クリシュナムルティ これがこのシリーズの最後のトークです。我々がこの数週間議論してきたのは、現在の世界状況が新しい精神を必要としているということです、それは次元の全く異なる精神で、方向性を持たない、単に特定の方向を目指さない精神であり、全体を見渡す精神です。そのような精神が本当の“宗教的精神”です。宗教的精神は科学的精神とは全く異なります。科学的精神は方向性を持っています。それはピストンエンジンからジェットエンジンへと様々な壁を乗り越えて突き進みます、それには方向性があります。しかし、宗教的精神は方向性とは無縁に爆発します、それには方向性がありません。そして、新しい精神のそのような爆発的性質は規律の問題ではなく、手に入れられる何かではありません、達成される何かではありません、獲得される何かではありません。もしあなたが何かを達成しようとしているなら、獲得しようとしているなら、手に入れようとしているなら、それを何らかのゴールとして思い描いているなら、それは方向性を持っています、従って、それは科学的です。宗教的精神が生まれるのは、我々が我々の思考の全構造を理解するときです、我々が自己を知ること、自己知に非常に精通するときです。人は自分自身を知る必要があります、あらゆる思考やその様々な働き、妬み、野心、強迫観念、様々な衝動、恐れ、悲しみ、様々な願望、信仰や教義の閉塞的な性質、経験や情報を通じて精神が行き着く数え切れない結論などです。そのような自己知がとても重要です、なぜなら、そのような自己知のみが自分自身を理解しているので、新しい精神の誕生のために自分自身を消滅させるからです。
論理や理由や明確な言語的思考は重要ではありません、それは必要ですが、それは何ももたらしません。野心家は、一般的に非常に野心的である政治家と同じように、野心のなさを語って野心の危険性を口にしますが、それは言葉の上であって何の意味もありません。しかし、もし我々が理解するなら、自分自身を探究するなら、我々は言葉で説明するだけではなく、あらゆる説明をやり過ごすべきです、なぜなら、説明は本当の何かではないからです。ここにいる幾人かが、何年も話し手のトークを聞いてきたのを私は知っています、彼らは説明する専門家であり、彼らは話し手よりもはるかに上手に言葉で論理的に明確に説明できます。しかし、彼らの心や精神をよく見て下さい、彼らの頭の中は知識だらけで、混乱し、野心的で、次から次へと何かを追い求めています、絶えず動き回る猿のようです。そのような精神は決して新しい精神を理解できません。
私は、新しい精神の誕生が非常に重要だと思います。それは望んでも、何らかの欲望や犠牲によっても生まれません。求められるのは豊かな精神です、観念や知識を纏ったそれではありません、それは、非常に肥えた土壌に、種子が肥料を与えられなくても、十分に手をかけないでも育つことに似ています。砂地に種子を蒔いても育ちません、それは枯れて死んでしまいます。しかし、非常に鋭敏な精神は豊かでその他に何もありません、何もないというのは空っぽということではなく、それは種子のための養分以外は何も含まないということです。そして、もしあなたが自分自身を十分に検討していないなら、深く探究し、追究し、見詰め、見守っていないなら、あなたは鋭敏な精神を手にすることはできません。もし精神があらゆる言葉や結論を脱ぎ捨てて浄化されていないなら、どうしてそのような精神が鋭敏でありうるでしょうか? 経験や知識や言葉を纏う精神がどうして鋭敏になりうるでしょうか? それはどのようにして知識を取り除くのかの問題ではありません、それではそれは単なる方向性になります、しかし、人は精神が鋭敏である必要性を見て取らなければなりません。鋭敏であることは、あらゆることに鋭敏であることを意味します、ある特定の方向だけではありません、美に対して、醜さに対して、人の話に対して、人や自分の話し方に対して、意識的であれ無意識的であれ、あらゆる反応に対して鋭敏であることです。