はからない精神

 

マドラス・トーク

瞑想は日常生活の表現

 昨夕、我々は恐れや恐れの性質と何が恐れをもたらすのかについて話しました。我々は言いました、時間、欲望、思考が恐れの原因であり、人は怖れと共に生きてきましたと。我々は今でも恐れと共に生きています―過去の恐れ、人間の未来の恐れ、人間に何が起ころうとしているのかの恐れです。間違いなく、人間の未来とは今の人間のことです。もし人が徹底的に変わらなければ、心理的に、内面的に変わらなければ、未来とは今の人間のことです。それは請け合います、なぜならもっと戦争が起こり、もっと兵器が造られ、もっと破壊が進み、もっと暴力が増え、もっと人間がナショナリティに分断されるなどのことが起こるからです。未来は今の我々のことです。心理的な革命をもたらすことが待ったなしに必要です。変化をもたらすとはどういう意味ですか―一つの形、一つのシステム、一つの観念から別の何かに移行することではなく、この素晴らしい地球上に何百万年も生きてきた人間が変わることは可能ですか?
   今夕、我々は悲しみが消滅するのかどうかを一緒に話し合う必要があります―人間の悲しみです、そして愛とは何か、慈悲心とは何か、叡智とは、死の意義とは何か、そして瞑想の全問題です。我々は何世代にもわたって悲しみと共に生きてきました―その悲哀、孤独の悲しみ、酷い不安の悲しみ、他の人と正しい関係性が持てない悲しみ、息子を失った母親の、父親の悲しみ、戦争で死んだ夫の妻の悲しみ。そしてまた無知の悲しみもあります。悲しみは多くの形をとります。それは死と呼ばれる一つの出来事だけではありません、それは人の生の中で起こることだけではなくて、様々な出来事の連なりであり、苦楽を含む事故や経験の連なりであり、賞罰のこの活動の悲しみであり、老齢の悲しみであり、病や盲目の悲しみであり、奇形の子供たちの悲しみです。人間は多大の悲しみを背負ってきて、それから逃れようと試みます。人はあらゆる種類の理論、あらゆる種類の可能性、ロマンチックな概念を発明しますが、悲しみは人と共にあります。人は戦争が人間にしてきたことを見たことがあるのでしょうか―どれほど多くの女性たちが、父親たちが、兄弟や姉妹たちが涙を流してきたかを見たことがあるのでしょうか、なぜなら人はナショナリズムに、人種的偏見に、言語的な相違にしがみつくからです。これら全てが世界中の途轍もない悲しみの原因をなします。個人的な悲しみがあるだけではありません、何かを失う悲しみ、あなたが愛した誰かを失う悲しみだけではありません、たった一日たりとも幸福でかけがえのない日を決して過ごせない喪失感もあります、この国の貧困を見て何もできない苦痛もあります。人間はこの悲しみを太古の昔から背負ってきました。我々は依然として背負っています、恐れています、不安です、孤独です、深い内面的な痛みを抱えています、成功することができず、機会を失い、我々みなが欲しいと思うものが欠けています。
 人間によって背負われてきた、そして依然として悲しみの中にいる人たちによって背負われているこの途轍もない重荷を消滅させることができますか? 悲しみとは何ですか? 悲しみの原因とは何ですか? 原因があると、それは消滅します。もし私が癌を罹っているなら、その原因、その苦痛があるなら、そうすると恐らくその原因は取り除かれます。そのように、何ごとにつけても何らかの原因があれば、それは消滅します。因果関係は何らかの活動であり、それは固定した点のようなものではありません。もしあなたが悲しみのこの重荷の原因を理解し発見できるなら、恐らく我々は愛の性質を理解できます、神を愛することでも、グルを愛することでも、何らかの書物や詩を愛することでもなく、人間を愛することです―あなたの妻、夫、あなたの子供たちを愛することです。世界の本当の光であるそのような途方もない芳香を見つけるためには、人は苦しみの性質、苦しみの構造を理解しなければなりません。
