アラン W アンダーソン(A) 我々は前回生きることと愛に関係する死について話していました、そして我々はこのことを教育という観点から追究することは良いことであると考えました、教師と学生との間で彼らが一緒に検討し始めるとき本当に何が起こるのか、どのような罠が待っていて衝撃を与えるのかです。あなたは死の恐怖のことを話しました、単に外面的なそれだけではなく、思考に関連した内面的なそれについても話しました、そしてもし我々がそのことをもっと深く見ていくならそれは素晴らしいことのように私には思えました。
クリシュナムルティ(K) 私はもう一度問いたいと思います、なぜ我々は教育を受けるのですか? 人々が受けるこの教育の意味とは何ですか? 明らかに人々は生について何一つ理解していません、人々は恐れや快楽など我々が議論してきた全てのことを理解していません、死の根源的な恐れや存在しないことの恐怖です。それは我々がとても物質主義的になっているので我々は良い仕事やお金あるいは快楽や表面的な楽しみにしか関心を持たないからですか、それが宗教的な類であろうとサッカーのそれであろうと。それは我々の全性質と構造がとても意味のないものになっているからですか? そして我々がそのように教育されているとき、突然何か本当のことに直面すると、それは恐ろしいことになります。
我々がすでに言ってきたように、我々は我々自身を見るように教育されていません、我々は生きることの全てを理解するように教育されていません、我々はもし我々が死に直面するなら何が起こるのかを見てみるように教育されていません。宗教は分断的なプロセスになっているだけではなく全く意味のないものになっています。恐らくキリスト教は二千年を経て、ヒンズー教や仏教などは五千年あるいは三千年を経て、その実質を失っています。そして我々は宗教とは何かを、教育とは何かを、生きるとは何かを、死ぬとは何かなどそれら全てを決して検討しません。我々は決して問いません、それら全てが何であるのかを。そして我々が問うとき我々は言います、生は非常に僅かの意味しかありませんと、そして我々がそのように生きているとそれには僅かの意味しかないので我々はあらゆる種類の空想的でロマンチックなナンセンスに逃げ込みます、そして我々はそれを議論も論理的に検討もできず、それが人の送るこの生の全くの空しさから単なる逃げ道になります。私はあなたが先日テレビで見たかどうか知りません、ある集団がある人間を崇めていて、この上なく素晴らしいこと行っていました、そしてそれをその人たちは宗教と称します、それをその人たちは神と呼びます。その人たちは理性を全く失っているように思えます。理性も明らかにもう何の意味もなくなっています。
A 私はその放送局で実際に放送されたあるドキュメンタリー番組を見ました、その若い十五歳のグルとその聴衆との出会いが映し出されていました。それは途方もないことでした。
K 胸が悪くなります。
A それはあらゆる点で実にいやなものでした。
K そして人々はそれを宗教と称します。それでは宗教から始めていきましょうか。お分かりですか、人はいつも日常生活を超えた何かを、日常の決まりきったことや日常的な快楽や思考のあらゆる活動を超えた何かを明らかにしようと願って試みてきました、人はそれ以上の何かを願ってきました。私はあなたがインドの村々へ行ったことがあるのかどうか知りません。人々は樹木の元へ小さな石を置いて、それに何かをしるします、次の日人々がそれに花々を添えます、もちろんそこにいる人たちにもそのようにすると、それが神々しくなります、それが何か宗教的なものになります。その同じ原理が大聖堂の中でも繰り返されます。ミサとインドのあらゆる儀式は全く同じものであり、そしてそれがその始まりです、つまり、思考が作り上げてきたもの以上の何かを見つけなければならないという人間の欲望です。それが見つからないと、人々はそれをロマンチックにしつらえて、その何らかのシンボルを作り出すか、それを少しだけ手にしている人を祀り上げて、それを崇拝します。そしてその周りで人々はあらゆる種類の儀式を執り行います、インド式の礼拝を行ないます、あなたはそれらの類が行われるのを知っています。そしてそれが宗教と呼ばれます、それは日常の振る舞いとは、我々の日常生活とは何の関係もありません。
