全く異なる生き方

全く異なる生き方

7 理解すること、コントロールしないこと、欲望

アラン W アンダーソン(A) クリシュナムルティさん、前回我々は話していました、恐れと快楽は同じコインの表と裏であるとあなたは言いました。私は考えていました、恐らく我々は恐れから快楽を議論できると。しかし恐らく我々がまだ検討する必要のある何かが恐れについてもっとあります。
クリシュナムルティ(K) 宜しいでしょうか、私はほとんどの我々にとって恐れが大変な悲惨を作り出してきたと思います、とても沢山の活動、思想や神々などが恐れから生まれるので我々は決して恐れから完全に自由になっていないように思えます。そして“何かからの自由”と“自由”とは二つの異なるものです、違いますか?
 いいえ。
 恐れからの自由と完全に自由であるという感覚です。
 あなたは“何かの自由”という考え方さえも争いを示唆すると言いますか?
 はい。“何かの自由”と“何かからの自由”は矛盾や争いや戦い、暴力、闘争を含みます。人がそのことをかなり深く理解すると、人は自由であることが何を意味するのかの意味が分かります。“何かの”や“何かからの”ではなく、本質的に、深く、それ自体を。恐らくそれは非言語的な、非思考的な出来事であり、あらゆる重荷があなたから抜け落ちた感覚です。それはあなたがそれらを捨て去ろうと格闘しているのではありません。重荷が存在しないのです、争いが存在しないのです。先日我々が話していたように、そうすると関係性が余すことなく自由の中にあります。
 そのように、それら快楽と恐れの二つの原理は深く我々の中に根を下ろしているように思えます。そして私は我々が恐れを理解することなしに快楽を理解できるとは思えません。あなたはそれらを分離できません、実際に、しかし探究するためには人はそれらを分離する必要があります。
はい、あなたは恐れなしに我々が快楽を考えたことがあると思いますか?
 我々は決して快楽を考えなかったでしょう。それは賞罰のようなものです。罰が全くなければ誰も報償のことを口にしません。
 はい、分かります。
 そして我々が快楽について話しているとき、私は我々が快楽を非難しているのではないこと、我々は厳格になろうとしたり寛大になろうとしたりしているのではないことを我々は明確にしなければならないと思います。我々は我々が恐れについて行ったように快楽の全構造と性質を研究あるいは検討あるいは探究しようとしています。そして正しく深くそうするためには、快楽を非難したり受け入れたりする態度を脇へ除けなければなりません。自然にそうなります。つまり、もし私が何かを研究したいと思うなら、私は私の性向や偏見から自由でなければなりません。
 “前向きに見る、期待する”ということが、私はそう思います、あなたの言っていることから起こり始めています。
 はい。
 我々は快楽を期待すると言います、我々は人に尋ねさえします、あなたの楽しみは何ですかと。我々は我々が恐らくそれに巡り合わないかもしれないと考えてイライラします。そこで私はあなたのここで言っていることは満足を期待すると暗に言っていると思います。
 その通りです。満足、満足感と達成感です。我々は我々が快楽について話すときそれらを検討します。しかし私は我々がそれを非難しているのではないことを我々は最初からはっきりさせていなければならないと思います。世界中の聖職者たちはそれを非難してきました
 はい、その自由という考え方が多くの宗教的なそれへの取り組み方の中に取り入れられています。人は欲望から自由であると。
 はい。人は肝に銘じておく必要があります、我々はそれを正当化したり、それを保持したり、あるいはそれを非難したりしているのではなく、それを観察しているのであることを。本当に快楽の問題に踏み込んでいくためには、私は人が最初に欲望を見ていく必要があると思います。ものの消費の仕方が商業主義的になればなるほど、益々欲望が大きくなります。あなたはそれを商業主義や消費者主義の中に見ることができます。プロパガンダを通じて欲望が維持されます、育まれます―何て言えばよいのか―火をつけられます。
 火をつけられる、はい。
