何々人、何々国という災い

“何々人、何々国という災い”

ザーネン・トーク 4

クリシュナムルティ (ドラムの音)これが我々の必要とする全てです。(笑)
 恐らく今朝は日曜日ということで新しく来た何人かの人がいますが、私はその人たちがこれを何らかの娯楽としてとらえないでほしいと思います、あるいは知的な、東洋的な、ロマンチックなナンセンスとしてとらえないでほしいと思います。少なくとも我々の幾人かにとってはこれは真剣な集まりです、献身的に新しい生き方を見つけることに関わっている人間にとってはそうです、何らかの思想的な信念や何らかの権威や何らかの思弁的な結論などに基づかない新しい生き方を見つけようとしている人間にとってはそうです。我々は、我々が先日言っていたように、自由に関心があります。そしてまた我々は指摘していました、我々は環境や諸々の機関や組織、理想、信念そして結論によって影響を受けていると、形作られていると、コントロールされていると。そしてまた、我々はここでの三回の集まりで言っていたように、我々は言語に促されます、そしてこのことは我々にとって理解すべき非常に重要なことです、つまり、言語が、言葉がどのように我々をコントロールするのかを、我々を形作るのかを、我々を促すのかを―我々はそのことを十分に深く検討しました、ごめんなさい、我々は今朝それを再び検討することはありません。
 そしてまた我々は言っていました、何らかとの同一化が起こるとき、家族との同一化だけではなく、何らかの信念や国家や集団との同一化だけではなく、何か特定の対象に自己自身を同一化するとき、それが物理的なものであろうと精神的なものであろうと、何かに執着することは、それらのいずれにも同一化することは、完全な自由を阻害します。そしてこのことは必要です、我々が我々の共にする探求の中で指摘したように、つまり、自由なしには...それは我々の好きなことをすることを意味しません、自分自身の欲望を成就することを意味しません、そうではなく、それは我々を縛っているあらゆるものから自由になることです、嫉妬や恐れ、快楽、信念あるいは特定の集団や観念、グルやイデオロギー、何らかの実践などと自己を同一化することから自由になることです。それが大なり小なり我々のこれまでの三回のトークで我々がここに集まって話していたことです。
 私は今朝我々は我々が話していたことの一部を検討すべきだと思います。ほとんどの我々は理性を使うことを恐れます、非常に明瞭に考えることを、客観的に考えることを、感情を排除して考えることを恐れます、ある特定の中心をもたずに、それが外であろうと内であろうと、そのような中心をもたずに考えることを恐れます。そして明瞭に考えることは、あなたが考えるときあなたの中にいかなる中心もないことを意味します。私は我々がこの問題に相当に深く踏み込んで行くべきだと思います。
 ほとんどの我々はある特定の流れに沿って考えます、つまり、もし我々が何かを専門とするなら、我々はそのような回路に沿って考えます、もしあなたが何らかの宗教や何らかの思想的な構造に献身的なら、それもまたあなたの考え方はそれによって条件づけられます。そうして我々は理性的に考える能力を失い始めます。理性はある種の懐疑する、疑う能力を意味します、何かを受け入れることではありません、心理学者たちのそれや、教授たちのそれや、あるいはいろいろな神聖な書物のそれを受け入れることではありません―神聖な書物などありません、印刷された書物があるだけです、他の様々な書物のように、しかし我々はそれらに重要性を与えます、なぜなら、それらが古かったりするからです、人々が言うからです、それらは聖者あるいは何らかの教師によって語られているからですと、そのようにして我々は印刷された言葉に途轍もない重要性を与えます、それは何らかの言葉に突き動かされることです。そのように言葉が我々を突き動かすところでは、我々は正しく、正気に、理性的に考えられません。あるいは、もしあなたが何らかの信念や何らかのイデオロギーに献身的なら、我々は恐らく論理的に考えられません、なぜなら、そうすると、もしあなたが何かに献身的なら、あるいは何かと同一化しているなら、あなたはその周りをぐるぐる回っているからです、その何らかのイデオロギーや信念の周りをぐるぐる回っているからです。あなたは全体的に、完全に、深く考えません。そのように、理性は、我々は考えました、知的な何かであると、そして知的なものを何もかも我々は投げ捨てます―それが最新の流行です! ところが我々にはこの理性的に考える能力が必要です、そしてそれは疑うこと、懐疑すること、あらゆる形の権威からの自由であると私は言いました、話し手のそれを含めてです、特にそうです、なぜなら話し手はそれらのことについてかなり熱くなるからです、従って、あなたはそれに影響を受けるかもしれないからです。ですから、そうならないでください。自分自身で明瞭に考えてください、そして明瞭に考えるためには、あなたはいかなる動機も持ってはいけません、あるいは何らかの目標や方向性を抱いてはいけません。もしあなたが何らかの動機を持つなら、それがあなたの考え方をコントロールします、もしあなたが何らかの目標や目的や方向性を抱くなら、それがあなたの考え方をコントロールします。あなたは論理的に、合理的にそれらに沿って考えるかもしれませんが、それらは条件づけられた考え方であり、狭められた考え方です。違いますか? それははっきりしています。
 そのように我々が先日言ったように、話し手はここにいません。我々は自分自身を見ています、我々の活動、我々の信念、我々の恐れや快楽そして生の全問題を鏡の中に見ています。その鏡は客観的です、それは...ではありません、もしあなたの顔がはっきり見えるなら、現にある通りに見えるなら、それは厳密に映しています、もしそれが良い鏡なら、あなたの顔を厳密に映します。同様に、我々は一緒に探求しています、一緒に検討しています―我々がこれまでのトークで行ってきたように―我々人間の日常生活の問題を一緒に検討しています。なぜなら、もしそれらが非常にはっきりしていないなら、もしそれが深く確立されていないなら、我々はそれ以上先へ進めないからです。それは砂の上に家を建てるようなものです。