そのように、西洋でも東洋でも、イスラム教でも仏教でも、他の宗教でも、起こっていることは同じ原理です、つまり、人々が作り上げてきたイメージを崇拝するのです、それがブッダであろうと、イエスであろうと、人間が正にそのイメージを作り上げてきたのです。
A おお、はい、その通りです。
K そして人々は人々自身であるそのイメージを崇拝します。言い換えれば、人々は自分自身を崇拝しています。
A そして人々自身の中の分断や分裂が増大します。
K はい。そのように人が宗教とは何かを問うとき、明らかに人は否定しなければなりません、残酷に切り離すという意味ではなく、それら全てを理解しなければなりません。そのように全ての宗教を否定しなければなりません、その多数の神々や女神たちを有するインドの宗教や人々が作り出してきたイメージである、偶像崇拝であるキリスト教という宗教を否定しなければなりません、彼らはそれを偶像崇拝と言いたくないかもしれませんが、それは偶像崇拝です。それは精神による偶像崇拝であり、その精神がその理想像を作り出してきました、その精神が自らその彫像や十字架などを作り出してきました。そのように宗教が何であるのかを明らかにするためには人が本当にそれら全てを脇へ除けなければなりません、もし人ができるなら、その信念や迷信、人物の崇拝、何らかの観念の崇拝そして儀式や伝統などそれら全てです。
A その通りです。多くの顔を持つ恐怖という見方があるように私には思われます、それはとても多くの鏡を掲げて人自身の機能不全を照らし出します。人が明らかにするためにこのように否定することを始めるとき、人はしばしば考えます、人がそのような否定をするためには前もって何かを仮定することが要求されていると。
K もちろんです。
A 従って人は尻込みをして、それを行おうとしません。
K はい、なぜなら頭脳は安全性を必要とするからです、そうでなければそれは機能できません。
A その通りです。
K そのようにそれは安全性を何らかの信念の中に、何らかのイメージや儀式、二千年あるいは五千年のプロパガンダの中に見出します。そしてその中には安心感や慰安や安寧があります、あるいは誰かが私を見守ってくれている、私より偉大な誰かが私を見守ってくれているというイメージ、内面的にその人物に責任があるというイメージが出来上がります。それら全てがその中にあります。あなたが人にそれら全てを否定するように問うとき、人は計り知れない危険な感じを覚えます―パニックになります。
A その通りです。
K そうすると、それら全てを見て取ること、現在の全ての宗教の馬鹿馬鹿しさを見て取ること、それら全ての全くの無意味さを見て取ること、そして全く安全でないことに向き合って恐れないことです。
A 私は人が正にここで自分自身にかけうる罠を感じます。再び私はあなたに大変感謝したいと思います、我々は様々な顔をしたこの病理学を一緒に探求しています。人は何か良いことを達成するためにこのような否定の考え方をもって始めかねません。
K おお、いいえ、それは否定ではありません。
A それは否定では全くありません。
K はい、否定は真理が何かを知ることなく誤りであることを否定することです。誤りの中にある誤りを見て取ること、誤りの中にある真理を見て取ること、そして誤りを否定するのが正に真理です。あなたは誤りであることを見て取ります、そして誤りであることを正に見て取るのが真理です。
A はい、もちろんです。
K そしてそれは否定します、それはこれら全てを否定します。
否定は精神が誤りを見て取るときにだけ起こりうるだけです、その正に誤りに気づくのが誤りの否定です。そしてあなたが宗教の様々な奇跡に基づくのを見て取るとき、個人崇拝に基づくのを見て取るとき、あなたやあなた自身の生がとてもうわべだけの、空しい、意味のない生であることの恐れに基づくのを見て取るとき、そしてあなたがとてもはかなくて数年でいなくなるという恐れに基づくのを見て取るとき、精神は永遠の、驚くべき、美しい天国のイメージを作り出し、それと一体化し、それを崇めます。なぜならそれは揺るぎない安心感を必要とするので、それはあらゆるこの皮相的なナンセンスを、このばか騒ぎを作り出してきました―それはばか騒ぎです。
