何々人、何々国という災い

“何々人、何々国という災い”

ザーネン・トーク 3

クリシュナムルティ このような素敵な一日になって嬉しい。我々は森の中にいるのが良いでしょう。
 我々は言っていました、そうですね、前回と前々回のトークで、我々はここで言っていました、我々の身体や我々の経験、家、家族、国家、何らかのイデオロギーや信念とのこのような同一化が、自己や“私”や自我の強調をもたらしてきたと。そしてそれがこの観念を培ってきました―私はその“観念”という言葉をその本来の意味で使っています―個人という観念を培ってきました、つまり、我々人間は分離していて、他の人から分離している別々の個人であると。このような個人の強調が多くの災いを生み出してきました。それは家族を破壊してきました―私はあなたがそのことに気づいているかどうか知りません―それは何かを成し遂げる優秀さをもたらしてきました、科学技術の優秀さをもたらしてきました、ある特定の個人にとってはこの上ない努力感をもたらしてきました、個人です、個人の企てです。それに対して全体主義のそのあらゆるイデオロギーがあります。そのように我々にはこのような二つの対極があります。一方には自由―俗に言う自由―があり、他方には自由が全くありません、少数の者たちを除いて。そして人が世界中を観察すると、個人の優秀さが何らかの有益な結果をもたらしてきました、科学技術の世界だけではなく、芸術の世界でも。そして個人は自分が自由であると考えるけれども、人は実際に自由ですか? そしてコインの反対側には全体主義があり、そこでは自由は全くありません、少数者を除いて。
 それでは、このことの真理とは何ですか? 自由がなければならないことは明らかです。我々はその“自由”という言葉で何を意味しているのですか? もう一度はっきりさせましょう、我々はこの問いを自分自身に問うています、話し手が問うているのではありません、あなたが問うています。我々が言ったように、話し手はここにはいません。あなたと私が話し手です。あなたと私―話しているこの人物です―が共にこの問いを検討しています、つまり、一方では、そのあらゆる同一化と共に個人に途轍もない重要性が与えられます、すなわち、国家や家、家族、資本主義や社会主義などそれが何であれ、それとの同一化です、そして他方では、イデオロギー的な社会との同一化です。社会が、少数者に従う社会が、そこでは他の何ものにもまして重要です。そしてこのことを検討するとき、我々は最初に問わなければなりません、もし私に言わせてもらうなら、我々人間が行おうとしていることは何ですか? 我々人間は、どこそこの名だたる紳士淑女ではなく、何の肩書きもない、国籍とは無縁の、他の人々によって我々の喉元につきつけられてきた、或いは我々が他の人々の喉元につきつけてきたあらゆる馬鹿げたこととは無縁の人間として、我々人間はこの世界で何をしようとしているのですか? 我々が探し求めているのは、我々が探しているのは、我々が望んでいるのは何ですか? そしてこのことに含まれる問いかけの一つはこうです、つまり、自由とは何かです。我々は考えます、我々は自由であると、なぜなら、我々は旅行できます、アメリカへ行けます、あなたの好きなところへはどこへも行けるからです、もしあなたがお金を持っていれば、そしてその気になれば。そして他方では、あなたは旅行できません、あなたは国境を越えられません、人々はコントロールされています。
 それでは自由とは何ですか? 恐らくほとんどの我々は、少なくとも真剣で思慮深くて気づく人たちは必ずこの問いを発するに違いありません、つまり、自由とは何かと。自由はあなたの好きなことをすることですか、一個人として。自由は放縦な活動のことですか? つまり、一人ひとりが自分のしたいことをしたいと思うことですか? もし人が神を信じたいなら人は神を信じます。もし人が何かを追い求めたいなら、ドラッグをやりたいなら、セックスやその他の全てを追い求めたいなら、人は自由です、もし人がお金をもっていて、もし人がそのつもりやその他の全てなら、そうしたいなら、人は自由です。そして我々はこの種の活動が自由であると見なしてきました、人が人の好きなことをすることです、人のしたいことをすることです、人が成し遂げたいと思うことをすることです。