もし指摘をさせていただくなら、我々は一緒に探究しています、問うています、疑っています、尋ねています、そしてこれは講話ではありません。我々は一緒に問うています、我々は存在の全領域を歩んでいて、特殊な問題を扱っているのではなく、人間の問題を、人類の問題を扱っています。我々の存在の要因の一つは、我々が秩序の乱れの中に生きていることです。明らかに、三、四万年以上にわたって我々は宇宙の完全な秩序の中を生きてこられませんでした、相対的な秩序ではなく、内なる秩序を、あらゆる環境の下での内なる秩序を、我々がどこに住んでいようと内なる秩序を手にすることができませんでした―社会的にも、政治的にも、その他の点でも。重要なことは、我々が、あなたと話し手の私が秩序の乱れの要因を解き明かすことです、ただ単に話し手の差し出す説明や描写を聞いているだけではなく、一緒に考えることです、観察することです、我々自身を検討することです、決して自分本位あるいは自己中心的にではなく、我々自身を見ることです、我々の作り出してきた世界を見ることです―なぜ人間は、人類は内にも外にも絶え間ない秩序の乱れの中を生きているのかです。最初に、内面的な秩序を生きることは可能かどうかを問うことです、それから外側の秩序を問うことです、その逆ではありません。最初に、内面的に、我々自身の深いところで、人は完全な秩序の中を生きられます。そしてさらに、我々は今夕一緒に苦しみの問題と死のこの途轍もない神秘を議論できるはずです、話し合えるはずです。
美は完全な秩序です。しかしほとんどの我々は我々の生の中でそのような美の感覚を持っていません。我々は偉大な芸術家かもしれませんし、偉大な画家かもしれませんし、色々なことの専門家かもしれませんが、我々自身の日常的な生の中で、我々はあらゆる不安や悲惨を抱えて、我々は、不幸にも、非常に秩序の乱れた生を生きています。それは事実です。あなたは偉大な科学者かもしれませんし、あなたは何らかの非常に偉大な専門家かもしれませんが、あなたはあなた自身の問題を抱えています、激しい競争や苦痛、不安などその他のすべてを抱えています。我々は一緒に問うています、完全な内面の秩序の中を生きることは可能かと、規律を課すのではなく、コントロールするのではなく、この秩序の乱れの性質を問うことは可能かと、その要因は何かと、そしてその要因を払いのけることは可能かと、それから立ち去ることは可能かと、それを洗い流すことは可能かと問うています。そうすると宇宙の中に生きた秩序が生まれます。
秩序は生の何らかの特別なパターンに従うことではありません、あるいは何らかのシステムに盲目的にあるいは自ら進んで従うことではありません、それは我々自身を問うことであり、我々自身で発見することです、それは告げられることでもなく、ガイドされることでもなく、それはこの秩序の乱れの本当の要因を我々自身の中に解き明かすことです。それではこの無秩序の要因は何ですか、我々の外側の世界だけではなく、外側に秩序の乱れを生み出してきた我々自身の内面的心理的混乱の要因は何ですか?
あなたは欲望を秩序の乱れの要因の一つと見なしますか? 欲望とは何ですか? ほとんどの我々にとって欲望は有力な要因です、欲望は我々を駆り立てます、欲望は幸福感あるいは災難をもたらします。欲望は欲望の対象によって変化します。欲望が要因の一つですか? なぜ全ての宗教が、いわゆる全ての宗教的な人々が欲望を抑圧してきたのですか? 世界中で全ての僧侶が、托鉢僧が欲望を否定してきました、彼らの内面では欲望が煮えたぎっていても。欲望の炎は燃えていますが、彼らはそれを抑圧することによって、或いは、その炎を何かのシンボルとみなし、ある人物とみなし、その欲望をその人物に、その人に預けることによってそれを否定します。しかしそれは依然として欲望です。ほとんどの我々は、自分の欲望に気づくと、それを抑圧するか、それを満たすか、それと争うかして、その戦いが続きます。我々はそれを抑圧することも、それにおぼれることも、それをコントロールすることも唱導していません。そのことは世界中であらゆる宗教的人間によって行われてきました。我々は、その欲望のあなた自身の理解から、それがどのように生まれるのか、その性質は何なのか、そのような理解から、それに自分自身で気づくことによって人に叡智がもたらされるように、それを非常に間近に調べています。そうするとその叡智が働きます、欲望ではありません。
