アラン W アンダーソン(A) 私には我々が我々の一連の会話の中でとりわけ重大な点に行き着いたように思われます。我々の前回の議論の中で我々は権威の問題に触れました、我々がそこにあると思い描くそれや実際にそこにあるそれとの関係だけではなく、我々自身の中のより深いレベルにあるそれです。そして自分自身に深く踏み込んでいくとき、自己を検討するとき、大いに躊躇する点があります、そこでは本当の恐れや身震いが生じます。私は我々の前回の会話の最後であなたが宗教的な生の中のそのような躊躇の役割を議論することに向かっていたと思います。
クリシュナムルティ(K) 宜しいでしょうか、なぜあなたは躊躇するのですか? それはそこに帰します、あなたの言っていることはそこに帰します。なぜ我々は思い切ってやらないのでしょうか? なぜいつもことの寸前まで来て引き下がり逃げ去るのですか? なぜ我々はことをある通りに見て行動しないのですか? それは我々の教育の一部が何らかの機能を育んできたからですか、何らかの機能に途轍もない重要性を与えてきたからですか―技術者として、教授として、医者などとしての機能です―ある特定の技術を機能させることに重要性を与えてきたからですか? そして我々は決して叡智とは何かの探究を育んできませんでした、奨励してきませんでした。叡智が生まれるところにはこの躊躇は起こりません、つまり、何らかの行動が起こります。人が非常に感受性が鋭敏なとき、あなたは行動します、つまり、そのような感受性が叡智です。宜しいですか、教育は、私がそれをここやインドや世界の他の地域で観察してきてみると、単に精神を社会の要請に応えて機能するように鍛えているだけです。そうして多くの技術者、多くの医者が求められています。そしてもしあなたが何らかの職業につくなら、少数の人しかより多くのお金を稼げません。
A あなたはそのような供給過剰を警戒します!
K はい、科学者にはなるな、十分な科学者がいるというようなことです。そのように我々は我々の職業の中で何らかの機能を果たすように奨励され訓練されています。そこで我々は断片的ではなく我々が余すことなく気をつけていることを要する何かに入って行くことや飛び込んでいくことを躊躇します、なぜなら我々にはその何かをはかるすべがないからです。我々は機能をはかるすべは知っています、しかしここでは我々ははかるすべを持ち合わせていません、従って私の行動はその場合によります、従ってここでは私はどう論理的に考えるのか知らないので私は論理的に考えません。“私は知っている”と言う人に向かって私は言いません、あなたは何を知っているのですかと。あなたは過ぎ去った何かを、終わっている何かを、死んでいる何かを知るだけです。あなたは言えません、私は生きている何かを知っていると。そのように、段々と、私が見るところ、精神は鈍く、落ち着きがなくなり、その興味は機能的な方面だけになります。そうしてそれは探求する能力を失います。探究するためにはあなたに自由が最初になければなりません。そうでなければ私は探求できません。もし私が偏った見方をしているなら、私は探求できません。もし私が何かについて何らかの結論を抱いているなら、私はそれを探求できません。従って探求するためには自由がなければなりません。しかしそれは否定されます、なぜなら私が、社会や文化が、何らかの機能に途轍もなく重きを置いてきたからです、そして機能には地位が付き纏います。
A はい、それが結局は高められます。
K そうして、その地位が機能よりもずっと重要になります。
A はい。
K そのように私はそのような領域の中を、そのような構造の中を生きています、そしてもし私が宗教を、神が何であるのかを、不死とは何かを、美とは何かを探求するなら―私にはそれは無理です。私は何らかの権威に頼ります。私には論理的に考えるための基礎がありません―お分かりでしょうか―この宗教という壮大な領域の中でそうする基礎がありません。そうするとそれは一部分我々の教育のせいであり、一部分は我々の何事も客観的に見ることができない能力のせいです、樹木を知識やメディアなどそれら全てのくだらない長話、我々がその樹木を見るのを妨げる様々な妨害物とは無縁に見ることができない能力のせいです。私は私の妻を決して見ません、もし私に妻や女友達か何かががいれば、私は決して見ません。私は彼女や彼を私が彼女や彼についてもつイメージを通して見ます。そしてそのイメージは死んだものです。そのように私は生きているものを決して見ません。私は決して自然を見ません、それら全ての驚異や美や形やその愛らしさと共に見ません、しかし私はいつもそれを解釈しています、それに色を塗ろうとしています、それについて書こうとしています、あるいはそれを楽しもうとしています、お分かりですか?
