アウトサイダー

“朝顔

        アウトサイダー

1964年トーク

ボンベイ 2月19日

クリシュナムルティ 今宵、私は、非常に広くて、かなり深いことを検討したいと思います。私は実際に起こったことを話そうと思います。それは実際に起こりました。それは作り話ではありません、それは話のタネに作った話ではなく、それは実際に起こりました。
 我々は、日が暮れて行くとき非常に広い川の岸辺に座っていました。カラスたちが川の向こうから帰って来ていました、そして、月が樹木の上に掛かっていました。夕日が、流れて行く雲の上に出ていて、きらきらと輝いていました。その川は非常に豊かにゆったりと流れていましたが、その流れは力強くて深いのでした。そうすると、川の向こうから男の歌声が聞こえてきました、しかし、私にはよく聞こえませんでしたが、時折、その歌が川を渡って聞こえてきました。それは本当に非常に美しい夕刻で、私は魅了されました。そして、夕日が沈もうとするとき、不思議な静寂が辺りを包みました。それには言葉では言い表せない美がありました―あなたはそれを感じました、それがあなたの骨の髄まで染み入りました。あなたはその川を毎日見ています、そして、あなたはその夕日や月を毎日見ています。しかし、あなたはその夕刻に魅せられました、それは何かが満ちていて穏やかで途方もなく神秘的でした。
 そして、それに触れることができるくらいに、その美は途方もなくリアルでした、川向うの樹木のように、その船頭のように、その水面から飛び出す魚のように。あなたの熱気はそれを深く力強く感じました―何も存在していませんでした―いかなる形も、あなたが非常に美しいもの見るときに起こる奇妙な感情も存在していませんでした。あなたの精神やあなたの体、あなたの存在が全く静まっていました。そしてその美は消えませんでした、あなたはそれが深い静寂の中で息づいているのを感じました。それは感情とも感傷とも無縁の美でした。それは、むき出しで、力強く、活力があり、熱気に溢れていました、それはいかなる感傷主義とも無縁でした。それは、それ自体がリアルで、むき出しで、完全である何かに触れているような感じでした。それにはいかなる想像も表現も解釈も無用でした。それは何かが豊かに満ちている途方もない何かであり、人はそれを感じました。その感じは、あなたが途方もなく美しい何かを見るときに起こる感情ではありません、それは感傷主義や感情やいかなる記憶とも何の関係もありません―それら全てが消え去っています―そして、あなたはそこにいて、その途方もない何かを見守っています、それはあなたの全存在の一部であり、生き生きと息づいていて明瞭で豊かな何かです。
 そして、男が我々のそばに座っていました。彼は托鉢僧でした。彼は水の流れや水面に映る月にも気を留めませんでした。彼は川向うから聞こえてくる村人の歌声に気づきませんでした、彼は帰ってくるカラスたちに気づきませんでした、彼は自分自身の問題に気を取られていました。そして、彼は静かに話し始めました、途轍もなく悲しい表情をして話し始めました。彼は欲の強い男です、彼がそう言います、彼は残酷なほど欲が強くて、決して満足しないで、いつも何かを要求し訪ね求めていて、何事かを無理やり押し通す男です、彼の欲望は止むことを知りませんと、そして彼は懸命になって何年もの間それを克服しようと躍起になりました。そしてついに彼はこの上なく残酷な仕打ちを自分に施しました、そしてその日から彼はもはや人間ではなくなりました。
 そして、あなたが耳を傾けていると、あなたは途方もなく悲しくなります、途轍もない衝撃を受けます、神を追い求める人が、自分自身を取り返しがつかないほど切り刻むことに。彼はあらゆる感覚を失いました、あらゆる美の感覚を失いました。彼の関心の全ては神に到達することでした。彼は自分自身を拷問にかけました、自分自身を切り刻みました、自分自身を破壊しました、彼が神と称するものを見つけるために。彼は何らかの観念を思い描き、それがもたらす方式に従って生きていました。リアルなのはその方式であり、彼が追い求めていたものではありませんでした、彼が明らかにしようとしていたものではありませんでした。彼にとってリアルなのは、その方式であり、精神が編み出したその形です、そして、それは聖者たちや宗教や社会が言ってきたことです、彼は、見つけるためにはそのようにしなければならないと。そして、彼はついに途方にくれて、破壊されて、その夕刻の途方もない美を感じる感受性を失いました。そして、日が落ちると、星空が計り知れない空間の中に広がりました、しかし、彼は全く気づきませんでした。