 そのように、我々が言ったように、我々は自分自身に語っています。我々は自分自身に問うています、我々は論理的に、理性的に考えているのかどうかを、従って正気で考えているのかどうかを問うています、あるいは我々の考え方は幻想的であるのかどうかを、何らかの信念に基づいているのかどうかを、何らかの観念や理想あるいは何らかの過去の経験に基づいているのかどうかを問うています。もしそうなら、あなたは新しい何ものも発見できません。
 そしてまた我々は先日言っていました、我々の全ての活動は思考に基づいていると―あなたが驚くべき建造物を建てようと、技術的な途方もない進歩を遂げようと―そしてあなた方のお互いの関係性の中で考えることが、あらゆる行為が思考に基づいていると。そして我々は言いました、思考はいつも、あらゆる条件の下で、限られていると。我々はそのことを非常に注意深く検討しました、なぜそれが限られているのかを...なぜなら、思考は知識の産物であるからと、そしてそれは過去であるからと...そのように、思考は時間に縛られているからと。宜しいですか? 我々は通常の、日常的な英語を使っています。これは特殊な言い回しではありません。そのように思考は時間に縛られています、時間は過去です、そして思考は知識の産物であり応答です、頭脳の中に蓄えられている記憶の産物であり応答です。これは明らかなことです。もしあなたが自分自身で考えるなら、自分自身で観察するなら、それは非常に明確になります。我々は頭脳の専門家ではありません。しかし我々は見て取れます、頭脳は途轍もなく古い装置であることを、それは非常に非常に古く、危険や快楽や恐れなどを記録することによって条件づけられていることを。そのように思考は時間の活動です、そして思考は“はかること”です、つまり、“私はより良くなるでしょう。私は思います、私はこれですが、私は明日には他の何かに変わる”と―これら全ては“はかること”です。より多く、より少なく、深い高い、水平的垂直的、これらは全て“はかる”活動です。違いますか? “はかること”は比較することです。ほとんどの我々は自分自身を他の誰かと比べています、もっと偉大な何かと、下位の人たちではなく、上位の人たちと、もっと知的な人たちなどと比べています。そのように思考はいかなる条件の下でも限られています、従って思考は決して自由ではありません、思考は“はかるとき”に起こる何らかの活動です。
 そして我々は先日このように我々自身に問いかけました、つまり、我々の全ての行動が“はかること”に基づいていると、過去、現在そして未来に基づいていて、従って限られていると、限られているどのような行動も大いなる悲しみや大いなる争い、困苦、不安、恐れなどをきっともたらすはずであると。そして我々は自分自身に問いかけました、思考に基づかない行為があるのかと。恐らくあなた方の誰もこのような問いを発したことはありません。幾人かはそのようなことを何気なく問うたことがあるかもしれません、つまり、あなたが自分自身で感じるとき、思考が何らかの問題、何らかの恐れをもたらしたと、そうすると、あなたそのことを問い始めます。しかしあなたはそのことに非常に深く踏み込みません。あなたは言います、“なるほど、はかることとしての思考が、時間としての思考が、何かを行動するときに、それが働かない何らかの活動が、何らかの精神の状態があるのか”と―違いますか? 我々はそのことを非常に注意深く検討しました。我々は言いました、記憶に基づかない、知識に基づかない、何らかの希望的観測の産物ではない行動があると、しかし人が思考の全活動の性質と構造を理解するとき、知的にではなく、事実として理解するとき、思考にはその領分があると理解するとき―あなたが自分の家に帰りたいとき、あなたが車を運転したいとき、あなたが技術的な仕事に従事しているとき、そこでは思考は必要です...しかし人間関係の中で思考は必要ですか? 私の質問が分かりますか?  我々は今このことを問おうとしています、つまり、思考は我々のお互いの関係性の中で、男や女など親密であろうとなかろうと、そのような関係性の中で思考はどのような位置を占めるのかと、それとも思考には何の居場所もないのかと。我々はこのことを一緒に検討して明らかにしようとしています、思弁的にではなく、事実として、現実の日常生活の中で。
 そこで我々は関係性を検討していきます、他の人と関係することです。関係性は何かと同一化する活動ですか―お分かりですか? 私はこれらの問いをあなたに代わって発しています。あなたは自分自身で答える必要があります。あなたは誰かと関係しています、誰一人関係性を欠いて存在できません。あなたの妻との関係性、あなたの女友達との関係性、あなたの男友達との関係性、それがどのような関係性であれ、それは思考に基づいていますか? あるいは、あなたは言います、“いいえ、それは思考に基づいていません、それは愛に基づいています”と。それはこの上なく欺瞞的な言い方です、なぜなら、その骨抜きにされた“愛”という言葉で我々は逃げるからです。我々は決して事実と向き合いません。事実は我々のお互いの関係性の中で、親密であろうと他の何かであろうと、思考がこの関係性をもたらしているのかどうかです。もしそれが思考でないなら、それは諸々の感覚ですか? 性的感覚、感じ方、一緒にいるという感覚、同伴感覚等々ですが、それらは全て思考に基づいています。諸々の感覚は思考の装置になります。思考はそうすると諸々の感覚と同一化します。違いますか?