A おお、はい。
K そうすると、精神はこの現象を観察して、それ自身の安全性や慰安、安心、永遠性への要求を見て取り、それら全てを否定することができますか? 頭脳や思考がどのようにして永遠なる感覚や永久性などあなたが何とでも言えるものを作り出すのかを見て取るという意味の否定です。それら全てを見て取るということです。従って人はもっとずっと深く、私はそう思いますが、思考の問題へ踏み込んでいく必要があります、なぜなら西洋でも東洋でも思考が生の中でこの上なく重要な活動になっているからです。
A おお、はい。
K 思考、それはこの驚くべき技術的世界を作り出してきました、驚くべき科学的世界などそれら全てを作り出してきました、そして思考は様々な宗教を、驚くべき聖歌を、グレゴリオ聖歌やサンスクリット語の聖歌を作り出してきました、思考は美しい大聖堂を築き上げてきました、思考は救世主や主、グル、父親像を作り出してきました。もし人が本当に思考を、考えるとは何かを理解しなければ、我々は依然として同じゲームを違った仕方で戯れることになります。
A その通りです。
K この国で起こっていることを見てください。グルたちがインドからやって来ます、彼らは頭を剃り、インド装束を身に着け、少し髪の毛を後ろで束ねて下ろし、誰かが言ったことを果てしなく繰り返し唱えます。新しいグルたちです。彼らには過去にグルたちがいました、聖職者たちがいました。
A おーっ、はい。
K カトリック教徒やプロテスタント教徒がいて、その人たちはそういう人たちを否定してきましたが、彼らは他の人たちを受け入れます! お分かりですか?
A はい。
K 新しい人たちは古い人たちと同じように死んでいます、なぜなら、その人たちはただ伝統を繰り返しているだけだからです、つまり、座り方や瞑想の仕方、姿勢の保ち方、呼吸の仕方です。結局、あなたは古いグルや新しいグルの言うことに従います。それは正にカトリック教の世界やプロテスタント教の世界で起こったことです。その人たちはそれを否定し他を受け入れます。なぜならその人たちは安全性を願うからです、その人たちは自分たちに何をすべきかを、何を考えるべきかを言ってくれる人が欲しいのです、決してどう考えるのかではないのです。
A このことは私が我々の探究できることを望む“経験”という言葉に関係する問題です。驚くことは、この頃しばしばこの言葉が私の必死になって必要とする何かを示すように使われることです、そしてそれはどうも私の外側にある何かです。私には何らかの気づきの経験が必要です。それは私が必要とする気づきではなく、明らかに、それはそのような気づきの経験です。経験としての宗教のあらゆる観念が非常に注意深く検討される必要があるように私には思えます。
K はい。そこで、もし私に問わせていただくなら、なぜ我々は要求するのですか、なぜこのように経験を追い求めることが起こるのでしょうか? 我々は性的な経験をします、我々が生きていると我々はあらゆる種類の経験をします、つまり、侮辱やへつらい、出来事、事故、様々な影響、人々の言うこと、言わないこと、読書などです。我々はいつも様々な経験をしています。しかし我々はそのようなことに飽き飽きしています。そこで我々は言います、私に神を体験させてくれる人のところへ行こうと。
A はい、それが正に求められているものです。
K 宜しいですか、そこに意味されているものは何ですか? 経験を追い求めることやそれを経験することの中に含まれている意味とは何ですか? 私はそのようなグルや主や誰かが私に語ることを経験します。どのようにして私はそれが真実であると知るのですか? そして私は言います、私はそれが分かりますと。宜しいですか、私が何かを経験します、そして私は私がそれを認識したときにだけ私がそれを経験したと知ることができます。違いますか?
