アウトサイダー

“湯川

        アウトサイダー

1965年トーク

ボンベイ 2月28日

クリシュナムルティ 今宵、私はあなたと一緒に、あるいは、むしろ、あなたとかなり複雑な問題について通じ合いたいと思います。何かについて通じ合うためには、人は耳で聞くだけではなく、目でも見る必要があります、そして、本当に通じ合うためには、人は目で見て、耳で聞くだけではなく、心と精神で見て取って感じる必要があります。なぜなら、人は、精神で更によく見て取るからです―更に素早く、更に即座に―目で見るよりも見て取るからです、そして、精神は、更に素早く、更に正確に耳よりも聞き取るからです。そして、何かを感じるためには、人は、精神で見て聞くだけではなく、心でも感じなければなりません、つまり、感受性が非常に鋭敏でなければなりません。ほとんどの我々は、不幸にも、我々の教育のせいで、現代の生活のせいで、騒がしい毎日、生活の醜さ、絶望、決まりきったこと、退屈そして意味のない存在などのせいで、鈍感になっています。
 そして、耳を傾けるためには、見て取るためには、精神が驚くほど正確で鋭敏であることを要します、言葉だけではなく感じ方にも、あなたが聞いて真実であると感じる美にも、鋭敏な感受性が欠かせません、そして、精神は、あなたが聞いて誤りであるとする何かにも、正しくない何かにも、同じように鋭敏でなければなりません。ほとんどの我々は、とても無関心で、深く考えたり、根本的に探究したりする時間も辛抱も持ち合わせていないので、我々は最速のコミュニケーションに頼ります、つまり、我々は数語を聞くだけで、その言葉や意見あるいは言い方に反対したり同意したりします、そのように我々は否定したり受け入れたりします。それが我々の一般的に行うことです。しかし、我々が議論しているのは、耳で注意して聞くだけではなく、心と精神が文字通り気を付けて耳を傾けることが不可欠な何かです、もし我々が文字通り気を付けて耳を傾けることを要する何かに我々が通じ合うことになるなら、そのような感受性が欠かせません。
 我々は何かについて話しているのではありません。“何かについて”はいつも何らかの観念のことです。私は政治について語ります、宗教について、何らかの問題について語ります。しかし“について”は何らかの観念です―政治について、何らかの問題について、何らかの事柄について。しかし、我々が通じ合おうとしているとき、我々が通じ合っているとき、“について”というようなものは存在しません、いかなる観念も存在しません。あなたと私は直に通じ合っています、この世界の中で、共に見て取っています、共に感じ取っています、そして、それは、更に研ぎ澄まして耳を傾けている、議論とは無縁の、受け入れたり否定したりしない精神です。もしあなたが受け入れたり否定したりするなら、あなたは通じ合っていません。我々は通じ合う必要があります。そして、通じ合うためには、我々は何か“について”話してはいけません、なぜなら“について”はいつも本質的ではないからです、それは言葉、意見、信念、教条などを意味します。しかし、もし話し手と聞き手が通じ合っているなら、両者はそこでの言葉、語法、意見、観念を見て取って、両者にとって途轍もない意義のある何かに行き着くでしょう。私が何かについて話したいと思っていることは―また“について”と言っていますが―私があなたと通じ合いたいと思っていることは―この方がよい言い方です―瞑想の性質とその意義です。
 最初に、瞑想という言葉は、何らかのイメージ、何らかの反応―それが心地よいものであれ不愉快なものであれ―を呼び起こします。そして、我々が通じ合っているとき、我々がそのようにしているとき、あなたが私と共にこの瞑想と称する途方もないものを自分自身で感じ取ろうとしているとき、他の人が推奨するものが何であるのかを明らかにするためには、あなたはあなたの意見、あなたの実践法、あなたの規律などを、自然に、易々と、進んで脇へ除かなければなりません。それは、人が瞑想とは何であるのかを自分自身で明らかにするときの最も困難なことの一つです。
 宜しいでしょうか、最初に、そのような計り知れない問題に踏み込むためには、あなたの感受性が非常に鋭敏である必要があります。あなたは、輪郭の明確な観念や何らかの意見や判断を携えて、それに触れることはできません、あなたの感受性が鋭敏でなければなりません。我々はまれにしか美を感じません、美はほとんどの我々にとって何も意味しません。個人的な装飾は美ではありません、美は何らかの刺激に反射的に反応することではありません。あなたは素敵な音楽を聴きます、そして涙が溢れます、そして、そのような感情をあなたは美しいと言います。あなたはそれを何らかの経験と言います、つまり、あなたは外面的なことによって、外面的な出来事によって刺激を受けます、何らかの彫像を見ることによって、夕日を見ることによって、美しい女性や子供の瑞々しい健康的な笑顔を見ることによって刺激を受けます。あなたはそれを美しいと感じます、つまり、あなたは何らかの刺激を受けます。そのような刺激に対する反射的な反応は心地よかったり、そうではなかったりします。もしそれが心地よいものであるなら、あなたはそれを美と称します。
