何々人、何々国という災い

“何々人、何々国という災い”

ザーネン・トーク 6

クリシュナムルティ 我々は何を話しましょうか? もし宜しければ、私は、単に言葉や観念ではなく、我々人間が自分自身の中に深く根本的な変化をもたらすとはどういう意味なのかという問題を検討したいと思います。それはどういう意味ですか? 我々はその“変化”という言葉を、ここからあそこへという意味ではなく、むしろ正に我々の意識の構造の中に変質あるいは変異をもたらすという意味で使っています。そのことを私は話したいと思います、もし許していただけるなら。なぜなら我々人間は我々の伝統の中に留まっているように思われるからです、何らかの文化の中に、何らかの社会的経済的構造の中に留まっているように思われるからです、そして一生涯我々は心理的に内面的に何らかのパターンに従っているように思われるからです、それが性的なものであろうと、想像的なものであろうと、空想的なものであろうと、神話的なものであろうと、あるいは実際の実生活であろうと。それが我々の存在のパターンであるように思われます。それとも、我々は非常に通俗的であるのかということです―私はその“通俗的”という言葉を使うことによって、我々は非常に表面的に生きているのか、感覚的なレベルでのみ生きているだけなのかと言っています、お金や地位や自由を、安易な自由を手にして、気ままに好き勝手なことをするなどのことをして生きているのかと言っています―皮相的な生き方を言っています。そして社会がどうであるのかを、経済的構造がどうであるのかをその人たちなりに認識して、何らかのイデオロギーに基づいて流血の革命を願う人たちがいます、物理的に“リンゴを乗せた全ての手押し車”をひっくり返すのです。はい。あなたは私の言う“リンゴを乗せた手押し車”の意味を知っていますね? 実際のリンゴではなく、その観念です。そしてその人たちはあらゆる種類の物理的経済的革命を試みました。そして明らかにそれは人の内側に何の変化ももたらしませんでした―環境をコントロールし、何らかの経済法則を課し、全体主義的な信念やイデオロギーなどに基づいて試みました。その人たちはあらゆる形、あらゆる手段、あるいは、あらゆる構造を、経済的にも、社会的にも、文化的にも試みて人の中に根本的な変化をもたらそうとしました。宗教がそれを試みてきました。違いますか? 宗教的な人たちは言います、“自分のことは忘れて自己をキリストに預けなさい”と―あるいはこの人に、あるいはあの人に預けなさいと。あるいは、どこかのグルにあなた自身を預けなさいと―それはグルにとっては非常に好都合です。そのような類です。そして明らかに人があらゆることを観察すると、そしてこのような観察は安易な観察ではなく、あるいは人の欲望による観察ではなく、もし人が非常に間近に、非常に深く、根本的に観察したなら、人は幾千年を経てもなお変わっていません。
 そこで我々は問うています、根本的な、心理的な革命をもたらすことは可能かと。樹木のそこかしこを単に剪定するのではなく、深い、永続的な、時間に耐えうる不可逆的な変化、変質は可能かということです。しかし我々は、現にある通り、幸せではありません。私はなぜ我々が現にこうして生きているのか分かりません。我々は一般的に惨めであり、争っていて、嫉妬を抱き、不安を抱え、恐れを抱いています―我々はそれらのことを経験してきています。我々はそれらを受け入れます。我々はそのように条件づけられています。もしあなたが全体主義的な国家に住んでいても、ある時間が経過すると、あなたはそれに慣れます。あなたはあらゆる束縛や強制や恐怖などそれらを受け入れます。それでは、人間は時間に耐えうる変質をもたらすことができますか? それが我々の行おうとしていることです―もし宜しければ―我々はそのことについて話そうとしています。
 人は自分自身にこのことを問うべきです、つまり、なぜ我々人間はこのように生きているのかと...そして我々はこの世界を生きて、そのような根本的な、心理的な革命あるいは変質をもたらしながら、それでもなおこの世界の中を、何らかの職業やその他の全てと共に、健全に、理性的に生きられるのかと。我々はそこへ踏み込んで行っても宜しいですか―もしあなたがそのことに興味があるなら、私はそうあってほしいと思います。
