はからない精神

 

ニューデリ―・トーク

争い、二重性、観察

 今夕、我々は多くのことを話し合います。人は実際には他の人の言うことに耳を傾けていません。もしあなたが耳を傾けるなら、いつも何らかの防御をします、話されていることに、何か新しいことに、いつも何らかの抵抗をします。即座に抵抗的な反応が起こります、なぜならそれが心を掻き乱すからです。それでは、宜しいでしょうか、耳を傾ける霊妙な働きがあります、言われていることに耳を傾けることです、言われていることをあなた自身の都合に合わせて解釈するのでもなく、あなた自身の伝統的な言葉づかいに合わせて解釈するのでもなく、その言葉に耳を傾けることです、その言葉の意味に耳を傾けることです、我々が互いに理解し合うように気をつけることです。耳を傾けるには、人はある種の気をつけている質を備えていなければならないだけでなく、愛情や他の人が言っていることを理解しようとする感覚も備えていなければなりません。コミュニケーションは我々が同じテーマに、同じ考え方に、何らかのことに共に関心を持っているときにのみ深いところで可能になります。そうすると我々は互いに通じ合います。しかしもしあなたが、恐らくあなたが話し手の言わんとすることの多くに抵抗しようとしているように、抵抗するなら、コミュニケーションは生じえません。人は耳を傾けるすべを学ぶ必要があります。あなたはあなたの好きな音楽に耳を傾けているとき抵抗しません。あなたはそれと共にあって、あなたは頭を振り、手をたたき、あなたの感激やその音楽の素晴らしさなどを表現するためにあらゆることを行います。全く守ることをしないで、全く抵抗しないで、あなたはそれと共にあって、それと共に赴きます。同じように、どうか心から耳を傾けてください、教えられるのでもなく、何をすべきか言われるのでもなく、言われていることを理解してください。
 そのように、どうか耳を傾けるすべを学んでください、話し手にだけではなく、あなたの妻に、あなたの夫に、あなたの子供たちに、鳥たちに、風に、そよ風に耳を傾けるすべを学んでください、そうするとあなたは耳を傾けているとき途方もなく感受性豊かになります。あなたが耳を傾けると、あなたはすぐに捉えます、沢山の説明や分析や表現の必要はありません、あなたたちは互いに一緒に流れています。我々は二人の友人として公園の中に或いは森の中に腰をおろして話し合っています、静かです、鳥たちが鳴いています、床の上にたくさんの木漏れ日が当たっていてその美に感激します。あなたがそのように耳を傾けると奇跡が起こります。あなたがそのように耳を傾けると、それは種を蒔いているようです。もしその種が活力に満ち、力強くて、健康なら、そして土壌が正しく整えられているなら、それは必ず育ちます。そのように人は耳を傾けるすべを学ぶ必要があります。もしあなたが非常に非常に注意深く耳を傾けるなら、あなたはそれを即座に捉えます、他の人の言っている意味を即座に捉えます。恐らく多くのあなた達が何年にもわたって話し手の言うことを聞いてきました、不幸にも、そしてあなたはそれに慣れています、あなたは彼の言葉づかいや彼の仕草や彼の表情などに慣れています、そしてあなたは次第に気付かないうちに離れていきます。そしてあなたは言います、「なぜ私はこの男の言うことを何年も聞いてきたのに変わっていないのか」と。それはあなたが実際にはあなたの心から、あなたの精神を傾けて、あなたのエネルギーのすべてを注いで、耳を傾けてこなかったからです。ですから、話し手を非難しないでください、それよりも学んでください、この上なく敬意をこめて言わせていただくなら、聴き方を学んでください。鳥の声に耳を傾けるとき大いなる美があります、葉群れの中の風の音に耳を傾けるとき大いなる美があります、そして深いところから、何らかの意味を抱いて、熱気をこめて話されている言葉に耳を傾けるとき大いなる美があります。
 我々は昨日言っていました、人間の未来は危うくなっていると、人間は孤立していては存在しえないと―国家として孤立していると、グループとして孤立していると、宗教で孤立していると、個人として孤立していると、そして意識として孤立していると。ほとんどの我々にとって思考は個人的です。あなたは何らかの違いがそこにはあると、何らかの分断がそこにはあると考えます―私の意見に反対するあなたの意見であり、あなたの考え方或いはあなたの夫の考え方に、あなたの妻の考え方に反対する私の考え方です。しかし思考は個人的ではありません。思考はもっとも貧しい人や愚かな人からノーベル賞を手にした人や科学者まで共通する普通の要素です。彼らはみな共に思考する人です。しかし我々はあなたが考えることはあなたのものであると考えます、それにもかかわらず思考は人間の性質です。この点をはっきりさせて下さい。あなたが考えるとき、それはあなたの個人的な思考ではありません、それはあなたの頭脳の能力です、活動的で言葉やかたちで反応するあなたの頭脳の能力であり、それは人間の性質です。しかし我々は思考をあなたの思考に対する私の思考としてきました。ほとんどの我々が堅固な意見、偏った見方、結論を持っています。我々は沢山のことを経験してきて、我々はそれを我々の経験、我々の結論と考えます。新しい見方が目の前に置かれると、あなたは見ることを拒否します。しかし思考は人間の性質です。