はじめに、我々は、我々の一人一人が欲望の途方もない力に気づいていますか―力を希うこと、あることを強く願うこと、神を希求すること、悟りを願うこと、何らかのシステムに従いたいと欲すること。欲望は非常にたくさんの形をとります。それは熟練した織物師の手になる織物のように複雑です。人はそれを非常に非常に単純に見る必要があります、そうするとその複雑さが現れてきます。しかし、もしあなたが複雑なことからスタートすると、あなたはそれ以上進めません。もしあなたが単純なことからスタートすると、あなたは非常に遠くまで行けます。我々はそれを見ています―欲望のルーツとその始まりを。
あなたは我々の感覚が働く仕組みに気づいたことがありますか? 人は自分の感覚に気づきますか、特定の感覚ではなく全感覚に気づきますか―感じたり、味わったり、聞いたり、見たりする感覚です―それら全ての感覚を余すことなく働かせることです。あなたの全ての感覚が活動的になっていて、働いているときに、あなたは樹木をそのように見たことがありますか? あなたは海や山や丘や谷をあなたの全ての感覚を働かせて見たことがありますか? もしあるなら、そうするとそれを見ている中心はどこにもありません。あなたの感覚的反射的反応は全体的で完全です、それはコントロールされたり、形作られたり、抑圧されたりしていません。もしあなたがこのことを非常にはっきりと理解しないのなら、このことを言うのは危険なことです、なぜなら、ほとんどの我々にとって、我々の感覚は部分的だからです―我々は衣服に関して非常に良いセンスを持っているかもしれませんし、家具に関して悪趣味かもしれません! あなたはそれらをよく知っています。我々の感覚はこのように限られています。誰も、どの宗教も、どの他の哲学者もこのことを言っていません。全感覚が花開かなければなりません、そしてそのような開花の中で世界の美に気づくのです。
そうすると、欲望の要因は何ですか? それを非常に注意深く検討しましょう。欲望とは何ですか? それはどのように起こるのですか? それはひとりでに起こりません。それは感覚を通じて起こります、触れることによって、何かを見ることによって―男の人あるいは女の人を見ることによって、ショーウインドウの中の衣装を見ることによって、服や車や大いなる丘を見ることによって。即座に何らかの知覚が生じます。そのような知覚が生じるのは、そのような反応が起こるのは自然なことであり、健康なことです。そうすると何が起こりますか? 私は美しい女性を、美しい男性を、美しい家を、美しい樹木を見ます。私はこの上なく細やかに作られたシャツを見ます。私は中に入ってその生地を触ります。はじめに見て、それから触って、そしてその手触りから知覚が生じます、違いますか? そうすると何が起こりますか? それを検討してください、あなたはそのシャツに触れました、あなたにその質の、その色の知覚が生じます。そこまでは欲望は全く生じません、ただ知覚が生じているだけです。そうすると何が起こりますか? あなたはそのシャツあるいは服を触りました。そうすると思考がそのシャツを着ているあなたのイメージを作り出します、その車に乗っているあなたのイメージを作り出します、その服を着ているあなたのイメージを作り出します。思考がそのようなイメージを作り出すとき、それが欲望の生まれる瞬間です。つまり、思考がそのようなイメージを作り出すとき欲望が生まれます。私は美しいバイオリンを見ます―私はそれを欲しいと思います、そのバイオリンが醸し出すその音色の美しさです―私はそれを手に入れたいと思います。私はそれを見ます、それに触れて、その構造的な古さを感じます、そして私はそれを欲しいと思います、つまり、思考が知覚の領域に入ってイメージを作り出す瞬間に欲望が起こります。
そこで、問題は、何らかの隙間、ギャップがありえるのかどうかということです、つまり、知覚が起こるだけで、思考がやってきて知覚をコントロールさせないことです。それが問題です。なぜ思考はイメージを作り出してそのような知覚にこだわるのですか? そのシャツを見て、それに触れて―知覚です―そこで止めて、思考をそこに入らせないことは可能ですか? あなたはこのことの類を試みたことがありますか? 思考が知覚の領域へ入ってくると―そして思考も知覚です―思考は知覚をコントロールして欲望が生まれます。観察して、触れて、知覚だけが生じて、他の何ものも生じないことは可能ですか? あなたはこのことが分かりますか? そして規律というのはここに入る余地がありません、なぜなら、あなたが自分自身に規律を課し始めるや否や、それは何かを成し遂げようとする別の形の欲望だからです。そのように、人は欲望の始まりを発見して何が起こるのか見る必要があります。そのシャツを即座に買うのではなく、何が起こるのか見てください。あなたはそれを見ることができます、しかし我々は何かを手に入れることに貪欲で、しきりにシャツを、男性を、女性を、あるいは何らかの地位を手にしたいと思って、我々にはそれらを見る時間や落着きがありません。そのように、欲望は我々の秩序の乱れの要因の一つです。我々は抑圧するように、あるいは対象を変えるように訓練されてきています。しかし我々は欲望が開花する瞬間を決して見てきていません。それが我々の生の秩序の乱れの要因の一つです。どうか心に留めておいてください、我々は欲望をコントロールしようとしているのではありません―それはあらゆる所謂聖者たちによって試みられてきました―あるいは欲望にふけるように言っているのでもありません、そうではなく我々は花を見るようにそれを見ているのです、どのようにそれが育つのか見ているのです。
