クリシュナムルティ もし宜しければ、私はかなり複雑に思われていることを話したいと思います、しかし、それは実際には極めてシンプルなことです。我々はことを複雑にしたがります、我々はことを複雑にしたいのです。我々はことが複雑にされると、それは相当に知的なことであると考えます、あらゆることを知的にあるいは伝統的に扱うと、それは相当に知的であると考えます、しかし、それは問題あるいは事の次第を複雑にしています。何事も非常に深く理解するためには、人はそれをシンプルに扱う必要があります、つまり、言葉によるのではなく、単に情動的になるのではなく、むしろ、非常に新鮮な精神で事に当たる必要があります。ほとんどの我々の精神は古い精神です、なぜなら、我々はとても沢山の経験を積んでいるからです、我々は傷ついています、我々はとても多くのショックあるいは問題を経験してきています、そして、我々は行動の柔軟性や機敏性を失っています。新鮮な精神は、明らかに、見て観察して直ぐに行動に移す精神です。つまり、新鮮な精神は、見ることが行うことである精神です。
あなたは音をどのように聞くのでしょうか? 音は我々の生の中で重要な役割を果たしています。鳥の声、雷鳴、途切れることのない海の波音、都市のざわつき、木の葉の囁き、笑い声、泣き声、お喋り―それらは全て何らかの音です、そして、それらは我々の生の中で重要な役割を果たしています、音楽だけではなく、あらゆる音がそうです。人はどのように人の周りの音を聞くのでしょうか―カラスの鳴き声、あの遠くから聞こえてくる音楽です。人は自分自身のノイズと共にそれを聞くのでしょうか、それとも人はいかなるノイズとも無縁にそれを聞くのでしょうか?
ほとんどの我々は、自分自身が作り出すノイズであるお喋りと共に耳を傾けます、自分自身の意見であり、判断であり、価値評価であり、自分自身の言葉です、そして、我々は決して事実に耳を傾けません、我々は自分自身のお喋りを聞いていて、実際には耳を傾けていません。そのように、耳を傾けるためには、実際に耳を傾けるためには、精神が途方もなく鎮まって無言でいなくてはなりません。あなたが話し手に耳を傾けているとき、もしあなたが自分自身の中で自分自身と会話しているなら、あなた自身の意見や観念や結論や価値評価を引き合いに出しているなら、あなたは実際には話し手に全く耳を傾けていません。しかし、話し手だけではなく、鳥たちや日常生活のノイズにも耳を傾けるためには、何らかの静けさ、何らかの無言の静寂が生じていなければなりません。
ほとんどの我々は無言ではありません。我々は自分自身と会話しているだけではなく、我々はいつも果てしなく喋り続けています。宜しいでしょうか、耳を傾けるためには、我々に何らかの空間がなければなりません、もし我々が自分自身とお喋りしているなら、空間はありえません。そして、耳を傾けるためには、何らかの静けさを要します、そして、何らかの静けさの中で耳を傾けるためには、何らかの規律を要します。規律は、ほとんどの我々にとって、我々自身のノイズ、我々自身の判断や価値評価を抑制することです。お喋りを止めようとして、少なくとも少しの間、我々はそれを抑制します、そうすることによって我々は話し手や鳥の声に耳を傾けようと努めます。規律は、ほとんどの我々にとって、何らかの抑圧です、それは何らかのパターンに順応することです。音に耳を傾けるためには、あらゆる形のコントロールや抑圧が自然に消滅しなければなりません。もしあなたが耳を傾けるなら、あなたは分かるでしょう、あなた自身のノイズ、あなた自身のお喋りを止めて静かに耳を傾けることが途方もなく難しいのが分かるでしょう。