 私は一緒に我々が、あなたと話し手が、このことを検討していくことを望みます。一緒に我々は探究しています、話し手が探究して、あなたが聞いたり、同意したり同意しなかったり、受け入れたり否定したりするのではなく、一緒に我々は人間の非常に非常に根本的な問題を探究しています。人には悲しみを理解するために感情的にならない取り組み方が要求されます、感傷的にならないことが要求されます、悲しみは消滅するとか悲しみはいつも人間と共にあるとする結論を抱かない取り組み方が要求されます。我々は一緒にこの問いを深く検討しなければなりません。精神が心の中にあるときにだけ、あなたはこの問いを検討できます。我々は理解するために、認識するために、議論するために、我々の知力を使います。我々は知力を取捨選択するために、はかるために使います。知力は頭脳の能力の一つです。もし我々がこの途方もない根本的な問題を検討していこうとするなら、単に知力には非常に僅かの役割しかありません、そしてほとんどの我々は高度に知的で、高度に教育されていて、この途方もない分析の質を手にしています。あなたはインドで地上のいかなるものも分析できます。あなたは相当に繊細な精神を手にしています、ところが悲しみを理解するためには、単なる知力では非常に遠くまで行けません。我々は言っています、我々みなが我々の知力を使う能力を持っていると、理解し、認識し、議論し、取捨選択し、あるものを他のものと較べるはかる能力を我々みなが持っていると。これが知力の働きです。そしてほとんどの我々がこの能力を持っていて―もしあなたがこの悲しみの問題を単にそのように取り組んでいくなら―我々の知力、我々の精神が探究の過程を支配します。従って、それは歪みます。
 一方、全体的な活動と共にそれに取り組むことは可能ですか? 我々は何事も決して全体として取り組みません。我々は生を決して全体として見ません。我々は生を断片化してきました、それを知性、感情、愛などとしてバラバラにしてきました、そうすることで我々は問題を決して全体的に見ることができません。“全体的”という言葉は“健康的”という意味でもあります―健康な精神、損なわれた精神ではなく、沈滞する精神ではなく、全体的な精神です、地球や大空やそれら全ての美をカバーする感覚です。“全体的”は“聖なるもの”をも意味します。この問いを検討するとき、探求するとき、人は心の中にそのような精神の質を持つ必要があります、ロマンチックではなく、理想的ではなく、想像力を働かせたものではなく、事実に即した、愛の質が織り込まれた精神を持つ必要があります。我々が“聖なるもの”という言葉を使うとき、我々はそれによって―心の中の精神、愛の質の中の精神、いかなる理想とも、いかなる服従とも無縁なそのような精神を意味しています。観察するためには自由がなければなりません。そこで、我々は一緒に悲しみとは何か、なぜ人は悲しみに耐えてきたのか、なぜ人はそれを恐れを受け入れてきたように受け入れてきたのか、快楽や欲望や人間が内にも外にも取り囲まれているあらゆるものを受け入れてきたように、受け入れてきたのかのこの問いを見てみましょう。
 それでは悲しみとは何ですか? その性質とは何ですか? 悲しみと言われるその中には、痛み、悲哀、孤立感、関係性が生まれない孤独感があります。それは物理的なショックだけではなく、意識の中に、精神の中に大きな危機が生じます。私は息子を失いました、私はそれを例えとして取り上げているだけです。私は私が執着している息子を失いました。私は彼にビジネスマンになってほしいと思います、ある種の相応の収入や家などを手にしてほしいと思います、そして突然彼はいなくなりました。そのような突然性は何を意味するのですか、私に大きな喜び、大きな痛み、大きな不安、彼の将来についての興味を与えてくれたものは何ですか? それら全ての活動―私の愛情、私の関心、私の心づかい、私の彼が良い趣味を持つように、美しく生きるように手助けしたい感覚―が突然消滅します。あなたはそれらの感情を知りませんか? どの家にもこの悲しみの影があります。私の執着するものが突然消滅します、私が彼に注いできた私の全ての希望が突然消滅します、深いショックという意味の突然です、そして生が空しくなります、私は非常に冷笑的になるか、合理的な説明を見つけるか、何らかの娯楽―ドラッグやトリップやその他の全て―に埋没するか、何らかの未来の生活を信じるかします。これが人間の運命です。