あるいは自由の中で自己のアイデンティティを見つけようとすることです。あなたはこれら全てを知っています。そうすると、これが自由ですか? それとも、自由は全く異なる何かですか? 我々は自由を何かからの自由であると考えます、貧困からの、あるいは、あなたが結婚した人で、あなたがもう一緒にいたいと思わない人からの自由、そして自由に離婚するなどそれら全てを自由であると考えます。ビジネスの世界で自由にあなたの活動を選ぶこと、あるいは心理的な世界の中で、あるいは自由にあなたの信じたいことを信じること等々です。人は自由に―人は考えます―選んで、カトリック教徒あるいはプロテスタント教徒になると、あるいは何ものも全く信じないと。あなたはこれら全てを知っています。
 それでは、それが自由ですか? どうかこれを自分に問うてください、私にではありません。あなたは鏡と向き合っています、あなた自身を見ています、あなた自身の心理的全構造を探求しています。そして我々の条件づけは我々のしたいと思うことをすることです。そして我々は我々をそうするように促すものが何なのかを決して検討してきませんでした、左へ行くことや右へ行くことや何であれ、それを検討してきませんでした。それでは、国家や家族、夫、女性、これやあれの信仰や教義、儀式、伝統などと同一化している限り、自由はありますか? あなたはこれらのことが分かりますか? あなたはこれらの問いを発しています。私はただあなたの問いかけを代弁しているだけです。我々が再び指摘させていただくと、我々はここでは権威主義者ではありません、話し手に関する限り指摘させていただくと、何の権威意識も優越感もありません。いかなる教条主義も、いかなる信念もここにはありません。そしてもし話し手がひどく強調するとしても、それは何かを主張するアグレッシブな表現ではありません、それは彼の自然な自己です。
 そのように我々は検討しています、その余すことのない意味で自由があるのかどうかを、何かから他の何かへの自由ではなく、あるいは他の何かから他の何かへの自由ではなくです。我々はこの自由という全くの感じを検討しています、もしそのようなものがあるなら。そして精神が、思考が、感覚が、情動がある特定の対象と同一化している限り、何らかの家具と、人間や信念と同一化している限り、自由はありますか? 明らかにありません。あなたが何かと同一化するや否や、あなたは自由を否定しています。もし私が、というのは私は何らかの至高の存在などその他の全ての観念が好きなので、もし私がそれと同一化するなら、それを祈るなら、それを崇拝するなら、自由というものはありますか? そのように我々は発見しています、同一化するプロセスが進行している限り自由はないと。違いますか?
 どうか、言葉は危険です。決して―私に指摘させてもらうなら―言われていることをあなた自身の言葉で解釈しないでください、あなた自身の言い方で、あなた自身の意見によって解釈しないでください、そうではなく、実際に我々が使っている言葉に耳を傾けてください、なぜなら、そうすると我々は直にコミュニケートしているからです。それでは、このように言わせてください、つまり、言語が―それは言葉の使い方です、その意味やその動詞や構文です―ほとんどの我々を駆り立てます。違いますか? あなたがこう言うとき、“私はフランス人です”、その言葉には活力があり、我々をある何らかのパターンの中へ押し込みます。そのように言語が我々を使います、違いますか? 私はあなたがそのことに気づいているのかどうか知りません。あなたが共産主義、社会主義あるいは資本主義あるいはカトリック教徒、プロテスタント教徒、ヒンズー教徒、ユダヤ人などの言葉を使うとき、それらの言葉が正に我々に働きかけて我々をある仕方で考えるように強います。違いますか? そのように言語が我々を駆り立てます、我々を使います。私はあなたがそのことに気づいているのかどうか知りません。そしてもしあなたが言語を使いこなすなら、言語があなたを駆り立てるのではありません、そうするとあなたは言葉を何の情動的な内容とは無縁に使っています。そうすると、確かなコミュニケーションの可能性が生まれます。