 そして、ほとんどの我々がそのように生きています、我々は様々なやり方で自分自身に残忍なことをしてきました、容赦なくそうしてきました。我々は何らかの観念を抱いています、そして我々はその方式に従って生きています。我々の全ての行動、感情、活動が何らかの方式によって形作られ、コントロールされ、従属させられ、支配されています、そして、そのような方式は、社会や聖者たちや宗教や人が積み重ねてきた経験などによって確立されたものです。そのような方式が、我々の生を形作ります、我々の活動や存在を形作ります。そのような方式が、非常に強力になると、我々はいつも自分自身がそれらの方式やそれらの観念に近づくように、適合するように、適応するようにしています。我々のほとんどがそうしています、我々は何らかの方式を抱いています、つまり、人はこうしなければならない、こうしてはならない、これが正しい、それは間違っていると。そして、何らかのパターンが確立されると、我々はそのような方式に自己を適合させようとして、自分自身を拷問にかけます、神と出会うために、幸福になるために、平穏な生活になるために、そうします。
 そのように、我々の精神はいつも何らかの観念やパターンや方式を形作っていて、我々はそれらの方式に進んで従い、自分自身を形作っています―意識的にも無意識的にも―あるものを選択し、他のものを拒否します、不愉快なもの、自分に合わないもの、気に入らないもの、自分の性に合わないものを拒否します。何らかの方式やパターンは、他の人たちが、社会が、宗教が、聖者たちが、教師たちが我々に課すものです。そして、もしあなたが自分自身の生を観察するなら、あなたはあなたが何らかの方式に従って生きていること、存在していること、行動していることが分かるでしょう。我々は何らかの方式から決して自由ではありません。先に述べた托鉢僧の場合、彼は極端な仕打ちを自分に課しました、なぜなら、彼は何らかの方式を信じたからです、彼は何らかの観念を信じたからです、それは極端な神経症の例です。それでも、それほどの強迫的な欲求を抱いていない我々も、何らかの方式を抱いています、そして、それに従って我々は自分自身を、昼も夜も、意識する意識しないにかかわらず、絶えず痛めつけています。
 何らかの方式やパターンや観念が存在する限り、そのような観念や方式と“現にある事実”との間で何らかの争いが生ずるに違いありません。そして、人は理解しなければなりません、いかなる形の争いも、それがどのように見えても、それがいかなる目的であっても、崇高なそれであろうと、究極のそれであろうと、いかなる状況下であろうと、何らかの苦悩であることを、そして、それは余すことなく完全に避けられることを、人は理解しなければなりません―それは人の望むとおりに行わなければならないことではありません、それは幼い考え方であり、検討するに値しません。我々は自分自身を拷問にかけます、我々のすべきことや起こるかもしれないことや起こったことで自分自身を拷問にかけます、そして、我々は現にある事実に決して向き合いません。そのような苦悩が神を見出すためには必要であると、人は何世紀もの間考えてきました。インドではそれをインドのやり方で行い、キリスト教世界ではそれを他のやり方で行います。そして、神やそれを超えた何かを信じない人たちも、自分自身に拷問にかけます、その人たちの野心や残忍さや強迫的欲求や権威主義的ルールなどその他のあらゆる方法で拷問にかけます。
 リアリティー、それは人が百万年間探し求めてきたものです、それは異なる精神によって、異なる文化や異なる文明の下で、異なる傾向の異なる人々によって、様々に解釈されているものです―それは単に拷問を受けている精神には理解できません、到達できません。それは、精神が全く正気で健全で、いかなる規律や強制の拷問も受けていないで、いかなる方法のいかなる種類の強迫や模倣の拷問も受けていないとき、理解されうると私には思われます。そのような、若くて、瑞々しく、何の束縛も受けていない、無傷で、無垢で、活力のある、健康な、完全にオリジナルな精神が、それを理解するに違いありません、そうでないと、それは決して理解できないでしょう。
