昨夕我々が話していたことを続けても宜しいですか? 我々は言いました、イスラム教徒とヒンズー教徒、ユダヤ人とアラブ人、アメリカとヨーロッパ、ロシア、中国などとしての現在の人種的分断、言語的分断、宗教的分断、国家的分断がひどい多くの戦争をもたらしてきたと。分断があるところには争いがあるはずです、男と女の関係性の中の分断だけではなく、人種的、宗教的そして言語的分断です。そしてまた我々はなぜ人と人との間にこの絶え間ない争いが存在するのか、そのルーツとは何か、これら全ての無秩序、無政府状態、無政府状態に近いもの、劣悪な政府、どの国も戦争を準備していること、一人のグルが他のそれよりも大切なことなどを検討しました。我々はこの分断を世界中に目にします、そしてまた歴史的にも、それは何世紀も何世紀も存在してきました。その原因は何ですか? その責任は誰にあるのですか? 我々は言いました、思考が人と人とを分断してきたと、そしてまた思考はこの上もなく途方もない建築、絵画、詩と全技術的世界、医学、外科手術、通信手段、コンピューター、ロボットなどを生み出してきたと。思考は健康、良い医薬品と様々な形の人間の慰安をもたらしてきました。しかし思考は人と人との間のこの大きな分断をも生みだしてきました、そして我々は問います、これら全ての原因は何かと。これら全ての責任は誰にあるのですか? そして我々は言いました、原因があると、その消滅もあると。あなたが何らかの病気を患うとき、その疾患の原因が発見されます、そしてその疾患が治されます。そのように何らかの原因があるところには、その原因の消滅も起こります。それは明らかな事実です。もし思考がこのような混乱、このような不確かさ、このような絶え間ない危険を生み出したのなら、もし思考が使われないなら、何が起こるでしょうか?
我々は一緒に探究しています、なぜ世界中の人間が自分自身の中だけではなく外の世界でも―社会の中で、宗教の中で、経済の中などで―争いを生き、争いを継続しているのかを問うています。思考がその混乱に、その分断に、人間の全ての悲惨に責任があることは極めて明らかです。もし人がそのような事実を認めるなら、何らかの理論や哲学的な言い方としてではなく、その実際の事実として認めるなら、思考がどれほど賢くて、巧妙で、博識であっても、思考にこのような混乱の責任があると認めるなら、人は何をすべきなのでしょうか? 我々の検討はそこで昨日終わりました。そしてまた我々は言いました、思考は驚くべき大聖堂や寺院やモスクを生み出してきたと、そして寺院の中の、モスクや教会の中のあらゆるものが思考の発明であると。思考は神を生みだしてきました、なぜなら思考が安全性の発見を追い求めるからです。この世界の中に不確かさ、安全性の欠如、争いを見つけると、思考はそれに安全性、慰安を与える何らかのもの、何らかの原理、何らかの理想を発明します、しかしそのような慰安、そのような安全性は思考の発明です。それは極めて明白です、もしあなたが自分自身の考えることを観察するなら、思考がこのような分断やこのような争いを生み出してきたことを観察するなら。そうすると我々は問うことができます、なぜこのような争いは存在するのか、なぜ我々は太古の昔から争いと共に生きてきたのかと―善いことと悪いこととの間の、“現実”と“あるべき様”との間の、現実と理想との間の争いです。
なぜ人は争いの中を生きるのですか? 争いとは何ですか? 争いの性質とは何ですか? 私はあなた方の中のどなたかが南フランスの洞窟群を見たことがあるのかどうか知りません、そこには二万五千年あるいは三万年前に描かれた雄牛の形をした邪悪な何かと戦う人間の絵などがあります。何千年も我々は争いと共に生きてきました。瞑想することが何らかの争いになります。争いは比較するときに起こるのですか? 比較することははかることを意味します。人は自分自身を他の誰かと比較します。比較すると恐れが生じるに違いありません、争いが生じるに違いありません。人は比較を全くせずに生きられますか? 我々は考えます、自分自身を誰かと比較することによって我々は進歩していると。あなたはあなたのグルのようになりたいと思います、あなたは悟りを開きたいと、悟りの境地に達したいと思います、あなたは信奉者になりたいと思います、あなたは尊敬されるようになりたいなどと思います。そのように、心理的に何かになろうとすると、争いが生じるに違いありません。何の比較もしない、従って何の争いも生じない生を生きることは可能ですか? 我々は心理的に何かになることの全プロセスを問うています。子供は大人になり、大人の世界に成長していきます。我々が何らかの言語を習うには時間を要します、我々が何らかの技術を習得するには時間を要します。我々は問うています、心理的に何かになることが争いの理由の一つですかと―“現実”が“あるべき様”に変えられること―“私は善くないが私は善くなるでしょう、私は貪欲で、嫉妬深いです、しかし恐らくいつか私はこれら全てから自由になるでしょう”と。何かになるという欲望、それははかることであり、それは比較することですが、それが争いの原因の一つですか?
