クリシュナムルティ 私はこれが最後のトークだと思います。デスカッションあるいは対話あるいは会話―あなたがそれをどのように言おうと―が水曜日、木曜日、金曜日、土曜日、日曜日とあります。そのとき我々は沢山の質問で互いに攻撃し合って、人々のために答えを見つけようすることができます!
これまでの六回のトークで我々は一緒に多くのことを話し合ってきました。我々は我々がいかに様々な組織や機関によって影響されているかを、コントロールされているかを、形作られているかを話してきました。そしてまた我々は理想の問題を検討しました、いかにそれらが我々の生を歪めるかを、我々を暴力的にするかを、空しくするかを、生の現実に向き合わせないようにするかを検討しました。そしてまた我々は知識がもたらすプレッシャーについても話してきました、つまり、知識は、我々は言いました、いつも過去の中にあると、そして、どのようにその知識が我々の考えることや行動をコントロールするかを、形作るかを、そして我々はそれに、過去に、非常に影響されていると言いました、そして過去は経験であり、頭脳の中に知識として収集蓄積されていて、その反応が記憶であると言いました。我々はまた観念がもたらすプレッシャーについても話してきました―我々のお互いの関係性の中にある観念です、“そうでなければならないこと”、“そうであるべきこと”などです。我々はまた様々な形の我々が生きる幻想についても話してきました。そして我々は恐れについて話しました、恐れが消滅しうるのかどうかを、完全に、余すことなく消滅しうるのかどうかを、我々の奥深いところから取り除かれうるのかどうかを、その結果、人間がそのような暗闇から解放されるのかどうかを話してきました。我々はまた果てしない快楽の追求についても話しました、快楽は欲望としての諸々の感覚の反応であって、そのような欲望の表現が現在に表現されると、過去から表現されると、未来に表現されると言いました。
我々はまた人間がその悲しみを消滅させうるのかどうかの問題も検討しました、その一時的な、一過性の大きな悲しみだけではなく、生にとって何の意味もない戦争や破壊や果てしない争いに直面してきた人間の深い悲しみも検討しました。そしてまた我々は愛とは何かの問題も検討しました、その中に含まれるあらゆる問題とは無縁に人間は人を愛することができるのかどうかを検討しました、つまり、その野望や個人的な関心、嫉妬、敵対意識、支配意識、執着などとは無縁に人を愛することができるのかどうかを検討しました。我々はそれら全てを検討しました。そしてそれらが存在するところには、我々は言いました、愛は生まれないと。そして我々の行動が単に思考に基づいているとき、それは記憶ですが、そうすると、そのような行動は不完全であり、そして不完全であるのでそれは常に争いをもたらすと。どのような行動も、それが余すことなく、全体的で、ホゥリスティックで、完全でないと、矛盾を生むに違いありません。我々はそのようなことを非常に注意深く検討しました。
そして先日我々は悲しみの消滅について話しました、そしてその消滅による慈悲心について話しました。そして私は我々が様々な他のことについても今朝は話す必要があると思います。私はあなた方が楽にしていてほしいと思います、今日はとても暑いのです!
我々は自分自身に問う必要があります、私はそう思います、なぜ我々は他の人に従うのですか、それが明らかに我々の行っていることです。なぜ我々は誰かの弟子になるのですか? 弟子というものがいなければ教える者もいません、そして弟子がいるせいで教える者が増殖します、そうすると弟子はそれが探し出したその師を破壊します。その人は明らかにしたいと思います、もしその人が本当に真剣な人なら、その人は真理が何かを明らかにしたいと思います、自由というものがあるのかどうかを、時間とは無縁な何かがあるのかどうかを明らかにしたいと思います。そしてもしあなたが誰かに従うなら、それが聖職者であろうと、書物であろうと、グルであろうと、何らかの権威であろうと何であれ、あなたは決して、いかなる環境の下でも、それらを明らかにすることはないでしょう。そこで人は自分自身に真剣に問うことができますか、なぜ我々は誰かに従うのかと。これは非常に重要なことです、なぜなら、それは自由を否定するからです。人は何千年も何千年もアジアと同様にヨーロッパでも聖職者に従ってきました。我々は依然として苦悶しています、不確かです、惨めです、不幸せです、争っています、いつ終わるとも知れない労苦の中にいます。そしてそれは本質的に弟子の咎であるかもしれません、何かに従う人の過ちかもしれません、それが書物であろうと、誰かの言葉であろうと、どこかの人物であろうと。あなたが何かに従うとき、あなたはあなた自身の探求を否定します、真理を探究することを否定します。ですから、もし人に言わせてもらうなら、誰にも従わないでください、話し手を含めて。私は最初からそのことを非常に明確にしてきました、我々はお互いに話し合っていることを、話し手はここにはいないことを、あなたが自分自身を見ていることを、そしてあなたがあらゆる問題を発見していることを、つまり、その混乱であり、不確かさであり、欲望の途方もない欲求などです。あなたはこれらの問いを自分自身に問うています、従って、教師もいなければ弟子もいません、ただ学ぶだけです―誰かから学ぶのではなく、自分自身について学ぶのです、自分自身に踏み込んで行くのです。あなたは恐らく自分自身に客観的に何の方向性も何の動機も持たずに踏み込んで行くことはできません、もしあなたがいつも自分自身の重要性に、自分自身の野望に、自分自身の問題に囚われているなら。
あなたはこれまで自分自身に問うたことがあるのでしょうか、なぜあなたは何らかの問題を抱えるのかと―恐らく、数学的な問題や科学的な問題や知識的な問題を抱えるだけではなく、心理的になぜあなたは諸々の問題を抱えるのかと。そしてもしあなたが何らかの問題を抱えるなら、なぜあなたはそれを即座に消滅させて、それを生涯にわたって繰り返し繰り返し何度も何度も引きずることがないようにしないのですか? 宜しいですか、何らかの問題があなたに突きつけられるとき、あなたはそれを即座に解決しないで、あなたはそれについてあれこれ考えて気をもみます、そうしてそのことがあなたの頭脳を疲弊させます、それは明らかです。何らかの問題を解決するためには、人間の問題を解決するためには、心理的な問題や関係性の問題を解決するためには、どのようにあなたがそれに取り組むのかが途轍もなく重要です。お分かりですか? 宜しいですか、我々は互いに話し合っています。グルはここにはいません、教師はここにはいません、その問題があるだけです、あなたがその問題にどう取り組むかです、なぜなら、その問題への取り組み方の中に答えがあるからです。あなたは我々の言っていることが分かりますか?