A はい。
K そうすると、そこからこの問いが起こります、なぜ私は、なぜ人間は、権威を受け入れるのかという問いです。なぜ人々は従うのですか? それは人々が機能する領域の中で鍛えられてきたからですか、そこではあなたが学ぶために従わなければならないからですか、そこではあなたがその他のことは何もできないからですか?
A はい、そこにはそのようなことが組み込まれている規則があります。
K それにはそれ自身の規律があります、それ自身の法則があります、それ自身のやり方があります。私はそのように訓練されてきているので、私はそれをこの宗教の領域へ持ち込みます、自由が要求される何かの領域の中へ持ち込みます。終わりにある自由ではなく、正に最初にある自由です。精神は最初に権威から自由でなければなりません。私は神が何であるのかを明らかにしたいと言います、神を信じるのではありません、それには意味がありません、そうではなく神がいるのかいないのかを明らかにするのです。私は本当に明らかにしたいと思います。私はこのことにすごく真剣です。そしてもし私が本当に真剣なら、もし私が本当に理解することに、神について学ぶことに、神がいるのかどうかに関心を持つなら、私はあらゆる信念やあらゆる構造、あらゆる教会、あらゆる聖職者、あらゆる書物など宗教について思考が作り上げてきたあらゆるものを脇へ除けなければなりません。お分かりですか?
A はい、分かります。私はあなたが言ってきたことに関して“叡智”という言葉と“真理”という言葉について非常に真剣に考えていました。そしてヨハネ伝の二つの箇所が頭に浮かびました、それはもし人がそれをあなたの指摘してきていることに当てはめると結果として非常に難しい解釈になります。つまり、“彼、真理の魂がやってくると、彼はあなたをあらゆる真理へ導くでしょう”、そして“その真理はあなたを自由にするでしょう”。その真理はここでは魂と呼ばれています。そして同じヨハネ伝の中で同じように神は魂と呼ばれていて根本的な行為を指し示し、そこにあるその魂ではありません、私が描き出したそこにある何かではありません。酷いのはこのことが真剣に取り上げられてこなかったことです。
K なぜなら我々が真剣になることを許されていないからです。
A 我々は我々がこの上なく真剣にならなければならないと言われていることにさえ真剣になれません!
K そこです。そして、宜しいですか、我々は我々の子供たちに対して真剣ではありません! 我々は彼らに対して責任を感じません、生涯を通じて、たかだか子供たちが五、六歳までです、そのあと子供たちはやりたいことができます。
そのように自由と権威は恐らく共存できません。自由と叡智は共に歩みます、叡智にはそれ自身生来の、自然な、容易な規律があります、それは抑圧やコントロールや模倣などそれら全ての意味とは違う、絶えず学んでいる霊妙な行為の規律です。
A 気をつけている...
K はい、気をつけている霊妙な行為です。
A あなたが話すこの叡智は光輝と関連しています、違いますか? それは即座に現れます、徐々にではありません。
K はい、もちろんです。気づきが叡智です。従って、行っています。
A 気づきがその行為です。
K もちろんです。
A そのように、その行為、叡智、美...
K ...それら全て...
A ...愛、真理、自由...
K ...死、それら全ては一つです。
A ...そして秩序、それらは完全な、余すことのない、統一した行為的な活動を形成します。
K その通りです。
A それがいったん何らかの概念に解釈されると...
K おお、それはもはやそれではありません。
A ...それ自身で再び恐怖の出来事になります。
K もちろんです。
A なぜならそれがあなたからあっという間に逃げ去るように思われるからです。
K はい。
A 素晴らしい! それはまるであなたが言ってきたあらゆるもの、美、叡智、愛、自由...
