何々人、何々国という災い

“何々人、何々国という災い”

ザーネン・トーク 1

クリシュナムルティ 天気がひどく悪くてとても残念です。我々の過ちではありません。
 我々は七回のトークと五回の対話を行ないます。私は我々がきっと非常に注意深く熟慮を重ねて、より一層詳細に物事に踏み込んで行くと思います、我々は時間をかけて、我々の全ての問題に踏み込んで行き、それら全てに何らかの解決があるのかどうかを我々は明らかにしようとしていると思います。ですから、これまでに私のトークを聞いたことがあるかもしれない人たちは、どうか辛抱してください。
 私は我々のほとんどが自分自身に関心があるのだと思います、必死になって、あるいは何となく、あるいは神経症的に、自分自身に関心があるのだと思います。広く世界に、そして自分自身に関心を持つ人たちがいます、あるいは、ささやかな自分自身の家族との関係に関心を持つ人たちがいます、そのような家族に対する責任に、その人たちの子供たちに対する責任に関心を持つ人たちがいます、そして、すでにとても神経症的に条件づけられている人たちもいます、我々の全てが様々な程度や深さで自分自身に関心があります、物理的な関心だけではなく―十分な衣食住を手にすることです、それは恐らく容易であると思われます―心理的なもっと深い関心があります、それを我々は正に議論しようとしています、一緒に話し合おうとしています、そして恐らくそうすることで、我々は我々の世界や我々自身との関係性を見つけることができるでしょう。
 なぜ心理的に我々は自分自身にそんなに関心があるのでしょうか。私はこのことが問われなければならないと思います。あなたはこれを自分自身に真剣に問うて、本当の正しい答えを見つけ出そうとするのか、それとも、あなたはそれを自分自身にとても表面的に何気なく問うのか、そのいずれかです。何らかの死活の問題が起こるときのみ、あなたは自分自身に関心を持ちます、あるいは何らかの危機が生じるとき、あるいは悲惨なことや何らかの混乱や不確かさを招く出来事や事故が起こるとき、あなたは自分自身にそのように問います。そうすると、我々の条件づけに従って、我々の気質や経験に従って、我々の経済的あるいは社会的な条件づけに従って、我々は自分自身について問います―この途轍もない関心です。なぜですか?
 もう一度指摘させてもらうなら―どうか嫌がらないでください―我々はこのことを一緒に取り組んでいます、そして話し手はいません。話し手はあなた自身です、話し手はあなた自身の考えを声にしているだけです、あなた自身の感情を、あなた自身の条件づけを、あなた自身の不幸せ、悲しみ、悲惨さ、恐れなどを声にしているだけです。そのように、話し手は便宜上演壇の上に座っているけれども、実際の心理的な事実の中に話し手は存在しません、あなたと私が我々自身を検討しているだけです、我々自身の中に大いに深く踏み込んでいるだけです―あるいは、もしあなたが非常に非常に真剣なら、あなたはもっとずっと深く踏み込んで行きます。ですから、どうかこのことを心に留めておいてください―もし指摘させてもらえるなら―あなたは一緒に検討しています、踏み込んでいます、探求しています、そしてそのような意味で話し手はいないということを心に留めておいてください。私は非常に真剣にこのように言っています。
 そこで我々は問うています、なぜ正に世界中のほとんどの人々が自分自身にそのように関心を持つのかと―他の人との関係性に、自身の不幸せに、自身の心理的な醜さに、自身の精神分裂的あるいは様々な精神状態に―あるいは人々は人々が何か永遠な何か、美しい何か、真実な何かを見つけることができるのかどうかを自分自身に問うています。そして人々の探究の中で、真剣な人たちは宗教のようなものに囚われます、様々なグルに囚われます、何らかの信念や何らかの観念や何らかの結論に囚われます。これら全てが指し示すのは―違いますか?―本質的に我々は自分自身に関心があるということです、従って我々は、一個人として、あるいは一人の人間として、宇宙の中心になります、なぜなら我々はとても何かに没頭するからです、とても何かに献身的になるからです、とても混乱しているからです、我々はとても必死になって何かしらを欲しているからです―幸せであり、悟りであり、正しい振る舞いであり、正しい行動です。あるいは、もしあなたが神経症に陥っているなら、その神経症はますます強くなります、なぜなら、あなたは自分自身に関心があるからです。そして、それらの心理面に関するあらゆる聖職者たちがいて、あなたを助けようとします。そのように人はこの事実を観察します。なぜ人間はそのように自己中心的なのですか、なぜそのようにぞっとするほど利己的なのですか、なぜそのように自分自身の不安に苛まれているのですか、なぜ自分自身の願望に囚われているのですか、なぜ孤独や絶望などに苛まれているのですか? これは通常の日常的な事実です。我々の中にはそのことに進んで向き合う人もいるかもしれません、そして他の人たちはそれを避けているかもしれません、あるいは自分自身から逃避して自分自身を国家や神や聖職者や何かしらと同一化しているかもしれません。