 このような消滅とは何ですか? 消滅するとはどういう意味ですか? 我々は何かを何の動機も持たずに賞罰とは無縁に消滅させたことがありますか? 消滅すると、全く新しい始まりがあります。しかし我々は決して消滅させません。我々はもしそれが有益ならあるいは痛々しいなら何ごとかを消滅させます。我々の生は賞罰に基づいています、外面的にも内面的にも、しかし我々は決して何かを原因なしに消滅させません。そうして、悲哀、孤独そして本質的に時間、自己確認、自己投資である分離感が起こり、人が他の人の中に育ててきたあらゆるもの―それらが消滅してショックを受け、そのようなショックを私は悲しみと呼びます。それでは、人はそのようなものと共にいられますか、逃げずに、慰安を追い求めずに、そのようなものと共にいられますか? あなたはそのような途轍もない挑戦を思考の一つも働かせずに引き受けることができますか、なぜなら悲しみは人間の精神、人間の質にとって恐らく最も深刻な挑戦、最も差し迫ったものの一つだからです。そしてもしあなたが単にそれから逃げるなら、立ち去るなら、合理化するなら、悲しみはあなたの影になります、しかしそのようなものの消滅によって、エネルギーの正に本質である熱気が生まれます。しかし我々の中の非常に僅かな人たちしかそのような熱気を持ち合わせていません、それは生き生きとしたエネルギーであり、そのような熱気が宇宙を動かします。
 そこで我々は愛とは何かを検討する必要があります。その言葉はとても骨抜きにされています。我々はその言葉にとても浅薄な意味を与えてきました。人は言います、私は私の妻を愛していますと。人はそのような愛を疑問に思います。そのような愛は執着かもしれませんし、そのような愛は慰安を、性的な快楽を、連れ添う快楽などを追い求めているのかもしれません。我々は愛とは何かを検討しています、その深さを、その美とその途方もない質を見ていこうとしています。愛は死と関連しているかもしれません。
 確かなことは、真実の何かを見つけるためには、人は真実ではないものを、偽りを否定しなければなりません。何が偽りで、何が真実で、何が偽りの中の真実かを発見するためには、明確に考える能力だけではなく、問いを発する、問いかける能力も人に要求されます。それでは愛とは何ですか? あなたは愛は欲望だと思いますか? あなたは愛は快楽だと思いますか? あなたは愛は執着だと思いますか? 話し手はあなたが自分自身に答えるようにそれらの問いを発しています、答えてください、自分自身を欺かないでください、そうすることはとても簡単です。人は考えるかもしれません、自分は驚くべき人間であると、そして自分はそのような出自であると。しかし愛ではないものを明らかにすること、それはその否定ですが、それが最も肯定的な行動です。我々は問うています、欲望は愛ですかと。欲望は彷徨う活動です、では愛は彷徨いますか、不安定ですか、弱々しいですか、それともそれは死と同じくらいに活力があって力強いのですか? 愛は快楽ですか、性的快楽ですか、人を自分のものとしている、支配している、所有している快楽ですか? それが愛ですか? 人に執着すること―私の妻、私の夫、私の家族への執着、それはしがみつくこと、すがりつくことを意味しますが―それは愛ですか? それとも、執着の中に恐れ、嫉妬、不安、憎しみが生まれるのですか? 嫉妬すると憎しみが生まれます。それが愛ですか? 憎しみは愛と何か関係がありますか? 愛は憎しみの対極にありますか? 善いことは善くないことの対極にあるのですか? もし憎しみが愛の対極にあるなら、憎しみのルーツは愛の中にあります。あらゆる対極関係がそれぞれのルーツをそれぞれの対極の中に見出します。どうぞあなた自身の生を正直に検討してみて、それらの問いを発してみてください。欲望、快楽、執着、嫉妬、不安、失うことを恐れること、それら全ては愛ですか? あなたは執着から自由になれますか、死がやってくる最後の瞬間ではなくです。あなたは他の誰かへの執着を消し去ることができますか? 執着の意味することを、執着の行く末を見てください。嫉妬があると、憎しみや怒りが生じます。それらは愛ですか? 
