全く異なる生き方

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6 自然そして恐れの完全な除去

アラン W アンダーソン(A) 我々の前回のトークで我々は怖れることが生じる問題に至りました、そこで恐らく我々は今それを更に追究できると思います。
クリシュナムルティ(K) はい、そう思います。私は我々がどのようにこの問題に取り組むことができるのだろうかと思います、というのはそれが世界中共通の問題だからです。誰もが、ほとんどの誰もが何かしらを恐れています。それは死の恐れであるかもしれませんし、孤独のそれや、愛されていないそれや、有名ではないそれや、成功していないそれや、そしてまた物理的な安全を手にしていない恐れや心理的な安全を手にしていない恐れでもあるかもしれません。とても沢山の形の恐れがあります。それでは、この問題に本当に非常に深く踏み込んでいくために、精神は、頭脳を含む精神は、本当に恐れから根本的に自由でいられますか? なぜなら恐れは、私が観察してきて、恐ろしいものだからです。
 おお、はい。
 それは世界を暗くします、それはあらゆるものを破壊します。そして私は生の中の原理の一つである恐れを快楽の追求と共に検討するのでなければ議論することはできないと思います。それらは同じコインの表と裏です。
 恐れと快楽。
 そこで恐れを最初に取り上げると、意識的な恐れと無意識的な恐れがあります。観察される恐れ、癒される恐れと根の深い、人の精神の奥深くにある恐れです。
 無意識的な次元のそれです。
 無意識的な次元のそれです。宜しいですか、我々は両方に関心をもたなければなりません、明らかな外面的な恐れだけではなく、深く根ざした表に現れない恐れです、引き継がれてきている、伝統的な恐れです。
 恐れるべき何かを告げられることです。
 そしてまた精神自身が生み出した、育てた恐れもあります。
 個人生活の中で。
 そしてまた他の人たちとの関係の中で、物理的な安全の恐怖、仕事を失う恐怖、地位を失う恐怖、何かを失う恐怖、そして積極的な恐れの数々、何かを手にしていない恐怖などです。そうすると、もし我々がこの問題について話そうとするなら、我々は、あなたと私は、これにどのように取り組めばよいのでしょうか? 最初に外面的な、明らかな物理的な恐れを取り上げて、そしてそこから内面的なものへ進み、そうして全領域をカバーしましょう、単に老いた婦人や男性あるいは若い人の特殊な恐れの例だけではなく恐れの全問題を取り上げましょう。
 良いでしょう。
 単に恐れの枝葉ではなく恐れの全活動を取り上げましょう。
 我々は“活動”というその言葉に再び戻ります。
 宜しいですか、外面的に、物理的に、我々が安全を手にしなければならないことは明らかなことです、物理的な安全です。つまり、衣食住は絶対的に必要です。アメリカ人だけではなく全人間にとって必要です。
 もちろんです。
 “我々は安全である、世界の他の連中のことは知ったことではない”と言うのは良くありません。世界はあなたであり、あなたは世界なのです。あなたは自分自身を世界から分離して、“私は安全でいよう、他の人たちのことはどうであろうと構わない”と言えません。
 自分自身を他の人たちから護る。
 そのことが分断、争い、戦争を生みます。しかし物理的な安全は頭脳にとって必要です。頭脳は―私が自分自身を観察してみると、他の人たちを観察してみると、私は頭脳や神経学の専門家ではありませんが、私がそれを観察してみると―完全な安全性の中でのみ機能しえます。そうするとそれは効率的に、健康的に、神経症的にではなく機能します、そしてその活動が変調をきたすことはありません。頭脳には安全性が必要です、子供が安全性を必要とするように。そのような安全性は我々が自分自身を他から―アメリカ人として、ロシア人として、インド人として、中国人として―分離するとき否定されます。国家的な分断がそのような安全性を破壊してきました、戦争のせいで。
 なぜならそれが物理的な障壁だからです。
 物理的な事実です。それでも我々はそれを見ません。それぞれの国家の政府がそれらの陸軍や海軍などその他の全てで安全性を破壊しています。
 それをもたらすと称して!
