クリシュナムルティ 我々は一昨日話していたことを続けても宜しいですか? 我々がそれを検討する前に、もし宜しければ、私は尋ねたいと思います、心から敬意を払うなどその他の全てに留意して尋ねたいのです、なぜあなたはここにいるのですか、なぜあなたはこれらのトークやディスカッションに来るのですか? 興味本位からですか? 他にさしあたりすることがないからですか、従って一時間ほどここで過ごそうということですか? あるいは、あなたは明らかに相当に骨を折って来ているので、あなたはかなり真剣なはずです。そしてもしあなたが真剣なら、あなたはどのくらい自ら歩を進めようとしているのですか? 物理的な更なる旅ではなく、内面的に、心理的に、いわば心の中で、どのくらい深くあなたは自ら歩を進めようとしているのですか? あなたは非常に深く歩を進めることができます―あなたが進んでそうするなら、深い知的な概念としてではなくです、もしあなたが深い知的な概念を抱くなら、その深さに到達するためには時間を要します。そしてあなたは自分自身であなたがこの時間の全活動を観察できるのかどうかを明らかにするためにかなり真剣かもしれません、それをはかることです、高さや深さ、登ったり下りたり、深さを探求します、そしてそれもまた相当な時間とエネルギーを要します。あるいは全く異なる行動があるかもしれません、それは物理的な拡大を含みません、この国からインドへの醜いあるいは美しいグルを見つけるための旅を含みません、それはむしろ物事を素早く見て取ることです、閃くことです、即座に理解することです、実際の“現実”に直に触れることです。あなたが考える“現実”ではありません、あるいはあなたがそうあってほしいということではありません、そうではなく、実際に起こっていることに余すことなく気づくことです。人がそのように余すことなく全体的に観察すると、それが閃きをもたらします。その閃きからあなたは行動します、従って閃きと行動は間髪を許さず、行動の遅延は生じません。そのように、それが我々の探究しようとしていることです、もし宜しければ、今朝は、もしあなたが進んでそうするなら、そしてもしそれがあなたの発見したいことなら。
そして我々が先日言っていたように、なぜ世界中の人間は自分のことで頭がいっぱいなのか、自分の知的な成長で、自分の身体的な美しさや何やらで頭がいっぱいなのか、なぜ心理的に、内面的に、それほど自分のことで気をもむのか、なぜ何かの理解で頭がいっぱいなのか、自分が正しく瞑想しているかどうか、その正しい姿勢を取っているかどうか、それが行うべき正しいことなのかどうか、人は何をすべきか―この自己についての絶え間なく広がる問いかけや自己のことで頭の中がいっぱいになっていることです。もし人がそのようなことで頭がいっぱいになることの危険を自分自身で発見するなら、このような自己中心的なことで頭の中が占領される実際の心理的な危険だけではなく、物理的な危険も同様に自分自身で発見するなら、恐らく人は“なぜ”という問いかけに疑いもなく容易に踏み込んで行けます。なぜ人間は、我々すべてがそうである人間は...もしあなたがそのことをもっと深く検討するなら、一人ひとりの人間は全ての人間の代表です、それは、私が思うに、理解すべき非常に重要なことです、なぜなら正に世界中の一人ひとりの人間が苦しんでいるからです、不安だからです、不確かだからです、絶望しているからです、何かしら高揚しているからです、混乱しているからです、何かしらに執着しているからです。そのように全ての人間がそうです。そのように、あなたが、あなたが自分自身を非常に注意深く、客観的に、非個人的に見ると、あなたはあなたがその他の人間のようであることが分かるでしょう。そしてそのような発見が、あなたは実際に、本当に、否定しようもなく、あらゆる人間の代表であることの発見が、あなたに途方もない活力や力を感じさせます。これは単なる感傷的な、ロマンチックな概念や知的な考え方ではなく、実際の日常の事実です。