私は“規律”という言葉を、正しい捉え方、正しい意味で使っています、それは学ぶということです。規律は、その言葉の元々の意味では、順応や抑圧や模倣を意味しません、それはむしろ学ぶプロセスを意味します。そして、学ぶことは、単なる知識の収集蓄積ではありません、それは機械がやれることです。いかなる機械も学ぶことはできません、電子機器や電子頭脳でさえも学ぶことはできません。コンピュータや電子頭脳は知識や情報を収集蓄積して、それをあなたに戻すことができるだけです。そのように、学ぶことは何らかの規律でもあって、それは理解するのが非常に難しいことです。
今宵、我々は一瞬一瞬学ぶ必要のある何かを検討しようとしています―順応するのではありません、抑制するのではありません、学ぶのです。そして、もしあなたがあなたの聞いていることを、あなたがすでに知っていることや書物で読んだことのあることと単に比較しているなら―あなたがどんなに博識であろうと、あなたがどんなに知的であろうと―学ぶことにはなりえません。もしあなたが何かと比較しているなら、あなたは学ぶことを止めています。学ぶことが可能なのは、精神が全く無言でいて、その無言の静寂の中で耳を傾けるときだけです、そうでないなら学ぶことは起こりえません。あなたが新しい言語や技術などあなたの知らない新しい何かを学びたいと思うとき、あなたの精神は比較的鎮まっている必要があります、もしそれが鎮まっていないなら、それは学んでいません。あなたがすでにその言語や技術を知っているとき、あなたは単に情報を加えているのにすぎません、情報を更に加えることは知識を単に更に獲得するにすぎません、しかし、それは学ぶことではありません。
そして、学ぶことは律することです。あらゆる関係性が何かを律する関係性です、そして、あらゆる関係性は何らかの活動です。静止している関係性というものはありえません、あらゆる関係性が新しく学ぶことを求めます。たとえ、あなたの結婚生活が四十年続いていて、あなたが心地よい安定した尊敬し合う関係をあなたの妻や夫と築いているとしても、あなたがいったんそれを何らかのパターンとして確立するや否や、あなたは学ぶことを止めてしまいます。関係性は何らかの活動であって静止していません。そして、どの関係性も、あなたがそれについて絶えず学ぶことを求めます、なぜなら、関係性は絶えず変化していて、活動的であり、躍動しているからです、そうでないなら、あなたは全く関係していません。あなたは関係していると考えるかもしれませんが、実際には、あなたはあなたが作り出したその人のイメージに関わっています、あるいは、あなたとその人が共有する経験に関わっています、あるいは、そこでの痛みや傷や快楽に関わっています。そのイメージやシンボルや観念―それらであなたは人と関わります、従って、あなたは関係性を死んだものにしてしまいます、静止しているものに、生気のないものに、躍動を欠くものに、熱気のないものにしてしまいます。学んでいる精神のみが熱気のある精神です。
我々が使っている熱気という言葉は、快楽的な高揚を意味しません、それは絶えず学んでいる、従って、熱意のある、生き生きとしている、活動的で、躍動的で、活力のある、若々しい精神の状態を意味しています、従って、そのような精神には熱気があります。我々のほとんどが、そのような熱気を持ち合わせていません。我々には性的な快楽や情欲や何らかの楽しみなどがありますが、ほとんどの我々には、そのような熱気がありません。熱気なしに―その言葉の広い感覚や意味で―どうしてあなたは学ぶことができますか、どうしてあなたは新しい何かを発見できますか、どうしてあなたは何かを探究できますか、どうしてあなたは何かを探究していられますか?
