何々人、何々国という災い

“何々人、何々国という災い”

ザーネン・トーク 5

クリシュナムルティ 我々は一緒に恐れの問題を話してきました、そしてそれを聴いた後で、我々がこの恐れの重みについて一緒に会話するのを聴いた後で、人はそれから全く自由になっているのかどうかです。あるいは、人はそれを単に聞いただけで、その理由を見ただけで、それが正気であることを見ただけで、それについて何もできなくて、ただ流されていくのですか。人は実際に何をしたのでしょうか、我々一人ひとりはその恐れの問題に関して何をしたのでしょうか、我々は自己を友人と、家族と、家具と、家と、国と、観念などと同一化します。これら四つのトークの後で人は実際にあらゆる同一化を止めて、大いなる自由を手にしたのでしょうか、相対的な自由ではなく、正に自由です。そして人がこれらの問いを自分自身に発するとき、我々は表面的に、知的に問うているのかどうかです、それとも、あなたはあなたに、この上なく深く、この上なく真剣に影響する問いを発しているのかどうかです。
 (航空機の音)どうも我々は今日かなりの騒音を浴びそうです、航空機の飛行日和です。
 そしてこれらの問いを自分自身に発した後で、我々は本当に真剣であるのかどうかです、家の中が整然となっているかどうかです―我々の家とはあなたのことです。そして我々が物事を整えると、我々の家の中で我々は自由です、我々はより多くのエネルギーを手にします。我々がエネルギーを浪費するのは正に秩序が乱れているときだけです。そして秩序は人が自分自身の中の秩序の乱れが何であるのかを深く理解したことを意味します、そしてそれは、なぜ我々が―恐らく我々自身の部屋の中でさえも―そのような秩序の乱れの中を生きるのかを深く理解したことを意味します。あるいは、自分の家を整えても、自分自身の中にそのような永続する深い秩序の乱れが存在します、不確実さが存在します、なぜ人間はそのようにこの秩序の乱れの中を生きるのですか、生まれてから死ぬまで、なぜです? なぜ我々はそのような条件づけの中に生きることを我慢するのですか? 
 あなたはこれらの問いを自分自身に発したことがあるのでしょうか。そしてもしあるなら―恐らくあなた方の幾人かはそうしたでしょう―そして人が秩序の乱れの中にあるのを発見すると、機械的に人は自分自身の中のあらゆるものに秩序をもたらそうとし始めます。そのために人は何らかの規律を作り上げます、何らかのパターンに従います、二千年あるいは一万年の歴史をもつパターンです、あるいはどこかのグルや聖職者やいわゆる精神世界の専門家によって敷かれたパターンです。あるいは、人はこの永続する、終わりのない、終わりのないように見える秩序の乱れから逃げようとします、自己を至高の秩序である何かと、宇宙である何かと、天国である何かと、全宇宙である何かと同一化しようとします。あなたは何を...正に現実のあなたを映す鏡の中の自分自身を見て、あなたはこの秩序の乱れについて何を行うのでしょうか。人は人が秩序の乱れの中を生きているのに気づきますか? 人は人が矛盾の中を生きていることに気づきますか? この“現実”と“あるべき様”との間の絶え間ない争いです。
 (航空機)私は難しい朝になるとあなたに言いました。
 もし人が自分自身にこれらの問いを発するなら、あなたは答えを自分自身から引き出しますか? それともあなたは答えを他の誰かから引き出しますか? ほとんどの我々は秩序を見つけようとしがちです、秩序の乱れを理解するのではなく、秩序が何であるのかを検討して、我々は簡単にどこかの専門家を受け入れます、どこかの権威を、どこかの聖職者を、あなたに秩序が何であるかを語って聞かせるどこかのグルを受け入れます。そうすると、我々の精神はますます機械的になります、なぜなら、我々が何らかの秩序のパターンを受け入れるとき、毎日毎日、毎月毎月訓練を受ける兵士のように、訓練を受けます―ドラムの音が兵士の頭脳を叩きまくります...そのように我々は従います、受け入れます、従属します、順応します。そのような順応や従属や受容が正に秩序の乱れのルーツではありませんか? 我々が言ったように、どうか話し手の言うことは何一つ受け入れないでください。私は本気です。これらはあなたが自分自身に問うていることです。