 しかし、何らかの刺激や反射的反応の結果ではない美があります。宜しいでしょうか、そのような美は、単なる色彩や均整のとれた形、肌触り、質感などではなく、それはそれよりも大いなる何かであり、より深い何かです、そして、それは一時的な刺激とは何の関係もありません。そのような感覚を伝えることは難しいことです、精神や心や神経や全感覚器官が完全に一体となって感じるそのような美の感覚です。そのような感覚は何らかの刺激によって引き出されたり、生み出されたりする何かではなく、実際に感じる何かです、なぜなら、あなたが一日を通して、あらゆるものに鋭敏だからです―あなたの言葉遣い、あなたの態度、あなたの歩き方、道路のごみ、家の汚れ、部屋の乱雑さ、忌まわしい仕事、人間の残酷な労苦などです。あなたは気づいています、鋭敏です、そして、あなたがそのように鋭敏なので、あなたはあなたの存在の全領域を働かせています、あなたの意識、あなたのあらゆる領域を働かせています。そのときにのみ美の感覚が生まれます、湖や山や詩や梢の中の鳥の仕草に刺激を受けるのではないのです。
 宜しいでしょうか、そのような感覚にあなたと私が通じ合うためには、もし本当にあなたと私が共にそのような美を感じるなら、飾り立てられたものではない、何らかの刺激によるのではない、知的な概念ではない、そのような美の状態を感じるなら―そのような感覚に共に通じ合うためには、あなたと私が何らかの熱気をもつだけではなく、あなたと私は同じ次元で、同じ熱気で、同じ瞬間に出会わなければなりません、そうでないと、あなたと私は通じ合いません。そして、我々がこれから検討しようとすることを理解するためには、そのように通じ合う必要があります。
 宜しいでしょうか、我々はまれにしか通じ合いません。あなたはあなたの妻の手や友人の手やあなたの子供の手を握るかもしれませんが、あなたは通じ合っていません、あなたは物理的に触っているにすぎません。通じ合うことは、いかなる分断もないことを意味します―物理的な分断がありません、さらに、我々の誰もが抱えている心理的あるいは情動的分断がありません。我々の誰もが自己を主張しようともがいています、自己実現に奮闘しています、何かになろうともがいています、躍起になっています、有名になろうとしています、野心を持っています、何かを競っています、しかし、そのような状態の中では、通じ合うことは起こりえません。物理的な意思の疎通はあるかもしれませんが、通じ合うことは、遥かにもっと深い何かです、もっと熱気の籠った何かです、そこでは、あなたと私は真実の何かに、想像の産物ではない何かに、論証されたものではない何かに、単なる論理の働きではない何かに触れています―そこでは両者が同じものを、同じ瞬間に、同じ熱気で見て取っています。そうすると、あなたと話し手の間に、途方もない関係性が生まれます。このことはほとんどの我々にとってまれにしか起こりません。他の人と通じ合うことは我々が話そうとしていることの一部分です。
 ほとんどの我々が何らかの伝統を背負っています―良い伝統も悪い伝統もありません、何らかの伝統です。“伝統”という言葉は引き継ぐことを意味します、過去の世代から現代の世代へ、遠い昔から今の世へ、父から子などへ、何らかの習慣や観念や概念を引き継ぐことを意味します。そして、そのような伝統が精神を条件づけます。
 今宵は、ただ耳を傾けて下さい。私と論争しないで下さい、私と議論しないで下さい、ただ耳を傾けて下さい。私はあなたが耳を傾けなければならないと感じます―ただ、実際に耳を傾けるのです―あなたの意見や経験や観念をやり過ごして下さい。あなたは実際に話し手に耳を傾けなければなりません、なぜなら、明らかに、それがあなたのここにいる理由だからです。そして、我々が言っていることは、非合理でも不健全でもナンセンスでもありません、我々はただ事実を話しているだけです。もしあなたが事実に耳を傾けるなら、もしあなたが実際にあなたの耳で聞き取るなら、あなたは、その事実が、条件づけられている精神に何らかのインパクトを与えるのが分かるでしょう。そのようなインパクトが必要です。そのようなインパクがあらゆることを行います、もしあなたがそれを許すなら。しかし、もしあなたが論争し始めるなら―“我々は何らかの伝統を維持すべきですか? 何らかの伝統が必要なのではないのですか? そうでないと我々はこれやあれでしょう”―そのように自問したり、話し手と論争したりすると、あなたは耳を傾けなくなります、従って、あなたは事実と向き合っていません。もしあなたが実際に耳を傾けるなら、事実と向き合うことが途方もない効果をあなたにもたらします。
