アラン W アンダーソン(A) あなたに耳を傾けながらこの内面性の何かを学ぼうとしているものとして、私は我々の前回の会話の中で我々が恐れからの筋道をたどり、他の様々な要点を経て、我々が快楽へやってきたことを嬉しく思いました。我々が会話を止めたとき、我々は依然として快楽のことを話していました、私は我々が今そこから続けられれば良いと思います。
クリシュナムルティ(K) はい、分かりました、我々は快楽、喜ぶこと、嬉しさ、喜びそして幸せについて話していました、違いますか、そして快楽は喜ぶことと、喜びと、幸せとどのような関係にあるのですか? 快楽は幸せですか? 快楽は喜びですか、喜ぶことですか? それとも快楽はそれら二つと全く異なる何かですか?
A 我々は我々が英語の中で快楽と喜びを必ずしも我々が何を言っているのか知らないうちに区別していると思います。我々の言葉の使い方の中で我々はしばしば区別します、そして我々が“喜び”という言葉の方が相応しいと考えるときに、我々が“喜び”よりも“快楽”という言葉を使うことを我々は妙に思います。“どうぞ”という言葉と“快楽”との関係性が私に非常に興味をもたせます。我々は人に言います、“どうぞ”座ってくださいと。そしてそれは普通...として考えられます。
K ...“楽にして”ください。
A はい、それは招くことであり、要請することではありません。
K 要請することではありません。
A はい。そのように“快楽”という言葉の中に喜びというほのめかしがあります、それは厳密に言うとその言葉に置き換えられるようなほのめかしではありません。
K 私は快楽が喜びと何らかの関係性があるのかどうかを問いたいと思います。
A それ自体関係ないと、あなたは言います。
K あるいはその言葉を越えてさえいると。快楽から喜びへの何らかの継続性はありますか? それらはリンクしていますか? 快楽とは何ですか? 私は食べることに快楽を感じます、私は歩くことに快楽を感じます、私はお金を貯めることに快楽を感じます、私は―様々なことに―セックスに、人々を傷つけることに、サディスティクな本能に、暴力に快楽を感じます。それらは全て快楽の形です。私は快楽を感じて、その快楽を追い求めます。人は人々を傷つけたいと思います、そしてそれが多くの快楽をもたらします。人は力を手に入れたいと思います、それが料理人に対してであろうと、自分の妻に対してであろうと、あるいは多くの人たちに対してであろうと、それは同じことです。何かに感じる快楽は、維持され、養われ、持続します。そしてこの快楽は、それが挫かれるとき、暴力に、怒りに、嫉妬に、激怒に、物を壊したいという思いに、あらゆる種類の神経症的な行動などになります。そうすると快楽とは何ですか、そして何がそれを持続させているのですか? それを追い求めるのは何ですか、その一定の方向とは何ですか?
A 私は、我々の最初の会話で、何らかの発展の中に人が観察する決して成就されない組み込まれた必要性について我々が話したとき、何かがこのことに触れたと思います。それは単なる一つの終わりであり、そして新たなスタートにしかすぎません、つまり、それは成就でも何でもありません、完全ではありません、全く成就していません―十分に感じるという意味で私は言っています。
K はい、分かります。しかし快楽と呼ばれるそれは何ですか? 私は私の好きな何かを見ると私はそれが欲しくなります、所有する快楽です。子供や大人、そして聖職者たち全てが抱くその単純なことを取り上げてみます、つまり、この所有するときに感じる快楽です。おもちゃや家や知識をもつことや神の観念を抱くこと、あるいは専制者たちがもつ快楽、全体主義的な残虐性です。それを更に更に単純にしてみると、快楽とは何ですか? 宜しいでしょうか、何が起こりますか、つまり、丘の上に単独の樹木が佇んでいます、緑の草原があり鹿がいます。あなたはそれを見て言います、素晴らしいと。言葉でではなく、あなたが誰かとコミュニケーションをとるために、素晴らしいと言うときのようにではなく。あなたが一人でいて、その本当に驚くほどの美しさを見るときです。大地の全活動です、花々であり、鹿であり、草原であり、水の流れや単独の樹木であり、影たちです。あなたはそれを見ます。それは息を飲みます。そしてあなたは踵を返して立ち去ります。そうして思考が言います、それは全く途方もないことだったと。
A 今あるものと較べて。