争いには別の理由があります―それは二重性というものがあるということです。我々は争いの性質を理解するために、そして争いから余すことなく完全に自由になることができるのかどうかを自分自身で明らかにするために、検討しています。争いは頭脳を疲弊させ、精神を老化させます。争いとは無縁に生きてきた人は途轍もない人間です。争いを理解することの必要性を認識することが重要です。我々は、はかること、比較することが争いをもたらすと分かります。そしてまた我々は二重性があると発言しました。あなた方の哲学者たちの幾人かがそのように言ってきました、二重性があり、そしてこのような争いの理由の一つがこの二重性であると断定してきました。二重性があります―朝と夜、光と影、高い低い、輝く朝とどんよりした朝、日の出と日の入りなどです。物理的な二重性があります、あなたは女性であり、他の人は男性です。しかし我々は問うています、心理的に二重性というものがあるのでしょうかと。それともただ“現実”があるだけですか? 私は暴力的です、つまり、暴力だけがあって、非暴力というものはありません。非暴力というのはただの観念にすぎません。それは事実ではありません。暴力と非暴力があると争いが起こるはずです。この国では、あなた方は非暴力についてとめどなく話しますが、恐らくあなた方は非常に暴力的な人々でもあります。事実は、世界中の人間が暴力的です。それは事実です。暴力は物理的な暴力だけではなく、模倣すること、順応すること、服従すること、受け入れることをも意味します。
色々な形の他の暴力がありますが、ただ“現実”があるのみです。しかしもしあなたが暴力的であるのに非暴力を追い求めるように条件づけされているなら、つまり、事実から立ち去るように条件づけされているなら、あなたは争いを抱えるに違いありません。一方、もし人が“現実”を扱うなら、ただ一つの事実があるにすぎません―つまり、私は暴力的です、そして暴力の性質と構造を理解する中で、暴力の消滅が起こるかもしれません、しかし暴力の消滅が問題になるのではありません。我々の精神は問題を解決するように訓練されています、教育されています―数学的問題、経済的問題、政治的問題などです。我々の頭脳は問題を機械的に扱うように条件づけされています。そして我々は心理的に生を一連の終わりのない問題にしてしまいます。我々はそのことを昨日検討しました。そのように事実だけがあって、その対極はありません。このことは非常にはっきりしていますか―理想や原理、あなたが崇高なものと呼ぶものは全て幻想です。事実は何かといえば、我々が暴力的で、愚かで、無知で、不確かなどであるということです。それらが事実であって、我々は事実を扱う必要があります。事実は、もしあなたがそれらに面と向き合えば、問題を作り出しません。私は、自分が暴力的で、私にはその対極がないことを発見します。私は対極を余すことなく拒絶します、それには意味がありません。ただ事実があるだけです。
それではどのようにして私は事実を扱うのでしょうか? どのようにして私は事実と取り組むのでしょうか? どのようにして私はそのような事実を見るのでしょうか? 事実を見る私の動機とは何ですか? 私が事実にそうなってほしいと思う方向性とは何ですか? 私は事実の性質と構造に気づかなければなりません、私は事実に取捨選択せずに気づかなければなりません。どのように人は事実を扱いますか? つまり、どのように私は私が暴力的であるという事実を観察しますか? そのような暴力は私が怒っているとき、私が嫉妬しているときに現れます。もし私が自分自身を他の人と較べようとしているなら、もし私がそれらのことをしているなら、事実と向き合うことは不可能です。善き精神は事実と向き合います。もしあなたがビジネスの世界にいるなら、あなたは事実と向き合って事実を扱います、事実を変えます、あなたはあなたが事実とかけ離れた他の何かをしているようなふりをしません。そのようなことをすると、あなたは良いビジネスマンではありません。しかしここでは我々はとても非効率的です、なぜなら我々は事実を扱っていないからです。心理的に、内面的に、我々はそれらを避けます。我々はそれらから逃げます、あるいは我々がそれらを発見すると、我々はそれらを抑圧します。そうするとそれらのいずれも解決されません。そのことから、我々は他の何かを問います、つまり、善き精神とは何かを。知識に溢れているのが善き精神ですか?
