全く異なる生き方

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11 傷つくこと、人を傷つけること

アラン W アンダーソン(A) 我々の会話の中で一つのことが私にとって非常に強く頭に浮かびました。我々は我々が思考や知識との関係で機能不全的になっていることを話してきましたが、あなたは一度も我々は思考を取り除くべきであるとか、そのような知識それ自体に何か根本的な問題があるとも決して言ってきませんでした。そこで叡智と思考との正しい関係性の問題が起こります、叡智と思考との創造的な関係性を維持するものとは何なのかという問題が起こります―恐らくそれは何らかの永続する原始的な活動です。そしてそのことを考えていると、私はあなたが恐らく同意するのかどうかと思うのは、人間の歴史の中で神の概念がこの永続的な活動との関係から生み出されてきたことです、そしてこの概念がとても酷く乱用されてきたことです。そしてこのことは宗教現象そのものの全問題を提起します。我々はそのことを議論できるでしょうか?
クリシュナムルティ(K) 宜しいですか、宗教、愛あるいは神のような言葉はほとんどそれらの全ての意味を失っています。それらの言葉が途轍もなく乱用されてきました、そして宗教がはなはだしい迷信になっています、プロパガンダや信じられない信仰や迷信、人の手になる或いは精神によって作られたイメージの崇拝などが結合されたものになっています。そこで我々が宗教について語るとき、私は、もし宜しければ、我々が“宗教”という言葉をその言葉の本当の意味で使っていることを極めて明確にしておきたいと思います、キリスト教的な意味でもなく、ヒンズー教、イスラム教あるいは仏教的な意味でもなく、あるいはここアメリカや他のどこかで宗教の名の下で行われている全ての馬鹿げたものの意味でもなくです。
 私は“宗教”という言葉が人の全てのエネルギーを集めることであると思います、あらゆる次元で、物理的にも、倫理的そして精神的にも、そのためにそれは大いに気をつけていることをもたらすのだと思います。そのように気をつけている中には境界というものがありません、そしてそこから―活動します。私にとってはそれが宗教の意味です、つまり、思考の恐らく捉えられないことを理解する余すことのないエネルギーの集積です。思考は決して新しくありません、決して自由ではありません、従って、我々がすでに言っていたように、それはいつも条件づけられていて断片的です。そのように宗教は思考によって、恐れによって、満足や快楽の追求によって作り上げられるものではなく、それら全てを全く超えた何かであり、それはロマンチシズムや憶測的な信仰や感傷主義とは何の関係もありません。そこでもし我々がその言葉の意味から逸れないで、世界中の宗教の名の下に行われている全ての迷信的なナンセンスを脇へ除けることができるなら、それらは本当に全くのドタバタ劇になっていて、どんなにそれらが美しくても、それらを脇へ除けることができるなら、私は我々がそこから始めることができると思います。もしあなたがその言葉のそのような意味に同意するなら。
 はい。私はあなたが話しているとき考えていました、聖書の伝統の中に預言者たちの発言があり、それはあなたの言っていることを指摘しているように思われます。私に思い当たるのは、イザヤが神の役割をしていて、彼が言います、“私の考えることはあなたの考えることではありません、私が行うことはあなたの行うことではありません、地上遙か彼方の天上ほどの高さに私の考えることはあるのであり、そしてあなたの考えることがあるのです、だからそのような意味で私について考えるのは止めない。そして私への手立てを企てて私を探そうと試みるのは止めなさい、なぜなら私の行うことはあなたが行うことよりも高度だからです”と。そしてあなたが気をつけている行為のことを話しているとき、全人間の全てのエネルギーのそのような集積について話しているとき、私は非常に単純な文句を思い出しました、静かにしていて私が神であることを知りなさいと言うものです。静かにしていなさい、ということです。人が宗教史を考えるとき、儀式と比べて僅かしかそのことに注意が払われてこなかったことは驚くべきことです。
 しかし私は我々が自然に触れなくなったとき、宇宙に触れなくなったとき、雲や湖、鳥たちに触れなくなったとき、我々がそれら全てに触れなくなったとき、聖職者たちがやってくるのだと思います。そうしてあらゆる迷信、恐れ、人を食い物にすることなど全てが始まりました。聖職者たちが人間といわゆる神との間の仲介者になりました。私は最初のリグヴェーダの中には神への言及は全くないといわれました、つまり、計り知れない何かを崇拝することだけですと、自然の中や大地の中、雲の中、樹木の中、見ることの美の中に表現されている計り知れない何かを崇拝することだけですと。しかし非常に非常に単純なことなので、聖職者たちは言いました、それは単純すぎると。