そのように、我々は先日言っていました、このように頭の中が何かで占められることによってエネルギーが制限を受けると。そしてエネルギーが制限されるとき、狭められるとき、何らかの回路に導かれるとき、それはその原初の活力を、エネルギーを失い始めます。そしてこの自己狭窄が、もし人が観察するなら、世界中の多大な悲惨を生み出してきました。一人ひとりが自分のことで頭がいっぱいのとき、その野望で、その成就で、その絶望で、その恐れなどで頭が占められているとき、あなたは他の誰とも関係性を持ちません。あなたは何らかの関係性を持っていると思うかもしれませんが、あなたの全精神が自分自身の進歩、自分の不安、自分自身の問題などで占められているとき、あなたは実際には関係性を持っていません。それは極めて明らかなことです。しかしそれは非常に明らかなことであるけれども、我々はそれについて何も行いません。それどころか、我々はそれに懸命になります、それを発展させます―いわゆる自己の向上です、もっと良くなることです、しかしそれはいつも狭く限られた中のことです。
そのように、それが我々の先日話していたことです。恐らくあなた方の幾人かは今日が初めてです、そこでもし言われていることがあなたにとって今日が最初なら、どうか言わないでください、“おーっ、それは以前から言われていることだ、我々はそれら全てを異なる仕方で以前に聞いたことがある”と、あるいは“彼は他の誰かの言ったことを繰り返している”と、あるいは、あなたにはその言葉が分からないと―我々は通常の英語を使っています、特殊な用語を使っていません、特殊用語の特別な意味を使っているのではありません、そうではなく、我々が話しているのは通常の英語です。そしてもし我々が共に英語を話しているなら、コミュニケーションは容易です、しかし単に言語的なコミュニケーションだけでは十分ではありません。今日は素敵な天気だ、幸運にも、と言えば我々は理解できます、しかし人が深く見ていくとき、広く、賢く、躊躇しながら探求するとき、言葉は十分ではありません。言葉はそれが伝えようとするその当のものではありません、表現は表現されようとしているその当のものではありません。そのように人は言葉の意味に気づくだけではなく、言葉がそれの伝えようとしているその当のものではないことに気づかなければなりません。
そうすると人は非常に非常に深く、ゆっくりと、躊躇しながら、何の結論も抱かずに始めます。違いますか? 一流の弁護士や外科医が何一つ先入観を持ち込まないように。その人は最初にその症例や案件を見て行きます―その症例や案件とは我々のことです、我々がその問題です。そこで我々は何が我々の問題なのかを非常にはっきりさせなければなりません、それを始めに私は問います、我々はどうなのかを。我々はとても注意散漫で、情動的で、感傷的ですので、我々はいつも問題を色づけしています、問題を非常に非常に狭い限られたところから見ています。そうではありませんか? そこで人は非常に熟慮して注意深く見ていく必要があります、なぜ人間はそれほど破壊的に自己に囚われているのかを検討するとき、そこへ踏み込んで行くとき、そしてこのように囚われることから余すことなく完全に自由になることが可能かどうかを見ていくとき、そうする必要があります。自由とは自己の完全な溶解です。そうすると自由が生まれます。我々はそれらのことに踏み込んで行きます。ひゅー! おーっ、暑いですね!(笑)
人はこのような自己中心的な囚われの危険を見て取りますか? そのように囚われることによって、人は国家と、何らかの集団と、何らかの特殊な理想や信念と同一化するかもしれません。それは同じプロセスです。このことが明確であることを願います。私が何らかの集団、何らかの観念、何らかの信念、何らかの結論と同一化するとき、そのような同一化は正に本質的に自己に囚われていることを意味します。違いますか? 人が例えばインターナショナリズムに囚われているとき、あなたは自己に囚われることからあなたが同一化する何かへと移行しています。従ってそのような同一化は依然として自己に囚われていることになります。このことは宜しいですか? 私がキリストあるいはイエスと同一化するとき、あるいはクリシュナあるいは他の何であろうと何かと同一化するとき、私は依然としてそれと同一化するプロセスの中にいるけれども、それは依然として自己に囚われていることです。このことは明瞭でしょうか。 我々は、それが明瞭なら、先へ進めますか?
