はからない精神

 

カルカッタ・トーク

人間の条件づけ

 正に最初から、我々は我々の関係を確立する必要があります。これは一般的に理解されているような講話ではありません。講話はある特別なテーマについて教授するという講演です。これはあなたと話し手との間の会話です。話し手はあなたに何をすべきか、何を考えるべきか、どのようにあなたは振る舞うべきかなどを述べているのではありません。これは二人の間の会話です、世界中で何が起こっているのかに関心のある二人の会話です、人間に何が起こっているのか、ある特別な人間ではなく、世界中の人間に何が起こっているのか、人間が人間に何をしているのか、人間は他の人たちに何をしてきたのか、世界中で正に何が起こっているのか―世界のある特別な地域ではなく、地球上の人間に何が起こっているのか―に関心を持っている二人の間の会話です。
 人と会話をするためには、その中に親しみのある真剣なコミュニケーションが生まれるためには、我々は聴き方を学ばなければなりません。我々は他の人にめったに耳を傾けません。我々は自分自身の考え、自分自身の問題、自分自身の特殊な観念や結論を推し進めるので、他の人に耳を傾けるのが非常に難しいのです。我々はあなたに耳を傾けることを勧めています。霊妙な聴き方があります。我々はとてもたくさんのことを一緒に話し合おうとしています―戦争の状態、分断されている国々、分断されている集団、人間関係など。我々は恐れや快楽の問題、人間の思考の複雑さを一緒に話し合おうとしています。我々は悲しみが止むのかどうか、死の意味すること、そして死の複雑さを一緒に話し合おうとしています。我々は宗教とは何か、瞑想とは何か、そして神聖なもの、永遠なものがあるのかどうかも一緒に話し合おうとしています。我々はそれら全てのことを一緒に話し合おうとしています。そして人はこれら全てに耳を傾けるすべを手にしなければなりません、あなたの全ての伝統に照らして、あなたの全ての知識に照らして考えるのではなく、あなたに何かを伝えている他の人に耳を傾けることです。そうするとコミュニケーションが単純で容易になります。しかしもしあなたが一緒に考えていないなら、そのように考えることは極めて骨の折れることですが、あなたと話し手は互いに異なる方向を見て考えていることになるでしょう。宜しいでしょうか、霊妙な聴き方があります、話し手の言っていることを解釈するのではなく、その言葉に、その言葉の内容に、その言葉の意義と深さに耳を傾けるのです。我々は普通の日常的な言葉を使っています。特殊な言葉を我々は使っていません、専門的なテーマを我々は話していません。我々は人間と色々な問題のことを話しています。言葉には深さと意味があります、そして我々は英語を話していて、いかなる神秘的な言葉も使わないで日常的な言葉を使っています。あなたと話し手が正しい関係性を確立することが重要です。彼はグルではありません。彼はあなたに何を考えるべきか、どう考えるべきかを教えようとしているのではなく、一緒に我々は正に世界中の人間の活動を観察しようとしています、なぜ彼らが現にあるとおりの彼らになっているのかを観察しようとしています。
 我々はなぜ人間は現にあるような人間になっているのかを一緒に見ていこうとしています―残酷で、破壊的で、暴力的で、観念的になっている人間を、そして人間は技術的な世界ではほとんどの我々が気づかないような驚くべきことを行っています、なぜ何千年ものあいだ戦争をしてきて、涙を流してきて、なぜ人間は、長い間、実際にこのように振る舞っているのかを一緒に見ていこうとしています。人は世界をそれぞれのナショナリティに分断してきました、人は世界をカトリック教徒、プロテスタント教徒、ヒンズー教徒、イスラム教徒などとして分断してきました―宗教的に。