 そのことから進めますか? あなたがあなたの外側の世界で起こっていることを観察すると、あなたは目にします、それぞれの国が孤立していると、それぞれのグループが孤立していることを―イスラム教、ヒンズー教、仏教、チベット人、ロシア人、アメリカ人などです。この孤立の要因は世界を破壊しています、人間を破壊しています。これが世界で起こっている実際の事実です。そうして、内面的に、我々の誰もが我々は分離していると考えます。伝統、宗教、それら全てが我々は分離している人間であるという我々の思考を条件づけてきました。我々は分離しています、あなたは女であり、私は男であり、背が高い、背が低い、白い、黒いなどという意味で分離しています。しかし我々は深いところで話しています、つまり人間の意識は普遍的であり、人間の意識はあらゆる人間によって共有されています。すべての人間が苦しみ、大変に苦悶し、涙を流し、孤独や苦痛、不安、憂鬱、不確かさを感じています。最も貧しい人から最も洗練された人や博識な人たちまで―全ての人がこの普遍的な要素をもっています。彼らはみなこれを共有しています。そういうことなのです。そのように我々の意識はあなたのものでも私のものでもありません。それは全ての人間の意識です。ほとんどの人にとってこの現実を見るのが非常に難しくなっています、なぜなら我々はそのように条件づけられてきたからです。キリスト教にとっては、あなたは分離した魂です。ここヒンズー教では、あなたはあなたが、どこでしょう、神のみぞ知るどこかに至るまで何度も何度も生まれ変わります。それは依然としてあなたが分離した個人であることの強調です。そうですか? 我々は問うています。我々は見つけなければなりません、疑わなければなりません、問わなければなりません、それはあなたが何ら防御することなく、何ら抵抗することなく、この真理に耳を傾けていることを意味します。我々はその言葉を正しく使っています、つまり、それは真理です。あなたは、見た目には、外面的には、独特の癖や習慣、性向、能力の持ち主かもしれませんが、もしあなたが外側から内側へ向かうと、我々はみな同じ共通の問題を共有しています。もし我々がこのことを悟らなければ、言葉でではなく、知的にではなく、我々の心で、我々の精神で、我々の血肉を通して悟らなければ、我々はお互いを破壊するでしょう。
 我々は我々の意識がその内容であるという実際の事実に耳を傾けることができます、我々の意識はその内容で出来上がっています。違いますか? 宜しいですか、意識についてとても沢山の本が書かれてきました。意識についての専門家たちがいます、意識についての会議が世界中で催されています。人は自分自身の意識の性質を検討する必要があります、その内容を観察する必要があります、なぜならその内容なしに意識はないからです。あなたはこれらのことに付いてきていますか? 意識は人の信念や傾向、秘かな欲望、不安、孤独などで出来上がっています。意識を形作る内容があります。その内容なしに我々が知っている意識はありません。もしあなたが自分自身の意識を観察するなら、それが現実のあなたです、あなたの意識が現実のあなたです。あなたの恐れや欲望、快楽、孤独、憂鬱、不安などそれら全てです、それが現実のあなたです、あなたの信じていることです。
 そのように、その内容がその意識を作ります、そしてその意識は条件づけられています。それが条件づけられているので、それは争うことになるに違いありません。あなた方はみな何らかのことで争っていませんか、争いは二人の間の意見の相違であり、自分の中の葛藤であり、現実とあるべきことの不一致です。それが争いです。すべての人間は暴力的です。我々の意識の内容はその暴力の一部です。二重性があると争いが起こります。つまり、私は暴力的です、私は暴力的であってはいけません。あるいは、私は非暴力という理想をもっています或いは非暴力を実践する理想をもっています、しかし事実は、あなたは暴力的です。それが事実です。それ以外は事実ではありません。