しかしこのような同一化は依然として自分自身に関心があるからです。違いますか? そうすると、それはどういうことですか? つまりそれは我々が自分自身に関心を持てば持つほど、我々の全体を理解する能力が麻痺することを意味します。それは音を立てて流れ落ちる山の渓流を人が岩とセメントで堰を築くことによって溢れ出ないようにしているようなものです。我々は同じことを自分自身に行っています。このような自分自身への関心はある種のエネルギーの質を持ちます。そしてそのようなエネルギーは拘束されて、注意深く何らかの回路へと導かれます、そしてそれに囚われていると、我々が自分自身に関心を持てば持つほど、その回路はますます狭く、その壁はますます強固になります。あなたはこのことを観察したことがあるに違いありません。
 そこで我々は一緒に探求して行きます、なぜ世界中の人間はそれほどしきりに、それほど敏感に、もし人々が野蛮でないなら、もし人々が鈍感でないなら、もし人々が無関心でないなら、非常に非常に洗練された仕方で、非常に非常に微妙な仕方で、人々は自分自身の中心に関心があるのかを。そしてそのような中心は、その桁外れのエネルギーと共に、何らかの大恐慌を引き起こすか、あるいは我々が我々の周りに人工的に築き上げたそれらの狭い壁を打ち壊す可能性を秘めます―それらは打ち壊されるかもしれません、従って途方もないエネルギーが解き放たれる可能性があります。
 そのように、それが我々の話していることです、つまり、人間は人間が社会的に経済的に、様々な形で、どこにいようと、人が、あなたが、世界中の人間が自分自身の周りに築き上げてきた狭い壁を打ち壊すことができるのかどうかです。そしていかなる努力とも無縁に、知的にではなく、理論的にではなく、仮説的にではなく、実際に我々の日常生活の中で、それが可能かどうかを、人の条件づけと共に、このような自己中心的な関心を打ち壊すことができるのかどうかを、それが打ち壊しうるのかどうかを、従って途方もないエネルギーの質を解き放つことができるのかどうかを我々は話しています。そして、そのようなエネルギーが壁の全くないときに必要とされます、瞑想にとって必要とされます、真理とは何かの探究に必要とされます、悲しみの消滅と慈しみや愛の発見のために必要とされます。
 そこで私は我々が本当に真剣であることを願います、あなたは酷い天気の中をわざわざここへやって来ています―少なくとも今年はそうです。ですから、我々は真剣になりましょう、なぜなら、これは何らかのエンターテイメントではないからです、これは何らかの知的な楽しみではないからです、何らかのロマンチックな、知的な探求ではないからです。我々は脇へ除ける必要があります、私はそう思います、感傷的な我々の全てを、我々の全てのロマンチシズム、イマジネーション、諸々の感覚、もっと経験したいという欲望を脇へ除ける必要があります、そして我々は中心的な事実に向き合う必要があります。私はあなたがそれに向き合うことができるのかどうか分かりません、なぜなら我々は様々な理論や意見や判断を前面に押し立てて、それらの陰に隠れ、それらを声高に、あるいは消極的に、あるいは無意識に主張したり、それらにしがみつくのに長けているからです。そうすると、いかなるものからも強要されないで、いかなるプレッシャーとも、いかなる賞罰とも無縁に、易々と探究することは非常に難しくなります、そしてまた、ひたすら我々自身に踏み込んで行き―もし我々にできるなら―なぜあなたや正に世界中の人間がこのことを人の中心の課題に、中心の問題にしてきたのかを見て取って明らかにすることは非常に難しくなります。そして、それは見て取る能力を持つことを意味します。それは何一つ歪めることなく見て取ることです、なぜなら、あらゆる観念、あらゆる結論、あらゆる意見、あらゆる経験が歪める要因だからです。違いますか? どうかこのことを理解してください。あなたの正に経験が、それが性的なものであろうと、記憶として蓄積された他の様々なタイプの経験であろうと、探求するとき、観察するとき、歪める要因になります、それは明らかです。我々の中の非常に強力な意見の持ち主、声高に主張する人たち、そしてそういう人たちの判断もまた歪める要因になります。そして、もしあなたが何かを信じているなら―それが何であろうと―あなた特有の条件づけに従って何かを信じているなら、それから連想する全ての事柄と共に、その全ての伝統と共に、その全ての過去と共に、そのような信念が明晰な観察を妨げる要因になります。
 そのように、この途轍もなく複雑な問題に深く踏み込んで行くためには、観察する自由がなければなりません、あなたが考えることや私が考えることではありません、あなたが感じることや私が感じることではありません、あなたの結論がどうかとか私の結論がどうかとかではありません、それらには―なぜ人間がそのようにとても必死になって自分自身に関心を持つのかを観察するときには、明瞭に見て取るときには―何の重要性もありません。違いますか?