体が肥満しているとき、過食しているとき、精神は鋭敏ではありません、喫煙やセックスや飲酒の習慣、あるいは、精神が思考として育んできた習慣に蝕まれているとき、精神は鋭敏ではありません。明らかに、そのような精神は鋭敏な精神ではありません。あなたは鋭敏な精神を持つことの重要性が分かりますか、鋭敏な精神をいかに獲得するのかではありません。もし人が鋭敏な精神をもつ必要性や重要性や逼迫性が分かるなら、あらゆる他のことがそれに合わせることになります。規律を本分とする精神や順応させられた精神は、決して鋭敏な精神ではありません。明らかに、誰かに追随する精神は鋭敏な精神ではありません。優れて柔軟で何ものにも従属しない精神のみが鋭敏な精神です。
豊かな精神は、新しい観念の発明ではないそのような精神は、言葉がそれ自体で真実であるかのような様々な説明を好んだり、それらに耽ったりはしません。言葉はそれが伝えようとするその当のものでは決してありません。ドアーという言葉はドアーそのものではありません、それら二つは全く別物です。しかし、ほとんどの我々は言葉で満足して、我々は宇宙の全構造や我々自身を言葉で理解したと思います。語義という点で、我々は論理的言語的に非常に明確な理由付けをしますが、それは豊かな精神ではありません。豊かな精神は妊娠する前の子宮のようであり、その中は空です、そして、それが空なので、それは肥沃であり豊かなのです、そして、そのことが正に意味するのは、新しい精神の誕生のために、それが必要としないあらゆるものをその外に吐き出していることです。そして、それが誕生するのは、あなたがそのような精神を持つことの逼迫性を見て取るときのみです、いかなる信仰や教義とも無縁に、何らかの不平不満とも無縁に、従って、いかなる希望や絶望とも無縁に、本当は自己憐憫でしかない悲しさとも決別して、その逼迫性を見て取るときのみです。そのような精神にとっては、新しい精神が必要です、従って、自己を知る領域へ踏み込んでいくことが極めて重要です。
我々は知っています、何人かが、三十年、四十年、これらのトークを聞いてきたことを、そして、彼らが彼らの内面から出ていないことを、そして、彼らが絶えず外面的に活動していることを知っています。そのような人たちは、いかさましであり、人を食い物にしていて、従って、非常に破壊的な人たちです、彼らが政治家であろうとソーシャルワーカーであろうと精神的な指導者であろうと、彼らは自分自身の存在に本当に深く内面的に踏み込んでいません、その生の余すことのない全体に踏み込んでいません。あなたと私は生の余すことのない全体であり、生の全体です、つまり、生そのものです、物理的な生、有機的な生、自律神経、感覚、野心的に目的を追求する生、嫉妬する生、そのように絶えず自己と戦っている生、比較する生、競争する生、悲しみや喜びを知る生、動機や衝動や欲求や成就や不平不満に満ちた生、究極の永遠、永久、永続を願う生、移り行く一瞬一瞬を知る生、何も永遠ではないことや実質的には何ものもないことを知る生、それら全てがあなたと私の余すことのない全てであり、それが生です。そして、それら全てを本当に理解することなしに、それら全ての単なる説明には何の価値もありません、しかし、我々はそうした説明や言葉にとても簡単に満足します、それは我々がいかに浅はかであるのかを、我々の生がいかに表面的であるのかを、我々がいかに狡猾な言葉に、いかに巧みな言い回しに満足するのかを指し示しています。結局、ウパニシャッドであれ、バガバッドギータであれ、バイブルであれ、コーランであれ、それらは言葉にすぎません、そして、同じことを繰り返し言ったり、引用したり、説明したりするのは依然として言葉の継続です、そして、どうも我々はそれらに途方もなく満足するようです、そして、それが指し示すのは、我々がいかに空しく浅はかであるのかであり、いかに我々が言葉によって、無意味な灰でしかない言葉によって、いかに簡単に満足するのかということです。
