あなたは何て間抜けなの”。私が自分自身について築き上げてきたイメージが傷つきます。違いますか? その傷が過去のものであろうと現在のものであろうと。それは明らかです。
そうすると、次の問いが起こります、自分自身についてのイメージを全く抱かないことは可能かと。なぜなら自分自身についてのイメージがある限り、誰かがそれを踏みにじろうとするからです。そこで私はなぜ頭脳は、精神は、それ自身についてのイメージを築き上げてきたのかを明らかにする必要があります。それがそれを築き上げてきたのはそのイメージの中に安全性があるからですか? そのイメージの中に安全性がありますか? もしイメージがないなら、私とは何ですか? 従って、私は怯えます、私は私のイメージにしがみつきます。そしてあなたはそれを踏みにじろうとします、優しく 、丁寧に、辛抱強く、あなたはそれに土足で踏み込もうとします、そして私は傷つきます。そこで私は明らかにしなければなりません、ただの一つのイメージも抱くことなく生きることは可能かと―そのイメージというのは私の保持する何らかの結論であり、私の意見であり、私の積極的な性格などであり、‘私’であり、そのイメージです。もし私が何のイメージも持たないなら、あなたはそれを踏みにじることができません。もし私に今や何のイメージもないなら、過去の傷というものは存在しません。お分かりでしょうか? 宜しいですか? それでは立ち上がっても宜しいですか?
Q あの紳士の質問に関連しますが、二、三歳の子供は、その子が自分のイメージを持つので傷つくのですか?
K いいえ、我々は…分かりません、私は小さい子供たちのことは知りません。
Q 質問を繰り返してくれませんか?
K 質問は、小さな子供のとき、その子は傷つく、ということです。違いますか? なぜですか? あなたの幼子、あなたの息子、あなたの女の子が、彼女が四、五歳のとき、なぜ彼女は傷つくのですか? 宜しいですか? 彼女はそのクマのぬいぐるみが好きで寝るときもそれと一緒でなければなりません、彼女はそれを愛し、それにキスをし、それを抱きしめ、一日中それを手放しません。あなたがやって来て、それを取り上げます、他の子がそれを取り上げます、すると彼女は泣き始めます。違いますか? 私のものを取り上げられると―ご存知のことが始まります。今朝はこれで十分ですか? 宜しいですか?
1978年 7月28日 ザーネン ダイアログ 3
中野多一郎 訳