仮に私が何らかの問題を抱えているとします、そしてもし私がそれを消滅させるのを願ってそれに取り組むなら、私はすでに何らかの確固たる目的を持ってそれに向かっています、そしてそのことが問題自体を歪めるかもしれません。もし私が何らかの動機を持ってそれに臨むなら、その動機がその問題の答えを指図するでしょう。我々はお互いに理解し合っています、私は独り言を言っているのではありません、我々はお互いに話し合っています。我々はこのことを共有しています。あるいはむしろ、あなたは自分自身でこのことを検討していて発見しています、つまり、もしあなたがそれに間違ったやり方で取り組むなら、あなたは人間の問題を解決できないことを発見しています。正しい取り組み方があります、つまり、何らかの動機を抱かないことです、その問題を終了させようとしないことです、そのようにすると、あなたは何らかの結論を抱いてそれに取り組んでいます、あらかじめ何らかの思惑を持ってそれに取り組んでいます、そうすると問題は手つかずのまま残ります。一方、もしあなたが動機を脱落させうるなら、方向性を脱落させうるなら、答えを見つけようとする願望を抱かないことができるなら、あなたは自由にそれに向かいます、その問題が何であろうと、たとえそれがこの上なく科学的で複雑な問題であろうと。なぜなら、自由な精神は問題を作り出さないからです、それは問題に面と向き合って、その答えを引き出しますが、それは問題を作り出しません。しかし我々は様々な問題を作り出します、そして、それらを作り出しておいて、我々は恐れを抱きながらそれに取り組みます、それを解決するための不安を抱えたままそれに取り組みます、他の人たちに相談します、宜しいですか、それを解決しようとしてあらゆることを行います。あるいは、一方で、あなたは問題を極めて徹底的に探究します、それを観察します、問題自らがその全内容をあなたに語らせるようにします。そうすると、恐らくその日のうちに、あなたはその問題から完全に解放されているのが分かります。
そのように、我々が言っているのはこうです、つまり、我々人間の精神は、頭脳は、心は、思考は、情動は、感覚は何百万年も経てきたそれであると。それはひどく条件づけられていて、それは問題を作り出しています。そして頭脳が依然として解決策を考えている限り、それは依然として問題を増幅させています、問題を拡大しています。私は願います...我々は自分自身でこのことをはっきりさせていますか?
そのように、我々は議論しています、何らかの問題についてではなく―お分かりですか、それは問題ではありません、あなたがそれを問題とするまでは何も問題ではありません。我々は検討しようとしています、あなたが解決しなければならない何かではありません。どうかこのことを理解してください。これは非常に重要なことです、なぜなら、我々は宗教的な生とはどういうことかの全てを検討しようとしているからです、そのようなことが言えるのかどうかを、そのような宗教的な生をこの世界の中で生きることが可能かどうかを検討しているからです。それが問題の一つです―私はそれを問題と言うつもりはありません―それは我々が見て行こうとしていることの一つです。そしてまた我々は精神の、頭脳のあらゆる働きをも検討しようとしています、日中の働きだけではなく眠っているときの働きも検討しようとしています。我々はまた検討しようとしています―それを問題とするのではなく―時間のこと、空間や距離のこと、そして非常に複雑な問題―問題ではなく―本当に瞑想しうる精神の非常に複雑な状態のことを。
我々はそれら全てを検討しようとしています、そして我々が言ったように、そのいずれかの答えを見つけたいと思わないで、それに取り組みましょう。お分かりですか? そうすると、それは面白くなります。そうすると、検討する中に何らかの喜びが生まれます。
始めに、検討しましょう、見てみましょう、観察しましょう、我々が日中覚めているときの我々の生の働きとはどういうことかを、そして我々が寝ているときのその働きとはどういうことかを。我々は寝ていることと起きて覚めていることを分断してきました、それは全く間違っているかもしれません。人は眠らなければなりません、自然にとって暗闇は必要です、そのように我々は眠る必要があります。しかし我々は眠ることと覚めていることを分離してきました。そして我々は眠っていない精神の状態を決して検討してきませんでした、それは気づいていることです―私はその“気づいている”という言葉を使わないことにします、それは眠っていないことです、そのように言いましょう。そして夜眠っている精神の状態です。宜しいですか? なぜなら、このことを理解することが重要だからです、なぜなら―なぜならではありません、ごめんなさい―それは理解すべき重要なことです。(笑) ひゅーっ! 非常に暑いです。諸々の感覚や欲望、思考、記憶、経験、知識など我々の起きているときのそれらの働きを内に含む精神の状態とは何ですか、そのような精神の状態とは何ですか―いかにそれから抜け出すかではありません、あるいは、いかにそれを解決するかではありません、そうではなく、それを見ることです。お分かりですか? あなたは道端の花を見ます。