 そして慈悲心とは何ですか―あなたが辞書の中で見つける定義ではありません。愛と慈悲心との関係性とは何ですか、それともそれらは同じ働きですか? 我々が“関係性”という言葉を使うとき、それは二重性、何らかの分離を意味します、しかし我々は愛が慈悲心の中でどのような位置を占めるのかを問うています、それとも愛は慈悲心の最高の表現ですか? もしあなたが何らかの宗教に属しているなら、どこかのグルに従っているなら、何かを信じているなら、あなたの経典を信じているなどしているなら、何らかの結論にしがみついているなら、どうしてあなたが慈悲深くいられるでしょうか? あなたがあなたのグルを受け入れるとき、あなたが何らかの結論に至るとき、それともあなたが強く神や救世主やあれやこれを信じるとき、慈悲心が生まれうるでしょうか? あなたは社会活動をするかもしれませんし、憐れみから、同情から、思いやりから貧しい人々を助けるかもしれませんが、それらは愛や慈悲心ですか? 愛の性質を理解するとき、心の中の精神であるそのような性質が備わるとき、それが叡智です。叡智は愛が何であるかを理解すること或いは発見することです。叡智は思考、賢さ、知識とは何の関係もありません。あなたはあなたの学問について、あなたの仕事について非常に賢いかもしれませんし、あなたは非常に巧みに合理的に議論できるという点で非常に賢いかもしれませんが、それは叡智ではありません。叡智は愛や慈悲心と共に働きます、そしてあなたはそのような叡智に個人としては出会えません。慈悲心は、思考があなたのものでもなければ私のものでもないように、あなたのものでもなければ私のものでもありません。叡智が働くときには“私”も“あなた”もいません。そして叡智はあなたの心やあなたの精神にとどまりません。そのような至高の叡智は至る所にあります。地球や天体や星々を動かしているのはそのような叡智です、なぜならそれが慈悲心だからです。
 そしてまた我々はこの死という問題を一緒に話していきます―消滅である死です、我々の記憶の消滅であり、我々の執着の消滅であり、もしあなたが持っているならあなたの銀行口座の消滅です。あなたはそれを持って行けませんが、あなたはそれを最後の瞬間まで持っていたいと思います。それでは、死とは何ですか、死ぬのは何ですか? そして生とは何ですか? お分かりですか? 死ぬのは誰ですか、そして死ぬとはどういう意味ですか? 我々は身体組織の消滅を話しているのではなく、我々は生を検討しています、生の消滅と死が意味する大いなる意義を検討しています。我々が死から分離してきた生とは何ですか? そこには四十年、五十年あるいは百年の開きがあります。我々は我々の生を引き延ばしたいと思います、できるだけ長く引き伸ばしたいと思います。現代医学、外科手術、健康などそれらが人の生を引き延ばす助けになっています。私は何のためだか知りません、しかし人はそれを引き延ばしたいのです。それでは生とは何ですか、あなたの生あるいは宇宙の生、地球の生、自然の生、始まりも終わりもない壮大な活動である生です。あなた方の伝統の罠に陥らないでください。それは死んでいるものです、それはドアの釘のように死んでいるものです。そこで我々は、我々が生きることについて話すとき、生について話すとき、それは何を意味するのかを検討しなければなりません―樹木の生、水中の魚の生、トラの美の生、宇宙の生、とても途方もなく壮大で際限がなく計り知れないこの生です。我々はそのような生について話しているのですか、それともあなたの生について話しているのですか? もしあなたがあなたの生について話しているのなら、その生とは何ですか? 朝から晩まで五十年、六十年職場へ出かけていき、子供たちをもうけ、何らかの宗派に属し、どこかのグルに従う生ですか? あなたの生は快楽としての争いであり、恐れとしての争いであって、快楽と欲望の追求です。これがあなたの生です。それが我々の話していることですか、そのような生の消滅を話しているのですか? 重要なのは―死の後ですか、死の前ですか? 生、その美、そのエネルギー、その快楽、その計り知れなさを、あなたはそのような底の浅い薄っぺらな“私”に矮小化してきました。あなたはそのことに関心がありますか、死んでいく“私”です。それはあなたの名前ですか、あなたの姿かたちですか、あなたの見た目ですか、あなたの銀行口座ですか、あなたの理想ですか、あなたの信念ですか、あなたの経験ですか? そうするとあなたは何ですか? どうかそれをよく見てください、それを疑問に思ってください、それを疑ってください、それを問うてください。それがあなたの恐れていることですか―死ぬことです。