はからない精神

 

マドラス・トーク

思考の性質と内容

 我々は我々の日常生活に関するとても沢山のことを一緒に話し会っていきます。これは普通に理解されているような講話ではありません、これは世界で外面的に、環境的に起こっていることだけではなく、人間に起こっていることにも関心を抱く二人の友人の間の会話です。我々の頭脳に、我々の振る舞いに何が起こっているのですか、なぜ我々人間は、この地上に、恐らく百万年かそれ以上生きてきた我々人間は、なぜ根気をなくし、誠実さを失って、これほどまでに堕落してきたのですか? 我々は単に一連の考えや何らかの結論や何らかの新しい原理や価値を聞くだけではなく、一緒にあなたと話し手は外の世界で何が起こっているのか、そして我々自身の日常生活の中の我々に何が起こっているのか、我々の内面的な生に何が起こっているのかを、間近に、躊躇しながら、注意深く検討していきます。そのように、我々はこれら全てのことについて一緒に会話をしていきます。もしあなたがあなたの意見に固執するなら、それが何気なしであろうと執拗であろうと、あなたがそれに固執するなら、二人の間の会話やコミュニケーションは生まれないでしょう。そのことはこれらのトークの正に最初からはっきりと理解されていなければなりません、あなたと話し手はいかなる宗教的な観点からも、共産主義者、社会主義者、マルクス主義者、保守主義者などの観点からも、左翼あるいは右翼的な観点からも、いかなる国家的な観点からも検討しようとしているのではありません、我々は自由な中で検討していこうとしていること、そのことが正に最初からはっきりと理解されていなければなりません。検討するためには、人は自由な精神を、何らかの意見に固執していない精神を、伝統に囚われていない精神を、いかなる宗派にも、いかなる秩序にも、いかなる宗教的集団にも、いかなる研究機関にも属していない精神を持たなければなりません。戦争の脅威が、核戦争あるいは通常の戦争の脅威が存在します、あらゆる宗教の堕落があります、倫理的な活動というものはありません、そして我々のほとんどが表面的に生きていて、知的に生きていて、決して検討しません、決して問いません、決して疑いません、それらのことが世界中で起こっています。そして検討するためには、探求するためには、観察するためには、非常に明瞭な精神と心が必要です、いかなる伝統にも囚われていない頭脳が必要です。頭脳はすでに条件づけられています。人間の頭脳は何千年と進化してきました。もし我々が我々自身の感覚的な反応の活動に気づかないなら、世界で起こっていることを検討することや観察することはほとんど不可能になります。
 一緒に話し合いましょう、二人の人間が話し合うように、友人として話し合うように、いかなる考え方も、いかなる教条的論争的結論もお互いに押し付け合うことなく話し合いましょう、お互いにこれまで知り合ってきた友人として、涼しい気候の中、素敵な樹の下に腰をおろして、世界を見ながら一緒に話し合いましょう。世界とは何ですか? そこで起こっていることは何ですか? 誰がそれを作り出してきたのですか? なぜ人は現にあるような人に、無思慮で、不注意で、無関心で、いかなる愛ももたず、残酷で、暴力的になったのですか? なぜ我々はこのようになったのですか? あなたは我々が受け継いできたもののせいにするかもしれません、あなたは我々の環境、我々の文化や社会のせいにするかもしれません。しかし誰がこの社会を作ってきたのですか? 我々の誰もが、過去の世代と現代の世代がそれに力を貸しています。我々がこの世界を作ってきました、そしてその事実から我々は逃れようがありません。我々の誰もがそのような無秩序に、その混乱に、その秩序の乱れに、進行している無政府状態に力を貸してきました。