そして、熱気のある精神は、いつも危険に晒されます。恐らく、ほとんどの我々は、無意識に、この熱気のある精神に気づいています、それは学んでいて活動している精神です、そして、それは失敗してきました、無意識のうちに、そして、それが恐らく我々の熱気を失う理由の一つです。我々は社会的に期待されます、我々は順応します、我々は受け入れます、我々は従います。社会的な敬意や社会的な義務などその類の全ての言葉を我々は学ぶことを押し潰すために使います。
このような学ぶ行為は、ある意味で律する行為であると我々は言いました。この律する行為は、いかなる種類の順応性とも無縁です、従って、それは何かを抑制することではありません、なぜなら、あなたがあなたの感情や怒りや性的嗜好などその類のことを学んでいるとき、あなたはそれを抑圧したり、それに耽ったりすることはないからです。そして、このように行うことは最も難しいことの一つです、なぜなら、我々の伝統のせいで、我々のあらゆる過去や記憶や我々の習慣のせいで、我々の精神が狭い世界に閉じ込められているからです、そして、我々はその狭い世界の中で極めて従順になっています、我々はその狭い世界からどうしても出たくはないのです。従って、ほとんどの我々にとって、規律は単に順応性や抑制や模倣を意味するのであり、結局、それが社会的に非常に敬意を表される生につながるのです―もしそれが生と言えるなら。社会的に期待される人間像―抑制や模倣や順応の観念的枠組み―に囚われている人は、生きているとは言い難いのです、その人が学んできた全ては、その人が獲得してきた全ては、何らかのパターンへの適応です、そして、その人が従ってきた規律が正にその人を破壊してきました。
しかし、我々は学ぶ行為を話しています、それは生き生きとした熱気があるときに生まれうるだけです、そして、我々は学ぶ行為である何らかの規律のことを話しています。学ぶのは一瞬一瞬の行為です、あなたが学んだものを次に起こることに当てはめるのではありません、そうするとあなたは学んでいません。そして、このような規律―我々が話している規律―が必要です、なぜなら、我々が言ったように、あらゆる関係性が何らかの規律の中での活動だからです、そして、それは学んでいる活動です。そして、このような規律―学ぶ一瞬一瞬の行為―が、大いなる閃きや理解を要する何かを探究するためには極めて重要です。
ほとんどの我々にとって、快楽がこの上なく重要です、我々の全ての価値や願望や追求は更なる快楽のためです。そして、快楽は愛ではありません。快楽を理解するためには―それを否定するのではなく、それについて学ぶのです―あなたは新鮮な精神で快楽に向き合う必要があります。快楽は楽しみであり喜びです、そして、それは官能的な喜びでもあります。あなたが夕暮れの雲の輝きを見るとき、それは大いなる喜びです。もしあなたが空を見上げるなら、もしあなたが日常の憂いや楽しみや痛みなどに囚われていないなら、見上げる雲の中に、空の中に、水面の輝きの中に喜びがあります、そして、満面の笑顔や無垢の顔を見る楽しみがあります、そして官能的な快楽もあります、官能的な喜びもあります、満足のいく食事や音楽を聴く喜び―物理的にも知的にも―味覚やセックスや観念などの感覚的な喜びがあります。それらの中には知的な快楽、情動的な快楽そして物理的な喜びがあります、そして、それは快楽です。しかし、愛は全く異なる何かです。恐らく、我々はそのことを、今宵、議論することになると思います。
最初に、快楽を理解するためには、我々はそれを学ぶためにそれと向き合わなければなりません、それを抑圧したり、それに耽ったりしないことです。それについて学ぶためには、何らかの規律を要します、あなたがそれに耽ったりそれを否定したりしないことが求められます。何かを学ぶことになるのは―もし何らかの抑圧や否定やコントロールが生じるとあなたは学ぶことを止めていて学ぶことができなくなると、あなたが理解するときです。従って、快楽の全問題を理解するためには、あなたは新鮮な精神でそれに向き合わなければなりません。なぜなら、快楽は我々にとって途方もなく重要だからです。我々は快楽から何かを行います。我々は苦痛なことから逃げます、そして、我々は物事を快楽のもつ価値や基準に落とし込めます。そのように、快楽は我々の生に途方もなく重要な役割を果たしています、何らかの理想として、あるいは、いわゆる世俗的生活を捨てて別の生を見つけようとする人の場合のように―それは依然として快楽がその基礎にあります。あるいは、人は“私は貧者を助けなければならない”と言って、社会改革に没頭します、しかし、それは依然として快楽的行為です、その人は奉仕や慈善などその類の言葉でそれを隠蔽しているのかもしれません、しかし、それは依然として快楽を追い求める精神の働きです、あるいは、苦痛と称する何らかの混乱の原因から逃げている精神の働きです。もしあなたが自分自身を観察するなら、それが日常生活の中で我々が一瞬一瞬行っていることです。あなたは誰かが好きです、なぜなら、その人があなたにお世辞を言うからです、そして、あなたは他の人が嫌いです、なぜなら、その人があなたの嫌いな本当のことを言うからです、そして、あなたはその人を敵視します、そうやって、あなたは絶えず争って生きています。
