アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

渡良瀬川神戸

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クリシュナムルティ 今朝、我々は、なぜ思考が行動の断片化をもたらすのかを議論しようと思います、そして、それに関連して、我々は暴力について話し合おうと思います、なぜなら、それが我々の前の集まりを終える前に問われた最後の質問でしたからです、そして、恐らく、その暴力の問いについて一緒に話し合っているとき、我々は自分自身で思考の性質を、必然的に断片的であるそれを発見するかもしれません。
 我々は暴力ということで何を意味しますか? 暴力は非暴力に対する何かですか、憎しみが愛に対するように。暴力は、明らかに、意図して誰かを傷つける物理的行為だけではなく、我々が非常に怒るとき、そして、誰かを殴るとき、あるいは、辛辣な言葉を発するとき、あるいは、戦争で誰かを殺戮するときだけではなく、心理的な暴力もあります、憎しみや嫉妬、野心、競争、自分自身を何らかのパターンに強いて順応させること、自分自身を防御すること、抑圧することなどのように。確かに、それら全ては暴力的行為です、心理的に。非暴力の熱心な信奉者でさえ、その人は極めて暴力的です。その人の暴力は、その人の欲望や熱情を抑えること、そして、他の人たちを順応させることで成り立っています。平和主義者、良心的兵役拒否者、“私は他の人間を殺しません”と言う人は何らかの戦争では殺戮しないかもしれませんが、その人たちはその人たちなりの戦争を抱えています、防御の戦争です。防御の戦争というものは全くありません、しかし、それは問題ではありません。
 一つの断片が、“私は愛します”と言い、他の断片が憎悪します。憎悪を抑圧しているとき、我々はすでに暴力的です、なぜなら、あらゆる形の抑圧や歪曲、拷問は、心的にも身体的にも明らかに暴力だからです。軽蔑、不信、疑い、反抗、プライド、高慢、優越感、成就欲はみな暴力の有様であり、表現です。我々は暴力の一断片を取り上げて、それを検討すべきか、それとも、我々は暴力の全体、全表現を取り上げるべきでしょうか? 
 どこに我々は暴力と非暴力の間に線を引くのでしょうか、あるいは、そのような線はそもそもあるのでしょうか? 専制者が、未来の人種のために、個人的な野心のために、あるいは、何らかの理想のために、数百万人を殺戮するとき、人間たちはそれを受け入れます。我々はそれら全てのための口実を見つけます。
 あなたが暴力について語るとき、あなたのそれはどういう意味でしょうか? それは本当に極めて興味深い問いです、もしあなたがそれを深く検討するなら、この世界を生きる人間が、余すことなく暴力的でなくなることがありうるのかどうか検討することは...社会は、宗教的共同体は、動物たちを殺さないように試みてきました。ある人たちはこういうことさえ言ってきました、“もしあなたが動物たちを殺したくないと思うなら、野菜たちについてはどうなんでしょうか”と。あなたは、あなたが存在するのを止めるというところまで、行くことになります。あなたはどこに線を引きますか? 何らかの恣意的な線引きをしますか、あなたの理想や空想、標準、気質、条件付けに従って、そして、あなたはこう言いますか、“私はそこまでは行くけれども、それ以上は行きません”と。個人の怒り、個人的な暴力的行為を伴うそれと、他の社会を破壊する軍隊を立ち上げて、それを育成する社会の組織的憎悪のそれとの間に何らかの違いがありますか? どこの、どの次元の、そして、暴力のどの断片をあなたは議論しているのでしょうか、それとも、あなたは、人間が、暴力と称する個別の断片ではなく、余すことなく暴力から解放されうるのかどうかを議論したいと思うのでしょうか?
質問者 我々は全く非暴力的になれますか?
クリシュナムルティ なれるでしょうか?
質問者 暴力は我々の感情に端を発しています。
クリシュナムルティ 同意します。それでも、我々は人間の暴力について果てしなく議論できます、しかし、暴力を全く消滅することは可能でしょうか?