そのように、自己を理解することが絶対的に重要です。理解するという言葉は、説明という言葉とは何の関係もありません。描写は理解ではありません、言葉による描写は理解ではありません。何かを理解するためには、歪めることなくそれ自身を観察することができる精神を要します。私は理解できません、そのような花々を見ることができません、もし私がそれらに文字通り気を付けているのでなければ。文字通り気を付けているときは、非難したり、正当化したり、説明したり、結論を下したりしません。お分かりでしょうか? あなたが観察するそのような状態が生まれるのは、理解しようとする、見守ろうとする、観察しようとする、見て取ろうとする、感じ取ろうとする逼迫感が生じるときです、そうすると、精神は観察するために、あらゆるものを自分自身から剥ぎ取ります。ほとんどの我々にとって、観察することが非常に難しいのは、我々が決して何ものも見守っていないからです、あなたの妻や子供あるいは通りの汚れ、そして、子供たちの笑い顔です、我々は決して自分自身を見守ってきていません、我々の座り方や歩き方、話し方、我々の途切れないお喋り、我々の口喧嘩などです。我々は決して活動している自分自身に文字通り気を付けていません。我々は何気なく何かを行っていて、我々はそのようにしていたいのです。我々はそのような習慣を身に着けていて言います、どうしたら私は自分自身をそのような習慣とは無関係に観察できるのかと。そのように、我々は葛藤しています、そして、その争いに打ち勝つために、我々は他の形の規律を発達させます、そして、それは更なる習慣の継続です。
そのように、習慣や規律やある特定の観念の継続は理解を妨げます。もし私が子供を理解したいなら、私は見守らなければなりません、私は観察しなければなりません、ある習慣だけではなく、いつも観察しなければなりません、子供が遊んでいるとき、泣いているとき、あらゆることをしているときです。私はその子を見守らなければなりません、しかし何らかの偏った見方が生じれば、私は見守ることを止めています。偏った見方や偏見や経験を自分自身で発見することが、そして、観察を妨げるそのような知識を発見することが、自己を知ることの始まりです。そのように、自己を知ることの探求なしに、あなたは観察できません。“私”から何らかの偏見や条件づけの数々の色眼鏡を取り除かないで、あなたは見守ることができますか? どうして政治家たちが宇宙や世界を見守ることができますか? なぜなら、彼らはとても野心的であり、全く取るに足らない存在であり、彼らは自分たちの政策や自分たちの国家に関心があるからです。我々もまた我々の仕事や妻、地位、業績、野心、嫉妬、結論などに関心があります、そして、それらに関心を持ちながら我々は言います、我々は見守らなければならない、我々は観察しなければならない、我々は理解しなければならないと。我々は理解できません。理解は、我々がそれら全てを精神から取り除いたときにのみ生まれます、それらを容赦なく取り除かなければなりません。なぜなら、それらが悲しみを生むからです、それらは悲しみの種子であり根だからです、そして、悲しみが根を張っている精神からは、決して慈しみは生まれません。
私は知りません、あなたが一つのことを取り上げて、それを検討し探究したことがあるのかどうかを、例えば嫉妬です。我々の社会は嫉妬に根差しています、我々の宗教は嫉妬に根差しています。嫉妬は社会的に“何かになること”と表現されます、成功という社会的階段を上ることを意味します。嫉妬は競争を含みます、そして、その“競争”という言葉が嫉妬を隠蔽する役割を担います、我々の社会はその上に築かれています。そして、我々の思考の構造は嫉妬の上に成り立っています、それは比較することであり、何かになる競争です。一つを取り上げて、嫉妬を取り上げて、それを理解して下さい、それを正に経験して下さい。それを直に確かめて、嫉妬を精神から取り除いて下さい。