 なぜなら、真理は、本当の神―人が作り出した神ではない本当の神―は、破壊されていて、取るに足らない、浅薄な、狭小な、限界のある精神とは無縁だからです。それを理解するためには、健全な精神を必要とします、豊かな精神を必要とします―知識の豊かさではなく、無垢の精神です―経験に全く汚染されていない精神です、時間とは無縁の精神です。あなたが、あなた自身の慰安のために発明した神々は拷問を受け入れます、それらは鈍くなった精神を受け入れます。しかし、本当の何かはそれを求めません、それは余すことなく完全な人間を求めます、そのような人間は、樹木の美や子供の笑い顔、いつも食べものに不足する婦人の苦悶などを見て取れる、鋭敏で、あまねく見渡す、豊かで、明瞭な心の持ち主です。
 あなたはこの途方もない感覚を持つ必要があります、このあらゆるものに対する感受性です―動物や壁を乗り越えるあの猫、人間の作り出す汚れやごみ、貧困の不潔さ、絶望などに対するあなたの感受性です。あなたの感受性は鋭敏でなければなりません―それは強く感じることです、それは特定の何かに限りません、それは移ろいゆく感情ではありません、それは、あなたの神経や目や身体や耳や声が鋭敏であることです。あなたは鋭敏でなければなりません、余すことなくいつもそうでなければなりません。もしあなたが余すことなく鋭敏でないなら、叡智は生まれません。叡智は感受性と観察によって生まれます。
 感受性は無限の知識や情報によっては生まれません。あなたは世界中のあらゆる書物を知っているかもしれません、あなたはそれらを読んでいるかもしれません、それらを貪り尽くしたかもしれません、あなたはあらゆる著者に詳しいかもしれません、あなたは語られてきたこと全てを知っているかもしれません、しかし、そのようなことでは叡智は生まれません。叡智をもたらすのはこの感受性です、あなたの精神の余すことのない感受性です、意識的にも無意識的にも、その途方もない愛情や共感や寛大さを秘めたあなたの心の感受性です。そして、それと共に、その鋭敏な感性が生まれます、樹木から落下する枯れ葉に触れるような感性、汚れた通りの汚らしさを見て取る感性です―あなたは両者を感じる必要があります、あなたは一方に鋭敏で他方に鈍感ということはありえません、あなたの感受性は鋭敏であり、どちらか一方に傾くことはありえません。
 そして、そのような感受性で観察するとき、観察する叡智が生まれます―何事も現にある通りに見て取ります、いかなる方式ともいかなる意見とも無縁にそうします、雲を現にある通りに見て取ります、あなた自身の思考の深部や隠れた欲求を、それらが実際にある通りに見て取ります、何の解釈もせずに、そうあって欲しい、あるいはそうでなくて欲しいと願わずに見て取ります、ただ観察します、その隠れた欲求にただ耳を傾けます、あなたは観察します、あなたがバスに乗っているとき他の乗客を見て取ります、あなたのそばの乗客を見て取ります、その人の様子や話し方を見て取ります―ただ観察します。そのような観察から何かを明瞭に見て取ります。そのような観察によって、曖昧なあらゆるものを払い除けます。そのような感受性と共に観察することによって、その途方もない叡智の質が生まれます。
 宜しいでしょうか、指摘したいことがあります、どうか言われていることに耳を傾けて下さい。メモを取らないで下さい。ただ耳を傾けて下さい、遠くから聞こえてくる歌声に耳を傾けるように、リラックスして、気を楽にして、分かろうと思いつめないで、ただ耳を傾けて下さい。なぜなら、もしあなたがそのように耳を傾けるなら、我々は非常に遠くまで一緒に歩を運ぶことになるでしょう。そうすると、あなたは受け入れるのでも否定するのでもなくなります、そうすると、あなたの精神はもはや取るに足らない狭小な精神―“それを私に証明して見せて”と言う議論を好む精神、分解して分析したい精神―ではなくなります。それは、あなたが言われていることを鵜呑みにしたり、感傷的になったり、受け入れたりすることを意味しません。