我々は何かを一緒に理解していますか? どうかこのことを理解してください、というのは我々が何かを検討しようとしているからです、それは私の思うに―私はまだ確かではありません―それはこれらの我々の自由を検討する中から、我々の気づきの中から、つまり、同一化というものが自由を破壊すること、自由に足枷を与えること、自由を制限することに気づく中から現れてくる何かだからです。そしてもしあなたがそのような自由の制限に満足するなら、あなたはその成り行きにも気づかなければなりません、それは何らかの分離であり、それは関係性の継続的な欠如であり、それは努力や戦争、暴力などその他の全てがそれに続くことです。
 そこで我々自身を検討するとき、我々は言語が我々を駆り立てていることにも非常に明確に気づいていなければなりません。我々が“共産主義”という言葉を使うとき、我々はそれから情動的に少し後ずさりすることです。あるいは、もしあなたがアメリカなどの資本主義的世界に社会的な親近感を抱いているなら、それもまた同じことです。そこで人は非常に真剣に気づいていなければなりません...もしあなたが正にこれらのことを検討したいと思うなら―私はあなたにそうしてほしいのです―言語が我々を駆り立てていることに気づいているなら、そうすると我々は言葉を何の情動的な内容とも無縁にシンプルな形でその意味を使いこなすことができます。そうすると、あなたと私は直にコミュニケートしています。違いますか? あなたはこのようにできますか? 明日ではなく、今です。そうすると我々は一緒に進むことができます、緩慢にではなく...躍動して進むことができます。
 そうすると、自由がそれら全てではないなら、つまり、何ものとも絶対に同一化しないときに、教会とも、神々とも、いかなる信仰とも、いかなる彫像とも―お分かりですか?―いかなるものとも同一化しないとき、我々は何ですか、人間として我々は何ですか? 私の質問が分かりますか? 私はそこへ踏み込んで行きます。
 もし我々が何ものにも全く執着していなくて、従っていかなるものの影響下にもなく、いかなる圧力も受けずにいるなら、そうすると存在の全き意味とは何ですか? あなたはこれらのことが分かるでしょうか? お分かりですか? 誰か私の話していることが分かりますか? もしあなたがスペイン人あるいはイタリア人あるいはフランス人ならごめんなさい、あなたは英語で話されていることを理解できません、しかし恐らく今夜あるいは明日にそれはあなたの言語に訳されますので、どうか辛抱してください。
 我々は我々の精神を我々が何であるのかのあらゆる種類の観念で満たしてきました―あなたは気高い、卑しい、我々は神聖である、我々はあれやこれの専門家である―お分かりですか―それらで我々を満たしてきました。そして我々が何であるかをこのように受け入れることは思考の働きの結果です。違いますか? 私はこのことを再び検討しなければならないでしょう。
 もしあなたが観察したなら、我々が何をしようと、行おうと、情動的にも非情動的にも、我々の活動は全て思考に基づいています。宜しいでしょうか、思考は限られています。私はあなたがそのことを受け入れるかどうか知りません、あるいはそれに気づいているのかどうか知りません。なぜそれは限られているのですか? 我々はそれが何でもできると考えています、エベレストに登ります、月へ行きます、深海へ行きます―思考は我々の生の中で最も活動的な、最も重要な、活力のあるものです。我々の教育は全て知識を育成して明瞭に考えることを促すことです―もしあなたにできるなら―そして思考から行動することです。そして思考は技術的な世界を生み出してきただけではなく、それは戦争をも生み出してきました、それは驚くべき外科医学だけではなく思考は人間同士の争いをも作り出してきました。お分かりですか、それらは事実です。思考は迅速な輸送手段を作り出してきました。思考はあらゆる人間関係を破壊してもきました。そして人は、もしあなたが全く真剣なら、この問いに踏み込んで行かなければなりません、つまり、なぜ思考はそれほど差し迫ってくるほど重要になっているのかと。我々が一緒に話しているとき、あなたは考えています。違いますか? あなたは言葉を駆使してついてきています。そのように思考の活動が続いています、つまり、言われていることを理解しようとしています、それは正しいのかそれとも間違っているのかどうかを判断しようとしています、それは日常生活の中でどのような価値があるのか判断しようとしています―あなたはいつも思考装置を駆使して検討しています。そして思考は天国と地獄を作り出してきました、キリスト教世界の天国と地獄だけではなく、実際の天国と地獄も作り出してきました、途轍もない貧困や悲惨、混乱、存在の不確かさです。