そして、それにはエネルギーが要ります、違いますか、嫉妬を見てみることです、それが我々の内にも外にも働いているのを見守ることです、嫉妬が表現されるのを、成就されるのを見守ることです、嫉妬の欲求不満を見守ることです、それは野心や妬みや憎悪を含みます、そして、それは嫉妬を取り上げて、それを正に経験することを意味します。それは、それを語源的に考えたり、それを言葉にしたり、それを論理的に考えたり、それを正確に考えたりするだけではなく、実際に、精神から、あらゆる嫉妬を取り除いて、精神が、競争や何かへの到達や何かの獲得という観点から考えないようにすることです。きっと、あなたはそのように行ったことがないと思われます、初めてここへ来られた人たちだけではなく、三十年も私に耳を傾けてきた人たちも同じことだと思われます。彼らはそのように行ったことがありません、それを遠巻きにして説明して戯れます。しかし、それらを日々一瞬一瞬検討して、容赦なく、この嫉妬と称されるぞっとするものに踏み込んでいくにはエネルギーが要ります。
そのようなエネルギーは嫉妬しないことに注がれません、お分かりでしょうか? 人が嫉妬の理解に関心を持つとき、嫉妬しないことに献身的になる二重性は存在しません、それは暴力と非暴力の二重性と同じです。非暴力であろうとする欲求は、方向性を持った献身的な行為であり、その行為はエネルギーを引き出します。知らないでしょうか、あなたが何らかの活動に献身的になるとき、チベットの子供たちを救うことやインドのナショナリティを救うことや何かに献身的になるとき、それはあなたに途方もない活力を与えます。この不幸な国のために戦った人たち、彼らは牢獄に入れられていますが、彼らは何かに献身的だったので、彼らはそのための途方もないエネルギーを得ました。このような献身的行為は何かへの没頭であり、ある種の代替行為であって、自己を何かと一体化することでエネルギーを獲得します。しかし、方向性とは無縁の嫉妬を探究するには、全く異なる形のエネルギーを要します、なぜなら、あなたは嫉妬しないことに注意を集中しているのではないからです、そのとき、あなたは嫉妬しないときの状態に専念していません。嫉妬を検討するには、驚くべき強力な活力あるエネルギーを必要とします、そして、それはいかなる献身的行為とも関係ありません。どうか、このことを理解して下さい、なぜなら、あなたはそのとき自分自身を容赦なく探究しているからです、あなたは嫉妬を帯びるいかなる思考も許しません、そして、そのようなエネルギーは方向性を持たないエネルギーであり、それは一意専心の献身的行為からは生まれません。そのようなエネルギーは、あなたが自分自身を理解し始めるときにのみ生まれます、そのとき、精神は、自分自身から、何らかの葛藤を意味するあらゆる矛盾するプロセスを剥ぎ取ります。
葛藤する精神にエネルギーはありません。葛藤するよりも葛藤しない状態の中を生きる方が精神にとってはずっと良いのです、それが何であれ、野心的であれ、不活発であれ、怠惰であれ、偶像崇拝的であれ、その方が良いのです。その中では、あなたがどこにいようと、あなたは愚かであり、それが全てです。しかし、愚かな精神が、私はもっと賢くなろう、もっと精神的になろうなどと言うとき、そのような精神は葛藤しています。そして、葛藤している精神は、決して理解できません、それは理解するエネルギーを持っていません。どうか、このことをよく見て下さい。痛めつけられた精神は、そのような二重性に囚われた精神は、理解するエネルギーを持っていません、それは葛藤の中で消耗しています。しかし、自分自身を探究する精神には、あちこち徘徊する精神の至る所を、隠れている深みや奥深いところを探索する精神には、葛藤は生じません、なぜなら、それは事実から事実へと活動するからです、それは事実を否定したり受け入れたりしません、それが正に事実なのです、そして、そのことが、あれこれ活動しなくても途方もないエネルギーを生み出します。このことを実験してみて下さい、宜しいでしょうか、それを見て下さい。