 それでは、人は我々の行動が、我々の態度が、我々の反応がいかに途方もなく機械的であるのかを自分で発見しますか? そのように我々の頭脳は、我々の全存在は決まりきったものになっています。そして、そのような決まりきったものが我々の精神になってきました―私の意味する“精神”という言葉は、頭脳や思考など我々の意識の全内容を意味します、諸々の感覚などそれら全てを意味します、その精神という“言葉”で私が意味するのは―意識、諸々の感覚、思考の働き、我々の意識の内容―それら全ての精神です。私はその言葉をそのような意味で使っています。我々はあとになって変わるかもしれません、来年あるいは明日には違う言葉を使うかもしれませんが、今我々は“精神”をそれら全てを伝えるものとして使っています。もしあなたが“鏡”を見るなら、あなたはあなたの精神、その全内容が途方もなく機械的になっているのが分かりませんか? あなたはキリスト教徒です、あるいは、もしあなたがキリスト教の信仰を捨てると、あなたは他の何かに従います、あるいは、もしあなたがキリスト教から離れると、あなたは他の何かに従います。あるいは、あなたは何らかの決まりきったものに従います、あなたの意見や経験―それはいつも狭い限られた中での働きです―による何らかの考え方に従います。違いますか? あなたはこのことに気づきましたか、あなたの精神が機械的であることに気づきましたか? なぜなら、どうか、我々は何か非常に...なことを検討しようとしています―恐らくかなり難しいことです。私はそれが我々をどこへ導こうとしているのか知りません。それはちょっと更に複雑なことになるかもしれません、従って、どうか、少し気をつけていてください。
 宜しいですか、あなたが小さな子供を抱えているとき、あなたはその泣き声に耳を傾けます、あなたはその言葉に、そのつぶやきに耳を傾けます、あなたはとても気を遣います、あなたは耳を傾けます―あなたは眠っているかもしれませんが、子供が泣くや否や、あなたは起き出します。そしてあなたはいつも気をつけています、なぜなら、その子供はあなたの子供だからです、あなたはその子の世話をしなければなりません、あなたはその子を愛さなければなりません、あなたはその子を抱かなければなりません、そのようにあなたはとても気をつけています、たとえあなたが眠っていても、あなたは起き出します。それでは、あなたはそのように耳を傾けることができますか、その子のあらゆる動きに耳を傾けるように、それと同じように気をつけていて、それと同じような愛情を注いで、それと同じように気遣って耳を傾けることができますか? あなたはそれを“鏡”を見ているときにできますか、私を見ているのではありません―あなたは私に耳を傾けているのではありません―“鏡”を見ているときです、それはあなた自身です、それがあなたに語りかけます、そのような途方もなく集中した愛情や気遣いで耳を傾けることができますか? あなたはそのようにしますか?
 そこで我々は問うています、つまり、なぜ人間はそれほどまでに機械的になっているのかと。そのような機械的な習慣が明らかに秩序の乱れを作り出します、なぜなら、もしあなたがいつも狭い限られた中で機能しているなら、そのような狭い限られた中ではいつもこのエネルギーは限られているので、当然のごとく、それは打ち破ろうともがいています、そしてそれが争いの本質です。お分かり...いいえ、私を理解しないでください、“鏡”の言うことを理解してください、話し手はここにはいません。そのように、あなたはそのような気遣いで、気をつけて観察できますか、それはあなたが耳を傾けているものへの大いなる愛情です。我々は秩序の乱れについて話しています。我々は秩序の乱れの中を生きています、習慣や信念、結論、意見などがもたらす秩序の乱れの中を生きています。これが我々の生きるパターンです、それは当然のごとく、それが限られているので、秩序の乱れを生み出すに違いありません。そうすると、人が秩序の乱れの中にいるとき、秩序を探し求めるのは間違いです、それは明らかです、なぜなら、混乱していて不確かな精神が秩序の何かを探し求めると、それもまた混乱を引き起こすからです、不確かさをもたらすからです。それははっきりしています。しかし一方、もしあなたが秩序の乱れを見ていくなら、もしあなたがあなたの生きている秩序の乱れを理解するなら、その原因を、秩序の乱れの有様を理解するなら、その正に理解の中で、その正に理解の中から、秩序が自然に、容易く、スムーズに、何の強制も受けずに、いかなるコントロールとも無縁に生まれます。私の言っていることが分かりますか? これがその“鏡”があなたに語っていることです、つまり、理解することです、言葉ではなく、知的にでも、情動的にでもなく、自分自身の中の秩序の乱れの有様を理解することです、なぜこのような秩序の乱れが起こるのかを―そしてあなたはその原因を即座に発見できます、もしあなたが気をつけているなら、あなたが幼い無防備な子供に気をつけているように気をつけているなら、そしてそれは秩序の乱れが何であるのかに閃くことです。