アラブ人とイスラエル人、ヒンズー教徒とイスラム教徒などの分断があるところには、分断があると争いがあるに違いありません。これは自然な成り行きです、そしてそれが実際に世界で起こっています。なぜこの分断が生じるのですか? 誰がこれをもたらしたのですか? なぜ人間は大いなる経験を経ているにもかかわらず、大いなる知識を手にしているにもかかわらず、壮大な技術的進歩を遂げているにもかかわらず、現にあるような人間なのですか、なぜ人間は大なり小なり四万年間現にあるような人間でいるのですか、なぜですか? それは我々の精神が、我々の頭脳が、プログラムされているからですか、コンピューターのように。コンピューターは専門家たちによってプログラムされています、そしてそれは莫大な情報を与えられて、おそらく人間よりも、よほど素早く、よほど迅速に繰り返し機能することができます。それは、この世界のあらゆる人間が、ベンガル人として、イスラム教徒として、ヒンズー教徒などとしてプログラムされてきているからですか? あなたの頭脳はプログラムされていますか、伝統的な、狭い、限られた考え方をするようにプログラムされていますか? 我々の頭蓋骨の中の頭脳は限られています。しかしそれは途方もない発明をする能力を、途方もない技術的発展を成し遂げる能力を持っています。恐らくほとんどの我々は生物学の世界で、技術的な世界で、戦争の世界で何が実際に進行しているのか知りません、なぜならほとんどの我々が自分の日常生活に、自分自身の特殊な問題に、自分自身の目的の成就に関心があるからです。そのように、我々は、一般的に、人間が一方向で成し遂げている壮大な進歩を、技術的な世界の進歩を忘れています、そして全く、完全に、心理的な世界を、人間の振る舞いの世界を、意識の世界をおろそかにしています。これら全ての要因は何ですか? なぜ人間はキリスト教徒として二千年間プログラムされてきて、何らかの教義を信じ、何かを信仰をして、ただ一人の救世主を追い求めているのですか、そしてイスラム教徒もなぜこれまで千年かそれ以上にわたってプログラムされてきて、何らかの原理を信じ、自らをイスラム教徒と呼ぶのですか、そしてなぜヒンズー教徒はおそらく三千から五千年の間プログラムされているのですか? そのように我々の頭脳は条件づけられています。人は我々の頭脳がどのように活動し、考え、見ているのか、本当に分かりますか? 限られているところには争いが起こるに違いありません。
 我々の頭脳はこうであるように或いはそうであるように条件づけられています、ある仕方で振る舞うように、楽しむように、苦しむように、恐れや不確かさ、混乱そして死の究極的な恐怖などの大変な重荷を背負うように条件づけられています。我々はそのように条件づけられています、そしてある人々の一団がいて、教授たち、学者たち、著述家たち、マルクスをグルとする共産主義者たちがいて言います、人間の頭脳はいつも条件づけられるでしょう、それは決して自由になりえません、あなたはその条件づけを環境的な影響によって、法律によって修正できるでしょうと。それはいつも修正できますし、ここやそこを変えられます、しかし実際には人間の頭脳は決して自由にはなりえません。どうかそのことの意味を理解してください。従って、専制政府は人間の思考をコントロールしようとして自由に考えることを許そうとしません、もし人が自由に考えようとするなら、人は精神病棟へ、強制収容所へ送られます。経験や知識で条件づけられてきた人間の頭脳が、そのような頭脳が自由になりうるのかどうか、恐れを抱かなくなりうるのかどうか、条件づけされないことがありうるのかどうかを自分自身で明らかにすることがとても重要です。条件づけがあるところには争いがあるはずです、なぜなら全ての条件づけは限られているからです。このことは宜しいですか?