 そのように、宜しいですか、我々が言おうとしているのは精神がいかに愚かであるかということです。それは安全性を願います、そしてそれは安全性を手にしなければなりません、それでもそれはそのような安全性を破壊するあらゆることを行っています。
 おお、はい、分かります。
 そのようにそれが一つの要因です。そして安全性の要素は人の仕事です、工場での仕事であれ、ビジネスのそれであれ、あるいは聖職者としてのそれであれ。そのように職業が非常に重要になります。
 正にそうです。
 それでは、それがどういうことを意味するのか見てください。もし私が私の職を失うとするなら私は怯えます、そしてその仕事は環境に、成果や業績に、工場に、そのような全ての商業主義、消費者主義、従って他の国々との競争に依存します。そのように我々は物理的な安全性を必要としていて、そして我々はそれを破壊するあらゆることを行っています。もし我々すべてが、“さあ、みんなが一緒になって、それぞれのプランを抱かずに、私のプランやあなたのプランを持たずに、共産主義者あるいは資本主義者のプランを持たずに、人間として一緒に腰を落ち着かせて、この問題を解決しよう”と言うなら、人々はそれができます。科学には人々に食べ物を供給する手立てがあります。しかし人々はそうしません、なぜなら人々は人々が追い求める安全性を破壊するように機能するよう条件づけられているからです。そのようにそれが物理的な安全性の中の主要な要因の一つです。それから身体的な痛みの恐怖があります。人が痛みを覚えた、例えば先週、痛みを覚えたという意味の身体的な痛みです、そして精神はそれが再び起こらないかと恐れます。そのようにその種の恐れがあります。
 身体的な痛みに関して非常に興味深いことは、思い出されることが神経症的な反応ではなく、そのことに伴う情動だということです。
 はい、それです。そのようにそういう恐れがあります。それから外部の意見の恐怖です、人々の言うこと、一般大衆の意見の恐怖です。
 評判です。
 評判です。宜しいでしょうか、これら全てが秩序の乱れから生まれます、それは我々がすでに議論してきたことです。
 それでは、精神は安全性を、物理的な安全性をもたらすことができるでしょうか、それはあらゆる人の衣食住を意味します。共産主義者としてではなく、資本主義者としてではなく、社会主義者あるいは毛沢東主義者としてではなく、この問題を解決するために人間として一緒に向き合うことです。それはできるのです。しかし誰もそうしたいとは思いません、なぜなら人々はそのことに責任を感じないからです。私はあなたがインドへ行ったことがあるかどうか知りません、もしあなたが私のように町から町へ、村から村へ行ってみると、あなたはぞっとするような貧困を目にします、その貧困の雫落状態を、希望の喪失感を目にします。
 はい、私はインドへ行ったことがあります、そしてそれが私の生の中で初めて貧困を感じたときでした、それは単に窮乏というのではなく、それは何かあからさまな性格を帯びているようでした。それは剥き出しでした。
 分かります。個人的に我々はそれらを経験しています。そのように、物理的に生き抜くことは人間が一緒になるとき可能なだけです。共産主義者や社会主義者やその他の何かとしてではなく、“さあ、これは我々の問題です、後生だから、それを解決しましょう”と言う人間としてです。しかし人々はそうしようとはしません、なぜなら人々はすでに様々な問題を背を負わされていて、そのためのプランを、それらを解決するためのプランを練っているからです。あなたにはあなたのプランがあり、私には私のプランがあり、彼には彼のプランがあります、そのようにプランを練ることが最も重要なことになります、プランが飢餓よりもずっと重要になります。そして我々は互いに争います、しかし常識や愛情、気遣い、愛がこれら全てを変えることができるのです。宜しいでしょうか、私はそのことに立ち入りません。
 それから、大衆の意見を恐れることが起こります。私の隣人の言うことです。
 私のイメージ、国家のイメージです。