 あなたは今このことが世界中で起こっているのを見ます。例えばインドでは、私がアメリカよりもインドをずっと良く知っているということではありません、なぜなら私はそこにそれほど長く住んでいなかったからです、しかし私は毎年そこへ行きます、この欲望やその性急な成就が起こり始めています。以前のブラフマン社会の秩序の中にはある種の抑制が働いていました、ある種の伝統的な規律が存在していました、世俗の物事に関心を持たないように言われていました、それらは重要ではないと言われていました。重要なことは真理の発見であり、ブラフマンの発見であり、真実の発見などであると。しかし今はそれら全てが消え去って、今や欲望が燃え盛っています、もっと購買し、二足のズボンでは満足しないで何着も手に入れます。この所有する興奮が商業主義、消費者主義やプロパガンダによって刺激されます。
 沢山の恐怖が、違いますか、商業主義と結び付けられている恐怖が購買者の側にあります、なぜなら快楽は色あせるからであり、それはさらに強い刺激を次に要求するからです。
 それが様々な国で行われていることです、毎年新しい流行が生まれます。このように欲望を刺激することが生じます。ある意味で人々のものの扱い方には、人々のお金を稼ぐために、地位を獲得するために欲望を刺激している様子には本当に全く驚きます、それは高度に洗練されている生の全サイクルであったり、人の欲望を性急に成就する生であったり、そしてもしあなたが成就しないなら、もしあなたが行動を起こさないなら、欲求不満が生じたりすることです。そのようにそれら全てがその中に含まれています。
 あなたはこのことに取り組む仕方は欲求不満に基づいていると、欲求不満それ自体が厳密な意味での動機であると言うのですか?
 はい。
 欲求不満それ自体はあってないものなので、我々はその何もないものそれ自体が満たされることに関心があると暗に言おうとしています。しかしながら事実はその性質上それは叶いません。
 子供たちに関わるときのように―子供たちを欲求不満にさせてはいけません―子供たちに子供たちの好きなことをさせなさい。宜しいでしょうか、私は我々が快楽の複雑な領域へ入っていく前に、我々は欲望の問題を検討する必要があると思います。欲望は非常に活動的で差し迫ってくる本能であるように思われます、いつも我々の中に働いている差し迫った活動であると思われます。宜しいでしょうか、欲望とは何ですか?
 私は私があなたにそれを欲求と関連づけて問えるでしょうか、人が自然な飢えと呼ぶものに対してそのように問えるでしょうか。時々私はここで何らかの混乱が生じるのを感じます。ある人は授業で欲求と欲望について話すとき思うでしょう、もし我々が自然を見るなら、ライオンは自分の欲求を満たすためにカモシカを殺すよう欲望します。ところが私には正しい答えは違うように思えます、それは実態ではないように思えます、ライオンはカモシカをライオン自身の中に取り入れたいと思っていて、ライオンはその欲求を追っているのではないと思えます。
 私は欲求と欲望は共に関連していると思います。
 はい。
 欲求には物理的欲求と心理的欲求があり、それはもっとずっと複雑です。性欲があり、知識欲があり、好奇心があります。私は欲望と欲求は共に商業主義によって、消費者主義によって刺激されると思います、そしてそれが現代の世界の中で活動的に働いている文明の形を作っています―ロシアでもどこでもこの消費者主義が成し遂げられなければなりません。
 はい、我々は計画実行される衰微について話します。
 そうです。それでは欲求とは何ですか、そして欲望とは何ですか? 私には欲求があります、なぜなら私は空腹だからです、自然な欲求です。私は車を見ます、そして私はそれについて沢山のことを想像します、そして私はそれを所有したいと思います、それを運転したいと思います、その力を感じます、速く走ります、それら全てに興奮します。それは別の形の欲求です。
 はい。
 それから賢くて理知的で観察眼のある男性や女性と議論する知的欲求があります、議論して議論の中でお互いを刺激し合うための知的欲求があります。
 はい。
 そしてお互いの知識を比べるのです、ある種の秘かな戦いです。
 ある種の点数稼ぎです。
 その通りです、そしてそれは非常に刺激的です。そしてさらに性的欲求があります、絶えず性について考えている性的欲求であり、繰り返しそのことを考えています。それら心理的そして物理的欲求があり、正常なものも異常なものもあります。達成感と欲求不満があります。それら全てが欲求の中に含まれます。そして私は宗教が、組織宗教が、特異な儀式欲を刺激していないかはっきりしません。