 それでは、秩序の乱れのルーツは何ですか? そのルーツです。秩序の乱れの原因は沢山あります―比較すること、自己を誰かと比較すること、自己を彼あるいは彼女が恐らくそうであると思われることと比較すること、何らかの例を模倣すること―例というのは聖者と目される人です、あなたはそれらの類を知っています、私はそれら全てのナンセンスに立ち入る必要はありません―あるいは順応することです。違いますか? 順応、模倣、あなたが現にあるものを超えていると考える何かに自己を適合させることです。違いますか? そのように、いつも“現にあること”と“あるべき様”との間に争いが生じます。分かりましたか? それは比較することです、それは思考の働きです、つまり、私はこうでした、あるいは、私は幸せでした、そしていつか私は再び幸せになるでしょうと。そのように、このような絶え間なく“はかる”働きがあります、“これまでのこと”あるいは“現にそうであること”と“あるべき様”との間の比較です。このように絶え間なく価値をはかることが争いをもたらします、そしてそれが秩序の乱れの基本的な理由の一つです。違いますか? そして秩序の乱れの別の原因は過去を持ち出して活動していることです。
 それでは、愛は時間の働きですか、思考の働きですか、思い出の働きですか? お分かりですか? あなたは私の質問が分かりますか? その問いかけは...“鏡”があなたに問うています、あなたが見ている“鏡”です、この愛が、俗に言う愛が、人間関係の間のこのような途方もない秩序の乱れを作り出しているのではないのですか? 違いますか? 後生だから、自分自身を見てください。
 それでは、秩序の乱れのルーツは何ですか? 我々は幾つかの原因を見てきました、そして我々は更にそれを付け加えることができますが、それは筋違いです。そのルーツが何なのかを検討しているとき、分析しないでください―我々はそのことを見てきました―ただ見てください。もしあなたが分析しないで見るなら、あなたはそれが何であるのか即座に閃きます。もしあなたがこう言うなら、“私は検討します、私は演繹します、あるいは外側から分析します”、帰納や演繹です...それは依然として思考の働きです。一方、もしあなたがそのような気遣いで、大いなる優しさや愛情をもってそのように深く気をつけて観察できるなら、あなたは閃きます。そこで我々は問うています、そのルーツとは何かと。さあ、宜しいでしょうか、見つけてください。我々の秩序の乱れのルーツとは何ですか、内面的な秩序の乱れであり、従って外面的な秩序の乱れです。あなたは酷い秩序の乱れが世界中にあるのが分かります、苦痛に満ちた秩序の乱れです、人々は互いに殺しあっています、体制に順応しない人たちが拷問を受けています、投獄されています―お分かりですか?―それらのことが進行しています。我々はそれら全てを我慢します、なぜなら、我々の精神は物事を受け入れるからです、あるいは、ここやそこをほんの少し変えようと努めるからです。それでは秩序の乱れのルーツとは何ですか? それはあなたがこの問いかけに踏み込んで行かなければならないことを意味します、つまり、我々の意識とは何かです。お分かりですか? あなたの意識とは何ですか? あなたがその歪んだ鏡の中のあなたを見るとき、あなたの意識とは何ですか? そしてそれが秩序の乱れの本質かもしれません。そこで我々は我々の意識が何であるのかを一緒に検討する必要があります。
 我々の意識は生きているものであり、動いているものであり、活動していて、停滞している何かではありません、封じ込められ、閉じ込められている何かではありません―そのようなものではなく、それは絶えず変化しているものです。しかし、狭い限られた領域の中で変化しています。それはどこかを、どこかの隅を少しだけ変えると自分は変わっていると考える人のようです、しかしその人は残りの全領域を変質させません。そこで我々は意識の性質と構造を理解する必要があります。我々はそれが我々の秩序の乱れのルーツかどうかを明らかにするためにそうしています。それはそうではないかもしれません―我々は明らかにしようとしています。それでは我々の意識とは何ですか? それは思考が作り上げてきたあらゆることではありませんか? その姿かたちであり、その体であり、その名前であり、思考が自身を何かと同一化してきたその感覚であり、その信念であり、その痛みであり、その虐待であり、その苦悶であり、その不快であり、その意気消沈と高揚であり、その嫉妬であり、その不安であり、その恐れであり、その快楽であり、私の国やあなたの国であり、私は神を信じるであり、私は神を信じないであり、イエスがこの上なく大切であるやクリシュナがもっとずっと大切である等々です。それら全てがあなたの意識ではありませんか? 違いますか? あなたはそれにもっと付け加えることができます、詳細に付け加えることができます―私は褐色です、私はもっと白かったらよいのに、私は黒色ですが黒色は美しい等々です。過去や伝統、遺伝的なこと、人類のあらゆる伝統が本質的にこのことに基づいています、その神話など―それら全てがその内容です。