 そして私は私の隣人に頼ります。もし私がカトリック教徒でイタリアに住んでいるなら、私は私の隣人に頼る必要があります、なぜなら、もし私がプロテスタントなら、私は私の職を失うはずだからです。そのように私はそれを受け入れます、私は行って法王にあいさつや何やらをします、しかしそれには何の意味もありません。そのように私は大衆の意見を恐れます。人間の精神が己を何と矮小化しているか見てください。私は言いません、“大衆の意見なんか知ったことか、人々は私と同じくらい条件づけられていて恐れている”と。そのようにそうした恐れが存在します。そして死の物理的な恐れがあり、それは計り知れない恐怖です。そのような恐れを人は我々が後で死について話すとき違うように取り組む必要があります。
 はい。
 そのように恐れの外面的な形があります、闇を恐れること、大衆の意見を恐れること、仕事を失うことを恐れること、生き残れないことを恐れることです。宜しいでしょうか、私は一日一食の人たちと生きてきました。私は少女を連れた婦人の後を歩いていて、その少女が言いました、“お母さん、私お腹が空いた”と。母親が言いました、“あなたはもう一日の分は食べましたよ”と。そのようにそれらの恐れがあります、それらの物理的な恐れ、痛みとぶりかえす痛みの恐れなどです。そして他の恐れはもっとずっと複雑です、依存性の恐怖です、つまり、私は私の妻に依存します、私は私のグルに依存します、私は聖職者に依存します、私は...とても多くのものに依存しています! そして私はそれらを失うのを恐れます、一人取り残されるのを恐れます。
 拒絶されることを。
 拒絶されることを。もしその女性が私から去ったら、私は途方にくれます。私は怒ります、残酷になります、暴力的になります、嫉妬します、なぜなら私は彼女に依存してきたからです。そのように依存性は恐れの要因の一つです。そして内面的に私は恐れます。私は孤独を恐れます。先日私はある婦人がテレビで言うのを聞きました、“私が私の生の中で恐れる唯一のものは私の孤独です”と。そして孤独を恐れるので私はあらゆる種類の神経症的な行動を起こします。孤独なので私は自分自身をあなたに、あるいは信仰に、あるいは救世主に、あるいはグルに預けます。そして私はそのグルを、その救世主を、その信仰を守ることになって、それがすぐに神経症的なものになります。
 はい、私はその穴を埋めます...
 ...そのような馬鹿げたことで。そのような恐れがあります。それからこの秩序の乱れた世界の中で到達できない、成功しない恐れがあります、そしていわゆる精神世界の中で成功しない恐れがあります。それが人々みんなの今の姿です。
 精神的成就です。
 成就する、それを人々は悟りと呼びます。
 意識を拡大することです。あなたの言う意味は分かります。
 それから何かではない恐怖があり、それは自分自身を何かと一体化することであると解釈します。私は自分自身を何かと一体化しなければならないと。
 存在するために。
 存在するために。自分自身を私の国と一体化することです、そして私は自分に言います、それはとても愚かなことだと。そうして私は言います、私は自分を神と一体化しなければならない、私が発明したそれです、つまり、神が人を神のイメージで作ったのではなく、人が神を人のイメージで作ったのです。お分かりですか?
 おお、分かります。
 そのように、存在しないこと、成就しないこと、到達しないことが途轍もない不確かな感覚、途轍もない成就しえない感覚、何かになりえない感覚をもたらし、そうして叫びます、私は自分自身にならなければならないと。
 自分自身のことを行えと。
 自分自身のことを。それは馬鹿げています。そのように、それらのあらゆる恐れがあります、無理もない恐れ、非理性的な恐れ、神経症的な恐れ、そして生き残りのための、物理的な生き残りのための恐れです。そうすると、あなたはどのようにしてそれらの恐れを扱うのですか、そして我々が間もなく踏み入るもっと多くの恐れを―あなたはそれら全てをどのように扱うのですか? 一つずつですか?