 耳を傾けるには途方もないエネルギーが要ります。それは感傷的な状態でもなければ情動的な質でもありません。耳を傾けるためには非常に明瞭で明確な理に適う精神が必要です、それは最後まで完全に理を通すことのできる精神であり、極めて健全な精神です。そのような精神で耳を傾けて下さい―言われていることだけではなく、あなた自身にも耳を傾けて下さい。あなた自身の精神の囁き、あなた自身の心の蠢きにも耳を傾けて下さい、ただ自分自身に耳を傾けて下さい。我々は、耳を傾ける霊妙な働きを必要とする何かを検討しようとしています、我々は真理とは何かを明らかにしようとしています。
 あなたが自分自身で真理とは何かを発見するとき、その真理が自ら働きます。あなたは何もする必要がありません。会社でも家でも、あるいは、あなたが一人でひっそりと清流の森を歩いているときでも、その真理が働きます、それはあなたが発見した真理であり、他の誰かの言ったことを聞いて、それを繰り返し思い起こしているのではありません。あなたが自分自身で真理とは何か、偽りとは何かを発見するとき、あなたが自分自身で偽りの中にある真理や真理としての真理を発見するとき、その途方もない質が爆発します、そして、その純粋な健全さと明瞭さから、真理が癒しの働きをします。それが、今宵、我々の行うことです。話し手の言葉に耳を傾けて、あなたは自分自身で真理を発見しようとしています、そして、その真理が働くようにします、どこであろうと、いつであろうと。そして、それが働くとき、あなたはそれに干渉しません。
 我々が言っていたように、このような感受性で観察すると叡智がもたらされます。なぜなら、叡智なしには、生が、味気ない浅薄な繰り返しになり、何の深みも質も持たなくなるからです。そして、この叡智こそが正に何らかの規律をもたらします。
 “規律”という言葉の元々の意味をよく考えると、それは学ぶことを意味します―順応することではありません、昨日あるいは何千もの昨日によって築き上げられたパターン、あるいは明日あるいは一万年もの先の未来の方式に従うことではありません。律することは学ぶことです―順応することではありません、従うことではありません、受け入れることではありません、何らかのパターンや観念や方式によって自分自身を拷問にかけることではありません。社会や宗教や技術的な仕事や他の何かが我々に強いるのは自己を律することです―それは順応することであり、模倣することであり、抑圧することであり、あるいは自己を純化することです。それは我々に明瞭さをもたらしませんでした、我々を混乱から解放しませんでした、悲しみから解放しませんでした、それは精神を解放して穏やかな精神をもたらしませんでした、動機や未来や過去とは無縁な途轍もない熱気をもたらしませんでした。我々は自己を律する苦悩を知っています。
 この上なく卑賤な例を取り上げます、喫煙とそれを止める戦いです。あなたは些細なことで途轍もない争いをします、ただ喫煙を止めることです。医者や政府が言ってきました、それは健康に悪いと、それは癌を引き起こすかもしれないと、あなたはそれを恐れます、その恐ろしい結果を恐れます、それでもあなたは喫煙を続けます。そして、それを続けるとき、あなたは葛藤します、なぜなら、あなたは分かるからです、あなたの健康や様々な理由から、あなたは喫煙を止めるべきであると。しかし、あなたは喫煙を続けます、それは習慣になっています、そして、その習慣を破るために、あなたは別の方式、別の習慣を築き上げます。
 それが我々の生き方です―いつも葛藤しています、いつも一つの習慣を破って別の習慣に陥ります、新たな思考的習慣、感情的習慣、感覚的習慣、快楽的習慣です。性的習慣があり、飲酒の習慣があり、惨めなあなたの神を追い求める習慣があります―それらはみな同じです、それらは現実からの逃亡です。そして、我々自身の性向や博識や知識や教育に従って、我々は規律と称するものを自分に課して、その戦いやその葛藤を強めたり、我々の途轍もない衝動や怠惰に従って、我々は規律と戯れたりします。そのように、我々の精神は社会によって、教会によって、環境によっていつも形作られます。