 思考は世界をナショナリティで分断してきました、そしてナショナリティは戦争の原因の一つです。ナショナリティが、それ自身の安全性を追い求める思考によって生み出されたナショナリティが、世界をイギリス人、フランス人、イスラム教徒、パキスタン人、ロシア人などに分断してきました、そして思考はこのような分断を通じて戦争を起こしてきました、他の人間たちを殺すための戦争を準備してきました、思考はこのことに責任があります。それが、その安心、安全を追い求める中で、どこかに安心感を見つけるために、それは家族から、共同体から始めます、そしてより大きな集団、より広い集団へと向かい、それによって何らかの種類の安心、保護、安全を見つけたいと思います。それは小さな集団から始めてナショナリティに行き着きます。あらゆる政府が、人々をナショナリティに、集団―ヒンズー教徒とイスラム教徒、中国人とロシア人、アメリカ人とイギリス人とフランス人など―に分断するこのような狂気のシステムを支持しています。思考は宗教的な分断に責任があります―キリスト教徒、仏教徒、ヒンズー教徒、イスラム教徒などです。思考は驚くべき大聖堂、偉大なモスク、素晴らしい寺院を作ってきました。思考はそれらの寺院やモスクや教会の中に思考によって発明されたものを備えました―儀式、教条、あらゆる式典など。思考は途方もない技術の発達にも責任があります。我々の中の非常に少数の者しか技術的世界で何が進行しているのか知りません、恐ろしいことを彼らは生物学的に行っていて、人間を破壊する強力な道具を発明しています―これは技術の巨大な制限のない活動です、そしてまた思考は、平和の名目のもとに、国家の名目のもとに、神の名目のもとに、大量殺戮を組織してきました。そのように、深刻な争いが進行しています、そして思考はそれに責任があります。思考は大いなる衛生上の便益、通信手段、高速交通手段などそれらをもたらしました。頭脳には無限の能力があります、そしてその能力、思考のそのエネルギーが、この技術的世界を、それが含むあらゆる問題と共に作り出してきました―社会的にも環境的にも―そしてまた思考は、我々の日常生活の中に、我々のお互いの関係性の中に、男と女の間に、大混乱を作り出してきました。我々は言っています、思考にはそれが世界で生み出してきた全ての悲惨に責任があると。思考は人間に偉大なことも行ってきました。どうか話し手の言っていることを否定したり受け入れたりしないでください。彼はあなたが検討するために、問うために、疑うために、このことを提示しています、あなたがそれを受け入れたり同意したりするためではありません。
 それでは、我々は、思考の根源は何か、なぜ思考は世界のこのような大混乱を作り出してきたのか、思考はその友として愛を手にすることができるのかどうか、それとも愛は思考の活動とは全く異なるのかを、一緒に検討しなければなりません。いかなる権威的な感覚とも無縁に、いかなる集団にも属さないという感覚で、現在の混乱や無秩序を乗り越えることは可能ですか? どうか耳を傾けてください、同意しないで、明らかにするために耳を傾けてください。我々は共に教える者でもあり弟子でもある必要があります。その“弟子”という言葉は学ぶ者を意味します。そしてまた我々は教える者でもなければなりません。正に学ぶという行為が我々に教える責任をもたらします。そのように、我々は一緒に学ぼうとしています、自分自身の伝統にしがみつかないで、自分自身の意見や結論にしがみつかないで、一緒に学ぼうとしています、それらは我々が学ぶことを妨げます、話し手から学ぶのではなく、観察して学ぶのです、思考の性質と頭脳の性質を探究して学ぶのです―生理的な頭脳ではなく、条件づけられている頭脳の活動です。そこで、最初に、我々はなぜ頭脳が、何千年も進化してきた頭脳が、あらゆる種類の出来事、思いがけない出来事を経験してきた頭脳がそのように限られたものになっているのかを一緒に検討していきます。それは技術的な世界では限りがありません。それは途方もない速度で進行しています。
 そのように、一つの方向では、技術的な方向では、頭脳は無限の領域を手にします。頭脳は人を月に送り込みました、頭脳は人間を殺戮する恐ろしいものを発明してきました。そしてまた技術は人に大いなる慰安、衛生上の恩恵、コミュニケーションなどをもたらしました。しかし頭脳は限られています、なぜならそれは他の方向へは向かえなくて、その方向だけだからです。それは現在のところ内面へ向かうことができません、そしてもしそれが一方向、外面的な方向へ、そのような途方もない活力で、そのような途方もないエネルギーで向かうことができるなら、それは他の方向へも、精神の世界へも、心理的な世界へも向かうことができます。