 それでは、どのようにして思考はこれらの問題を作り出してきたのでしょうか、そして思考はこれらの問題を解決できると考えます。違いますか? そして全ての政治家が我々人間の問題を思考によって解決しようとしています、狡賢くも、愚かにも、邪にも、不正直にも、しかしそれは依然として思考です。思考はこれらの問題を解決できますか、それらは思考が作り出してきました。違いますか? 私の質問が分かりますか? そこで人は問わなければなりません、考えることの意味とは何かと。あらゆる思考の源は何ですか、あなたや私の思考だけではなく、他の誰かの思考の源は何ですか、思考のルーツは何ですか? もしそのルーツが限られているなら、その結果もまた限られているはずです。違いますか? あなたは思考が途方もないことを行うと考えることはできません、もしそのルーツが限られているなら、その全ての活動は限られているはずです。違いますか? それではそのルーツは何ですか、思考の正に源は何ですか? 明らかにしてください。私はその問いを発しています、私がそれに答えるのを待たないでください。そうなると、あなたは私の言っていることを受け入れます、それは大きな不幸でしょう。しかし一方、もしあなたが本当に熱気をもって、明らかにしようと必死になっているなら、あなたはその本質が何かを、思考の始まりが何かを明らかにするでしょう。私はそれを明らかにします、それを受け入れないでください。
 思考の始まりは頭脳が記憶することです、危険や危険でないこと、快楽や恐れです。違いますか? 原始人あるいは我々がそれから進化した類人猿あるいは我々がそこからやってきた何らかの源の頭脳、非常に非常に古い、言葉で言い表せないほど古い古代のそのような頭脳、それは危険や死、恐怖、安全などを記憶していたはずです。違いますか? そのように、思考の始まりは頭脳に留めるプロセスであり、それは記憶です。違いますか? 我々は途方もない何かを言っているのではありません、それらは事実です。そして記憶されているのは知識です、危険なことの知識であり、快楽の知識であり、その中の恐れの知識です。そしてこのような知識を収集蓄積するプロセス、それは絶え間なく記憶に留めることです、毎日毎日、何世紀にもわたって記憶に留めることです、そしてそれは知識の収集蓄積であり、その知識が頭脳の中に蓄えられていて、そのような知識、それは記憶ですが、そのような記憶から思考が生まれます。宜しいですか?
質問者 くだらん!
クリシュナムルティ ちょっと待ってください。宜しいでしょうか、もしあなたが私に同意していないのなら、それは構いません。同意したり同意しなかったりしないでください。我々は論争しているのではありません―誰が賢くて誰が賢くないかを見せつけているのではありません。そうではなく、我々はただ検討しているだけです、何かを主張しているのではありません。
 そのように、記憶や知識は過去の産物です。違いますか? そのように、過去は限られています、知識は限られています。あなたは更に更に更に手にするかもしれませんが、それはいつも限られています。そしてこのように言ってきた人たちがいます、人は知識を通じてのみ向上できると、更に更に更に向上できると。哲学者たちや思索的知的ロマンチストたちは言います、知識が成長の神髄であると。それは、過去がいつも消えてなくならないということです。過去の、収集蓄積されることによる、進化です。ドングリのように、小さなものが生長して驚くべき巨大なオークの樹になるように、その同じ傾向が、その同じ例がこの収集蓄積的知識に適用されます、増大し、増大し、増大します。我々は決して問うてきませんでした、知識は限られているのかどうか、従って知識が消滅して何かが始まりうるのかどうかを。あなたは私の質問が分かりますか?