私が言ったように、一つを取り上げて、嫉妬であれ、野心であれ、何であれ、そのことを試してみて下さい。精神から嫉妬を取り除くことではありません、それはあなたにはできません、そうしようとすると、それは葛藤になり、二重性になって、あなたからエネルギーを取り去ります、それは、暴力的な人が非暴力的になろうとするようなものです。あらゆる聖者やマハートマたち、この国の大人物たちは一日中自分自身の中で戦ってきています、そして、その戦いは浄化するエネルギーとは違うエネルギーを作り出します。しかし、浄化するエネルギーを手にするためには、一つのことを検討する必要があります、観察し理解して、あなたが見つけ出すことができるかどうかを見てみることです。
精神は壮大な何かです、それは宇宙の中のただの小さな点ではありません、それは全宇宙です。そして、全宇宙を探究するためには、驚くべきエネルギーが精神には必要です。そのようなエネルギーは、あらゆるロケットのそれよりも偉大です、なぜなら、それは自己を探索するからです、なぜなら、それにはそれを動かす中心がないからです。そして、あなたはこのエネルギーを、もしあなたが精神の働きを外にも内にも本当に探究しないなら、手にすることはできません、そして、精神の内側は無意識として分断されていて、それは家族や名前、動機、衝動、強迫観念など人種的遺伝の貯蔵庫であり、その探究は分析的プロセスではありません。あなたは星雲状の不明瞭な何かを、未知の何かを、予測できない何かを探究することはできません、あなたはそれについて理論化できます、それについて推測できます、それについての書物を読むことができます、しかし、それは無意識の理解ではありません。あるいは、あなたはそれをユング心理学やフロイトの学説を通じて見ることができます、あるいは、現代の分析者や心理学者の助けを借りて、それを見ることができます、あるいはバガバッドギータやウパニシャッドのような古典にあなたは戻ることができます、しかし、それはあなたの一部である無意識の理解をあなたにもたらすことはありません。
何が無意識の理解をもたらすのでしょうか? 我々は無意識を理解しようとしているのではありません、我々は多少とも意識的精神は理解しています、その日常の活動です。しかし、無意識は隠れていて暗いものであり、そこからあらゆる衝動や強迫観念、意識の裂け目、直観的で強迫的な恐怖などが生じます、どのようにあなたはそれを理解しますか? 我々は夜も昼も夢を見ます、夢は無意識の暗示であり、隠れているものの示唆であり、それらは何らかのシンボルやイメージやビジョンなどその他の全ての形を取ります、そして、それらのビジョンやシンボルやそれらの心象を単に解釈するだけでは解決しません。
私はあなたがこれらのことを理解しているのかどうか分かりません。精神が表面的な精神だけではなく、無意識の精神も理解するまで、自己を理解することはありえません。あなたは私の言っていることを理解しているでしょうか? 精神は意識的なそれと共に無意識的なそれでもあります、隠れているそれでもあります。意識的精神は、現代ではエンジニアや物理学者、生物学者、教授、弁護士などになるために教育を受けてきています、それは社会の必要性であり、それはあるレベルの能力を獲得しています。しかし、深い無意識の背後に、経験や文化や人間の物語の貯蔵庫があります、人間の物語はそこにあります。そのように、あなたは人間の物語そのものです、あなたはそれをどのように検討しますか? 意識的精神はそれを検討できますか? 明らかにできません。意識的精神は、それが気づかない何かに踏み込んでいけません。意識的精神の働きは表面的です、それは示唆や暗示を夢の中で感じるかもしれません、隠れたそれらを無意識に感じるかもしれません、しかし、そのような意識的精神、オープンな表面的精神は、無意識の深みには入っていけません。それでも精神はそれ自身を余すことなく理解しなければなりません。問題がお分かりでしょうか?