K 全く途方もないことだった、私はそれを再び手にしなければならない、私は私が二秒あるいは五分間手にしたその同じ感情を手にしなければならないと。そうすると何が起こったのか見てください―その美に即座に反応しました、言葉を使わずに、感情的にでもなく、感傷的にでもなく、ロマンチックにでもなく反応しました、そうすると思考がやってきて言います、それは何て途方もないことだ、何ていう嬉しいことだと。それからそれを記憶して、それが繰り返すことを要求します、願います。
A コンサートで我々がアンコールを要求するとき、このことが正に起きます。
K もちろんです。
A そしてアンコールを重ねると、ある種の戸惑いが這い寄ってきます。なぜなら最初のアンコールはお世辞や称賛の現れで誰もが幸せです。しかしそうすると、もちろんあと何回がアンコールできるのかという問題が起こります、恐らく最後のアンコールは我々がもう飽き飽きしたというサインであり、我々はもう聞きたくないということです。
K はい、はい。そのように思考が快楽を育みます、維持します、そしてそれに方向性を与えます。その樹木、その丘、その影たち、鹿、水の流れ、草原を見た瞬間には快楽は存在しませんでした。あらゆることが本当に言葉とは無縁で、ロマンチックなどではありませんでした、それは気づきでした。それは私やあなたとは何の関係もありませんでした、それはそこにありました。そうすると思考がやってきてその記憶を形作ります、そしてその記憶を次の日に継続して、その記憶を要請したり、追い求めたりします。そして私が次の日にその記憶を呼び起こすと、それは記憶しようとしたその当のものと同じではありません。私は少しショックを受けます。私は言います、私は感銘を受けた、私は再び感銘を受ける方法を見つけなければならないと、そうして私はアルコールを手にしたり、セックスをしたり、あれやこれや試みます。お分かりですか。
A あなたは文化史の中の祝祭の確立はあなたの言うことと関係があると思いますか?
K もちろんです。
A 我々は英語の中で言います、祝祭などで賑やかに盛り上がるために、残りの時間を我々は頭を垂れて生きていると。
K 頭を垂れて生きている、はい、告解火曜日であり、その全ての類です。そうそこです。分かります。何が起こるか見てください。快楽は思考によって維持されます―性的快楽、そのイメージ、それを思うこと、それら全てであり、その繰り返しです。そしてその快楽のせいであなたはそれを行い、それを続け、型にはまります。それでは、快楽はその瞬間の喜びとどういう関係にありますか、それは喜びでさえありません、それは表現しえない何かです。そうすると快楽と喜ぶこととの間に何らかの関係がありますか? 喜ぶことは思考が“私はそれを楽しんだ、私はそれをもっと手にしなければならない”と言うとき快楽になります。
A それは実際に喜びが抜け落ちることです。
K はい、それです。そのように快楽は喜悦や、嬉しさ、喜ぶことあるいは喜びや幸せとは何の関係もありません。なぜなら快楽は方向性をもった思考の活動だからです。どの方向かは問題ではありません、何らかの方向性です。その他のものには方向性がありません。喜ぶこと、つまり、あなたは喜ぶのです。喜びはあなたが幸せを招くことができないように招くことがでない何かです。それは起こるのであり、あなたはあなたが幸せであることをその瞬間は知りません。それを知るのは、あなたがそれは何て幸せであったのか、何てそれは驚くべきことであったのかと言う次の瞬間です。ですから何が起こるのか見てください、精神は、頭脳はその丘や樹木、水流、草原の美しさを脳裏に受け止めて、それを終了させることができますか? 私はそれをまた見たいと言わないことです。
A はい。あなたが今言ったことは我々を我々が以前に言ったあの“否定”という言葉に引き戻します、なぜなら我々が抜け出ようとする瞬間がなければならないからです、そしてあなたの言っていることはその“抜け出ようとする”ことが起こる瞬間に何かがなされなければならないからです。
K 宜しいでしょうか、あなたはそれを一瞬のうちに見ます、あなたは何か途方もないことが起こるのを見ます。私は快楽、喜ぶことそして幸せを見て取ります、快楽が他の二つと関係していないのを見て取ります。そのように思考が方向性を与えて快楽を維持します。違いますか? そこで精神は問います、喜ぶことの中に思考が割り込んでこないことはありえるのかと。私はただ喜びます。なぜ思考がその中に入ってくるのですか?