 どうかこれらのことを理解して下さい、私はあなたの精神のことを話しています。私の使う言葉に囚われないで下さい。言葉には何の価値もありません。言葉はシンボルであり、言葉はコミュニケーションの手段です、それは電話のようなものです。あなたが電話をかけるとき、あなたは電話を崇めません、重要なのは電話の内容です。
 我々は様々な規律と共に生きてきました、様々な道徳観や道徳と称する習慣と共に生きてきました―“そうあるべきこと”や“そうあるべきではないこと”です。それが我々の存在のパターンです、それは拷問であり、それは醜くて果てしのない葛藤とその惨めさです。
 宜しいでしょうか、人は規律なしで生きられますか? なぜなら、そのような規律に基づく生き方は、人が何世紀にもわたって生きてきたそのような生き方は、恐ろしいことであり、この上なく醜い存在の形だからです、それは機械的な精神を育むだけです。あなたは知っています、毎日毎日何か月も何年も命令に従うように訓練されている兵士に何が起こるのかを。あなたは彼を見たことがありますか? 彼は機械的に機能し従います、あらゆる自発性、あらゆる自由を失っています。あなたは会社へ毎日毎日四十年間通います、そのような恐ろしい退屈さはあなたに何をもたらしますか? それを見て下さい。あなたは自分をそのように鍛えてきました、そのように順応してきました、なぜなら、あなたには家族があるからです、あなたは生計を立てなければなりません、あなたは家族を養わなければなければなりません―我々は数知れないあらゆる理由を知っています。
 そのように、我々はこの世界をどのように生きるのかを明らかにする必要があります、あなたは生計を立てなければなりません、あなたは毎日毎日規則正しく効率よく絶えず何かを行わなければなりません、あなたは自分自身の貪欲な欲望を抱えています、あなたはセックスします、そしてそれを習慣にしないことです。あなたは、習慣にしてしまう他の衝動も抱えています。どうかこのことに耳を傾けて下さい。我々は、この世界をどのように生きるのか明らかにする必要があります、それら様々なものを抱えている中で、どのようにして完全に自由に生きるのかです、いかなる方式とも無縁に、精神を捻じ曲げないで、順応する精神にしないで、社会によって形作られる精神ではなく、どのようにして生きるのかです。なぜなら、規律に基づく精神―順応する精神、受け入れる精神、従い、模倣し、抑圧する精神―は愚かで鈍感な機能不全の精神だからです、それは死んでいるような精神だからです、それが托鉢僧の聖なる精神であろうと、哀れで惨めな婦人のそれであろうと、盗みを働く男のそれであろうと。人はこの世界をそのような規律とは無縁に生きる必要があります、なぜなら、人はそのことを理解するからです、その真理が分かるからです。
 あなたは規律の意味することが分かります―順応すること、模倣すること、抑圧すること、コントロールすること、ある種の心理的枠組みの中で生きること、何らかの方式やパターンの中で生きること、それが社会によって確立されたものであろうと、宗教によってであろうと、あるいは、あなた自身の知的能力や経験によってであろうと。あらゆる形の規律が、その種類に従って、恐ろしいほど破壊的です、それは精神を無能にします。あなたは機械のように機能するかもしれませんが、あなたは、恐らく、いかなる環境にあっても、真理を明らかにできません。なぜなら、真理には自由が欠かせないからです、つまり、それには高度の感受性である叡智が欠かせないからです、そして、それには観察する気づきが欠かせません。