あなたの体、その有機組織が死んでいくことは知っていますね? あなたはそれを長い間引き延ばすかもしれませんが、それは消滅していきます。あるいは、あなたは言えます、「私は申し分のない良い生を生きてきた、私は死んでも構わない」と。我々は問うています、死ぬのは何ですかと、そして何が生にしがみつくのですかと。私がここで言う生とは、職場へ行くこと、セックス、痛み、快楽、互いに争うこと、口論すること、互いに破壊し合うことを意味します。これがあなたの生です、あなたが若かろうと年を取っていようと。あなたが恐れる消滅するものとはそれですか? それとも、あなたは全体としての生を、宇宙の生を、とても広大で、とても壮大で、とても計り知れない生を考えているのですか? どうか現実のあなたを、思考がしがみつく現実のあなたを、あなたが自分自身について築いてきたイメージを、思考がしがみつくそのイメージを検討してください。それは人の魂の不死でも、あなた自身の不死でもありません。あなた自身は、あなたが生まれてから今まで、時間の中で、“私”としてのイメージを通して築かれています。そしてあなたはそのような“私”を何らかの現実性として受け入れます、それは本当にリアルなものですか、それともそれは一連の言葉の連なりであり、記憶の連なりであり、偶然の経験の連なりであって、それらは全て思考によって作り上げられているのですか、そしてそのような“私”が生のあらゆるこの労苦にしがみついているのですか? もしあなたがそれにしがみつかないなら、生は全く異なる何かです。それは壮大な計り知れない活動です。しかしそのことは自己がいないときにだけ見られるのです。
 それでは我々は問う必要があります、瞑想とは何ですかと。 我々は一緒に瞑想とは何かを検討していきます、どのように瞑想するのかではなく、瞑想の性質、その質、その構造、その美を検討していきます。その“瞑想”という言葉は、辞書によると、じっくり考えること、よく考えること、熟考すること、突き止めること、探求すること、注意して見ることを意味します。そして“瞑想”という言葉は測定すること、はかることをも意味します。私はサンスクリット語の“ma”ははかることであると信じます。はかることは比較することを意味します。あなたは古代ギリシャが紀元前四百五十年にどのようにして全ヨーロッパに拡大したかを検討したことがありますか? ギリシャには“はかる”ということについて責任があります。ギリシャ人がはかることを発明しました。はかることなしに技術というものはありえません。そして西欧世界は大変な技術を可能なものにしています、そしてそれが日本に伝えられました。古代インド人は言いました、はかることは幻想であると、そしてインドは全アジアに拡大しました。それを誇りに思わないでください、それは全て過ぎ去ったことです。あなたはとても貴重な一つのことを失いました。あなたはあなたがかつて手にしていた最高の宝石を失いました。そのように瞑想は、考えること、じっくり考えることを意味します、そしてそれははかることをも意味します。つまり、私はこうです、私はそうならなければならない、私は自分自身を賢くて、美しくて、素敵なあなたと比較しています、私はそうではないのです、それがはかることです。何らかの例に従うことははかることです。心理的にはかっている限り、瞑想はありえません。はかっていたり、比較していたりすると、瞑想はありえません。あなたは二つの車を比較することができます、二つの材質、より良い生地、より良い紙、より良い家、より良い食べ物を比較することができます、しかし精神が心理的により良いという観点で考えると、瞑想は不可能です。あなたは足を組んで座り、あらゆる種類のヨーガ、あらゆる種類のコントロールを試みることはできますが、コントロールしようとすると、はかることになります。コントロールしようとすると、争いが起こるに違いありません、はかることをするに違いありません、そうするとそれは瞑想ではありません。