 もしあなたがそうするなら、あなたはただ悲しくなるほどの分断化の繰り返しの中にいることになるでしょう。
 そして隠れた恐れもあり、それはもっとずっと厄介です。
 絶え間なく湧き出してくる恐れです。
 湧き出してきます、私が気をつけていないと、それらが取って代わります。そうすると、私は我々が描き出した明白な恐れをどのようにとりあえず扱うのですか? 私はそれらを一つずつ扱って安全性を手に入れるのですか? お分かりですか? 例えば、孤独を取り上げて、それと格闘し、それと真剣に取り組んで、それを越えていくということなどですか? それとも恐れをその枝葉ではなく、その正に根を扱うやり方があるのですか? なぜならもし私がその枝葉に取り組むなら、それは私の全生涯を要するでしょう。そしてもし私が私の恐れを分析し始めるなら、その分析こそが私の無能さを明らかにして見せます。
 はい、そうして私は私が正しく分析していなかったかもしれないことを恐れさえします。
 正しく分析していなかったかもしれない。そして私は再び繰り返し繰り返しそれに囚われます。そうすると、どのようにして私はこの問題に、全体として、その単なる部分や断片ではなく、取り組んだらよいのでしょうか?
 我々の会話の中で、我々は活動ということを指摘してきました。恐れの活動は一つです。
 はい、途轍もないそれです。
 そしてそれは押し並べて破壊の領域です。
 それはあらゆるものの共通の要因です。女性や男性がどこに住んでいようと、モスクワであれ、インドであれ、どこであろうと、この共通のもの、この恐れが存在します、そして我々はどのようにしてそれを扱えばよいのでしょうか? 精神は恐れから自由になれますか、本当に、言葉あるいは思想的にではなく、恐れから完全に自由になれますか? 恐れから完全に自由になることは可能です、私はこのことを何らかの理論として言っているのではありません、私はそれを知っています、私はそれを検討してきました。
 それでは、どのようにして私は恐れを扱えばよいのでしょうか? そこで私は自分自身に問います、恐れとは何かと。恐れの対象ではなく、あるいは恐れの様々な表現ではなく。
 危険に対するその場の反応でもなく。
 恐れとは何ですか?
 一部分それは私の精神の中の観念です。
 恐れとは何でしょうか?
 もし我々がそれは絶えることのない...と言ったら...
 いいえ。言葉の背後、表現や説明の背後にあるものです、その原因や解決策などその他の全てではなく、恐れとは何ですか? それはどのように生ずるのですか?
 もし私がこれまでの我々の会話であなたの言うことを理解しているなら、私は言おうと思います、それは観察者の観察されるものとの秩序の乱れた関係の別の表現であると。
 それはどういう意味ですか? 宜しいですか、問題はこういうことです、私はその問題をよりはっきりさせます。人は恐れを一つひとつ切り捨てようとしてきました、取り除こうとしてきました、分析することによって、逃げることによって、自分自身を己が勇気と称する何かと一体になってそのようにしてきました。あるいは、私は気にしないと言って、私は私の恐れを合理化して合理化する知的な状態の中にとどまります、言葉による説明の中にとどまります。しかし事は急を要します。そうすると私は何をしたらよいのでしょうか? 恐れとは何ですか? 私はこれを明らかにしなければなりません、あなたが私に話して聞かせるのではありません、私が空腹であるのを私は自分自身で分かるように、私はそれを自分自身で明らかにしなければなりません―誰も私に言う必要はありません、私が空腹であるから私はそのことを明らかにしなければならないと。