 私はそうしていると思います。敬虔な主張にもかかわらず、これ見よがしの誇示が生じているように私には思えます。
 ローマカトリック教会のミサへ行って見てください、あなたはその美しさを目にします、その色彩の美しさ、その施設の美しさ、全構造が驚くほど劇場的で美しいのです。
 そして一瞬我々は地上の天国を手にしたかのように思えます、しかしそれから我々は外へ再び出なければなりません。
 もちろんです。そしてそれは全てが伝統や言葉の使い方、聖歌、ある種の言葉の連想、シンボル、イメージ、花々、お香などで刺激されます、それら全てが非常に、非常に刺激的です。
 はい。
 そしてもし人がそのことに慣れると人はそれを見逃します。
 おお、はい。私は、あなたが、少なくとも私にはそう聞こえましたが、サンスクリットは言語として途方もなく美しいと言っているとき、考えていました、バガヴァッド・ギーターの聖歌を歌い、そして体を前後に揺すらせ、そしてそれから人はその言葉の意味を学ぶために座って、人は言います、ちょっと待てよ、その言葉そのものが言い表していることに対して我々がそのようにしているとき一体全体何が起こっているのだろうかと。しかしもちろん、それは自己誘引であり、人は美しいことを言語のせいにできません。そしてこれら全てが鼓舞されます、そして私は、あなたが我々のここを見るように暗に示唆していることは、このことを維持していくことの中に途轍もない既得権益があるということだと思います。
 もちろんです。それは商業的に維持されます。そしてもしそれが聖職者たちによって維持されないと、全てのものが崩壊します。そのようにそれは人間をその欲求にしばりつけておく戦いです―それはあなたがそれを見るときとても驚きます。驚くというのは―ある意味嫌悪するということです―人々を食い物にして本質的に人間の精神を破壊するという意味です。
 はい、私は私の授業をしているときこの問題に行きあたってきました。時々、私の暗唱している詩の一節は恐らく適切であると思われてきました。そして私はそれを朗読し始めます、そして私がその終りにくると期待が膨らんできます、耳をそばだてて、体を乗り出します、そうすると私は止めて言わなければなりません、我々は続けることができません、なぜならあなた方は私の言っていることに耳を傾けていません、あなた方はそれがどのように言われているのかに耳を傾けているのですと。そしてもし私が酷い朗読をするとあなた方も耳を傾けません。あなた方の嫌悪感が、ちょうどあなた方の快楽があなた方を今支配しているように、あなたを支配します。そして学生たちは私がもっと詩を朗読しないので私を責めます、そしてそのことで怒るのは学生たちがまだ学ぼうとしていなかったことの完璧な証しです。そうすると我々は私が禁欲的で“おいしいもの”を否定していると学生たちが考える問題にぶち当たります。
 はい、もちろんです。そうすると欲望と欲求があります、我々はそれを少し検討しました、しかし欲望とは何ですか? 私が何かを見ると、すぐに私はそれを手に入れなければならない、ガウンであり、コートであり、ネクタイです、それは所有する感覚です、手に入れたい衝動です、経験したい衝動です、私に途轍もない満足を与える行動へと私を突き動かすものです。その満足は何かを獲得することかもしれません、ネクタイを獲得すること、あるいはコートを獲得すること、あるいは女性と寝ることかもしれません。宜しいですか、それら全ての背後に欲望があります。私は家を欲しがるかもしれません、そして別の人は車を欲しがるかもしれません、他の誰かは知的な知識を手に入れたいと欲するかもしれません。別の人は神や悟りを欲するかもしれません。それらは全て同じです。対象が違うだけで欲望は同じです。人は私を気高いと言い、他の人は私を品性に乏しい、俗っぽい、愚かな奴だと言います。しかし欲望はそれら全ての背後にあります。そうすると欲望とは何ですか? それはどのようにして生じるのですか、この非常に強い欲望はどのようにして生まれるのですか、育まれるのですか? お分かりですか? 欲望とは何ですか? どのようにしてそれは我々一人ひとりの中に起こるのですか?