A 何の理由もありません。
K しかし入ってきます。
A 入ってきます、入ってきます。
K そこで問いが起こります、どのようにして精神は、頭脳は思考がその喜ぶことの中に入ってくるのを止めるのかということです。お分かりですか。
A はい。
K 割り込んでこないようにするのです。従って古代の人たちや宗教的な人たちは言いました、“思考をコントロールせよ”と。お分かりですか。“それが這い入ってこないようにしなさい。それをコントロールしなさい”と。
A それがその醜悪な頭を持ち上げた瞬間にそれを切り落としなさい! 九頭の蛇ヒュドラーのように。
K 九頭の蛇ヒュドラーのように、それは生え続けます。それではそのような素敵な場面を喜んで、嬉しく思って、そして思考が這い入ってこないようにできますか? このことは可能ですか? 私はそれが可能であることを、完全にできることをあなたに示そうと思います、もしあなたがそのような瞬間に気をつけているなら、完全に気をつけているなら、それが可能であることを示そうと思います。お分かりでしょうか。
A それは力を奮い起して自分自身にはっぱをかけることとは全く違います。
K はい、そこに余すことなく気をつけているのです。あなたが夕陽を見るとき、それを完全に見るのです。あなたが車の美しい形を見るとき、それを正に見るのです。そして思考が起き出さないようにするのです。それはその瞬間この上もなく完全に気をつけていることを意味します、あなたの精神、あなたの体、あなたの神経、あなたの目、耳、あらゆるものが気をつけていることを意味します。そうすると思考はそれに全く這い入ってきません。
そのように快楽は思考と関係しています、そして思考それ自身が断片化をもたらします、快楽そして快楽ではないものへ断片化します。従って私が快楽を手にしていないと、私は快楽を追い求めなければなりません。
A それは判断を下します。
K 何らかの判断を下します。そうすると欲求不満を抱いたり、怒ったり、暴力を振るったり、それらがその中へ入ってきます。暴力の否定が起こります、それは宗教的な人たちが行ってきたことです、彼らは非常に暴力的な人たちであり、彼らは言ってきました、快楽はいけませんと。
A これが皮肉であることには圧倒されます。古典的な哲学の中のトマス アクィナスは彼の思考の研究の中で決して倦むことなく言い続けました、人は結びつけるために区別しなければならないと。彼の動機は彼の書物が読まれてきたと思われることとは非常に異なるものでした。なぜなら我々は区別することを何とかやりくりしてきましたが、我々は決して物事を全体として見ません、そしてそれを結びつけることに至りません。
K そこが肝心な点です。ですからもし精神が本当に考えるということの本質を理解しないなら、本当に、非常に、非常に深く理解しないなら、単なるコントロールは何も意味しません。個人的には私は決して何一つコントロールせずにきました。これはむしろ馬鹿げたように聞こえるかもしれませんが、それは事実です。
A 素晴らしい。
K 決してコントロールせずにきました。しかし私はそれを見守ってきました。見守るというのはそれ自身規律であり、それ自身行動です。規律というのは順応するという意味ではなく、抑圧するという意味ではなく、自分自身を何らかのパターンに適合させるという意味ではなく、それは正しいという感覚であり、卓越した感覚です。あなたが何かを見るとき、なぜあなたはコントロールするのですか? なぜあなたはあなたが棚の上の毒の入った瓶を見るときコントロールするのですか? あなたはコントロールしません、あなたは言います、それは毒だと、あなたはそれを飲みません、あなたはそれに触りません。それは私がそのラベルを正しく読まないときだけです、私がそれを見てそれが強心剤だと分ると私はそれを手に取ります。しかしもし私がそのラベルを読み、もし私がそれは何かと知るなら、私はそれに触りません。それはコントロールではありません。
