はからない精神

 

ボンベイ・トーク

心理的な進化があるのでしょうか

 我々は何が真理で、何が誤りなのかを自分自身で一緒に気づかなければなりません、何が誤りで何が真実かを、無知とは何で、知識とは何かを人から言われるのではなく、自分自身で自分自身の中のそのような静かな場所を見つけるのです、このようなおぞましい都市に住み、狭い空間に住んで、一日中働き、通勤し、込み合った電車やバスに乗って遠くまで通っている我々がそのような場所を自分自身の中に見つけるのです。我々は自分自身で静かな場所を見つけなければなりません、家や庭や人気のない小道の中ではなく、自分自身の深いところにそれを見つけなければなりません、そしてそこから行動し、生きて、自分自身で美とは何かを、時間とは何かを、恐れの性質とその活動、快楽の追求や悲しみの消滅を明らかにしなければなりません。我々はそのような場所を持たなければなりません、精神の中ではなく心の中に持たなければなりません、なぜなら、そうすると愛情が生まれて、愛、知力、理解が明瞭になり、そこから行動が生まれるからです。しかしほとんどの我々は、非常に骨の折れる、争いのある生を我々の周りの大変な圧力と共に生きています。もし我々が自分自身で何らかの内面的な空間を見つけないなら、思考によって作り出された空間ではなく、汚染されていない無垢な空間を見つけないなら、他の人によって灯された光ではなく自分自身を照らす光があって、そのために我々が余すことなく自由なそのような空間を見つけないなら、我々は自由な人間ではありません。我々は我々が自由であると考えます。我々は取捨選択することができるから、我々は自分の望むことができるから、我々は我々が自由であると考えます、しかし自由は我々が望むことをなす欲望とは全く異なる何かです。ですから我々は、いかなるガイドも退けて、いかなる助けも借りずに、何をすべきで、どう振る舞うべきか、何が正しい行動かを我々に語ってくる我々の外からのいかなる働きかけとも無縁に、我々は一緒に自分自身で見つけなければなりません、我々自身の中の始まりも終わりもない空間を見つけなければなりません。
 最初に、美とは何ですか? あなたは訊くかもしれません、それが我々の日常生活と何の関係があるのかと。我々の日常生活はかなり醜くて、自己中心的です、我々の日常生活は何らかの争いであり、痛み、不安であり、そのような絶望的な孤独感です。それが我々の日常生活です。そのことを理解するためには、人は殊のほか気づかなければならなくて、起こっていることを実際に見て取らなければなりません。我々の生の要因の一つは時間です。我々は時間とは何かを、時間が我々の生の中でどのような役割をするのかを明らかにしようと思います、そして分断のプロセスである時間、始まりと終わりのある時間、何かになることである時間、そのような時間―物理的な時間とは別の、日の出日の入りの時間とは別の、満月や新月の幽かな円弧の美とは別の時間―は何らかの道として美を含むのか除外するのかを明らかにしようと思います。これは我々が理解する重要なことです、なぜなら我々は生き方の美的感覚を全く失っているからです。我々は自然の美的感覚を失っています、顔の美しさや服装の趣味の良さなどだけではなく、美の質のことです。美は生なしに存在しえません。美は時間を出自としません。創造は時間を出自としません。
 そのように、時間は我々の生の中の重要な要因です。時計時間があります、物理的な時間があり、何らかの言語、何らかの技術を習得する時間、この世界で何かを成し遂げる時間―秘書から経営者になるなどの時間―があります。そのような方向性を持つ時間があります。心理的な時間、つまり内面的な時間がありますか? ここからそこまで進歩するという意味の時間、もっと気高くなり、もっと貪欲から、怒りから、暴力から自由になるという意味での時間というものがありますか? 時間は何らかの進展です。種子から樹木への生長、赤子から大人への成長、そのような生長や成長、何かになること、それら全てが時間を意味します。時間は何らかの進展です。それでは我々は心理的な進展があるのかどうかを一緒に問うていくことにします。これは重要なことです、なぜなら時間と思考が恐れのルーツだからです。恐れは、もしあなたが時間の性質と全ての恐れのルーツである思考の性質を理解しないなら、消滅することは、消え去ることは、消散することはありえません。我々は時間の性質を一緒に検討しています。物理的な時間があります、新月は満月になり、種子は巨木に生長します。時間は何らかの言語や技術を習得するのに必要です、時間は知識を収集蓄積するのに必要です。あなたは何らかの言語を一週間が半年で習得するかもしれません。ここからあなたの家へ行くのには時間を要します、ある地点から別の地点へ行くには時間を要します。あらゆる物理的な動き、物理的活動、何らかの習得には時間を要します。精神、つまり、あなたの全ての思考やあなたの全ての感情、あなたの全ての結論や信念、神々、希望、恐れなどのかたまり、それら全てが一つのかたまりです、それがあなたの意識であり、それが現実のあなたです。それがあなたの意識の現実です。あなたの意識はそれら全てのもので成り立っています―あなたの神々、あなたの知識、あなたの信仰、あなたの希望、あなたの恐れ、あなたの快楽、あなたの結論、あなたの孤独そして悲しみや痛みを大変に恐れること。我々は問うています、そのような意識は進化するのかどうかを。