 あなたがこのような話し手の発言を聞くとき、あなたは実際に耳を傾けていますか、それとも、あなたはあなたが聞くことについて何らかの結論を下していたり、あなたが聞くことを何らかの観念にしていたりしていますか? お分かりですか? あなたは話されていることに実際に耳を傾けていますか? それとも、あなたが聞いているとき、あなたはそれを抽象的な何かにしてしまっていて、そしてその抽象的な何かがあなたの同意したり同意しなかったりする観念になるのですか、あるいは、もしあなたが同意するなら、その観念について議論します、あるいは、もしあなたが同意しないなら、あなたはそれを投げ捨てます。しかし実際にはあなたは耳を傾けていません。そこで人は、あなたが狭くするこのエネルギーの浪費の理由を、あなたが抵抗するこのエネルギーの浪費の理由を、ますます狭まり、ますます利己的になっているこのエネルギーの浪費の理由を、自分自身で明らかにするために耳を傾けているのかどうかを明らかにする必要があります。そしてその利己心がとても自己に馴染んでいるので、あなたは、それは利己的ではないと言うか、それともあなたは自身を偉大な何かと一体化してこう言うかのいずれかです、つまり、それはずっと偉大である、しかし私は偉大ではない、従って私の関心はそっちと一体化することであり、こっちと一体化することではないと。しかし、そのような一体化は、このように、より大きな方、あるいは、より小さな方と一体化するということです。
 私はあなたがこれら全てについてきていることを願います。我々が言ったように、話し手はいません。話し手がいないというのは本当に驚くべき考え方です。私はこのようなことをただ発見しただけです、つまり、我々は鏡で我々を見ています、そしてその鏡があなたに全てを語っています、しかしあなたは鏡の見方を知らなければなりません、鏡で見ることをあなたがどう解釈するかではありません、あるいは鏡で見ることをあなたがどう行うのかではありません、そうではなく、もしあなたがその見方を知るなら、正にそのような観察が正しい行動をもたらすでしょう、あらゆるものがその本来の姿に収まります。これは誇張した言い方ではありません。それは実際の事実です。
 そのように我々は真剣に検討しています、なぜ人間はその周りのこのような驚くべき世界と共にあって、つまり、その美、その途方もない自然、水の性質、鳥たち、海や陸、そして空や天上と共にあって、なぜ人間はあらゆるものをこの狭い小さな“原子”に、小さなものに矮小化してきたのでしょうか、そしてそれについて途轍もない書物をものにしています、その取り除き方であり、何をすべきかです、何らかの実践であり、何らかの瞑想であり、何かを犠牲にすることであり、何らかの否定であり、絶食であり、断食です、そしてその小さな“自分”を取り除くためのあらゆることです。犠牲の不毛性、“自己”否定の不毛性、他の何かと同一化すること、家族と同一化すること、国家と同一化すること、何らかの信念と同一化すること、神と同一化すること、国際的―お分かりですね―様々な形の同一化があるけれども、それらは問題を解決しません。何がこれを溶解させるのですか、とても腐敗している、いつも力、地位、権威を追い求めている、自分のためにあらゆるものを手にしようとしている、さらなる成功、さらなる力、さらなる道楽などの手段として知識を利用しているこれを何が溶解させるのですか?