そうして、恐れは秩序の乱れの要因の一つですか? 明らかに、そうです―失敗する恐れ、成就しない恐れ、失う恐れ、得られない恐れです。我々はあらゆる種類の恐れを抱いています。あなたはグルに恐れを抱いています―あなたはあなたがどのようにグルの前に這い寄るか気づいたことがありますか? あなたはある種人間性をなくしています、あなたは恐れています。あなたは彼から何かを欲しがっているので、あなたは彼を崇めます。その崇拝の中に恐れが生じます。そこで、多種多様な恐れが生じます。我々はある特定の恐れを話しているのではありません。我々は恐れのルーツは何かと問うています。もし我々が恐れのルーツを発見できれば、我々はその全容を目にします。あなたはそのことが分かりますか? しかしもし私が私の抱く闇に対するちょっとした恐れに関心を持つなら、私の夫、妻、他の何かに対する恐れに関心を持つなら、私の頭脳は恐れの全体のルーツの発見に関与しません。このことは明らかです。そうすると、恐れの根源は何ですか? どのようにそれは生じるのですか? これは非常に複雑な問題です。どのような複雑な問題も非常にシンプルに取り組むことが肝要です、シンプルであればある程良いのです。できるだけシンプルにということは「私は恐れをどう扱ってよいのか知りません」ということです。そうするとあなたは発見し始めます。もしあなたが恐れのルーツが何であるのかについてすでに何らかの結論に達しているなら、あなたはそのルーツが何であるかを決して発見しません。ですから、あなたは非常にシンプルに恐れに取り組む必要があります、恐れの幹であり根であって、枝葉ではないのです。我々は恐れの要因あるいは因果関係を問うています。
あなたは時間が恐れの要因であると思いますか? 時間です―つまり、私は生きています、私は明日死ぬかもしれません、それは時間です、違いますか? ここからあなたの家へ行くには時間を要します。二種類の時間があるだけです、日の出と日の入りの時間、時計的な時間、あなたがカバーしなければならない距離的な時間、物理的な時間です。一方、心理的な、内面的な時間があります、私はこうですが、私はそうなるでしょう、私は暴力的ですが、私は非暴力を実践しています、私は野蛮ですが、私に時間をください、私はそれを克服します、私は明日友人と会うことを望みます。希望するのは時間を意味します。あなたはこのことが分かりますか? 時計的な時間があり、心理的に何かになるという時間があります、何かになるという階段を上ることです、つまり、何か理想的なことを思い描いて、その理想に到達しようとすることです、私はこうですが、明日は違う私でしょう、私は権力的な地位についていないけれど、私に時間をください、私はそれを手にするでしょう―それら全てが心理的な時間を意味します。そのことは明らかですか? そのように、恐れの要因の一つは時間です。
我々は時間とは何かを問わなければなりません、時計的な時間ではなく、私はそうなるように願う、という時間であり、それははかることです。願うことははかることです。時間は活動です、違いますか? 我々が内面的に恐れは完全に消滅しえると理解し始めると、恐れから余すことなく自由になる可能性が生まれます。それを明らかにするために、人は問うことを始めなければなりません。欲望は秩序の乱れの要因の一つです。恐れは要因の一つです。恐れは時間です。時間はある地点から別の地点への活動です、物理的にも心理的にも―私は言語を習うのに時間を要します。それは一か月かもしれませんし、二か月あるいは三か月かもしれません。ここからロンドンへ行くためには時間を必要とします。車を運転するためには時間を必要とします。我々はその点で時間が必要です。しかし我々が内面的に何かになるためにその時間を使うとき、我々は言語を習うような物理的な事実から心理的な領域へと踏み進んで自分に言い聞かせます、私は進化するためにも時間が必要であると、暴力的にならないためにも時間が必要であると。あなたはこのことが分かりますか? 言語を習うためには私は時間が必要です、そして私は暴力を乗り越えるためにも時間が必要であると、世界に平和をもたらすためにも時間が必要であると考えます。それははかる活動です。それは思考である活動です。思考は活動です、そして思考は時間を生み出してきました。つまり、私は現実を変えたいと思います、そしてそれを変えるために私には時間が必要です。