 もし私があなたを理解しているなら、あなたは自然な飢えに結び付けられた欲求、その種の欲望と今我々が欲望について話していること、時々それが人工的に表現される欲望とを区別しています。私はあなたがそれをそのように言いたいと思うのかどうか分かりません。
 宜しいでしょうか、欲望の対象は様々です、違いますか?
 はい、対象は様々に変化します。
 欲望の対象は個人個人によって、個人の性向や個性や条件などによって様々に変わります。それやこれやあれに対する欲望です。しかし私は明らかにしたいと思います、欲望とは何かを。それはどのようにして生じるのですか? それは極めて明らかだと私は思います。
 欠落感ですか?
 いいえ、私は欲望とは何かと問うています。どのようにそれは生じるのでしょうか?
 人は自分自身に問う必要があるでしょう。
 はい、私はあなたに問うています、それはどのように生じるのかと、何かに対するこの強い欲望があります、あるいは欲望それ自身に抗する欲望があります。それは明白であると私は思います、視覚的な知覚が生じます、それから感覚が生じて、そして接することによって、そこから欲望が生じます。それがそのプロセスです、違いますか?
 おお、はい、私は今あなたの言っていることがはっきりしました。
 知覚、感覚、接触、欲望です。
 そうしてもし欲望が満たされないと、怒ります。全てのことがそうなります。
 その他のあらゆるもの―暴力など―が後に続きます。そこで世界中の宗教的な人々、僧たちが言ってきました、“欲望とは無縁でいなさい、欲望をコントロールしなさい、欲望を抑えなさい。あるいはもしあなたがそうできないなら、あなたはそれをそれに値する何かに預けなさい―神に、あるいは悟りに、あるいは真理や何かに”と。
 しかしそうするとそれは単なる欲望の別の形にすぎません―欲望しない欲望です。
 もちろんです。
 そうすると我々はそれから決して抜け出ません。
 はい、しかし宜しいですか、彼らは言いました、欲望をコントロールせよと。なぜならあなたは神に仕えるためにエネルギーが必要だからです、そしてもしあなたが欲望に囚われていると、あなたは苦難や困難に陥り、それがあなたのエネルギーを消散させるからです。従ってそれを取り逃がさないようにと、それをコントロールせよと、それを抑えよと彼らは言いました。私はそのことをローマでよく見てきました、聖職者たちは聖書を手に持って歩いています、そして彼らは他の何も見ようとしません、彼らはそれを読み続けます、なぜなら彼らはそれが何であれ何かに惹かれるからです、女性であり、素敵な家であり、素敵な外套です、ですから彼らはそれを読み続けていて、決して苦難や誘惑に自分自身をさらしません。そこでそれを取り逃がさないようにします、なぜならあなたは神に仕えるためにあなたのエネルギーが必要だからです。そのように欲望は知覚、視覚、感覚、接触、欲望を通じて生じます。それがそのプロセスです。
 はい。それからそれを強化する記憶の残滓が存在します。
 もちろんです、はい。
 私はあなたの言ったことに感銘しました。その書物はもう私の専門外であり、それは本当に競馬の中で馬につけられるものにしかすぎません。
 遮眼帯! 聖書が遮眼帯になる!