もしあなたがインドに生まれたなら、あるいはアフリカに生まれたなら、そこではキリスト教は通用しません、その人たちにはその人たちの神々がいるのであり、その人たちのイメージがあって、その人たちの崇拝の形があって、それがその人たちの意識の一部です、あなたの意識がここではこういう意識であるように、ただその人たちはそれを違った呼び名で言っているにすぎません、しかし本質的にはそれは同じパターンです。違いますか? そして人がその意識に気づかないで行動している限り、その行為は限られているので秩序の乱れを引き起こすに違いありません。お分かりですか? もし思考がその領分をわきまえなければ、それは知識の領域ですが、思考はその活動の中で秩序の乱れを引き起こすに違いありません。知識は限られています、従ってそれにはその領分があります。それははっきりしています。我々はそこへ踏み込みました―私は何回も何回もそうしません。
 そのように、昨日を出自とする思考は、あるいは、一万年もの月日を出自とする思考も限られています、従って我々の思考の内容は限られています、そして我々の意識は...思考が、この意識は限られているのではなく、より高次の意識があるといかに言おうと、それは依然として意識の形です。分かりましたか? そのように、その領分をわきまえていない思考が正に秩序の乱れの本質です。違いますか? お分かりですか? これは何かロマンチックな、漠然とした、ナンセンスな何かではなく、あなたは自分自身で見て取れます、もしあなたが論理的で、正気なら、思考は限られているので秩序の乱れを作り出すに違いないと。“私はユダヤ人です”あるいは“私はアラブ人です”―あるいは中国人です―と言う人のように、人は限られていて、自分の殻にこもり、抵抗しているので、戦争やあらゆる悲惨なことが起こります。違いますか? あなたは実際にこの事実を見て取りますか―何らかの観念としてではなく、誰かがあなたに語って聞かせる何かとしてではなく、それを自分自身で見て取りますか、あなたが赤ん坊の泣き声を聞くように。そうするとあなたは行動を起こします。あなたは立ち上がります。
 そうして、我々の機械的な生き方の一部はこの限られた意識から生まれます。違いますか? それでは、意識を広げないことは可能ですか? その意味が分かりますか? 広げることです、それを拡大することです、それにさらに何かを付け加えることです―もっと多くの知識、もっと多くの経験、一カ所から他の場所へ移行することです―それを拡大しようと努めることです。このようなことを行っている諸々の教育機関があります、何かを実践することによって、何らかの規律やコントロールを課すことによって―それら全てによって。そうすると、あなたが意識を拡大しようとしているとき、何ごとかをはかる中心が生まれます。お分かりですか? あなたが何かを拡大しようとするとき、家を広げようとするとき、小さな基礎から、あるいは大きな基礎から、あなたが家を広げるとき、あなたがそこから広げようとする中心が存在します。同じように、そこから私が広げていると言う中心があり、それが“はかること”です。あなたが分からなくても、それは問題ではありません、とにかく、自分自身を見てください。あなたはあなたの意識を広げようとしていませんか? あなたはその言葉を使わないかもしれません。あなたは言うかもしれません、“私はより良くなろうとしています”―“私はもっとこれやあれでいようとしています”―あるいは何かを成し遂げようとしていると。そのように、そこからあなたが行動を起こそうとしている中心がある限り、秩序の乱れが起こるに違いありません。
 そうすると、問題が起こります、つまり、何らかの中心なしに、意識の内容を脱落させて、自然に、無心に行うことは、機能することは可能かということです。あなたはこれらの問いかけが分かりますか? 我々は根本的な問いを発しています。あなたはそのようなことに慣れていないかもしれません。ほとんどの我々はかなりいい加減な、あるいは無頓着な問いを発して立ち去ります。しかし我々はあなたが答えなければならない、答えを見つけなければならない、自分自身で答えを発見するようにそこへ踏み込んで行かなければならない問いを発しています。その中心を―それが秩序の乱れの本質です―脱落させて我々の日常生活を生きることは、生きて働くことは可能ですか? つまり、人との関係性の中で、それがどれほど親密であろうと、もしあなたがいつも自分自身に関心があるなら、あなたの野望であり、あなたの個性であり、あなたの美しさであり、あなたの習慣などあなたに関心があるなら、人との関係性の中で、そしてまた他の人も同じことを行っています、当然のごとく争いが起こります、そしてそれが秩序の乱れです。それでは、何らかの中心から行動を起こさないことは可能ですか? 我々はその中心が何であるのかに踏み込みました。その中心はその内容であるこの意識です、つまり、その内容は思考が作り上げた全てのことです、その諸々の感覚で、その欲望で、その恐れなどで作り上げた全てです。違いますか? 