 どうか眠らないでください、瞑想しないでください。あなたはその言葉が意味することを知りません、我々はそこに踏み込んで行きます。あなたは探求しています、検討しています、このことの答えを見つけるために探索しています。あなたは何というか夢うつつにはなれません。なぜなら、我々の生は全て関係性に基づいているからです、その関係性が非常に近いものであろうと非常に遠いものであろうと。そしてまた私はお願いしても宜しいですか―私はそれを禁じているのではありません、私はただあなたにお願いしているだけです―もしあなたがメモを取るなら、あなたは言われていることに気をつけていることはできません。それは明らかです。大事なことは、あなたが耳を傾けることです、熱心に、熱気をもって、あなたが明らかにすることです、あなたが耳を傾けることです。そうすると、もしあなたが明らかにしたいなら、グルは不要です、システムは不要です、あなたは明らかにするためにそれら全てを投げ捨てる必要があります。それは、あなたの関係性が何に基づいているのかをあなたが明らかにしなければならないことを意味します。もしあなたの関係性が思考に基づいているなら、それが実際に起こっていることですが、もしあなたがそれを深く検討するなら、そうすると、思考は限られているので、あなたの他の人との関係性は限られているに違いありません。それゆえに二つの限られている関係性は争いを起こします。あなたは我々の全ての関係性の中で我々が互いに争っているのを知りませんか―知りません? 妻、夫、男と女などです。
 従って、関係性とは何かを明らかにするためには、我々はそれが実際にどうであるのかを検討するだけではなく―それは思考に基づいています、争いや口論、嫉妬、恐れ、支配意識、所有意識、何かとの一体化などそれら全てに基づいています―我々はそのようなことを明らかにするだけではなく、それら全てに気づくだけではなく、人は検討しなければなりません、つまり、関係性の中でそれら全てから自由になることができるのかと。私の質問が分かりますか? 宜しいですか? どうか、私は独り言を言っているのではありません。我々は一緒になっています、我々は本気です―一緒です。それはあなたの生です。我々は一緒に明らかにしようと努めています―いいえ、努めているのではありません―我々は明らかにしています、努めているということではありません。それはもう一つの怠惰な言葉です。“私はベストを尽くそうと思います”―それは何ものも意味しません!(笑) しかし我々は思考に基づかない、記憶である思考に基づかない何らかの関係性があるのかどうかを明らかにしなければなりません。あなたは私を傷つけました、私はそれを覚えています。あるいはあなたは私に快楽をもたらしました、性的にか他の何かで私に快楽をもたらしました、私はそれを覚えています。そしてまたあなたは私を傷つけました、あなたは私を褒めました、あなたは私に慰安を与えてくれました、それら全てが記憶として頭脳に蓄積されています、そしてそのような記憶から思考が生まれます、そして私は言います、私はあなたに関係していると。これが普通の日常生活です。
 そして我々は問うています―むしろあなたが問うています、つまり、何らかの生き方があるのかどうかを、そこでは思考が...思考にはその領分があります、当然のごとく、関係性の中にさえその領分があります...しかし実際の関係性の中で、思考が全く存在しない関係性があるのかどうかをあなたは問うています。それが我々の明らかにしようとしていることです。お分かりですか? 私は我々が問題をお互いにはっきりさせていることを願います。つまり、人はほとんどの場合がそうであるように何がしか関係しています、そしてそれは苦痛や不安をもたらす関係性であったり、その人と自己を同一化する関係性であったり、口論の起きる、いらいらさせる、嫉妬や腹立たしさを覚える関係性であったりします―お分かりですか? それらは日常の、共通の、繰り返される事実です。もし人がそのようなことに非常に非常にはっきりと気づくなら、それから逃げないなら、そうすると我々は次のように問うことができます、つまり、人との関係性で思考に基づかない、記憶に基づかない関係性があるのかと。宜しいですか? あなたも問うていますか? 何となくではなくです。あなたは汗をかいて取り組んでいます。その質問に答えるためには、あなたはなぜ頭脳が記録するのかを検討しなければなりません。つまり、あなたは何かをあなたの男友達あるいは女友達、夫や妻に言いました、あなたはいらだって何か酷い言葉を使いました、あるいは、あなた達はお互いが傷つかない優しい言葉を使いました―それら全ての言葉が頭脳に記録されます。お分かりですか? それが頭脳のそれ自身を守るために記録するプロセスです、なぜなら、頭脳は完全な安全性の中でのみ機能できるからです。それが神経症的になるのは、それが不安定なときだけです、違いますか、あるいは、あなたは不安から、誰かを、どこかのグルや聖職者を、あるいはどこかの心理学者を見つけて、その人をあなたの権威として受け入れ、そして頭脳が言うときです、“そうです、それで全く安心です”と―お分かりですか?