 はい、分かります。しかし私が感銘したのは、決して、決して、従ってそれを静かに決して見ないことです。
 そこなのです。
 欲望自体を見ることです。
 私はかつてインドで僧侶の一団の後を歩きました。彼らは非常に真剣な人たちでした。年配の僧がいて、その周りに弟子たちがいました、彼らは丘を登っていて、私は彼らの後を歩きました。彼らは決して空の美しさや空や山々の途方もない青さ、草に映える光、樹々、鳥たち、水面を一度も見ませんでした―彼らは決して周りを見ませんでした。彼らは頭を下げて何かをサンスクリット語で繰り返し言っていて、自然には全く気づかずに、通り過ぎる人たちには全く気づかずに歩いていました。なぜなら彼らの全生活が欲望をコントロールすることに、彼らが真実への道と考えるものに精神を集中することに費やされてきたからです。そのように欲望はそこでは抑圧的な、制限を課するプロセスとして働きました。
 もちろんです。
 なぜなら彼らは恐れているからです。もし私が顔を上げれば女性がいるかもしれません、私は誘惑されるかもしれません。そうすると我々は欲望が何であるのかが分かります、我々は欲求が何であるのかが分かります、それらは似ています。
 はい。あなたは欲求が欲望の具体的な焦点であると言いますか?
 はい、あなたがそう言いたいのならそう言ってください。しかしそれらは共に一緒に歩みます、それらは同じものの二つの違う言い方です。そこで問題が生じます、欲望をコントロールする必要が一体あるのかということです。お分かりでしょうか。
 はい、私は自分に問うています、なぜなら我々の会話の中で私は学んできたからです、毎回あなたが問いを発するとき、もし私がそれを前に前提として言われてきたことに三段論法的な関係という観点から解釈するなら、私は確かに必要とされる一つの答えには至らないと。
 宜しいでしょうか、規律というのは抑圧の一つの形です、そして欲望のコントロールです―宗教的にも、党派的にも、非党派的にも、それは全てそれに、欲望に基づいています。あなたの欲求をコントロールしなさい、あなたの欲望をコントロールしなさい、あなたの思考をコントロールしなさい、そしてこのようにコントロールすることによって自由なエネルギーの流れが絞り取られます。
 はい、そして驚くのは、ウパニシャッドがとりわけこのコントロールを奨励するものとしてのタパスという点から解釈されてきていることです。
 知っています、知っています。インドではそれは何か幻想的なものです、私に会いに来た僧たち、托鉢僧と呼ばれる彼らは信じられません。何年か前に一人の僧が私に会いに来ました、かなり若い僧でした、彼は神を見つけるために十五歳で出家しました。彼はあらゆるものとの縁を切って法衣を身につけました。そして彼が成長すると、十八歳、十九歳、二十歳になると性欲が激しくなってきました。彼は独身の誓いを立てていました、托鉢僧や僧侶がするように。そして彼は説明しました、日に日に彼の夢の中でも、歩いているときでも、托鉢に行っているときでも、これが炎のように燃え盛っていたと。あなたは彼がそれをコントロールするためにしたことが分かりますか?
 彼は自分自身に手を加えました。宜しいでしょうか、彼の神への思いはとても強烈でした―お分かりですか―観念は現実とは違うのです。
 現実とは違います。
 そうして彼は私に会いに来ました、私がそこで行っていた幾つかのトークを聞いてから彼はやって来ました。彼は泣きながら私に会いに来ました。彼は言いました、私は何てことをしてしまったのかと。私は自分に何てことをしてしまったのかと。私はこれを元に戻せません、私の体は新しく生えてきません、それは取り返しがつきません。それは極端な例です。しかしあらゆるコントロールがその方向に進みます。
 しばしば最初のキリスト教神学者と言われる人、オリゲネスは、私の理解する限り、イエスの言葉―“あなたの手があなたに罪を犯させるなら、それを切り離せ”―を誤解して自分を去勢しました。
 宜しいでしょうか、権威というのは私にとってこのように犯罪的です。それを誰が言おうと問題ではありません。
 そしてあなたが言った僧のように、オリゲネスは後にやって来て、このことを後悔し、それが全く不適切であると分かりました。その僧もあなたに泣きながら言っていたのですか、どうしても全くこの困難をうまく乗り切れないと。