   一緒に話し合っているとき、あなたは自分自身の思考に気づいています、自分自身の反射的反応に、自分自身の反応に、それらがいかに限られているかに、それらがいかに条件づけられているかに、あなたがいかに過去の知識に依存しているかに気づいています。あなたはいかにあなたの生が非常に狭く、かなりいい加減で、混乱しているかが分かります。もし人が自分自身の内面的な全ての活動に気づくなら、自分の思考、自分の感情、自分の反射的反応に気づくなら、あなたはいかにあなたが条件づけられているか、いかにあなたが限られているか自分自身で発見するでしょう。あなたがそのような事実を認識すると、あなたはそのような条件づけの、そのような限界の成り行きを悟ります。ヒンズー教徒やイスラム教徒としての限界があるところではいつでも争いがあるに違いありません。夫と妻との間の分断があるところではいつでも争いがあるに違いありません。そして世界中の人間が、このようなあらゆる進化の後に、依然として互いに争っています。
 どうかこれらのことを検討してください、なぜなら我々は人間としてのあなたの生に関心があるからです。そしてその生は、我々の日常生活は、途方もなく複雑に、途方もなく危険に、難しく、不確かになっています。人間の未来は本当に危機に瀕しています。これは脅しではありません、これは悲観的な見方ではありません。危機は物理的なそれだけではなく、我々の意識の中にも、我々の存在の中にもあります。ですから、一緒に話しながら、これら全てのことに気づいてください。気づくとき、あなたは発見し始めます。あなたは自分自身でどうしてあなたの生がそのように苦痛になるのか、そのように不安になるのか、そのように不確かになるのか明らかにし始めます。もしあなたがそのように気づくなら、あなたはもっと深く進めます、しかしもしあなたが単にそれらの言葉を聞いているだけなら、それらの言葉には非常に僅かの意味しかありません。言葉には何らかの意義があります、しかしもし人が言葉の中に生きるなら、ほとんどの人々がそうするように、シンボルの中に、神話の中に、ロマンチックなナンセンスの中に生きるなら、我々は生をお互いにとって益々難しいものに、益々危険なものにします。ですから、どうか、明らかにするために、問うために、疑うために耳を傾けてください、そうしてあなた自身の頭脳がそれ自身に気づくようにしてください。我々は問うています、なぜ人間は、世界的にこの上もなく驚嘆すべき技術を発達させてきた人間は、これまでの四万年間、大なり小なり心理的に内面的に同じなのでしょうかと。内面的には、我々は色々なシステムを持っています、我々は色々な理想を抱いています、我々はいわゆる神聖な書物を全て手にしています、しかし我々は変化を根本的に生み出していません、心理的な革命を生みだしていません、そして我々はそれを問おうとしています―頭脳自身の中に余すことのない変質を生み出すことが可能かどうかを。
 我々は人間の振る舞いの根本的な変化について話しています、そうして人が現にそうであるように自己中心的ではなくなる根本的変化について、世界のこのようなおびただしい破壊をもたらしている自己中心的な振る舞いの根本的変化について話しています。もし人が気づくなら、我々はそのような条件づけが全く変えられるのかどうかを、そうして人が完全に自由でいられるのかどうかを問い始めることができます。宜しいですか、人は自由に好きなことを行うと考えます。どの個人も好きなことを行えると考えます、世界中でみなそう考えます、そして人の自由は取捨選択に基づいています、なぜなら人は住む場所を選べるからです、職種を選べるからです、この考え方かそれともその考え方かを、この理想かそれともその理想かを取捨選択できるからです、ある神から別の神を選択できるからです、あるグルから別のグルを選択できるからです、ある哲学者から別の哲学者を選択できるからです。この選べる能力が自由の概念を生みます、しかし専制国家には自由はありません、あなたはしたいことができません。それは完全にコントロールされます。取捨選択は自由ではありません。取捨選択は単に同じ領域の中を一つのコーナーから別のコーナーへ移動しているだけです。このことは宜しいですか? 我々の頭脳は制限を受けているので、我々は問うています、頭脳がそれ自身を自由にして恐れが生じなくなることは可能なのかを。そうすると世界中の全ての隣人との正しい関係性が生まれます。
 それでは、我々は我々の意識の性質を検討することにします。あなたの意識が現実のあなたです―あなたの信念、あなたの理想、あなたの神々、あなたの暴力、恐れ、ロマンチックな概念、あなたの快楽、あなたの悲しみ、そして死の恐れと人間の永遠の問いかけ、遠い昔からの問いかけである、これら全てを超えた神聖な何かがあるのかどうか。それがあなたの意識です。それが現実のあなたです。あなたはあなたの意識と異なりません。我々は問うています、そのような意識の内容が変質されうるのか、余すことなく変えられるのかどうかを。