A もちろん違います、それは自明です。このことで私は福音書の中のペテロについての素晴らしい話を思い出します、彼は嵐の日に主が水上を歩いているのを見て彼もまたそうするように誘われます、そして彼は実際に数歩やり遂げると、福音書は言います、彼は信仰を失うと。人は、あなたの話してきた観点から見てみると、思考が取って代わったところで彼は沈み始めるということが分かると私には思われます。私がそのことに言及しているのは、私があなたの言っていることの中に他の何かから断片化されていない何らかの助けがあると、その人を支えているに違いない永続する“何か”があると感じるからです。
K 私はそのように言うつもりはありません。それはあなたの中に神がいるという観念の扉を開きます。
A はい、私はその罠が分かります。
K あなたの中により上位のものがいる、あなたの中にアートマンがいる、永遠な何かがあるとするものです。
A 恐らく我々はそのようなことについて何も言うべきではありません。
K はい、しかし我々は言うことができます、欲求や欲望を見て取ること、快楽の意味すること、その構造を見て取ること、そしてそれが喜ぶことや喜びとは何の関係もないことを見て取ること、それら全てを見て取ること、それを見て取るのです、言葉を使わないで実際に、観察して、気をつけていて、気を配って、この上なく気を配って見て取るのです、そうすると、そのことが叡智の途方もない質をもたらします。結局のところ、叡智は感受性です。見るときに感受性が鋭敏になることです―もしあなたがそれを叡智と呼ぶなら、上位の自己だとか何かには何の意味もありません。お分かりですか。
A それはあなたがその瞬間にそれが放たれると言っているかのようです。
K はい、そのような叡智が観察しているとやってきます。そしてそのような叡智がもしあなたが見て取っているなら絶えず働いています。私はコントロールしてきた人たちをこれまでずっと見てきました、否定してきた人たちをずっと見てきました、拒否してきた人たちをずっと見てきました、そして自分自身を犠牲にしてきた人たち、自分自身を恐ろしく抑圧し、自分自身に規律を課してきた人たち、自分自身を拷問にかけてきた人たちをずっと見てきました。そして私は言います、何のためにと。神のためですか? 真理のためですか? 拷問にかけられ、台無しにされ、残酷な仕打ちを受けた精神、そのような精神に真理を見て取ることができますか? もちろんできません。あなたには完全に健康な精神が必要です、全体を見通す精神です、それ自身が聖なる精神です。精神が神聖でなければ、あなたは神聖なものが何であるのか分かりません。ですから私は言います、生憎様、私はそれのどれにも触りません、それには意味がありませんと。そのように私はそれがどのようにして起こってきたのか知りません、しかし私は決して一秒たりとも自分自身をコントロールしません、私はそれが何を意味するのか知りません。
A しかし驚くべきことにあなたはそれが他の人たちの中ではどういうことなのかを知っています。
K おお、それは明らかです、あなたはそれを見て取ることができます。
A そうするとこれはあなたが...なしに見て取ることができる何かです。
K ...それを経験すること。
A それを経験することなしに。そうするとこれは私にとって非常に不思議なことです。私はそれを神秘化しているつもりはありません。
K はい、はい。
A しかしそれは不思議なことだと思います。
K いいえ、必ずしもそうではありません。私はしらふが何であるのかを明らかにするために酔わなければなりませんか?
A おお、いいえ。
K 私は酔っ払っている人を見て言います、何てことだと、酔っ払うことの一部始終を見ます、その背後にあるものを見て取ります、彼に起こっていることを見て取ります、それを見て取ります、それで終わりです。
A しかし私にはあなたの話を聞いているとあなたは単にそこにいる誰かがうつぶせに倒れたのを観察すること以上のことを行っていて、従って...