 我々は伝統という言葉が何を意味するのか知っています、慣習や習慣が我々の精神を形作ります―それは事実です。そして、そのような伝統が、何らかのメソッド、何らかの特別な行程を作り上げてきました、それは言います、あなたはそのように瞑想しなければなりませんと。そして、組織化された思考やメソッドが、瞑想の仕方を知っていると称して人々に教えたがる連中によって編み出されてきました、あるいは編み出されています。それは何らかの伝統に基づいています、あるいは、その人たち自身の経験に基づいています、あるいは、その人たちは他の人たちから借用してきて、それを作り上げています、そして、その人たちは、あなたがその人たちの言う平和や神、真理、喜悦などに到達するために、それを実践するようあなたに求めます。
 そのように、世界中の宗教者たちが、何らかの伝統を通じて、その人たちが平和とか神とか何らかの途方もない経験と称するそのような状態に到達するための何らかのメソッドを作り上げてきました。それは事実です、つまり、それは何らかのメソッドであり、何らかのシステムであり、何らかの実践です。どうか耳を傾けて下さい。そのような実践やメソッドは何を意味しますか? 何らかのメソッドがあり、そのメソッドを実行します、それがその実践と称されます。我々はそれらを検討しています、メソッドと実践です。メソッドとは何を意味しますか? それは何らかの観念の組織化されたシステムです、つまり、もしあなたがこれやあれを行うなら、あなたはそこへ到達するのです。それは、あなたを何かに到達させるための、特殊な組織化された手順です、そして、あなたはその手順を毎日毎日着実に脇目も振らずに実践し始めます、それには大いなる努力を要します。そのように、何らかのメソッドがあり、その実践があります。何らかのメソッドを通して実践すると、あなたは何らかの滞った状態に行き着くだけでしょう。もしあなたが何らかのメソッドを実践するなら、それはあなたをどこかへ導くでしょう、そして、それは動きのない滞った何かに違いありません―そこには動きがありません、それは躍動していません、それは生き生きとしていません、それは活動していません―それは何か滞った状態です。
 ある人たちは言います、もしあなたが組織化された特殊な何かを行うと、あなたは平和を手にするでしょうと。そのような平和は滞った観念です。しかし、平和は滞った何かではありません、それは生きている何かです、それは、あなたが人間のあらゆる苦闘を理解するときのみ生まれます―ただ一つの特殊な苦闘ではなく、全存在の苦闘です―つまり、人間の毎日の衣食住、人間の感情や野心、性欲、競争心、絶望、成就、至る所に張り巡らされた逃亡のための複雑な網の目などです。それら全てを理解するとき、そのような理解から、あなたは平和を手にするでしょう。しかし、もしあなたが何らかの方向を指し示す何らかのメソッドに従うなら、それは、あなたに、その特殊なシステムを通じてあなたが平和を手にすることを約束したり保証したりするでしょう、そうすると、そのような平和は単なる観念でしかありません、滞った概念にしかすぎません、それは真実では全くありません。しかし、それがあなたの行っていることです。あなたは心の平和を望みます―それが何を意味しようと―そして、あなたはそれを来る日も来る日も実践します。しかし、あなたは腹を立てます、あなたは野心を抱きます、あなたは貪欲になります、あなたは使用人に乱暴な口を利きます―もしあなたに使用人がいるなら―あなたは人と争います。そのように、あなたは生を分断します、あなたは平和を手に入れるために、何らかの特殊なメソッドを実践します、そして、それをあなたは瞑想と称します、ところが、あなたの生の全てが、あなたの追い求めているものを破壊します。そのように、それが実践やメソッドの意味することです。