道端で、あなたはそれを見ています、その美しさを見ています、その穏やかな佇まいを見ています、その色彩を見ています、その香りをかいでいます。そしてあなたはただ見て立ち去ります。同じように、起きているときの我々の生の働きを見てみましょう、日中に起こる複雑さのいずれをも、様々な問題のいずれをも解決しようと思わないで、正にそのように見てみましょう。日中に何らかの関係性が絶え間なく生じます、工場の中であろうと、オフィスの中であろう、家の中であろうと、あらゆることが起こります、そしてそれは何らかの関係性に基づいています。そうすると、なぜあらゆるものが問題になるのですか? 私はあなたがこのことを自分自身に問うていることを願います、つまり、なぜ我々は何らかの種類の衣服を見に纏うのですか、何らかの種類の人たちに従うのですか、なぜその人たちの...その人たちの言うことやあれやこれやを行うのですか―それらの猥雑なことを―私はそれを猥雑と言います、なぜならそれは真実ではないからです、それは真理ではないからです、それは我々の存在の途轍もない複雑さを検討することから逃げているからです。
そしてその同じ働きが、日中のときと同じ働きが我々の寝ているときに引き続き起こりますか? 私の質問が分かりますか? どうかこのことを自分自身に問うてください、私はあなたに問うているけれども、あなたは自分自身に問うています。日中の反射的行動や反応は、何らかの不安は、我々の日中に起こっているあらゆることは、人間関係の中だけではなく技術的なことにおいても、つまり、山の美しさや水流、静かな空、山の荘厳さ、壮大な草原に佇む単独の樹木の観察など、それら全ての働きは、そのようなことは我々が寝ているときにも起こりますか? どのようにあなたは明らかにしますか? 明らかにすることは重要なことです。明らかに、もしあなたが何らかの課題や問題を抱えるなら、解決されていない何かを抱えるなら、あなたはその問題を日中から翌日へさらに次の日へと持ち越します。その問題は日中から翌日へさらに次の日へと持ち越されます、そして、それはその問題が寝ている間にも持ち越されることを意味します、それは明らかです。何らかの問題は秩序の乱れを意味します。違いますか? あなたが抱える、人間が抱える問題は、とりわけ人間の問題はあなたの精神の中に秩序の乱れた状態があることを意味します、あなたの考え方やものの見方の中に秩序の乱れた状態があることを意味します、そのようにして秩序の乱れは寝ている間に引き継がれて翌日へと継続します。違いますか? 私がこう言っているのではありません、あなたが自分自身で発見しています。
宜しいですか、頭脳は絶えず一つあるいは幾つかの問題を抱えて働いています、そして頭脳はその秩序が保たれているときにのみ、明確に、効率よく、賢く、その全てのエネルギーを使って働くことができます。それもまた明らかなことです。あなたがあなたの生の中で秩序を保っているとき、一日でさえ、あるいは一時間でさえ、あなたは十分なエネルギーを感じます。そのように、頭脳は秩序を要求します。違いますか? しかし日中に我々は様々な問題を抱えます、我々の秩序は乱れます、そうすると、頭脳は寝ているとき秩序を回復しなければなりません、さもないとそれは次の日に正しく働けません。話し手は頭脳の専門家ではありません、幸運にも! しかし彼はこのような現象を自分自身の中に見てきました、それを見守ってきました。
それでは、日中に秩序が生まれうるでしょうか? 秩序というのは、つまり、どのような問題も、それが生じたら即座に溶解させられるということを意味します。もしあなたが嫉妬しているなら、それを即座に解決するのです、それから即座に解放されるのです、それが生まれるや否や。それから全く完全に解放されることです、それを見て取るのです。つまり、それを見て取るのです、人が観察する当のものから分離した観察者としてではなく、嫉妬から分離した観察者としてではなく、それを見て取るのです、その観察者自身が嫉妬であり、そうでなければ人はそれを認識できません。あなたはこれらについてきていますか? そうであることを願います。もしあなたがそうでなくても、それは問題ではありません。それはあなた自身の生です。もしあなたが嫉妬深いなら、ほとんどの人々がそうであるように、その嫉妬深い中で比較したり模倣したり順応したりすることが起こります―嫉妬を即座に葬ることです。それは、それを見て取って、それから逃げないこと、それを解釈しないこと、それを正当化しないことを意味します。それをただ見るのです、あなたが道端の花を見るように、痩せた土から萌え出して、その色彩を湛え、その美を湛え、その光を湛え、その途方もない力強さを湛える花を見るように、それをただ見るのです。それと同じように、それを見るのです。しかしあなたは見ることができません、もしあなたがこう言うなら、“それは妬みだ、それは嫉妬だ”と―それはあなたがそれを言葉で見ていることを意味します、それはあなたが嫉妬深いことを思い出す手立てです、あなたが貪欲であったり、妬んでいたりしたときのことを思い出す手立てです。そうすると、あなたはそれを過去の眼差しで見ています。違いますか? これらのことが分かってきていますか?