 我々はこのことを非常に注意深く検討しなければなりません、なぜなら我々はなぜ人間が絶え間なく争いの中を生きているのか、なぜ矛盾が生じるのかを理解しようとしているからです―私はこうであるが、私はそうあるべきであるとか、私は暴力的であるが、私は非暴力的にならなければならないとかです。非暴力は観念であり、概念であり、実際の事実ではありません、なぜなら私は暴力的だからです。それが事実であり、それが実際の姿です。それ以外は事実ではありません、しかし我々は非暴力を追求することが我々を非暴力的にすると考えます、我々が暴力から自由になると考えます。その言葉の内容を理解しましょう。暴力とは何ですか? 物理的な暴力があります。あなたは銃を撃ちます、あるいは殴ります、あるいは爆弾を投げます、あなたは叩きます、あなたは傷つけます。それは物理的な暴力です。心理的な暴力とは何ですか―内面の怒りであり、憎悪であり、人々を支配したいという思いです、物理的な支配だけではなく、観念の支配でもあります。私は知っています、あなたは知りません、あるいは、私があなたに告げて、あなたは従います。それが支配です。グルたちは暴力的です、なぜなら彼らは彼らの観念で、彼らの瞑想システムなどそれら全てで人々を支配しているからです。どうかこのことを理解してください。我々はグルたちを攻撃しているのではありません。私はただ指摘しているだけです、心理的な依存や模倣、順応、支配などそれら全てが内面的な暴力であると。それは事実です。我々は事実を扱って、その対極的な観念を扱わないことができますか? 対極的なものは存在しません。違いますか? 闇と光、女と男、高い低い、黒と白などの対極的なものはあります。内面的に、二重性というものがありますか? 実際のこととして我々は問うています、「二重性というものがあるのですか、それともただ現実があるだけですか」と。ただ現実があるだけです、つまり、私は暴力的です。それでは暴力から自由になることは可能ですか、非暴力になるのではなくです。このことは宜しいですか? この国は非暴力という観念を喧伝してきました。暴力的でありながら、彼らは彼らが実際にそうではない何かを喧伝しています。それが意味するのは、私は一歩一歩、一日一日それになることを実践しているということです、暴力を理解することではなく、私が非暴力と呼んできた何かになるために日々少しずつ実践しているということです。あなたはその違いが分かりますか? それゆえに葛藤が起こります。私が観察しているとき、学んでいるとき、事実を問うているとき、私の精神の中には葛藤は起こりません。しかしもし私がいつも、「私は非暴力を成し遂げなければならない」と言っているなら、葛藤が生じます。しかしもし私が私は暴力的であると言うなら、暴力の根源は何ですか、暴力の性質は何ですか? 私はそれを非難しません、私はそれを観察します。
 観察するとはどういうことですか? 宜しいですか、あなたが満月を見るとき、あなたはそれを観察しますか、その光の美を見ますか、その光の途方もない質を見ますか、それともあなたは満月だと言って、他のことを行いますか? あなたにとって観察するとはどういう意味ですか? あなたは雪に覆われた壮大な山を、その美を、正に観察しますか、暗い影に満ちた深い谷を観察しますか、その山の途方もない荘厳さを観察しますか? あなたが瞬時に観察するとき、あなたの全ての問題が消え去ります、なぜならその山の荘厳さがあなたの全ての問題を一瞬のうちに追い払うからです。あなたはそれに気づきましたか? しかしあなたの問題はすぐに戻ってきます。そこで我々は観察するとはどういう意味か話し合います。
 それでは、仮に私が暴力的だとします。私はどのようにその暴力を観察しますか? 私はその暴力の質を理解したいと思います。私は暴力の原因となる途方もない要因を探究したいのです、発見したいのです。どのように私は観察しますか? 最初に、暴力は私と異なりますか? 私の質問が分かりますか? 私は問うています、その暴力は、私が私は暴力的であると言うときに私が目にするそれは、その暴力は私と異なりますか、それとも私がその暴力ですか? あなたが怒っているとき、あなたは怒りです。あなたは怒りと異なりません。あなたがそれをコントロールしたいと思うときのみ、あなたが「私はそれを抑えなくてはならない」と言うときのみ、あなたは怒りと異なります、しかしあなたは実際に暴力と異なりますか、暴力と分離していますか? そうですか? その“暴力”という言葉が―伝統の中で分離されて、暴力について絶えず語ることなどを通じて―観察することから分離することを生み出してきたのですか? 