 始めに、西洋世界は意識を分断してきました、潜在意識、つまりより深い意識と顕在意識です。そして人は一時的にも顕在的意識の中に、表面的な意識の中に、何らかの修正された変化をもたらしてきました。そのような表面的な意識は、いかなるものにもそれ自身を合わせることができます、恐怖に対しても、戦争に対しても、人間の抱えるあるゆる労苦に対して表面的に合わせることができます。そして潜在的な、より深い、精神の隠れた層があります―意識である精神です、我々は我々が注意深く説明したその“精神”という言葉を使っています、我々はそれに更に踏み込みません―そしてその深い潜在的なものは、一部は人種に根差し、一部は深い潜在的な欲求や恐れや深い悲しみに根差します。私は意識をそれらの層に分けるのは大きな誤りであると思います、顕在意識と潜在意識です。意識は全体的なものです。あなたはそれを便宜的に分けるかもしれませんが、その探求のために、それを検討するために分けるかもしれませんが、人がこのように意識を分断している限り、意識がより深い意識やより高い意識へとバラバラにされている限り、何らかの葛藤が起こるだけではなく、もし人がそれを検討するなら、不朽の過去がいつも現在をコントロールし、形作っているという感覚が生じます。お分かりですか? 宜しいでしょうか、私が言ったように、話し手はここにはいません。あなたはこれらの問いを自分自身に発しています。そして我々は普通の言葉を使っています。そして我々は言葉に突き動かされていません。あなたは様々な心理学書を読んだかもしれません、何らかの専門用語や何らかの観念が頭にあるかもしれません、そしてそれらの観念や言葉があなたを突き動かします、あなたをコントロールします、あなたの考え方をコントロールします、あなたの反応などをコントロールします。もしあなたがそうなら、我々の間のコミュニケーションは極めて難しくなります。一方、もし我々が言葉をそれから連想するあらゆるものとは無縁に使うなら―我々の受けた教育や我々の読書が、情動的にも情動的ではなくても、もたらしてきたそれらとは無縁に使うなら―もし我々が言葉を簡潔に、シンプルに使うことができるなら、我々のコミュニケーションには何らかの意味があります。違いますか? そして私は我々が一緒に話しているとき、あなたがそうすることを望みます。
 それでは、潜在意識は、つまりより深い意識は露わにされえますか? あるいは、それが余すことなく、完全に、白日の下に露わにされて、人はそれに気づくのですか? それとも、それは夢によって、時折予感することによって、時折仄めかされることによって、あるいは何らかの直観によって検討されなければならないのですか? 個人的には私はその“直観”という言葉が好きではありません、なぜなら、あなたが何かについて直観するとき、それはあなた自身の欲望かもしれないからです、それがあなたをけしかけて何かについて何らかの感情を抱くようにさせるからです。ですから我々はその言葉を全く使っていません。それでは、我々の精神のより深い層の全ての内容を分析することなく検討することは可能ですか? あなたは私の質問が分かりますか? どうか、ついてきてください! それはあなたの生であって、私のではありません。
 心理学者たちがこれを分断してきたので、精神の顕在意識はそれが潜在意識を探求できると考えます。それはそうしてその夢の分析へと進みます、その表面的な活動やその反応の分析へと進みます、いつも表面的なものから、つまり顕在意識から潜在意識へと探りを入れます。違いますか? そしてそこには大きな危険が待ち構えています、なぜなら、顕在意識は想像上の欲求に、知覚的な欲求に、あるいは信念などに満ちているからです。それらを伴って、それは隠れている何かを探求しようとしています。このことはお分かりですか? そしてこういう人たちもいます、つまり、その人たちの様々な反応や行動などを集団で検討して、お互いに語り合おうとする人たちです、しかしそれは自分自身に語るのと全く同じことです。あなたはこれらのことが分かりますか? そしてこのような分断がいつも保たれます。そのように、いつも外と内との間で争いが起こります、つまり、顕在的な外側、表面的な外側とより深い内側です。私はあなたがこれらのことに気づいていないのかどうか知りません。