そうすると、日中に完全な秩序が保たれるとき、頭脳はこう働く必要はありません、つまり、あなたが寝ているときに秩序を生み出そうと働く必要はありません。そうすると、完全な秩序が生まれるとき―私は絶対的な秩序のことを言っていて、相対的なそれのことを言っているのではありません―頭脳はそれ自身を新しく再生していて、様々な夢は、とても多くの人々にとってそれは途方もなく重要ですが、生じません、非常に非常に物理的な、表面的な夢を除いて。あなたはこれらのことが分かりますか? もしあなたがこのことをテストしないなら、テストしてください、それを検討してください、自分自身で明らかにしてください、つまり、もしあなたがこのことを受け入れるなら、あなたは弟子になります、そうするとあなたは全くの役立たずになります。
そのように頭脳は、非常に古い、とても酷く条件づけられている頭脳は秩序の乱れの中にあります。違いますか? 宜しいですか、もしあなたが古代の洞窟の中のそれらの絵を見たなら、あるいは古代人の絵を見たなら、善と悪、邪悪なものと正しいものというような問題が存在します、戦って、戦って、戦っています、それらが象徴的に表現されるなどしています。人はいつの世も途轍もない問題を抱えて生きてきました、従って、頭脳の新しい再生は決して起こりません。我々は脳細胞自身の変質、変異について話しています、そしてそれが起こるのは、我々が先日検討したように、直に気づいて行動するときのみです、知覚してそれから行動するのではありません、それは問題を作り出すだけです。いかなる問題でも、いかなる課題でも、それが何であるかに閃くことです―閃き、それは記憶ではありません、それは直観ではありません、それはあなたが頭脳に蓄積してから行動を起こす何かではありません、つまり、閃きは継続する何かではありません。それは一瞬一瞬のことにすぎません。それが起こるとき、それが何であるかの閃きが生まれ、その中で行動し、そして解決します。
そのように、我々は日中の我々の行動の性質と夜中に起こるその同じ行動の性質について話しています。日中に完全な行動が生まれるとき、それは秩序の乱れがないことを意味しますが、頭脳は、夜の間、お分かりですか、それは全く異なる働きが可能になります。我々は、我々が瞑想について話すとき、そこへ踏み込んで行くことになります。
そうすると我々は人が抱く時間の全性質やその全概念もまた理解すべきです。太陽による時間だけではなく、心理的にも、内面的にも、我々は時間を発達させてきました。違いますか? “私はこれを明日行ないます。私は至福の状態に至ります、あるいは幸福になります、悟りを開きます”―あなたがそれを何とでも呼ぶものに至ります―“私に時間をください、私に実践させてください、何らかの規律に従って行わせてください、そうすると私はそれを手にするでしょう”。それは時間であり、進化することです。お分かりですか? “私は今こうですが、私は、時間を通して、進化します”。そのように、進化の問題があります、そしてそれは時間を意味します。恐らく人はこの進化の観念を低木が巨大な樹木に生長するのを見て、赤ん坊が大人に成長するのを見て、筋肉が発達するのを見て―その筋肉は脆弱だけれども、何かを実践して鍛えると、それは力強くなるのを見て―発達させてきました。そのように、このような進化の観念を、成長する観念を、心理的に思考が受け継いで言いました、“私は何かになるために時間が必要です”と。あなたはこのことが分かるのかどうか私は知りません。私ではありません、あなたは自分自身を見守っています。それは事実ですか? 我々はそれを受け入れてきました。我々はそのように生きています。我々はそれに慣れています。それは我々の習慣です、つまり、“私はこれができません”、心理的に、“明日私はそれに取り組みます。私はやってみます”、それはあなたが何らかの二重性を発達させたことを意味します、つまり、“私はこうですが、私はそうなるでしょう”―違いますか? “私は怒っています、しかし私はそれを乗り越えるでしょう”、それは、小さな種子が巨大な樹木に生長すること、赤ん坊が大人に成長すること、歩いたり飛んだりする力の乏しい幼鳥や小動物が時間を必要とすることです。そうして、それと同じ類の観察が心理的領域に適用されてきて、そこで我々は言います、我々は進化すると、我々は何かになると。そういうことですか? お分かりですか? つまり、物理的な時間がある一方で、我々は心理的な時間を育んできました。それではなぜ我々は心理的な時間を作り出してきたのでしょうか? あなたはこれらのことが分かりますか? 宜しいですか、赤ん坊が寝床で泣いています、あなたはうとうとしていますが、あなたはすぐに起き上って赤ん坊のもとへ駆け寄ります。違いますか? 母親や父親はこのことを知っています。あなたは言うかもしれません、“どうしてあなたはそのことを知っているのですか”と。なぜなら、私は見守ってきたからです、私は赤ん坊を数週間あるいは四、五日世話してきたからです、私はそのことを知っています。私の赤ん坊ではありません、他の人の赤ん坊です。恐らくあなたが赤ん坊を世話しているとき、あなたは母親よりももっとずっと気をつけてそうします! そのように、同じ熱気で、同じように気を抜くことなく、同じように素早く―あなたは赤ん坊を泣かせたままにしません、あなたはベッドから飛び起きて駆け出し、オムツを変えます(笑)―それと同じように、この問題を見てください、それと同じように気を抜くことなく、この問いかけを見てください。つまり、なぜ人はこのような心理的な時間を作り出し育んできたのかということです、人はそれを進化と呼びます、つまり、“私はより良くなるでしょう。私は何かに到達するでしょう”―なぜですか? そしてあなたがそのような気持ちになると、あらゆる人がその思いを食い物にしようとします。違いますか? グルたちはこの点で卓越しています、聖職者たちは卓越しています。そしてもちろん政治家たちはこのことを愛します―なぜですか? このことについての真理とは何ですか? どうか私の言っていることに耳を傾けてください。このことについての真理とは何かです。真理は議論すべき何かですか? 真理は何らかの意見のことですか? 真理は―あなたが真理を見つけたいと願う―何らかの経験のことですか、議論することですか、何らかの意見ですか、何らかの知識ですか? それらは真理が何であるのかを指示しますか? それとも真理は思考とは関係ないのですか、記憶とは関係ないのですか、過去の経験等々とは関係ないのですか? あなたは私の質問が分かりますか? なぜなら、もし真理が過去に関係しているなら、それは時間に縛られているからです。違いますか? あなたはこれらのことが分かるのでしょうか。それとも、真理は全く異なる何かですか? そしてそのような真理を明らかにするために、心理的な時間があるのかどうかを明らかにするために、あなたはそれについて議論するのですか、賛否両論を戦わすのですか、賢い様々な引用を持ち出すのですか、人々は言います、“それはこうです”、人々は言います、”それは違います”と。それとも、あなたはその真理を見つけたいと思うので、あなたはいかなる偏った見方とも無縁にそれに相対します―違いますか?―いかなる結論とも無縁に、この進化の観念に引きずられることなく相対します、そしてそれが意味するのは、真理は観察する完全な自由があるときにのみ生まれうるだけだということです。違いますか?