 そのように、記憶や知識から生まれる思考は永久にいつも限られています。そして我々の活動は従っていつも限られています―思考に基づいています。違いますか? これは私の議論ではありません。それは私がそれを肯定的に仮定して、そこからスタートする何かではありません。しかし、もしあなたがこのことを自分自身で検討するなら、どこかの教授に従うのではなく、どこかの理論家や心理学者に従うのではなく...もしあなたがそうすると、あなたは二番煎じな人間になります、そして我々は二番煎じです。しかし一方、もしあなたが自分自身を見つめて自分自身に踏み込んで行くなら、外科的に、情動的にではなく、そうするとあなたは明らかにするでしょう、思考が、その正に限界ゆえに、あらゆる問題を生み出してきたことを。違いますか? このことは宜しいですか、我々にとってこのことは宜しいですか、あるいはあなた自身にとって宜しいですか、あなたと私にとってではなく。あらゆる聖典、あらゆる詩、あらゆる文学、あらゆる儀式、神々、イメージ、あらゆるものが思考の産物です。恐ろしい考えです、違いますか、あなたがそれを悟ると。
 そうすると、何かとの同一化が起こるとき、思考がその同一化のプロセスです、従ってその同一化は限られています、そのエネルギーを限られたものにします、そしてそのエネルギーが“個人”として使われます。従って、“個人”はますます限られたものになり、その行動はそのように限られたものになります、それは明らかです。それが起こっていることです。一方にイギリスがあり、他方にヨーロッパやアメリカ、ロシアがあります―人種的に、政治的に、宗教的に、あらゆる点で―それら全てが思考に基づいています。それでは、何らかの行為がありますか―どうか、我々は検討しています―思考に基づかない何らかの行為がありますか? 従って、限られていない、制限を受けない行為です、それが意味するのは、知識に基づかない、記憶や記憶力に基づかない行為があるのかということです。言わないでください、“それは不可能です”と、あるいは“それは可能だ”と―我々は知りません、我々は検討しています、我々は問うています。なぜなら、限られた行動の中には後悔や災い、痛み、不安が生じるからです、あなたが良いことをしたとしても悪いことをしたとしても―それら全ては限られた活動からもたらされます、そしてそれが“個人”と称されます。そして“個人”は、限られているので、“個人”は限りのないものを追い求めます。理論的に人々は主張します、無限のものが存在すると、しかしそのような無限のものを明らかにするためには、それと出会うためには、計り知れないそれと出会うためには、人は思考の非常に非常に深いところへ踏み込んで行かなければなりません。それでは、記憶に留めることのない行為は可能でしょうか? 分かりましたか?
 お分かりですか? あなたが私に何か言います、あなたは酷い言葉を使います、あなたは私の悪口を言います。私は傷つきます。そして世界中のほとんどの人間が傷ついています、物理的なだけではなくもっとずっと心理的に傷ついています。あなたは傷ついています、違いますか? そしてそのような傷から我々はあらゆる種類のことを行ないます―抵抗したり、引き籠ったり、恐れたり、暴力を振るったり、辛辣になったり等々です。このような傷は、もしあなたがそれを非常に注意して検討するなら、イメージを形成する思考の活動です。違いますか? 思考は自分自身について何らかのイメージを作り出しています、あなたは美しい、あなたは知的に素晴らしい、あなたはあれやこれですと。そしてあなたが汚い言葉を使うと、汚い言葉でそのことを指摘すると、そのイメージが傷つきます、つまり、それは思考が―どうかこれらのことを理解してください―そのような思考、それがそれ自身について何らかのイメージを作り出してきました、そのようなイメージが傷つきます。つまり、人は生涯を通じて一つの傷も負わずに生きることができるかということです。そうすると自由があるだけです、そうすると正気でいるだけです。
質問者 ...(聞こえず)
クリシュナムルティ 先ず私に終わりまで言わせてください、あなたには来週あるいはその後にその機会があります、そのとき私と議論できます。これらのトークの中では―あと四つのトークがあります―もし宜しければ、話し手に...我々は一緒に話しましょう。しかしこれらのトークが終了すると、デスカッションや対話の機会があります。そのとき我々はお互いを攻撃し合えます。