 いかなる矛盾とも、いかなる後悔とも、いかなる賞罰とも無縁の行為とは何ですか、従って全き全体である行為とは何ですか? お分かりですか? 我々は明らかにしようとしています。我々は明らかにしようとしています、私がそれを明らかにして、あなたに語るのではなく、我々は一緒に明らかにしようとしています、思い出してください、話し手はいなくて、あなたが見ている鏡があるだけだということを。それを理解するためには、我々は愛とは何かの問いに踏み込まなければなりません。なぜなら、もし我々が愛とは何かの真理を見つけることができるなら、そうすると問題の中心が完全に溶解するかもしれないからです、そうして完全に余すことなく行われる行為がもたらされるかもしれないからです。そこで我々は非常に非常に非常に注意深くそこへ踏み込んで行かなければなりません、もしあなたが進んでそうしたいなら。それはあなたが進んで耳を傾けているのかということを意味します。あなたは愛についてあなたの意見を持っています、それは明らかです。あなたは愛について何らかの結論を下しています。あなたは言います、愛は嫉妬なしにありえませんと、愛はセックスするときのみ生まれます、愛はあなたが全ての隣人を愛するときのみ生まれます、動物やその他の全てを愛するときにのみ生まれますと。あなたは愛が何であるかについて何らかの概念、何らかの観念、何らかの結論を抱いています。もしそうなら、あなたは恐らく探求できません。違いますか? もしあなたが前もってそのように言うなら、それで終わりです。それはグルたちの中の誰かがこういうのに似ています、“私は知っている、私は悟りを開いた”と、そしてあなたは、騙されやすいあなたはその師に従います。あなたはその師を決して疑いません。
 それでは、我々はここにいて、いかなる権威も存在しません、話し手はいません、しかし我々は非常に非常に真剣な問いを発しています、そしてそれは人と他の人との間にある争いやコントロールや絶え間ない戦いを解決するかもしれません。そしてそれを明らかにするためには、我々は非常に深く愛が何であるかの問いに踏み込んで行かなければなりません、慈悲心ではありません―私は愛のことを話しています。他の言葉を持ち込んで、それを混乱させないでください。我々は人間が愛と称するものをただ話しています。動物を愛する、ペットを愛する、庭を愛する、家を愛する、家具を愛する、女性や男性を愛する、神を愛する、国を愛する―お分かりですか?―愛と称されるものです、それはとても骨抜きにされています、それはとても踏みにじられています。そこで我々はそれが何なのかを明らかにしようとしています―宜しいですか。眠らないでください! あるいは、ノートを取らないでください。私はあなたがカセットテープを手に入れると信じます、あなたは後でそれを聴くことができます、もしあなたがそうしたいなら。しかし赤ん坊が泣いているときにノートを取りますか、ということです(笑)―それはあなたにとって分かりやすい比喩です、あなたはそれを理解します、あなたは赤ん坊が何で泣いているのかと言って、それを非常に注意深く全て書き留めるのです!(笑) ですから、どうか、少し気をつけていてください、つまり、聴いてください。それは聴く霊妙な働きを意味します。あなたは赤ん坊が泣くとその子に気づきます。あなたは全身で耳を傾けています。聴く霊妙な働きは...その“霊妙な働き”という言葉は、あらゆるものをその本来の場所に置くことを意味します。もしあなたがその言葉の意味を本当に理解するなら、それが本当の“アート”です、絵画を描くなどその他の全てのことではありません、それは二次的、三次的なことです。しかし、あなたの生をその本来の働きにする“アート”は、調和して生きることです。あなたがあなたの中のあらゆるものをその本来の働きに委ねるとき、あなたは自由です。そのようにあらゆるものをその本来の働きに委ねるのは叡智の一部です。そうすると、あなたは言います、それはどういう意味かと、あなたはその“叡智”という言葉に新しい意味を与えていると。そうでなければなりません。叡智は行間を読むという意味です、言葉の間を読むことです、沈黙の間を読むことです、発言の間を読むことです―耳を傾けることです、そのように、それはあなたの精神がずっと気を抜かずに耳を傾けることを意味します。あなたはあなたの耳で聴くばかりではなく、その耳を脱落させて聴きもするのです。