 それでは我々は実際に観察できますか―“自分”の観念だけではなく、その“中心”という観念だけではなく、その感覚の働きもまた観察できますか、その様々な感覚です、その実際の感覚です。それらの感覚、触覚やその他の全ての感覚です、それらの感覚は存在します、それらは事実です、事実であるに違いありません、あなたはそれらの感覚を否定できません。しかし思考がそれらの感覚と同一化すると、その“中心”の構造が形成され始めます。お分かりですか? 宜しいですか、これは知的な観察ではありません、それは、もしあなたがそれらの感覚を観察するなら、ただの日常の事実です。人はある特定の食べもの、飲みもの、たばこ、薬を好みます、そして思考がその特定の食べものと同一化します、その味、その香り、その喜びと同一化します、そしてその同一化で、その同一化の中で、その“中心”が形成されます。それは明らかです。
 それではあなたは観察できますか―どうかこのことに耳を傾けてください、もしあなたがこれを検討するなら、それは非常に興味深いことです―あなたは感覚の働きを観察できますか、それが性的なものであろうと、それが味覚的なものであろうと、聞くことや見ることであろうと、あなたはそれらの通常の自然な感覚の働きをそれらと同一化することなく観察できますか? お分かりですか? このことが分かりますか? 私は何か奇妙なことを言っているのですか、何か神経症的なことを、何か奇怪なことを言っているのですか? このことを理解することは非常に重要です、なぜなら我々はこの同一化の問題に踏み込んで行くからです。同一化が生じないとき“中心”は存在しません。違いますか? それは私の感覚との、私の身体との、私の思考とのこの絶え間ない同一化です―お分かりですか―同一化のあらゆる働きです、同一化は執着です、分離することのない執着であり、そのあらゆる連想との同一化です、そうしてこの同一化はエネルギーの何らかの働きであり、そのエネルギーは益々益々益々限られたものになります、それが正に“中心”です。違いますか?
 そこで我々は問うています、つまり、何らかの特定の感覚と同一化するいかなる思考とも無縁に様々な感覚を観察することがありますかと。お分かりですか? 感覚が生じるのは自然です。もしあなたに感覚が生じないなら、あなたは全く麻痺しています―恐らくほとんどの我々の感覚は、ある特定の方向にのみ、性的か何かの方向にのみ向いています。しかし我々はあらゆる感覚のことを話しています、ある一つの特定の感覚のことではありません。もしあなたがその論理を見て取るなら、その理由を見て取るなら...つまり、思考がある特定の感覚と同一化するや否や、あるいは全ての感覚と同一化するや否や、そのような同一化はこの壮大なエネルギーを狭い回路に追いやる活動です。違いますか? 私は説明したでしょうか? 私は明瞭にしたでしょうか? 私ではありません―話し手はいません。我々の会話があるだけです、二人の人間として、我々はこのことを発見しています―あなたは発見しています、話し手ではありません、話し手はいません。そのようにあなたは発見しています、つまり、いかなる形の同一化も、様々な感覚との同一化だけではなく、家族との同一化、国家との同一化、何らかの観念との同一化、何らかの結論などとの同一化は、この壮大なエネルギーを狭めて限られたものにし始めることであり、従って生の壮大な働きに抵抗していることであると。違いますか? 一息入れても宜しいですか?
 そのように、我々は問うています、あなたはそこに座っています、つまり、あなたはあなたの感覚をいかなる同一化とも無縁に観察することができますかと。身体との同一化です―宜しいですか、我々が検討していることは非常に非常に真剣なことです。もしあなたが耳を傾けたくなければ聞かないで他の何かについて考えてください。しかしもしあなたが耳を傾けているなら、心から耳を傾けてください、あなたの精神を注いで、あなたの全存在を総動員して耳を傾けてください、なぜなら我々は途轍もないエネルギーの解放の問題に踏み込んでいるからです、それは今や非常に非常に小さな狭い牢獄に押し込まれて、そこから我々が振る舞っているからです。そして感覚との同一化だけではなく、従って身体との同一化だけではなく、もちろんその名前との同一化もあります。たとえあなたが自分自身に新しい名前をつけても、あるいは新しい番号をつけても、それは(笑)依然として同一化です、そしてそれは僧侶たちなどが行っていることです。なぜ思考は絶えず何かと同一化するのですか? 私の質問が分かりますか―それはあなたが行っていることです、つまり、何かとはあなたの妻であり、私の息子であり、私の家族であり、私の彼女であり、私の彼氏であり、私の家であり、私の資質です、私はとても多くのことを経験してきているので私はその経験を手放さないようにしなければなりません、私はキリストと同一化します、クリシュナと同一化します、お分かりですか、ありとあらゆるものとの同一化のことです。なぜ思考はいつも何かしらと同一化するのですか?