質問者 もし我々の誰もが非暴力的であるなら、暴力なしに生きることは可能でしょう。
質問者 私自身が全く非暴力的であるとき、私が私自身の生の中で全ての暴力を消滅させるとき、そうすると、恐らく、私は全く暴力に基づく社会の中で生きることができます。
質問者 私は、他の人間たちとの関係の中で、人間として―そして、私はいつもそのように関係しているに違いありません、なぜなら、私は孤立して恐らく生きることができないからです―私は私自身の中で全く暴力を消滅させるべきでしょうか、そして、そうすることは可能でしょうか? それとも、私は全社会が全く非暴力的になるのを待つのでしょうか?
クリシュナムルティ それはそれほどシンプルではありません。我々は暴力の原因を議論しているのでしょうか? 我々はその現象を見て、暴力の原因を知るのでしょうか、我々自身の中で、社会の中で...警察官、法律、殺人者、スラム街やゲットーの中の貧困に条件づけられていて暴力的である人、なぜなら、その人は、あらゆる大都市の中で進行しているように、生の窮地に追い込まれて息が詰まる思いをしているからです。
質問者 どのような行動も、非行動も、意志の努力によって行われると、利己的な暴力が生じます、いかなる選択もしないタイプの行為や何らかの必要性に迫られた行為とは、それは対照的です。
クリシュナムルティ 我々は暴力が何なのかを、言葉にしなくても、字句で言い表さなくても、行動で示さなくても知っています。動物的なものが依然として非常に強く残っている人間として、いわゆる幾世紀もの文明にもかかわらず、そのような人間として、私はどこから始めるのでしょうか? 私は周辺的領域から始めるのでしょうか、それは社会ですが、それとも、中心から、私自身から始めるのでしょうか?
 あなたは私に暴力的であってはならないと言います、なぜなら、それは醜いことであるからと。あなたは私にあらゆる理由を説明します、そして、私は暴力が人間の中の酷いことであると分かります、外面的にも内面的にも。このような暴力を消滅させることは可能でしょうか?
質問者 我々は意志を働かせずに行動したり、あるいは、何らかの選択をして行動したります、どちらが暴力の正に本質でしょうか?
質問者 暴力の本質は利己主義です、そして、もし我々が非利己主義者でありえるなら...
クリシュナムルティ その通りです、もし我々がそうありえるなら。(笑) もし我々がみな驚くべき人間でありえるなら、それは素敵なことでしょう。我々はそうではありません、不幸なことに。宜しいでしょうか、問題をただ見て下さい。答えを探さないで下さい。それを定義しないで下さい。外面的に途方もなく優しい聖者たちは内面的には虐げられた人間たちです。私は自分自身に問います、“暴力とは何か、そして、それを消滅させることは可能か”と。そのように問うている当のものは何でしょうか、そして、それは可能であるとか可能ではないと言おうとしている当のものとは何でしょうか? その答えを見つけようとしているその当のものとは誰でしょうか? 言わないで下さい、“観察者と観察されるものは一緒でなければならない、そうすると、あらゆるものが問題でなくなる”と。我々が話してきた全てのことを繰り返さないで下さい。我々が昨日言ったことを忘れましょう。もしあなたがそれを忘れないなら、あなたは学べません。もしあなたがあなたの学んできたことを、あるいは、あなたの聴いてきたことを繰り返すなら、あなたはもはや学んでいません。
質問者 私の中のその当のものとは何でしょうか、挑発されて、攻撃されて、侮辱されて、小突かれて、暴力に転ずるその当のものとは何でしょうか?
質問者 思考です。
クリシュナムルティ どうか、ゆっくり進めて下さい、なぜなら、もしあなたがあらゆるものを思考に帰するなら、あなたは探究できません、あなたは自分自身を妨げています。
質問者 我々が自分自身によくよく気づく限り、暴力が我々に内在しているに違いありません。
クリシュナムルティ 我々の中にあって、それほど素早く愛や憎しみに転じて、それほど素早く良いとか悪いとかを言って、そして、その分断の中で行動する、その当のものとは、その母体とは、その実体とは何でしょうか?
質問者 それは自己防衛です。
クリシュナムルティ その背後にあるものです。“私は守らなければならない”と言う、その“私”、その実体、その当のものとは何でしょうか?
質問者 生の条件付けの中で、ある人たちは恐れません、そして、同じ条件の中で、他の人たちは非常に恐れます。初めの人たちが暴力的になります。
クリシュナムルティ 我々はそれら全てを言ってきました。どうか、その問いをもう少し推し進めて下さい。その実体、その当のもの、そのように反応するそれとは何でしょうか?