 観察者は言います、私はそれとは異なります、私は暴力とは異なりますと。我々は観察者とは何者なのかを問う必要があります。観察者は過去であり、暴力が何であるか知っている者です。それは過去であり、それは知識であり、それは経験であり、それは蓄えられた全記憶です。それら記憶が、それら様々な形の知識が、そしてそれら全ての活動が過去です。思考はそれ自身を過去、現在、未来として分断してきました。それはそれ自身を観察者と観察されるものとして分断してきました。思考は言ってきました、「私は暴力的ではありません、暴力は私の一部ではありません」と。しかし、あなたがそれを間近に見ると、あなたは暴力的です、あなたは怒っています、あなたは貪欲で、競争心旺盛で、気落ちしているなどそれら全てです。違いますか? 観察者は彼が観察している当のものと異なりません。このことを理解してください。このことは非常に重要です、なぜなら、もしあなたがこのことを本当に全身全霊全能力を傾けて理解するなら、争いが消滅するからです、二重性は生じえないからです。手持ちの書物を全て忘れてください、ヴェーダンタ哲学やその他のすべてを忘れてください。事実が存在していて、物理的なものを除けば対極的なものは存在しません。心理的には、内面的には、事実だけが存在します。事実は、人が暴力的で嫉妬深いことなどです。
 それでは、あなたは事実をその対極とは無縁に、思考が発明したそれとは無縁に観察できますか? あなたはこのことが分かりますか、“現実”を観察することです。そのような観察では、観察者が観察される当のものであり、思考者が思考される当のものであり、経験者が経験される当のものです。しかし我々はそれを分離してきました。我々は言っています、「私は悟りを経験しなければならない」と、あるいは、それが何であれ、あなたは経験したいのです。そのように、思考者が思考される当のものです。思考なしに思考者は存在しません。観察者が観察される当のものであり、分析者は彼が分析する当のものです。私はそのことを十の異なる事柄で言えます。しかしそれは事実です、つまり観察者が観察される当のものです。従って、あなたは内面的な二重性をことごとく除去します。そうすると、それを抑えたり、それから逃げたり、それを分析するという問題はなくなります。それはそこにあります。そうすると何が起こりますか? この真理を実際に悟ると、事実だけがあって、発明された対極というものはなく、ただ現にあるものだけがあるというこの真理を悟ると、何が起こりますか? その中には観察者あるいは観察されるものとしての分断が存在しません。そうすると何が起こりますか? 私の質問が分かりますか?
 人は遥か昔から争いの中を生きてきました。もしあなたがフランスや世界のある地域に残された岩の彫刻やそれらの洞窟を見るなら、あなたはいつも良いことと悪いこととの間の、善と悪との間のこの戦いがあることが分るでしょう。これが人間の歴史です―戦いです。我々はこのような争いが消滅しえるのかどうかを問うています。もしそれが消滅するなら、彼は活力のある、創造性に富む人間であり、彼は何か途方もないものを手にしています。あなたは暴力的であるという、このことをあなたが悟ると、あなたは暴力から分離していて暴力はあなたから分離した何かであるというのではなく、あなたが暴力であると悟ると、何が起こりますか? あなたは褐色の肌をしていて、何らかの特徴があり、問題を抱えていて、あなたは教授であったり科学者であったりします―それら全てはあなたと分離していません。そうするとこの事実が、この真理が理解されると、知的にではなく、言葉でではなく、事実として、真理として深いところで理解されると、何が起こりますか? あなたは対極的なものを全て捨て去りましたか? このことだけが存在しています、ですからそれと共に生きてください、あなたが発見した貴重な宝石のようにそれと共に生きてください、あなたはそれを見守っています、あなたはそれを見守りながら、その宝石の美しさ、その輝き、そのキラキラした数多くの側面を見ています、そしてそれはあなたの一部です。従って、見守ること、観察することは途方もなく重要で、そこには見るものと見られているものとの間の分断は全くありません。そうするとあなたはそれについて何もできないと悟ります。あなたは褐色の肌であり、あなたはそれを変えられません。事実が存在します、そのように観察すると、それは言葉ではなく、それは記憶ではなく、それは全く新しい何かです。