K ...そして死。
A ...が、言わば、それら自身をあらゆる馬鹿げた行為から守ってきた。
K 全くその通りです。
A それらはとても根本的に純粋で、いかなる愚かな振る舞いからも守っている。
K そうすると、それが意味するのは、精神が宗教に関する全ての思考的な構造を完全に脇へ除けることができるのかということです。それは知識的な領域の中の思考の働きを脇へ除けることはできません。それは我々は了解しました、それは非常に明瞭です。しかしここに私の知らない何かがあります、我々の知らない何かがあります。我々は知っているふりをします。人がイエスは救世主であるなどと言うとき、それは何らかの見せかけです。それは私が知っていてあなたは知らないと言っているのです。何をあなたは知っているのですか? 天国の名においても、あなたは何も知りません、あなたはただあなたが誰か他の人から学んだことを繰り返し話しているだけです! そうすると、精神は宗教の周りに築き上げられた全ての構造を脇へ除けることができますか、なぜなら、宗教は、我々が始めに言ったように、気をつけているそのような質の中のあらゆるエネルギーの集積だからです、そして正にそのような質が再生するからです、人の行動や振る舞いや人のあらゆる関係の在り方に関して、正にそのような質が人の本当の変質をもたらすからであり、宗教がその要因だからです。それは現に起こっているそれら全ての愚かな振る舞いのことではありません。そのように、探求するためには、精神はその言葉の周りに築き上げられた思考の全構造を脇へ除けなければなりません。お分かりでしょうか?
A はい、分かります。
K 人はそうできますか? もしできないなら、我々は装っています、神について語って、我々が神はいるとかいないとかと話していようと、我々は装っています。それらのナンセンスなことが現に起こっています。そこで、それが最初の問い掛けです、つまり、精神は他の人の権威から自由になれるのかということです、それがどんなに偉大で、どんなに崇高で、どんなに神々しくても或いは神々しくなくても。
A そして何らかの行動がこの問いに応えるために要求されるので...
K その通りです。
A ...個人は自分自身でこのことを行わなければなりません。
K そうでなければ人は決まりきった機能の中を単に生き続けます、従って人は人が宗教と称するそれら全てのばか騒ぎに逃げ込みます。
A このことを私は昨日の授業で非常に痛切に感じました。一方で我々にはそれらの古典的な価値のために何世紀にもわたって使われている教科書があります。それは通常こうして教えられます、つまり、人が学んで、中国的な生き方について言ってみます、それからヒンズー的な生き方について言ってみます、そのようにして我々は長い期間を通じて学校で、それから大学院で、もしあなたがそれに耐えられるなら、収集蓄積します、そしてあなたは...の職をえます。
K ...他の人々が言ってきたこと。
A ...他の人々が言ってきたこと。
K しかしあなたはそれについて何も知りません!
A その通りです。あなたはある種の技術を機能的な意味で獲得します、あなたが言ったように。そこで教師は何らかの問題を抱えます。私はインドにある、そしてオーハイにできようとしているあなたが言及していたそれらの学校のことを考えています。そこには教材があります、明らかに教師は機能的な種類の知識などを身につけていなければなりません。そして子供はあなたが言ったそれらの学校でいろいろな本を読むことになります。
K おお、子供たちはそうします、そうします。
A そしてそれら全ての本は必ずしもそれらの学校の中で学生たちと教師たちとの間で起こる共有する何かを引き受けている人によって書かれてきているわけではありません。そこで教師は教科書の中のこの教材を若い学生にも年長の学生にもそれを学ぶときこの教材を自己の中で分断することなく読むことができることを指し示す方法で扱わなくてはなりません。
K そうすると、もし教科書がないとすると、あなたはどうしますか?
A あなたは同じ立場でしょう。
K いいえ、もし教科書がないなら、誰も伝統を伝えようとしないなら、あなたは自分自身で明らかにしなければならないでしょう。
A しかしそれが我々の学生にその教科書で行わせようとしていることです、違いますか?
K そうですか?
A はい、通常は違います、しかしこの新しい取り組み方で我々は何とか...しなければなりません。
K 教科書と自由を一緒にもたらす。
A 教科書と自由を一緒にもたらす。はい、それが昨日の授業で私がとてもショックを受けたことです。そして私はすぐにそうすることの責任を痛切に感じました、私にできうる限りにおいて。そして私が見て驚いたのは、学生たちはひどく躊躇していたけれども―大いに不安を感じ、本当に恐れて震えていました―彼らの持ち合わせている健康的な部分が顔を出してきてその可能性に途轍もなく興味を示しました。しかしそれでも彼らは躊躇していました。
K はい。
A 躊躇することが起こります。私は感じます、このことは何世紀もの間経典を真剣に学んできた人たちに起こっていたことであると―というのは、我々が宗教について話していたからです。時々あなたはそれを彼らの正に注釈や彼らの書いたものの中に探し出すことができます。彼らは正にその点にきて...