 進化は何かになることを意味します、つまり、私は貪欲で、嫉妬深くて、暴力的です。貪欲は非貪欲に進化しますか? あるいは怒りや孤独感が徐々に何か他のものになりますか? あらゆる我々の伝統、あらゆる我々の宗教的トレーニング、我々の信念、我々の信仰、そして言わばあらゆる神聖な文献があなたに指し示します、あなたは何かになりますと。もしあなたが努力すれば、もしあなたが励めば、もしあなたが瞑想すれば、あなたはここからそこへ歩みます、“現実のあなた”から“あなたのあるべき姿”になります。それが進化です。宜しいですか、話し手はそれら全てを否定しています。話し手は言っています、貪欲は決してより良き貪欲にはなりえないと。何かの消滅があるだけであり、何かになるということはありません。ほとんどのあなた方が恐らく輪廻転生を信じます。なぜあなたはそれを信じるのですか? それは、この世から次の世へということであり、そこであなたはより良い機会を得ます、そこであなたは少しだけより気高くなります、そこであなたは少しだけより慰安を得ます、より悟りを開きます、つまり、“現実のあなた”から“あなたのあるべき姿”になります。それが進化と呼ばれます。話し手はそれを疑問に思っています。彼は言います、心理的な進化というものはありませんと。あなたはその発言の性質を理解する必要があります、そこに意味されていることを理解する必要があります―何かになるという意味の精神の進化としての活動はないと言っています。私は気高くなりません、私は悟りを開きません、たとえ私が何かを実践しても、たとえ私が何かに励んでも、たとえ私がこれを否定し、コントロールするなどしても、それは何かを徐々に成し遂げるということです。そこで人は時間の性質を理解する必要があります、時間は、我々が言ったように、本質的に分断することを、打ち破ること意味します、時間は始まりと終わりを意味します。
 そこで我々は恐れの性質を一緒に話し合おうと思います、恐れは今消滅しうるのか、それともそれは徐々に消滅しなければならないのかどうかを一緒に話し合おうと思います。我々は徐々に我々から恐れが取り除かれるという観念に慣れています、つまり、「私は恐れていますが、私に時間をください、私はそれを乗り越えます」。恐れは時間を通じて消えうるのですか、それとも正に時間それ自体が恐れのルーツなのですか? 恐れのルーツとは何ですか? 恐れとは何ですか? あなた方はみな恐れが何であるか知っています―何かにならない恐れ、何かを成就しない恐れ、闇を恐れること、権威を恐れること、あなたの妻あるいは夫を恐れること、恐れにはとても沢山の側面があります。我々は恐れの多くの側面あるいは一つか二つの恐れを消し去ることに関心があるのではありません。それは樹木の枝葉を切っているようなものです、しかしもしあなたがその樹木を破壊したいと思うなら、あなたはその樹木を根こそぎ引き抜く必要があります、その正に根の先までいく必要があります。それではその恐れを見てみましょう。恐れとは何ですか―事故を起こす恐れ、病気にかかる恐れ、そして死に由来する究極的な恐れ、あるいは生きていく恐れなどです。 恐れはとても深すぎてそれを放棄すること、あるいはそれを追い払うこと、あるいはそれをコントロールすること、あるいはそれを抑えることができません。人はそのルーツを検討しなければなりません。恐れのルーツとは何ですか? それは時間ではないですか、それは思い出すことではないですか、それはあなたが経験した痛々しい経験やそれがまた再び起こることの恐れ、病気の恐れではありませんか―それら全てはその症状ではありませんか? 我々は症状を扱っているのではありません。我々はあらゆる恐れを余すことなく根こそぎ引く抜くことができるかどうかに関心があります。もしそれがはっきりしているのなら、我々は何らかの特殊な恐れには関心がありません、あなた自身の特殊な神経症的な恐れには関心がなくて、恐れの性質、その構造、その原因に関心があります、なぜなら、何らかの原因があると、それの消滅があるからです。そこで我々は一緒にその原因を明らかにしていきます。