 そして、また、メソッドやシステムは、何らかの権威を意味します、つまり、それは―あなたが知っていて、私は知りません、あなたは自我を悟りました、それが何を意味するにせよ、そしてあなたは私に何をすべきかを語ります、そうすると私はそれを手に入れることになります―という権威のことです。そのようにして、グルと称されるものが世に現れます―何らかの権威です、悟った人です、自己実現した人です、何かを知っている人です―そしてあなたは知らない人です。そしてあなたは“それ”を望むのです、“それ”が何を意味するにせよ。グルはとても幸せそうに見えます、とても穏やかで、世間から距離を置いているように見えます、そして、その人は自己実現などそれらのことについて多くを語ります。そして、あなたは言います、“そうなったら何て素晴らしいのでしょう!”と。あなたはそれを願います、あなたは実践し始めます、そして、その人があなたのグルになります。そのように、メソッドや実践は権威を意味します。
 我々は再び事実を扱っています。私はあなたに事実ではないことを話そうとしているのではありません。従って、同意するのでも同意しないのでもなく、何らかの衝撃を感じるように耳を傾けて下さい。宜しいでしょうか、何らかの権威とは何でしょうか? あなたは自分自身を理解していません、あなたの妻、あなたの振舞を理解していません、あなたが愛情や愛や同情の持ち主かどうかは問題ではありません、あなたはあなた自身の途方もない存在を、あなた自身を探究してきていません、あなたはそれら全てを否定しています、そして、あなたは誰か他の人に追随します。そして、誰か他の人に追随することによって、あなたは途方もない恐れを積み重ねてきました、なぜなら、あなたはそれらの人たちの意に反して、それらの人たちに従わないかもしれないからです。
 そのように、何らかのメソッドを実践することは、何らかの権威を意味します、メソッドを実践することは、機械的な手順を意味します、それは機械的になります。そうすると、あなたが検討しているのは、見守っているのは、探究しているのは、生きている何かではありません―あなたはただ機械のように何かを実践しているだけです。あなたは仕事へ行きます、そこであなたは何かを行います、そして、それがあなたの習慣になり、それをあなたは継続します。同じように、あなたは、あなたが平和に通じると願う何らかのシステムを実践しています、しかし、あなたは単に何らかの習慣を実践して、それを確実なものにしようとしているのにすぎません、そうすることで、あなたの精神は鈍く鈍感になり、機械的になります。あなたが何らかのメソッドを実践しているとそうなります、何らかの権威が生じます、習慣が機械的に構築されます、そして、それがあなた自身を抑圧して、自分自身から逃げるのを手助けします。その事実を見て下さい。あなたがその事実を見て取ると、その衝撃を見て取ると、あなたの精神はもはや何らかの実践には全く興味がなくなります、何らかの習慣には全く興味がなくなります、何らかの権威―精神的権威―には全く興味がなくなります。そうすると、あなたの興味は何かを探究すること、検討すること、理解することに向かいます、そして、あなたは何らかの結果には興味がなく、全存在に興味を抱きます、存在の一部ではありません。
 ほとんどの我々にとって、瞑想は祈りを意味します、それは何らかの言葉を果てしなく繰り返し唱えることを意味します、あるいは、何らかの姿勢を取って、何らかの呼吸法を実践することを意味します。あなたの行っていることがお分かりですか? あなたは外面的な仕草に重きを置きます、背筋を伸ばして座ります、それは極めて簡単です。なぜあなたは背筋を伸ばして座るのですか? なぜなら血液が容易に脳に送られるからです、それだけのことです。そして、あなたが深く呼吸すると酸素がより多く血液に送られるからです。何も不思議なことはありません。しかし、我々は瞑想の外面的な形から始めます―部屋の中で静かに座ります―あなたは外面的な仕草のことをよく知っていますが、あなたは内面的に全く理解していません、全てが外面的です。
 そのように、瞑想は何らかの実践ではありません、何らかのシステムに従うことではありません。何らかのシステムは権威を意味します、従って、瞑想は何らかの権威の結果ではありません。それは集団的な祈りでも個人の祈りでもありません、祈りは何らかの懇願です、要望です。あなたが惨めなので、あなたはあなたを助けてくれるように何かに、誰かに祈願します。あなたはあなたの生をひどく混乱した惨めなものにしています。あなたは人間を破壊しているこの社会構造、この環境を築き上げてきました。あなたはあなたの貪欲、あなたの行動、あなたの野心に責任があります―それらが人間を囚人にする社会を作り上げてきました。そのように、あなたには責任があります、従って、誰かに助けを請うことは正しくありません。あなたが助けを請うと、それは何らかの逃亡になります。