 そこで我々は問うています―どうか、このことに耳を傾けてください―それは可能かと、あなたの人との関係の中で、人の日常の関係性の活動の中で、侮辱もへつらいも頭脳に記録しないことは可能かと。全く頭脳に記録しないことです。もしあなたが頭脳に記録しないなら、あなたの関係性は全く異なります。違いますか? それではそれは可能ですか? それは驚くべき理論に、途方もない考え方に聞こえます、“誓います、もし人がこのように生きることができるなら、それは非常にシンプルな生き方になるでしょう”と言うように聞こえます。宜しいですか、どうか言われていることを何らかの観念に、何らかの夢を見るような、希望的な、楽しい理論にしないでください。我々は実際に明らかにしようとしています、頭脳に記録しないことは可能かどうかを、性的な記憶などを、それは人を更に性的にします、セックスに関するそれらの写真などその他の全ての類が出回っています、そしてそれが記憶されます、頭脳に蓄えらえます、映画や写真や絵で刺激されます、世界中に拡大している全西洋世界によってこのような記憶が助長されます。あなたは人間として自分自身でなぜ何らかの傷や何らかの心地よい出来事が頭脳に記録されるのかを明らかにできますか? そのような頭脳の記録から思考が始まります―お分かりですか? そのようなことは可能ですか? それは、“もし”ではなく、気をつけている“とき”のみ、関係性の中で同一化とは無縁な“とき”のみ可能です。私はこのことを明瞭にしているでしょうか?  人は自分の妻を、あるいは自分の女友達を、あるいは自分の夫を何とも思わなくなっています。違いますか? 違います? あなたはそのことに慣れっこになっています、それはあなたの一部です、そしてあなたはとても沢山のことに慣れっこになっています、そのようにして、あなたは更にこれらのことに付け加えます。そこで、気をつけていることは、それはあなたがそのような女性やそのような男性の精神と自己を同一化しないときのみ可能です。宜しいですか? あなたはこのようにできますか? 他の何かと自己を同一化させないことです、従って自由に気をつけています。気をつけていて、それから自由になって、何ものにも同一化しないのではありません。そうではなく、何ものにも同一化しないことが先にあって、それから気をつけているようになります。分かりますか?
 それでは、あなたは、人は、人間として、自己を何かと同一化しないことができますか? 他の人だけではなく、諸々の観念と、何らかの集団と、何らかのセクトと、何らかのグルと、それら全ての類と同一化しないことができますか、それはあなたが自由であることを意味します。そのような自由から気をつけているようになります。人は、もし私が自己をあなたと同一化したなら、どうして気をつけていられますか? あなたはとても愛情豊かで、とても親切かもしれません、私は孤独なので私はあなたの優しさを求めるかもしれません、私は必死です、そこで私は同一化します、あなたは私を励まします、あなたは言います、“それは何でもないことです、あなたは明日にはそれを乗り越えるでしょう、元気な老人よ、それを続けなさい”と―あなたは私を慰めます、あなたは私とセックスします、そうすると私は本能的にあなたと同一化します。あなたが誰かと同一化するや否や、あなたは何らかの分離を引き起こします。違いますか? それは明らかなことです。そのように何らかの分離が生じると何らかの争いが生まれるに違いありません。違いますか? 何ともまあ、今朝は列車が沢山通ります! それでは、あなたはここに今座っていて、明日ではなく、家に帰ってからではなく、実際に今、あなたが彼女や彼と同一化しているかどうかを明らかにできますか? そしてその同一化を広げて―諸々の観念や信念、教条あるいはイエスやブッダやあれやこれと同一化しているかどうかを、あるいは思想的に何かと同一化しているかどうかを、何々人として国家に同一化しているかどうかを明らかにできますか? 最も近いところから始めて、それを広げてください―お分かりですか? 我々は外に広げたところから始めがちですが、近くから始めてください。
 そのように、あなたはあなたが誰かと同一化しているかどうかを明らかにできますか? あなたが“私の彼女”あるいは“私の彼氏”という言葉を使うや否や、あなたは囚われています。そのように、“私の妻”、“私の彼女”、“私の夫”―それらの言葉があなたを突き動かします、なぜなら、それらの言葉は情動的な意味で爆発的だからです。そのようにあなたは言葉に突き動かされています、一方、もしあなたが同一化から解き放たれているなら、従って“私の妻、私の夫、私の彼女や彼氏”という情動的な内容から解き放たれているなら、そうするとあなたは言葉を正常に、非情動的に、健全に使うことができます。あなたはこれらのことを理解するのでしょうか!