 恐れの原因の一つは時間です。つまり、未来であり、起こるかもしれない恐れであり、時間である、何らかの思い出である、思考である過去の恐れです。我々は問うています、時間と思考が恐れのルーツなのかと、それらが恐れの原因なのかと。私は起こるかもしれないことを恐れます、つまり、未来です。あるいは、私は過去に起こったことが再び起こるかもしれないことを恐れます、つまり、過去が現在に這い入ってきて、それ自身を修正し継続します。そのように時間が恐れの要因の一つです。そこで、私は問うています、思考は恐れの要因でもあるのかどうかを、そして時間と思考との間に違いがあるのかどうかを。時間は昨日、今日そして明日としての分断です、過去の記憶が未来へ投影されています、そして我々は起こるかもしれないことを恐れます。それでは、思考が原因の一つですか、あるいは恐れの原因ですか? それでは思考とは何ですか? 考えるとはどういうことですか? 読み書きを知らない、辺鄙な村に住み、貧困にあえいでいて、不幸な最も無知な人、その人もあなたと同じように思考します、科学者が思考するように思考します。思考は全ての人によって共有されています。それはあなたの思考ではないし、それは個人的な思考ではありません。我々は問うています、思考は恐れの要因の一つなのかと。我々は思考とは何かを探究しています。思考はあらゆる人間によって共有されています、最も教育を受けた、洗練された、裕福な、力のみなぎる人あるいは最も粗末で、無知で、飢えかかっている人やその他の全ての人であろうと。それは全ての人にとって共通のものです。従って、それはあなたの思考ではありません。あなたはあなたの考え方を違うように表現するかもしれませんし、私はそれを異なる言葉で表現するかもしれませんが、事実は我々が共に思考するということであり、思考はあなたのものでも私のものでもありません。それは思考です。それでは思考とは何ですか? なぜそれはあなたの生の中でそれほど途方もなく重要になっているのですか? どうかこのことを理解してください。あなたの精神をこのことに注いでください。なぜなら愛と思考は共存できないからです。慈悲心は思考の産物ではありません。愛は思考の影があるところには存在できません。愛は想い出ではありません。どうかこのことの理解にあなたの心と精神を注いでください―思考は我々全てにとって共通なものであること。それは個人的な思考ではありません。あなたはそれを表現し、他の人はそれを異なった仕方で、非常に学問的に表現するかもしれませんし、他の人はそうしないかもしれませんが、思考は全ての人によって共有されています。
 それでは思考とは何ですか? そのような問いかけがあなたに向けられると、あなたは考え始めます、違いますか? それともあなたはこの質問に耳を傾けますか? もしあなたがその質問に耳を傾けるなら、つまり、あなたの精神があなたの結論やあなたの観念などで割って入らなければ、もしあなたが余すことなく気をつけて聴いているなら、それはあなたのあらゆる感覚が余すことなく目覚めていることを意味しますが、そうするとあなたは自分自身で思考の源が何であるかを見て取るでしょう。思考の源は経験です。経験が知識を与えます、それが科学的な知識であろうと、妻や夫についての知識であろうと。経験や知識が、記憶や記憶の反応として頭脳の中に蓄えられている経験や知識が思考です。これは非常に単純なことです。それは事実です。あなたは、もし記憶がないなら、もし知識がないなら、もし経験がないなら、考えることができません。そのように、思考は時間的なプロセスです、なぜなら知識が時間的なプロセスであり、知識は決して完全ではありえないからです。従って、思考は決して完全ではありえません、あなたはいつも断片的であるに違いありません。そのように恐れは思考の申し子です。そのように思考と時間が恐れの要因です。
 それでは、思考は時間と異なりますか、それとも思考は時間ですか? 思考は何らかの活動です、違いますか? それは物質的なプロセスです。思考が何をなそうと、それは物質的です。あなたの神々は思考によって作り出されます、あなたの儀式は思考によって作り出されます。宗教の名の下で行われるあらゆるものが思考によって作り出されます。神々、グルたち、あらゆるものが思考によって作り出されます。思考は限られていて、断片的です、なぜなら知識が限られているからです、そして全ての行動が限られているものになります。限られていると、恐れが生じるに違いありません。そこで我々は問うています、思考と時間は一緒に働くのか、それともそれらは異なるのかと。それとも時間として分断されている、発達として、進化として、何かになることとして分断されている思考だけがあるのですか? 宜しいでしょうか、どうかこれらのことを探究してください。探り出してください。あなたの頭脳を知識によって鈍くさせないでください。生は知力でもあり、感情でもあり、感覚でもあります。しかしもしあなたのせいで思考がそれら全てを支配するようになると、あなたがそうしているように、我々の生は断片的で、底の浅い、空しいものになります。