質問者 私の所有しているものが、私の快楽が私から奪い去られる恐怖です。
クリシュナムルティ 一息入れましょう。それら全ての背後にあるのは何でしょうか?
質問者 中心的な何かです。
クリシュナムルティ 答えを探る前に、一息入れましょう。それは何でしょうか? 恐らく、我々のほとんどは、それについて考えたことさえありません、そして、もしあなたが非常に性急に反応するなら、それは単なる発言や描写にすぎません、しかし、もしあなたが明らかにしたいと思うなら、あなたは少し沈黙しなければなりません、少し静かにしなければなりません。
 あなたは言います、それはその中心である、それはエゴであると、それが、攻撃されるときに反応する実体であると。それは現にある通りのものではありません。あなたは単に現象を描写しているにすぎません、そして、質問者はそれら全ての言葉を超えたものを知りたいと思うのです、もし何かがあるとするなら。
質問者 我々は知りません、なぜなら、その問題にはきりがないからです。
クリシュナムルティ 分かりました、それにはきりがありません。しかし、あなたは彼の問いに耳を傾けていません。彼は言います、“その当のものとは何でしょうか、それが触られるや否や爆発する、それら全ての背後にあるものとは何でしょうか”と。
質問者 スラム街の中にそれまでずっと生きてきた人が、その人の周りで、裕福な人々が歩き回るのを見ると、その人は爆発するに違いありません。
クリシュナムルティ それも我々は言いました。
質問者 その人はそうしないかもしれません、幾人かはそれを受け入れます。
クリシュナムルティ 幾人かは爆発します。幾人かは言います、“あーっ、これは私のカルマだ、私の過去生だ”と。しかし、あなたはその紳士の問いに答えていません!
質問者 それは人間の中の統合性の欠如に関係します。
クリシュナムルティ 何の統合性でしょうか? 愛と憎しみとの? 暴力と非暴力との?
質問者 いいえ、私はそう言っていません。人間が自分自身の中に二つの可能性を見出すや否や、何らかの選択の可能性を見出すや否や、暴力がすでに生じています。
クリシュナムルティ それは我々が以前言ったことです。選択や意志が生じる限り、暴力が生じます。
質問者 もし人間が全く...
クリシュナムルティ “もし”ではありません! あなたはすべて仮定しています。止めて下さい。
質問者 私はそれが分かりますが、私はそれを伝えられません。
クリシュナムルティ 分かります。その質問者は言いました、“私は知りません”と。もしあなたが知らないなら、なぜあなたはシンプルにこう言わないのですか、“私は本当に知りません”と。こう言わないで下さい、中心がそれ自身を守るに違いない、所有物は泥棒がそれを盗もうとするとき守られなければならない、私は私の妹が誰かに襲われるとき彼女を守るべきである―それら全てのきりがない問いです。問いはこうです、その当のもの、その実体、その本質、触られるとき爆発する、あるいは、受け入れる、あるいは、従う、それは何ですか、ということです。もしあなたが他の誰かに問うと、その人はあなたに、その人の条件付けに従って、何らかの意見を言うでしょう。あなたはこう言えますか、“本当に、実のところ、それら全ての条件付けを脇へ除けても、私は知りません。私は発明しません”と、あるいは、あなたは、“私は本当に知りません”とは決して言えない防御の壁を注意深く築いているのでしょうか? お分かりですか?
質問者 誰もが何らかの観念をもっています。
クリシュナムルティ 観念はものではありません。
質問者 我々は現にある通りのことについて考えます、しかし、他の人たちは我々の考えることを受け入れていません。それが我々の知らないことのように思われます。
クリシュナムルティ あなたはあなたが知らないかどうかをどのように明らかにするのでしょうか?
質問者 我々は我々がそれを強く欲するのかどうかを明らかにすることができます。
クリシュナムルティ それは我々が話していることとは何の関係もありません。我々が知らないとき、なぜ我々はそれについてシンプルになることができないのでしょうか?
 もし私が知らないなら、私は何をすることになるのでしょうか? 私は誰かに尋ねようとするのでしょうか?