知識とは何ですか? 我々はみな知識を持っていることを非常に誇りに思います、経験を通じての学者的な知識であり、出来事、事故を通じての知識です。収集蓄積された記憶が知識です。経験というものは決して完全ではありえません。善き精神は自由な、包括的な、グローバルな精神ですか、それとも善き精神は狭量な、狭い、民族主義的な、伝統的な精神ですか? 善き精神は自由な精神です。それは時代的な精神ではありません。善き精神は時間を出自としていません、善き精神は時間や環境とは関係ありません。それは環境を扱えますし、それは時間を扱えますが、それ自体は全く自由です。そのような精神は恐れを抱きません。一方、我々の精神はとても教育されていて、とても訓練されていて、我々はオリジナルではありません。深さがありません、知識はいつも表面的なものです。我々は人間の理解に、その精神、その行動、その振る舞いに関心があります、人間の反応は限られています、なぜなら人間の感覚が限られているからです。人間が完全であること、全体的であること、自由であることは可能ですか? 人は善き精神を持たなければなりません、それは単なる言葉の収集蓄積ではないし、それは賢い精神、巧妙な精神を意味するのでもありません。我々は非常に狡賢くて、巧妙で、捕えがたいのですが、それは善き精神ではありません。それでは、様々な影響や新聞や絶え間ない繰り返しが引き起こすあらゆる活動と共に、ヒンズー教徒、シク教徒などとしてコンピューターのようにプログラムされている我々の精神と共に、我々は力強く、健康的に、活動的に、気を抜かずに余すことなく気をつけていることができますか? そのような精神が必要です。そうするときのみ心理的な革命を生み出すことができます、そうして新しい社会、新しい文化を生み出すことができます。
私はあなたが耳を傾けていることを願います。聴き方を知ることは重要です、その真理に耳を傾け、その真理を見て、そして行動することです。我々の場合は、我々は真実な何かを見ます、我々は論理的に、合理的に、非常に明確に理解します、しかし我々は行動しません。知覚と行動との間に間隙が生じます。知覚と行動との間に他の全ての出来事が起こります。従ってあなたは決して行動しません。もしあなたがあなたの中の暴力が事実であると見て取って、非暴力―それは事実とかけ離れています―になろうとしないなら、、もしあなたが暴力の性質、暴力の複雑さに気づいて、あなた自身の暴力に耳を傾けるなら、それはそれ自身の性質を露わにするでしょう。そうすると暴力が消滅します、完全に。
我々が以前言ったように、お喋りしている精神は不健康な精神です。それは絶え間なく話しています、ビジネスの問題、数学的な問題などだけではなく、夫、妻、子供たちや隣人との関係性の問題についても話しています。それは絶え間なく何かに塞がれています、そしてそのように塞がれていることで、頭脳の能力が必然的に消耗し疲弊します。それは明らかです。お喋りしないことはできますか? 我々がこのようなお喋りを認めて、それを止めることができるかを問うと、我々はそれを問題にしています。我々の頭脳は問題を解決するように訓練されています。そうすると我々は、私はお喋りをしてはならない、私はコントロールしなければならないと言って、それを解決しようとします、そうすると問題が起こります、コントロールするものは誰ですかという問題です。コントロールするものはコントロールされるものと異なりますか? 問題が起こると、あなたはすでに問題を解決することになっています、そして頭脳は、我々のような頭脳は、問題を解決するように訓練されています。一つの問題を解決する中で、他の問題が増大します。ですから、あなたが暴力的であるという事実を見て取って、その暴力にその一部始終を語らせてやってください、そうするとそれは語りだします、もしあなたの精神が静かにしているなら。しかし、それを問題にしないでください―「どのようにすれば精神は静かになるのか」と。あなたの貪欲、嫉妬、野心、あなたの傲慢さを何の取捨選択もせずに見ること、観察することができますか? いかに多くの人たちが傲慢であるのかにあなたは気づきませんか? 政治家ではありません、それは了解済みです、その人たちは権力、地位、名声を欲しがります。権力があると邪悪なものが生じます。絶対的な権力は絶対的に腐敗します。