 それでは、人は同一化しないでいられますか? なぜあなたは同一化するのですか? 私の質問が分かりますか? なぜです? それは何かと同一化することによってあなたは自分自身から逃げているのですか? どうか、そこへ踏み込んでください。あなたは逃げているのですか? あるいは、あなたが孤独なので、あるいは、あなたが何ものでもないことを恐れるので、あなたは誰かと自己を同一化するのかもしれません。お分かりですか? 完全に空虚であること―心理的に空虚であること、生物学的な意味ではありません、食べもののことではありません、そうではありません。そのようなことがあなたのこの問いを決して発してこなかった理由ですか、そしてもしあなたがこの問いを発すると、あなたは実際のあなたとしての自分自身に向き合うのを恐れるからですか? 従って、誰かと同一化することが現実のあなたからの逃亡の手段になります。そこであなたは問います、あなたは何者なのかと。もちろん、あなたはあなたの名前であり、あなたの姿であり、その身体であり、その有機体であり、その顔ですが、それは生物的あるいは物理的な性質です。しかしあなたは何ものですか? あなたは思考の全構造と活動の産物ではありませんか? “私はそれよりも上位の存在です”と言わないでください―もしあなたがそのように言うなら、それは思考の働きの一部です。あるいは、もしあなたが、“私には内に神聖なものがあります、ただ沢山のろくでもないものが私を覆っているだけですと言うなら、それもまた思考の働きです。そうするとあなたは、あなたの顔を別にして、縮れ毛、黒褐色、黒色あるいは紫色、それが何であろうと、それを別にして、自分自身から言葉を剥いで見ると...あなたは言葉の産物ではありませんか? “私はイギリス人です”―あるいはフランス人です、“私はロシア人です”、“私はカトリック教徒です”、“私はこのグルに従います”―そのようにあなたは思考の産物ではありませんか? そして我々は言いました、思考は限られていると。そうすると、現実のあなたは非常に限られています。そのような限られた当のものが言います、“私はこれです、私はそれです、私は何百万ドルも持っています、あるいは、私はとても良い生活をしています、あるいは、私は惨めな生活をしています、あるいは、私はこれやあれです”―しかしそれは依然として思考の狭い限られた領域の中です。ヒンズー教徒は、古代のヒンズー教徒は非常に良いものを発明しました。彼らはそれをアートマン、高位の自己、至高のものと呼びました。そしてそのような至高のものは依然として思考から生まれています。しかし人々はとても騙されやすくて、とても非理性的であり、幻想や作り事の中を生きるのを好みます、人々はそれら全てを受け入れます。
 そこで我々は言います、あなたがあなた自身からあなたの結論やあなたの言葉やあなたの経験を剥ぎ取ると、あなたとは何者ですかと。あなたは何ものでもありません。あなたは空虚です。そこで、意識的にも無意識的にも、あなたが何ものでもないと感じると、あなたはそれを怖がります、そうしてあなたは何かと同一化し始めます。そうしてあなたはその空虚を埋めます、少なくともあなたはあなたがその空虚を沢山の観念で、沢山の関係性で、沢山の知識などで埋められると考えます。違いますか?