 あなたは、もし私に問わせてもらうなら、話し手としてではなく、あなたは自分自身に問うています、あなたはその理由を自分自身に問わないのですか? なぜ私はその形と同一化するのですか、その名前と、私が蓄積してきたあらゆる経験と同一化するのですか、あるいは、これから先に起こる同一化です、なぜですか? なぜ思考はいつもこうするのですか? 私の家であり、私の妻であり、私の信念であり、私の神であり、私の国です、私はイギリス人です、あなたはフランス人です、私はドイツ人です、あなたはロシア人です―お分かりですか? なぜですか? それは思考が絶えず流動していて―どうか明らかにしてください、私はただ問うています、明らかにしてください―絶えず流動しているので、動いているので、何かについて安心する必要があるからですか? 問うてください...は止めてください。あなたが問うています、自分自身にこのことを問うています。あなたがこう言うとき、“それは私の家です”、そのことによってあなたは何らかの確かさを、何らかの安定感を、何らかの安心感を得ます。思考が家と同一化するとき―それは必要なことです、違いますか―そのことでそれはその安心を、その居場所を、その安全性を、その保護を得ます、その家との物理的な同一化はそれに安心感を与えます。しかしそれをよく見てください。物理的な必要性とのそのような同一化が心理的に引き継がれます。違いますか? そこではそれは必要ですが、ここではそれは全く必要ではないかもしれません。しかし我々は絶えずこのことを行っています―その必要性から―衣類を手にすることから、私はズボンと同一化しないかもしれないけれども、あるいはシャツやブラウスや何であれ人が身に着けるものと同一化しないかもしれないけれども、その執着、その物理的な必要とその必要性から心理的な領域へ移って行き、そこであなたは言います、“それはそこでも必要です”と―そしてそれはそうではないかもしれません。このことが分かりますか?
 このことがいつも起こるのではありませんか、一般的に純粋に物理的なことから、食べものの必要性、衣類の必要性、清潔にしていることなどその他の必要性から、それが心理的な領域へ越境していきます、そしてそこからここへの越境は全く不必要かもしれません、幻想かもしれません。それだけがあってこれはありません。私は明瞭に話しているでしょうか。我々はこのことを非常に注意深く検討します。結局のところ、精神の居場所、領分、領域とは何ですか? お分かりですか? 我々は大なり小なり物理的なことは理解します。人には衣食住が必要です、それは明らかです。そして我々がそれと同一化するとき危険なことが起こります。我々は言います、“それは私の衣服です、それは私の財産です、それに触らないでください”と。そこでその必要性が思考によって私のものとして同一化されます、そしてその同じ活動が物理的なものから心理的なものへと向かいます、つまり、私の経験であり、私の欲望であり、私の願望です―お分かりですか? あなたはこのことを理解しているのでしょうか。というのは、宜しいですか、我々が指摘しようとしていることは、話し手はいないということです。鏡の中をもしあなたが非常に注意深く観察するなら、あなたは分かると思います、物理的に必要なこと、その同じ考え方が心理的な領域へ持ち越されて、それが他方よりもより一層重要になるということです。人は非常に少ない食べものしか手にすることができません、それでも気にしません、しかし私のパワーに干渉しないでください―私は地位を欲します、私はこれを欲します、私はそれ欲します、心理的に―私の言っていることが分かりますか? あなたはこのことを自分自身で鏡の中に発見していますか? それとも私がそれを指摘していて、そしてあなたがそれを観察し受け入れるのですか? そのように受け入れることは単なる説得であり押しつけにしかすぎません。押しつけや受け入れのあるところには探求は起こりません。