それでは、あなたはあなたの結論とは無縁に観察できますか、つまり、こうした結論を言ったりしないで観察できますか、つまり、“はい、それは可能です”、“それは不可能です”、“あなたは何てばかげたことを言っているのですか”、あるいは、様々な書物から明らかにしたり、あなたの先生から教えを受けたりなど―それら全てです、それら全てを投げ捨てて、自由に見ることができますか? つまり、その問題とは何かに閃くことです、この課題に、なぜ人は心理的な時間を育んできたのかに閃くことです。そのことに閃くとき、進化の観念が何なのかに―心理的な進化の観念が何なのかに―閃くとき、条件づけられてきた脳細胞それ自身が何らかの変化を遂げます。我々の言っていることを受け入れないでください。明らかにしてください。それをテストしてください。それはあなたが自由に観察しなければならないことを意味します、何も望まずに、何も願わずに、何のプレッシャーも受けずに観察することを意味します、それは、宜しいですか、あなたが素敵な花を観察するように観察することです。そうすると、あなたは時間が心理的に消滅しているのが分かります。私は何かになるということがなくなっています、あるいは、私はこうであるということがなくなっています―それは同じことです。
それから我々は、我々が言ったように、空間とは何かも明らかにしなければなりません。空間を手にすることは重要なことです。あらゆるものが成熟できません、育ちません、活動できません、もしあなたが空間を手にしなければ。物理的にそれはますます拡大しています...狭まっています。我々は都市に住んでいます―もしあなたが偶然にも田舎に住んでいないなら、私はあなたに田舎に住んでいてほしいと思いますが―もしあなたが都市に住んでいるなら、物理的に空間がほとんどありません。そして恐らくそのような空間の不足から暴力が生じます。そのような暴力が日に日に増加しています、そして恐らく、このような暴力の増大の理由の一つは恐らく戦争がないことです。お分かりですか? もし戦争があれば、あなたは参加して暴力を爆発させることができます。今あなたは戦争に参加せずに都市の中に押し込まれています、あなたは実際のところ―高層ビルの―いわば一つの引き出しの中に閉じ込められているので、あなたには空間がありません。そしてまたあなたの精神の中には空間がありません、なぜなら、あなたの頭の中はいつも何かしらで塞がれているからです。違いますか? 主婦は料理や調理道具や掃除などそれらで塞がれています、夫はオフィスのことやそれが何であれ彼の行うことで塞がれています、あるいは、彼は自分自身の野望に囚われています、彼自身の虚栄心に、彼自身の成功に囚われています。そして彼女は彼女自身の美に囚われています、彼女自身の楽しみなどに、セックスに囚われています。あなたはあなたがいかに何かに囚われているか気づいたことがありますか? そしてあなたのグルはあなたに言います、“もっと没頭しなさい。それではなく、ただこれに没頭しなさい”と。そしてあなたは、とても騙されやすいあなたは言います、“分かりました、私はそうします”と、それは依然として何かに囚われることです。私はグルたちに反抗しているのではありません。私自身がグルでした、ずっと以前のことです―何ということか!―それはひどく馬鹿馬鹿しいことです。あなたはこの国で何千年も聖職者たちのプレッシャーを受けてきています、そしてあなたはそれに飽き飽きして、東洋から来るグルを受け入れます、そしてそのグルはそれら聖職者たちと全く同じです、そしてあなたはそれを愛して、あなたはあなたが何らかのナンセンスを成し遂げていると思います。
そうすると、もし人が空間は必要であると分かるなら―それは明らかです―あなたはどうしますか? つまり、あなたと他の人との間の空間です、それは他の人から分離していないことを意味します。空間です。空間は独存を意味します。空間は脱執着を意味します。空間はお互いを思いやることを意味します、空間を設けることです。そしてあなたは精神の中に空間がなければなりません、それは精神が決して完全に―決して―何ものにも塞がれないことを意味します。あなたはそのようにできますか? テストして見てください。テストしてください。話し手を受け入れないでください―あなたは私の言っていることを受け入れていません、なぜなら私はここにはいないからです。私は本気です。話し手は、“K”はここにはいません。あなたは自分自身から学んでいます、観察することによって学んでいます、従って、いかなる権威もここには存在しません。
それではなぜ精神はそれほど果てしなく何かに塞がれるのですか? ビジネスマンはそのビジネスに、芸術家はその絵画に、ピアニストはその...―お分かりですか? そしてあなたと私は、普通の人々は、おーっ、沢山のことで塞がれています―なぜですか? それは何かに塞がれていないことからくる恐れのせいですか? もしあなたが何かに塞がれていないとすると...どうなんです? そうするとあなたはどうなんですか? お分かりですか? もしあなたが自分自身について考えていないなら、あなたがどう見えるか、あなたがどのような服装をしているか、あなたがどう歩いているかなど、あなたの感情や欲望、虚栄心、傲慢さなどその他の全てについて考えていないなら、もしあなたがそれらで塞がれていないとすると、あなたは国連のことで頭が塞がれるのかもしれません(笑)、それは同じことです。私は国連のことに踏み込むつもりはありません、それは楽しいことでは全くありません。そのように、我々は何かしらで塞がれています―セックスや善悪などそれらで塞がれています―なぜですか? それはつまり―どうか、見てください、明らかにしてください、問うてください、見つけ出してください―それは、もしあなたが何かに塞がれていないなら、あなたは完全に何ものでもないせいですか? そして私が私は何ものでもないと悟ると、私は言います、“何てことだ、私は私を何かで満たさなければならない、私は怖い”と。
それでは、あなたは何ものでもなくいられますか、そしてそれが実際のあなたです。あなたは自分自身を名前で呼ぶかもしれません、あなたにはあなた固有の顔などがあります、あなたは銀行口座や家を手にしています、しかしそれら全てを剥ぎ取ると、あなたとは何ですか? あなたの知識や職業、あなたの奮闘などそれらを剥ぎ取ってください―それらは記憶であり、言葉です。それらの言葉を取り除いてください、それらの記憶を取り除いてください―意識的に、宜しいですか、正気でなくなるのではありません、あなたの記憶を失うのではありません、あるいは、もうろくするのではありません、そうではなく、実際にあなたが活動的で、エネルギーに満ちているとき―それはそれが何かに塞がれていて浪費されているのですが―それが何かに塞がれていないとき、何かに塞がれることが全くないとき、何もない中に途轍もないエネルギーが生まれます。試してみてください。誰からも何一つ受け入れないでください。
そのように我々は幾つかの問題について話しました、時間や空間です。男とか女とかは問題ではありません―私が“人”と言うときは女性を含みます、ですから、どうか...ウーマンリブ...我々が男や女と言うとき、その人たちはいつも力を追い求めてきました―その人たちを支配する力です、自分自身をコントロールすることです、それは自分自身の中にある種の力を感じさせます、もしあなたが自分自身を完全にコントロールできるなら―お分かりですか?―あなたは非常に力強く感じます、何らかの力を感じます、そしてあなたが選挙で選んだ政治家の力があります、あるいは、全体主義国家の中のような政治家の力があります、その人たちは権力を手にしています。そして力は人が抱える問題の一つです―お分かりですか?