 そこで我々は問うています、その意味と美とは何かと、もし美というものがあるなら、愛の意味と美とは何かと。それは私に何らかの観念をもたらします―観念ではありません...あなたはこれまで美とは何かを考えたことがありますか? 美は何を意味しますか? それは欲望と関係していますか? それを否定しないでください、それを見てください、注意して聴いてください、明らかにしてください。美は欲望の一部ですか? 美は感覚の一部ですか? あなたは驚くべき建造物を目にします―神殿です、古代ギリシャやエジプトの神殿です、あるいは大聖堂です、驚くべき建物です―あなたの感覚がその美によって目覚めさせられます。それでは美はこのようなことの一部ですか? そして美は人の顔や色や形や顔の骨格や瞳の輝きや皮膚や金色の髪の毛や―男性や女性の表現ですか? あなたはこれらの問いかけが分かりますか? それとも、これら全ての美を超えるかもしれない他の美の質があり、そしてそれがこの生の一部であるときは、その形や顔やあらゆるものがその本来の位置を占めるのですか? 一方、もしそのことが捉えられないなら、もしそのことが理解されないなら、外側の表現が、外側―それら全てが全く重要になります、違いますか? そのように、我々はそのような美が何であるのかを明らかにしようとしています。もしあなたに興味があるなら。
 宜しいですか、あなたが青空を背にした驚くべき山々やキラキラ輝く清々しい穢れのない雪のような何かを見るとき、その荘厳さがあなたの全ての思考を蹴散らします、あなたの心配事や問題をそれから追い払います。あなたはそのことに気づいたことがありますか? あなたは“何て美しいのだろう”と言って、二秒間あるいは一分間も完全に沈黙します。違いますか? あなたはそのことに気づいたことがありませんか? それはどういうことですか? その壮大さが二秒間我々の取るに足りなさを追い払います。違いますか? そのようにその計り知れなさが我々を凌駕します。違いますか? このことが分かりますか? 複雑なおもちゃを手に持った子供のように―一時間その子は夢中になります。その子は一言も話しません、音を全く立てません、それに完全に夢中です。それはその玩具がその子を吸収したことを意味します。このことが分かりますか? 私は疲れてきています。お分かりですか? そのように、その山があなたを吸収します、そのために一秒か一分間あなたは完全に静まります、そしてそれは自己の不在を意味します。そうすると、何かに吸収されるのではなく―お分かりですか?―玩具や山あるいは人の顔や何らかの観念やこれやあれに吸収されるのではなく...自分の中で完全に“私”が脱落していることが美の本質です。あなたはこれらのことが分かりますか?
 そのように、我々は愛とは何かを明らかにしようとしています。なぜなら、もし我々がそれを明らかにできるなら、我々の生は全く異なるかもしれないからです。人は争うことなく、コントロールすることなく、いかなる形の努力とも無縁に生きることができます。我々は明らかにしようとしています。
 最初に、我々が先日言ったように、肯定的な行動があり、そして“不動の動”ともいうべき行為があります―私はそれを検討しました―違いますか?―私はそれを再び検討する必要がありますか? 肯定的行動の中で人は何かを行ないます、コントロールしたり、抑圧したり、努力したり、支配したり、避けたり、説明したり、合理化したり、正に分析する過程で合理化したりします、肯定的と考えられる行動があり、人は何かについて何かを行っています。違いますか? そして我々は言っています、何らかの行為があると...“不動の動”ともいうべき行為があると、そしてそれは肯定的行動とは関係がないと、それはその対極にあるのではないと、そしてそれはいかなる行為とも無縁に観察することであると。そうすると、正にそのような観察が、我々が指摘したように、観察されているものの中に何らかの根本的な変化をもたらします、そしてそれが不動な何かです。あなたはこのことが分かりますか? 少しだけ―結構です、それはあなたの生です。我々は肯定的に行うことに慣れています―違いますか? “私は...しなければならない”“私は...してはならない”“これは良い”“これは間違っている”“これは正しい”“こうあるべきです”“こうあってはならない”“私は抑える、私はコントロールする”―それら全てが“私”を強めます、そしてそれが秩序の乱れの本質です、それが争いの本質です。もしあなたがそのことを見て取るなら、言葉でではなく、知的にではなく、視覚的にではなく、実際にその真理を見て取るなら、そこには不動な何かがあり、そしてそれはいかなる努力とも無縁です。単に観察それ自身が観察されているものを変えるだけです。
 今何時ですか?