K ...それを見失う。
A 彼らはその地点を超えられません。
K はい、そうです。幸か不幸か私はとても沢山の人たちと話してきました、そして誰もがその地点にやってきます。彼らは言います、“どうか、私は何をしたらよいのでしょうか、私はそこに至りましたが、それを超えられません”と。宜しいでしょうか、このように見てください、もし私に言わせてもらえるなら。もし私が授業を行うなら、私は最初に教科書について話さずに自由について話します。私は言います、“あなた方は皆二番煎じです、そうではないようなふりをしないでください、あなた方は二番煎じであり、うわべだけの取るに足らない人たちです、そしてあなた方はオリジナルな何かを見つけようとしています―神が、真実がオリジナルな何かです”と。それは世界中のあらゆる聖職者たちによって色付けされていません、それがオリジナルな何かです。従って、あなた方はオリジナルな精神をもたなければなりません、それは自由な精神を意味します。それは新しい絵や何か新しいものを描くときのオリジナルではありません、それらは全てたわごとです。そうではなく自由な精神です。知識の領域の中で働く自由な精神であり、見て、観察して、学ぶことができる自由な精神です。それでは、どのようにしてあなたは他の人を助けますか、あるいは他の人を助けて自由にすることができますか? お分かりですか? 宜しいですか、私はいかなるものにも決して属しませんでした。私には教会や信仰などそれら全てのものはありません。本当に永遠なるものや名状しがたきもの、あらゆる思考を超えた何かがあるのかどうかを明らかにしたいと思う人は自然に思考に基づくあらゆるものを脇へ除けるはずです、つまり、救世主や主、グル、知識などそれら全てです。そのようにする人たちがいるでしょうか? 誰かがそのような旅を引き受けるでしょうか? それとも彼らは言うのでしょうか、“あなたがそれら全てを私に話してください、元気の良い老人よ、私はここでくつろいで座っています、あなたは私に言うことができます”と。
A はい、それが起こっていることです。
K 私は言います、“私はそれを描写しません。私はあなたにそれについて一言も言うつもりはありません。それを言葉にするとそれを破壊します。ですから、あなたが自由になれるのかどうかを見てみましょう。あなたは何を恐れているのですか、権威を恐れているのですか、間違うことを恐れているのですか? しかしあなたの生き方は完全に間違っています、あなたの行っていることは全く愚かです、それには何の意味もありません”お分かりでしょうか“あらゆる種類の精神的権威を否定してください。あなたは何を恐れているのですか、精神的に間違うことを恐れているのですか? 彼らが間違っているのです、あなたが間違っているのではありません、なぜなら、あなたはただ学んでいるだけだからです。彼らは間違って確立された何かです”と。
A 素晴らしい。はい。
K そうして“なぜあなたは彼らに従うのですか、なぜあなたは彼らを受け入れるのですか? 彼らは腐敗しています。そうすると、あなたはそれら全てから自由になれますか、その結果あなたの精神が瞑想を通じて自由であることの意味を明らかにすることができますか、人々があなたに課してきたあらゆるものを拭い去ることの意味を明らかにできますか? そうすると、あなたは無垢です、あなたの精神は決して傷つきません、傷つくはずがありません。それが無垢の意味です。そしてそこから探求します―そこから旅立ちましょう―思考が作り上げてきたあらゆるものを否定するという意味から出発して探求します。というのは、思考は時間だからです、思考は“もの”だからです。従ってもしあなたが思考の領域の中にいるなら、決して自由は生まれません。あなたは過去の中にいます。あなたはあなたが現在の中にいると思うかもしれませんが、実際にはあなたは思考が働いているとき過去の中にいます、なぜなら思考は記憶であり、記憶や知識や頭脳の中に蓄えられた経験の反応だからです。もしあなたがそのことを理解しなくて思考の限界を知らなければ、あなたはあなたが宗教と称するその領域の中に入って行けません”と。お分かりでしょうか。もしこのことが語られなければ、繰り返し彼らに示されなければ、彼らは果てしなく書物について語ることになります。このことが最初にきます、それからあなたは書物を読むことができます。
A はい。
K 宜しいでしょうか、仏陀は決して本を読みませんでした。彼は耳を傾け、見守り、見て、観察し、断食して、言いました、それら全ては戯言ですと、そしてそれを投げ捨てました。
A 私があなたの言ったことで衝撃を受けたのは、人はこのことを繰り返していなければならないということです。