そのように、この快楽と称するものを理解することは非常に重要です。私が“理解する”と言うとき、それはそれについて学ぶことを意味しています。学ぶことが沢山あります、なぜなら、我々のあらゆる感覚的反応、我々が作り出してきたあらゆる価値、あらゆる要求―いわゆる自己犠牲、否定、受容―が、この途方もないものに基づいているからです、それが洗練された快楽であろうと、剥き出しの快楽であろうと。我々はそれを基礎に様々な活動に―共産主義者や社会主義者などとして―献身的になります。なぜなら、我々はこう考えるからです、何らかの活動に、何らかの観念に、何らかの生のパターンに自分自身を託すと、我々は大いなる快楽を手にすることになると、我々はより多くの恩恵にあずかることになると、そして、そのような価値や恩恵は、快楽としての何らかの活動と自分自身を同一化することに基づいています。どうか、これらのことを観察して下さい。
あなたは単に言葉に耳を傾けていません、あなたは言われていることが真理なのか、それとも偽りなのかを明らかにしようと実際に耳を傾けています。それはあなたの生です、あなたの日常の生です。ほとんどの我々は、この途方もない生と称するものを浪費しています。我々は四十年あるいは六十年生きてきました、会社へ行ってきました、何らかの社会活動に参加してきました、様々な形の逃亡を図ってきました、そして、結局、我々は空しい鈍い馬鹿げた生、無駄に費やした生の他は何も手にしていません。そして、それが快楽を理解することの非常に重要な理由です、もしあなたが改めて新しく始めようとするなら、なぜなら、快楽を抑圧したり否定したりすることは快楽の解決にはならないからです。いわゆる宗教的な人たちは、あらゆる快楽の形を抑圧します、少なくとも、その人たちはそのように試みます、従って、その人たちは鈍重な飢えた人々です。そして、そのような精神は干からびた鈍い鈍感な精神です、そして、恐らく、それは真実が何であるのかを明らかにできません。
そのように、快楽の働きを理解することは、非常に重要です。美しい樹木を見ることは素敵なことです、それは大いなる喜びです。それのどこが悪いのでしょうか? しかし、女性や男性を何らかの快楽を意識して見ること―あなたはそれを不道徳と称します、なぜなら、あなたにとって快楽がそこに、女性や男性に、付きまとうからです、関与するからです、あるいは、それは苦痛を覚える関係性からの逃亡です、従って、あなたは他のどこかに快楽を追い求めます、何らかの観念の中に、何らかの逃亡の中に、何らかの活動の中に。
宜しいでしょうか、快楽はこのような社会生活のパターンを作り出してきました。我々は野心や競争や比較に快楽を覚えます、我々は知識や力、地位、特権、身分などの獲得に快楽を覚えます。そして、そのような野心や競争、貪欲、嫉妬、身分、支配、力などの追求が社会的に敬意を表されます。そのように、一つの概念しか持たない社会によって、それらは敬意を表されます、つまり、それは、そうするとあなたは道徳的な生を送ることになり、それは社会的に敬われる生である、という社会的な概念です。あなたは野心的でいられます、あなたは貪欲でいられます、あなたは暴力的でいられます、あなたは競争的でいられます、あなたは無慈悲な人間でいられます、社会がそれを受け入れます、なぜなら、あなたの野心の結果、あなたはいわゆる大金持ちの成功者だからです、あるいは、あなたは負け組で不平不満の塊です。そのように社会的な道徳は不道徳な何かです。