 反対です、宜しいでしょうか、彼は言いました、私は罪を犯しました、私は邪悪な行いをしましたと。彼は彼の行ったことを悟りました、つまり、そのような行為は何事にもならないと。
 何事にもならないと。
 私はとても沢山の実例を見てきました、それほど極端な形のコントロールや否定ではないですが、他の様々な実例を見てきました。その人たちは何らかの観念のために、何らかのシンボルのために、何らかの概念のために自分自身を拷問にかけてきました。そして我々は腰をおろしてその人たちと議論をしてきました、そうするとその人たちはその人たちが自分自身にしてきたことを見始めます。私は官僚機構の上位の人と会いました、そしてある朝彼は起きて言いました、私は他の人々に判決を言い渡しています、そして私はその人たちに言うと思われます、“私は真理を知っています、あなたはそうではないので、あなたは罰を受けます”と。そうしてある朝彼は起きだして自分自身に言いました、“これは全く間違っている、私は真理がどういうものかを明らかにしなければならない”と。そうして彼は辞職して去り、二十五年間真理とは何かを明らかにするために放浪しました。宜しいでしょうか、これらの人々は恐ろしく真剣な人たちです、お分かりですか。
 おお、はい。
 その人たちはマントラと称するそのような馬鹿げたものを安易に唱える人々とは違います。そうして誰かが彼を私の行っていたトークに連れて来ました。彼は次の日に私に会いに来ました。彼は言いました、“あなたは全く正しい、私は真理について二十五年間瞑想してきました、そしてそれはあなたが指摘したように自己催眠でした。私は自分自身の言語的な、知的な方式や構造に囚われていました、そして私はそれから抜け出すことができませんでした”と。お分かりでしょうか。そして彼が間違った勇気を必要とされていたこと、間違った認識を必要とされていたことを彼は認めることができなかったと言いました。
 その通りです。
 勇気や認識ではありません。そうすると、今これら全てを目にすると、野放図な寛大さ、堅苦しいビクトリア朝的な生活様式への反発、それらの馬鹿馬鹿しさ、平凡さ、陳腐さを抱えた世界を目にすると、それへの反射的反応はそれを放棄することです、私はそれに触れないと言うことです。しかし欲望はいつでも煮えたぎっています、あらゆる体の腺組織は働いています。あなたはあなたの腺組織を切り取れません。ですから人々は言います、コントロールしなさい、女性に惹かれてはいけません、それを見てはいけません、なぜなら空は驚くほど美しいので、その美が女性の美になるかもしれないからです、家の美になるかもしれないからです、あなたが心地よく座れる椅子の美になるかもしれないからです。ですから見てはいけません、それをコントロールしなさいと。お分かりですか?
 分かります。
 野放図な寛大さがあり、抑制やコントロールへの反発があります、そうすると神としての観念の追求が起こります、そしてそのためにあなたは欲望をコントロールします。私が会ったもう一人の男性は二十歳で出家しました。彼は本当に全く途方もない人物でした。彼が私に会いに来た時、彼は七十五歳でした、彼は二十歳で出家して、あらゆるものを放棄し、教師から教師へ更に教師へと渡り歩きました。彼は渡り歩きました―それらの名前は言いません、言う必要はないからです―彼は私のところに来て、私に話しました。彼は言いました、私はそれらの人たちのところへ行って尋ねました、神が見つかるように私を助けて頂けますかと。私は二十歳から七十五歳までインド中を放浪してきました。私は非常に真剣な人間であって、私に真理を語って聞かせる彼らの一人ではありません。私は最も高名な人のところへ、最も社会的に活動している人のところへ、神について果てしなく語る人たちのところへ行きました。それらの年月を経て私が家に戻っても、私は何も見つかりません。そしてあなたがやって来て、彼は言いました、あなたは神について決して語りませんと。あなたは神へ通じる道について決して語りません。あなたは知覚のことを話します。“現実”を見て取ることとそれを超えることです。それを超えることが真実であり、“現実”がそうではありませんと。彼は七十五歳でした。