あなたはいかなる心理学者や哲学者のもとへも出向く必要はありません、あるいはいかなる心理学のプロのもとへも行く必要はありません、あなたは、もしあなたが自分自身を読み解くすべを知っているなら、自分自身の中にこれら全てを観察できます。そしてほとんどの我々はそのエネルギーや興味を持ち合わせていません、あるいは、“私は見つけなければならない”という欲求を持ち合わせていません。しかし何らかの危機が起こると、我々はどこかの専門家のところへ出向きます、そしてその人が我々の問題を解決すると願います。そのように、我々はいつも誰かに頼っています。そしてあなたが頼るその人も同じように条件づけられています、恐らく、もっとずっと分断的であったり、あるいは、あなたより少しだけ神経症的であったり、あるいは、その人もまた別の分析者に分析してもらわなければならなかったりします、そのようにして、その類のことが続きます。これが我々の行っていることです、つまり、何をすべきかを、どう考えるかを、どのようにして我々の問題から抜け出すのかを、どのようにして我々の切羽詰まった危機から抜け出すのかを、我々に語ってくれる誰かに頼ることです。
 それでは、我々の意識を、二つの分断された次元ではなく、余すことなく観察することは可能ですか? 私の質問が分かりますか? 私は私の意識を、潜在意識や顕在意識としてではなく、一つの全体として、分断されていない、本質的に全体的であるものとして観察できますか? 宜しいですか? そのように観察することは可能ですか? 私の質問が分かりますか? それは私が非常に明確にこのように理解するときにのみ可能です、つまり、この分断は人工的であると、恐らくそれが好都合であるからと、恐らくそれで何らかの神経症的な行動を説明できるかもしれないからと、しかし実際にはそれは人によって、思考によってもたらされたものです。私は私が...かどうか分かりません。違いますか? 我々は理解し合っていますか? あなたはこれらの問いを自分自身に問うています、私があなたに問うようにお願いしているのではありません。
 そこで我々は問うています、何の方向性も持たずに、何ごとも歪めることなく、この意識のあらゆる働きを観察することは可能かと。それはあなたが何の方向性も持たないときにのみ可能です。それが意味するのは、あなたが何らかの動機を持つや否や、あなたはそれに何らかの方向性を与えるということです。違いますか? あなたがそれから何かを手に入れたいと思うや否や、それは歪められます。もしあなたがこう言うなら、“私はこの限られたものを乗り越えなければならない”―このような限られたものを乗り越えたいという願望は正にその条件づけから生まれます、従ってそれはすでに歪められています。私はあなたがこれらについてきていることを願います。そのように、いかなる方向性とも無縁に、いかなる動機も持たずに、いかなる賞罰とも無縁に観察することは可能ですか―そのようなことは可能ですか? “はい”とか“いいえ”とか言わないでください。人は自分自身でそれを明らかにする必要があります、自分自身でです。あなたはあなたの妻を、あなたの女友達を、あなたが観察しているのが何であれ、何の動機も抱かずに、何の方向性も持たずに、そのことから何かを手に入れたいと思わずに観察できますか? それはそうするとあなたが余すことなく気をつけていることを意味します、なぜなら、あなたには気が散るということが起こらないからです。あなたはこのことが分かりますか? そうするとあなたは完全に気を抜くことなく気づいています。そうするときのみ、何らかの行為の中の意識の全現象を観察することができます。あなたはそれら全てを抜きにして観察できますか? そこで我々は言います、“直ぐにそうはできないので、私は何かを実践して、私は徐々に、一日一日と、気をつけていられるように励みます”―違いますか? 感受性の本質である気づきを繰り返し練習するのです。途轍もなく感受性が鋭敏になるようにするということです。もしあなたの感受性が鋭敏でないなら、あなたは気をつけていられません、そこであなたは感受性を、何というか、訓練するのです―お分かりですか。我々は猿です、本当に。それが意味するのは、我々がこのことを基本的に理解してこなかったことです、つまり、何らかの意図や願望を持っているとき、あるいは何かを手に入れるために何かを訓練しているとき、そういうときはいつでも、その種の精神状態の中には感受性や気をつけていることが全く欠けています。私はあなたが感受性豊かに気をつけていることを願います。我々は我々が話しているときこのようにしていますか? 明日ではなく、別の日にではなく、実際にそこに座っていて、一緒に話をしていて、あなたはそのようにしていますか? あなたはそうしていますか? 何の方法性も持たずに、何の動機も抱かずに、何かをすることによる見返りを願わずに、もしあなたがそれをしなければ罰を受けるというようなことです、そのような領域から完全に抜け出すことです。