宜しいですか、あなたは傲慢ですか? 心理的に何かになろうとしている人は傲慢です。その人がそうではない何かになろうとしているとき、その人は傲慢です。何かになろうとすることは傲慢な行為です。宜しいでしょうか、それを見てください。それは謙遜する感覚を全く否定します。あなたが事実と面と向き合っているとき、あなたは余すことなく謙虚でなければなりません、謙虚を培うのではありません。虚栄心の強い人たちだけが謙虚なるものを培います。その人たちは、虚栄心が強く傲慢なときに、謙虚なるものを培うのかもしれませんが、その人たちの謙虚は依然として傲慢です。我々はみな何かになろうとする同じ道を歩んでいて、従って我々はみな全く不正直であり、現にそうではない自分を装っています。一方、善き精神は事実に面と向き合います、あなたが暴力的であり、傲慢であるという事実です。誰も私にあなたは暴力的であると言う必要はありません、それは余りにも明らかです。あなたの話し方、あなたの立ち居振る舞い、もし人が気づくなら、人は傲慢の性質が分かります。それを見て取ること、それを理解することやそれを取り逃がさないこと、それから逃げないことがそれを解決することです。現にあるものに気づくとき、それは傲慢さですが、そのような正に気づきが待ったなしの行動に駆り立てます。それが叡智です。もし私が何か危険なものを見るなら―そして暴力は健全で、正気で、理性的で、熱気のある精神にとって途轍もなく危険です―そしてもしそのことに気づくなら、その正に気づきが瞬時の行動を促します。それがその消滅です。気づきは分析を求めません。気づきは現実的な何かであり、それを理解することであり、それを見て取ることであり、それを消滅させることです、そうするとそこからあなたは理性的に考えることができます。そのような正に理性的に考えることは論理的でしょう。しかしもしあなたが論理や理性から始めて、原因を明らかにしようとすると、あなたは時間を必要として、その原因が増幅するでしょう。
そうすると、一つの問題も抱えずに生きることは可能ですか? 我々は数学的な問題などを話しているのではなく、関係性の問題を話しています。関係性の中に何の問題も抱えないこと―それは可能ですか? あなたはあなたの妻、あなたの父親、あなたの母親、あなたの子供たちとの間に問題を抱えています。なぜですか? もしあなたの日常生活が秩序正しくないなら、あなたは血の気が引いてあなたの顔が青ざめるまで瞑想できますが、そのような瞑想には意味がありません。それはただの逃げであり、それはあなたがドラッグを服用して楽しむのと同じことです。もしあなたがあなたの家を秩序正しくさせないなら、それはあなたの関係性のことですが、もしその家が秩序正しくないなら、あなたの社会は秩序正しくないでしょう。非常に遠くへ行くためには、あなたは非常に近くから始めなければなりません。近くとはあなたの関係性のことです。なぜそこに問題があるのですか? なぜあなたはあなたの妻、あなたの夫、あなたの子供たち、あなたの隣人、あなたの政府、あなたのコミュニティやその他の全てとの間に問題を抱えているのですか、つまり、関係性とは何ですか? 生は関係性の中の活動です。それから逃れられません。あなたは世捨て人になるかもしれませんし、何らかの誓いを立てるかもしれませんし、奇妙な衣装を身に纏うなどその他の全てを行って、自分自身を途方もない人間、例外だと考えるかもしれませんが、あなたは関係しています。関係性を理解することは生の中で最も重要なことです、神でも、それら全ての経典でもなく、関係性の深さ、その意味、その美、その質を理解することです。