そのように、欲望、時間、思考は恐れをもたらす要因です。私は悪いことを二年前にしてしまいました、そしてそれが苦痛の原因となっています、そして私は同じことを二度としないでしょう。それでは思考とは何ですか? 全世界が思考の領域の中で動いています。技術的な世界は、その途方もない全ての複雑さと共に、思考によってもたらされます。人間はこの上なく途方もない複雑な機械を、コンピューターやジェット機などを作り出してきました。それも思考によって作り出されます。全ての大聖堂は思考によって作り出されます、全ての寺院と寺院や大聖堂の中の全てのものが思考によって作り出されます。儀式は思考によって発明されます。グルは思考によって発明されます。あなたが「私はシク教徒である」と言うとき、それはシク教徒であると自ら条件づけて機能している思考です。そのように、思考は我々の生の中で最も重要な要因になっています。我々の関係性の中では、思考が支配します。思考は戦争の問題を作り出してきました、そして思考は言います、「私は平和も手にしなければなりません」と、それは矛盾です。お分かりですか? なぜ思考は世界中でそれほど途方もなく重要になっているのですか?
思考とは何ですか、思考の起こりと始まりとは何ですか、なぜ人は思考に依存するのですか? あらゆる偉大な知識人たち、偉大な科学者たち、偉大な哲学者たち、書かれてきた全ての書物はみな思考の産物であり、思考に基づいています。思考とは何ですか、我々がそれによって生きている思考とは何ですか? 知識を伴わない思考はありますか? 知識とは何ですか? いくつかの種類の知識がありますが、我々は二つを取り上げます、学校や大学へ行って得る知識あるいは見習い人となって徐々に獲得する技術です。もしあなたが大工になりたいと思うなら、あなたは木目のことを、使う木材の種類のことを、使う道具のことなどを学ばなければなりません。もしあなたが科学者になりたいと思うなら、あなたは途轍もない知識を手にしなければなりません。知識は経験から生まれます。一人の科学者が何かを発見します、そして別の科学者がそれに何かを付け加えるか、それから何かを取り去ります。そのように知識が徐々に収集蓄積されていきます。それでは、知識は完全なものですか、それとも知識はいつも限られているのですか? 知識から生まれる人間の思考は、そのような知識は、何に対しても全く完全ですか? 知識はいつも限られています。バガヴァドギーター、ウパニシャッド、聖書、それらは全て知識です。そして知識は、それが聖者から与えられたものであろうと、政治家から与えられたものであろうと、哲学者から与えられたものであろうと、限られています。従って、知識を崇めてはいけません。もしそれが限られているなら、現にあるとおり知識はいつも無知と隣り合わせです。そのように、思考は知識から生まれます。あなたはこのことを理解しますか―思考の複雑さ、思考の繊細さ、思考の途方もない能力。一方では、技術的な分野では、それは驚くべき機械を、発電機を、ピストンエンジンを、ジェット機などを発明してきました、そして他方では、思考は戦争を起こしてきました。それは戦争の道具を生みだしてきました。我々はお互いを殺し合いたいのです。もし思考が我々の手にする唯一の道具で、その道具の出来が悪くて問題を起こしているのなら、我々は問うているのです、思考ではない他の種類の道具があるのかどうかと。
我々は我々の生の中に秩序の乱れを見ます、どのようなレベルで我々が生きていようと。あなたは地上で最強の権力を持っています、あなたは政治家かグルかもしれません、しかしあなたは内面的には秩序の乱れた中を生きています。従って、あなたはあなたの触るものには何にでも秩序の乱れをもたらします。あなたはこのことを世界中で目にします。秩序の乱れの要因は沢山あります、そして欲望が一つの要因です。我々はそれを検討しました―欲望、時間そして思考です。もしあなたが秩序を生みだすために思考を用いるなら、あなたは依然として秩序の乱れを作り出しています。お分かりですか? 我々の全生活は規律に基づいています。我々はこれをしてあれをしないように自分自身を律してきました。“規律”という言葉は、そのルーツは学ぶことです、誰かからではなく、自分自身で学ぶことです、自分自身の反応や自分自身の観察、そして自分自身の活動や振る舞いから学ぶことです。