 私の前の答えの中で、あなたが恐れとは何かと私に問うたとき、私は通常の学問的な答えをしました、つまり、“もし私がこれまであなたの言うことを理解しているなら、それは明らかなように思われます”というふうに。しかし今はその理解を忘れましょう、正に今はそれに焦点を当てましょう、そうすると私は言わなければなりません、私は他の誰に対しても恐れが何であるのかを言うことができませんと、私が私の中にそのようなものとして発見しようとしているその何かという点で私は誰にも恐れが何であるのかを言うことができませんと。それについての私の絶え間ない全ての描写は、ここにある私の中の直接の問題からの単なる逸脱です。
 はい、ですから私は逃げていません、私は合理化していません。私は分析していません、なぜなら分析は本当の無能だからです。あなたがこのような問題に相対するとき、それを単に分析することは、完全に分析できないのではないかと恐れて、従ってどこかの専門家の所へ行くことは、そしてその専門家も何らかの分析を受ける必要があるのですが、そのようにすることは人が何かに囚われていることを意味します。従って私は分析しません、なぜなら私はその馬鹿馬鹿しさを目にするからです。お分かりでしょうか。
 はい、わかります。
 私は専門家の所へ走ったりしません。
 退かない或いは逃げない。
 説明はいりません、合理化しません、分析しません。私はこのことに向き合います。そうすると私が知らない無意識の恐れがあります。それらは、私が気を抜くことなく気をつけているとき、私が私の中に立ち現れてくる恐れを見て取るとき、時折顔を出します。
 私が気を抜くことなく気をつけているとき。
 私が気を抜くことなく気をつけていて見守っているとき。あるいは私が何かを見ているとき、恐れが不意にやってきます。宜しいですか、精神が恐れから完全に自由でいることが重要です。それは欠くことができません、食べ物を欠くことができないように。精神が恐れから自由でいることが肝要です。そうすると私は我々が議論してきたことを外面的に見て取ります。そこで私は言います、隠れた恐れとは何ですかと、私はそれらを意識的にそれらが顔を出すように仕向けることができますか? お分かりですか?
 はい、わかります。
 それとも意識はそれに触れることができないということですか? 意識はそれが知っているものを扱うことができるだけです、つまり、それはそれの知らないものを観察できませんと。
 あるいはアクセスできないと。
 そうすると、私は何をしたらよいのでしょうか? 夢がその答えですか? 夢は日中起こったことの異なる形での単なる継続です。我々は今そのことには踏み込みません。そうするとそれらはどのようにして目覚めさせられ露わにされるのですか? 人種的な恐れ、社会が私に教えてきた恐れ、家族が私に課してきた恐れ、隣人のそれ、それら全ての隠れた、這い寄ってくる、醜い、残酷なものを、どのようにして精神がそれらを完全に見て取るようにそれら全てを自然に浮かび上がらせ、露わにさせるのでしょうか? お分かりですか?
 はい、分かります。私はあなたの言っていることに関して我々が行っていることをただ考えていました。我々はこのように大学の中にいます、そしてそこでは、たとえあるとしても、ほとんど耳を傾けて聞くということが起こりません。なぜです? もし我々の関係が、私のここに座ってあなたが何かを発言するたびに、私は何と答えなければならないのか、たとえもし私の応答が親切であっても私は教授として、それは興味深い概念である、恐らく我々はそれをもう少し明確にできると思うと自分自身に言っている、そういうような関係なら、我々は一緒になって何かを始めるべきではなかったのです、何かをスタートさせるべきではなかったのです、それでも我々は我々が一生懸命誠実であろうとしていたという思いは抱いたかもしれません。
 分かります、分かります。
 しかし恐れはそのようなことの基礎のところにもあります、なぜなら教授というのは自分自身に向かって...を考えているからです。
 ...彼の地位のことを...