 あなたは、この世界を、そのような伝統的で破壊的な規律とは無縁に生きられますか? どうかそれを検討して下さい、自分自身に問うて下さい。この世界はますます機械的になっています、少年少女が機械的に躾けられています、形作られています。この世界を生きることは、順応することです、そうでないなら、あなたは社会によって破壊されます、もしあなたがカトリック教徒でないなら、イスラム教徒でないなら、ヒンズー教徒あるいは仏教徒でないなら、あなたは叩き出されます。あなたは、この世界を、そのような規律の破壊的で伝統的な―精神を堕落させ破壊して醜くする―重しを取り去って生きられますか? あなたはこの真理がわかりますか―私があなたにそう言うからではなく、話し手がそのように指摘したからではなく。もしあなたがこの実際の美を理解するなら、あなたは自分自身に問わなければなりません、あなたはこの世界をそのような規律とは無縁に生きられるのかどうかを。あなたは規律とは無縁に生きられますか、あなたが何を行おうと、規律から解放されて生きられますか? 生きられますか? あなたはそうできません。もしあなたがそうするなら、あなたは絶えず葛藤していて出口が見えないでしょう。
 そのように、あなたは自分自身であなたが叡智の生を生きられるかどうかを明らかにする必要があります。我々は“叡智”が何を意味するのか説明してきました。それは叡智の辞書的な定義ではありません。それはあなたが繰り返し論証的にこう言うことではありません、つまり、それは一つの意見です、他にも様々な意見がありますと。意見を戦わせて、その中から真理を見つけようとするのは論証的な方法です。我々は論証的に話しているのではありません、我々は事実を話しています―あなたがそれを受け入れるか否かは問題ではありません。もしあなたがこう言っても、“それはあなたの意見です、他にも様々な意見があります”、我々は意見を戦わせているのではありません。真理は意見の中にはありません、数多くの意見があります、なぜなら、多くの人がそれぞれの意見を持っているからです。そのように、我々は論証的に話しているのではありません、意見によって唱えられる真理を分析によって明らかにしようとしても徒労に終わります。我々が指摘しているのは全く別の何かです。
 我々は言っています、途方もなく生き生きとしていて感受性豊かに気づく精神は、“現にある通り”に観察することによって、事実を観察することによって、この世界をその破壊的な規律とは無縁に生きられると。樹木は樹木です、それはあなたが考えるそれではありません。あなたは“現にある通り”に観察する必要があります、実際のあなたを観察する必要があります―あなたはそうあるべきであるとか、他の人々がそう言ったからではなく―夕日の色や穏やかな海の豊かな美を、静かな夜の途方もない佇まいを“現にある通り”に観察する必要があります。そうすると、そのような感受性と観察によって、あの叡智の生き生きとした質が生まれます。
 宜しいでしょうか、我々には何らかの規律が必要です、それは学ぶことです。我々は学んでいます。学ぶのに終わりはありません、従って、叡智をもたらす学びに終わりはありません。それ以外の規律は、伝統的な―順応したり、適応したり、強制したり、抑圧したりする―規律は叡智をもたらしません、叡智の明瞭さや美や生命力をもたらしません。しかし、叡智が実際に十分働いているところに、そのような叡智から絶えず学んでいる規律が生まれます。あなたは何かを学ぶことがどういうことであるのか分かりますか? 自動車について学ぶことや、あなたの仕事や料理の仕方や食器の洗い方などについて学ぶこと―それを正しく効率よく行うには、あなたは絶えず学んでいる必要があります。宜しいでしょうか、あなたが絶えず学んでいると、あなたは言いません、私は学びました、それで十分です、従って、何か起これば、さらに学んで、これまで学んできたものに付け加えますと。もしあなたがそのように言うなら、あなたは学ぶことを止めています。
 精神がいつも学んでいると、精神がそれ自身の途方もない見事な規律をもたらします。その中には何かに順応することや何らかのパターンに従うこともなく、いかなる方式もいかなる抑圧もいかなる従属も存在しません、それは生きものです。そして、あらゆる生きものは、それ自身で学びます、容易に、素早く、自由に、効率よく学びます。そこから精神の美が生まれます、それは非常に明瞭な精神であり、いかなる規律も必要ありません。