そのように、この中心的な課題は人が何ものとも同一化せずに健康的に、正気に、調和して存在できるのかどうかです、外面的なだけではなく内面的にもそのように存在できるのかどうかです―私の経験と同一化すること、家族と同一化すること、様々な信念、様々な組織や機関などと同一化することです。それが意味するのは、人がこの世界を何の同一化もせずに生きられるかということです。それは、人が内面的にも外面的にも、いかなる意味でも何ものにも占められることなく、何ものにも同一化しないで調和して生きることができることを意味します。宜しいですか? 問題をはっきりさせてから我々はそれに取り組みましょう。人が自己に囚われるとき、自己の体に、自己の美に、自己の目に囚われるとき―宜しいですか―このように絶え間なく自己に囚われるとき、あなたは実際に全ての関係性を否定します、あなたは誰かと寝るかもしれないけれども、あなたは誰かと手を握り合うかもしれないけれども、“何てあなたは素敵なの”と言うなどその他の全てをあなたは行うけれども、同一化するプロセスは人間を分離します。そしてそこから暴力や戦争、人種的な分断などあらゆることが起こります。違いますか?
そうすると次の問いかけは、あらゆる意味で何の同一化とも無縁にこの世界の中の日常を生きることができるかどうかです。様々な感覚―身体の感覚―との同一化だけではなく、名前との、全ての過去との、遺伝的形質との同一化―お分かりですか?―イギリス人、ドイツ人、あらゆる過去の全歴史との同一化です、それら全てから完全に自由になることです、そしてそれでも日常の活動と調和して生きることです。この問題が今はっきりしていますか?
始めに、話し手はいません、我々が先日指摘したように。あなたは自分自身に語りかけています、あなたは自分自身を見ています。話し手はその鏡かもしれません、しかしその鏡には何の価値もありません。あなたは電話機を使って話しますが、その電話機そのものはほとんど重要ではありません。その電話機であなたの言うことが重要です。それと同じように、話し手はここにはいません。あなたは自分自身に語りかけています、あなたは自分自身を観察しています、あなたはあなたが自分自身に囚われていることを観察しています、そしてあなたの日常の活動の中であなたが自分自身に囚われていることで起こることです、それが世界中のそのような大混乱を生み出しています。人々がロシアと同一化するとき、ある種のイデオロギーと同一化するとき、あなたは恐ろしいほど残忍になります、あなたは進んで人々を拷問にかけるなどします―我々はそれらに踏み込んで行きません、誰もがそれを知っています。あらゆる雑誌やあらゆる新聞がそれらを検証します。
そうすると次の問いかけはこうです、つまり、精神はそれが獲得し蓄えてきて、それに執着している知識から余すことなく分離できるだけではなく、分離しないでもいられるかということです。というのは、その問いかけは人がこう考えるときに起こります、もし人が自分自身で占められていないなら、あなたは他の人と関係していなくて、あなたは全く孤立していると。それらは全て概念であり、結論であり、理論です。そこで我々が言っているのはこうです、つまり、精神は...頭脳や様々な感覚を含めて―我々が“精神”という言葉を使うとき、私はそれら全てを含めています、頭脳、思考の活動、知識として収集蓄積された経験、記憶、考える全ての働き、そして様々な感覚、それら全てが精神であり、それは本質的に意識です。違いますか? そのような精神は、何千年にもわたってひどく条件づけられてきた精神は...なぜなら我々の精神や頭脳は非常に非常に非常に古いからです、それは我々が獲得してきた何か新しいものではなく、我々が生まれるとき、それはそれ自身をそれ自身で占めるようにひどく条件づけられている途轍もなく古い精神です。そのような精神はそれ自身を過去から完全に自由にすることができますか、それは知識や伝統、遺伝などそれら全てを含みます、そして日常生活を生き生きと、正気を保ち、調和しながら生きることができますか? それは可能ですか? 宜しいですか? あなたは問題が分かりますか? 中東で起こっているユダヤ人とアラブ人との対立の中にある同一化の問題です、そしてロシア人が何らかのイデオロギーで占められて、そして人をそのイデオロギーに沿って無理やり形作るときのことです―それは権威主義的な全体主義です、それが人々を破壊している等々のことです。人はこのように自己中心的に何かに囚われることが途轍もなく危険で、人を破壊することになると分かりますか?