 彼の評判がここで賭けられています。彼は永い間黙っていないほうが良いのです、なぜなら彼は何が起こっているのか理解していないのか、あるいは彼は起こっていることに何も貢献することがないと誰かが思うかもしれないからです。それらは全て的外れです。
 その通りです。どうか、宜しいでしょうか、私が見つけたことは、意識的な精神は、意識的な思考は隠れた恐れを導き出したり、露わにしたりできないということです。それはそれを分析できません、なぜなら分析は、我々が言ったように、無能な行為だからです、そしてもし逃げないなら、私は教会へ、あるいはイエスやブッダや誰かの所へ駈け込んだりしません、あるいは自分を他の何かと一体化しません。私はそれら全てを脇へ除けました、なぜなら私はそれらの不毛さを理解したからです。そこで私はこれと一緒にいます。これは私の赤ん坊です。そうすると私は何をしたらよいのでしょうか? 何らかの行動が起こります。私は言えません、“さあ、私はそれら全てを脇へ除けた、私はただここに座っていよう”と。宜しいですか、何が起こるかただ見てください、なぜなら私はそれら全てを脇へ除けたので、観察してそうしたので、抵抗してではなく、暴力によってではなくそうしたので、私はそれら全てを否定したので、逃げることや分析や何かに駆け込むことなどその他の全てを否定したので、私にはエネルギーがあります、精神には今エネルギーがあります。
 はい、それが溢れています。
 私がエネルギーを消散させるそれら全てを脇へ除けたからです。従って私は今これです、私はそれと向き合っています、恐れと向き合っています。それでは私に何ができますか? このことに耳を傾けてください、私に何ができますか? 私は何もできません、なぜなら私こそが正にその恐れを作り出したからです。
 はい。
 そうです、従って私は恐れに対して何一つできません。
 確かに。
 しかし、その消散が全て潰えると、集積されたエネルギーが生まれています。エネルギーが生まれます。それでは何が起こりますか? これは何らかのトリックではありません、ある種の神秘体験ではありません。実際に恐れがあり、そしてエネルギーの消散がもはや全くないので生まれた途轍もないエネルギーが私にはあります。そうすると何が起こりますか? そこで私は問います、恐れを作り出したのは何かと。何がそれを生み出したのかと。なぜなら私にはエネルギーがあるからです、お分かりですか、そのような問いを発して、その問いの答えを見つけるためのエネルギーを私は今もっているからです。それでは、何がそれを生み出したのですか? あなたですか、私の隣人ですか、私の国ですか、私の文化ですか?
 私自身です。
 何がそれを生み出したのですか?
 私がそうしました。
 私とは誰ですか?
 私は私から分離した断片的な観察者としての“私”と言っているのではありません。私はあなたが以前言った秩序の乱れた精神について考えています、それはそれ自身から秩序の乱れを無くすように要求します。
 私は問うています、何がこの恐れを私の意識の中に持ち込んだのかと。何がこの恐れを持ち込んだのですか? そして私は私がそれを見つけるまではそれから立ち去りません。お分かりでしょうか。なぜなら私にはそうするためのエネルギーがあるからです。私はどのような書物にも、どんな哲学者にも、誰にも頼りません。
 それは一度そのエネルギーが満ち始めると、その問いそのものが消滅するということですか?
 そして私はその答えを探し始めます。
 はい。
 私はその問いを発しません、しかし私はその答えを見つけます。
 はい、はい。
 それでは、その答えとは何ですか?
 その答えは学問的なものではありえません、何らかの表現ではありえません。
 この恐れの事実に対する答えとは何ですか、維持されてきた、育まれてきた、世代から世代へと引き継がれてきたそれに対する答えとは何ですか? 精神はこの恐れを観察できますか、その活動を...
 その活動を。
 単に恐れの一部ではなく...
 あるいは引き続く恐れではなく...
 この活動です。
 恐れそのものの活動です。
 はい、観察者を作り出してきた思考とは無縁にそれを観察するのです。この事実を観察することがありえますか、私が恐れと呼んできたものです、精神が認知した恐れです、なぜならそれは恐れを以前経験したからです。そのように、認識や連想によってそれは言います、これは恐れであると。
 それでは、精神は観察者―それは思考する者ですが―とは無縁に恐れの事実のみを観察できますか? なぜなら観察者が、それは思考ですが、思考としての観察者がそれを生み出したからです。私は私の隣人を恐れます、隣人の言うかもしれないことを恐れます、なぜなら私は尊敬されたいからです。それは思考の産物です。思考は世界をアメリカ、ロシア、インド、中国などその他の全てに分断してきました、そしてそれが安全性を破壊します。それは思考の結果です。私は孤独です、従って私は神経症的に振る舞います、それも思考の働きが要因です。そのように私は思考がそれら全てに責任を負うと非常にはっきりと見て取ります。宜しいでしょうか?