どうか、これらのことに耳を傾けて下さい、同意するのでもなく同意しないのでもなく、耳を傾けて下さい、事実を見て下さい。そして、事実を見ること―つまり、事実を理解すること―は、それについて何らかの観念を捻りだすことではありません、それについて何らかの意見をものにしないで下さい。あなたはそれについて学んでいます。そして、学ぶためには、あなたは探究する精神、従って、熱気のある意欲的な精神、従って、若々しい精神で向き合わなければなりません。道徳―それは慣習や習慣です―は、あなたが何らかのパターンに順応している限り、そのパターンの中で敬われる何かです。そのようなパターンに反旗を翻す人たちがいます―このことは絶えず起こっています。そのような反抗は何らかのパターンに対する反射的反応です。そのような反射的反応は様々な形をとります―ビート族の若者、ビートルズ、テディボーイなどです―しかし、それらは依然として何らかのパターンの中で起こっています。本当の道徳は全く異なる何かです。それが、人が徳の性質や快楽の性質を理解しなければならない理由です。我々の社会的慣習や習慣や伝統や関係性―それら全てが快楽に基づいています。私はその快楽という言葉を狭い意味で、限られた意味で使っていません、私はそれを極めて広い意味で使っています。我々の社会は快楽に基づいています、そして、我々の全ての関係性がそれに基づいています、あなたは私の友人です、私があなたの好きなことに同意している限り、私があなたを助けて、あなたのビジネスが上手くいっている限り、しかし、私があなたを批判するや否や、私はあなたの友人ではありません―それはとても明白なことであり愚かなことです。
快楽の理解なしに、あなたは決して愛を理解できないでしょう。愛は快楽ではありません。愛は全く異なる何かです。そして、快楽を理解するためには、私が言ったように、あなたはそれについて学ぶ必要があります。宜しいでしょうか、ほとんどの我々にとって、ほとんどの人間にとって、セックスが問題になります。なぜでしょうか? このことに非常に注意深く耳を傾けて下さい。なぜなら、あなたはそれを解決できないので、あなたはそれから逃げているからです。托鉢僧は独身の誓いを立てることによって、それを否定して、それから逃げます。どうか、そのような精神に何が起こるのか見て下さい。あなたの全身体組織―様々な身体の腺的器官―の一部を否定することによって、それを抑圧することによって、あなたは自分自身を無味乾燥な人間にしてしまいます、そうすると、あなたの中でいつも何らかの葛藤が生じます。
我々が言っているように、我々には何かの問題に相対するときの二つの方法があります、見たところ、それを抑圧するか、それとも、それから逃げ去るかのいずれかです。それを抑圧するのは、それから逃げ去るのと本当は同じことです。そして、我々には逃げるためのあらゆるネットワーク―非常に複雑で知的で情動的なネットワーク―と通常の日常生活があります。今、我々は検討しませんが、様々な逃亡の形があります、しかし、我々はこの問題を抱えています。托鉢僧は何らかの方法でそれから逃げますが、その人はそれを解決していません、その人は何らかの誓いを立てることによって、それを抑圧しています、そして、全ての問題が、その人の中で煮えたぎっています。その人は粗末な服を纏っているかもしれませんが、このことはその人にとって途方もない問題になっています、それは通常の生活を送る人と同じです。
あなたはその問題をどのように解決しますか? あなたはそれを解決しなければなりません―それは快楽の働きです―あなたはそれを理解しなければなりません。あなたはそれをどのように解決しますか? もしあなたがそれを解決しないなら、あなたは単に何らかの習慣に囚われているだけです。それは何らかの決まりきったことを意味します、あなたの精神は鈍く愚かで重くなります、そして、それがあなたの手にしている唯一のものです。そして、あなたはその問題を解決する必要があります。最初に、あなたがそれについて学ぼうとしているとき、それを非難しないで下さい。どうか、それについて学んでください―それが我々の学ぶことについて話している理由です。あなたが知的に、情動的に行き詰っているとき、あなたの精神は単に何かを知的に繰り返しているにすぎません、他の人たちの言っていることや行っていることをあなたはコピーしています、模倣しています、あなたは果てしなくバガバッドギータやウパニシャッドや何らかの聖なる書物を引用しています、あなたは知的に枯渇していて、鈍くなっています。あなたの仕事場で、あなたは知的に模倣しています、来る日も来る日もコピーしています、同じことを行っています―仕事場であろうと、工場であろうと、あなたの家であなたが何を行おうと―絶えず何かを繰り返しています。そのように、知性―それには活力がなければなりません、それは明瞭で道理をわきまえていて、健全で、自由でなければなりません―が行き詰っています、さもなければ、そこには出口がありません、そこには創造的な行為は生じません。そして、情動的に、美学的に、あなたは枯渇しています、なぜなら、あなたは感受性を伴う情動を否定するからです―美を見て取る感受性です、夕刻の佇まいに魅了される感受性です、樹木を見る感受性です、自然に触れる感受性です。それでは、何があなたに残っていますか? あなたが生の中で手にしているのはただ一つです、それはあなた自身です、そして、それが計り知れない問題となります。