 そうすると、全体としての意識の全性質と構造を、その完全な働きを観察するということがありますか? そうするときのみ、本当に深い根本的な変質をもたらすことが可能です、なぜなら、その中にはいかなる肯定的な行為もないからです。我々はそのことを説明しました、我々が肯定的な行為で何を言おうとしているのか説明しました。つまり、あなたの意識について何かを行おうとすることです、それを突き動かすことです、それをコントロールすることです、それを広げようとすることです、それを抑圧しようとすることです。意識はその全内容を意味します、あなたの怒りであり、あなたの願望であり、あなたの性的な要求であり、あなたの信念や教条であり、何らかの文化に属することです、それら全てが意識の一部です。それを観察することです、ほとんどの人々は、もし人々が観察するなら、それについて何かを行おうとします。つまり、私は教会から解き放たれなければならない、そして何らかの宗教組織から自身を解き放つと、人々は別の宗教団体に嵌ります、そして人々は思うのです、自分は途轍もなく変わったと。その同じパターンが何度も何度も何度も繰り返されます。
 それでは、あなたはこのあらゆる働きを観察できますか? それともあなたは個々の意識を一つずつ取り上げなければなりませんか? 私の質問が分かりますか? 私はそれははっきりしていると思います。私はそれをはっきりさせていきます。もし私が性的なら、私はそれに関心があります。もし私が妻との関係が心配なら、性的なだけではなく、その他のことで心配なら、私はそのことに関心があります。私は私の健康に関心があります。我々は一つのことに重きを置いて、他のことをないがしろにします。違いますか? 我々は完全な健康を手にしなければならない、従ってあなたは菜食主義者になり、他のことは目に入りません、そしてそれについてあなたは神経症的になります。これが我々のいつも行っていることです。インドへ行って神あるいは悟りを見つけようとします。宜しいですか、インドに素敵な話があります、それはこうです、ある若者が家族から離れて、インド中の様々な教師のところへ行きます、そして彼に真理を教えるように頼みます。彼は30年、40年、50年と放浪しますが、それを見つけません。そしてついに彼は老人となって彼の家に戻ってきます。そして彼が戸を叩くと、誰かが戸を開けます、そして正にそのとき彼は真理を見て取ります! お分かりですか? それはそこにあります、来し方にではないのです。
 我々は一昨日愛とは何かのあらゆる問題について話していました。この意識の全ては、出来事や事故、知識、何らかの実践、信念、不安などからなるこの意識は、愛とは何かを生きることができますか、あるいは理解することができますか? お分かりですか? 我々の意識は明らかに思考によって作り上げられます。そして思考は、もしあなたがそれを検討したなら、限られています、時間に縛られています、そうするとこの意識は、何世紀もの様々な反応や危険などの結果である、快楽や恐れなどの結果であるそのような意識は、我々が愛と称するものを含みますか? 私の質問が分かりますか? それとも愛はそのような意識を超えているのですか? それは思考が愛とは何の関係もないことを意味します。違いますか? あなたはその真理が分かりますか、その観念ではなく、その実際の事実です。従って、あなたが愛と称されるその途方もないものが何であるのかを明らかにしたいかどうかが、我々の意識の中に何らかの変質が起こらなければならないことを明らかにしたいかどうかが途方もなく重要になります。これはどうすれば可能ですか? いかなる努力とも無縁に―それは何らかの動機を意味します―何ら無理をしないで、それ自身を超えようとするいかなる思考も働かせないで―それは可能ですか?