質問を、最初に、理解して下さい、答えではありません。もしあなたが自分自身に質問を投げかけるなら、その質問は、あなたがすでにその答えを知っているから投げかけられています、そうでないなら、あなたはその質問を問うことはないでしょう。どうか、このことの重要性を見て下さい。エンジニアや科学者は問題を抱えているので問題を提起します、そして、その問題は彼の知識の成果です、そして、問題はその知識の探究の中でのみ存在します、そして、その知識のおかげで、彼は答えを見つけます。例えば、ジェットエンジンやその意味する全てについての科学的知識のために問題が生じます。地球から月への距離をどのように克服するのかの問題です。もし我々にその知識がないなら、我々はそれを問題にしないでしょう。問題は、その知識のために生じます、そして、答えは、その知識のせいで、すでにそこにあります。知識を探究するのです、いかにそれを明らかにするのか―それが問題です。
それでは、同じ質問を異なる言い方で、あなたに問います。精神は意識的でもあり無意識的でもあります。我々はみな意識的精神を知っています。無意識的精神は深く隠れていて、隠れた欲望や欲求や願望を秘めています。どのようにして表面的な精神はそこに踏み込んで、それを明らかにし、それら全てを払いのけて、清々しく、無垢で、生き生きとした、若々しい、新しい精神になるのでしょうか? それが新しい精神の質です。そのように問うと、あなたはすでに答えを知っています、そうでないなら、あなたはそのように問わないでしょう。
私はとりあえず一つの経験を取り上げて、その無意識を分析できます、それを非常に注意深く分析します、しかし、その分析は問題を解決しません、なぜなら、無意識は壮大な宝庫だからです、経験を次から次へと検討するとなると一生涯かかります、そしてまた、分析するには途方もない精神を要します、もし私が分析を誤れば、問題はさらに複雑になります。それでも無意識を浄化することは絶対に必要です、それが可能かどうかは今問題にしません。無意識は人間の物語です、その歴史的物語であり、その文化的物語であり、様々なものが収集蓄積された物語であり、人間の様々なものを継承している物語であり、その物語は様々なものに適応してきています、矛盾する衝動や欲求や目的に適応してきています、つまり、それは“あなた”の物語です。あなたは、恐らく、意識的な自己を非常に表面的に知っています、あなたは言うかもしれません、私は弁護士である、あるいは、私は判事であると、表面的に言うかもしれません。しかし、全精神と全ての物語が、余すことのなく、全体が浄化されなければなりません。あなたはどのように行いますか? もしそれがあなたの問題であるなら、あなたは言います、私はそれを見つけなければならないと、そうすると、あなたはそのための途轍もないエネルギーを見つけるでしょう。
あなたはどのように何かを見ますか? どのようにあなたは何かを観察しますか? どのようにあなたは私を観察しますか? あなたはそこに座って私を見ています、どのようにあなたは私を見ますか? あなたは現にある通りの私を見ますか? それとも、あなたは私を何らかの言葉にして見ますか、理論的に見ますか、何らかの伝統に照らして見ますか、救済主やその他の全ての評判をもつ人物として私を見ますか? はっきりさせて下さい、ここに座っている話し手をあなたはどのように見ますか? 明らかに、あなたは様々な目で、様々な意見を抱いて、様々な希望や恐れや経験を携えて見ています、それら全てが、あなたと話し手との間にあります、従って、あなたは話し手を観察していません。つまり、話し手が何かを言うと、それがあなたのバガバッドギータやウパニシャッドの知識、あなたの果てしない希望、恐れなどを通して解釈されます、従って、あなたは耳を傾けていません。お分かりですか? そこで、精神は、それが抱いている結論やそれが聞いてきたこと、その知識、その経験などを自らそぎ落とすことができますか、そして、話し手を、何の解釈もしないで、見ることや耳を傾けることができますか?
あなたが耳を傾けているとき、今、何が、実際に、あなたに直に起こっていますか? もしあなたが耳を傾けているなら、もしあなたが観察していて、精神からあらゆる愚かな結論などその他の全てを剥ぎ取るなら、あなたは直に耳を傾けています、直に話し手を見ています。そうすると、あなたの精神は否定的に観察することができます、否定的というのは、精神がいかなる結論も抱かないことです、いかなる反論も試みないことです、いかなる方向性も持たないことです、そのようにしてそれは見ます。そのように観察すると、それは、近くだけではなく遠くをも見ます。お分かりでしょうか? あなた方の幾人かは車で来ましたね。もしあなたが熟練した運転手なら、あなたは三百か四百ヤード先を見ます、そして、そのように見ているとき、あなたは、近くの貨物や通行人や歩行者や行き交う車を見るだけではなく、遠くの車をも見ています。しかし、もしあなたがフロントガラスの近くにだけ目をやっていたら、万事休すです、それが初心者のやることです。精神は遠くをも近くをも見ることができます、それは車を運転しているときの目よりもずっと多くを見ます。