 瞑想は懸命な生を生きることです。瞑想は日常生活から分離していません、それは部屋の隅へ行って、毎日あるいは午後や毎夕二十分間瞑想することではありません、それはただのシエスタにしかすぎません。システムというものはありません。システムは実践を意味します。実践することははかることを意味します―現実のあなたからあなたがそうありたいと思うものを目指して実践します、あなたはありもしないことを目指しているのかもしれません。恐らく、あなたはそうしています。あなたはそれを瞑想と呼びます。そのような瞑想はあなたの日常生活から全く切り離されています。瞑想的な日常生活を送ることが可能かどうかを明らかにしてください、それはいついかなる時でもはかることをしないことを意味します。瞑想の中にはコントロールというものはありません、なぜならコントロールするものがコントロールされる当のものだからです。瞑想の中には意志というものはありません、なぜなら意志が欲望だからです。欲望の本質は意志です―「私は瞑想します、私はこれを毎日実践します」などです。瞑想の中には努力というものはありません、なぜならコントロールするものが存在しないからです。瞑想は気づくことを意味します、地球に、地球の美に、枯れ葉に、死にかかっている犬に気づくことです、あなたの環境に気づくことです、あるいは、あなたの隣人に気づくことです、あるいは、あなたが身にまとっている衣服の色彩に、なぜあなたがそのような色の服や首飾りを身につけているのかに気づくことです、瞑想はそれらに気づくことです。葉群れの中に吹く風の美に気づくことです、あなたの思考、あなたの感情に気づくことです、つまり、取捨選択しないで気づくことです―ただひたすら気づくことです。そのことはあなたの感受性を高めます―あらゆるものを気を抜かずにひたすら観察することです。あなたが私は何かをしますと言うとき、それを行ってください、決してあなたが言ったことを忘れないで、そうしてください。あなたが行うつもりもないことを言わないでください。それは瞑想の一部です。つまり、あなたの感情、あなたの条件づけ、あなたの意見、あなたの判断、そしてあなたの信念に気づくことです、そうするとそのような気づきの中には取捨選択が生じません―ただひたすら地球、大空そして素晴らしい河川の美に気づくだけです。あなたがそのように気づいていると、気をつけていることが起こります、話し手を理解しようと気をつけているだけではなく、あなたの妻があなたに言っていることにも気をつけています、あるいは、あなたの夫があなたに言っていることにも、それとも、あなたの子供たちがあなたに言っていることにも、政治家たちがあなたに言っていること―彼らのペテン、彼らの権力志向、地位志向―にも気をつけています。あなたがそのように深く気をつけていると、気をつける“私”としての中心が存在しません。それもまた瞑想です。
  そうすると、もしあなたがそれほど先まで行ったのなら、もし精神がそれほど先まで行ったのなら、あなたは宗教とは何かを問います。宗教はあなたが手にしているそれらのいずれでもありません―寺院と寺院の内容、祈りの儀式、ヒンズー教寺院、教会―それら全ては宗教ではありません。儀式、信仰、それらは物理的なプロセスである思考によって作り上げられています、そしてあなたは思考が作り出してきたそれを崇拝します、それはあなたが作り出したものです。あなたは、全ての儀式、それらの神々、あなたがあなたの恐れから、あなたの安全を願う思いから、それらを作り出したことを理解したことがありますか? 私はあなたが同意しないことを知っていますが、そのことに耳を傾けてください。あなたはそれを続けるでしょう、なぜならあなたの精神が条件づけられているからです、恐れているからです、何らかの種類の安全を願うからです、しかし宗教的な人はいかなる集団にも、いかなる宗教にも属しないし、何の信念ももちません、なぜならその人の精神が自由だからです。叡智は究極的な安全の最高の至高の形です、それは狡賢い思考の知恵ではありません。慈悲心の叡智があります。そのような叡智の中には、疑念、不確かさ、恐れはありません。そのような叡智は計り知れない宇宙的な何かです。そして気をつけていると沈黙が生まれます。もしあなたが今話し手の言っていることに気をつけているなら、あなたの耳で、あなたの目で、あなたの神経で、あなたの全身体で気をつけているなら、もしあなたがそのように気をつけているなら、そのような気をつけている質の中に沈黙が、底の知れない沈黙が生まれます。そのような沈黙が思考に触れられることは決してありませんでした、そのようなときのみ人が太古の昔から探し求めてきたそれが、神聖な何かが、名状しがたき至高の何かが訪れます。そのような精神のみが生のあらゆる労苦から余すことなく自由です、そのような精神のみが至高のものを見つけることができます。それは瞑想を意味します、そしてそれは日常生活の表現です。
                                                 1983年1月2日
                                                      マドラス
                                                 中野 多一郎 訳