 我々は一緒に心理的なあらゆる世界を問おうとしています、なぜ我々は、それら何千年も経た後で、互いに争っているのか、なぜ人はそれほどまでに惨めに、不幸に、不安に、不確かに、偽善的に、不正直になっていて、堕落していて、多くのことに苦しんでいるのかを一緒に問おうとしています。それは我々の内面世界です、非常に少数の人々しか深く根本的に探究してこなかった心理的な領域です。心理学者や理論家、分析者、心理療法医は我々の人間の問題を全く解決してきませんでした。その人たちはそれについて膨大な量を書いてきましたが、我々は依然として現にあるとおりの我々です。それでは、どのようにして我々はあなた自身である何かを、あなたの意識である何かを探究するのですか? あなたは潜在意識と顕在意識の両方です、外的な活動を指示する内面的な活動の全領域です。もしその内的な活動が秩序正しくないなら、あなたは、我々が行ってきたように、何らかの社会を作り上げますが、それは全く秩序の乱れたそれです。あなたに内面的な秩序がないなら、あなたは外面的な秩序を作り出すことはできません。人はこの事実を悟りましたか、外面的な無秩序、戦争、混乱、その残忍性、その暴力、その憎悪は、我々自身の生の、我々自身の秩序の乱れの結果であること、我々自身の意識の中の争いの結果であることを悟りましたか? これら全ての悲惨、混乱、不安は消滅しえますか? この問いかけ、我々の意識の内容を根本的に変えることが可能かどうかは、核戦争あるいは中性子戦争あるいはそれがどのような戦争であろうと、それらよりも遥かに真剣なことです。危機はそこにあります、世界の中にではありません、核戦争ではありません、恐ろしい分断ではありません、進行している残念性ではありません。危機は我々の意識の中にあります、危機は現実の我々です、我々がそのようになっていることです。もし我々がそのような危機に向き合わなければ、そのような挑戦に相対しなければ、我々は戦争を、破壊を継続することになります、そして外面的な無秩序が生まれるでしょう。
 外面的な乱れ、不確かさ、安全性の欠如が生じると、人はイスラム教世界が行っているように伝統に回帰します。人々はコーランに回帰します、そしてキリスト教、ヒンズー教世界ではとても沢山の書物があるので、それらの人々は書物に回帰できなくて伝統に戻ります。我々は今あらゆるところで民族的な神を手にします、なぜなら世界が不確かで、危険になっているからです、そして我々はみな同じことを行っています。我々は何らかの集団、何らかのセクト、何らかの土俗的な神に従いたいと思います。それでは、人はどのようにして心理的な世界を、つまり意識の世界を問うのでしょうか? その意識の内容は現実のあなたです。それは教条的な言い方ではありません。それは結論ではなくて事実です。現実のあなたがあなたの意識の内容です。あなたの信念、あなたの意見、あなたの経験、あなたの幻想、迷信、あなたの神々、あなたの恐れ、あなたの快楽や孤独、悲しみ、そして大いなる悲哀と死の恐怖です。それが現実のあなたです。つまり、あなたの意識の内容が現実のあなたです。あなたはあなたの意識の内容を様々な部分に分断できます、超意識を発明できます、しかしそれは依然としてあなたの意識の内容です。あなたは瞑想できます、足を組んで座って、それら全てのことを行うことができます、しかしそれはあなたの意識の一部です。そして、あなたの意識の内容は思考によって作り上げられます。どうかこの状況を検討してください。我々は言っています、あなたの意識の内容は思考によって、考えることによって、あなたはヒンズー教徒あるいはキリスト教徒、マルクス主義者、毛沢東主義者であるなど、あなたのそうであると思いたいというものが何であろうと、そのように考えることによって、あなたの意識の内容は作り上げられます。思考が、限られている思考が、意識の中に限界をもたらしてきました。それは、それが拡大できて拡大する中で実験できると考えることによって、意識を拡大できます。しかしそれは依然として思考の活動です。  我々の問いかけは、頭脳―その全ての感覚的反応を伴った頭脳、思考の中心である頭脳―の活動であるあなたの意識が、そのような思考が恐れをもたらしてこなかったのかどうか、時間の中の活動でもある思考が我々の意識の全内容に責任があるのかどうかです。我々は言っています、思考は限られていると、なぜならそれは知識の産物だからです。