 それをごちゃごちゃにしよう。
 少しだけそれをごちゃごちゃにしよう。そうしてそれが始まりました。私はこのことが古代のヴェーダの時代から現在までたどれると信じます、聖職者が解釈する人、仲介する人、説明する人、人を食い物にする人になりました、これは正しい、これは間違っている、あなたはこれを信じなければならない、さもないとあなたは地獄に落ちるなどと言った人間です。彼は恐れを作り出しました、美の崇拝ではなく、余すことなく争いとは無縁に生きられる生の崇拝ではなく、何か外にあるもの、超越している何か、彼が神と考える何か、彼がそのためにプロパガンダする何かを作り出しました。
 そのように、私は我々が最初から“宗教”という言葉をもっとも単純な意味合いで使うべきだと思います。つまり、あらゆるエネルギーの集積という意味であり、そうすると余すことなく気をつけていることになります、そしてそのように気をつけている質の中に計り知れないものがやってきます。なぜなら我々が先日言ったように、はかられることは機械的だからです。それは西洋が培ってきたことであり、驚くべきことを行っています、技術的に、物理的に、医学の世界で、科学や生物学などの世界で、しかしそれは世界をとても皮相的に、機械的に、通俗的に、物質主義的にしています。そしてそれが世界中に広がっています。そしてこのような物質主義的な考え方に反射的に反応してそれら全ての迷信的で、無意味で、不合理な宗教が存続しています。インドから来て西洋の人たちに瞑想法や呼吸法を教えるグルたちの馬鹿馬鹿しさが起こります、彼らは言います、“私は神です、私を崇拝しなさい”と―それはとても馬鹿げたものに、とても子供じみたものに、とても未熟なものなっています。それら全てが“宗教”という言葉の腐敗を指示します、この種のばか騒ぎや白痴的行為を受け入れる人間の精神の腐敗を指示します。
 はい。私はヴェーダについて行ったスリランカオーロビンドの研究の中にある彼の発言のことを考えていました、彼はそのような凋落を一文の中で辿っています。彼は言いました、それは賢人の言葉に由来すると、それからそれは聖職者たちに伝わり、さらにそれは学者たちや大学人たちに伝わったと。しかしその研究の中にはそれがどのようにして聖職者たちに伝わったのかの説明はありませんでした。
 わたしは聖職者たちがどのようにしてその種のことを手にしたのかは極めて明らかだと思います。人は自分自身の他愛のないささやかなことに、他愛ないささやかな欲望や野望に皮相的にとても関心があるので、人はそれよりももう少しましな何かを願います、人はもう少しロマンティックな何かを、もう少し感傷的な何かを、日常生活の決まりきったいやなこと以外の何かを願います。そこで人が周りを見渡すと聖職者たちが言います、“こちらへ来なさい、良いものがあります”と。私は聖職者たちがどのようにしてこのことに這い入ってくるのかは非常に単純なことだと思います。あなたはそれをインドで目にしますし、西洋でも目にします。あなたはそれをどこにでも目にします、人が日常生活に、日々の生活の糧を稼ぐことに、彼の家やその他の全てに関心を持ち始めて、人がそれ以上のものを要求することになると、あなたはそれをどこにでも目にします。人は言います、これら全ての後に私は死にますが、もっと何かがあるはずですと。
 そうすると根本的にそれは自分自身にとって何か...を確実にする問題です。
 ...神の恵みを。
 ...何らかの神の恵みが人の生き死に沈む悲しい巡りあわせから人を守ってくれるのです。一方で過去のことを考え、他方で未来のことを期待して、人は“今”から抜け落ちます。
 はい、その通りです。
 分かります。
 そうするともし我々がそのような“宗教”という言葉の意味から逸れないでいられるなら、次の問いが起こります、精神が余すことなく気をつけていると名状しがたきものがやってくるのかと。宜しいですか、個人的に、私はヴェーダやギータ、ウパニシャッド、聖書などそれら全てやいかなる哲学書も読んだことがありません。しかし私はあらゆることを問いました。
 はい。
 問うただけではなく観察もしました。そして人は完全に静かな精神の絶対的な必要性が分かります。なぜなら正に静かな中からのみあなたは起こっていることに気づくからです。もし私がお喋りをしているなら私はあなたに耳を傾けていません。もし私の精神が絶えずざわざわしているなら、私はあなたの言っていることに気をつけていません。気をつけていることは静かにしていることを意味します。