A いいえ。
K 認識ということが意味するのは、私がすでに知っているということです。
A 英語の“認識”という言葉は“再び認める”という意味です。
K そのように私は私がすでに知っていることを経験しています、従ってそれは新しくも何でもありません。人々が行っていることは全て自己欺瞞です。
A それが実際に渇望されています。
K おお、正にそうです。
A その衝動は途方もないものです。私はそれを多くの学生の中に見てきました、彼らは途方もなく極端な耐乏生活に走ります。我々は時々今日の学生は非常にいい加減な振る舞いをすると思いますが―そういう学生はいます―そういうことは大昔からずっと続いてきています。私が思うに、今日の多くの学生の中に見られることは、自分は持っていなくて誰かが持っているものを彼らが極端なほど真剣に手に入れようとめったにしないことです、そしてもし誰かが何事かを体験していると主張すると、彼らは無邪気にそれを体験しようと夢中になることです。
K おお、はい、私はそれらを見てきました。
A それは経験と称されます。
K それが、あなたが指摘したように、人がこの言葉を検討して、なぜ人間の精神が、人間がより多くの経験を追い求めるのかを見て取るために非常に気をつけていなければならない理由です、人の全生活がとても飽き飽きするほどの壮大な経験であるとき。人はこれが新しい経験であると考えますが、新しいものを経験するためにどのようにして精神はそれを新しいものと認識できるのですか、もしそれがそれをあらかじめ知っていないなら。
A はい、そしてここにあなたが以前の我々の会話の中で言った点で非常に注目すべきことがあります、つまり、新しいと称されるものの認識の中で、古い思考や古いイメージとの結びつきによって、我々が徐々に移行するものがあるという考え方を作り上げることです。今の私と以前の私との間にある種の純粋な繋がりが本当にあるとする考え方です。そうすると私は次のグルになって出かけて行って、人々に徐々にこの規律を受け入れる方法を教えます!
K はい、そうです。
A そしてそれは決して止みません。私は今朝車を運転していてそれら全てのことや聖歌の美について考えていました、そしてこのことは経験に関係するので私は恐らく我々がその美学をその罠が自らその中にあるという点で検討できると思いました。私はイシャーウパニシャッドの始まりにあるあのサンスクリット語の美しい祈りのことを考えていました。私は独りつぶやきました、もし人がそれらの言葉に耳を傾けたなら、それら全てを通して、それらの荘厳な抑揚を通して、何か永続するものが響きわたると、しかし、それでもその中には完全に幸福感に落ちて行く瞬間があると。
K はい、そうです。
A そして眠気が襲います。そして私は独り言を言いました、恐らくクリシュナムルティ氏は人特有のその美しいものとの関係について、そのような関係が現にある通りに見られていないとき、何かを言うだろうと。というのは、私が自分自身で生み出しうる昏睡状態が現に起こるからです。それはそれらの言葉自体の中にあるのではありません―それでも我々はそれがその言葉のせいであるに違いないと、それに何か悪魔的な催眠性の何かがあるに違いないと考えます。そして時々宗教的な集団の中には自分たちをこれら全てから全く分離するようにします。ヨーロッパではプロテスタント教徒やカルヴァン教徒がオルガンやいかなる音楽も許さない時期がありました、なぜなら音楽が魅惑的だからです。私は自己陶酔する質ではありません、それは音楽のせいです!