K いえ、いえ。
A ここには非常に深い何かがあります。
K もちろんです。
A 少なくとも私にはあります。コントロールはその深い意味で何らかの活動を意味していて、何らかの産物ではありません、そしてあなたが経験したことのない、我々が普通不可解と呼ぶ何かがそれでもあなたの前に強烈に現れます。
K はい。
A そして私はあなたが言ったと思います、叡智がそれを露わにすると。もし叡智がそれを露わにすることを許されるなら。
K 宜しいでしょうか、“許される”のではありません。それは危険なことです、叡智が働くのを許すと言うのは。それはあなたが叡智をもっていることを意味します、そうするとあなたはそれが働くのを許します。
A はい、そうなる罠は分かります。あなたの言う意味は分かります、なぜなら今我々は新規のうまい手を見つけた観察者を手に入れたからです。
K そうすると、宜しいですか、それが規律の異なる意味をもつ理由です。あなたが快楽を理解するとき、あなたがその喜ぶことや幸福の美、喜びの美などとの関係性を理解するとき、あなたは自然にやってくる異なる種類の規律の完全な必要性を理解します。結局のところ、規律という言葉それ自体は学ぶことを意味します。学ぶことであり、順応することではありません、つまり、私は自分自身をそのようになるように、或いはそのようにならないように律しますと言うことではありません。学ぶことは私が聴くことや見ることができなければならないことを意味します、そしてそれは育めない何らかの能力を意味します。あなたは何らかの能力を育てることができますが、それは聴く行為と同じ何かではありません。
A はい、非常によく分かります。
K 学ぶ能力というのはある種の規律を要します。私はそれに私の時間を注がなければなりません、私は他の何らかの一定の目標をもった努力などそれらを脇へ除けなければなりません。つまり、ある種の能力を発展させるためには時間が必要です。
A はい。
K しかし気づきは時間とは何の関係もありません。あなたは見て行動します、あなたが何らかの危険を見るとあなたがそうするように。あなたは即座に行動します、なぜならあなたは危険なことにそのように条件づけられているからです。
A その通りです。
K そのような条件づけは叡智ではありません、あなたは単に条件づけられているだけです。あなたは蛇を見て後ずさりします、そしてあなたは逃げ去ります。あなたは危険な動物を見るとあなたは逃げます。それは全て自衛的であり、条件づけられた反応です。それは非常に単純です。しかし気づきと行動は条件づけではありません。
A 宜しいですか、英語史の中で我々はその恐れという言葉をその派生語という点で混乱させてきました、というのは、もし私が正しく記憶しているなら、恐れは危険を意味するアングロサクソン語に由来します。
K 危険ということです、もちろんです。
A そして今我々はその言葉を心理学的に解釈してきて恐れがむしろ私のそのような危険に対する情動的な反応の意味をもちます。
K もちろんです。
A そしてそれは私の行っていたいと思うことではありません。
K はい、恐れの危険に気づきません。
A はい。
K 普通の人間たちがその人たちの生きている文化や文明に今条件づけられているように。その人たちはナショナリズムを受け入れます―私はそれを例として取り上げています―その人たちはナショナリズムを、国旗やその他の全てを受け入れます、しかしナショナリズムは戦争の要因の一つです。
A おお、はい、それは疑う余地がありません。
K 愛国心やその他の全てがそうであるように。しかし我々はナショナリズムの危険を見ません、なぜなら我々がナショナリズムを安全なものとして条件づけられているからです。
A しかし我々は我々が敵を恐れるのが分かります。
K もちろんです。
A はい、そうです。そしてその敵を恐れることに考えを巡らして我々はその危険に対処する能力を鈍くします。
K そうすると恐れ、快楽そして規律があります。規律は学ぶことを意味します、私は快楽について学んでいます、精神は快楽について学んでいます。学んでいるとそれ自身の秩序が生まれます。
A はい。それを私は奇跡と呼んできました。
K それはそれ自身の秩序を生みます、そしてその秩序が言います、馬鹿なことをするな、コントロールは問題外です、それは了解済みですと。ある僧が一度私に会いに来ました。彼は沢山の信奉者たちを抱えていて非常によく知られていました、彼はいまだに非常によく知られています。そして彼は言いました、私は私の弟子たちに教えてきました―そして彼は何千という弟子たちを抱えていることが非常に自慢でした―そして何らかのグルが何かを自慢するのはかなり馬鹿げているように思えました。
A 彼は成功者でした。