そうすると問題はこうです、つまり、どのようにこれら全ての縺れを解いて、どのようにしてこれら全てを解きほぐして、それら全てを脇へ除けるのかということです。 違いますか? それではあなたの答えは何ですか? 私はそれを答えません、あなたが答えるのです。あなたは鏡を見ています。話し手はいません。あなたはそれらの問いを見て答えています。あなたがこの問いを発して鏡を見るなら、あなたは言うかもしれません、“あーっ、それは不可能です”―それが直観的な反応です、それは不可能だと言うことです。もしあなたがそれはできないと言うなら、あなたは自分自身を押しとどめています。違いますか? それは自然にそうなります、違いますか? しかしもしあなたがそれは可能だと言うなら、それもまたあなたが自分自身を押しとどめていることを意味します。否定も肯定も共に問題を避けています。違いますか? そのように、あなたは鏡を見ています、話し手はいません、そしてあなたは受け入れもしなければ否定もしません、あなたは、それは可能だとか不可能だとかと言わずに、見ています。
そうすると、ここに問題が生じます、つまり、あなたは実際に見ているのか、それともあなたはあなたが考え出した何らかの観念を見ているのかどうかということです。私の質問が分かりますか? あなたは実際に鏡を見ているのか、それともあなたは何らかの結論や観念や何らかの希望を抱いて見ていて、その希望やその観念やその結論を通して自分自身を見ているのかどうかということです。お分かりですか? あなたがそうしているとき、あなたは見ることができません。もし私があなたについて私なりの何らかの考えを抱いているなら、というのは、あなたが白いシャツを着ているからです、あるいは青いシャツを着ているからです、あるいはあなたが縮れ毛だからです、これやあれだからです、そうすると私は見ることができません、つまり、それは馬鹿げています、もし私があなたと触れ合いたいと思うなら、それは不可能です。そうではなく、鏡の中の自分自身を見て自分自身の鏡の中で答えを見つけることです、なぜなら誰もそれを答えようとはしないからです。そうするとあなたは言うかもしれません、“なぜ我々はここにいるのか、もしあなたが話し手としてこの問いに答えないなら、私は一体全体何のためにここに座っているのか”と。それが自然な反応でしょう。しかし我々が言ったように、我々は人間です。このような計り知れない問題に我々は直面しています、何らかの危機や危険や破壊に直面しています、そして正気な、健康で真剣な人々はこれに答えなければなりません、これら全てに対する答えを見つけなければなりません。そうすると、話し手のいない鏡を見て、あなたは言いますか、このことは可能なのかと、このような習慣的で、絶え間なく起こる、明らかに否定しようのない、このような囚われから抜け出すことは可能かと。宜しいですか?
それでは、あなたは鏡を見ていますか、それともあなたはあなたの前に鏡があるという観念を見ていますか? その違いが分かりますか? 分かりますか? その観念は、それは事実ではありません。その観念は事実の抽象化であり、事実から離れています。そうすると、もしあなたがその答えを今すぐ真剣になって見つけることがとても重要なら、観念は無用です、あなたは実際に見ています。そうすると何が起こりますか?
ここで異なる問題が生じます、つまり、あなたは外側から内を見ているのか、それともあなたは内にいて、外側から見ているのではないのかどうかということです。つまり、あなたはあなたがあなたの見ているそれと異なっているかのように見ているのかということです。分かりましたか? お分かりでしょうか? これは非常に簡単なことです、違いますか?