 それでは、ちょっと待ってください、つまり、あなたは、思考は、精神はその空虚を観察して、それから立ち去らないことができますか? あなたは私の質問が分かりますか? それは...我々はここで何かを理解しなければなりません。あなたは疲れていますか? もしそうなら、それは構いません。我々はここで他の何かに踏み込んで行かなければなりません。つまり、ほとんどの我々は伝統や条件づけによって行動的なことに、何かをすることに慣れています。違いますか? そのように、我々はいわゆる肯定的な行動に慣れています。肯定的行動ではないものは何でも否定的行動と称されます。違いますか? あなたはこのことに付いてきていますか? 我々の頭脳は、我々の精神は、我々の習慣はこのような肯定的行動―何かをすること―に応じて働きます、つまり、私は恐れます、だから私はそれをコントロールしなければなりません、あるいは、私は貪欲です、だから私はそれを満たすか、それをコントロールします。そのように、ほとんどの我々は何かを行うように訓練されています、それが肯定的と称されます。そしてその肯定的行動の中にそれについて何もしない否定的行動もあります、寝てしまったり、あるいはそれを隠してしまったり、それから逃げ去ってしまったりすることです。しかし別の行為があります、それは肯定的なこととは何の関係もありません―あなたはこのことが分かるでしょうか―それは全く何も行わないことです。お分かりですか? 一方は何かを行うことです、つまり、私は怠惰です、私は起きなければならない、自分自身を奮い立たせます。私はヨーガをしなければならない、私は今朝はしたくないけど私はそれをしなければならない―私はよくやりました。あなたは“ヨーガ”という言葉を知っています―私は今それに立ち入るつもりはありません、ごめんなさい、我々は他のときにそれを検討します。それは人を食い物にする、金のなる木です、その言葉がです。
 宜しいでしょう。そのように、我々は訓練されています、我々の習慣、我々の伝統、我々の条件づけは、我々が感じることについて何かを行うことです。そしてそのような肯定的な行動の中に否定的な行動があります、それについて何もしないことです、ただそれを放っておくだけであり、それから逃げることです。そこで、何らかの行為があります、我々はそれを示唆しています、それを検討しています、どうかそれを受け入れないでください、我々は言っています、肯定的なものとは無関係な他の種類の行為があると、それは不動な何かです。我々はそこへ間もなく踏み込んで行きます。お分かりですか? 不動な何かは行動の対極にあるのではありません。そのような行動は非常に限られています、なぜなら、それは思考に基づいているからです。一方、不動な何かは、対極関係とは無縁な、全く異なる何かです、我々はそこへ間もなく踏み込んで行きます。
 そこで我々の問いかけは今こうです、つまり、人は聴きました、もしあなたがそれに気をつけていたなら、人は聴きました、他の何かと同一化することは何らかの分離をもたらすと、なぜなら、そのような他の何かとの同一化は、あなた自身の空虚に、あなた自身の孤独に、自分自身から逃げたいというあなた自身の願望に基づいているからと、しかし自分自身から、あなたの孤独から逃げることはいつもそこにあると。お分かりですか? それはいつもそこにあります、あなたは自己を何かと同一化するかもしれませんが、それはそこにあります。従って、そのようなことは何らかの分離を生み出します―お分かりですか? それゆえに喧嘩が起こるなどその他の全てが生じます、離婚であり、関係性の中の絶え間ない戦いです。それではあなたはこのような同一化するプロセスとその原因をいかなる肯定的な行動とも無縁に観察できますか? それについて何かを行うのではなくです。あなたは私の言っていることが分かりましたか? 私はそこへ踏み込んで行きます、もし宜しければ。
 今何時ですか?
質問者 12時6...
クリシュナムルティ おーっ、沢山時間があります。私はこのことに踏み込んで行きます。
 あなたは気づきます、もしあなたがそのことに非常に注意深く耳を傾けていたなら、あなたが何かと同一化していることを、それは実際の事実です。そして実際の事実は、あなたが怯えているので、あなたが孤独なので、あなたが空しいので、あなたが不安なので、あなたが何かと同一化していることです、それゆえにあなたは同一化します。それではあなたはそれを何の行動も起こすことなく観察できますか? ただそれを観察することです、あなたが山々の荘厳さを、水の流れを観察するように―ただ観察することです。そうすると、もしあなたがそのように観察するなら、それは不動の何かです、そうするとあなたが観察しているものが根本的な変化を遂げます。我々がそれについて何か肯定的な行動を起こしているときにのみ、我々は分離する何かとして行動しています、従って何らかの争いが起こります。あなたはこれらのことが分かるでしょうか。宜しいですか?