K 正にそれです。我々が先日言っていたように、美は自己を完全にやり過ごすときにのみありえます。完全に意識からその内容を空にすることです、その内容とは“私”のことです。そうすると絵画や聖歌などそれら全てとは全く異なる何かである美が生まれます。そして恐らくほとんどのこの頃の若い人たちや年配の人たちも同様にそのような意味で教会の罠に囚われて、聖歌を通し、旧約聖書をそれら全ての美しい言葉やイメージと共に読んで美を探し求めます、そしてそのようなことが人々に深い満足感を与えます。言い方を変えると、人々が探し求めているのは本当は美を通しての満足感です―言葉の美、聖歌の美、それら全ての僧服や香の美、そしてそれら驚くべきステンドグラスの窓から差し込んでくる光です。あなたはそれら全てを大聖堂の中に見ます、ノートルダム大聖堂やシャルトル大聖堂です―それは素晴らしいものです。それは人々に神聖な感覚や幸福感、開放感をもたらします、そしてここにはついに私が行って瞑想できる場所があり、私は穏やかになり、何かに触れます。そしてあなたがやって来て言います、それは全て馬鹿げていると、それには何の意味もない!と。意味があるのはあなたがどのようにあなたの日常生活を生きるかです!と。
A はい。
K そうすると人々はあなたに石を投げます。
A それは飢えた犬から食べ物を取り上げるようなものです。
K そのようにここが要点です、つまり、経験は罠です、そして誰もがこの奇妙な経験を欲しがります、そしてグルたちは自分たちがそれを手にしていると考えます。
A 注目すべき興味深い点は、それがいつも知識と称されることです。
K 非常に興味深いことです。
A 違いますか? もちろん私は以前の会話のことを考えていました、知識によらないこのような自己の変質についてです。
K もちろんそうです。
A 時間によりません、そしてそのことは優れて責任性を要します。
K そしてまた我々はそうしようと欲しません。我々は生活の糧を得るために非常に骨を折って働きます。我々が行うことを見てください、毎年毎年、一日一日のその残酷さ、それら全ての醜さを。しかし、この点について、内面的には、心理的には、我々はそうしようと欲しません。我々はとても怠惰です。他の人にやってもらおう、恐らくその人がそのように行って、そして恐らくその人が私に何かをもたらすでしょう。しかし私は言いません、私が明らかにしようと、私はそれら全てを否定して明らかにしようと。
A はい、何かを知るために働いてきたのは聖職者たちの仕事であり、そうして我々がその仕事から解放されるのは当然のことであると決め込みます、あるいはもし私がその世界に十分な能力もなく入って行くなら、私のすべきことはただその人の指示に従うことだけであり、そしてもしその人がそれを取り逃がすなら、それはその人のせいであると決め込みます。
K 我々は決して“私は知っている、私は経験している”と言う人に問いません、あなたは何を知っているのですかと。
A その通りです。
K 何をあなたは経験したのですか? 何をあなたは知っているのですか? あなたが“私は知っている”と言うとき、あなたが知っているのは死んでいる何か、消え去った何か、終了している何か、過去の何かだけです。あなたは生きている何かを知りえません。
A はい。
K 生きているものをあなたは決して知りえません、それは動いていて、それは決して同じではありません。そのように私は決して言えません、私は私の妻あるいは夫あるいは子供たちを知っていると、なぜなら彼らは生きている人間だからです。しかしその連中たちはやって来ます、特にインドからやって来て言います、私は知っている、私は経験している、私には知識がある、私はあなたにそれを授けると。私は言います、何て厚かましいのか!と。
A はい。
K “あなたは知っていて私は知らない”と言うその鈍さ、その無神経さといったらないでしょう。あなたは何を知っているのですか?
A 男性と女性との関係というこの点で起こってきたことには驚きます、なぜなら、このことについてあらゆる神話が生まれてきたからです。例えば、性的に女性は神秘的であると言われていて、このことは決して生の新鮮さという観点からは理解されません、それは女性だけではなくあらゆるものを含みます。我々には女性は神秘的であるという観念があります。そのように我々はある本質的な観点から何らかのを話していて、それは存在することとは何の関係もありません。そうではありませんか?