 そこで我々は何か他のことに至ります、つまり、あなたは何かを押しつけられることから自由でいられますか、ということです。お分かりですか? 様々な機関や組織からの圧力を観察することです。違いますか? 教会組織、政府機関、そしてとても沢山ある機関や組織です。“機関”や“組織”という言葉はラテン語などに由来していて、“留まること”、現にあるところに置いておくこと、それを動かさないことを意味します。そのように我々は一般的に諸々の機関や組織の強力な圧力の下に置かれてます。恐らくあなたはそのことに気づかないかもしれませんが、もしあなたが観察するならあなたはそうなっています。民主主義的な機関や組織、全体主義的な機関や組織、社会主義的な機関や組織、経済的な―お分かりですか?―このような絶え間ない圧力です。それから様々なイデオロギーや理想の圧力があり、それは恐らく経済的な圧力や様々な理論の圧力よりもさらに酷いのです。違いますか? あなたはこれらのことを知っていますか? あなたはこれらのことに気づいていますか? 書物の圧力、知識の圧力、権威の圧力、家族の圧力、妻や夫の圧力、男女の圧力―このような絶え間ない圧力です。そして経験の圧力、知識の圧力―お分かりですか? 誰かがあなたにかける圧力、政府や誰かからの圧力だけではなく、内面的にも何らかの経験や知識を手にしてきたという途轍もないプレッシャーがあり、そしてそのような知識がいつもプレッシャーになっています、つまり、これをしなさい、あれをしてはいけない、これは正しい、あれは間違っている、あなたはもっと知識を手にしなければならないと、人はこれらのことに気づいていますか? 気づいていないと思います。そして関係性がもたらすプレッシャーがあります。違いますか? 我々はそれら全てを検討しません。我々はそれを少し後で我々が歩を進めていく中で検討します。
 そこで我々は言っています、つまり、あなたはこの途方もない“中心”の構造を観察できないと、つまり、その“中心”に関心を持つことです、それを何の圧力も受けずに自由に観察するためには自由に見なければなりません。しかしほとんどの我々は圧力を受けています。ほとんどの我々には、我々が何かを観察するとき、何らかの動機があります、そしてその動機が圧力になります。“私が観察するとき、私はそれを理解しなければなりません、私はそれを超えて行かなければなりません、この忌々しいショウの最後には何らかの見返りがなければなりません”。お分かりですか? 何らかの動機がもたらす、欲望がもたらす、見返りや罰を避けることなどがもたらすこのように強力な絶え間ない圧力があります、その負担を背負っている限りそうなります、つまり、なぜ人間は自分自身をそのような狭い小さな存在に矮小化してきたのか、なぜそれほど朝から晩まで自己に関心を持ってきているのかの理由を観察することです。そうでないのなら、あなたにはグルたちはいません。そうでないのなら、あなたには聖職者たちや諸々の宗教は必要ありません。そうでないのなら、あなたにはそれら全ての途轍もなく複雑な心理に関する聖職者たちは必要ありません―お分かりですか? これら全ては当然にも自分自身への関心を指示しています。
 それでは人はこのような関心とは無縁に生きられるでしょうか? そうすると平和があるだけです、そうすると愛や慈しむことがあるだけです。思考によって私としての“中心”が狭い回路の中に維持されているところには苦しみがあるはずです、そして暴力や残忍さ、残酷さ、憎悪などそれら全てがその中心に陣取ります。それが実際の事実です。
 そうすると次の問いかけは、それを打ち破ることは可能か、ということになります。鑿やハンマーを使ってではなく、我々のほとんどがそのようにしがちです―心理的なハンマーや心理的な鑿です―努力して、規律を課して、コントロールして、何らかの犠牲を払って、何かを否定して、何かに抵抗して―それらは全てハンマーです。違いますか? そこで我々は問うています、それを打ち破ることは可能かと、人が自分自身の周りに築いてきたそれらの壁です、微塵も努力せずにです。なぜなら、もしあなたが何らかの努力をするなら、あなたはあなたがその壁を打ち破るときに起こることに同一化しているからです―お分かりですか? それは狭い自己のもう一つの構造です。あなたはこれらのことが分かるでしょうか! 分かりますか? 宜しいですか? そのようにこれは打ち壊されうるのですか? それが問題です。それが全ての人間にとっての本当の中心的課題です。他の課題はありません、政治的にも、宗教的にも、経済的にもありません、人がこの途方もない自己中心的思考を消滅させることです、分断やその他の全てを生み出すこの捉えがたい自己中心性を消滅させることです。それが中心的課題です。そしてそれが宗教の中心的課題です、世界中で行われている、教会で、モスクで、寺院で、宗教的な集まりで行われているそれら全てのお祭り騒ぎではありません。宗教の本質は自己の消滅です、余すことなく、完全な自己の消滅です。
 何時でしょうか?