 そうすると、傷を記憶に残さないことは可能ですか? 私の質問が分かりますか? なぜなら、我々すべての頭脳は絶えず何かを記録しているからです、そしてあなたが他の人に対して何か汚いことを言うと、それは記録されます、それが傷と称されます。それでは何ものも記録しないということはありえますか? 私の質問が分かりますか? 従って我々はこの問いを検討する必要があります、つまり、なぜ頭脳はあることを記録して他のことを記録するのを避けるのかということです。そしてそれは決して個人的な概念、イメージ、構造、観念を避けません。人は明らかに記録しなければなりません、あなたが車を運転したいとき、何らかの種類の技術をものにしたいとき、あなたは記録しなければなりません。もしあなたが優秀な技術者になりたいのなら、あなたは頭脳に蓄えられる大量の技術的な知識を獲得する必要があります、それは頭脳の記録するプロセスです。違いますか? そのように、記録するプロセスとしての知識は、ある領域では、絶対的に必要です。違いますか? それははっきりしています。
 それでは、なぜ記録する他の形が生じるのでしょうか? 私の質問が分かりますか? 私は自分自身と同一化しています、私のイメージと同一化しています。そのイメージは思考によって作り上げられます、他の人の思考、両親の思考、教育がもたらす思考、あれやこれがもたらす思考です、社会や文化がもたらす思考です。そのようなイメージは思考によって作り上げられてきています、それは頭脳に記録する継続的なプロセスです。それではそれは必要ですか? 私の質問が分かりますか? それはあなたの質問です。なぜ“中心”の周りに、自己である“中心”の周りに、心理的に、内面的に、このように絶え間なく収集蓄積する活動が起こるのでしょうか? 宜しいですか? それは明らかに限られています、それは思考によって育まれてきました、従ってそれは本質的に限られています。私が自分自身の囚われについて考えるとき、つまり、私は幸せでなければならない、私は成功者でなければならない、私はこうでなければならない、私はそうでなければならない―それは全て思考の活動であり、それが絶えず限界や抑圧や締め付けをもたらしていて、それを我々は“個人”と称します。そしてそのような“個人”には様々な活動が付き纏います、当然にも。それらの活動は本質的に災いをなします、なぜならそれらは限られているからです。
 宜しいですか、我々は問うています、我々は論理的であり、そのような結果になること、それが合理的であることを知っていて、我々は問うています、どのような形でも頭脳の記録は、必要な記録を除けば、技術的な知識などを除けば、他のあらゆる形の記録は行動を制限すると、そしてそのような制限された行動から我々のあらゆる悲惨事が生じると。そしてそのような限られた思考が言います、“私は瞑想しようと思う、私は何かを実践しようと思う、私は神を見つけようと思う”と、あるいはあなたが何とでも呼ぶものを。あなたがそれを“善いこと”と言うくらいなら、“酔うこと”という方がまだましです。そのように思考は何らかの出来事や事故の記録です。記録される何もかもが限られている何かであるに違いありません、そして、それが限られているために、その行動は大変な災いを生み出します。そこで我々は問うています、記録しないことは可能かどうかと、ある領域を除いて、全く記録しないことは可能かと。これが本当の瞑想です、お分かりですか? その他の全ては瞑想ではありません。なぜなら、頭脳に記録しないとき、頭脳のあらゆる細胞そのものが変質を遂げているからです。それは古い脳細胞と同じではありません、新しいことが起こっています、なぜなら記録する必要がないからです。お分かりですか?
 つまり、思考は“はかること”です。違いますか? 思考は時間の産物です、それは五百万年、一千万年、何世紀も―あなたが何とでも言いたい時間―収集蓄積された記憶です。それは時間の結果です。違いますか? そのように思考は時間です。時間は限られたものです、それは明らかです。つまり、昨日があって、今日があり、明日があります。しかし思考は言います、まだその更に先があると、しかしそれは依然として時間の中の思考の活動です。違いますか?
 そこで我々は問うています、つまり、全く記録しないことが可能かと、それら日常生活の中で記憶すべきことを除いて。あなたはそれにどう答えますか? お分かりですか? これは途轍もなく重要な問いかけです。それを知的な何やからとして、知的なあれやこれとして―何というか―払い除けないでください。なぜなら、これまで我々はいつも悲しみや悲惨さ、混乱、不確かさや恐れ、後悔などをもたらしている行動の中を生きてきたからです。違いますか? 我々はそのように生きてきました。それが我々の遺伝であって、それは我々の遺伝子の中にあります、それは我々の条件づけです。それでは全く決して記録しないことは可能ですか、従って何ものとも同一化しないことは可能ですか? お分かりですか? 思考が何かと同一化するや否や、家具と同一化するや否や、シャツと、ブラウスと、家と、妻と、夫と、女性と、それが何であろうと、同一化するや否や、それは思考を限界づけます、従ってそのような限界は記録することから生じます。つまり、あなたがカトリック教徒でいる限り、あなたは限界づけられています。あなたが“私はインド人です”と言っている限り、あるいは、私はこれやあれですと言っている限り、あなたは限られています、そしてどのような行動も、愛の行動も、どのような行動も限られています。