 平和を祈願することが西欧やアメリカやこの国で行われます―共産主義社会では行われません、そこでは平和への祈願というのはありません。平和を手にするためには、あなたは平和に生きなければなりません、つまり、野心を抱かず、競争をせず、ナショナリティとは無縁に、階級的分断や取るに足らない些末な人種的、国家的、言語的あるいは非言語的分断に与せずに生きなければなりません。平和に生きるためには、あなたが安心を覚えていなければなりません。そして、もしあなたが安心を覚えていられないなら、平和を祈願するのは正しくありません、なぜなら、あなたの行うことのあらゆることが、秩序の乱れや何らかの争いを引き起こすからです。
 そのように、瞑想は何らかの祈りではありません、何らかの言葉を繰り返し唱えることではありません。宜しいでしょうか、もっとも驚くべきことの一つは、この“マントラ”という言葉が、人々に非常に空想的な観念をもたらすことです。あなたは何らかの言葉を使います―その言葉は何でも構いません―あるいは何らかの一連の言葉を使って、それに特別な意味を与えて、それを繰り返し唱えます。あなたが何らかの一連の言葉を英語でもサンスクリット語でもラテン語でも他の何らかの言語でも繰り返し唱えると何が起こりますか? 幾度も繰り返し唱えると、あなたの精神は次第に穏やかになります、次第に鈍重になります、そして、あなたはついにあなたの精神を鎮めたと思います。
 そのように、瞑想は祈りではありません、言葉を繰り返し唱えることではありません、何らかの実践ではありません、権威を意味する何らかのメソッドやシステムを追い求めることではありません。もしあなたがこの事実に耳を傾けるなら、あなたは決してそこに戻ることはないでしょう、そうすると、あなたは自分自身に完全に責任を負うようになります。従って、あなたにはグルはいません、あなたは誰も頼りません、話し手を含めて。あなたはそうするとあなたの行う全てに責任を負います。従って、あなたに必要なことは自分自身を良く知ることです、あなたは自分自身を完全に知らなければなりません、その基礎からのみあなたは歩を進めることができます。そして、ほとんどの我々にとって、そのように自己を知ることは大変に骨の折れることです、とても難しいことです、従って、我々は安易な方法に手を染めます、何もかもが上手くいくことを願って、苦労せずに手にすることを願ってそうします。それがあなたの実践の仕方であり、意味のないことを数限りなく行うあなたのやり方です、なぜなら、あなたは自分自身を探究する方法を知らないからです。
 そのように、人は自分自身を知る必要があります、高位の自己ではありません、アートマンではありません、神ではありません、それらは全て何らかの理論です、馬鹿げています、どこかの誰かの発明です、それは事実ではありません、あなたは単なる何らかの伝統をただ繰り返し唱えているだけです。従って、あなたは神を見つけるための伝統の権威から解放されていなければなりません。自己を知ることは気づくことです。その“気づく”という非常にシンプルな言葉に神秘的な意味を与えないで下さい、あるいは複雑な意味を与えないで下さい、そこにいるカラスたちに気づくことです、それらカラスたちの鳴き声に文字通り気を付けていることです。ただ耳を傾けて下さい、どうか耳を傾けて下さい、上空の光に気づいて下さい、マンゴーの樹の黒ずんだ幹に気づいて下さい、ヤシの樹に気づいて下さい、あなたの隣人に気づいて下さい、その人の肌の色、その人の服装に気づいて下さい、ただ文字通り気を付けて下さい―それを非難したり、何かと比較したり、“これは良い、あれは悪い”と言わないで下さい、説明しないで下さい、正さないで下さい―ただ文字通り気を付けて下さい。
 ほとんどの人は文字通り気を付けていません、外にあるものにさえ文字通り気を付けていません。私は、毎日あなたの乗ったバスや車が、様々な家や道路や樹木をやり過ごすのをあなたは知っていると思います。しかし、あなたは決してそれらの樹木に気を留めません、あなたは決してそれらの樹木に気づきません、それらの家の外観に気を留めません、そのアパートが何階建てであるのか気にしません、あなたは決してその樹木に、その花に気づきません、あるいは、通り過ぎる子供に気づきません。どうか、外のものに文字通り気を付けて下さい、何かと比較しないで、何らかの判断をせず、何らかの価値評価をしないで、ただ文字通り気を付けて下さい、そうして、同じように内面的にも、ただ文字通り気を付けて下さい。