 我々は愛とは何かを一緒に話し合う必要があります。あなたは、あなたが誰かを愛していると、執着とは無縁に愛していると、嫉妬とは無縁に愛していると言いますか? もし執着が生じるなら、愛は生まれません。もし何らかの種類の敵対心、憎しみがあるなら、愛は存在しえません。恐れがあるなら、愛は存在しえません。野心があるなら、愛は存在しえません、何らかの種類の力が振るわれるなら、もう一方は存在しえません。もしあなたがあなたの妻を力で弄ぶなら、あるいはもしあなたがあなたの夫を所有するなら、あるいはもしあなたが野心的なら、愛はありません。我々は問うています、あなたは愛していますかと、なぜなら愛がないと、苦しみが続くからです。我々は探し出す必要があります、見つけ出す必要があります、悲しみを消滅させる可能性があるのかどうかを、なぜならそれら全てが結びついているからです。悲しみは恐れと異なりません。悲しみは思考と異なりません。悲しみは憎しみ、傷、我々が受ける心理的な傷と異なりません。それらは全て互いに関連しています。それは一つの問題であり、分離した問題ではありません。それはあなたが全体的に取り組む必要のある何かであり、部分的な何かではありません。しかしもしあなたがそれを知的に、理想的あるいは観念的に、ロマンチックに取り組むなら、あなたは生の全体性を見誤ります。そのように我々は悲しみの消滅する可能性があるのかどうかを探し出しています。恐れ、快楽そして悲しみは思考以前の時間から存在してきました。
 人はいつも生のそれら三つの要因を抱えてきました―恐れ、快楽の追求そして悲しみです、そして明らかに人はそのことを超えていません。人は人が考えうるあらゆるメッソド、あらゆるシステムを試みてきて、それを抑えようとしてきました、それから逃れようとしてきました、神々を発明してそれら全てをその発明に託そうとしてきました、しかしそれもまた機能しませんでした。そこで我々は悲しみが消滅しうるのかどうか、我々は悲しみの性質、悲しみの原因を理解できるのかどうかを明らかにしなければなりません。その原因は恐れと異なりますか、その原因は快楽と異なりますか、何かを成し遂げる快楽、才能を持つ快楽、富を持つ快楽と異なりますか? 悲しみと恐れが消滅しうるのかどうかを明らかにしましょう。快楽の追求には限がなく、終わりがありません、何かを成し遂げる快楽、誰かに執着している快楽、そのような執着が人に対してのものであろうと、何らかの観念あるいは何らかの結論に対するものであろうと。あなたがそのような快楽を追求しているとき、いつも恐れの影がそれに付きまといます。恐れがあると悲しみが生じます。それらは全て一緒です。それらは全て関連しています、そして人はそれら全てを全体として、分離することなく扱わなければなりません。はっきりさせてください、我々は悲しみをそれが恐れと異なる何かのごとく分離して扱っていません。我々は悲しみの性質と悲しみの消滅を見ています、探し出しています、なぜなら悲しみがあると愛は生まれないからです。
 悲しみ自体はとても沢山の顔を持ちます―孤独の悲しみ、貧困、腐敗、他の人間に対する全くの無関心、気遣いの欠如。あなたがこれらを毎日毎日見るとき、それもまた悲しみです、世界中の政治家たちの全くの怠慢があります。その人たちは権力、地位が欲しいだけです、そして権力があるところには邪悪なものが生じます。そして悲しみはあなたの愛する人を失うことです。何かを失う悲しみ、あなたが心にかけてきた何かが、あなたがしがみついてきた何かが消滅する悲しみ、疑う悲しみ、自分自身の生がそのような抜けがらであること、意味のない存在であることを目にする悲しみ。あなたはお金、セックス、子供たちを得ているかもしれませんし、非常に流行的な装いをしていて裕福かもしれませんが、それは空しい生です。それには深みがありません。そのようなことを見ること、その性質に気づくこともまた悲しみです。それでは悲しみは消滅しうるのですか? それはあなたの悲しみではありません。それは私のものでもあり他の人のものでもあります。悲しみをあなたの特別なかけがえのない何かとして扱わないでください。それはあらゆる人間によって共有されています。それをあなたの特別な悲しみとしてではなく、あなたの個人的な静かな悲しみとしてではなく、全ての人間の悲しみとして扱ってください、あなたが男であろうと女であろうと、裕福であろうと貧しかろうと、洗練されていようとあなたの美徳の高みからであろうと。