そのように、その問題を理解する精神は、それと即座に向き合わなければなりません、なぜなら、いかなる問題も、それが毎日続くと、心を、精神を鈍くするからです。あなたは解決できない問題を抱える精神に気づいたことがありますか? そのような精神に何が起こるのでしょうか? それは何か他の問題に逃げようとするか、それとも、それを抑圧するかです、従って、それは神経症になります―いわゆる聖なる神経症です、しかし、それは神経症です。そのように、いかなる問題も、それが何であれ―情動的であれ、知的であれ、身体的であれ―即座に解決されなければなりません、次の日に持ち越されてはなりません、なぜなら、あなたは次の日に他の問題と向き合うからです。
従って、あなたは学ぶ必要があります。しかし、あなたは学ぶことができません、もしあなたが今日の問題を解決していないなら、あなたは単にそれらを明日に持ち越しているにすぎません。そのように、あらゆる問題が、どんなに込み入っていても、どんなに難しくても、どんなに負担がかかっても、その日のうちに即座に解決されなければなりません。問題の根を残す精神―なぜなら、それは問題に取り組むことができていないからです、それにはそのような能力がないからです、それにはそのような熱気がないからです、それには学ぼうとする意欲がないからです―そのような精神は、あなたがこの世界で目にするように、鈍感な、恐れる、醜い、自分本位で、自己中心的で、残酷な精神になります。
そのように、このいわゆるセックスの問題が解決されなければなりません。そして、それを叡智を働かせて賢く解決するためには―それから逃げるのではなく、それを抑圧するのではなく、あるいは何らかの馬鹿げた誓いを立てるのではなく、あるいは、それに耽るのではなく―人はこの快楽という問題を理解する必要があります。そしてまた、人は別の問題も理解する必要があります、つまり、ほとんどの人間が二番煎じの人間であることです。あなたはバガバッドギータを隅から隅まで引用することができます、しかし、あなたは二番煎じの人間です、あなたにはオリジナルなものが一切ありません。あなたの中には自然発生的な本物が全くありません、知的にも、美学的にも、倫理的にも。そして、唯一、あなたの中に残っているのが、食欲や性のような飢えであり、本能的な欲求です。強迫的な食欲や性欲があります。あなたは人々が我を忘れて貪り食うのを見たことがあります―同じことが性的にも起こります。
そのように、この非常に複雑な問題を解決するためには―なぜなら、その中に美や愛情や愛が含まれているからです―あなたは快楽を理解する必要があります、そして、この精神の条件づけを打ち破る必要があります、何かを繰り返している精神です、他の人たちが何世紀にもわたって言ってきたことを、あるいは十日前に言ったことを単に繰り返す精神です。マルクスやスターリンやレーニンを引用するのは驚くべき逃亡です、そして、バガバッドギータを引用するのは、あなたがそれを隅々まで理解しているかのように引用するのは、驚くべき逃亡です。あなたは生きなければなりません、そして、生きるためには、あなたはいかなる問題も抱えることはできません。
そのように、このセックスの問題を理解するためには、あなたは精神を解放しなければなりません、知性を解放しなければなりません、そうすると、それは見守ることができます、理解することができます、そのように働くことができます、そしてまた、あなたは情動的に美学的に樹木や山々や河川そして不潔な道路の汚れを見る必要があります、あなたの子供たちに気を付けている必要があります、その子たちがどのように育てられているのかに、その子たちの身だしなみはどうかに、あなたがその子たちにどのように接するかに、あなたがその子たちとどのような会話をするのかに気を付けている必要があります。あなたは道や建物や山や河川の曲線の美を見て取る必要があります、顔立ちの美を見て取る必要があります―それら全てがそのようなエネルギーの解放です、何らかの抑圧によってではなく、何らかの観念と同一化することによってではなく、それは、遍くあらゆる方向へのエネルギーの解放です、そうすると、あなたの精神は、美学的に知的に道理を湛えて、明瞭に働き、あらゆるものを現にある通りに見て取るのです。樹木の美、梢の中の鳥の美、水面の輝き、生の中の他のあらゆるもの―あなたがそれら全てに気づかないとき、自然に気づかないとき、あなたにはその問題が残るだけです。