質問者 知らないというのはどういう状態でしょうか?
クリシュナムルティ 私は本当に知りません。質問者がその当のものとは何かを問うたとき、私はその当のものに触れたいと思いました、そして、それはこれである、あれであると言わないようにしたいと思いました。何かを発見するためには、私は非常に自由な精神を手にしなければなりません、それはこう言います、“お願いです、私は本当に知りません”と。私は自分自身で明らかにしていません、私が自分自身で空腹とは何かを定義するように、そのように、私はあなたの定義を余すことなく拒絶します。私は明らかにしたいと思います、そこで、私は言います、私は本当に知りませんと。私は本当に知りません、そして、私は誰かが私に告げるのを待っていません。私は何をするのでしょうか?
質問者 何もしないことです!
クリシュナムルティ しかし、私はあの紳士の問いに答えなければなりません。
質問者 それは妥当な質問ですか?
クリシュナムルティ それは妥当な質問です。
質問者 人間は、この社会の中で、世捨て人にならずに、山や洞穴に引き込まずに生きることができますか?
クリシュナムルティ 我々は、今、二つの問いを手にしています。一つ目は、この社会の中に生きて、暴力にことごとく基づく社会の中に生きて、暴力は消滅しうるのか、ということです。我々は別の問いも発します、“なぜ思考は断片的なのか、なぜ思考は生の中に断片化をもたらすのか”ということです。最初の問いについては、私は、暴力が、ここそこに少しずつではなく、余すことなく消滅しうるのかどうか本当に知りません。もし私が知らなくて、誰かが私に告げるのを待っているのではないなら、私は何をするのでしょうか?
質問者 その暴力に気づくことです。
クリシュナムルティ お願いです、我々はそれら全てを乗り越えてきました。その紳士は、我々一人ひとりが答えなければならない問いを発しました、つまり、いつも、暴力的あるいは非暴力的に反応しているその当のものとは何かです。それは何でしょうか? あなたは言えます、それは私の条件付けであると、それは私の文化であると、それは私の気質であると、しかし、その気質、その文化、その条件付けはその当のものではありません。その当のものは、泥のように、プラスチックのように、いかなる形にも、いかなるサイズにも変えられます、しかし、その当のものとは何でしょうか?
質問者 私の感情、私の分離的感覚です。
クリシュナムルティ はい、そうです、我々はそれら全てを知っています。
質問者 それは自由の感覚ですか?
クリシュナムルティ あなたは依然として周辺領域を描写しています、しかし、その当のものではありません。条件付け、気質、社会、文化、私の住むところ、私の食べるもの―それら全てがその当のものを形作ってきました、その精神を、その泥を、その柔軟なものを。私はその柔らかいものが何であるのかを明らかにしたいと思います、それは何らかの社会として、何らかの文化として形にされています。
 仮に、あなたが本当に知らないとすると、あなたはただ当てずっぽうに話しているだけです。ある人はこう言い、そして、別の人はそう言い、そして、非常に、賢い人がやって来て、こう言います、“おーっ、それらのいずれでもありません、それは他の何かです”と。あなたはどうしようもなくなります。あなたは途方に暮れます。しかし、仮に、あなたがこう言うなら、“友よ、私は知りません。私は明らかにしたいのです”と、そうすると、あなたは問い始めます、“それは存在するのか”と。
質問者 それはあなたの一部です。
クリシュナムルティ 私の一部は、私の記憶、私の気質、私の文化、私の社会、私の他の人との関係性でしょうか?
質問者 私がその当のもの、そのエネルギーを手にすることは可能でしょうか?
              ......
蛸壺囚人”(J.クリシュナムルティ)の日本人というアイデンティフィケイションとは何でしょうか?
              ......
クリシュナムルティ そのエネルギーが存在します、それはその人の生きる社会によって、その文化によって形にされています。何らかのケースに入れられてきて、何らかの形にされてきて、そして、それが暴力的にも非暴力的にも反応するエネルギーがあります。そのようなエネルギーが、それがスラム街の中であろうと、私がローマ法王であろうと、私が裕福な人間あるいは貧しい人間であろうと、それが決して暴力的に反応しないように条件付けられることがありえますか?