質問者 11時25分です。
クリシュナムルティ 11時25分。これはどういうことですか?
 そうすると我々は愛とは何かを問うています。そして我々は言いました、我々はそれについてとても沢山の意見を持っていると、つまり、専門家たちの意見であり、グルたちの意見であり、聖職者たちの意見であり、あなたの妻や女友達が言ったりすることです、“これが愛です”と、あるいはあなたが言ったりすることです、“これが愛です”と、あるいは、あなたは言います、“それはセックスに関係している”等々を。そうですか? それは諸々の感覚と関係していますか? 諸々の感覚から欲望が起こります。あなたはこのことについてきていますか? 欲望はその働きです、それは欲望の凝縮した働きです、諸々の感覚の働きは欲望です、それは明らかです、宜しいでしょうか、首をひねらないでください! 私は何か美しいものを見ます、つまり、諸々の感覚が呼び覚まされます、そして私はそれを欲しいと思います。どうか―それを自分自身で見てください。宜しいですか、我々は言っています、余すことのない感覚の働きがあるとき、ある特定の感覚ではなく、全感覚が働くとき、欲望は起こりません。そのことをよく考えてください。
 それでは、愛はその欲望と共に諸々の感覚の働きですか? 違うのですか? 愛は、言い方を変えると、欲望ですか? 性的には、諸々の感覚が働いています―思い出、思い描いた何か、イメージ、諸々の知覚などがいつも働いています。そしてそれら全てのそのような働きが愛と考えられています。愛は、人が観察しうる限り、欲望の一部です。ゆっくり進んでください。我々はそれを広げてはいません。困惑しないでください、あるいは、言わないでください、“いいえ、そんなはずはありません”と―我々はそれを検討しています。愛は何かへの執着ですか? お分かりですか? 私は彼女あるいは彼に執着しています。私は所有しています。そうすると執着は愛ですか? そして我々の全ての生は何かへの執着に基づいています―財産への執着、人物への執着、何らかの信念への執着、何らかの教条への執着、キリストへの執着、ブッダへの執着、それが何であれ―何かへの執着です。それは愛ですか? あなたが何かに執着するとき、その執着の中には痛みが生じます、恐れが生じます、嫉妬や不安が生じます―あなたは何かを失うかもしれません。そこで我々は問うています、何かに執着しているとき、愛は生まれますかと。あなたがそれを観察すると、あなたが深く、この上なく深く愛とは何かを明らかにしようと関心をもつと、何かへの執着は重要ではなくなります、それには何の価値もありません、なぜなら、それは愛ではないからです。
 そのように、それは欲望ではありません。それは思い出ではありません。それは執着ではありません。違いますか? 私があなたに言って聞かせて、あなたがそれを受け入れるのではありません―それはそういうことなのです。そして愛は快楽ですか? そんなに落胆しないでください。(笑) ごめんなさい! それはあなたが他の人の手を握れないということではありません。しかしあなたは明らかにします、もしあなたがこのことを理解するなら。我々は欲望を見て取ります、それは感覚の産物です、思考に裏打ちされた感覚であり、感覚に裏打ちされた思考です、そしてそのような感覚から欲望が起こります、そしてそのような欲望は何事かを成し遂げたいと思います、そして我々はそれを愛と称します。それは愛ですか? 執着は愛ですか? 執着の中に争いが生じます、不確かさが生じます、そのために、不確かさがより増すと、より孤独の恐怖が増します、あなたがより執着すると、所有意識や支配意識が生まれます、自己主張が強くなります、要求が激しくなります、それゆえに、関係性の中に争いが生まれます。そしてこの争いは、あなたは思います、愛の一部であると。そして我々は問うています、それは愛ですかと。