 宜しいですか、このことを明らかにすることは瞑想の一部です。つまり、このような意識が完全に空になりえますか、知識を必要とする領域を除いて。私の言っていることが分かりますか? あなたはついてきますか? 我々は理解し合っていますか、我々の少なくとも幾人かは理解し合っていますか? つまり、思考はそのあらゆる活動と共に消滅しますか、その限られた領域を除いて。それが気づく霊妙な働きです。気づく霊妙な働きは、見る霊妙な働きは、あらゆるものをその本来の働きに委ねることです。
 このことから別の問いが起こります、つまり、意識は人類の悲しみを含むのかということです。すなわち、あなたは人間として世界の一部です。あなたが世界です。何らかの観念ではなく、“はい、その通りです”とあなたが言うような、何らかの理由によって知的に作り上げられた何かではなく、その真実です、その真理です、あなたは人間として他の全人類を代表しています、なぜなら、あなたは苦しむからです、あなたは不安だからです、あなたは不確かだからです、混乱しているからです、惨めだからです、恐れているからです、傷ついているからです、あらゆることです、あらゆる人間がこうです。そのようにあなたの意識は人類の意識です。もしそのことがあなたにとって真理なら、観念としてではなく真理なら、何が起こりますか? 私の質問が分かりますか? 人は個人として生きてきました、戦ってきました、自分を表現しようともがいてきました、何かを要求してきました―お分かりですか?―限られた、制限された、狭い個人として。その真理を見て取るのは非常に非常に難しいことです、つまり、あなたはあなたの周りの全ての人間であるという真理です、あなたの中に人間の全てが存在するという真理です、すなわち、人の抱く恐れや不安、人のこうむる災い、人の傲慢さ、プライド、暴力、それら全てです、そして人の悲しみです。違いますか? そして人類はこのような悲しみと共に生きてきました。違いますか? 悲しみと共に生きてきました、悲しみを生の一部として受け入れてきました、もし人がそれを受け入れないなら、人はそれから逃げ去ります、あらゆる形のエンターテイメントを通じて、宗教やその他のことを通じて逃げ去ります。あるいは人はこの悲しみを何らかのイメージに擬人化します、キリスト教徒がそうしてきました、そうして人はこの問題を解決したと考えます。
 それでは我々の問いはこうです、つまり、この悲しみは、あなた特有の小さな悲しみだけではなく、あなたは人類の悲しみです、お分かりですか...それは何とも途轍もない気づきです、もしあなたがそれを見て取るなら...つまり、あなたの悲しみはあなたのものではなく、それは人類の悲しみの全てです。そうするとあなたは泣きません。そうするとあなたはあなたの小さな傷で涙を流しません、あなたの小さな過ちで、あなたの小さな不安や何かで涙を流しません。しかしあなたがあなたは全人類を代表していると悟ると、それは途轍もない活力を、エネルギーをもたらします。あなたが自分自身について考えるときのみ、あなたの悲しみについて考えるときのみ、そのような壮大なエネルギーが小さな狭い回路に押し込まれて、猥雑なエネルギーと化します。それでは悲しみが消滅することはありえますか? もしそのような消滅が一人の人間の中に起こるなら―どうか少しのあいだ私についてきてください―もし一人の人間の中に悲しみの消滅が起こるなら、その人は全人間の代表です、そのような消滅は人の全意識に影響します。お分かりですか? スターリンは人の全意識に影響しました―違いますか?―ヒットラーは...世界中の全ての人々に、国民に影響しました。聖職者たちを通じてイエスキリストの考えは人類に影響してきました。違いますか? あなたはそれならもっと容易に受け入れます。そのように、人間の中に、全ての人間の代表である一人の人間の中に悲しみの根本的な消滅が起こるとき、余すことなき人類の中に何らかの行動をもたらします―私はこのことを明確にしているでしょうか? あなたは何かを理解したでしょうか。私の言っていることではありません。あなたはこのことの真理を見て取りますか、この事実を見て取りますか?
 つまり、ほとんどの我々は何らかの悲しみを抱えています、我々が健康的でなかったり、我々の子供たちがそうあってほしいとならなかったり、あるいは、我々が向こう岸へ行けなかったり、我々が他の誰かほど賢くなれなかったり、亡くなった人を愛していたり―戦死した何千という人たちの悲しみがあります。それでは、人間は、あなたは、これを消滅させるために何ができますか、あるいは何をしませんか? 日常的な毎日の死の出来事を取り上げます。あなたのいわゆる愛する人が死にます、老齢で、病で、事故などで死にます。そしてあなたは彼あるいは彼女を失います、あなたは孤独の涙を流します、突然の死を、取り返しのできない死を涙します、何ものも彼あるいは彼女を呼び戻せません。