K 異なる仕方で。
A 異なる仕方で。私は今教えることについて話しています。この躊躇するところは何かが生まれる或いは生まれないところです。
K その通りです。
A あなたは以前の会話の中で美しく表現しました、つまり、“今に生まれ変わる”と言いました。
K 今に、はい。
A そうすると、我々は瀬戸際にいます。私が前に言及したオルテガの言葉の中で、我々は新しい出来事が起こる瀬戸際で前後に揺れています、我々は一線を超えていません。このことを耳にする人の恐怖という点で我々の誰もここでは何もできません、私自身を含めて何もできません、私は私自身を学生と違うところにおいていません、というのは、私もこの活動の中では学生だからです、学生たちの中の一人です。そしてこのような恐れと身震いが起こります、そして単に...するよう鼓舞する以外は何もなしえません。
K ...そして彼らに言います、待ちなさい、そこに留まりなさいと。たとえあなたが震えてもそれは問題ではありません、震え続けるのです。
A 逃げ出すなと言うのです。
K 逃げ去るなと言うのです。
A そのように、このことは異なった仕方で繰り返し繰り返し言われます。それで私は...の十分間から授業を始めようとあなたの言う意味が分かります。
K この...
A この十分間から。我々は教科書を開けません、我々はこのことから始めます。そうして教科書を開くと、恐らくそこに書かれている言葉がいつもと違って現れてきます。
K その通りです。
A なぜなら叡智が生まれたからです。
K その通りです。宜しいですか、学生たちは一つの授業から他の授業へとあわただしいのです、というのも、授業の時限が短くて学生たちは数学から地理へ、地理から歴史へ化学へと走り回っています。もし私が教師の一人なら、私は言います、“宜しいですか、座って五分間静かにしていなさい、静かにしているのです。もしあなたがそうしたければ窓の外を見なさい。水面や葉の上の光の美しさを見なさい、これやあれをよく見なさい、そうして静かにしていなさい”と。
A 我々は今窓のない教室で教えています。それは恐怖です。
K それは恐怖です。あなたは機能的であるようにトレーニングされます。他所を見てはいけません、サルになりなさいと。そして私の子供はそのように育てられます。ぞっとします。
A 教室は墓場です。はい。
K そのように、私は言います、“座って静かにしていなさい”と。そうして静かに座ってから私は始めにこのことについて話します。私は学校でこのように行ってきました。このことを話します、自由、権威、美、愛、お分かりですか、我々が議論してきた全てです。それから教科書を開きます。しかしあなたは教科書の中よりもずっと多くのことを学びました。
A おお、確かに。
K 教科書は二番煎じなものになります。
A はい。それは新鮮な目で見られます。
K それが、宜しいでしょうか、私の個人的にはそれら全てについて一冊の本も全く読んでこなかった理由です、バガヴァッド・ギーターやウパニシャッドなどそれら全てやブッダの言ったこともそうです。それは私にはどういうわけか退屈です―御免なさい―それは私には何の意味もありません。意味があったのは観察することでした、つまり、インドの非常に貧しい人々を観察することです、金持ちや独裁者たち、ムッソリーニたち、ヒットラーたち、クリュチコフたち、ブレジネフたちなどそれら全てを観察することです。私は政治家たちを見守ってきました。そうしてあなたはとても沢山のことを学びます。なぜなら本当の本はあなただからです。もしあなたがあなた自身であるあなたの本を読めるなら、あなたはあらゆることを学んできました、機能的な知識を除けば。そのように自己を知るとき権威に何の意味もありません。私はそれを受け入れません。なぜ私はインドから“真理を持ってくる”それらの人々を受け入れるのですか? 彼らは真理を持ってきていません、彼らは何らかの伝統を、彼らの信じるものを持ってきているのです。そうすると、精神は人が教えてきた、発明してきた、宗教や神やあれやこれやについて想像してきたあらゆるものを脇へ除けることができますか? それが意味するのは、この精神は、世界の精神であるこの精神は、共通意識からなる精神であるこの精神は、そのような意識はそれ自身から人が宗教について言ってきたあらゆることを消し去ることができますか、ということです。 そうでなければ、私は...できません。
A ...を始めることができません。
K 始めるだけではありません、何を私は発見するのですか? 他の人々が言ったことですか? ブッダやキリストが言ったことですか、なぜ私はそれを受け入れるのですか?