K その通りです。
A おお! そしてあなたが以前言ったように、我々は実際にこのことを本の中で、授業で行われる会話の中で教えられます。
K そこでそれが、宜しいでしょうか、私の教育が―現にある通り―人々を破壊していると感じる理由です。それは悲劇になっています。もし私に息子がいるなら―私にはいません、有難いことに―私は言うでしょう、私は彼をどう教育したら良いのかと。私は彼をどうすれば良いのですか? 彼を他の人たちと同じようにするのですか、社会の中の他の人たちと同じようにするのですか? 暗記することを教えられ、受け入れて、従うのですか? お分かりでしょうか、起こっている全てのことです。そして多くの人たちがこの問題に今直面しているので、我々は言いました、さあ、学校を始めようと、そして我々にはインドに学校があります、そして我々はカルフォルニアのオーハイにそれを作ろうとしています。さあ、学校を始めて、そこで我々は全く異なったことを考えようと、我々は違うように学ぼうと言いました。我々はただ単に決まりきったこと、決まりきったこと、決まりきったことを、受け入れることや否定すること、反射的に反応すること、お分かりですか、そのようなあらゆることを行おうとしているのではありません。
そこから別の問いが起こります、なぜ精神は従うのかということです。私は国の法律に従います、私は道路の左側あるいは右側を運行するようにします。私は医者の言うことに従います―個人的には私は医者に近づきません、もし私がそうするなら、私は彼らの言うことに十分注意します、私は気をつけています、私はすぐにこれやあれを受け入れません。しかし政治的にいわゆる民主主義世界では人々は圧制者を受け入れません。
A はい。
K 彼らは権威に対してノーと言って自由を求めます! しかし精神的に、内面的に、彼らは猫も杓子も受け入れます―とりわけインドから来る連中です。
A おお、はい。
K 先日テレビのBBCを見ると男性が何人かの人たちにインタビューしていました。男子や女子が言いました、“私たちは私たちのグルの言うことに従います”と。インタビュアーが言いました、“彼はあなたに結婚しなさいと言いますか?”“もし彼が私に言うなら、私は結婚します。もし彼が私は断食しなければならないと言うなら、私は断食します。” ただの奴隷です。お分かりですか? そしてまたそう言う同じ人物が専制政治に反対します!
A 馬鹿げています。
K 彼は彼の気まぐれな観念と共に狭量な取るに足りないグルの専制支配を受け入れます、一方で彼は政治的な専制支配や独裁政治を拒絶します。そのようになぜ精神は生を権威を受け入れる方向とそれを否定する方向に分けるのですか? そして権威の重要性とは何ですか? 権威という言葉は創始する人を意味します。
A “作家”という言葉がそうです。
K それらの聖職者たち、グルたち、リーダーたち、精神的な教えを説く人たち、その人たちは何を創始したのですか? その人たちは伝統を繰り返しているのではありませんか?
A おお、はい、その通りです。
K そして伝統は、それが禅の伝統であろうと、中国あるいはヒンズーの伝統であろうと、死んだものです。そしてそれらの人たちはこの死んだものを永続させようとしています。先日私はある男を見ました、彼は瞑想の仕方を説明していました―あなたの手をここにおいて、目を閉じなさいと。
A はい、私もその人物を見ました。ぞっとしました。
K こうしなさい、そうしなさい、ああしなさい、そして人々はそれを受け入れます。
A そしてその同じ番組の中にお金など何もかも失った女性が出てきました、彼女には寝るところも何もありませんでした、そして彼女はヒステリックに言っていました、“私はこの列に並んでいます、私の前にはそのように沢山の人が並んでいます、しかし私はこの知識をどうしても手に入れなければなりません”と。彼女は死に物狂いでした。
K それが人の問わなければならない理由です、つまり、このように権威を受け入れることの背後にあるのは何ですか? 法の権威、警官の権威、聖職者たちの権威、それらグルたちの権威、権威を受け入れることの背後にあるのは何ですか? それは恐れですか? 精神的に間違うのを恐れるからですか、悟りや知識、超意識や何やかやを得るために正しいことを行っていないという恐れですか? それは恐れですか? それともそれは絶望感や孤独感あるいは全く無知であるという思いからですか? 私はその“無知”という言葉をその深い意味で使っています。
A はい、分かります。
K そうすると私は言います、知っていると言っている人がいます、私は彼を受け入れますと。私は論理的に考えません。私は言いません、あなたは何を知っているのですかと。あなたは私に何をもたらしてくれるのですかと、何を私に与えてくれるのですかと、あなた自身のインドの伝統ですかと。誰が構うもんですか。あなたは何か死んだもの、オリジナルではないもの、真実ではないものを持ち込んでいて、他の人たちの行ったことを何度も何度も何度も繰り返します―それはインドで彼ら自身が捨てているものです。
A はい。私は今テニソンの詩を考えていました、それは違う文脈で書かれていますが、つまりこうです、“理由を論じないそれらのもの、ただ行って死ぬそれらのもの”。
K それがグルたちの言うことです。そうすると、このように権威を受け入れることの背後にあるのは何ですか?