 そこで、もしあなたが真剣なら、あなたはこの基本的な問いを発しています、根本的な問いです、それにあなたは答えなければなりません、つまり、全く記録しないことは可能かと。つまり、思考から生まれるのではない行為があるのかということです。私の質問が分かりますか? 我々の全ての行為は思考に基づいています、その全ての結果と共に思考に基づいています。そこで我々は問うています、何らかの行為があるのか、日常生活の中で何らかの生き方があるのか、その中に思考が働かないそれがあるのかと。あなたはこれが非常に真剣なことであると分かります、それはあなたが単に弄んで議論するなどその他の全ての問いではありません、人は明らかにしなければなりません。それはあなたが熱気を込めて、精力、エネルギーを注いで明らかにしなければならないことを意味します。何かを研究する人たち、科学的な研究あるいは技術的な研究をする人たち、その人たちはそれを愛します、それはその人たちの生であり、その人たちの血であり、その人たちの生計です、そのあらゆるものが最優先されます。妻や家族は二の次です。それと同じように我々は問うています、熱気を込めて問うています、それは可能かと。私は可能だと言います、それをあなたに示します。どうかそれを受け入れないでください、なぜなら、あなたはそれが意味することを知らないからです、ですからどのような結論も下さないでください、言われようとしていることをあなたの言い回しで解釈しないでください―そうすると、あなたは訳が分からなくなります! そうすると、あなたはあなたの知っている言葉に振り回されます。従って、あなたは言葉の奴隷になります。しかし我々は単に言葉を使っているにすぎません、それはあなたの結論でも、私の結論でも、あるいは誰かの結論でもありません―それらにまとわりつくいかなる浮かれ騒ぎとも無縁の言葉を使っているにすぎません。そうすると我々はうまく容易にコミュニケートできます。
 何らかの行為があります、思考が全く割り込まない、余すことのない、完全な、ホゥリスティックな、全き行為があります。あなたは私があなたに語るのを待っているのですか? それはむしろ卑しいことです! 私が全てを行います、話し手が全てを行なって、あなたはただ聞いて言います“はい、私はあなたに同意します”と。それに何の意味がありますか? しかし一方、もしあなたが本当に、宜しいですか、必死になって明らかにしようとするなら、不幸な人のように、溺れている人のように―お分かりですか、しがみつく何らかのものを見つけようと必死です、そうするとその人は救われます、助かります。そこではその人はあらゆるエネルギーを働かせます。そしてそれが我々の行っていることです。
 始めに、我々は非常にはっきりと見て取りますか、我々一人ひとりです、我々がどこにいようと、我々の状況がどうであろうと、我々の条件づけがどうであろうと、どれほど我々が神経症的であろうと―我々のほとんどが神経症的です―我々は非常にはっきりと見て取りますか、思考はいかなる条件の下でも限られていると。それを言葉で受け入れるのではなく、実際の事実として、あなたの血肉の中でそれを見て取りますか、否定のしようもなく。そうすると、もしあなたがそのことを見て取るなら、何らかの観念としてではなく、何らかの結論としてではなく、論理的に考えた末にそうであるというのではなく―もしあなたがそのようにするなら、それは依然として思考です...そのように、あなたがこう悟るとき、つまり、思考は完全に、余すことなく、全く限られていて、そのように限られている中でなされるいかなる活動も、それがどのようなタイプの活動であろうと、限られているはずであると、従って人間関係の中に、それは大混乱や悲惨をもたらすと、あなたはそこから問いかけます。お分かりですか? あなたがそれらのことを全て行ったかどうかではありません。あなたはそれら全てを即座に行えます、時間を要しません、年月を要しません。そうすると、あなたは問えます、記憶を脱落させた、記憶力を要しない、過去を全く脱落させた気づきがあるのかと、何らかの観察があるのかと、従ってそのような観察から何らかの行為が生まれることがあるのかと。私の言っていることが分かりますか? あなた方はみな腑に落ちません。分かりました、私はそれをもう一度取り上げます。