そして他の力があります、いわゆる透視術や読心術などそれらです―いわゆるオカルトと称されるものです。お分かりですか? そのように、それら二つのタイプの力があります、つまり、他の人を支配する物理的、心理的力があり、自分自身を完全に絶対的にコントロールするときに生じる力があります、そして、このような力があります、密かに働く力で、人を説得させる力です、プロパガンダの力です、権威の力です、そして権威を持つ人たちは自分たちが更に更に力を確立するのをいつも追い求めています。違いますか? なぜ人は力を求めるのですか? お分かりですか? なぜですか? なぜあなたは他の人を支配する力を欲しがるのですか? 妻は夫に対して、夫は妻に対して、あるいは、女性は男性に対してなど何であれ、なぜですか? つまり、力は傲慢さを意味します、力は虚栄心を意味します、“私は知っています、あなたは知りません。私がボスであって、あなたではありません。私が悟りを開いたグルであって、あなたは、お気の毒様、末席の弟子です”―なぜですか? なぜ我々はこのようなことを受け入れるのですか? というのは、それが人を破壊しているからです、お分かりですか? なぜなら、それも“私”に重きを置くからです―“私”は国家や集団や何らかの国と同一化してきました、そしてそのような同一化の中に私は非常に力強さを感じます。お分かりですか? そのようなことになります。そして人はこの力の問題を全く解決できずにきました、そしてそれは人が謙虚でいることの意味が分からないことを意味します。お分かりですか? というのは、謙虚な気持ちでいなければ、あなたは探求できないからです、あなたは見守ることができないからです、謙虚な気持ちがなければ、あなたは人を愛することができないからです、謙虚な思いがなければ慈悲心は生まれないからです。力を手にする人が慈悲深くしようとします、愛そうとします。それは明らかにナンセンスなことです。野望を抱く人のように、その人は愛せません。
そのように、謙虚さはあなたが力の性質を理解するときに生まれます。あなたは謙虚さを育めません。そのようにするときは、あなたが育んでいるのは謙虚の衣を纏った虚栄心です。違いますか?
そうして、そしてそれは同じことです、人は今、それが一つの流行になっています、一時的な現象になっています、つまり、オカルトについて語ることです、それを明らかにしたいと思うことです。話し手は―ここで話し手を持ち出してすみません―それらのことについてかなり知っています。それらは感覚の一部です。もしあなたが相当に感受性が鋭敏なら、あなたはほとんど人の心が読めます―違いますか? もちろん読めます。もしあなたがあなたの男友達あるいは夫あるいは妻に鋭敏なら、あなたは、彼女があなたに何かを言う前に、あるいは彼があなたに何かを言う前に、ほとんど即座にそれが分かります。そしてあなたはそれを育むことができます―お分かりですか?―そしてあなたは人の心を読むそのような特異な力を手にします。どうか、話し手がこのことを話しているとき、彼は彼の知っていることを話しています、彼に起こったことを話しています、そして話し手はそれら全てを子供じみた、完全に子供じみたことだと見なしています。あなたは他の人の心を読むことができるかもしれません、あなたはあらゆる種類の...いや、むしろ超感覚的なものに気づけるかもしれません。超感覚的知覚―ESP―のことです、つまり、それに関連するあらゆる類のことです。もしあなたがその罠にはまっているなら、そこから抜け出してください、完全に。それはこの上なく危険な罠です、なぜなら、それは感受性が極めて鋭敏になった感覚が拡張されたものにすぎないからです。
それから我々は我々の生の中にこれら―秩序―を確立しました、そしてそれは学ぶ霊妙な働きを意味し、あらゆるものをその本来の働きに委ねることを意味します―セックスをその本来の働きに委ねることであり、お金をその本来の働きに戻すことであり、あらゆるものをその本来の働きに委ねることです―そしてあなたがそのようにできるのは、あなたが思考から解放されるときのみです、その限界ゆえに、いつも問題や課題を作り出している思考から解放されるときのみです。そのように思考をその本来の働きに戻すことです。そうすると、我々は進むことができます―あるいはむしろ、物事をその本来の領分に戻してから、我々は瞑想し始めます。そこへ踏み込んでも宜しいですか? あなたは私にそこへ踏み込んでほしいですか?