A 酷いことは、私が彼らが何を言おうとそれが起こるまで価値のあったそれを理解する立場にはいないということです。
K そのように、宜しいでしょうか、自由が絶対的に必要です。
A おお、はい、絶対的に。
K しかし誰もこのことを言いません。反対に、人々は言います、“自由はずっと後からあなたにやってきます。生涯牢獄にいなさい、そうするとあなたが死ぬときにあなたは自由を手にするでしょう”と。それが彼らの説いていることです、本質的に。それでは、精神は、心は、頭脳のあらゆる貯蔵庫は、人が宗教について言ってきたことから自由になれますか? 宜しいでしょうか、それは驚くべき問い掛けです。お分かりでしょうか?
A おお、分かります、分かります。我々の会話の中で私が優れて適切であると思えるものの一つに、あなたが絶えず何らかの問い掛けに戻ってきていることがあります。戻ることが何らかの問い掛けになっています。しかしそれは単に戻るのではありません。
K はい、もちろんそうです。
A はい、なぜなら、それはあなたが話していたそもそもの要点を問うからです。従って、それはその問い掛けであって、その答えでは全くありません。
K 全くその通りです。宜しいですか、私はかつてカシミールの山中にいたことがあります。ある僧の一団が私に会いに来ました、彼らは沐浴するなど彼らのあらゆる儀式を済ませていました。彼らは私に言いました、彼らは出家した人たちであり、山の奥深くにいる“超俗的な僧の集団”に属していると。そして彼らは言いました、彼らは完全に世俗を脱していると。私は言いました、“それはどういう意味でしょうか?”と。彼らは言いました、“彼らは出家しています、彼らはもはや世俗のことに心惹かれません、彼らは世俗についての大いなる知識を有しています”と。そして私は言いました、“彼らが出家したとき彼らは世俗の記憶を捨てましたか、その記憶です、世俗が作ってきた知識です、グルたちが私たちを説くために作り上げてきた知識です”と。彼は言いました、“それは知恵です。どうしてあなたはそれを捨てられますか?”と。私は言いました、“あなたは知恵が書物や教師から、他の人から得られると言うのですか、自分を犠牲にし、自己を痛めつけ、自己を否認することによって得られると言うのですか?”と。お分かりでしょうか、彼らによると、知恵は他の誰かから得られる何かだということになります!
A 彼らはそれらの荷物を携えて山に登ります。
K 荷物、その通りです。それが正に私の言ったことです。あなたは世俗のあらゆる荷物を捨て去りました、しかしあなたはそのような荷物を抱えています。
そうすると、それが本当に重要なことです、もし精神が本当に宗教が何を意味するのかを非常に真剣に明らかにするなら。それら全ての馬鹿げたことではありません。私はこのことを繰り返し言っています、なぜならそのような馬鹿げたことが増殖しているように思われるからです。精神をそのような増殖や増大から解放することです、それは、従ってこのことを意味します、つまり、そのような増大を見て取ることです、そのような全ての馬鹿馬鹿しさを見て取ることです。
A このことは我々が使う“世俗的”という言葉に非常に違った光を当てます。
K はい、正にそれです。
A 彼らは出家するために山に入りますが、彼らは計り知れないほど骨を折ってそれを携えて行きます。
K その通りです、そしてそれが彼らの僧院へ入って行っていることです。
A もちろんです、それらの増大であり、それらの蓄積です。
K そこで、宜しいですか、話を戻すと、精神は独存できるのかということです。分離するのではありません、引き籠るのではありません、それ自身の周りに壁を築くのではありません、そうではなく精神は言います、私は独存していると。それはあなたがそれら全てを、あらゆる思考的産物を捨て去って独存しているという意味の独存です。思考はとても狡賢いので、それは驚くべき構造を築き上げますし、それを真実と称しもします。しかし思考は過去の反応です、従ってそれは時間を出自としています。思考は時間を出自としているので、それは時間とは無縁のものを作り出すことができません。思考は知識の領域の中で働けます。それは必要ですが、他の領域ではそうではありません。そしてそれには勇気を必要としません、それは自己犠牲を必要としませんし、そのために自己を痛めつける必要はありません、つまり、それはただ誤りに気づくだけです。誤りを見て取ることは誤りの中にある真理を見て取ることです。