それは記憶として頭脳に蓄えられた経験、知識の結果であり、その産物です、どのような挑戦が起こっても、その反応は思考によるものです。そして知識はいつも限られています。いかなるものについても完全な知識はありません。科学的な知識は限られています。どのような領域であれ、あらゆる種類の知識が限られています―生物学的なそれであれ、社会学的なそれであれ、技術的なそれであれ、そしてあらゆる神々と共に宗教の世界であれ、その知識は限られていて、全ての神々が思考によって発明されます。どうか、それを検討してください。思考が地上の全ての神々を発明してきました、そして思考はそれ自身が発明してきたそれを崇拝します、そしてこれをあなたは宗教と呼びます。その言葉の根源的意味は極めて難しいのです、そしてそれは、その言葉の根源が何かは、確立されていません。そのように、思考は限られています、その活動が何であれ、それはいつも限られています、そしてそれが限られているので、それは必然的に問題を作り出すに違いありません―技術的な世界の問題だけではなく人間関係の中の問題も作り出すに違いありません、そしてそれを理解することの方が技術的な世界を理解することよりも遥かに重要です、なぜなら我々人間はお互いに絶え間なく争っているからです、同意したり、意見が食い違ったり、信じたり、信じなかったりするからです。それは人間同士の絶え間ない争いです。それは思考によって作り出されます。そして問題を作り出しておいて、思考はそれらを解決しようとして問題を増大させます、それが実際に起こっていることです。
 もし人がそのことを見て取るなら、知的にではなく、観念や結論としてではなく、現実として、事実として見て取るなら、人は我々が手にしている唯一の装置は思考であることが分かります。どうか思考の性質と内容を理解してください。思考はあらゆる感覚的な反応であり、その想像であり、あらゆる性的なシンボル、性的に思い描いたものなどであり、憂鬱な感情、高揚感、不安などです、これら全てが限られた思考の結果です、なぜなら思考は限られた知識の産物だからです。どのようなものについても完全な知識というものはありません。我々は全く異なる問いかけをしています、つまり、異なる装置はあるのか、ということです。もし思考が人間の問題を解決する装置ではないなら、その異なる装置とはどういうものですか? 思考は使い古した、鈍くなった装置です。それは巧妙かもしれません、それはある種の問題を解決するかもしれません、しかしそれが人間の中に、人間同士の間に作り出してきた問題を解決するのに、我々の日常生活の中の、関係性の中の我々の問題を解決するのに我々が使ってきた思考的装置は、そのような装置は、鈍磨し、限られていて、擦り切れています。我々が新しい装置を発見するのでなければ、人間の精神の根本的、徹底的変化はありえません。そこで、我々はそのような装置の性質、その質、その構造、その美を一緒に検討していきます。しかし我々が検討していく前に、人は、我々が今手にしている思考としての装置が、その行き着くところまで来てしまったということを完全に了解していなければなりません。それは人間関係の問題を解決できません、そしてそのような人間関係の中に争いが生じます、そしてそのような争いから我々は我々の貪欲、我々の残忍さ、我々の暴力でこの社会を作り上げてきました。
 我々は思考が我々の人間の問題を解決する装置ではないことを絶対的に、動かしようがなく了解している必要があります。我々は我々の問題を解決するあらゆるメソッドを試みてきました、我々は何らかの理想に、ある種のグルに、何らかの概念に、何らかの結論に我々自身を託してきました―我々はそれら全てを行ってきました。我々はあらゆる種類のリーダーに従ってきました―政治的リーダー、宗教的リーダー、様々なまがいもの、多くのグルたちです。そして我々は依然として現にあるとおりの我々です、少しだけ修正されて、少しだけ注意深くなり、少しだけ親切になっていますが、基本的に、何百万年を経てもなお、我々は太古のはじめからそうであるように現にあるとおりの我々です。そして我々が手にしてきた、それは思考ですが、装置はもはや我々の問題を解決できません。このことは非常にはっきりしています、そしてそのためには大いなる観察、疑問、疑い、問いかけが必要です、そして決して権威を受け入れないことです―書物の権威、我々の社会の序列階層的構造、研究機関の権威、「私は知っている」と言う人たちの権威です。新しい質の性質と新しい装置の構造を検討している精神は権威から全く自由でなければなりません、警察官の権威、政府の権威のことではありません。