規律は決して叡智をもたらしません。叡智をもたらすのは観察であり、恐れから自由であることであり、欲望の性質を理解することです。例えば、もしあなたが欲望を理解すると、その性質を、その構造を、その活力を見て、自分自身でその知覚を明らかにすると、そして思考がそこに入ってきて、あなたがそのことに気づくと、あなたは叡智を手にし始めます、そしてそれはあなたの叡智でもなければ私の叡智でもなく叡智です。そのように、非常に途轍もない負担である恐れから自由でいることは可能ですか? あなたは耳を傾けてきました。あなたはそれから自由ですか? もしあなたが正直なら、あなたはそうではありません。なぜですか? なぜなら、あなたは本当に探究してこなかったからです、それを一歩一歩検討して、あなたの熱気で、あなたの胎の底から、あなたの精力をそれに注いで、私に明らかにさせてくださいと言ってこなかったからです。あなたはそのようにしてきませんでした。あなたはただ何気なく聞いてきました、あなたはそれを見ることを恐れます。そうしてあなたはそれと共に生きます、何かの恐ろしい病気と共に生きるように、あなたは怖れと共に生きます、そしてそのことが秩序の乱れを引き起こします。もしあなたがそのことを見て取るなら、あなたはすでに叡智を働かせています。もしあなたが思考の性質、その複雑さ、その繊細さ、その美を理解するなら、その理解から花が開花します。それは開花です―その花の美です。
あなたは花の美を見ますか、山の美を見ますか、一枚の葉の上にかかる満月の美を、岩の上の銀色の光を見ますか? 宜しいでしょうか、美とは何ですか、絵画の中ではなく、我々の生の中の美です。悲しみの性質とは何ですか、その重荷の消滅とはどういうことですか、悲しみを取り除くとはどういうことですか? もしあなたが苦痛や不安、野望などに苛まれているなら、あなたは愛が何であるか知りません。あなたは野心的でいたいと思います、あなたは権力を、地位を、より良い家を、より良い車を手に入れたいと思います。あなたは野心的な人間にはその心の中に愛はないと理解したことがありますか? そして我々はみなニルヴァーナを成就しようと、あるいは銀行の支配人になろうと非常に野心的です。ニルヴァーナあるいは解脱に達することは銀行の支配人になることと同じことです、なぜなら両方とも野心だからです。叡智の生を生きることは野心を持たないで途轍もなく活動的であることを意味します。宜しいでしょうか、我々は一緒に悲しみの消滅について話し合わなければなりません、そして死の意義とは何かについて、そして宗教とは何かについて話し合わなければなりません。宗教なしに、あなたは新しい構造を、新しい社会を生み出すことができません。宗教として我々が手にしているものは全くナンセンスであり無意味です。我々はその言葉の死を問わなければなりません。なぜなら、新しい文化、新しい文明だけが本当の宗教から生まれうるからです、宗教の名で行われているそれら全ての装置からではないのです。宗教はまったく異なる何かです。宗教的な生を送ることは慈悲心や愛をもつことを意味します、それは悲しみの消滅を意味します、お互いの正しい関係性を見つけることを意味します。ほとんどの人が望むのは掻き乱されないことです。彼らは自分自身の生の特別なパターンを継続したいのです。ですから、どうか、検討してください、この地上で異なった生き方があるのかどうかを見つけるために、あなたのエネルギーを、あなたの能力を注いでください。
あなたは誰も愛しません。もしあなたが誰かを愛するなら、この国は現にあるとおりの無秩序の中にはないでしょう、そしてもし我々が人々を愛するなら、戦争は起こらないでしょう。あなたは生の中の最も大切なものを失っているので、あなたの書物、あなたの儀式、あなたのマントラには全く何の意味もありません。あなたはそれを恐らく決して持たなかったのです、嫉妬とは無縁に、所有することとは無縁に愛することです。愛は執着することではありません。もしこのテントの中の我々すべてが、もし我々みんなが愛するなら、違う明日のインドになるでしょう。あなたたちはみなとてもよく喋ります、あなたたちはただ言葉を使っているだけです、明らかにしてください、なぜあなたの生は空しいのか、底が浅いのか、なぜあなたには愛がないのか、なぜ慈悲心がないのか、なぜあなたはヒンズー教徒なのか、シク教徒なのか、イスラム教徒なのかを。宜しいでしょうか、あなたたちはそのような問いかけを決してしてきませんでした。瞑想はこれらの問いかけを行うことです。瞑想はこれらの問いかけの真実を明らかにして、これらの問いかけの背後にある真理を明らかにすることです。
1982年11月6日
ニューデリー
中野 多一郎 訳