 そして快楽は愛ですか? 快楽は何らかの思い出の働きです。違いますか? この言い方をメモらないでください(笑)。ただそれに耳を傾けてください。私はあなたがとても素敵だったのを覚えています、とても感じが良かったのを、とても優しかったのを、とても心地よかったのを、とてもセクシーであったのを―これやあれやその他のことを―覚えています、私はそれを覚えていて言います、“ねえ、私はあなたを愛しています”と。それは愛ですか? そして快楽は否定されるべきものですか? あなたは私が問うているこれらの問いを問わなければなりません。あなたは問わなければなりません、明らかにしなければなりません。あなたにとって川の水の流れを見ることは快楽ではありませんか? その快楽のどこが悪いのですか? あなたにとって草原の中の単独の樹木を見ることは快楽ではありませんか? あなたにとって昨夜の山々にかかる月を見ることは快楽ではありませんか、あなた方は恐らくそれを見ました、あなた方の幾人かはそれを見ました。そこには大いなる喜びがありませんでしたか? それのどこが悪いのですか? しかし問題はこのように生じます、つまり、思考が言います、これは何て美しいのかと、私はこの感じを手放してはならない、私はそれを覚えていなければならない、私はそれを讃えなければならない、私はその感じをもっと手にしたいと―そうするとあらゆる快楽が蠢きます。そしてその快楽を我々は愛と称します。
 子供を、赤ん坊を抱えた母親が言います、“私はそのような優しさに包まれた愛情で満ちています、そのような愛情でこの子を抱いている感じがします”と、それは愛ですか? どうか、私に飛びかかって来ないでくださいださい、ただ、私は問うているだけです。それとも、その愛はあなたの遺伝的な何かの一部ですか? あなたは猿たちがそれらの赤ん坊を抱いているのを見たことがありますか? 母像が小象を限りなく気遣っているのを見たことがありますか? 恐らく我々はこのように赤ん坊に対する本能的な反応を遺伝的に受け継いでいるのかもしれません。そうして言うのです、“この子は私の赤ん坊です”と。待ってください、頭を振って拒絶しないでください。“この子は私の赤ん坊です、この子は私の血を受け継いでいます、私の骨や血肉を受け継いでいます、私はこの子を愛しています”と。そしてもしあなたがあなたの赤ん坊をこよなく愛するなら、あなたはその子が正しく教育されるのを見届けます、その子が決して暴力的にならないように、その子が決して殺し殺されないように見届けます。しかしあなたは気を配りません。あなたはただその小さな子をその子が4歳、5歳、6歳ごろまで気遣うだけで、その後は野となれ山となれです。違いますか?
 それでは、それら全ては愛ですか? そこで肯定的行動はこうなります、つまり、“はい、私はもうセックスしません”、私は決してもはや...お分かりですか、私はこうします、私はこのような執着を取り除きます、私は執着から抜け出します、私は執着に取り組みます―取り組むのです、それについて絶えず何かを行ないます。一方、否定的行動はそれを余すことなく見て取ることです、従って、それが何なのかに閃きます。そうすると、あなたは愛がそれらのいずれでもないことを見て取ります、しかし愛が生まれているので、その愛からあらゆる関係性が変わります。
 あなたはインドやヨーロッパの苦行者たちや僧侶たちや托鉢僧たちを知っています、世界中の僧侶たちを知っています、彼らは言ってきました、“欲望はご法度です、セックスはご法度です、美しい女性を見てはいけません。もし目に入るなら、彼女をあなたの妹や母親と思いなさい。あるいは、もしあなたが見てしまうなら、何か神聖なものに精神を集中しなさい”と―お分かりですか、そしてその他の全てがそうです。そして彼らは心の中で身を焦がしているのです。外では否定して内では身を焦がしているのです。そしてそれが彼らの言うところの宗教生活です。それは彼らが愛を手にしていないことを意味します。彼らは愛が何であるかの観念を抱いています。観念は愛ではありません。観念や言葉は愛ではありません。しかしあなたが欲望のあらゆる働きを見て取るとき、執着や快楽の働きを見て取るとき、そのような深い気づきから途方もない芳香を漂わせたこの不思議な花が開花します。それが愛です。
                          1978年 7月18日 ザーネン
                                  中野 多一郎 訳