質問者 そのようなエネルギーは意識的ではありません。
クリシュナムルティ そうすると、意識とは何でしょうか、もしそのようなエネルギーが意識ではないなら。
質問者 そのようなエネルギーが行動を起こすや否や、意識が生じます。
クリシュナムルティ あなたが一度に沢山のことを問うのはよくありません。もしあなたがゆっくり歩を進めるなら、あなたは自分自身で明かにするでしょう。
 当のものがあるのかないのかは問題ではありません。検討している精神の状態の方がそれの発見するものよりも遥かに重要です。もしあなたがそのことを理解しないなら、発見されるものは重要ではありません、しかし、発見するためには、あなたはそのような精神の状態を手にしなければなりません―そのようなエネルギー、愛、あるいは、それが何であろうと。
 学ぶことができる精神の状態とは何でしょうか? 我々が検討していると、我々は学んでいます。このように学ぶことが意識になります。精神が学ぶためには、それはこう言って始めなければなりません、“私は本当に知りません”と。私はロシア語を知りません、私はロシア語を知っているふりはできません。従って、私は知りません。
質問者 宜しいでしょうか、我々は少し間をおくことができますか?
クリシュナムルティ 喜んで。私はもっと長く間をおこうと思います。
質問者 もし私が知らないなら、そうすると、私は学び始めることができます。
クリシュナムルティ あなたはいつも学んでいる状態で生を歩むことができます、従って、生に対していつもフェアでいられます。
質問者 学んでいる状態は決して応答しませんか?
クリシュナムルティ それはそのうち応答します。あなた方の誰も本当に言ってきませんでした、“私は知りません、私は明らかにしようと思います”と。
 我々は何らかの問いから始めました。我々は暴力を我々の存在のあらゆる次元で、物理的にも心理的にも知っています。この世界に生きている人間として、私は暴力を消滅させることができますか、断片的にではなく、余すことなく。それは、もし思考が、断片を作り出すそれが働かないなら、消滅しうるのみです。そこで、私はなぜ思考がいつも断片の中で働くのかを検討しなければなりません。あなたは、思考が、ビジネスマンとしてのそれが、科学者としての思考が、家族人としての思考が、労働者としての思考が、全て断片化の中で働くことを自分自身で知りますか? その断片化は思考によって育まれ、もたらされます、それが社会的構造を作り出してきました、そして、それが私に科学者になることをできなくさせてきました。私は労働者です、なぜなら、私はその試験に通らなかったからです、私はその専門の学校へ入れませんでした、従って、私は弾かれています。
 思考は必然的に断片化をもたらすのでしょうか?
質問者 再び、我々は知りません。
クリシュナムルティ あなたはそのうち知ります。あなたはそれが分かります。なぜあなたは、“私は知りません”と言うのでしょうか? 科学者が、その人の研究室で、その人の知識を駆使して、その人の経験を通じて、その人の息子を殺害することになる爆弾を作っています。両方とも思考の結果です。
質問者 物理的な目はこのテントの一部分のみを非常に明瞭に見ることができます。
              ......
       首無しの赤い鳥居の丹田とは何でしょうか?
              ......
クリシュナムルティ しかし、その一部分はテントの全体ではありません。私はテントの一部分を見て、それから、別の部分を見るので、私はテントの全体を、その形、その性質、その構造を知覚します。様々な部分を加えることでテントになりますか?
質問者 勿論です。
クリシュナムルティ 物理的にはそうです、しかし、あなたは要点を見過ごしています、宜しいでしょうか。車輪は多くのスポークを備えています。スポークが車輪を作りますか? 部分が全体を作りますか、それとも、もし私が全体を理解すると、部分が適切に備えつけられるのですか?
質問者 はい。
クリシュナムルティ それが我々の言っている全てです。思考は否応なしに断片を作り出すに違いないのでしょうか? 思考はユニットを作り出してきました、“私の家族”、“私のコミュニティ”、“私の社会”、“私の国”、“私の神”、“私の女王”、そして、別の思考が他の国などを作り出してきました。全て断片にすぎません。
質問者 あなたはどの種類の思考について話しているのですか?
クリシュナムルティ 私はあらゆる思考について話しています、つまり、記憶や思考の機能する職場、“私の家族”、“私の欲望”、“私の嗜好”そして有名になろうとする私の思考などあらゆる思考です。
質問者 思考は私が実践すべき私の観念を作り出してきましたか?