あなたはこの新しい反射的反応に面と向き合っています、あなたが暴力と呼ぶそれに、初めて相対するように向き合っています。それが意味するのは、あなたは初めて目にするかのように何かを観察したことがありますか、ということです。あなたは月を見たことがありますか、上ってくる新しい月を、まるでこれまでのあなたの人生の中で初めて見るかのように。あなたはあなたの妻を、あなたの夫をまるで初めて見るかのように見たことがありますか? それともあなたは、彼女は私の妻です、彼は私の夫ですと、ただ言うだけですか―それはただの機械的な観察です。観察するためには大いなる問いかけやエネルギーや活力を要します、実際の“現実”を見るためにはそれらを要します。
 我々は今あらゆる種類の争いを全て除去することに関心があります。なぜ我々は意見を持つのですか? あなたには意見があります、あなたは判断します、違いますか? どうかこのことを問うてください。なぜあなたは意見を保持するのですか? それは何らかの負担です。あなたはブラフマンであり、私は違います。私はシク教徒であり、あなたは違います。私はイスラム教徒であり、あなたは違います。なぜあなたはこれらの意見を持つのですか? それは、精神や頭脳が意見で占められているのでそれが小さく、狭く、他愛のないものになっていることを指し示します。それは自由に問うことや見ることをしません。
 なぜ人間の精神は、人間の頭脳はいつも何かに占められていて、決して自由ではないのですか、決して静かではないのですか? これら全てを問うてください、なぜなら我々は世界中で途轍もない危機を抱えているからです、そして我々の意識の中に危機を抱えているからです。
 我々は関係性についても一緒に話し合うべきです。なぜ我々の互いの関係性の中に、どんなに親密であろうと、どんなに性的に親密であろうと、どんなに身近であろうと、争いが起こるのですか? なぜ二人の人間は平和に生きられないのですか? あなたはそのような問いかけをしたことがありますか? というのは、これは非常に重要だからです。もし私が私の妻と、私の夫と、私の女友達と平和に過ごすことを知らなければ、私は世界で平和に過ごせません。私は平和について語るかもしれません、私は平和について沢山の本を書くかもしれませんし、世界中に行って平和について語るかもしれませんが、私は私の妻と、私の夫と喧嘩をしています。そのように我々の関係性の中に争いが起こります。なぜですか? あなたは私に語ってほしいのですか、それともあなたは話し手と共に問いますか? もしあなたが本当に問うているなら、それは何かを共有しています、一緒に歩んでいます、互いに意見を一致させるのではなく、一歩一歩考えて、一緒に歩んでいます、それは美と愛と愛情が辺り一面に漂う小道を手をつないで歩いているようなものです。なぜこの意見の相違があるのですか、なぜ我々の関係性の中にこの男と男、女と男の分断があるのですか? あなたはそのことに気づきましたか? 我々は平行線のようで、決して出会うことがありません。我々は決して自分の言いたいことを言ってそれに固執していません。我々はなぜ人間の関係性の中に我々はそのような絶望的で醜い争いを起こすのかを一緒に明らかにしようとしています。私には私の野望があります、私の欲望があります、私の問題があります。職場では、私は競争的であり攻撃的です。私は自分自身の方向を目指しています、そして妻も彼女自身の野望を追い求めています、そして私は支配し、彼女はそれに抵抗します。そこで我々は問うています、なぜこの争いが起こるのかと、なぜなら我々は一緒に生きなければならないからです。我々はセックスをし、我々には子供たちがいます、しかし我々二人は離れています。それが事実ではないのですか? 私は彼女を支配します、あるいは彼女が私を支配します、彼女は私に威張り散らします、あるいは私が彼女に威張り散らします。私は彼女を叱ります、あるいは彼女が私を叱ります。私は彼女を殴りませんが彼女に怒っています。私は彼女を殴りたいと思いますが何とか自制します。あなたは笑いますが、それらは全て事実です。しかし私は一個人であり、彼女は一個人です。それぞれにそれぞれのやり方があるに違いありません―それぞれの習慣であり、それぞれの欲望です。そうすると、どのようにして二人の人間は一緒に暮らせるのですか? それが意味するのは、あなたはあなたの妻あるいは夫に愛情が全くないということです。