 はい。
 そうすると思考で何が起こるのでしょうか? 思考は恐れについて責任があります。それはそれを育んできました、それを鼓舞してきました、それはそれを維持するためにあらゆることをしてきました。私は昨日経験した痛みが再び明日起こらないか恐れます―それは思考の活動です。そして思考は知識の領域でのみ働けるだけです―それがその土台です―そして恐れはそのたびに新しい何かです。恐れは古くありません。それは私がそれを認識するとき古くされます。
 はい。
 しかし認識のプロセス―それは言葉などの連想です―が起こるとき、精神は思考の割り込みなしにそれを観察できますか? もしそれができるなら、恐れは生じません。
 はい。私がここに座っていて私の胸を打ったのは、それが起こるや否や、その思考や恐れがたちどころに消えることです。
 そのように恐れは完全に取り去られます。もし私がロシアに住んでいて、彼らが私を牢獄に入れると脅したら、私は恐らく恐れるでしょう。それは自然な防衛本能です。それは自然な恐れです、あなたに向かってくるバスがあなたに飛び退くようにさせるのと同じことです、あるいはあなたが危険な動物から走り去るときと同じことです、それは自然な自衛的反応です。しかしそれは恐れではありません。それは叡智の反応であり、叡智が働いて言います、“何てことだ、突進してくるバスから逃げろ”と。しかしその他の要因は思考のそれです。
 その通りです。
 そうすると、思考はそれ自身を理解して、その持ち場をわきまえ、それ自身を何かに投影しないことができますか? 思考をコントロールするのではありません、それは忌まわしい行為です。もしあなたが思考をコントロールするなら、コントロールするのは何ですか? 思考のもう一つの断片です。それは悪循環であり、あなたが自分自身と戯れているゲームです。そのように精神は思考の活動とは無縁に観察できますか? それはあなたが恐れの全活動を理解したときに行うだけです。理解したときです、分析したときではなく、それを見て取ったときです。それは生きているものであり、従ってあなたはそれを見なければなりません。死んでいるものだけが切開されて分析され、いろいろといじりまくられるのです。しかし生きているものは見守る必要があります。
 前回の我々の会話の中で我々は人が自分自身にこのように言うという問題を取り上げるところまで来ました、つまり、私は私が私の聞いたことを理解すると考えるということです、今私はそのことを試みようと思います。
 あなたは言いません、宜しいでしょうか、あなたが危険な動物を目のあたりにするとき、私はそれについて考えると! あなたはじっとしていません、あなたは行動を起こします。なぜなら途轍もない危険がそこに待ち構えているからです。叡智の自衛的な反応が起きます、叡智が言います、逃げろと。ここでは我々は叡智を使っていません。叡智は我々がそれら全ての恐れを目の当たりにしたときにのみ働きます、それらの活動であり、それらの内面的な恐ろしさであり、それらの醜さであり、それらの捉えどころのない恐ろしさであり、それらの全活動です。そうしてそこから叡智がやってきて言います、私はそれを理解したと。
 素晴らしい、とても素晴らしい。我々は快楽について何かを言おうと思います。
 ああ、それも扱われなければなりません。そこで、宜しいでしょうか、我々は言いました、物理的な恐れと心理的な恐れがあり、両者は関連していると、我々は言えません、これは一つの事柄であって、それは別の事柄ですと。それらは全て関連しています、そしてその相関関係とその理解がこの叡智をもたらし、それが物理的に働きます。それは言います、それでは一緒に働きましょう、一緒に協力して人間を養いましょうと。お分かりでしょうか? 国家的にならないようにしましょう、宗教的にならないようにしましょう、党派的な人間にならないようにしましょうと。大切なことは人間を養うことです、人間に衣服を与えることです、人間を幸福に生きさせることです。しかし宜しいですか、不幸にも、我々はとても秩序の乱れた生き方をしているので、我々はその他のための時間を手にしていないのです。我々の秩序の乱れが我々を食い尽しているのです。