 どうか、このことに耳を傾けて下さい。私が話しているとき、そのように行って下さい。そのことをあれこれ考えないで、そのように実際に、今、行って下さい。つまり、その樹木に文字通り気を付けて下さい、そのヤシの樹や空に文字通り気を付けて下さい、カラスたちの鳴き声を聴いて下さい、梢の光を見て下さい、婦人たちのサリーの色や顔かたちを見て下さい、そして、あなたの内面に文字通り気を付けるようにして下さい。あなたは観察できます、あなたは外側のものに何の選択もせずに気づくことができます。それは簡単です。しかし、内面的に文字通り気を付けることは、何の非難もせず、何も正さず、何の比較もせずに文字通り気を付けていることは外側のそれよりも難しいのです。あなたの内面で起こっていることにただ気を付けているだけです―あなたの信念や恐れ、教条、希望、いらだち、野心などその他の全てです。そうすると、あなたの意識や無意識が明らかになり始めます。あなたは何もする必要がないのです。
 ただ文字通り気を付けているだけです―それがあなたの行う全てです―何の非難もせず、何も強いることなく、あなたの文字通り気を付けていることを何ら変えようとせず、ただそうしているだけです。そうすると、あなたは分かるでしょう、それは潮が満ちてくるのに似ていると。あなたは潮が満ちてくるのを止められません。あなたが壁を築こうと何をしようと、それは途轍もないエネルギーでやってきます。同様に、もしあなたが何の選択もせずに文字通り気を付けていると、意識の全領域が露わになり始めます。そして、それが露わになるとき、あなたはそれに付いていく必要があります、そして、それに付いていくのが途方もなく難しくなります―それに付いていくというのは、あらゆる思考や感情や隠れた欲望の働きに文字通り付いていくという意味です―あなたが抵抗するや否や、それが難しくなります、あなたがこう言うや否や、難しくなります、“あれは醜い、これは良い、あれは悪い、これを私は持っておこう、あれは要らない”と。
 そのように、あなたは外側から始めて内側へ向かいます。そうすると、あなたは分かるでしょう、あなたが内側へ向かうと、内側と外側は異ならないと、外側の気づきは内側の気づきと異ならないと、両者は同じであると分かるでしょう。そうすると、あなたはあなたが過去の中を生きていると分かるでしょう、あなたには実際に生きている―過去も未来も存在しない―瞬間がないと分かるでしょう、あなたはそれが実際の瞬間であると分かるでしょう。あなたは分かるでしょう、あなたがいつも過去の中を、あなたの感じたことや過去のあなたの賢さや良いことや悪いことなどの記憶の中を生きていると分かるでしょう。それは記憶です。あなたは記憶を理解しなければなりません、それを否定するのではありません、それを抑圧するのではありません、それから逃げるのではありません。もし人が独身を誓い、その記憶にしがみつくも、その記憶に違うと、その人は罪悪感を抱いて、その人の生は閉塞します。
 そのように、あなたはあらゆるものを見守り始めます、従って、あなたの感覚は非常に鋭敏になります。従って、外側の世界や外側の様子だけではなく、見たり感じたりする内面の精神にも耳を傾けたり、見て取ったりすることによって、あなたが何の選択もせずに文字通り気を付けているときは、いかなる努力とも無縁です。このことを理解することは非常に重要です。
 ほとんどの我々は、瞑想するとき何らかの努力をします、なぜなら、我々は何らかの経験を願うからです。それは単純な事実です。どうか、この事実に耳を傾けて下さい―事実についての私の判断ではありません、事実に関するあなたの意見ではありません。事実は、ほとんどの我々が、何らかの精神的な経験とその継続を願うことです。従って、あなたは経験の全内容と経験を渇望する精神を検討する必要があります。
 経験とは何でしょうか? “経験”という言葉は、通り抜けるということを意味します。我々は経験したがります、いわゆる精神的経験です、それは何らかのビジョンであり、高揚した感受性であり、卓越した理解です。我々は、深く、広い、我々の生き方を粉々にする根本的な経験を切望します。そして、経験は我々にとって何らかの挑戦とそれに対する我々の反応を意味します。私が問うて、あなたが答えます、あるいは、あなたが何かを見ると、あなたは何らかの反応を起こします。生は途絶えることのない経験の連続です、意識的であれ無意識的であれ、心地良かろうと不愉快であろうと。それは事実です。あなたがそれらの経験に気づいていようがいまいが、それらがいつも生じています。あなたがバスに乗っているとき、あなたが家で寛いでいるとき、あなたが勤め先で仕事をしているとき、あなたがあなたの妻や夫と話をしているとき、あなたが一人で歩いているとき、そのような経験がいつも生じています。