社会は言います、あなたは道徳的でなければならないと、そして、そのような道徳は家族です。家族が家族の中に閉じこもると致命的な何かになります、つまり、家族が個になり、家族である個が、多と、共同体と、社会と対立します、そうすると、破壊的なあらゆるプロセスが始まります。そのように、徳は、社会的に敬意を表されることとは何の関係もありません。徳は花の咲くようなものです、それはあなたが成し遂げた何かではありません。あなたは善きことが分かります、あなたは善きことを成し遂げることはできません、あなたは謙虚さを成し遂げることはできません。虚栄心のある人のみが謙虚であろうと格闘します。あなたは、善き人であるのかないのかのどちらかです。善き人で“いる”のは善き人に“なる”のではありません。あなたは善き人に“なれません”、あなたは謙虚に“なれません”。そして、徳も同様です。社会の道徳的構造は模倣や恐れ、醜さ、個人的欲求そして野心や貪欲、嫉妬などに基づいています―それは徳ではありません、それは道徳ではありません。徳は愛の自然発生的な行為です―自然発生的です、計算されたものではありません、徳と一般に称される計算されたものではありません。それは自然発生的でなければなりません、そうでないなら、それは徳ではありません。もしそれが計算されたものなら、もしそれが実践されるものなら、もしそれが機械的な何かなら、どうしてそれが徳となりえるでしょうか?
そのように、あなたは快楽を理解する必要があります、そして、あなたは快楽と悲しみの性質と意義も理解する必要があります―恐らく、我々はいつかそのことを議論するでしょう。そして、あなたは徳と愛も理解する必要があります。
宜しいでしょうか、愛は育てられうる何かではありません。あなたは言えません、“私は学びます、私は愛を実践します”と。ほとんどの理想家たち、様々な形の知的、情動的な活動を通して自分自身から逃げているほとんどの人たちには、愛はありません。その人たちは驚くべき社会改革者たち、優秀な政治家たちかもしれません―もしそのような政治家と称する優秀なものが存在するなら―しかし、その人たちには愛は微塵もありません。愛は快楽とは全く異なる何かです。しかし、あなたはそれを深遠な熱気で理解することなしに愛と出会えません―それを否定するのではありません、それから逃げ去るのではありません、それを理解するのです。快楽の美には大いなる喜びがあります。
そのように、愛は育てられる何かではありません。愛は、神々しい何かと肉体的な何かとかに分けられません、愛があるだけです―愛には多と一の区別はありません。こう言うのは再び愚かな質問です、“あなたはあらゆるものを愛しますか?” 宜しいでしょうか、香りを漂わせる花は、誰がそれを嗅ぐのかには無頓着です、あるいは、誰がそれに背を向けようと構いません。愛も同じです。愛は記憶ではありません、愛は精神や知性に由来する何かではありません。しかし、それはこの存在の全問題―恐れや貪欲、嫉妬、絶望、希望など―が理解されて解決されたとき、自然に、慈しみとして現れます。野心のある人には愛は生まれえません。家族に執着する人に愛は生まれません、同様に、嫉妬は愛とは何の関係もありません。あなたが“私は妻を愛しています”と言うとき、あなたは実はそうではありません、なぜなら、次の瞬間、あなたは彼女を嫉妬するからです。
愛は大いなる自由を意味します―あなたの好きなことをするのではありません。しかし、愛は、精神が非常に穏やかで、私心がなく、自己中心的でないときにのみ生まれます。これらは理想ではありません。もしあなたに愛がないなら、あなたが何を行おうと―地上の全ての神々を追い求めようと、あらゆる社会活動に専念しようと、貧困の改革に乗り出そうと、政治に取り組もうと、書物を書き上げようと、詩を書こうと―あなたは死んでいるのも同然です。そして、愛なしには、あなたの問題は増大します、果てしなく膨れ上がります。そして、愛があると、あなたが何を行おうと、何のリスクもありません、何の葛藤もありません。そのように、愛は徳の根源的な何かです。そして、愛の状態の中にない精神は、宗教的な精神では全くありません。そして、宗教的な精神のみが、あらゆる問題から解放されて、愛と真理の美を知っています。