A 誤りを見て取ることは誤りの中にある真理を見て取ること。
K もちろんです。そして真理と見なされているものを誤りとして見て取ることです。
A はい、はい。
K そうすると、私の目からあらゆる誤りが剥ぎ取られます、その結果内面的な欺瞞が起こらなくなります、なぜなら何かを見ようという欲望が起こらないからです、何かを成し遂げようという欲望が起こらないからです。なぜなら何かを経験しようとする、何かを成し遂げようとする、悟りを開こうとするなどの欲望が起こるや否や幻想が生まれるからです、欲望が作り出してきた何かが生まれるからです。従って、精神はこのような欲望の追求やそれを成し遂げることから解放されていなければなりません、それを我々は以前議論しました。欲望の構造が何なのかを理解することです。我々はそのことを沢山話しました。そうすると、次のことに至ります、つまり、精神は自由になって恐れから生じたあらゆるものから解放されうるのか、欲望や快楽から生じたあらゆるものから解放されうるのかということです。それは人が非常に深いところで自分自身を理解しなければならないことを意味します。
A 絶えず浮かび上がることは、人がそれらの問い掛けを繰り返して...
K はい、そうです。
A ...人がそれらを把握したと思い始めることです。
K あなたはその言葉を把握します。
A その通りです。あなたがその反対側に出なければならない何かがあります。
K その通りです。
A しかしその問いを繰り返すことには機能的な価値があります。
K はい、それにはあります。それは、つまり、もしその人が進んで耳を傾けるなら。
A もしその人が進んで耳を傾けるなら、なぜなら思考が信じられないくらい欺瞞的だからです。
K とても。
A あなたが指摘してきた通り。私は哀れなエレミヤ書の言葉を考えていました、つまり、“心は絶望的に邪悪で何ものにもまして欺瞞的である”と。確かに彼は...したはずでした。
K ...何かを味わった。
宜しいでしょうか、私はこの地点に来ると我々は瞑想の問題に非常に深く踏み込んでいく必要があると思います。
A はい。
K なぜなら宗教は、我々が話している意味で、瞑想と歩を共にするからです。それは宗教が単なる観念ではなく日常生活の中の実際の振る舞いを意味するからです。あなたの思考、あなたの話し方、あなたの振る舞いが正に宗教の本質です。もしそれらがそうでないなら、宗教は存在しません。
A その通りです。
K それはただの言葉であり、あなたは沢山の言葉を紡ぐことができ、ばか騒ぎをする様々なサーカス小屋へ入って行けます。しかしそれは宗教ではありません。そうすると、そのことを自分自身の中で深く受け止めて、宗教とは何かを内に深く理解すると、次に起こるのは、瞑想とは何かです。それは途轍もなく重要なことです、なぜなら瞑想は、もしそれが正しく理解されるなら、人が手にしうる本当にこの上もなく途方もないものである何かです。瞑想は日常生活からかけ離れた何かではありません。
A もし私が間違っていなければ、その言葉のルーツは“medesthai”“medeo”に由来します。
K “medeo”は考えること、熟考すること、検討することを意味します。
A ホメーロスの中に気遣うという意味を示す美しい考え方が実際にあります、それはあなたが以前に取り上げた本当の気遣いという問い掛けになります、つまり、人はもし人が気を配って気遣っていなければ瞑想していないということです。
K 気を配るというよりもむしろ気遣うということです。
A はい、その言葉の中にそれら全てがあります、しかし我々はそれを見て取りません。
K 宜しいですか、我々が宗教から何らかの振る舞いを引き離したとき、我々がそうしてきたように、宗教から何らかの関係性を引き離したとき、我々がそうしてきたように、宗教から死を引き離したとき、我々がそうしてきたように、宗教から愛を引き離してきたとき、我々が愛を官能的な何かに、快楽的な何かにしたとき、宗教は、生まれ変わる要因である宗教は、人の中から消え去ります。そしてそれが我々のとても堕落している理由です。もし我々が本当に宗教的な精神の質を手にしないなら、堕落は避けられません。