それではこうしましょう...違う言い方をしてみます、つまり、あなたが嫉妬深いとき、貪欲なとき、怒っているとき、暴力的なとき、あなたはその暴力や貪欲、嫉妬、怒りと異なりますか? 異なりますか? それともあなたはその怒りですか、その貪欲ですか、その暴力ですか? そのように、あなたは鏡の中のあなた自身を観察者としてではなく観察されている当のものとして観察できますか、観察者を脱落させて観察できますか? これはかなり難しいことになりますか? それともこのことは以前に何回も聞いたことがある陳腐なことで、あなたは言うのですか、“はい、どうぞ続けてください”と。というのは、このことは理解すべき非常に重要なことだからです、なぜなら観察者と観察されているものとの間に何らかの分断がある限り―お分かりですか?―何らかの不一致が生じるに違いないからです、何らかの努力の必要が生じるに違いないからです、それを征服しようとするか、それを抑えようとするか、あるいはそれを避けようとするかの思いが生じるに違いないからです。従って、努力を全く余すことなく取り除くためには分断がなくならなければなりません。違いますか? もしユダヤ人とアラブ人との間の分断がないなら、それで終わりです。あるいは北アイルランドと南アイルランドとの分断がなければ、それで終わりです。
そのように、我々自身の中にこのような分断があります、観察者と観察されているものであり、それは二重的です。お分かりですか? そして我々は教育や文化やその他の全てを通じて、宗教を通じて、いわゆる宗教を通じて、この分断を維持するように、神を探し求めるように条件づけられています。あなたは他でもなく―お分かりですか―あなたは正にこの全分断そのものです、それは対極するものの間の橋渡しです。そして対極するものを橋渡しするときには争いや努力や何らかの実践が生まれるはずです。そのように、観察することだけがあって、観察者が観察を、観察されているそれをコントロールしようとしているのではないことを理解することが絶対的に重要です。このことは宜しいですか? 人はこのようにできますか? あなたはこう言うかもしれません。あなたは言うかもしれません、“要点は分かります、そのように感じます、あなたの言っていることは本当だと思います”と、しかしそれはあなたを避けます、それはあなたから逃げ去ります、しかしそれはあなたのことです、あなたは明らかにする必要があります。それが意味するのは、あなた自身と怒りとの間に分断がないということです―宜しいですか―あなたが怒りです、あなたが怒っている正にそのときには観察者はいません、あなたはそれであるだけです。後からあなたは言います、“私は怒った”と―そしてあなたは言います、“私は怒るべきではない”と―あるいは、あなたは怒ることの理由や説明を口にします。あるいは、あなたは怒りを抑えます。怒りの瞬間には、欲望の瞬間には、暴力の瞬間には分断はありません。それは事実です。そうすると、それと同じように観察者というものがいますか? このことは非常に...どうかあなたの精神を注いで、余すことなく気をつけていて、あなたの愛を注いで、余すことなく気を配って、このことを理解してください、なぜなら我々は余すことなく完全に争いを取り除いているからです、もしあなたがこのことを理解するなら。人は争いの影の微塵もない生を生きることができます、自分自身の中だけではなく外にあっても。そしてこのことを理解することは計り知れなく重要です、なぜなら、我々が言ったように、あなたの鏡の観察の仕方が問題です―鏡はありません、あなたは自分自身を見守っています、しかし差し当たり、あなたは鏡を発明します。そうすると観察者とは誰ですか? お分かりですか? あなたがこう言うとき、“私は樹木を観察します、川の流れを観察します、私はあなたを観察します、そして私は自分自身を観察します”、この観察者とは誰ですか? このことは我々が観察されるものを理解し始める前に理解すべき非常に重要なことです。違いますか? 我々は歩を共にしていますか? 我々の中にコミュニケーションは生じていますか? イエスかノーか言ってください、後生だから。
質問者(Q) はい。
クリシュナムルティ(K) あなた方はみな眠っているのですか?