精神は観察できません、近くも遠くも見ることができません、もしそれが何らかの結論を抱いているなら、何らかの偏った見方をしているなら、何らかの動機を持っているなら、それが恐れや野心を抱いているなら。宜しいでしょうか、観察する精神の状態は否定的な精神です、なぜなら、それは肯定的に断定もしなければ、肯定的な反射的反応でもないからです。それはただ見守るだけです、それはただ観察する状態であり、何かを思い起こしたり、何かを連想したりしません、これは見たことがある、これは見たことがないと言いません、それは完全な否定の状態です、従って、それは余すことなく文字通り気を付けている観察です。そのように、あなたの精神は、あなたが観察するとき否定の状態にあります。それはシンプルに文字通り気を付けています、非常に遠くのものだけではなく、非常に近くのものにも文字通り気を付けています、それは何らかの理想とは何の関係もありません、そのように観察する中に理想は存在しません。あなたが何らかの理想を抱くと観察は止んでしまいます、そうすると、あなたは現実を観念に近づけているだけです、従って、そこには二重性や相反する争いなどその他の全てが生じます。肯定的なものに反射的に反対するのではない、そのような否定の状態の中には、そのように文字通り気を付けている状態の中には、そのように観察する状態の中には、いかなる連想も生じません、あなたはただ観察するだけです。そして、そのように観察するとき、観察者も観察者が対象とするものも存在しません。このことを理解することは重要です、それを経験するという意味の理解です、言葉でその理由や論理を追うのではないのです、なぜなら、観察者もその対象も存在しない観察を経験するのは、本当に驚くべき状態だからです。その中には二重性は存在しません。
宜しいでしょうか、あなたはそのように観察できますか? あなたはできません、なぜなら、あなたは決して自分自身を検討してこなかったからです、あなたの精神と決して戯れてこなかったからです、そして、精神は、考えたり、見守ったり、希望したり、見つめたり、探索したりする自分自身に決して気づいていません、もしあなたがそのようにしてこなかったら、明らかに、あなたはそのように観察できません。どのようにそうするのかと聞かないで下さい、答えを聞かないで下さい。そうするには、しっかりと論理的に着実に取り組む必要があります、非常にわずかな人たちしかそのようにしません、精神を否定の状態にするのです、それは、精神が余すことなくそれ自身から、意識的であれ無意識的であれ、その物語を剥ぎ取ったのです。
それが重要なのは、精神が見て観察できるとき、精神はそのような状態にいる必要があるということです。精神はあらゆる愚かな結論や理論のせいで見ることができません。しかし、それが観察することに興味があると、それはそれら全てを一撃で払い除けます。余すことのない精神が、意識や無意識を払い除けるのは、何らかの規律や犠牲的行為ではありません。そのような精神の状態の中には、意識や無意識は存在しません。あなたが見たり、観察したり、見守ったりするのを妨げるのは無意識です、なぜなら、あなたが見守るや否や、恐れが生じるからです、あなたは職を失うかもしれませんし、無意識が気づく他の違った様々なことが起こるかもしれません、しかし、意識はそれらに気づいていません。恐怖から精神は言います、私は見守りません、見ませんと。しかし、見ようとする、観察しようとする強い衝動や興味があるとき、人間のあらゆる物語の妨害はもはや生じません、あらゆる物語が払い除けられています、そうすると、精神はそれが直に見ることや観察することのできる否定的な状態になります。そのような精神が新しい精神です。そのような精神には方向性がありません、従って、それは政治的精神でもなく、インド的精神でもなく、経済的精神でもなく、科学的精神でもなく、工学的精神でもありません、それは方向性とは無縁に爆発しているので、それは至る所に現れてきました。そのように、それが宗教的精神です。