ほとんどの瞑想は―最初に、それは西洋に紹介された新しい言葉です。違いますか? それはインドに何千年も存在してきました(列車の音)そのような列車のように。そのように異なった形の瞑想があります、つまり、インドからはヒンズータイプの瞑想がやってきます、そして仏教的な瞑想があり、チベット的な瞑想があり、禅的な瞑想があります、そしてその同じ流れに沿って何か新しいものを発明するグルたちがいます。そのように世界には違ったタイプの瞑想があります。そしてそのあらゆるナンセンスなものを纏ったそのような馬鹿げた超越瞑想なるものがあります。そのように我々は瞑想とは何かを明らかにしようとしています。我々は無垢です―お分かりですか?―我々はそれには無垢です、我々は人々が瞑想について話してきたことに条件づけられていません、そしてあなたのそのような実践に我々は条件づけられていません―あなたのそれらの実践はとても馬鹿馬鹿しくて、とても子供じみています。しかし我々は瞑想が何かを、そこに含まれているものが何かを明らかにしようとしています。もしあなたがあらゆるものをその本来の働きに委ねていないなら、瞑想が何かを明らかにすることは不可能です、なぜなら、あなたはそうすると何らかの幻想に囚われるからです。違いますか? つまり、もし精神が自由に瞑想が何であるかに踏み込めないなら、どうしてあなたはそれについて学ぶことができますか、どうしてあなたはそれを理解できますか? あなたは子供が初めて読み書きを習うようにそれに相対しなければなりません。子供は新鮮に、無垢に、興味深くそれに向かいます。しかし、もしあなたがこう言うなら、“これが瞑想です、あなたはこう座らなければなりません、あなたはこう立たなければなりません、こう呼吸しなければなりません”―そうすると些末なことがひどく重要になります。
そのように我々は瞑想とは何かを明らかにしようとしています。それではなぜ瞑想することがそれほど重要なのですか? なぜ東洋はそれにそれほど途方もない重要性を与えてきたのですか、そしてそれが今や西洋を徐々に席巻しようとしています。それは非常に複雑な問題です、このように。宜しいでしょう、もしあなたに耳を傾ける時間とエネルギーがあるなら、耳を傾けてください、もしないなら、それは構いません。あなたはギリシャ革命...進化が、ギリシャに由来するギリシャ文化が、古代のギリシャが西洋を席巻したことを観察できます―私は歴史家ではありませんが、あなたはそれを見て取ることができます、あなたはそれを観察できます。ギリシャ人にとっては知力が途轍もなく重要でした、つまり、その理論であり、その発見であり、その議論であり、その民主政治です。お分かりですか? つまり、思考がギリシャ人にとっては途轍もなく重要でした。つまり、思考は“はかること”です。それを検討してください。あなたはそれを見て取ることができます。思考は“はかること”です。つまり、“はかる”ということはここからあそこということです。そしてまたそれは比較することを意味します、“はかる”ということです。そのようにして西洋は途轍もない技術を育んできました。“はかること”がなければ技術は生まれないでしょう。違いますか? それは明らかです。そして他方、全アジア人―それは実際にインドから始まりました―インド人は言いました、“はかること”は全て―古代ヒンズー人です、現代のヒンズー人ではありません、現代のヒンズー人は他の全ての世界中の人たちと同じように全てインチキな人たちです―グルたちも含めて(笑)―古代のヒンズー人は言っていました、“はかることは幻想である”と―それをよく考えてください、その理由を見て取ってください。古代のヒンズー人は言いました、“計り知れないものを見つけるためには精神がはかることから解放されていなければならない”と。一方は“はかる”のであり、他方は“はからない”のです。宜しいですか? 永遠なるものを見つけるためには、時間とは無縁なもの、計り知れないもの、名状しがたきもの、エホバ、神、ブラフマンなどその他の全てのものを見つけるためには、“はかること”があってはならないのです。それは比較しないことを意味します。その人たちがそう言っているのではありません、私がそう言っているのです、話し手がそう言っているのです―比較しないことです。
そのように西洋世界は完全に全く思考や記憶、知識、経験に重きを置き、知識を通じて更に更に更に向上しようとしています。そして他方は言いました、はかることはしないと、しかし計り知れないものを見つけるために、彼らはそれについて考え始めました、彼らは進化し始めました、育み始めました―お分かりですか?―何かを実践し始めました、これを行い、それを行わないと―それは思考に基づいています。ただこちらには科学技術があり、あちらには非科学技術があるだけです。しかし科学技術が今やインドをも席巻しています。そこであなたはこのような問題を手にします、つまり、精神はあらゆる“はかりごと”から自由になりうるのかと。“はかること”は過去の立場から、あるいは未来の立場から考えることです。現在が過去によってはかられて、そのようにはかられることによって修正された現在が未来に引き継がれます、そしてそれが我々の生です。それは“はかること”です。昨日私はこうでした、今日私は変わるかもしれません、明日にはそれは何か異なったものになるでしょう。
そのように、瞑想の働きは日常生活を“はかること”とは無縁に生きることです。それは、“はかること”である思考の働きとは無縁なことを意味します。時間が消滅しうるのです―それは思考としての、何らかの活動としての時間の消滅です、それら全ての消滅です―思考がそれ自身の限界を発見したときのみ時間が消滅しえます。違いますか―思考をその本来の働きに戻すことです。あなたはこれらのことが分かりますか? それが我々の問題の一つとなっています、男性の、女性の問題の一つとなっています、人はいつも時間が消滅するのかどうかを、時間の止むことがあるのかどうかを問うてきました。SFで描かれる時間の停止ではありません、それはあなたが想像できるあらゆる類のことです、しかしそれは実際に思考が消滅することです、それは“はかる”働きのことです、それは時間の働きのことです。私はこのことがあなたの興味を引くのかどうか分かりません―興味を引くのではありません、それはあなたの生の一部です。我々が言ったように、“アート”つまり、聴く霊妙な働きということは、見る霊妙な働きということは、学ぶ霊妙な働きということは、その“アート”という言葉の“霊妙な働き”の理解の中にあります。“アート”はあらゆるものをその本来の働きに委ねることを意味します、それがその言葉の実際の辞書的な意味です。あらゆるものがその本来の働きに戻されるとき、そうすると精神は完全に安んじます。違いますか? なぜなら...それは明らかなことです。
そうすると、そのことからこの問いが生じます、つまり、気づくとはどういうことかと、そして気をつけているとはどういうことかと。気づくことは気をつけていることの一部ですか? 気づくことは精神集中の一部ですか? あなたはこれらのことに疲れていませんか?