 そのように、何かを検討している精神には大いなる感受性、自由が必要です、それは安定している、ふらふらしない、いい加減ではない頭脳を要求します。私はあなたが我々の精神がいい加減であることに気づいているかどうか知りません。我々はあるグルから別のグルへ移ります、特にこの国ではそうです。我々は何事も我慢します―埃、汚れ、不正、死んでいる伝統、そして絶対的に無意味な全ての寺院、そしてそれらが世界中に広がっています。あなたはこれらを見ます、あなたはこれらを観察します、そして精神、頭脳が、そのためには、途方もなく自由でなければなりません、精神、頭脳に大いなる感受性があるのでなければなりません。私はあなたが我々の感覚がどれほど限られているか気づいたことがあるのかどうか知りません、感覚のことです、視覚的に、目によって観察すること、聞くことです―他の人の言っていることを完全に聞くために言われていることをあなたが即座に理解すること、共感し、感情移入すること、協力する感情、愛情、愛が生まれることです。我々はそれをここでは行っていません。しかしあなたは神を愛します、あなたは寺院へ行くことを愛し、生命のない灰を身にまとい、何らかの民族的な神に従います、なぜならあなたは恐れているからです、そして恐れがあるところには、問いかける自由はありません。
 そのように、我々は我々の日常生活について、我々の争い、我々の孤独、我々の絶望について話しています、そしてそれらのいずれもが思考によっては解決されません。そうすると我々の問題を解決する装置は何ですか? 話し手があなたに答えるのを待つのは止めてください。それでは話し手があなたのグルになります、あなたのリーダーになります、話し手はあなたのグルには、あなたの権威にはなりたくありません、そうではなく一緒に行きます、人間に関心がある二人の人間として我々は一緒に行きます、なぜなら結局のところあなたが他の全ての人間であるからです。他の全ての人間もあなたと同じ意識を持っています。世界中のあらゆる人間が苦しんでいます、不安です、不確かです、混乱しています、涙を流しています、孤独です。あなたの意識はあなたのものではありません、それは他の全ての人類の意識でもあります。そのようにあなたが人類です。それは単なる知的な、論理的な、分析的な結論ではありません。それは感じられる、本当に理解される、生きられる事実です、あなたは分離した人間ではありません、あなたは一個人ではありません。それは飲み込むのが苦い薬です、なぜなら我々はみな我々が自分自身のささやかな頭脳をもった個人であると考えるからです。それが我々の条件づけです、我々の一人ひとりが分離していると考えることです、しかし我々はそうではありません。我々は何千年もの人間の結果です―人々の苦しみ、孤独、絶望、興奮、喜び、セックスなどです。あなたが考えること、他の人たちが考えること、偉大な科学者が考えることです、そして教育を受けていない村人も同様です、貧しくて飢えていて、朝から晩まで働いている人々も同様です。そのように思考はあなたの個人的な思考ではありません。ただ思考することがあるにすぎません。あなたはある仕方で考えるかもしれませんし、他の人は別の仕方で考えるかもしれません。それは依然として思考です。そのように、考える意識はあらゆる人間によって共有されています。そして人が本当にその根本的な真理を悟ると、あなたの全活動が変わります。そうするとあなたは全ての人間に関心を持ちます、それは、あなたの息子、あなたの隣人、あなたの妻、あなたの夫、遠く離れている人のことを意味します。
                                               1982年12月25日
                                                       マドラス
                                                 中野 多一郎 訳