 最初に、あなたの意識はあなたのものではありません。あなたの意識は全ての人間の意識です、なぜならあなたの考えること、あなたの信念、あなたの感覚、あなたの反応、あなたの痛み、あなたの悲しみ、あなたの安全性の欠如、あなたの神々などは全ての人間によって共有されているからです。アメリカへ行っても、英国やヨーロッパへ行っても、あるいはロシアや中国へ行っても、あなたはどこでも人間が苦しんでいるのが分るでしょう。人々は死を恐れています、人々は信仰を持っています、人々は理想を持っています。人々は特有の言葉を話しますが、人々の考えること、人々の反射的反応、人々の反応は一般的に全ての人間によって共有されています。それは事実です、あなたは苦しんでいます、あなたの隣人は苦しんでいます、その隣人は何千マイルも離れているかもしれませんが、隣人は苦しんでいます。その人はあなたと同じように安全ではありません。その人はたくさんお金を持っているかもしれませんが、内面的には安心していません。アメリカの裕福な人、あるいは権力の座にいる人、全ての人間がこの痛み、不安、孤独、絶望を経験します。そのように、あなたの意識はあなたの考えることと同様にあなたのものではありません。それは個人的な思考ではありません。思考は共通のものであり、一般的なものです、最も貧しい人から、最も教育を受けていない人から、小さな、ちっぽけな村の洗練されていない人から、最も洗練された頭脳の持ち主―偉大な科学者―まで、みな人は考えます。その思考はより複雑かもしれませんが、考えることは普遍的であり、あらゆる人間によって共有されています。従って、それはあなたの個人的な思考ではありません。このことを見て取って、その真理を認めることはかなり難しいことです、なぜなら我々は個人としてとても強く条件づけられているからです。あなたの全ての宗教書は、キリスト教であろうがイスラム教であろうが他の何かであろうが、みなこの考え方を、この個人という概念を維持し育みます。あなたはそれを問う必要があります。あなたはそのことの真理を発見する必要があります。
 我々は一緒に探究しています、そして我々は人間の意識が似ていて、全ての人間によって共有されていることを見て取ります。従って、個人というものはありません。その人はあなたより教育を受けているかもしれませんし、あなたより背が高いかもしれません、それとも背が低いかもしれません、外面的にはその人はあなたと異なっているかもしれませんが、内面的にはその人は全ての人間が立つ同じ土台を共有しています。これは事実です。しかしもしあなたが恐れるなら、もしあなたが個人であるという条件づけに囚われるなら、あなたはあなたが全人間であるという計り知れない事実を、途方もない事実を決して理解しないでしょう。そのことから愛、慈悲心、叡智が生まれます、しかしもしあなたがあなたは個人であるという観念に単に条件づけされているだけなら、あなたは終わりのない複雑さを手にします、なぜならそれは幻想に基づいているからです、事実に基づいていないからです。その幻想は何千年ものそれかもしれませんが、それは依然として幻想です。あなたはあなたの環境の産物です、あなたはあなたが話す言葉の産物です、あなたはあなたが食べる食べ物の産物です、着るものの、気候の、幾世代にもわたって引き継がれてきた伝統の産物です―あなたはそれら全てです。あなたはあなたが作り出してきた社会の産物です。社会はあなたと異なりません。人は社会を作り出してきました、貪欲、嫉妬、憎悪、残虐、暴力、戦争の社会を作り出してきました、人はそれら全てを作り出してきました、そして人は途方もない技術の世界も作り出してきました。そのように、世界はあなたであり、あなたは世界です。あなたの意識はあなたのものではありません、それは全ての人間が立つ、全ての人間が考える土台です。そのように、あなたは実際に個人ではありません。それは人が理解しなければならない真実の一つ、真理です。