 何人かの聖職者たちがいて、その人たちはたいてい最後は大きな問題に行き着きました、その人たちはこのことを理解したように思われます。わたしはマイスターエックハルトの発言を考えていました、つまり、自然という書物を読むことができる人なら誰でもいかなる聖典も全く読む必要がないと。
 正にそれです。
 もちろんです、彼は晩年になって大きな問題を抱えました、そして彼の死後に教会は彼を糾弾しました。
 もちろんです。教会という形の組織信仰やその他の全ては柔軟ではありません、それは本当の深さや本当の精神性の質を持ち合わせていません。あなたはその現実を知っています。
 はい、知っています。
 そこで私は問うています、思考のはかりごとを超えた何かに気づける精神の質とは何か、従ってそのような心や頭脳の質とは何かと。そのような精神の質とは何ですか?  なぜならそのような質が宗教的な精神だからです、それはそれ自身が聖なるものというこのような感じを抱く精神の質であり、従って計り知れない神聖な何かを見て取ることができる精神のそのような質です。
 “献身”という言葉がその正しい意味で使われたときにこのことを意味するように思われます。あなたの以前の言葉を使うと、我々の全てのエネルギーを集めて一点に集中して気をつけている...
 あなたは気をつけていることが一点に集中することだと思いますか?
 いいえ、私がそう言ったとき私は焦点を当てることを意味して言ったのではありません。
 はい、それが私の気になったことでした。
 私がむしろ言おうとしたことは、精神を全く静かに、そして事の前後を考える思考に関心を持たずにそれ自身を統合することです。単にそこにいることです。“そこに”という言葉も良くありません、なぜなら、それが“そこ”や“ここ”やその他の全てがあるということを暗示するからです。あなたの言っていることを正しく判断する言葉を見つけるのが非常に難しいように私には思われます、なぜならそれは正に我々が話すとき、我々の言い方が時間の中にあって進行的だからです、つまり、それはグラフィックアートよりも音楽のような質を持つのではありませんか。あなたは絵画の前で立ち止まることができますが、音楽を聞いてそのテーマをとらえるためには、あなたは事実上その終わりまで聞いてその全体をつかむまで待たなければなりません。そして言葉においてもあなたは同じ難しさに出合います。
 はい。それではこの問いをさらに検討してみましょう、精神の性質と構造とは何かです、従って精神の質です、それがそれ自身神聖で聖なるものというだけではなく、それは計り知れない何かを見ることができるということです。我々は先日苦しみについて話していました、個人的なそれと世界の悲しみです、つまり、我々は苦しんでいるに違いないのですか、苦しみがあるに違いないのですか。あらゆる人間がそれで恐ろしい時間を過ごしています、そして世界の苦しみが存在します。人はそれを経験しなければならないのですか、それとも、そこにあるものとして人はそれを理解して、それを超えていかなければならないのですか? それが宗教的精神の一つの質です、我々がそのようにその言葉を使っている意味で、それが宗教的精神の一つの質です、つまり、それは苦しむはずがありません、それはそれを超えています。それはそれが鈍感になることを意味しません。その反対です、それは熱気に満ちた精神です。
 我々の会話の中で私がよく考えてきたことの一つは言葉そのものです。何度も何度も私に思われることは、我々のいつもの言葉の使い方によって、我々が言葉それ自身の指し示すことを本当には見ていないことです。“宗教”という言葉を再び取り上げてみます。学者たちはそれがどこから来たのかについて意見を異にします、ある人たちはそれが何らかの縛りであると言い、他の人たちは違うと言い、それは思考では表現し尽せない言霊であるとか光輝であるとかと言います。私には否定的ではない別の意味の縛りがあるように思えます、もし人がこの気をつけている行為を行っているなら、人はロープの紐で縛られているようには縛られていません。
 もう一度はっきりさせましょう。我々が“気をつけている”という言葉を使うとき、精神集中と気をつけていることとの間にある相違があります。精神集中は排除です。私は集中します、つまり、私は私の全ての思考をある点に注ぎます、従ってそれは排除しています、壁を作っています、そうすることによって、それはその対象に精神の全てを集中できます。一方、気をつけていることは精神集中とは全く異なる何かです。気をつけている中には何の排除も、何の抵抗も、何の努力もありません―従って何の境界も、何の制限もありません。
 あなたは“感受する”という言葉をどのように感じますか?