 ほとんどの我々は、この途方もない相互作用に気づかずに、我々の僅かばかりの経験に飽き飽きしています―性的な経験や寺院へ赴く経験など通常の経験です―そこで、我々はもっと何かを願望します。そこで、我々は瞑想に目をやります。そして、我々が、大いなる、より高揚した情動や経験を望むので、我々は薬物に頼ります。様々な薬物がアメリカやヨーロッパにあって、あなたがそれらを試みると、それらはあなたに一時的な高揚感をもたらします。もしあなたが芸術家なら、もしあなたがLSDと称する薬物を試みると、それはあなたに驚くべき色彩感覚をもたらします、それはあなたがそれを試みるまでは見たことのない色彩です、その色彩は生き生きとしていて、躍動感があり、計り知れません。そして、あなたはそれまでに見たことのない樹木を見ます、そこではあなたと樹木の区別がありません。もしあなたが聖職者なら、そして、もしあなたがその薬物を試みるなら、あなたは聖職者らしい経験を手にします、そして、それがあなたにあなたが完全に正しいことを行っているという大いなる確信をもたらします。あるいは、それがあなたの条件づけられた生を変えます。そのように、人は自分自身の生に飽き飽きして、日常の経験に飽き飽きして、より偉大な経験を渇望します。そこで、人は瞑想しようと試みます、あるいは薬物を試みようとします、あるいは、より何かを手にしようと数限りなく何かを試みます。
 そのように、精神が更に何かを追い求めているとき、それは、それがそれ自身の存在の全構造を理解していないことを指し示しています。自分自身を理解することなしに、あるいは、正しい基礎に基づくことなしに―それが唯一の基礎です、それは自己を理解することです―あなたが何を行おうと―何らかの姿勢を取って座ろうと、逆立ちしようと、何かを繰り返し唱えようと、何かに従おうと、あるいは何をしようと―あなたは決して平和を見出さないでしょう、あなたは決して真実に出会うことはないでしょう。
 そのように、自己を理解することなしに、正しい振舞はありえません。自己を理解することなしに、更なる争いや悲惨や混乱を作り出さない行動はありえません。自己を理解することなしに、あなたが何を行おうと、叡智は生まれません。そして、あなたが自己を理解するときにのみ、生が蠢きます。
 宜しいでしょうか、我々が、これまで、このトークで行ってきたことは、真実ではない全てを脇へ除けることです、否定的に、我々は否定してきました。その否定は事実に基づいています―それは私の否定ではありません―それは真実ではないものを否定することです。それを誰が言うのかは問題ではありません―シャンカラであろうと、ブッダであろうと、あなたのグルであろうと、他の誰であろうと。そのように、我々は真実ではないあらゆるものを否定的に脇へ除けてきました。それでは、瞑想するとは、どういうことであるのかを明らかにしましょう。
 我々は自己知を基礎にして歩を進めています。もしあなたがそうしていないなら、あなたは先へ進めません、そして、それは単なる理論と化すでしょう。もしあなたが理論によって生きているなら、あなたは死んでいるのと同じです、あなたは観念で生きていて、あなたの生は事実に基づいていません。非常に鋭敏で明瞭な精神のみが、生き生きとしている心のみが、他でもない、事実を扱うことができるだけです。瞑想を試みようとする精神は、瞑想とは無縁です、なぜなら、それは意図的な行為だからです。何らかの結果を残そうとする、何かを手に入れようとする意図的行為は何らかの欲望であり衝動であって、それはあなたの日常生活の事実からの逃亡です。
 従って、意図して瞑想を実践する精神は、瞑想とは無縁です、それが何を行おうと。従って、瞑想は何らかの意図とは無縁でなければなりません。もし瞑想の中に何らかの意図があるなら、それは何らかの努力と化します、従って、それは精神に何らかのプレッシャーをかけます。そのように、瞑想は意図的な行為ではありません、それは何らかの継続ではありません。なぜなら、それが継続性を持つや否や、それは時間的な価値を帯びるからです、従って、それは、何かを成就する、あるいは何かを維持する手段として精神が作り出した何かだからです。
 そのように、瞑想は一瞬一瞬の行為であり、いかなる継続性とも無縁です。人は見て取れます、健康な精神はいかなるプレッシャーも受けていないことを、いかなる欲望のプレッシャーも、いかなる強迫的な衝動のプレッシャーも受けていないことを。それはいかなる外面的な活動にも影響されません、それが政治であろうが、革命であろうが、経済であろうが。健康な精神こそが何の影響も受けません、いかなる欲望の強迫にも動じません。自己知が生まれるときのみ、あらゆることを理解したときのみ、それが健康になりえます。そうすると、精神はいかなるプレッシャーも強迫も受けず―頭脳も非常に穏やかであるに違いありません、穏やかになるように導かれたのではありません。