クリシュナムルティ はい。職場では、私はビジネスマンとして機能しなければなりません、しかし、私が帰宅すると、私はビジネスマンではありません。あちらで私は不正をするかもしれませんが、ここでは私は不正をしません。
質問者 あなたは、この瞬間、我々が、今、行っている思考のことも意味していますか?
クリシュナムルティ あらゆる思考です、この瞬間の、あるいは、あなたがテントの外にいるときの思考です。私は問うています、あらゆる思考、あらゆる考えは、必然的に断片的ではないのかと。
質問者 思考は断片的であるに違いありません、なぜなら、思考は、記憶、知識、経験、伝統、それがそこから反応する貯蔵庫、過去のそれであろうと、それが作り出している未来からのそれであろうと、それらの反応です。
クリシュナムルティ あなたは思考が断片的であるのかどうかを明らかにしましたか? もしあなたがまだ明らかにしていないなら、あなたは何を行おうとしているのでしょうか? どのようにあなたは明らかにするのでしょうか?
質問者 思考はそれ自体が精神の一断片、精神の一部ではないのですか?
クリシュナムルティ はい。従って、それは必然的に過去の中で機能しているに違いありません。あなたは何を行おうとしているのでしょうか? あなたは全ての断片を、憎悪や愛、あらゆるものを一緒くたにしようとしているのでしょうか―それら全てを寄せ集めて、それらを混ぜ合わせて、こう言うのでしょうか、これが本当の当のもの、これが全体、これが統合されていると。
質問者 我々が言葉を、文句を、シンボルを使うや否や、それはすでに断片になっています。
クリシュナムルティ しかし、我々は断片の中を生きています、つまり、“私の国”、“私の妻”、“私の夫”、そして、私は自分自身に言います、“非断片的に機能することは可能か”と。
質問者 私は、それは起こりうると思います、ある意味で。
クリシュナムルティ それは起こりうるとあなたが思うのではなく。
質問者 それは起こりえます。
クリシュナムルティ 私は知りません。それは起こるかもしれませんし、起こらないかもしれません。私は知りたいと思います、私は明らかにしたいと思います、私はそのことに熱気を帯びています。
質問者 私は知らなくて、知りたいと思うとき、私は思考が断片的であるのを発見します。
クリシュナムルティ このことを検討するのに、二分いただけますか? 私は暴力的です。暴力は私の性質の一断片です、一断片にすぎません、なぜなら、私は優しくもあるからです。私は、時折、寛大です、そして、時々、私は私のプライドを露わにします、傲慢になります、それはもう一つの断片です、時折、私は謙虚さを弄ぶなどします。それが私の生です。私は断片の中を生きています、そして、それぞれの断片が他のそれらと矛盾しています。私は自分自身にこう言います、“これは果てしないプロセスなのか、それは消滅しうるのか”と。
 これは知的な、言葉による、修辞的な問いではありません、なぜなら、私はそれら全ての断片の間で引き裂かれているからです、私は混乱しています、私はどうしてよいのか知りません。私は非常によく知っています、それらは統合できないと、全ての部分は、私がこう言えるように、一緒くたになりえません、“これが全体です”と。そうすると、私は分かります、思考が存在する限り、断片が存在すると。そうすると、次の問いが生じます、私は考えることを止められるのかと。私は考えることを止められません、なぜなら、私は私の行くところを知らなければならないからです、私は私の家を、私の妻を、私の子供たちを、私の職場を知らなければならないからです。思考はある次元では必要です、しかし、別の次元では全く必要ではないかもしれません。私が手紙を書くとき、私が何かを誰かに伝えるとき、私が何かをデザインしているとき、私が何かを思い出さなければならないとき、それは必要かもしれません。私は誰かに何かを負っていて、私はそれに報いなければなりません、従って、私は思考を、記憶を手にしなければなりません。しかし、私は分かります、それは別の次元では全く必要ではないかもしれないと、そして、このことは矛盾していないかもしれないと。私は、思考が必要とされる領域を、それが断片的であることを承知して、断片が破壊的であることを承知して、それら断片が混乱や争いを引き起こすのを承知して、明かにしなければなりません。私は気づきます、私は断片化を心理的に起こさせてはならないと。もしいかなる心理的な断片化も起こらないなら、そうすると、恐らく、日常の活動の中で、いかなる断片化も生じないでしょう。