 再度、感受する当のものは何ですか?
 すでにそこで我々は何らかの分断をしています。
 はい。私は“気をつけている”という言葉は本当に非常に良い言葉だと思います。なぜならそれは精神集中ということを理解するだけではなく、感受すること、つまり感受するものと感受されるものとの二重性を見て取るだけではなく、それは二重性の性質や対極関係の矛盾をも見て取るからです、そして気をつけていることは頭脳だけではなく精神や心、神経、全存在が、人間の全精神がその全てのエネルギーを注いで気づくことを意味するからです。私は、少なくとも私にとっては、それが気をつけていることや気をつけることを意味すると思います。集中するのではなくて気をつけることです。それは耳を傾けること、見ること、あなたの心をそれに注ぐこと、あなたの精神をそれに注ぐこと、あなたの全存在を注いで気をつけることを意味します、そうでなければあなたは気をつけることができません。もし私が他の何かを考えているなら、私は気をつけることができません、もし私が自分自身の声を聞いているなら、私は気をつけることができません。
 興味深いことは、我々が英語で客の用を聞く人のことを“サービス係”ということです。私はこのことに関連して待つことや辛抱することという考え方を探ろうとしています。
 宜しいでしょうか、再度私は思うに、待つことは何かを待っている人を意味します、つまり、再度何らかの二重性が生まれます。そしてあなたが待つとき、あなたは何かを期待しています、つまり、再度二重性が生まれます。何かを待っていて何かを受け取ろうとしている人です。そこでもし我々がしばらくの間その“気をつけている”という言葉から逸れないでいられるなら、我々はそのような精神の質とは何かを検討すべきです、つまり、それが気をつけているので、それは理解して関係性の中を生きて行動し、そして責任を負って振る舞い、我々の話したようにそれが心理的に恐れを全く抱かないので、従って快楽の活動を理解する精神の質のことです。そうすると我々はこの問いに至ります、そのような精神とは何かと。私は傷の性質を議論することがこの時点で価値があることだと思います。
 傷の性質ですか?
 なぜ人間は傷つくのかです。誰もが傷つきます。
 物理的にも心理的にもということですか?
 とりわけ心理的にです。物理的には我々はそれに耐えられます、我々は痛みに耐えて言います、それが私の考えることに支障がないようにしよう、それが私の精神の心理的質を蝕むことがないようにしよう、精神はそれを見守ることができると。しかし心理的傷はもっとずっと重要であり、それと取り組んで、それを理解することが難しいのです。私はそれが必要なことだと思います、なぜなら傷ついている精神は無垢な精神ではないからです。“無垢”という言葉が正に純潔ということから、傷を負っていないということから来ています。傷つかないでいられる精神、つまり、その中に大いなる美が生まれるということです。
 はい、生まれます。我々は普通“純潔”という言葉を何かが欠けているという意味で使います。
 そのように私は宗教を議論するとき我々は非常に深く傷の性質を検討する必要があると思います、なぜなら傷ついている精神は無垢な精神ではないからです、そしてあなたは余すことなく気をつけているためにはこの精神の質が必要です。
 もし私があなたの言っていることを正しく理解してきているなら、私は恐らくあなたが人は人が傷ついていると考え始めるときに傷つくと言うと思います。
 宜しいですか、それはそれよりももっと深いことではありませんか。子供のころから両親は子供を他の子供と比べます。
 物心つくころから。
 あなたが比べるとき、あなたは傷つけています。
 はい。
 しかし我々はそうします。
 おお、はい、もちろんそうします。
 それでは子供を、何かと比較することなく、何かを模倣するすることなく育てることができますか? そうすると、従って子供は決してそのことで傷つきません。そしてまた人は人が自分自身についてイメージを築き上げてきたので傷つきます、それは何らかの抵抗の形のイメージであり、あなたと私との間の壁としてのイメージです、そしてあなたがその壁の痛いところに触ると私は傷つきます。そうすると教育するときに比較しないことであり、自分自身についてイメージを抱かないことです。それは生の中で最も重要なことの一つです、自分自身についてイメージを抱かないことです、もしあなたがそのようなイメージを抱けば、あなたは必ず傷つきます。仮に人が人は非常に良い人であるとか、人は成功者であるはずであるとか、人には能力や才能があるというようなイメージを抱くなら、あなたは人が築くイメージを知っています、必ず誰かがやって来てそれをけなします。必ずそのイメージを壊すような思いもよらないことや出来事が起こり、人は傷つきます。
 このことは名前の問題を浮かび上がらせますか?