宜しいですか、あなたは沢山の言葉に埋もれているのですか、それともあなたは更なる説明や更なる分析を聞くことなく関係性の深さ、その美、その質を即座に捉えて、関係性の途方もない重要性を見て取りますか? あなたは関係性の美が分かりますか? 関係性がないと、秩序の乱れが起こります。それでは何か真剣なことに至るために或いはそれに耳を傾けるために、それを一緒に見てみましょう。あなたは我々のほとんどが家を持っているのを、住宅やマンションを持っているのを知っています、そして我々はそれらを自分のものとして所有しています。それが我々の家です。我々は、我々がその家の中ではゲストでもあることを決して認めません。あなたはその意味が分かりますか? あなたは家の中で、あなた自身の家の中でゲストでありうるのです。あなたはそれが何を意味するのか分かりますか? それは人が教師でもあり弟子でもあることを意味します。あなたの外に教師がいるのではありません。あなたは教師であり、そしてあなたはその教師から学んでいる弟子でもあります、グルとしての教師からではありません。あなたは学んでもいますし、教えてもいます。あなたはあなたの家の持ち主でもあり、あなたはあなたの家のゲストでもあります。それはあなたがその家に気をつけること、あなたがその家を気にかけること、あなたがその家の中の誰にも気を配ることを意味します、なぜならあなたはゲストだからです。話し手は世界中を過去六十年間旅してきました、そして彼がどこにいようと、彼はゲストです。それは彼が、大いなる水量をたたえた大河のように、いつも自分自身を適合させていることを意味します、そしてあらゆる大きな石、あらゆる岩があり、それはそれをやり過ごします。ゲストとはそのようなものです。それでは戻りましょう。
関係性は生の中の最も重要なものの一つです。なぜ我々はそれをそれほどまでに混乱したものに、それほどまでに悲惨なものにしてきたのでしょうか? 関係性とは何ですか? その言葉は触れていることを意味します、物理的に触れているだけではなく、性的に触れているだけではなく―あなた方がみな知っているそれだけではなく―精神的に、感情的に、内面的に他の人と触れていて、そのような触れ合いの中に分断がないことを意味します。それが関係性です。しかし我々はそのような触れ合いを手にしていません。あなたは野心的であり、あなたの妻もまた野心的です。あなたはこれを欲しいと思い、彼女は他の何かを欲しいと思います。彼女が正しいかもしれません、そしてあなたが間違っているかもしれません。彼女は驚くような家に住みたいと思い、あなたは言います、「どうか、後生だから、そう言わないで」と、彼女は評判良くしたいと思い、あなたは気にしません。あなたはあなた自身の狭い領域の中で学者、教授であり、彼女もまた彼女自身の狭い領域を持っています。そのようにあなた方はお互いに性的なことを除けば決して触れ合いません。これは事実です。そしてあなたはそれを関係性と呼びます。あなたは彼女について何らかのイメージを持っています、あるいは彼女はあなたについて何らかのイメージを持っています。これらの中のどこに愛が生まれるのですか? あなたは私の質問が分かりますか? 人が妻に愛している言うとき、それはどういう意味ですか? 私はあなたがそう言うかどうか知りません。私はそれを疑います。しかしもしあなたがそう言うなら、他の人を愛するとはどういう意味ですか? 関係性は他の人を愛するという意味です。その愛という言葉は何を意味するのですか? それは賞罰に基づいているのですか? 宜しいでしょうか、それを見てください、なぜなら我々はいつもその二つの間に囚われているからです―見返りと罰です。私はグルに従います、なぜなら彼が私に天国を約束するからです、私に慰安を与えるからです。我々はこのことに囚われています。関係性は賞罰のプロセスですか? 愛はそのような活動ですか? それをよく考えてください。