A “権威”という言葉のルーツが“自己”に関係しているのは興味深いことです。口を大きく開けた自己の空虚がこのように感じられます、その分断によって。
K 宜しいでしょうか、正にそれです。
A そしてそれはすぐに何らかの飢餓感を増大させます、違いますか? そして私は私の思い描いた食べ物に向かって猛然と突進します。
K あなたがそれを見ると、あなたは叫びたくなります。
A はい。
K そのようなグルたちの元へ行くそれら全ての若い人たちがいます、頭を剃り、インド装束を身に着け、街頭で踊り、あらゆる種類の奇異なことをします。全てが死んだ伝統の中のことです。そしてあなたがそれを見ると、あなたは言います、おお何と、何が起こったのだと。そこで私は戻って問います、なぜ我々は受け入れるのですか? なぜ我々はそのように人々に影響されるのですか? なぜ我々は、コマーシャルの中でこれを買え、あれを買えと聞かされるように、間断なく何かが繰り返されると影響されるのですか? それは同じことです。お分かりでしょうか。
A はい。
K なぜ我々は受け入れるのですか? 子供は受け入れます、それは理解できます。悲しいかな、男の子も女の子も、子供は何も知りません、しかし子供には安全であることが欠かせません、母親や気遣いや保護が欠かせません、膝の上に置かれて愛情や温かさや優しさを注がれることが必要です。子供にはそれが必要です。人々はグルが彼らにそれら全てを与えてくれると思うのですか? 彼の言葉で、その儀式で、それらを繰り返すことによって、それらの馬鹿げた規律によって与えられると思うのですか? お分かりですか? 子供の私が母親を受け入れたときのような感覚で、私は安楽になるために、ついに何かが誰かが私の面倒を見てくれると感じるためにそれを受け入れます。
A このことは我々が恐れを検討したときあなたが以前の会話の中で言ったことに関係します。幼児の反射的な反応は幼児自身のいかなるはかりごとも介さない反射的な反応です。幼児は幼児の必要とするものをただ感じるだけであり、それは想像されるのではなく、それは基本的な必要性です。幼児は養われる必要があり、幼児は愛情をもって抱かれる必要があります。
K もちろんです。
A そうすると、そこから人が成長してそのような必要性に出合う根源について考え始める時期がやってきます。人は危険を感じることと即座に行動することとの間に差し挟むイメージとして現れます。私はそれを自分自身で行ってきました。それは私が言われて私に実際にそうするように強要した何かのせいではありません、あなたの言うことが正しいとしても、我々は絶えずそのようなことを始めるように促されています、それは一種のサイレンのように、我々の全ての文化を通じて、我々のあらゆる文化の中で我々に響いてきます。
K 宜しいでしょうか、それが私の言いたいことです。我々が権威を受け入れるのはなぜですか? 民主主義の世界では我々はどのような政治的な独裁者も遠ざけます。しかし宗教的には彼らはみな独裁者たちです。それではなぜ我々はそれを受け入れるのですか? なぜ我々は聖職者を彼が彼は知っていると称するものの仲介者として受け入れるのですか? それは、宜しいでしょうか、我々が理性的に考えないことを示しています。政治的には我々は理性的に考えます、我々は自由であることがいかに大切か分かります、言論の自由を手にすることが、あらゆることができるだけ自由であることがいかに大切か分かります。しかし精神的には我々は決して自由の必要性を感じません。従って我々は権威を受け入れます―猫も杓子も受け入れます。それは恐ろしいことです! 私は知識人たち、教授たち、科学者たちがこのような全ての罠にはまるのを見てきました。彼らは彼らの科学的世界の中で論理的に考えてきて、彼らは論理的に考えることに疲れているので、彼らは言います、やっと私はゆったり座れて論理的に考えずにいられる、何事かを言ってもらえる、楽になれる、幸せになれる、彼が私のためにあらゆることをやってくれる、私は何もする必要がない、彼が私を向こう岸へ連れて行ってくれると。お分かりですか?