 おお、はい。名前や姿形です。
 子供は名前を与えられて、その子供は自分自身をその名前と一体化させます。
 はい、子供はその名前そのものと一体化します、しかしそのイメージではなく、ただその名前と一体化します、つまり、ブラウンであり、ブラウンさんです。それには何の意味もありません、しかし彼がブラウンさんは社会的に、倫理的に違っていて、優れているとか劣っているとか、古い家系の人であるとか、上流社会や貴族社会や何やらに属しているとかと何らかのイメージを築き上げるや否や、そのようなことが始まって、それが思考によって鼓舞されて維持されるや否や、その俗物性です、あなたはそれら全ての類を知っています、そうするとあなたは必ず傷つくことになります。
 あなたが言っていることは、私が思うに、ここでの根本的な混乱は自分自身をその名前であるとイメージすることの中にあるということです。
 はい、その名前や身体と、あなたが社会的に異なっているというイメージと、あなたの両親や祖父母が貴族であるとかあれやこれやのイメージと一体化することです。あなたは英国の全ての貴族崇拝を知っています、そしてここアメリカでの違った種類の貴族崇拝を知っています。
 我々は名前を保持する言語を話しています。
 はい、そしてインドでは、それはブラフマンであったり、非ブラフマンであったり、それら全ての類です。そのように教育によって、伝統によって、プロパガンダによって我々は自分自身について何らかのイメージを築き上げてきました。
 宗教という点でここにはヘブライ語の伝統の中にある、例えば、神の名を唱えることの拒絶と何らかの関係がありますか?
 言葉はそれが伝えようとするその当のものでは何としてもありません。ですから、あなたはそれを唱えることも唱えないこともできます。もしあなたが言葉はそれが伝えようとするその当のものでは決してないことを知るなら、表現は表現されているその当のものでは決してないことを知るなら、それは問題ではありません。
 はい、私がいつも何年にもわたって深く言葉のルーツの研究に惹かれてきた理由の一つは、単純に言葉の大部分が何か非常に具体的なことを指摘するからです。
 非常に。
 それはしばしば何らかの行為よりも“もの”であったり、“仕草”であったりします。
 はい。
 何らかの行為です。私が今その言い方をしたとき、傷つくことを考えると、私は私の言葉にもっと気をつけていて、イメージをあれこれ考えるということに言及しておくべきでした、その方がよい言い方ではありませんでしたか?
 はい。それでは子供が決して傷つかないように子供が教育されるということは可能ですか? 私は教授たちや学者たちが子供は子供が世の中で生きていくためには傷つかなければならないと言うのを聞いてきました。そして私がその中の一人にこう尋ねたとき、つまり、あなたは自分の子供が傷ついてほしいと思いますか、その人は全く黙ってしまいました、つまり、その人は理論的に話していただけでした。宜しいですか、不幸にも教育によって、社会構造によって、我々が生きている社会の性質によって、我々は傷ついてきています、我々は傷つくことになる自分自身についてのイメージを抱いています、それではイメージを全く作り出さないことは可能ですか? 私は私が明確に話しているのかどうか分かりません。
 はい、明確です。
 つまり、仮に私が自分自身について何らかのイメージを抱いているとします―幸運にも私は何のイメージも抱いていませんが―もし私がイメージを抱いているなら、それを拭い去ることは可能ですか、それを理解して、従ってそれを溶解して、自分自身についてのイメージを決して新しく作り出さないことは可能ですか? お分かりですか? 何らかの社会の中に住んでいると、何らかの教育を受けていると、私は必ず何らかのイメージを築き上げています。それでは、そのようなイメージを拭い去ることができますか?