あなたは完全に取り残されます、突然孤立します、なぜなら、あなたはとてもその人に執着していたからです、その人に完全にあなたを預けていたからです、そしてその人がいなくなると、あなたは突然あなたがいかに空虚であるのかを発見します。自己憐憫の涙が出ます、喪失感から涙が出ます、孤独の涙が出ます―違いますか?―それを我々は悲しみと呼びます。それでは、そのような悲しみは消滅しうるのですか? それはあなたが鈍感であることを意味しません、あなたが冷淡であることを意味しません、あなたがあらゆるものから全く孤立して、それによって自分を守ろうとすることを意味しません。悲しみを消滅させることは可能ですか?―あなたが失う誰かの悲しみではなく、あらゆる意味の深い悲しみです、悲しみの深さであり、悲しみの途轍もなさであり、悲しみの重さです。それが可能なのは、あなたが人間として、あなたが誰それとして、あなたが何の行動も起こすことなく、それについて何かを行おうとしないで、観察するときのみです、ただそれと共にいるときです。お分かりですか? あなたの妻あるいは女友達があなたから去りました。あなたは嫉妬します、怒ります、悪意を抱きます、憎みます、そしてあなたはそのことを悟ります、もしあなたが賢くて、気づくなら、そうしてあなたは言います、“私はこのことから抜け出さなければならない”と。しかしそれと共にいることです―お分かりですか?―何もすることなく、全くあなたの嫉妬やあなたの怒りやあなたの憎悪と共にいることです―お分かりですか?―完全にそれと一つになることです。自己をそれと同一化するのではありません、なぜなら、あなたがそれだからです、何もすることなく、それと共にいることです。あなたは何かをとらえているのでしょうか。
 そうするとあなたは途方もない変質が起こるのが分かるでしょう。悲しみの消滅と共に生まれる変質は熱気であって、抗しがたい強い欲望ではありません。熱気は全く異なる何かです。もしあなたに熱気がなければ、あなたは存在しません。そうするとあなたは、もしあなたが実際に、悲しみと呼ばれるものから立ち去らないなら、全く異なる働きが生まれるのが分かるでしょう。そしてその働きはこの途方もなく果てしない熱気です。宜しいですか? そしてそのような熱気は慈悲心です。お分かりですか? “慈悲心”という言葉はありとあらゆるものに向けられた熱気です、鳥たちに、樹木に向けられた熱気です、人間に向けられた熱気です、岩に向けられた熱気です、群れからはぐれた動物に向けられた熱気です。しかし一人の人に対して慈悲心が生まれるとき、それは無限なものになります、なぜなら、それは本来あらゆるものを包含するからです。宜しいですか? どうか眠らないでください。あるいは、何らかの想像したに過ぎない、神秘的な、ロマンチックな考えを抱かないでください。慈悲心はロマンチックな何かではありません。それは知的な何かではありません。それは感傷的な何かではありません。
 そのことから―今何時ですか?―我々は全ての人間に共通する要素についても一緒に話し合わなければなりません、それは老いも若きもあらゆる人間に関わることです、つまり、生の終わりのことです、死と称されることです。宜しいですか。我々はそれを検討すべきです。それは本当に非常に複雑な問題です、全ての人間の問題と同じように、それは非常に複雑です。そして男性も女性も世界中のあらゆる人間がそのことから逃れる方法を見つけようとしてきました、彼や彼女を、何かを行うことによって、何らかの書物を通じて、何らかの生き方を通して、不滅にしようとしてきました。その結果、この死の観念が何らかの恐怖になりました、人が何が何でも避けなければならない、できるだけ引き延ばさなけばならない恐怖になりました。そして数限りない説明がなされました―合理的なもの、非合理的なもの、何らかの信念や結論や希望に基づくものなど様々な説明がなされました。なぜなら人は終わりたくないからです、なぜなら人は言うからです、私はとても沢山の経験を積んできたからと。私は私の家や私の庭をとても注意深く手入れしてきました、内にも外にも。私はとても沢山の知識を蓄積してきました。私が生きてきたのはとても明白です、その私がなぜ、とても沢山のものを蓄積してきた私がなぜこれらを終わらせなければならないのですか、何のためにですか? そしてそれが全てなら、私は全く表面的に生きた方がましです、面白おかしく生きた方がましです、好きなことを行って、それらは本当に楽しい生でしたという方がましです。お分かりですか? 極端な二つの生き方です、一方の人は気にしません、あらゆる種類の経験をしてきました、官能的なものや他の何かを、そして最後に言います、“問題ない、われ塵なれば塵に帰るべし”と。他方の人は言います、“なぜ私は死ぬのか”と―これらのことが分かりますか?―“私は愛してきました、私は美を知りました、私は流れに逆らって泳いできました、私は誰にも従いません、私は生きてきました、二番煎じではない人間として生きようとしてきました”と。しかし不幸にも、ほとんどの我々は二番煎じです。