K そして成功はキャデラックやロールスロイス、欧米の追随者たちを意味します、お分かりですか、それらの見せものが後に続きます。そして彼は言っていました、私は到達しています、なぜなら私は私の五感を、私の身体を、私の思考を、私の欲望をコントロールすることを学んだからですと。私はそれらを、バガヴァッド・ギータが言うように、“手綱を引いて馬を乗りこなす”ようにつかまえましたと。お分かりですか、つかまえていると。彼はそのことについてひとしきり話しました。私は言いました、宜しいでしょうか、そうするとどうなりますかと。 あなたはコントロールしました。そうするとあなたはどこにいるのですかと。彼は言いました、あなたは何を聞いているのですか、私は到達したのですと。私は言いました、どこへ到達したのですかと。彼は言いました、私は悟りを得たのですと。ただそれに耳を傾けてください。何らかの方向性をもっている、その人が真理と呼ぶ方向性をもっている人間の成り行きを見てください。そしてそれを成し遂げるための伝統的な順序、伝統的な方法、伝統的な取り組み方があります。そして彼はそれを行ってきました。従って彼は言います、私はそれを得ました、私はそれを手にしました、私はそれが何か知っていますと。私は言いました、分かりましたと。彼はそのことで非常に興奮し始めました、なぜなら彼は彼が偉大な人間であることなどそれらについて私を納得させたいと思ったからでした。そうして私はゆっくりと静かに座って彼に耳を傾けると彼は穏やかになりました。そして我々は海のそばに座っていて、私は彼に言いました、あなたはあの海を見るでしょうと。彼は言いました、もちろんですと。私は言いました、あなたはあの海水を手でつかまえることができますか、あなたがあの海水を手の中に入れると、それはもはや海ではありませんと。
A はい。
K 彼はそれが理解できませんでした。私は言いました、分かりましたと―そして北風が吹いていました、そよ風で爽やかでした―そして私は言いました、そよ風が吹いています、あなたはそれらを手でつかまえることができますかと。彼は言いました、できませんと。私は言いました、あなたは地球を手でつかまえることができますかと。彼は言いました、できませんと。私は言いました、そうすると、あなたは何をつかまえているのですか、言葉ですかと。お分かりでしょうか、彼はとても怒って、彼は言いました、私はもうあなたの言うことは聞きません、あなたは邪悪な人間ですと。そして彼は立ち去りました。
A 私はそのことについての馬鹿げた皮肉を考えていました。いつもその人は自分自身をつかまえていると考えていて、彼は彼が立ち上がって歩き去ると手放すだけであると。
K そのように快楽について、恐れについて学ぶことがあなたを本当に恐れの拷問から、快楽の追求から自由にします。そうすると生の中の本当に喜ぶ感覚が生まれます。あらゆるものが大いなる喜びになります。それは単なる決まりきった単調な繰り返しではありません、オフィスへ行くこと、セックス、そしてお金ではありません。
A 私はいつも考えていました、我々の輝かしい独立宣言の美辞麗句の中で我々に“快楽の追求”というあの文句があるのは大変に不幸なことであると。
K “快楽の追求”
A というのは子供が、聡明な子供がそれを台にして育てられるからです。
K おお、もちろんそうです。
A そしてあなたが若いとき、あなたは振り向いて、みんな愚かだ、と言おうとしません。
K 知っています、知っています。そうするとここからあなたは見て取ります、通常の意味の規律には真理について本当に学びたいと思っている―真理を哲学化するのでもなく、真理を理論化するのでもなく、あなたの言うそれにリボンを飾るがごとく手綱をつけるのでもなく、それについて学ぼうとする、快楽について学ぼうとする―精神の中に居場所がないことを。そのように、学ぶことから正に本当に途方もない秩序の感覚がやってきます、そのことを我々は先日話していました。自分自身の中の快楽の観察によってやってくる秩序です。そして喜びが起こり、一瞬一瞬を生きるあなたにそのつどその喜ぶことを葬る驚くべき感覚が生まれます。あなたは過去の喜びを引きずりません、それは快楽になります、そうするとそれには何の意味もありません。快楽の繰り返しは単調であり、退屈です、そして人々はこの国でも他の国々でも飽き飽きしています、人々は快楽にうんざりしています。しかし人々は他の異なる方向の快楽を願います、そしてそれがこの国でグルが増殖している理由です。なぜなら人々は全て、宜しいですか、その見せものが続くのを願うからです。
そのように規律は秩序であり、そして規律は、快楽、喜ぶこと、喜びや喜びの美について学ぶことを意味します。あなたが学ぶとき、それはいつも新しいのです。
A 私の脳裏にここで閃いたのは、知覚と実践との間に何らかの根本的な混乱が生じたように思えることです。
K おお、はい。
A 私はそれをとらえました。それは我々が知覚は実践の最後に完成されるという考え方をもつかのようです。
K 実践は決まりきったものであり、死です!