 それは完全に気をつけていることによって消え去ることになるのではないのですか?
 それが私のゆっくりと歩んでいこうとしていることです。それは完全に消え去るでしょう。しかし私はこのイメージがどのようにして生まれるのかを理解しなければなりません。ただ単に、分かりました、私はそれを拭い去ります、と言えることではありません。
 はい。
 それを拭い去る手段として気をつけている―そのようにはいきません。そのイメージを理解するとき、その傷を理解するとき、人が受けてきた教育を理解するとき、人がどのように家族や社会の中で育てられてきたのかを理解するとき、それら全てを理解するとき、そのような理解から、気をつけていることが起こります、気をつけていることが最初にあって、それからそれを拭い去るのではありません。あなたはもしあなたが傷ついているなら気をつけていることはできません。もし私が傷ついているなら、どうして私は気をつけていられますか? なぜなら、そのような傷が意識的にも無意識的にもこのように余すことなく気をつけていることを妨げるからです。
 驚くべきことは、もし私があなたを正しく理解しているなら、機能不全の歴史の研究の中でさえも、もし私が余すことなくそのようなことに気をつけているなら、気をつけている行為と癒しが生じることとの間に時間を挟まない関係が生まれることになるということです。
 その通りです。
 私が気をつけていると、そのことが去って行きます。
 そのことが去って行く、はい、それです。そうすると、二つの問題が関わっています、つまり、傷が癒されて何の痕跡も残らないということがありうるのか? そしてこれから先の傷が何の抵抗もなく完全に防げるのかということです。お分かりですか。それらが二つの問題です、そしてそれらは私が私の傷の理解に余すことなく気をつけているときにだけ理解されて解決されます。私がそれらの傷を見てみるときであり、それらを解釈しないで、それらを拭い去ろうと思わないで、ただそれらを見てみるときです―我々が気づきの問題に踏み込んだときに言ったように。ただ私の傷を見て取るのです。私が受けてきた傷です、侮辱であり、怠慢であり、さりげない言葉であり、何らかの身ぶり手ぶりなどそれら全ての傷です。そして人が使う言葉です、特にこの国ではそうです。
おお、はい、はい。あなたの言っていることと“救済”という言葉との間に何らかの関係があるように思われます。
 サルヴァ―レ、救うということです。
全体的になるということです。
 全体的になること。宜しいでしょうか、どうしてあなたは全体的になれますか、もしあなたが傷ついているなら。
それは不可能です。
 それがこの問題を理解することの重要な理由です。
はい、そうです。しかし私は貨車一杯ほどの傷をすでに負って学校へ来る子供のことを考えていました、ベビーベッドに入るような小さな傷ではなく、すでに非常にたくさんの傷を負っている子供のことです、なぜならそれは傷なので、事態は限りなく増幅します。
 もちろんです。その傷のせいで彼は暴力的になります、その傷のせいで彼は怯えて、従って引きこもります、そしてその傷のせいで彼は神経症的なことを行うでしょう、その傷のせいで彼は彼に安全性をもたらすものを何でも受け入れるでしょう―神です、彼の神の観念は決して傷つかない神です。
時々この点で我々と動物との間の区別がなされます。例えば、酷く傷ついている動物はいざというときに攻撃するという点で誰に対しても反射的に反応します。しかしある時間が経過すると、それは三、四年かかるかもしれませんが、もしその動物が愛されると...
 宜しいでしょうか、あなたは愛されると言いました。我々はそのようなものを手にしていません。
はい。
 両親は子供への愛を持っていません。彼らは愛について語るかもしれません。なぜなら彼らが下の子を上の子と比べるや否や彼らはその子を傷つけているからです、あなたの父親はとても賢い人なのに、あなたはと言ったら何て愚かな子なのと。それがその始まりです。学校で彼らはあなたに成績を与えます、それが傷です、あるいは成績をつけません、それは巧妙な傷です。そしてそれが記憶に留められて、そこから暴力が生まれます、あらゆる種類の攻撃性が生まれます。そのように精神は、もしこのことが非常に非常に深く理解されないなら、全体的にされえません、全体的になりえません。
私の頭に浮かんだことは、その動物は、仮に言わば頭脳の損傷がなければ、やがて愛で応えるだろうということです。しかし人間では愛がそのように強制されることはありえません。それは人が動物を強制して愛させるということではなく、動物は、それが無邪気なので、やがては単純に応じる、受け入れるということです。
 受け入れる、もちろんです。
しかしそうすると人間は動物が行っているとは思えない何かを行っています。
 はい、人間は傷ついていて、そしていつも傷つけています。
 その通りです。人が自分の傷をあれこれ考えているとき、人は人に向けられた正に寛大さや愛の行為を誤って解釈する恐れがあります。そうすると我々はここで非常に大変な何かに関わっています、つまり、子供が学校へ上がるころまでに、七歳までに...