 それでは他のことを検討しましょう、つまり、ほとんどの我々は、恐らく我々の全てが多少なりとも...我々は怯えています。我々の生はとても不確実です、特に今はそうです。生活の不安定さ、戦争の不確実さ、このような世界がもたらす、二大超大国がもたらすプレッシャーの不安定さ、そのために起ころうとしている全てのこと等々、政治的に我々は不安です。それは我々が怯えていることを意味します。あなたは職を失うかもしれません。生物学的にも生理学的にも人は病気になるかもしれません―再び恐れが生じます。そして心理的に、内面的に、孤独の恐れがあります、成功しない恐れがあります、愛が何を意味しようと愛されない恐れがあります、暗闇の恐怖があります―宜しいですね、恐れです、とても沢山の姿かたちを取る恐れです。違いますか? もしあなたが恐れないなら―おお!―グルはいません、権威は存在しません、探求しません、あなたは驚くべき人間です。
 そのように、我々は明らかにしようとしています、一緒に検討しています、私一人ではありません、恐れを全く抱かないことは可能かどうか、心理的にも物理的にも可能かどうかを明らかにしようとしています。あなたはこのことに興味がありますか? 奮い立たないでください、私は奮い立たせようとしているのではありません。(笑) なぜなら、恐怖の下で生きることはこの上なくぞっとすることだからです、それは闇の中を生きていることだからです、そのような...中を生きていることだからです、それは人を萎縮させます、孤立した感じをもたらします、あなたはこのことを解決できません、従ってあなた引き籠ります。そしてそのような引き籠りから、恐れから、あらゆる種類の神経症的な行動、不健康なことが心身ともに引き起こされます。違いますか? そこであなたは、もしあなたが本当に真剣なら、それを非常に深く検討しなければなりません、あなたは恐れが消滅しうるのかどうかを自分自身で明らかにしなければなりません。
 聞いても宜しいですか、あなたはあなたの恐怖心に気づいていますか? これは集団療法ではありません―お分かりですか?―一人ひとりが問うています、集団で問うているのではありません、それは全く意味のないことです。私はあなたに問うています、あなたはあなたの恐怖心に気づいていますかと。もしあなたが気づいているなら、あなたはその結末が分かりますか? それから逃げ去ることです、それを合理化することです、それを抑圧することです、あるいはそれを避けることです、そうすると、そのようなことによって何らかとの同一化がますます強くなるなどのことが起こります。それでは恐怖心のルーツとは何ですか? お分かりですか? 私は何かについて恐れる、ということではありません、あるいは、何かのせいで恐れる、ということではありません、あるいは、あなたが何かをするかもしれないのを私は恐れる、ということではありません、それらとは別に、その正にルーツのことです。あなたはそのルーツを明らかにしたいと思いますか、それとも、あなたは何らかの答えを待っているのですか? 私はそれに答えることができます。しかしそうすると何が起こりますか? あなたは言います、“はい、そういうことです”、あなたはそれを受け入れて、それが何らかの観念になり、あなたは事実から離れ去ってしまいます。ですから、あなたはこの問いを自分自身で問う必要があります。このあらゆる途轍もない恐怖心のルーツとは何ですか、我々の関係性の中の、つまり、我々の活動の中の、我々の仕事上の、我々の将来の生の中にあるこの恐怖心のルーツとは何ですか―お分かりですか、それら全ての類の中の恐怖心です。あなたはそれを―どうかそれを問うてください―そのルーツを余すことなく断ち切るために問うているのですか、それとも、あなたは知的に問うているのですか? お分かりですか? あなたは分かるのでしょうか。宜しいですか、私は私の言う意味を説明します。
 私はなぜ私が恐れるのかを明らかにしたいと思います。私はその様々な理由を明らかにできます、それは極めて単純なことです。私は恐れます、なぜなら、私が私のすべきではないことをしたからです、そしてあなたがそれを見つけるかもしれません、従って私は怯えます。あるいは、私は私が職を失うかもしれないのを恐れます、私はもっと良い仕事にありつきたいと思う等々です。あるいは、私は私の妻にとても執着しているので、私は彼女がいつか私から去ってしまうかもしれないと感じて、私は怯えます―お分かりですか? それら全ての恐怖心です。私は実際に恐怖心に触れていますか、それとも、私は恐れるという観念に触れているのですか? お分かりですか? どちらですか? 恐れるという観念ですか、それとも現実の恐れですか? 誰か答えてください。どうか、マダム、後生だから、ノートを取らないでください! もしあなたがノートを取るなら、あなたは耳を傾けることができません。それはあなたの問題です。今重要なのは書き留めることではなく、明らかにすることです。