 話し手の言っていることを受け入れないで、自分自身の孤立を問うてください、なぜなら個人は孤立を意味するからです。自分自身を他の人と分離することは孤立です、国々が自らをインド人やその他の全てとして孤立させるのと同様です。そして彼らは孤立の中に安全性があると考えます。孤立の中に安全性はありません。しかし世界中の政府は、それぞれの国の人間を代表して、この孤立を維持しています、従って彼らは戦争を継続しています。もしあなたがその真理を認めるなら、あなたは個人ではないという事実を認めるなら、内面的には分断はないという事実、我々みなが同じ問題を共有しているという事実を認めるなら、問題は、あなたは、全ての人間を代表する人間として、根本的な、心理的な革命をもたらすことができますか、ということになります。あなたは問うかもしれません、「もし私が、人間として、変わるなら、それは他のすべての人間に何らかの影響を与えますか? もし私が本当に変わるなら、もし一人の人間の中に変化が生まれるなら、それはどのようにして人類の全意識に影響するのですか」と。どうかそれを自分自身に問いかけてください、一人の孤立した人間としてでも、あなたは問うています、「もし私が変わるなら、それは世界にどのような効果をもたらすのか」と。
 問題は、もしあなたが根本的に変わるなら、あなたは人間の全意識に影響するというものです。ナポレオンはヨーロッパの全意識に影響しました。スターリンはロシアの全意識に影響しました。キリスト教の救世主、彼は世界の意識に影響してきました、そしてヒンズー教はそれら独特の神々と共に世界の意識に影響してきました。あなたが、人間として、心理的に根本的に変質するなら、つまり、恐れから自由になるなら、お互いに正しい関係性を持つなら、悲しみなどを消滅させるなら、それは根本的な変質のことですが、あなたは人間の全意識に影響します。それは個人的なことではありません。それは自分本位のことではありません。それは個人的な救済ではありません、それはあなたがそうである全人間の救済です。
 最初に、我々は関係性とは何かを問わなければなりません。なぜ人間のお互いの関係の中に、そのような争いが、そのような悲惨が、そのような強烈な孤独感があるのですか? 過去の歴史を振り返ると、これまで得られた、研究されてきたあらゆる知識によると、人は互いに争って生きてきました。しかし関係することが存在することです、関係することなしにあなたは存在できません。そのような存在の中に争いが起こります。関係性は絶対に必要なものです。生は関係性です、行動は関係性です、あなたの考えることが関係性を生むか関係性を破壊します。隠遁者、僧、托鉢僧―自分は分離しているとその人は考えるかもしれませんが、その人は関係しています―過去に関係しています、環境に関係しています、その人に幾らかの穀物や食べ物や衣服を運んでくる人と関係しています。そのように生は関係性です。我々は一緒に問うています、なぜ人間は互いに争って生きるのか、なぜあなたとあなたの夫との間に、妻と夫との間に争いが起こるのかを。なぜなら、関係性の中に争いが起こると、愛は生まれないからです、慈悲心は生まれないからです、そして叡智は生まれないからです。あなたは実際に関係していますか? あなたは男や女と性的に関係しているかもしれませんが、それを除くと、あなたは誰かと関係していますか? 関係は孤立しないことを意味します。つまり、人はオフィスへ、工場へ、何らかの種類の職場へ毎日生涯通います、八時に家を出て、丸一日を費やして働きます、五十年間、六十年間働いて、そして死にます。そしてそこで人は野心的で、貪欲で、妬んで、苦闘し、競争します、そして彼が帰ると、その女性も、彼の妻も競争的で、嫉妬深く、不安げで、彼女なりのやり方で行います。彼らは性的に向き合うかもしれませんし、互いに話し合ったり、幾分か気を配ったりするかもしれませんが、彼らは分離したままです、線路が平行線のまま一致することがないように。これが我々の関係性と呼ぶものであり、それが現実です。これが誰もの生の事実であり、二人の間の絶え間ない分断です、そしてお互いがそれぞれの意見に、それぞれの結論に固執するのです。事実は、その関係性がどれほど親密であろうと、いつも争いが起こっていて、一方が他方を支配したり、一方が他方を所有したり、一方が他方に嫉妬したりします。これが我々の関係性と呼ぶものです。それでは、そのような我々の知る関係性は余すことなく変えられるのでしょうか? このことを自分自身に問うてください。
 なぜ二人の人間の間に争いが起こるのでしょうか、彼らが高度な教育を受けていようが教育を全く受けていなかろうが。彼らは偉大な科学者かもしれませんが、彼らは普通の人間です、あなたや他の人のように―争ったり、口論したり、野心的です。どうしてこのような状態が存在するのでしょうか? それは誰もが自分自身のことに関心があるからではないのですか? そのように人は自分自身で孤立しています。孤立しているとあなたは正しい関係性を手にすることができません。あなたはこのことを聞いても、あなたはそれについて何もしないでしょう、なぜなら我々は習慣に、決まりきった生き方に、型にはまった生き方に、狭いちっぽけな生に安住しているからです、そしてどんなにそれが惨めで、不幸で、口論が絶えず、醜くても、我々はそれに我慢するからです。