 その子はすでに何かを受けています、何かを経ています、拷問を受けています。その悲劇があります、宜しいでしょうか、それが私の言おうとすることです。
 そしてあなたは問うています、子供を子供が...ように教育する方法があるのかどうかを。
 ...決して傷つかない。それが教育の一部です、それが文化の一部です。しかし我々の文明は傷つけています。宜しいでしょうか、あなたはこのことを世界中で目にします、この絶え間ない比較や絶え間ない模倣、そして絶え間なく言います、あなたはそれです、私はあなたのようでなければならないと。私はクリシュナのようでなければならない、ブッダのようでなければならない、イエスのようでなければならない、お分かりですか。それは傷です。宗教は人々を傷つけてきました。
子供は傷ついている両親のもとに生まれて、学校へ送り出され、そこで傷ついている教師から教えられます。そこであなたは問います、このような子供を教育してその子が回復するような方法はないのだろうかと。
 私はそれが可能だと思います、教師や教育者が自分は傷ついていること、そして子供が傷ついていることを悟るとき、彼が彼の傷に気づくとき、そして彼が子供の傷にも気づくときに可能だと思います、そうするとお互いの関係性が変わります。そうすると彼は数学や他の何かを教えているとき自分自身を自分の傷から自由にしているだけではなく子供をその子の傷から自由にすることを手助けしているでしょう。結局のところ、それが教育です、つまり、教師である私が傷ついていること、私は傷を負うことの苦悩を経験してきたこと、そして私はその子が傷つかないように手助けしたいと思うこと、そしてその子は傷を負って学校へ来ていることを見て取ることです。そこで私は言います、“分かりました、私たちは友達です、私たちは共に傷ついています、一緒に見ていこう、それを拭い去るようにお互いに助け合おう”と。それが愛の行為です。
人間的有機体を動物のそれと比べて、私はこの問いに戻ります、他の人間とのこの関係性は必ずこのような癒しをもたらすのかどうかということです。
 それは明らかです、宜しいでしょうか、もし関係性が存在するなら、つまり、我々は言いました、関係性はあなたと私との間に何のイメージも介在しないとき存在しえると。
例えば、自分自身の中でこのことと非常に深く格闘してきている教師がいるとすると、その人は、あなたが言ったように、その問題に深く踏み込んできて彼はもはや傷に苛まれていないところまで来ています。子供や若い学生あるいは自分と同じ年の学生―我々は成人教育も行っているので―は彼が出合う傷ついている人です、その人は、その人が傷に苛まれているので、傷に苛まれていない人の活動を誤解しがちなのではないですか?
 しかし傷に苛まれていない人はいません、非常に非常に少数の人たちは例外です。宜しいですか、沢山のことが個人的に私に降りかかってきました、しかし私は決して傷を負うことはありませんでした。私はこのことをあらゆる人たちの中で言います、本当の意味で、私は傷つくことがどういう意味なのか分かりません。色々なことが私に降りかかってきました、人々はあらゆる種類のこと行ってきました、私を褒め上げたり、私にお世辞を言ったり、私を虐待するなどあらゆることを私に対して行ってきました。傷つかないことは可能です。そして教師や教育者として、子供が決して傷つかないように見ていることは私の責任です、単に酷い科目を教えるだけが私の責任ではないのです、つまり、このことが遥かにずっと重要なことです。
私はあなたの言う意味を幾分理解していると思います。私は私が私は決して傷ついたことがないと言えるとは思いません。私は困難を抱えているけれども、そしてそれをあれこれ思うと、子供の時からそれを抱えているけれども。私はある同僚がかつて苛立たしげに言っていたのを覚えています、我々は学部の中で争いが起こっている状況を議論していました、“ところで、あなたが問題なのはあなたが憎しみを抱かないことです”と。それは何らかの秩序の乱れであると見なされました、敵に焦点を合わせてそれに全勢力を注ぐことができない人であると私は見なされました。
 健全さが不健全と受け取られる! そうすると問題はこうです、教師は自分の傷を観察できるのか、それらの傷に気づけるのかということです、そして学生との関係性の中で自分の傷と学生の傷を解決できるのかということです。それが一つの問題です。それは可能です、もしその教師が本当に、その言葉の深い意味で教育者であるなら、つまり、教養のある教師なら。そしてそのことから次の問いが起こります、つまり、精神は傷つかないでいられるのか、それが傷ついてきているのでそれ以上の傷を負わないと知り、傷つかないでいられるのかということです。宜しいですか?