A しかし我々はそのような考え方をします。
K 宜しいでしょうか、人々はいつも言います、自由は最後にあるのであって、最初にではないと。反対です、最初が、最初の一歩が正に肝心な一歩であり、最後のそれではないのです。この恐れと快楽、喜びの全問題の理解は観察する自由の中でのみ生まれうるだけです。そして観察する中に学ぶことと行動することが生まれます。それらは全て同じ瞬間に起こっていて、学んでから行動するのではないのです。行動すること、見ることは全て同じ瞬間に起こっています。それは全体としてのそれです。
A それら全ての驚くべき分子たちがそれら自身無限の雰囲気の中に存在していると。はい、少し前に私に思い当たったのは、もし我々が花々や山々や雲と同様に我々の言語に注意を注ぐなら...
K おお、はい。
A 個々の言葉という点だけではなく、我々がそれらを我々が言葉の用法と呼ぶそれと照らし合わすために文脈の中の言葉に注意を注ぐなら、言葉は知覚や叡智を通じてそれ自身を完全に露わにするでしょう。
K はい。
A しかし我々は我々の言うことに注意を払いません。
K その通りです。私が昼食から戻ると、誰かが言いました、あなたは食事を楽しみましたかと。そしてそこに男性がいて言いました、我々は楽しむための豚ではないと。
A 私は彼が彼の食事中に楽しみを断つという点で非常に正しいと感じるに違いないと思います。
K それは正に気をつけているという問題です、違いますか、あなたが食事をしていようと、それともあなたが快楽を観察していようと。気をつけていること、それが正に我々の非常に非常に深く踏み込んでいく必要のある事柄です。気をつけるとはどういうことですか? 我々は何事にもすべからく気をつけるのかどうか、それともそれは我々が注意すると称する表面的に耳を傾けること、聞くこと、見ることであるのか、あるいはそれは何かを行うときの知識の表現であるのかです。気をつけていることは、私は感じます、何らかの知識や行動とは何の関係もありません。正に気をつけていると行動が生まれます。そして人はこの行動とは何かの問題に踏み込んでいく必要があります。
A はい、私は我々が行動について正に言ってきたことと何回か前の会話で“活動”という言葉で我々がたどりついたこととの間の関係が分かります。
K はい。
A 今正に進行しているということです。そしてあなたが丘の上の樹木を見ることについて話しているとき、私は私がインドのアシュラム道場に滞在していたときのことを思い出しました、私が私の宿所へ行くと猿が小さな赤ん坊猿を抱えて窓の下枠に座っていて、私の顔をまじまじと見ていました、そして私もその猿をまじまじと見ました、しかしその猿は私よりもずっとまじまじと私を見ていました、私は私が実際に...ている人間であることを強く感じました。
K 調べられている。
A ...この猿によって調査されていると、そしてそれは私にとってとてもショックでした。
K 宜しいでしょうか、かつてベナレスで私が私のいつも行く場所にいて、私がヨーガを行っていると、黒い顔をした尾の長い大きな猿がベランダに座りました。私は目を閉じていました、そして私が目を開けて見上げるとこの大きな猿がそこにいました。猿は私を見ました、そして私も猿を見ました。大きな猿です、宜しいでしょうか、猿たちは力が強いのです、その猿は手を伸ばしました、そこで私は立ちあがって猿の手を取りました、そのようにそれをつかみました。
A それをつかんだ。
K それはざらざらしていたけれど非常に非常にしなやかでした、途方もなくしなやかでした、そして我々はお互いに見合いました、そして猿は部屋の中へ入って来たがりました。私は言いました、ねえ、私はヨーガをしている、私には時間がない、他の日に来てと。私は猿にいわば話しました。そうすると猿は私を見ました、そして私は後ろへ下がりました。猿はそこに二、三分いてからゆっくりと去って行きました。
A 両者は完全に気をつけていました。
K 怖い感じは全くしませんでした、猿は恐れませんでした、私も恐れませんでした。何らかのコミュニケーションが生まれていたはずです、お互いに親しみの感情が湧いていたはずです、宜しいですか、何の敵対心もありませんでした、何の恐れもありませんでした。そして私は気をつけているということは実践される何か、培われる何かではないと思います、つまり、学校へ行ってどのようにして気をつけているのかを学ぶということではないのです。それがこの国そして他のところで人々が行うことです、人々は言います、私は気をつけていることがどういうことなのか知りません、私はそれを手にする方法を私に教えてくれる人から学ぼうと思いますと。そうするとそれは気をつけていることではありません。