 七十五年間放浪していました。
 ヨーロッパの人たちはそうしません、何年も放浪しません。彼は文字どおり放浪しました、村から村へと托鉢しました。彼が私に語って聞かせたとき私はとても胸を打たれて、ほとんど泣きそうになりました―彼が一生を費やしたことに、人々がビジネスの世界で...するように。
 はい。
 五十年間毎日毎日オフィスへ行って最後に死にます。それは同じことです、欲望、お金、お金、お金、もっと多くのもの、もの、ものです、そして他のことと言えば、それの代替以外の何ものでもありません。
 はい、単なる別の形です。
 そうすると、これら全てを見て、宜しいでしょうか、人は人間が自分自身や他の人たちに行ってきたことのおぞましさが分かります、それら全てを見てみると人は否応なく問いを発します、欲望とどのように折り合って生きるのかと。あなたはそれを避けられません、欲望はそこにあります。私が何かを、美しい花を見るや否や、私は驚嘆します、それを愛します、その香りを嗅ぎます、花びらの美しさに打たれます、その花の品性などを感じます、それを喜びます、そして人は問います、いかなるコントロールも全くせずに生きることは可能かと。
 その質問は正にあなたが話しているそれらの秩序の乱れという意味合いからはぞっとするものです。私はこのことを五十五年間放浪した人のような誰かがあなたのところへ欲求不満を抱えてやって来たときの人が置かれる観点から見ています。そしてあなたがその問いを発するや否や、もしその答えが五十五年間の献身的放浪生活の全てを完全に否定する何かなら、ほとんどの人が正にその場で凍りつくことになると思われます。
 宜しいでしょうか、それも残酷なことです。彼は五十五年間それに費やしてきました、そして突然彼の行ってきたことを悟るのです。誤解の残酷さです。
 おお、はい。
 自己欺瞞であり、伝統の欺瞞であり、コントロール、コントロール、コントロールと言ってきた全ての教師たちの欺瞞です。そして彼があなたのところへやって来て、あなたは彼に言います、コントロールはどんな役割をするのですかと。
 私は私があなたの“それに踏み込む”と言う理由の非常に鋭い意味を理解し始めていると思います。もし彼がその最初の衝撃を乗り越えないと、彼はそれに踏み込んでいこうとしません。
 そのように我々は話し何時間も議論し、我々はそれに踏み込んでいきました。次第に彼は見て取りました。そのように、宜しいでしょうか、もし我々が欲求と欲望の性質と構造を理解しないなら、それらは大なり小なり同じものですが、我々は非常に深く快楽を理解できません。
 はい、私はなぜあなたがこのような土台を我々がそのコインの反対側を見る前に確立したのかが分かります。
 なぜなら快楽と恐れは全ての人間の中で活動的な二つの原理だからです。そしてそれは賞罰に由来します。子供を育てるのに、叱ってばかりではいけません、子供を褒めなさいと、お分かりですか。心理学者たちはこのようなことを奨励しています。
 おお、はい、彼らはパヴロフの犬の実験に勇気づけられています。
 犬あるいはガチョウの実験。これをしなさい、あれをしてはいけません。そのようにもし我々が恐れを理解しないなら、探求するという意味で理解しないなら、その真理を見ないなら、そして精神がそれを超えていけるかどうかを理解しないなら...それは恐れから余すことなく自由でいることです、我々が先日議論したように、そしてまたそれは快楽の性質を理解することです。なぜなら快楽は途方もないものだからです、美しいものを見てそれを喜ぶことです―それのどこが悪いのですか?
 どこも悪くありません。
 しかしそこに含まれていることを見てください。
 はい。精神はここでトリックを仕掛けます。私は自分自身に言います、私はそのどこが悪いのか分からない、従ってそれは何も悪くないと。私は必ずしもそれを全く信じません。そして私は少し前にあなたが欲望を否定する力による試みについて話しているとき考えていました。
 欲望を否定することは何らかの力を探し求めることです。
 あなたはまだ現実のものになっていない快楽を確かなものにするために人は力を探し求めると言いますか?