 お分かりですか? 我々の行動は記憶に基づいています。イデオロギー的な記憶であろうと、ユートピア的な記憶であろと、あるいは頭脳に何らかの痕跡を残している過去の行動の記憶であろと、そしてそのような全ての活動は継続して人間関係の中で破壊的であるに違いありません。もし私があなたを愛しているなら―なぜならあなたは私にとってこれまで快楽的であったからです、つまり、あなたは私に何かをもたらしてきたからです、性的にも、これやあれでも、そしてそれは記憶です―その快楽と共に、私は言います、“私はあなたを愛しています”と。それでは記憶から生まれるのではない愛がありますか、ギブアンドテイクの結果ではない、感覚ではない愛がありますか? 明らかになければなりません。あるはずです。それともこれが我々の知っている全てですか? このように言ってみましょう。我々が愛と呼ぶこれがこの全てです。そしてその愛が嫉妬や不安、所有欲、執着を生みます、お分かりですか? そしてそれらから大変な悲惨なことが起こります。そうすると、そのような悲惨は愛ですか? 止めてください。“はい”とか“いいえ”とか言わないでください。もしそれが愛ではないなら、そうするとあなたは嫉妬や怒りなどそれら全てを余すことなく捨て去ります、そのように完全に捨て去った後に残るもの、それが愛です。違いますか? それと同じように、もし人が思考の全活動を理解するなら、“はかること”と時間として理解するなら、そして過去から生まれていて、従って、絶えず制限をうけ、限られ、狭められていると理解するなら...もしあなたがそのことを非常にはっきりと見て取るなら、従ってそれを捨て去るなら、あなたは人が閃きと呼ぶものを手にします。私はこのことに非常にゆっくりと踏み込んで行きます。
 閃き、つまり、閃きは、その言葉によって我々が意味するのは、辞書によると、何かの中に何らかの光景が浮かぶこと、話されていることの中の真理に即座に気づくことです。つまり、あなたは私に思考の限界について話しました。あなたは私に話しました。私はあなたに耳を傾けていました、私の全てのエネルギーを注いで耳を傾けていました、なぜなら恐らく新しい生き方があるからです、新しい振る舞い方があるからです、そして私は悟りました、私の行動がいつもそのような悲しみや混乱や悲惨を招いていたことを。そして私はあなたに耳を傾けていました。そしてあなたは私に言います、“あなたは本当に思考が限られているという真理を見て取りましたか”と―その真理であり、その観念ではありません。その真理を見て取ることが閃くことです。分かりましたか? そのような閃きは記憶ではありません、観念ではありません、過去から生じた何かではありません。あなたはその真理を直に見て取ります、そしてそれから行動が生まれます、そしてそれは完全なものです。
 そうするとあなたは、人間として、全ての人間の代表であるあなたは...ですからあなたが世界です。もしあなたがこの真理を見て取るなら、その真理が世界の中で行動します。あなたは行動しません。
 今何時ですか?
質問者 12時です。
クリシュナムルティ そのように、我々は限られた思考の災いを見て取りました、“個人”を生み出してきた思考の災いを見て取りました、そして“非個人”としてのその対極が全体主義や権威などその他の全てであることを見て取りました。我々は同様に見て取りました、思考、頭脳の中に記憶や知識として蓄えられている思考、そのような正に脳細胞が限界づけられてきていることを。後生だから、このことを見て取ってください。もちろん、それは明らかなことです。しかしあなたがこれらに閃くと、その正に脳細胞はもはや限られていません。その脳細胞は余すことなく異なって働きます。このようにしてください、どうかそのようにしてください! 言わないでください、“はい、それはとても素晴らしい”、“それは何て素敵な発言なのか”と―それらは全てロマンチックなナンセンスであり、感情的な理解です。それは実際のこととは何の関係もありません。あなたはその真理を見て取れますか、知識にはその領分があることを、技術的な領分があることを、そしてそれは心理的な他の領域では居場所がないことを、そしてそれは頭脳に記録することです。そのように、もしあなたがその真理を見て取るなら、つまり、何らかの傷のように、頭脳に記録することは狭量な行動、限られた行動を生み、そこから憎悪や暴力やその他の全てが生じると見て取るなら...その真理を見て取ると、あなたは思考の全活動が何であるのかに閃きます。そのように、思考は当然のごとくそれ自身を限界づけて、そこに留まります。あなたは言う必要がないのです、“私は思考を止めなければならない”と―それはとても馬鹿げたことです。あなたが思考を“はかること”として理解すると、“はかる”とは比較することなどそれら全て...おーっ、今はそれを話すときではありません。私は止めなければなりません。それでは、もしこのことがはっきりしているなら、我々は他のことについて日曜日に話します。
                          1978年 7月13日 ザーネン
                                  中野 多一郎 訳