あなたの妻あるいは夫、あなたの子供たち、あなたの隣人と同じ時を共有して、同じ次元で、同じ熱気で出会うこと、それが愛です。あなたはこのことが分かりますか? 誰かと出会うためには、あなたはその人と同じ時を共有して、同じ次元で、同じ熱気を持って出会わなければなりません。そうするとそれが関係性です、しかしもしあなたが野心的で、あなたがその道を突き進んで気高くなるなら、卑しくなるなら、彼女もまた他の道に突き進みます。もちろんあなたは結婚するかも知れませんし、あなたは子供たちなどその他の全てを手にするかもしれませんが、あなたは決して出会いません。それは絶望的な孤独感を生みます。あなたはこれらのことを知りませんか? 私は誰とも関係性を持っていません―私の妻とも、私の上司とも、私の親方とも―私は誰とも何の関係性も持っていません、なぜなら私は自己中心的だからです。そのように、そのような自己中心性と関係性の欠如は深刻な孤独感をもたらします。そのような孤独を発見すると、我々はそのような孤独から問題を作り出します―私が孤独なとき、私はどうすればよいのでしょうかと。あなたの頭脳はすでに問題を解決するようになっています。しかしあなたは決してそのような孤独のままでいようとしません、あなたはその原因を決して検討しません。
愛があると孤独なことはありません。あなたの心の中に愛があると問題は生じません。そう述べたからと言って、それを問題にするのは止めてください。事実を見てください。事実は我々が感受性豊かではないということです、我々が美の深みを手にしていないということです。事実は我々が愛さないということです、我々はその事実を見ません、我々はその事実と共にいようとしません、それを合理化しようとしないで、“そうである”と見て取ることです。そういうことなのです、私は妻を愛していません、あなたはそれを自分自身に言うことの意味を知っています。あなたは恐らく泣くでしょう。私はあなた方みんなのために泣きたいと思います。宜しいでしょうか、それは二つの平行線が決して交わらなくて、従って、あなたが死ぬまで争いを毎日毎日増大させているかのようです。あなたの心の中に愛がないという事実、あなたがあなたの心の中に精神を持っていないという事実を見てください。我々は愛が成就されうる、育成されうると考えます。愛は育成される何かではありません。あるのかないのかのどちらかです。もしないなら、それを見てください、それを取り逃さないで、あなたの心の中に愛がないという現実のあなたを認めてください、それはそうすると何らかの機械になります―感受性を欠き、洗練を欠き、粗野で、セックスと快楽にだけ関心を持つ何かになります。宜しいでしょうか、私はあなたを悩ましているのではありません、私はあなたを叱っているのではありません。私は起こっていることをただ指摘しているだけです。あなたの知識、あなたの書物はあなたを破壊してきました、なぜなら愛は書物の中には見つからないからです。それは知識と共にはありません。知識と愛は共存しません。そうするとあなたは言います、「私は私の妻を知っています」と、しかしそれはあなたの彼女についてのイメージであるあなたの知識です。そのような知識は思考によって作り上げられます、そして思考は愛ではありません。それでは、これら全てを述べてきて、あなたはあなたの心の中に愛がありますか、それともそれはロマンチックな、無意味な、非現実的な、無価値な何かですか? それはあなたに一銭ももたらしません、それはそういうものなのです。これら全てを聞いてきて、その言葉の深さが理解されると、あなたの精神は心の中にありますか? そうするとあなたは正しい関係性を手にします。あなたが正しい関係性を手にすると、それは愛ですが、あなたは決して過つはずがありません。
1983年1月23日
ボンベイ
中野 多一郎 訳