 そこで我々は自分自身で明らかにしなければなりません、終わるとはどういう意味かを、死の消滅ではありません―お分かりですか?―それはその一つです、しかし終わるとはどういう意味ですか? 私の不安の消滅です、なくなることです、私が消滅した後に何が起こるかではありません、我々はそれを明らかにするでしょう。私の欲望の消滅です、私の願望、私のフラストレーションの消滅です、私の傷の、何かを成し遂げたいという願望の消滅です、その消滅です。宜しいですか? 私の言っていることが分かり...何かの消滅です、心理的にも物理的にさえも。あなたの何かに対する執着の消滅です。あなたの信念の消滅です...の消滅です―いかなる組織や機関にも属さないことです、その消滅です。何が起こりますか? 私の言っていることが分かりますか? もし我々がそのどれか一つを理解するなら、我々は我々が生と呼ぶものの消滅へ―それは死です―進むことができます。執着の消滅です、なぜなら、ほとんどの我々は何かしらに執着しているからです。違いますか? 我々の身体に、我々の容姿に、我々の夫に、我々の女友達に、我々の信念に、我々の神や何かに―何かへの執着です。それでは、あなたは執着を消滅させることができますか、このように言わないでください、つまり、“私はそうすることで何かを手にする”と、ただそれを断ち切ってください、外科的に、理性的に、執着のあらゆる原因を見て取って、その意味することを見て取って―我々はそれを検討しました、私はそれらに踏み込みません―それを完全に断ち切ることです。あなたはこれまで何かをそのようにしたことがありますか、何かを完全に消滅させたことがありますか? とりわけ執着です、今それを行ってください、我々が話しているとき、そうしてください。あなたの執着に気づいて、それを消滅させてください、見て取って、観察してください。そうすると何が起こりますか? あなたは、もしあなたが何かを消滅させなければ、非常に明瞭に観察できません。何が起こりますか? 宜しいですか?
 例えば、あなたはニコチンに、喫煙に執着しています。私はそのような普通の、むしろ馬鹿馬鹿しい例を取り上げています。何が起こります、恐れないで、それを止めてください、なぜなら、それは合理的ではないからです、なぜなら、お金を浪費するなどその他の全てだからです。もしあなたが、それはあなたの心臓や肺に影響するから、それを止めるなら、あなたはそれを止めていません、あなたはそれを何らかの恐れから止めています。しかしそのあらゆる結果などに気づいて、喫煙の理由に気づいて、あなたは言います、それを完全に止めると、今日、今止めると。そうすると何が起こりましたか? 喫煙から解放されるだけではなく、新しい自由な感覚が生まれていませんか、新しく何かが始まっていませんか? あなたはこのことが分かりますか? もしあなたがその国家への執着を消滅させるなら、宜しいですか、何らかの執着です、家具への執着です、もしあなたがそれを完全に消滅させるなら、新しい何かが始まります、違いますか? もしあなたが何らかの恐れからそうするなら、新しい何かは始まりません、もしあなたが合理的な注意深い分析からそれを行うなら、新しい何かは始まりません。しかしもしあなたが執着の全性質を見て取るなら、そこに含まれるものを見て取るなら、完全に見て取るなら、そしてそれを消滅させるなら、あなたは全く新しい何かの始まるのが分かります。なぜなら、消滅するのは過去だからです、そしてあなたが過去を消滅させると、新しい観察が生まれるだけではなく、途方もない自由な感覚や過去を出自としない何らかの働きも生まれます。あなたはこれらのことが分かるでしょうか! それを行ってください、そうするとあなたは自分自身でこのことを発見するでしょう。
 そして死です、つまり、我々はみな何時かしら死んでいきます。もし我々の誰もが果てしなく生きるなら、アーメン、地球は一体どうなるのか考えてください! 幽霊のような、年取った、老い耄れで一杯になります―お分かりですか?(笑) そうすると、私は自分に問うています、そしてあなたはあなた自身に問うています、なぜ私は死なないのかと。自殺するのではありません、それはとても馬鹿げています。なぜ私は死なないのか、死のどこが悪いのかと。それについてこのような途轍もない恐怖が生じるのはどうしてかと。私は喫煙をやめることが何を意味するのか非常によく知っています。違いますか? 私はそのような単純な例を取り上げました。私は知っています、どこかのグルや何らかの観念や何らかのパターンへの執着を止めることに私が気づくのを―執着を断つことです。私が止めると何が起こりますか? 全くの大いなる自由な感覚と美がその中にあります。それではなぜ何らかの消滅が起こらないのですか、何の消滅でしょうか? あなたは私の質問が分かりますか? 私は私が喫煙を止められるのが分かります、執着を止めることです、しかし死である消滅です、このような消滅とは何ですか? あなたはこのことが分かりますか? あなたはこのことに興味がありますか、これら全てです。