それではこの観察者とは誰ですか? あなたが“私は怒っている”、あるいは“私は暴力的である”と言うとき、“私は...である”と言うその当のものは何ですか? その当のものは観察者です、違いますか? “はい、私は怒っている”と誰が言うのですか、その観察者は過去ではないですか、“私は怒っている”と言うのは過去ではないのですか? 違いますか? そのような例だけではなく、人が観察するときはいつでも、全ての観察は過去の働きです。私は一人のフランス人を観察します―なぜなら私はその人がフランス人であると言われたからです、お分かりですか?―そのような条件づけであり、そのような過去であり、知識です。そのように、この観察者の全ての活動は過去から生まれます。違いますか? そのように、観察者は本質的に過去です。違いますか? 私の言っていることを受け入れないでください。それは事実です。鏡を見ていると話し手はいません、なぜなら、あなたは必死になり、熱心に、熱気を抱いて問うているからです、あなたは問うています。そう願います!
そのように、観察者は過去です―過去の記憶であり、過去の経験であり、過去の知識です。過去で人は鏡の中の自分自身を観察しています。違いますか? 従って、あなたは今見ることとこれまであったこととの間に何らかの分断を作り出しています。そのように、観察者と観察されるものとの間に分断が生まれます。宜しいですか? このことが分かりますか? そうすると争いが生じます。あなたが自分自身のことで頭がいっぱいなとき、あなたは他の人と争うことはありませんか、どんなにその関係性が親密であっても。そうすると、そのような争いを余すことなく永久に、永遠に取り除くためには、人は観察者の性質を理解しなければなりません。違いますか? そしてあなたが観察し、検討し、そして学んでいると、観察者は過去であって、従って過去がいつも分断しています。違いますか? 私はユダヤ人であり、あなたはアラブ人です。ユダヤというのは伝統であり、プロパガンダであり、信念であり、ある種の生活スタイル等々です、そしてアラブにもそれ自身の生活スタイル等々があります。違いますか? そのように、何らかの分断があるところにはどこでも争いが起こるはずです、外面的なだけではなく内面的にも起こるはずです。違いますか? このことは宜しいですか? つまり、もしあなたが真剣で、もしあなたが矛盾することなく、何の努力もしないで、完全に生きたいなら、従って平和に生きたいなら、愛と慈しみの中を生きたいなら、もしそうありたいと思うなら、あなたはあなた自身の中の分断を余すことなく取り除かなければなりません―このことは分かりましたか? これは観念ではありません、これは知的な概念ではなく現実です。
そうすると、あなたは観察者を脱落させて鏡の中の自分を見ることができますか? これが本当の問題です、そこでは、いやむしろその中では、同一化は止みます、従って分断が消滅します。お分かりですか? 同一化がないところには分断はありません。そこで、あなたはあなたの怒り、あなたの暴力、あなたの傷などその他の全てを、過去の記憶や過去の知識、過去の苦闘を持ち込むことなく、観察者とは無縁にただ観察することができますか? そうすると何が起こりますか? 私がそれを問うているのではありません、あなたが自分自身でそれを問うているのです。そうすると、あなたが事実を見ているとき何が起こりますか? その事実についての記憶でそうするのではありません。宜しいですか? このことは可能ですか? あなたはそうできますか? もしあなたができなければ、我々はもうこれ以上先へ進めません、なぜならこれは非常に重要な問題だからです、人は何千年も何千年も、絶えず自分自身と戦って生きてきたからです、邪悪なものや神と共に、下位の自己や上位の自己と共に。お分かりですか? このような戦いを、このような争いを、あなたはあらゆる古代の絵画や絵の中に目にします、善いものと悪いものとの分断であり、そのような絶え間ない戦いです。そしてなぜ我々はこのように生きるのでしょうか?