ですから、どうか問うてください、疑問に思ってください、疑ってください、他の人と完全に調和して、何の不和も生まれず、何の分断も起こさずに生きることが可能かどうかを。もしあなたが本当に、深く、問うなら、あなたはあなたがあなたの妻についてイメージを作り出してきたことが分かるでしょう、そして彼女もあなたについてイメージを作り出してきたことが分るでしょう。それぞれが他の人についてイメージを作り出してきました、他の人について何かを思い描いてきました。互いに思い描いてきたもの、イメージ、言葉がお互いの関係性の中に存在します。他の人についてのイメージがあるところには、他の人について何かを思い描くことがあるときには、争いがあるに違いありません。きっとあなた方はみな話し手について何らかのイメージを持っています。私はそれを確信しています。なぜですか? あなたは話し手を知りません。あなたは決して話し手を知りえません、しかしあなたは彼について何らかのイメージを作り出してきました、彼は宗教的であるとか、非宗教的であるとか、彼は愚かであるとか、彼は非常に賢いとか、彼は美しいとか、彼はこうだとかああだとかと。そしてそのようなイメージであなたはその人を見ます。そのイメージはその人ではありません。イメージは評判です、そして評判は容易く作り出されます、その評判が良いものであろうと悪いものであろうと。しかし人間の頭脳、思考がイメージを作り出します。イメージは結論です、そして我々はイメージや想像で生きています。何かを思い描くことは愛とは無縁です。我々はお互いを愛していません、我々は手を握り合うかもしれませんし、我々は一緒に寝るかもしれませんし、我々はこれやあれなど様々なことを行うかもしれませんが、我々はお互いを愛していません。もしあなたがその質を手にしているなら、愛の香りを放っているなら、戦争など起こらないでしょう。ヒンズー教徒やイスラム教徒、ユダヤやアラブなどないでしょう。しかしあなたはこれら全てを聞いても、あなたは依然としてあなたの作り出したイメージを手にしたままです。あなた方は依然として互いに論争します、互いに口論します。あなたの生は全く途方もなく無意味になっています。
 あなた達のどれくらいが我々は思考によって作り上げられていると認めるでしょうか? あなた方の神々は思考によって作り上げられています。あらゆる儀式が、あらゆる教条が、哲学が、全て思考によって作り上げられています、そして思考は神聖なものではありません。思考はいつも限られています。思考は聴衆としてのあなたのイメージを作り上げてきました、妻や夫としてのあなたのイメージを、インド人としてのあなたのイメージを、アメリカ人としての彼のイメージなどを作り上げてきました。真実とはいえず、人間を分断しているのがそれらのイメージです。あなたは決して自分自身をインド人、ロシア人あるいはアメリカ人と呼ぶべきではありません、我々は人間です。そうすると恐らく我々は戦争を起こさないでしょう。我々は恐らく世界政府を、世界的な関係性を手にするでしょう、しかしあなたはそれらに興味がありません。あなたはこれらを聞いて、もしあなたが根本的に変わらなければ、あなたは未来の世代に破壊をもたらしていることになります。ですから、どうか耳を傾けてください、考えてみてください、あなたの外で起こっていることに気をつけていてください、そしてあなたの内で起こっていることにも気をつけていてください、というのは内の精神が外の環境に打ち勝つからです。あなたがそれをロシアで見るように、我々は外の世界にそのような重要性を与えます。我々は正しい社会を手にするに違いありません、正しい法律、貧しい人たちに食べ物を与えること、貧しい人たちを心配するなどの社会を、しかし内面の思考、内面の感情、内面の孤立が人を人から分離しています、そしてあなたはこのことに責任があります。あなた方の誰もがこのことに責任があります。もしあなたが根本的に変わらなければ、内面的に変わらなければ、未来は非常に危険です。もしあなたが根本的にあなたの日常生活に変化をもたらさなければ、お互いの正しい関係性を手にしなければ、正しく生きなければ、野心的にならないなどでなければ、人間同士の争いの消滅の可能性はありません。
                                               1982年11月20日
                                                     カルカッタ
                                                 中野 多一郎 訳