 そこで私は生きるとはどういうことかを検討します。お分かりですか、あなたはついてきていますか? 消滅するとは何かではなく、生きているとは何かです。あなた方がみなこの男に耳を傾けているというのは奇妙なことです、そうではありませんか? それでは我々は問うています、生きているとはどういうことかと。この生きていると称されることの消滅はありえますか? 宜しいですか? そこで私は問うています、この生きているとはどういうことかと。このように生きていることです、あらゆる問題を抱えて、毎日、単調に、決まりきったことを繰り返していることです、それが私の生です、あなたの生です―私のではありません、御免なさい。それはあなたの生です。私があなたから分離しているということではありません、私はそこへ立ち入りません。このような消滅とは何ですか? 何を消滅するのですか? 私の夫や妻、女友達、男友達への執着の消滅です、知識の消滅です、経験の消滅です、あらゆる感覚の消滅です、セックスの消滅です―違いますか?―自分自身の中や他の人たちとの絶え間ないこの戦いの消滅です。違いますか? このようなことが我々の生きていると称するものです。違いますか? それは私の考えではなく、それはあなたの行っていることです。それでは、それら全ての消滅は起こりますか? あなたの悲しみの消滅です、あなたの野望やプライド、虚栄心、傲慢さ、暴力の消滅です、あなたはそれら全てを消滅させることができますか? もちろん、あなたはできます。あなたが喫煙をやめたように、あなたが執着をやめたように、あなたはあなたの野望を、あなたの虚栄心を、あなたの傷など、あなたの知っているそれら全てを止めることができます、私はそこへ踏み込んで行く必要はありません、あなたはそのようなことを止めることができます。違いますか?
 もしあなたがそのようなことを実際に止めたなら、理論的にではなく、日常生活の中で止めたなら、死とは何ですか? 死はそうすると感覚の消滅です、脳細胞の消滅です。お分かりですか? 消滅です。秋の枯葉のようにです。そのような秋の枯葉は美しい色彩を帯びます、それは色彩にあふれます、そのような枯葉の中に全宇宙が畳み込まれています、理論的にではなく、実際にそうです。そうするともし我々が我々の生き様を消滅させるなら、全く異なることが始まります、しかし私が全く異なることを始めるのではありません、なぜなら、あなたが執着から完全に離れたとき、何かを始める“私”はいないからです、何らかの特殊なことから余すことなく自由になります、そしてそのような自由の中に大いなる解き放たれた感覚が生まれます、大いなる自由な感覚が生まれます、執着を脱した全く新しい何かが始まります。
 そうするとあなたはあなたが生きていると称するものを消滅させることができますか、つまり、あなたの心配事であり、諸々の問題です―そのような問題を消滅させて、それをほんの一時も決して引きずらないことです、なぜなら、もしあなたが何らかの問題を抱えていて、それを繰り返し繰り返し繰り返し引きずるなら、来る日も来る日も次の年も引きずるなら、それは頭脳を疲弊させます。そこで我々は問うています、あなたが人の今の生き様を止めて、“私”を脱落させた新しい何かが始まるのかどうかを。そうすると死には何の意味もありません。そうするとあなたは“私”の死後に何が起こるのかを問いません。違いますか? なぜなら、あなたはあなたの生きていると称するものを消滅させたからです、そしてそれは“私”です、あらゆる私の問題を抱えた、私の不安を抱えた、私の心配事を抱えた、私のプライドを抱えた“私”です。お分かりですか? あなたはそのようにしますか? それとも、あなたはこう言うのですか、“はい、それは素晴らしい考えです”と、そしてあなたは毎日毎日、単調な決まりきった無益な生活を続けるのですか?
 あなたが死の意味を余すことなく理解するとき、それが意味することの消滅を理解するとき、そのようなものとしての時間が消滅します。私はただ独り言を言っています、もしあなたがそうしないなら。思考の活動が止んでいる中で働く“時間”のことです。そしてこのような全ての問いかけが本当の深遠な瞑想です、足を組んで座って、あらゆる種類の馬鹿げたことを行うことではないのです。なぜなら、余すことなく消滅する中に何かが創造されるからです。そのときに途轍もない熱気とエネルギーの本当に途方もない感じが生まれます、そしてそれは何かの見返りではありません。
                          1978年 7月20日 ザーネン
                                  中野 多一郎 訳