そこで我々は検討して明らかにしようとしています、全く異なる生き方が可能かどうかを。それはあなたが真剣ならということです。それではあなたはその真理を見て取りますか、その観念ではなく、その真理です、その事実です、その現実性です、つまり、観察者は過去であり、収集蓄積された記憶であり、知識だということです、従って観察者は決して現在を知覚しないということです。現在を知覚するためには過去が脱落していなければなりません、それは明らかです。そして過去を脱落させるのに何の努力も要りません、あるいは観察者を脇へ除けるのに何の努力も要りません、なぜなら、あなたはそれがそうであると見て取るからです―お分かりですか?
それでは...それを違った言い方で言いましょう、つまり、愛は何らかの記憶ですか? あなたはどう思います? 愛はあなたが記憶している何かですか、そしてあなたは言うのですか、“あなたを愛している”と。そのように、もしそれが何らかの記憶なら、過去の何かなら、それは単なる快楽であり、その快楽が言います、“あなたを愛している”と、なぜなら、それはそのような快楽をもっと望むからです。それは愛ですか? 話し手はここにいません、あなたは自分自身でこのように問うています、あなたはそれに答えなければなりません、あなたはそこに座ってそれについてあれこれ考えることはできません。あなたはそれに答えなければなりません。
それでは、あなたはあなたがこのように自分自身に空想的なほどまでに、執拗なほどまでに囚われることを観察できますか? 観察者を脱落させて、それを観察してください。お分かりですか? そうすると、何かに囚われることが生じますか? あなたはこのことが分かるでしょうか。自己に囚われているのは過去の活動です。“私はこれまでそうでした、私は私がこれまでそうであったことから違っていなければならない。私は落伍者です、私は成功者でなければならない。私は落ち込んでいます、私は幸せでなければならない。私は善い人ではないが、私は善い人になるでしょう。私は...ではない、私には徳がないが、私は徳を積むでしょう。私は理解するでしょう。”―お分かりですか? このような何かとの同一化や何かに囚われることの全活動は過去から生じます。なぜなら、もしあなたが何かと同一化しないなら、何らかの人間と、何らかの観念と、国と、家族と、何かしらと、何らかの岩と同一化しないなら、あなたとは何ですか? そのように、何ものでもないという恐れがあなたを何かと同一化させます、あなたを何かに囚われさせます。違いますか? その現実に向き合ってください、それは何か知的な言い回しではありません。もしあなたがあなたの国と同一化しないなら、あなたの身体と、あなたの神と、あなたの知識と、あなたの妻や女友達あるいは男友達と同一化しないなら、あなたは空虚です、違いますか? 宜しいですか? もしあなたが空虚なら、その空虚の中には途轍もないエネルギーが潜んでいます。しかし我々はこのような空虚を、自分自身の中に何もないこのような空虚をとても怖がります。そしてそのような無を無にするために(笑)我々は神に囚われます、社会に囚われます、我々が考える善に囚われます。お分かりですか?
そうすると、問いはこうです、つまり、あなたはその鏡に耳を傾けていますか、その鏡があなたに言っています、観察者はいないと、観察者は過去であると、そしてほとんどの我々が過去の中を生きていると。“私が若いとき私は何て美しかったのだろう。私が若いとき私は何て素早く歩けたのだろう。何て素敵なときを私は過ごしたのだろう、私はとても沢山食べました、私はとても沢山楽しみました。”―お分かりですか、過去が生きています、過去の中を生きています。それが観察者です。そのように、観察者が分断を作り出します、そしてありとあらゆる争いが始まります。それではあなたはその真理を見て取りますか? その言い回しではなく、その言葉の意味ではなく、その事実です。もしあなたが見て取らないなら、それはなぜです? それはあなたが考えることができないからですか、観察することが、見守ることができないからですか、あるいは、あなたの頭脳がとても古くなっていて、あなたは...できないからですか、それとも、あなたには関心がないからですか?