どうか恐れ、快楽、悲しみ、愛などそれら全てをお互いに分離した何かとして扱わないでください。あなたはこの全体を、断片的にではなく、全体として取り組まなくてはなりません。もしあなたがそれを断片的に取り組むなら、あなたはそれを決して解決しないでしょう。ですから、貪欲、痛み、悲しみを、生とは異なる何かとしてではなく、生の全体的な活動として見てください。これが我々の日常生活です。これら全て―悲惨、争い、痛み、悲しみや恐れ―が消滅するのかどうかを見つけるためには、人はそれらを知覚できなければなりません、人はそれらに気づけなければなりません。
 我々は知覚とは何か、どのように見るのかを理解しなければなりません。これら全て―貧困、孤独、不安、不確かさ、苦しみ―を見る観察者はそれら全てと異なりますか、それとも観察者はそれら全てですか? 私はこのことを説明します。我々は“私”を、観察者である“私”を、“私”が観察しているものから分離してきました。私は私が苦しんでいると言います、そして私は自分自身に言います、苦しみは無くならなければならないと、そしてそれを消滅させるために、私はそれを抑えなければならないと、私はそれから逃げなければならないと、私は何らかのシステムに従わなければならないと。そのように、私は恐れとは異なります、快楽とは異なります、痛みや悲しみとは異なります。あなたはそれら全てと異なりますか? あるいは、あなたは考えるかもしれません、あなたの中にそれらとは全く異なる何かがあると。もしあなたがそのように考えるなら、それはあなたの思考の一部です、従ってそこには神聖なものは何もありません。そうすると、観察者は観察されているものと異なりますか? あなたが怒っているとき、嫉妬しているとき、残忍なとき、暴力的なとき、あなたはそれら全てではありませんか? 瞑想する人が正にその瞑想の当のものです。どうか、宜しいですか、そのことを考えてください。観察者が正に観察されている当のものです。このことの重要性を見てください。今まで、我々は観察者を観察されるものから分断してきました。それはそれともう一方のものとの間に分断があることを意味します。そこで争いが起こりました。そうするとあなたはそれをコントロールできると思います、それを抑えたり、それと戦ったりできると思いますが、もしあなたがそれであるなら、もしあなたが悲しみであるなら、もしあなたが恐れであるなら、もしあなたが快楽であるなら、あなたはこれら全てのかたまりです。そのような事実を認めることは途轍もなく現実的なことです、従って分断が起こりません、従って争いが起こりません、観察者が正に観察されている当のものです。
 そうすると全く異なった行動が起こります、全く異なる化学作用が生じます。それは知的な成果ではありません、それは真理の知的な概念ではなくて、その事実を、その真理を見て取ることです、あなたがあなたの性質と異ならないということ、あなたはあなたの怒り、嫉妬、憎悪と異ならなくて、あなたはそれら全てであるということを見て取ることです。あなたは、あなたがそのことを言葉でではなく内面的に悟ると、何が起こるのか分かります。見つけ出してください。あなたは私があなたに話すのを待っているのですか? 私は話しません。あなたはあなたの精神がどのように働くのか分かります。あなたは私があなたに話すのを待っています、あなたは見つけ出したいと思いません。もし私があなたに話すと、あなたは言います、はいそうです、それは正しい、あるいは、それは間違っていると、そしてあなたはいつも通り続けます、しかしそうではなく、その実際の真理を、観察者が正に観察されている当のものであること、見るものが見られている当のものであること、あなたはあなたの全意識のひと束であること、あなたの意識の内容が現実のあなたであること、そしてそのような意識の内容は思考によって作り上げられていること、そのことを自分自身で明らかにしてください。宜しいですか、見つけ出すことです、思考の消滅ではなく、どのようにその内容を観察するのかを明らかにすることです、あなたが分断することなく観察するとき、全く異なる行動が生まれます。愛があると観察者はいません。あなたはいなくて、あなたの愛する人がいるのです。そのような愛の質があるだけです。
                                                1983年1月29日
                                                      ボンベイ
                                                 中野 多一郎 訳