 はい、はい。
 分かります。それは恐ろしいことです。
 しかしそれが現実です。それが起こっていることです。
 おお、はい。しかし我々は子供のころからそう言われています。
 正にその通りです。ですから、雑誌を手に取ってください、広告が載っています、半裸の女性などです。そのように快楽は人の中の非常に活動的な原理です、恐れと同様に。
 おお、はい。
 そして再び社会は、それは非道徳的なものですが、言ってきました、コントロールせよと。人の側は、宗教の側は言います、コントロールせよと、そして商業主義の側が言います、コントロールするな、楽しみなさい、買いなさい、売りなさいと。お分かりですか。そして人間の精神は言います、これで良いと。私自身の本能は快楽を手にすることだから、私はそれを追い求めます。しかし土曜日、日曜日あるいは月曜日に、あるいは何曜日であろうと、私は神の前にへりくだります。お分かりでしょうか。
 はい。
 そしてこのゲームが続きます、永久にそれは続いてきています。そうすると快楽とは何ですか? なぜ快楽はコントロールされなければならないのですか? 私はそれが良いとか悪いとか言っていません、どうか最初から非常にはっきりさせておいてください、我々は快楽を非難しているのではありません、我々はあなたがそれに手綱をかけてそれを制御しなければならないとか、それを自由にさせなければならないとか、それは抑えなければならない、あるいは正当化させなければならないとかと言っているのではありません。我々はなぜ快楽がそれほどまでに途方もなく生の中で重要になってきているのかを理解しようとしています。悟る快楽、性的快楽、所有する快楽、知識を手にする快楽、力を得る快楽などです。
 そして究極的な快楽として考えられる天国が...
 究極の快楽、もちろんです。
 ...普通は神学的に未来の状態として考えられます。
 はい。
 これは私にとって非常に興味深いのです、我々が耳にするゴスペルの中でさえ、“名簿が読み上げられると、あそこに私はいるでしょう”と歌われます。“それがあそこに読み上げられるとき”というのは名簿の最後という意味です。そうしてそのとき私は“十分に済ましていない”という恐怖が生まれます。
 その時に。
 はい、そうして私は節制して私の天国への保険の掛け金を土曜日と日曜日に払うようにしています、あなたが言った週の二日のことです。しかしもし私が月曜から金曜まで快楽に浸っていたらどうなりますか?
 そのように、快楽、楽しみ、そして喜びがあります。それらの三つと幸福があります。宜しいですか、喜びは幸せなことであり、喜悦であり、その嬉しさであり、途轍もなく楽しい感覚です。そして快楽の楽しさとの関係や喜びや幸せとの関係はどういうことになりますか?
 はい、我々は恐れからかなり遠くまで歩を進めてきています、しかし私は進めていることを我々がそれに背を向けていると言っているのではありません。
 はい、我々はそれに踏み込んできました、我々はそこからここまでの動きを見て取ります、それは快楽“から離れている”のではありません。何か非常に美しいものを見るとき嬉しいという思いが湧き上がります、嬉しさです。もしあなたが殊のほか鋭敏なら、もしあなたがひたすら観察しているなら、もし自然に触れる感じがあるなら、それは非常に少数の人たちしか不幸にも持ち合わせていないけれども、人々はそれを刺激するかもしれないけれども、自然に実際に触れるというのは、あなたが何か本当に驚くほど美しいものを見るときです、谷と共に影が織りなす山を見るようなときです、そうするとあなたはそれが何であるのかを知ります、それは途轍もなく嬉しいことです。宜しいですか、何が起こるか見てください、その瞬間はそれ以外のものは何もありません。つまり、山や湖の美しさであり、丘の上にたたずむ単独の樹木の美しさです、そのような美が私からあらゆるものを叩き出しました。
 おお、はい。
 そしてその瞬間には私とそれとの分断はありません、大いなる純粋な感覚と喜びがあります。
 その通りです。
 それでは何が起こるか見てください。
 私は我々が我々の新しい段階へ入っていくところにやってきたと思います。このことが否応なく、しかし楽しくないというわけではなく、そう進んできたことは驚くことです。次回の我々の会話で私はこのことを追究したいと思います。
                            1974年2月21日
                             中野 多一郎 訳