 伝統の誤用の一つが我々の何を恐れるべきかを実際に教えられるということであろうことは興味深いことです。我々の言語の中に我々は単なる想像上のものにすぎない、幻想にすぎない、走馬灯的光景にすぎないものについての何らかの表現や教訓話や収集蓄積された警告を持ち合わせています、そして子供たちはそれらを幼いころからほとんど哺乳瓶と一緒に手にしています。そして我々が青年期に入ると、我々はそれらを顧みて、そしてもし物事が上手くいかないと、それは恐らく我々が我々の教えられたことを十分に把握していないせいであると我々は感じます。そして若い人たちの中にはそのときに、“それら全てを反故にしよう”と言う人たちもいます。しかしそうするとすぐに孤独の問題が持ち上がります。
 宜しいでしょうか、これは生であり、あなたは一部分を拒絶して他の部分を受け入れることはできません。
 その通りです。
 生はこれら全てを意味します、自由、秩序、秩序の乱れ、コミュニケーション、関係性、責任―これら全てが生きるということです。もしあなたが理解しないで、“私はこれと何ら関係したくありません”と言うなら、あなたは生きていません、あなたは死んでいます。
 はい、もちろんです。我々のこの活動について話してきていることが、押し並べてあらゆることに通低する領域としてのこの活動について話してきていることが思考によって受け取られて、あなたは言うかもしれません、“それを冷蔵庫の中にしまっておこう”と、そしてそれが人にとっての現実です。
 その通りです。
 そして我々がそれを見たいと思うとき、それは我々が打ち砕くそれら角氷の一つです。
 その通りです。知識は人間の再生にとってどんな役割を果たすのですか? 宜しいですか、我々の知識はこうです、つまり、あなたは分離しているに違いありません、あなたはアメリカ人であり、私はインド人です、それが我々の知識です。我々の知識はこうです、あなたはあなたの隣人に頼らなければなりません、なぜならその人は物事を知っていて、尊敬されているからです、社会は尊敬されることを宗としているからです、社会は倫理的だからです、従ってあなたはそれを受け入れます。そのように知識がそれら全ての要素を生み出してきました。そして突然あなたは私に尋ねます、それはどんな役割を果たすのですか、伝統はどんな役割を果たすのですか、何千年も収集蓄積された知識はどんな役割を果たすのですかと。科学や数学などの収集蓄積された知識、それは重要なものです。しかし私が経験を通じて蓄積してきた、幾世代にもわたる人間の奮闘によって集められた知識はどんな役割を果たすのですか、それは恐れが変質する中でどんな役割を果たすのですか? 何の役割も果たしません。
 何の役割も果たしません。先に我々がそのことを見て取ったので、このことが把握されるや否や、つまり、断片として働いていた思考と恐れの消滅です、そして何ものもそれを引き継がないということです。
 はい、何ものもそれに取って代わりません。
 何ものもそれに取って代わらない。
 それは何もないということを意味するのではありません。
 おお、はい。しかし宜しいですか、あなたが正にそのことを思考として考え始めるとき、あなたは恐ろしくなります。
 それが知識の機能と知識が愚かなものになるところを明らかにすることあるいは理解することが非常に重要である理由です。我々はその二つをごちゃ混ぜにしています。知識は重要なものです、英語を話すためには、車を運転するためには、他の様々なことにとって知識は重要なものです。しかしその知識が我々の実際に“現にあるもの”を理解しようとするとき愚かなものになります、その“現にあるもの”はこの恐れであり、この秩序の乱れであり、この無責任さです。あなたが知識をもつ必要のないことを理解することです。あなたはただ見るだけでよいのです、あなたの内と外を見るだけでよいのです。そうするとあなたは知識が全く必要のないことがはっきりと分かります、それには人間の変質あるいは再生に関して何の価値もないのが分かります。なぜなら自由は知識から生まれるのではないからです、自由はあらゆる重荷がなくなるときに存在します。あなたは自由を探し求める必要はないのです。それはそうでないものが潰えるときにやってきます。
 それは以前あった恐怖の代わりの何かではありません。
 もちろん違います。
 はい、分かります。恐らく次回に我々は快楽について話せるでしょう、同じコインの反対側です。
                            1974年2月20日
                             中野 多一郎 訳