 それらの鳥の声に耳を傾けて下さい。あなたは耳を傾けています。もしあなたが耳を傾けているなら、何らかの反応は起こりません。あなたは耳を傾けています、明らかに、頭脳を働かせて、そしてそれが反応します。頭脳の機能は何らかの反応です。しかし、今、あなたはいかなる反応もせずに耳を傾けています、そのようにあなたは耳を傾けています、なぜなら、あなたの精神、あなたの頭脳が穏やかで、感受性が鋭敏で、生き生きとしていて、触れるように耳を傾けているからです。しかし、それが反応すると、それは何らかのパターンに従います。
 そのように、頭脳は感受性が鋭敏で、穏やかで、気を抜かずにいなければなりません、そして、それは好き嫌いのプレッシャーとは無縁でいなければなりません。このことは再び自己知の深さ、豊かさ、熟成、全体性に関わります。そうすると、あなたの身体も自然とよく鎮まるに違いありません。しかし、身体から始めないで下さい、それを最初に鎮めようとしないで下さい―それは何の意味もありません。それらは全て自然にそうなります。あなたはそう仕向ける必要はありません、あなたはこう言う必要はありません、“私は静かに座ります、私は私の頭脳が気を抜かないように努めます、反応しないように努めます”と、あるいは、“私はいかなる影響も受けないように見守ります”と。そうすると、あなたは完全に行き詰ります。しかし、もしあなたが自己知から始めるなら、それらのことは自然に起こります、日の出と日の入りのようにスムーズに自然とそうなります。
 そうすると、あなたは自然と再び無言の静寂の意味に向き合うことになります。もしあなたの中に何らかの空間がないなら、あなたの中に無言の静寂は生まれません。我々のほとんどの精神の中には空間が全くありません。我々の精神、我々の頭脳―あらゆるものが詰まっていて隙間がありません。都市も同様です、あなたはアパートの中の一室に住んでいます、そして、あなたには物質的な隙間がありません、あらゆるものがあなたの周りにあります。内面的にも同様です、あなたには何らかの空間がありません、なぜなら、あなたの精神の中があなたの観念や信念、概念、何らかの―“してはならない”そして“しなければならない”―方式などで身動きが取れないからです、そのように、あなたの精神の中には、あなたが完全に自由になりうる空間が全くありません、精神が開かれていて穏やかになりうる空間が全くありません。そのように、無言の静寂は空間と共に生まれます、そして、無言の静寂は目的ではありません、それは何らかの実践の結果ではありません、あるいは、何らかの欲望の対象や目的にはなりません。それは自然に生まれます、従って、それはいかなる努力とも無縁です。無言の静寂を実践の対象にしないで下さい、なぜなら、無言の静寂は何らかの実践とは無縁だからです。
 私はあなたに何らかのメソッドを提示しているのではありません、私はあなたに何をすべきかを語っているのではありません―あなたはそうしています。我々は通じ合っています、従って、あなたは自然にそうなります。そうすると、あなたがあなた自身の光になります、自由な人間になります、そうすると、あなたはいかなる恐れも抱きません、いかなるグルも必要はありません、いかなる伝統とも無縁です―あなたはひとりの人間であり、生き生きとしています。これらのことが、日が落ちて夜になるように、自然と起こります。
 そのような無言の静寂の中には、争いによって作り出されるエネルギーとは無縁の何らかの活動があります。我々の生の全てが何らかの争いです、そして、そのような争いを通して、我々は何らかのエネルギーを作り出します。しかし、精神が、世界中の争いと自分自身の中の争いの全性質を理解すると、そのような理解から、無言の静寂が生まれます。従って、そのような無言の静寂の中に途轍もないエネルギーが生まれます。それは睡眠や滞った静寂ではなく、それは途轍もないエネルギーの無言の静寂です。
 私は、あなたが、驚くべき速さとエネルギーを秘めて動いている何らかの機械や発電機を見たことがあるのかどうか知りません。同じように、全く無言の精神は申し分のないエネルギーに溢れています。そして、そのようなエネルギーは名付けようがないので、いかなるナショナリティとも、いかなる争いとも無縁です。そのようなエネルギーは名付けようがありません、それはあなたのものでも私のものでもありません。従って、そのようなエネルギーが自由に働くことを許されると、それは非常に遠くまで及びます、それは時間とは無縁に働きます。
 そして、我々があなたと通じ合ってきたこの全プロセスが瞑想の働きです。そのようなときに喜悦が生じます。そのような働きが愛です。そして、そのような精神のみが世界に秩序をもたらすことができます。そのような精神のみが平和に生きることができます。そのような精神のみがその活動に混乱を生じさせません。そして、そのような精神のみが何が真実であるのかを明らかにできます。