 もしあなたがこのことを見て取ると―余すことなく見て取ると、単に言われていることを聞いているだけではなく―もしあなたが内なる目で見て取ると、心から耳を澄ますと、あなたは自分自身で古い伝統の本当の性質を見て取るでしょう、“規律”と称される腐ったものを見て取るでしょう。私は“腐った”という言葉を意図して使っています、なぜなら、あなたが自分自身の精神を見てみると、あなたは、それがいかに浅く鈍く鈍感になっているのかが分かるからです。もしあなたがこの規律と称されるものを理解すると、それは人を醜くしてきましたが、もしあなたがその真理を見て取ると、それはあなたから抜け落ちます、あなたは何もする必要がありません。あなたがその真理、あるいはその誤りを見て取るのは、あなたの感受性がとても鋭敏なときだけであり、そして、あなたがその明瞭な感受性でこの規律の全ての成り立ちを観察するときだけです。そうすると、あなたはそれから抜け出します。
 しかし、あなたは生きられません、あなたの行いたいことを行うようには生きられません、なぜなら、あなたの欲望は日に日に変わるからです。一つの欲望が満たされると、あなたの欲望はそれに満足しません、それは不満を抱いて、別の何かを追い求めます。欲望の対象は絶えず変化します。欲望は変わらなくても、その対象が変わります。子供のときから、そして大人になっても、欲望の対象は絶えず変化しますが、欲望そのものは変わりません。そして、我々は考えます、もし我々がそのあらゆる対象を神に置き換えるなら、我々は全現象を理解したと、しかし、それはただ我々の関心が取るに足らないものから大層なものに移ったにすぎません、それは依然として取るに足りません、なぜなら、それも依然として欲望の対象だからです。
 そのように、もしあなたがこの全プロセスを理解するなら、あなたは分かるでしょう、あなたはこの世界を生きられると、その様々な難題や残忍さを抱えたこの世界を生きられると、なぜなら、あなたには叡智によってもたらされる途方もない閃きがあるからです、そうすると、あなたは分かるでしょう、あなたは、叡智が働く有能で明晰で混乱していない人間として生きて機能することができると。そして、あなたがそのように生きられるのは、あなたが理解するときです、どのようにして精神が形作られるのか、どのようにして精神が観念を生み出すのか、どのようにしてそれが方式と化して、あなたの生き方になるのかをあなたが理解するときです。
 我々は様々な方式を作り出します、なぜなら、それらが我々に自己のアイデンティティの一貫性をもたらすからです。我々は様々な方式を作り出します、なぜなら、それらが我々に我々の社会的存在価値をもたらすからです。我々は様々な方式を生み出します、なぜなら、それらが我々に何らかの躍動感をもたらすからです、何かを行っている感覚をもたらすからです。それは人助けをしたいと思っている人のようです―その人には人助けとはどういうことかのその人なりの方式があります。その人には自尊心があります、そして、そのような人助けで、その人は、その人自身の慰安や安寧や自己満足のために、他の人たちを利用します。
 路傍の花の色彩や美は人助けを語りません。それはそこでその香りを漂わせて、愛らしく、途方もなく優しく佇んでいます、あなたはただそこに近づき、その香りを嗅ぎ、それに魅了されるだけです。それは人助けを語りません。しかし、我々は我々の取るに足らない狭い精神で何かを行いたいと思って数多くの活動に身を投じます、我々は何らかの方式を欲しがります、我々は方式で生きて、我々は方式で死にます。我々には愛の方式があります、我々には死の方式があります、そして、我々には神の方式があります。そのように、言葉が非常に重要になっています―命ではありません、生きることではありません。理想、つまり、人が発明するまがいもの―人が逃げて閉じこもる場所―が重要になっています。
 そのように、この世界を生きることができる精神は、そのような観念の成り立ちや、それに基づく人の生きる枠組みを理解する必要があります。あなたがその真理を一度見て取ると、あなたは本当に根本的な問いを発します、いかなる方式―過去の方式や未来の方式―とも無縁に生きることは可能かと。そのような状態を明らかにして、そのような状態を生きるためには、驚くべき明瞭さが必要です、その中には、いかなる争いもいかなる拷問も一瞬たりとも存在しない明瞭さです。それは自分自身を光で照らす精神であり、余すことなく気づいている精神―拷問を受けていない精神―なので、それはいかなる方式とも時間とも無縁です。