そうすると、それはあなたが実際にはこの事実を見ないからですか、つまり、観察者が分断を生み出すのであり、それは過去であることを。ユダヤ人とアラブ人、ヒンズー教徒、イスラム教徒、カトリック教徒、プロテスタント教徒―お分かりですか? 過去がこのような分断や争いを生み出します、内面的にも外面的にも。あなたはそれが人間にとってどれほど危険なことが分かりますか、あなたやあなたの子供たちやその他の全てにとって。
そうすると、観察者がいないときには観察することがあるだけです、様々な感覚による観察であり、感覚との同一化ではありません。あなたはこのことが分かりますか? あなたは諸々の感覚と同一化しないで観察することができますか、あなたはその働きを観察できますか、諸々の感覚の活動です、それが性的な感覚であろうと、味覚であろうと、嗅覚やその他の全てのそれであろうと、諸々の感覚の活動を観察できますか? そこからこの問いが起こります、つまり、諸々の感覚の全ての働きを観察するということが生じるのかということです。どれか一つの感覚ではありません。これらのことが分かりますか? そうすると、諸々の感覚の全ての働きを観察しているとき、何らかの感覚と同一化する中心は存在しません。
私は独り言を言っているのですか?
Q いいえ。
K もし私が独り言を言っているのなら、私は私の部屋の中に行きます。しかし私はそうではありません、あなたが自分自身に語っています。話し手はいません。従ってこのことにはいかなる規律もいかなる実践も要りません。宜しいですか? あなたが何かを実践するとき、再び何らかの分断が起こります。違いますか? しかし即座に事実を、真理を見て取ること、それは閃きです、我々は今朝そのことについて始めました、閃くことについて話しました、同一化するあらゆる活動が何を意味するのかに閃きました。もし宜しければ...今何時ですか?
Q 11時30分です。
K 今朝はそのアナウンスがありませんでした。前回は我々はここにいてそのアナウンスがありました。私は5分長く話しました。11時30分ですが、私はもう少し続けます。私はどこにいましたか?
Q 諸々の感覚の全ての働きを観察することです。
K はい。諸々の感覚の全ての働きをいかなる同一化もしないで観察することです。それが意味するのは、自分自身を強いることなく観察することは可能かということです、何かを見守るために、何かを実践するために自分自身に規律を課すということとは無縁に観察することは可能かということです。なぜなら、あなたがそうするとき、再びあなたはこのあらゆる二重性的な努力を持ち込んでいるからです。そうするとあなたは関連を断ち切ることができますか、精神はその伝統との関連を断ち切ることができますか、同一化するその条件づけを断ち切ることができますか、二重性を生み出すそれを断ち切ることができますか? お分かりですか? そうしてください! あなたはあなたの女友達との関連を断ち切り、彼女と同一化しないでいられますか? あなたは何らかの執着から自由でいられますか、それは同一化です、明らかに。あなたの国への執着です、あなたの集団への執着です、あなたの家族への執着です、あなたの子供たちへの執着です―お分かりですか、何らかの執着です―あなたの名前にしがみつくことです、あなたの観念に、あなたの結論にしがみつくことです。そのような何かとの非同一化は、それは何かと分離する中でその同一化が消滅するのですか、それは愛の事実を終わらせるのですか? あなたは私の質問が分かりますか? 我々は愛がどういうものか知っていますか? 知的に知るのではありません、言葉で知るのではありません、愛とは何かについて大量に書かれてきています、いやはや! 我々は、鏡を見ていて、これらの根本的な問いを発することができますか? 何かとの同一化や何かへの執着がないとき、それは愛情の終わりを、優しさの消滅を、愛の消滅を意味するのですか? というのは、今日では我々が執着しているとき、我々は言うからです、“あなたを愛している”と。あなたはそのことを見て取る必要があります、それに答える必要があります。
1978年 7月9日 ザーネン
中野 多一郎 訳