 そうすると、私の関心はこうです、断片化は心理的に止みうるのか、ということです。もしそれが消滅しうるなら、そうすると、その非心理的な断片化はそのどこでも完全に機能しえます。ほとんどの我々にとって、この問いかけは理論的な問いかけです、そして、あなたはこう言うかもしれません、“お願いです、それはとても複雑です、私は本当に知りません、ただ私に告げて下さい”と。あなたがこう言うと、それはもっと叡智的で必要なこととなるでしょう、つまり、“私は知りません、私は自分自身で心理的に思考が断片的に機能するのを止めることができるのかどうかを明らかにしたいと思います”と。あなたがこう言うとき、“それは私の国であり、私の神であり、私の信念である”と、思考がそう言って行動するとき、それは断片的に機能しているに違いありません。私は分かります、思考は記憶であり、経験であり、伝統であると―その貯蔵庫です。私は、話すために、書くために、私の家へ、職場へ行くためにその貯蔵庫を手にしなければなりません、しかし、なぜ私は心理的な貯蔵庫を手にするのでしょうか―断片化をもたらすそれです。私は貯蔵庫とは無縁に生きられますか、何かのノウハウを知る貯蔵庫を例外として。
 あなたが待っているとき、期待しているとき、あなたは本当に知らないという状態の中にいます。私は、あなたが、誰かが、あるいは、何らかの書物が、何らかの教師が、あなたに現にある通りのことをあなたに告げてほしいと願うことを話しているのではありません。そのシンプルなことから―それは本当にこの上なく複雑なことですが―逸れないようにしましょう。心理的な貯蔵庫が全くなくなることは可能でしょうか? 私がそれを手にしている限り、私は暴力的です、なぜなら、私はあなたにそうすることで敵対しているからです。あなたはあなたなりの心理的な貯蔵庫を手にしています、あなたの記憶であり、あなたの経験であり、あなたの教条であり、あなたの国であり、あなたの神々であり、あなたの信念であり、あなたの信条です。もし私も私なりの貯蔵庫を手にしているなら、我々はいつも戦っています、あらゆる貯蔵庫が争いを生みます、従って、暴力をもたらします。
 そのような心理的な貯蔵庫は破壊されえますか、消滅されえますか? もしあなたがこう言うなら、“どうか、私にそれを破壊する方法を教えて下さい、私が私の妻との良い関係性を手にするためです”と、それには何の意味もありません。もしあなたが平和主義者で、あなたは世界と平和に生きていきたいと願うなら、あなたには動機があります、そして、その正に動機が断片化です。あなたはその複雑さが分かりますか? これはただの子供の朝の議論ではありません、あなたは、非常に、非常に深く、このことを検討する必要があります。
 思考は―それは断片化をもたらします―消滅しえますか? 人々はそうできると言ってきました、そして、人々はそれを消滅させるメソッドを手にしています。その人たちの行ってきたことを見て下さい! あなたはあなたのメソッドを手にしています、そして、私は私のメソッドを手にしています、あなたにはそれを消滅させるためのあなたなりの動機があります、そして、私にはそれを消滅させるための私なりの動機があります。その動機はすでに断片を生じさせています。私は思考を消滅させたいと思います、そこで、私は何らかの瞑想を発明します、そして、私は言います、“これをしなさい、それをしてはいけません”と。私が取り除きたいと思うその正に当のものが強化されています。
質問者 時々、非暴力的な人々はそれと格闘する人々です。
クリシュナムルティ 全く同感です、非暴力的な人たちは神経症的です、なぜなら、その人たちは異なるあり方で暴力的であるからです。
質問者 時々はそうです、そして、時々はそうではありません。
クリシュナムルティ 牧師補の卵のようです。あなたは牧師補の卵のことを知っていますか? 腐った卵もあれば、新鮮な卵もあるということです、その人たちは主教の食卓で牧師補にそれらを差し出しました。看板倒れということです。(笑) それは古い英語の表現です、恐らく、今の世代はそれを知りません。
質問者 生は選択に満ちています、従って、生は暴力に満ちています。我々は選択する必要があります。