A 速読とそれは言われます。
K 速読、はい。
A 千語を一分間で。
K 宜しいでしょうか、それが私の気をつけているときに大いなる気遣いと愛情の感覚が生まれると感じる理由です。現にあることをその通りに、現にあるとおりに“読む”ことです。解釈するのではありません、それを言葉で説明するのではありません、それで何かをしようともくろむのではありません、そうではなく現にそこにあるものを読むことです。見るべき無限のものがあります。快楽の中には、我々が言ったように、途轍もなく多くの見るべきものがあります。そしてそれを理解することです。そしてそうするためにはあなたは見守っていなければなりません、気をつけていなければなりません、気を抜かないでいなければなりません、気を配っていなければなりません。しかし我々は怠惰です、我々はその反対です―快楽のどこが悪いのですかと。
そうすると我々が行ってきたことは正にこの全地図を読むことです。
A はい。
K 責任性から始めて、それから関係性、恐れそして快楽です。それら全てです。この途方もない我々の生の全地図をただ観察することです。
A そしてその美は我々がこの人間の変質に関心をもつ中で進めてきていることです、それは知識や時間に依存しません、我々が道を外れているかどうかを気に病むことなく我々は進めてきています。それは自然に起こっています。私が手に取ることはあなたにとって何らかの驚きではありません。
K そしてまたそれが、宜しいでしょうか、賢明な人たちと共に生きることが正しい理由です。本当に賢明な人と共に生きるのです。そのふりをしている人たちではありません、それは書物の中ではありません、それはあなたが分別を教えられる授業に出ることではありません。賢明な行動は自己知からやってくる何かです。
A 私はそれでバガヴァッド・ギーターの中の言葉の女神をたたえる賛歌を思い出します、彼女は友達たちのなか以外には決して現れないと。
K はい。
A 実際にそれが意味するのは、あなたの言った気遣いと愛情が気をつけていることと共に絶えず途切れることなく同時に起こるのでなければ、ただのお喋りにしかなりえないということです。
K もちろんです。
A 言葉の泡でしかありえません。
K それを現代社会は後押ししています。
A はい。
K それがまた喜ぶことではなく表面的な快楽を意味します。お分かりですか。表面的な快楽が災いのもとになっています。そしてそれをやり過ごすことが人々の最も困難なことの一つです。
A なぜならそれがますます加速しているからです。
K 正にそれです、それが地球を、大気を、あらゆるものを破壊しています。私が毎年行く場所がインドにあります、そこに私が関係している学校があり、そこにある丘々は世界で最も古いものです。何も変わっていません、ブルドーザーもなければ住宅もありません、それは古い土地で、それらの丘々と共にあります。そしてあなたはそこで無窮の時間を感じます、全くの不動感です―それは文明から遥か遠く離れています、これら全ての止むことのないお祭り騒ぎから遥か遠くに離れています。そしてあなたがそこへ行くとあなたはこの全くの静寂を、時間が触れたことのないこの静寂を感じます。そしてあなたがそこを離れて文明へ帰ってくると、あなたは全くの喪失感に襲われます、これは一体全体何なのかという感覚です。何の意味もないことになぜそんなに大騒ぎするのですか? それがあらゆるものをあるとおりに見ることの、自分自身を含めてそのように見ることのとても奇妙で心惹かれる理由です。現にあるとおりの私を見て取ることです、教授や心理学者やグルや書物の見立てではなく、現にある私をただ見て取って、現にある私を読み取ることです。なぜなら全ての歴史が私の中にあるからです。お分かりですか?
A もちろんです。そのことの中には計り知れない美しい何かがあります。あなたは我々の次回の会話で我々が美とあなたの言ってきたこととの関係を話すことができると思いますか?
1974年2月21日
中野 多一郎 訳