質問者 11時30分です。
クリシュナムルティ 続けましょうか? 今朝はこれで十分ですか? 我々は五分遅く始めましたので私はもう五分続けます。(笑)
 もしあなたが鏡を注意して真剣に見たなら、単にあなたの顔やあなたの髪の毛、あなたの眉毛や顔色やその他の全てを見るだけではなく、あらゆる方向性をやり過ごして見るなら...というのは、その方向性が何らかの歪みだからです。どうかこの一事を理解してください、そうするとあなたは鏡を非常に明瞭に見ることができるでしょう。我々はいつもある特定の方向を目指して行動しています―例えば、成功すること、あなたはその他の全ての類を知っています、私は詳細に検討する必要はありません。それでは、あなたはいかなる働きとも無縁に観察することができますか―その働きとは見ている思考のことです。あなたはこのことが分かるでしょうか。宜しいですか、あなたが何かを見るとき、それは何でも構いません、思考が見ています。あなたはそのことを発見したことがありますか? あるいは、それは想像、空想、記憶、過去です。違いますか? あなたはそれら全ての働きとは無縁に見ることができますか? そうでないなら、あなたは明瞭に見ることができません。その論理を見てください、その理由を見てください。もしあなたがその論理、その理由、その正気さを見て取るなら、その正に正気さがそれを脇へ除けるでしょう。お分かりですか? 正に不健康なものがそれら全てを招き入れます。正に健康なものが見て取ります、なぜならそれらは正気だからです。それが意味するのは、あなたがあらゆるあなたの病気、あらゆる過去の痛みを思い出すとき、あなたは正気ではいられないということです、しかしそれらが脇へ除けられるとき、あなたは何の苦も無く非常に明瞭に見ることができます。そのように見て取ると正気ではないそれら全てが脇へ除けられます―私の言っていることが分かりますか? 見て取ろうとする強い気持ちが、事実を見るのを妨げるそれらを脇へ除けます。違いますか? 分かりましたか? 一つだけはっきりしています。何らかの強い切迫した気持ちです―お分かりですか―他のことは一切忘れています。誰かが死にかけているという差し迫った思いです、あるいは火事になっているか何かの切迫した強い気持ちです、その切迫した強い気持ちが、過去の働きを余すことなく蹴散らします、つまり、あなたは行動します。
 それではあなたは、鏡を見ていて...あなたは誰からも説得されることなく、どのような圧力とも無縁に、その鏡を見ています、なぜなら話し手はいないからです、あなたはただ鏡の中の自分を見ています―そしてその理由、その論理があなたに語りました、世界は、その全ての暴力、残忍さ、正気の喪失と共に、この中心によって、平和の名のもとに、キリストの名のもとに、国家や兄弟の名のもとに、お分かりですね、その他の全ての名のもとに生み出されていると。あなたは見て取ることができますか? そして目を凝らす熱気や差し迫った思いが、いかなる思考の割り込みも蹴散らします、思考のあらゆるイメージや連想を蹴散らします。あなたはそうしていますか? それとも、あなたは、話し手が話し手はいないと言うとき、話し手の言うことを聞いているのですか? お分かりですか? 話し手はいません、私はこのことを必死になって、熱い思いで言っています。私はこのことを大いなる愛情で、愛で言うのです、なぜなら、そうするとあなたは自分自身でその鏡を見ているからです、話し手があなたに影響を与えているのではありません、あなたを強要しているのではありません、あなたを突き動かしているのではありません、あなたを説得しているのではありません。そのように、あなたはここにいて、もし指摘させてもらうなら、話し手に耳を傾けているのではありません、そうではなく、あなたはその鏡の中の自分自身に耳を傾けています、その中の自分自身を観察しています。そして人類の歴史が全てそこに露わにされます。そしてあなたが熱気をもって見るとき、それはとても非常にシンプルになります。違いますか?
                           1978年 7月9日 ザーネン
                                 中野 多一郎 訳