クリシュナムルティ 私は選択の必要性が全く分かりません。混乱している精神のみが選択します。あなたはそれが分かりませんか? 明瞭なときには、あなたは選択しません。明瞭なときには、選択の必要性はありません。あなたはこれか、それとも、それかと選択して行動しません、もしあなたの精神が非常に明瞭なら。あなたは行動します。なぜ精神は不明瞭なのでしょうか? それが混乱するのは、人々が言ってきたからです、そして、書物が言ってきたからです、あなたは選択しなければならないと、そして、あなたはそれを受け入れるからです。しかし、もしあなたが選択を疑い始めるなら、そうすると、あなたは否応なくこの点に至ります、つまり、混乱した精神はいつも選択に振り回されていると、従って、争いが生じると。明瞭な精神は決して選択しません、どこに選択の余地がありますか? それは物事を非常に明瞭に見ます。それはこう言いません、“私はカトリック教徒であるべきか、あるいは、プロテスタント教徒、あるいは、私はヒンズー教徒になるべきか”と。もしあなたがその愚かさを見て取るなら、あなたはそれらのいずれでもありません。しかし、もしあなたがこう言うなら、“プロテスタント教徒に少し真理があります、カトリック教徒に少し真理があります、ヒンズー教徒に少し真理があります、同様に、イスラム教徒にも”と、そうすると、あなたはあらゆる真理を集め続けます。
質問者 判断をするということは選択をするということと非常に近いことです、しかし、私は、それは必要であると考えます、そして、私は、唯一危険なことは、時間的な間隙と、その中で起こりうる変化であると考えます。
クリシュナムルティ この狂気の世界の中で最も難しいことの一つは明瞭な精神をもつことです。誰もが私に何をすべきかを語っています―私の夫あるいは妻、社会、新聞、政治家たち、聖職者たち、専制者である主席司祭、長老。私は、何をすべきか言われるのを拒絶します、私は影響されるのを拒絶します。
質問者 あなたは、人間の性質の中の真実ではない逆説的なタイプの精神を喧伝しています。
クリシュナムルティ 現にある通りの人間の性質はそれ自体が非常に逆説的です。私はいかなるものも喧伝していません―止して下さい! 私は新しい哲学や新しい理論などいかなるものも全く喧伝していません。私はただ現にある通りのことを指摘しているだけです。それは動物であり、それは文明化されたそれです。その動物はあるべき何かと格闘しています、そして、それが我々の生です。私は人間の生を現にある通りに取り上げています、それがどうあるべきかではありません。そのどうあるべきかというのは非在の代物です。従って、それは逆説的になります。もしあなたが現にある通りのことを取り上げるなら、それは悲惨な何かです、それは混乱です。
 我々は非常に真剣なことを、今朝、話してきました、我々は言語的に何かを表明してきていません。我々は暴力を検討することからスタートしました。逆説は生じません、矛盾は生じません、我々は暴力的です、我々全てがそうです。最高の宗教的聖職者あるいは聖者でありたいと思う人は暴力的です。野心は暴力を生みます、政治家のそれや、将軍のそれのように。私はこの世界を暴力とは全く無縁に生きられますか、その途方もない矛盾、その暴力や憎悪の中で―一瞬ではなく、時折ではなく、余すことなくそのように生きられますか? それは精神が、思考が、もはや断片を作り出していないときに可能です。
 思考の全プロセスを検討するためには、あなたはそれを見守る必要があります、学ぶ必要があります、あなたの行動の仕方を、あなたの考え方を、あなたの感じ方を観察する必要があります、あなたが肌の黒い人と会うときのあなたの反応がどうであるのかを観察する必要があります。あなたはそれら全てを知らなければなりません。
質問者 人はいつも暴力的でしょうか?
クリシュナムルティ あなたは一瞬暴力的です、そして、他の瞬間は非暴力的です、優しさと残酷さです―あなたの家庭に優しくはあっても、それでも、あなたは銃を手にして外へ出て誰かを撃ちます。それが起こっていることです。それら全てを理解するためには、あなたは思考の性質を理解しなければなりません。
                    1966年8月8日 ザーネン
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