A おお、はい。
K そして私は嬉しく思います。そのように私は無知から受け入れます、そこでは理性は働きません、そこには叡智が見当たりません、しかしあなたにはそれら全てが必要です、自由や叡智や理性的な働きが本当の精神的な事柄には必要です。そうでなければそれは何だと言うのですか? 何らかのグルがやって来てあなたに何をすべきかを言い、あなたは彼の言う通りにします。あなたはそれがどれくらい破壊的であるか、それがどれくらい堕落していることであるか分かりますか? それが起こっていることです。私はそれらのグルたちが自分たちのしていることを認識しているとは思えません。彼らは堕落を奨励しているのです。
A 彼らは一連の同じものを表現しています。
K その通りです。そうすると、このことは非常に重要な問いを浮かび上がらせます、つまり、権威というものが全く存在しない教育がありえるのかということです。
A 私は私が昨日授業の中で経験したことから思うと、それはありえると言わざるをえません。それは学生たちにとって途轍もないショックでした、彼らはしばらくの間彼らの不信感を棚上げにして私が本気でそう言っているのかどうかを窺っていました、私は言いました、それでは我々はこのことを一緒に行わなわなければなりません、あなたたちは私があなたたちに言うことを行うのではありませんと。
K あなたたちは一緒に行わなければなりません。
A 我々はこのことを一緒に行ないます。
K それを共有します。
A はい。あなたが問い、私が問うて、我々は我々が進めていく中で理解しようとします―試みるのではありません。そして私はこの“試みる”といううわべだけの取るに足らないことは止めようという点に踏み込みました。これには少し時間がかかり、そのことでそのショックが増大しました、というのは、学生たちがあなたの言うところの献身的であることに自己満足していて、彼らのすべきことを行ない彼らが努力しているとき、この男が教室に入って来て“試みること”を悪く言っているのが分かるからです。このことは正にその場をひっくり返すように思えます。しかし彼らは勇気を示してそのことに少し注意を払い本当に気をつけるようになってきました。私はあなたが勇気と純粋に気をつけていることとの関係を議論したときあなたの言っていることがよく分かりました。私には勇気は気をつけているところには属さないように思われます。
K はい。
A しかし彼らはこの準備段階で勇気を奮い起こしました。しかし、そうすると我々は私が針を落とすと呼ぶことに行き当たりました―そこで彼らは本当にこの奈落を見ました、彼らは十分に気をつけてその崖を見下ろして立って、そして凍り付きました。その瞬間が私には正に全く決定的であるように思われます。それはほとんど客観的な出来事という点から見るようなことです。スペインの哲学者オルテガイガセットが前後に揺れてついにそれ自身に落ち着く出来事のことを語りました。それが教室で起こっていました。それはコップの淵にまで溢れてきた水が全く零れ落ちないようなものでした。
K 宜しいでしょうか、私は四十年以上多くの学校と関わってきています、そして人が学生たちに自由や権威や受け入れることについて話すと彼らは茫然自失します。
A はい。
K 彼らは奴隷でいたいのです、つまり、“父がこう言います、だから私はこうしなければなりません”あるいは“父がそう言います、だから私はそうしません”。それは同じことです。
A その通りです。あなたは我々の次の会話で我々がその躊躇する瞬間を見ていくことができると思いますか?
K はい、そうしましょう。
A 私にはそれが教育そのものにとってひどく重大な問題であるように思えます。
1974年2月27日
中野 多一郎 訳