 あなたは他の人を愛するということが何を意味するのか知っていますか? あなたは誰かを愛したことがありますか? 愛は依存ですか? 愛は欲望ですか? 愛は快楽ですか? 私は私の妻を愛していません、彼女は私を愛していません。我々は二人の分離した一個人です。我々は性的に触れ合うかもしれませんが、その他の点ではそれぞれのやり方を続けます。お分かりでしょうか? 愛はこの国に存在しますか? 「ヨーロッパに存在するのか」と言わないでください。話し手がヨーロッパにいるとき、彼はそこでそのことについて話します。しかし我々はそれをここでこの国にいて、世界の中のこの場所にいて話しているのです。この国に愛はあるのですか? あなたは誰かを愛しますか? 愛は怖れと共に存在しえますか、誰もが何かになろうとしているときに愛は存在しえますか? 愛は私が聖者になろうとしているときに、そして彼女がそうではないときに存在しえますか、あるいは彼女が聖者になろうとしているときに、そして私がそうではないときに存在しえますか? これらのことをどうか理解してください。これはあなたの生です。誰もが何かになろうとしているときに、どうして愛がありえますか? 他の人をその人から何一つ求めないで愛することができますか、感情的にも、肉体的にも、いかなることでも、私の妻に何ものも求めずに愛することができますか? 心理的には、彼女は私の必要とすることに気を遣うかもしれません、というのは私がお金を持ってくるからです。私はそのことを話しているのではありません。しかし内面的には、執着するものがあるときには愛は存在しえません。もしあなたがあなたのグルに執着しているなら、あなたの心の中には愛はありません。これは非常に非常に真剣なことです。愛なしには正しい行動は生まれません。我々は行動について話します。我々は沢山の種類の社会活動を行います。しかしあなたの心の中に、あなたの眼差しの中に、あなたの血の中に、あなたの表情の中に愛があるとき、あなたは異なった人間です。そうするとあなたが何を行おうと、それには美があり、優雅さがあって、それは正しい行動です。これら全てをあなたは素晴らしい言葉として聞くかもしれません。しかしあなたはこのような質を備えていますか? それは育成されえません、それは実践されえません、それはあなたのグルからも、どこからも手に入れられません。しかしそれなしには、あなたは死んだ人間です。そうすると、あなたは何を行うでしょうか? どうかこの問いかけをしてください、なぜこの炎が存在しないのか、なぜあなたはそのような貧相な人間になっているのか自分自身で明らかにしてください。もしあなたが自分の家に秩序をもたらさなければ―あなたの家、それは自分自身です―世界に秩序は生まれないでしょう。あなたはあなたの残りの生を瞑想に費やすかもしれませんが、それなしにあなたの瞑想には何の意味もありません。ですから、どうか、この上なく敬意をこめて我々は問うています、あなたはどう反応しますかと。
質問者 宜しいでしょうか、あなたはこれまで五十年間根本的な変化について話してきました、そして明らかに世界にはどのような根本的な変化もありません。私のあなたへの質問は、それではなぜあなたはトークを行うのですか、ということです。
クリシュナムルティ その紳士は問います、あなたは人間の意識の根本的な変化などについてこれまで五十年以上話してきました、そして変化が全くありませんと。そうして質問は、なぜあなたはトークをするのか、ということです。話し手は彼の楽しみのために話しているのではありません、それは彼の達成目的でもなければ、彼の励みのためでもありません。もし彼がトークをしなくても、彼は気落ちしたりしないでしょうし、彼は何かを欠いていると感じたりしないでしょう。そうすると、なぜ私は話すのですか? あなたはハスの花がなぜ咲くのか問うたことがありますか? おありでしょうか? あなたは問うたことがありますか、なぜ花は咲くのか、なぜそれはそれほど美しいのか、なぜそれはそのような驚くほどの色彩をたたえているのか、その深みやその香りや一輪の花の壮観さをあなたは問うたことがありますか? おそらく話し手は慈悲心について話してきたのです。
                                               1982年10月31日
                                                    ニューデリー
                                                 中野 多一郎 訳