はい。
 私にはそのような二つの問題があります、一つは、傷ついていること、それは過去です、そしてもう一つは決して再び傷つかないことです。それは私が抵抗の壁を築くことや私が引きこもること、私が僧院へ出向くことや薬物中毒や何かそのような愚かなことになることを意味するのではなく、傷をもうこれ以上負わないことです。それは可能ですか? あなたは二つの質問が分かりますか? それでは傷とは何ですか? 傷を負う当のものとは何ですか? 我々は言いました、物理的な傷は心理的な傷と同じではないと。
はい。
 そうすると我々は心理的な傷を扱っています。傷つく当のものとは何ですか? 精神ですか? 私が自分自身について築き上げるイメージですか?
私がイメージの中にまとわせるものです。
 はい、私が自分自身の中にまとわせるものです。
はい。私は自分自身を自分自身から分断しました。
 はい、それではなぜ私は自分自身をまとうのですか? 私自身とは何ですか? お分かりですか。
はい、分かります。
 自分自身に私は何かをまとう必要があります。私自身とは何ですか? 全ての言葉、名前、質、教育、銀行口座、家具、家、負っている傷、それら全てが“私”です。
その問いに答えようとすると、私自身とは何ですかという問いに答えようとすると、私は即座にそれら全てを引き合いに出さなければなりません。
 それは明らかです。
他の方法はありません、そして依然として私はそれを手にしていません。そうすると私は自分自身を持ち上げます、なぜなら何とかそれをそっと引き合いに出すために私はとても素晴らしくなければならないからです。
 はい。
私はあなたの言うことが分かります。私は少し前にあなたの言っていたことを考えていました、教師が学生と何らかの関係性を持つことは可能であり、そのことで癒すという行為が起こると。
 もし私が教室に入ったら、それが私の最初に行うことであり、何らかの教科ではないのです。私は言います、“宜しいですか、あなたは傷ついています、そして私も傷ついています、我々は共に傷ついています”と、そして傷を負うことが何をもたらすのかを指摘します、その傷が人々をどのように殺めるのかを、その傷が人々をどのように破壊するのかを、そしてそのことで暴力が起こり、そのことで残虐性が生じ、そのことで私が人々を傷つけたいと思うことを指摘します。お分かりですか? それら全てが起こります。私は十分間を費やしてそのことを毎日違った言い方で我々が共にそれを見て取るまで話します。そうして教育者として私は正しい言葉を使います、そして学生も正しい言葉を使います、そのように我々は共に関わります。しかし我々はそうしません。我々は教室に入るや否や教科書を手に取って、そしてたちどころに我々は興味を失います! もし私が教育者なら、年配の人たちであろうと若い人たちであろうと、その人たちとこのような関係性を築き上げます。それが私の義務であり、それが私の仕事であり、それが私の働きであって、単に何らかの情報を伝達するだけではないのです。
はい、それは本当に非常に意義深いことです。私が思うに、あなたの言ってきたことが学問の世界の中で育ってきた教育者にとってとても難しいことである理由は...
 我々はとてもうぬぼれが強いのです!
その通りです。我々はこのような変質が起こり得ることを聞きたいだけではなく、我々はそれが実地に証明されるものであって、従ってそれが可能であるだけではなく、それが確実に予測できるものであると思いたいのです。
 確実に、はい。
そうして我々は全くの混乱に陥ります。
 もちろんです。
次回我々は愛とこの関係性を取り上げることができますか? それは私にとって...のように思われます。
 ...全てが一緒になります。
                            1974年2月25日
                             中野 多一郎 訳