 宜しいですか、私は探求できます、その原因を分析できます。宜しいですか、その原因とその結末です。私はそれを分析できます。しかし分析は問題を解決しません。あなたはそのことを知っているに違いありません。なぜなら分析者は分析されているものと自分は異なっていると考えるからです。違いますか? あなたはこのことを以前に聞いたことがあるかもしれませんが、このことにうんざりしないでください、あるいは、あなたは笑って言います、“はい、彼は古い話に戻っています”―しかしあなたはこのことを理解する必要があります。もしあなたがそれを理解するなら、もしあなたがその真理を見て取るなら、あなたは何かを行います。あなたは分析していなくて観察しています。分析は観察と全く異なります。違いますか? 観察は観察者の不在を意味します、見て取ることを意味します。一方、もしあなたがその原因を分析するなら、その“なぜ”を、その理由を分析して分析し続けるなら、そこには幾つかのことが意味されています、つまり、分析者は分析されているものと異なると考える分析者がいるということです、そしてそれは時間を含むということを意味します、それは分析して分析して分析するという終わりのないプロセスです、そしてあなたの命が尽きるときにもあなたは依然として分析しています、根本的な変質をもたらすことなく分析しています。一方、もしあなたが観察するなら...ただ観察することです、つまり、いかなる観察者も脱落させて、ただ見ることです、それは否定的な行為です。肯定的な行動は見て、分析して、それについて何かを行うことです。一方、否定的な行為は―それは肯定的な行動とは全く異なります―観察することです。違いますか? そうすると、そのような観察は観察されているものの正体を露わにするだけではなく―それはあなたに観察されているものの素性を明かします―そのような観察それ自身が観察されているものの中に何らかの変質をもたらします。違いますか? このことを理解してください。いわゆる科学者たちでさえも我々が話していることに同意しています、ですから安心してください! つまり、もしあなたが顕微鏡で何らかの細胞を見守るとして、もしあなたが何らかの結論を抱いてそうするなら、さらに何かの目的のために、金儲けのために、あるいはそれが何であろうと、そのためにそれを使いたいと思ってそうするなら、あなたはその細胞自身が何らかの変化を遂げるのが分かりません。あなたはこのことが分かりますか? そのように、いかなる思考の働きとも無縁に観察することです、それを変えようとするいかなる働きかけとも無縁に、それを超えていこうとするいかなる働きかけとも無縁に、ただ見守ることです。あなたがそのように間近に見守るとき、いかなる方向感覚とも、いかなる動機とも無縁に見守るとき、あなたが見守っているそれがそれ自身で何らかの根本的な変化を遂げます。以上です。あなたはそのようにしていますか? 私に同意しないでください。あなたはあなたの恐れをこのように見守れますか? それは何らかの実践を必要としません。何かのために何かを実践するというのが我々の十八番の一つです。もしあなたに興味があるなら、もしあなたが恐れから解放されることに関心があるなら、あなたは観察します。そしてそのような観察は熱気を帯びます。それはただの安易な、知的な観察ではありません。
 それでは、あなたはその恐れを観察できますか、そのルーツを観察できますか、我々はそれをこれから検討します、そのルーツを検討します、いかなる分析とも無縁に観察します。それでは、恐れのルーツとは何ですか? 全ての恐れです。あなたはそれは何だと思いますか? それは時間ですか? 違いますか? 私は病気になるかもしれません。私は職を失うかもしれません。私は見つかるかもしれません―悪いことを私はしました。私は死を恐れます、そしてそれは遠い先のことです。私は私の妻が怒るかもしれないと恐れます―恐らく怒るでしょう。それをただ見てください。私はあなたにそれを受け入れるように求めているのではありません。ただそれを観察してください。始めに、理性的に、論理的に、従って個人的にではなく見てください。恐れは時間の働きではありませんか? 働きというのは時間を意味します、ここからあそこへ、過去から現在へ、現在から未来へ。それら全ては何らかの活動であり、そしてそれは時間と称されます。それでは、時間のそのような働きは思考ではありませんか? 私は私が職を失うかもしれないと思います。私は妻が怒るかもしれないと思う、あるいは、妻は私が他の女性を見ていたのを見つけるかもしれない等々です。そのように、あなたは時間の働きを、思考である時間の働きを、恐れのルーツである時間の働きを観察できますか、それについて何かを行おうとしないでそれを観察できますか? それは顕微鏡を覗いている科学者に似ています、もしその人がそれのそうあるべきことを、あるいは、それのそうかもしれないことを思い描くなら、それはそのままです、なぜなら、その人はそれがそうであるはずであると指示しているからです。一方、もしその人が何ら指図していないなら、もしその人が何の仮説も抱かないで、ただ見ているだけなら、その人が顕微鏡で覗いているその当のものが変わり始めます、動き始めます。お分かりですか?
 あなたはそのようにしていますか? それが意味するのは、つまり、観察が観察者の不在を意味することです、観察者は過去であり、様々な理論や結論、希望、恐れ、方向性などを抱いています。観察者を脱落させて見ることです。それは何らかの規律を必要としません、それは何らかの実践を必要としません、それはそれから何かを得ようとしないでただ見ることです。そうすると、あなたは見て取ります、もしあなたがそのように見るなら、恐れの正にルーツが完全に変化し始めるのを見て取ります。それは、そのルーツが、とても注意深く、気を抜かずに、熱気を込めて観察していると、そのルーツが溶解し始めます、それが否定の行為です。お分かりですか? 何かをつかみましたか? 宜しいですか、これが瞑想の一部です。瞑想は何らかの文句を繰り返し唱えることではありません、早朝20分間足を組んで座ることではありません、20分間...それら全てのナンセンスではありません。どうして精神は、もしそれが恐怖に囚われているなら、何かに執着しているなら、瞑想できますか? 恐れの理解とそれから解放されることは瞑想の一部です、それは日常生活に余すことなく全て関係しています。
                          1978年 7月16日 ザーネン
                                  中野 多一郎 訳