為政者とされる政治家たち、ガイドすると称する人たち、人々を助けると称する人たちを見てください、その人たちは腐敗しています。あなたはこの国や他のところで起こっていることを目にします。その人たちはとても腐敗しています、つまり、その人たちは秩序をもたらしたいと思います。その人たちはとても非宗教的です、その人たちは教会や寺院などその類のところへ行くかもしれませんが、それでもその人たちは本当に非宗教的です、なぜならその人たちは宗教的な振る舞いをしないからです。そのように人はますます腐敗してきています。というのは、宗教が新しい質のエネルギーをもたらす要因だからです。それはこれまでのエネルギーと同じエネルギーですが新しい質を帯びているエネルギーです。そうでなければ頭脳は再生しなくて、我々は年齢を重ねて劣化していくことになります。しかしもしあらゆる種類の“私”の安全から自由になるなら、そうなりません。
A 私はあなたが話しているエネルギーに関して昨日の授業でこのことに気づきました。何か活気づくことが授業の終わりに起こりました、そしてそれはこの酷い躊躇のせいで骨の折れることでした。しかしそうであっても楽しむというのでは全くない何らかのエネルギーが生まれました、そこであなたの言っていることが経験的に示されました。何かがそこに現れています、それは見られる何かであり、それは観察されます。
K 宜しいでしょうか、それが世界中の聖職者たちの宗教を利益を生む何かにしてきた理由です、その崇拝者にとってもその仲介者にとっても。それはビジネスに、知的なビジネスになってきました、あるいはそれが本当に商いになってきました、物理的にも内面的にも、酷くそうなってきています、つまり、これをしなさい、そうすればあなたはそこへ至るでしょうと。
A 徹底した実利主義です。
K それは商いです。
A はい。
K そのように、このようなことが消滅させられなければ、我々はますますます腐敗していきます。そしてそれが私の、個人的に、私がトークをする聴衆に対してとても計り知れなく責任を感じる、途轍もなく責任を感じる理由です。私がインドの様々な学校へ行くと、私はそれらの子供たちに責任を感じます。お分かりでしょうか?
A はい、よく分かります。
K 私は言います、“後生だから、同じようにならないでください、そのようにならないでください、宜しいですか!”と。私はそのことへ非常に深く踏み込みます、沢山のことを話します。そして子供たちは分かり始めます、しかし世界は子供たちにとって酷く強力です。子供たちは生計を立てなければなりません、子供たちは子供たちが良い職について結婚し身を固め家を持つのを願う両親に反抗しなければなりません。宜しいですか、それら全ての類です。そして世間の目はさらにとても強力です。
A 生に四段階があるというそのような伝統は途轍もない重荷です。
K そこで私は言います、明らかにしよう...少数の人たち、“エリートたち”―引用符付のエリートたちです、もしその言葉をいかなる俗物的な紳士気取りとも無縁に使わせてもらうなら―本当に関心をもつ少数の人たち、少数の教師たち、少数の学生たちを生み出そうと。そのことさえ非常に難しくなります、なぜならほとんどの教師が他のことに不得手だからです、従ってその人たちは教師になるのです。
A おお何と、はい。
K そのように、あらゆるものがあなたには逆風です。あらゆるものがそうです。グルたちはあなたに背を向けます、聖職者たちはあなたに背を向けます、ビジネスマンたち、教師たち、政治家たち、あらゆる人があなたに背を向けます。それが普通のことであると思うのです。人々は何一つあなたを助けてくれません。人々はあなたが人々の行うように行ってほしいのです。人々は自分たちの既得権益などそれら全てを手にしています。
A はい、それは非常によく分かります。我々の次回の会話であなたは我々が瞑想の働きを我々が言ってきたそれら全ての恐怖に関連して探究できると思いますか?
K はい、そうしましょう。
1974年2月27日
中野 多一郎 訳