質問者 いいえ。
クリシュナムルティ 了解しました、ただ私は分かりません、あなたはそのはずです―それは構いません。それとも、気をつけていることは精神集中とは何の関係もないのですか、あるいは気づきとも何の関係もないのですか? そこで我々はそれら三つのことを検討する必要があるでしょう、なぜなら―なぜならではありません―瞑想はこのことの中に含まれます。気づくということはあなたの周りのものに気づくことです。違いますか? 山々に気づくことです、河川に、影に、雪に、鳥たちに、ワタリガラスたちに、人々に、人々が着ているものなどそれらに気づくことです―このテントに気づくことです、その形に気づくことです。しかしそのように気づく中にあなたの偏見が入り込みます、あなたの意見が入り込みます、つまり、これは正しくない、これはそうあるべきである、私はその色を好まない、私は他の色を好む―お分かりですか? あなたは気づきます、しかしあなたは絶えずこのような取捨選択をしています、絶えず何らかの価値評価をしています。それでは、あなたは反射的に反応しないで観察できますか、気づくことができますか、しかしそれはあなたが反応を示さないということではありません。ただその山を反射的に反応することなく観察することです、それを見ることです、それをただ見ることです。あなたがあなたの偏った見方を持ち込むや否や、不安などその他の全てを持ち込むや否や、あなたは気づいていません。あなたはあなた自身の網にかかっています。
精神集中は―予定より五分多くかかっているので私は急がなければなりません―精神集中は何らかの排除とあなたのあるゆるエネルギーをある特定のものに注ぐことを意味します。違いますか? “窓の外を見ないで教科書に注意を払いなさい”―それが我々の学校で言われることです。しかしもしあなたが教師でこう言うなら、“あなたの見ているものをよく見なさい...あなたが窓の外を見ているとき、それを完全に見なさい、...と言ってはいけません、びくびくしないでよく見るのです”と...お分かりですか?
そのように、気をつけているときには、一切の価値評価を、はかりごとを脱落させています。なぜなら、その中には中心というものがないからです。私はあなたがそのことを自分自身で発見したことがあるのかどうか知りません―もしあなたが何かに完全に気をつけているなら、中心というものは存在しません。気をつけている“私”は存在しません―それはとても馬鹿げています。もしあなたがそのことを見て取るなら、つまり、その事実を見て取るなら、あなたは、気づくための、気をつけているための、精神を集中させるための何らかの実践や何らかのシステムというものはないことを悟ります。それは全く以て同じようにとても馬鹿げた途方もないことです。あなたがこれら全ての働き―気づくこと、精神を集中させること、気をつけていること―を見て取るや否や、理解するや否や、あなたは気をつけています。そのように気をつけていることは二秒あるいは五分続くかもしれません、そしてあなたはそのように気をつけていなくなるかもしれませんが、あなたは以前のようには言いません、“私は気をつけていなければならない”と。お分かりですか? あなたが気をつけている意味を知ったので気をつけていたのです。お分かりですか? 気をつけていることがどういうことかの理解が、深い理解が―知的なそれではなく―生じたのです。それは自然に生じます。しかしもしあなたがこう言い始めるなら、つまり、“私は日中常に気をつけていなければならない”、あなたはひどく貪欲になっていて、それはもはや気をつけていることではありません。それはあなたが気をつけていると称する何かを手に入れようとする欲望です。
そうすると、そのように気をつけているとき、精神は―中心が存在しないので、そこから気をつけている中心が存在しないので―完全に穏やかです。あなたが精神を穏やかにしようと鍛えているのではありません、それは人々みなが実践することです―穏やかになろうと。あるいは人はしばしばこのような言い方を聞いてきました、“私は心の安らぎを手にしなければならない”―その人たちは何らかの安心を手にするでしょうが、それは安らぎではありません。お分かりですか? その人たちはちょっとした何らかの安心を手にしたにすぎません。
そのように、我々の生の中に完全な秩序が生まれると、それは瞑想の始まりですが、そして人が、気づくことや精神を集中させることや気をつけていることの性質を理解すると、あらゆる努力が消滅します―全ての努力が消滅します。あなたがあらゆるものの本来の秩序を回復するとき、努力は不要です。そうすると精神は途方もなく穏やかになります―そのように仕向けられたのではなく、そのように育まれたのではなく、全く新しい何かになります。そうすると宗教は―我々の周りで行われている、それら聖職者たちや様々な儀式やそれらお祭り騒ぎのそのようなナンセンスではなく―自我の消滅を意味します、“私”の消滅を意味します。そのようなときにのみ精神は完全に逆戻りせずに静まります、従って沈黙します。それは時間や“はかること”としての思考の消滅を意味します。そうして、もし精神がそこまで行ったなら、壮大な空間やエネルギーであるそのような沈黙の中に、言葉では言い表せない全き状態が生まれます。しかしもしあなたがあらゆるものの秩序を正しく保つなどするなら、それはあなたが招き入れることなくあなたにやってきます。あなたは真理を招き入れることはできません。真理への道はありません。あなたと真理との間にはいかなる媒介者もそこへ至る道も何もありません。あなたはそこに...それは...もしその場所が相応しいなら、それはそのような至福と共にあなたにやってきます。それは喜悦です。その中には大いなる聖性があります。それは聖なる何かです。
1978年 7月23日 ザーネン
中野 多一郎 訳