宗教的精神は政治に触れません、宗教的精神は経済的問題に触れません、宗教的精神は話しません、関心がありません、離婚するとかしないとかに、当座の改革に、これやあれを回復することに関心がありません、なぜなら、それは余すことのない全てに関心があって、部分には関心がないからです。そのように、精神が特定の方向に働いていてこう言うとき、私は温和でなければならない、私は怒ってはいけない、私は観察しなければならない、私はもっと親切でなければならない、そのような特定の方向に働く精神は、新しい精神を生みません。
新しい精神は、方向性とは無縁に生じて、爆発します。それはハードで骨の折れることであって、絶えず見守ることを要します。あなたは朝から晩まで自分自身を見守ることはできません、絶えず気を張り詰めていて、決して瞬きをしないことは不可能です、あなたはそうできません。ですから、あなたはそれと戯れる必要があります。あなたが何かと戯れるとき、あなたは長い間そのようにできます。もしあなたがこの文字通り気を付けている感覚と楽に戯れることを知らなければ、あなたはそれを見失います、そうすると再び葛藤が生じて、どのように気を付けるのか、そのメソッドは何か、そのシステムは何かということになります。あなたが戯れていると、あなたは何かを学びます。そのように学ぶのは、何かの収集蓄積ではありません、あなたが収集蓄積するや否や、あなたは学ぶことを止めてしまいます。多くの知識を抱える精神は、更なる知識や情報を自己に加えるにすぎません。しかし、我々は全く異なる次元のことを話しています、あなたはそれについて学ぶ必要があります、従って、それは何らかの問題ではありません、もしそれが何らかの問題なら、それはあなたの知識から生じます、従って、それはその知識の中に答えがあります。しかし、新しい精神の状態は、知識の領域の中にはありません、それは全く異なる何かです。それは絶えず爆発している創造のそのような状態です。あなたはそれについて何も知りません、あなたは言えません、それは私にとって問題であると、なぜなら、それがあなたにとって問題となるのは、あなたがそれについて知っているときだけだからです、そして、あなたはそれについて何も知りません。従って、何かを理解するためには、知識が消え去る必要があります。西欧の人々はそのことを考えています、彼らは知識が十全なものでないことを理解し始めています、彼らは生のほとんどのことを知っています、しかし、それは彼らをどこへも導きません、彼らは宇宙について知っています、その成り立ちについて知っています、彼らは星々について知っています、彼らは地球の深部や人間関係の深さや人間の身体組織について知っています、それらが彼らの知識に加わってきています。彼らは言います、我々は憎しみを抱いてはならないと、我々は親切でなければならないと、我々は兄弟姉妹のようでなければならないと、しかし、それは彼らを非常に遠くへは運んでいません。
そのように、新しい精神は権威によっては生まれません、何らかの師やグルによっては生まれません。あなたはそれら全てを払い除けて、白紙の状態から始める必要があります。そして、知識は白紙の状態の妨げになります、知識はある次元では有益ですが、新しい精神にとってはそうではありません。そのように、精神は、理解するためには、観察するためには、そして、精神それ自体に気づいて、精神それ自体を知って、精神それ自体を知ることの不毛さを見て取るためには、精神それ自体から恐れや悲しみや絶望の深さなどを剥ぎ取る必要があります。もしあなたが精神的組織の愚かさをひとたび見て取るなら、一つの組織のそれを、たった一つのそれを、それが小さな集団であろうと、教会や何かの世界的な組織であろうと、ひとたび、あなたがそれを見て取ると、それで終了です、あなたがひとたび理解したら、あなたはそれら全体を完全に払い除けてしまいます。そうすると、あなたは決していかなるものにも属しません、従って、誰にも従う必要がなくなります。
そうすると、あなたは数少ない幸福な一人です、そして、こう言います、私はそれを見て取りましたと、あなたは、理解する息遣いで、未知の精神の中へ踏み込むのです。人はそのようにできます、そして、そこから論理的に思考して議論できます。しかし、あなた方のほとんどは不幸にもそうできません、なぜなら、あなたにはエネルギーがないからです。あなたの生を見て下さい。あなたは四十年会社で働きます、それは、その決まりきった仕事や退屈、不安、恐れ、その機械的な性質などです、そして、最後に、あなたは言います、私はこのことを検討しなければならないと。あなたは燃え尽きています、そして、あなたは生き生きとしている何かに取り組みたいと思うのです、あなたにはできません、ヒマラヤへ行っても、あちこち歩きまわっても、なぜなら、あなたには新鮮で熱気に溢れた瑞々しい精神がないからです。これは官僚や会社で働く人にそれがないという意味ではないけれども、その人は自分自身を破壊しています。人はそれをどこでも手に入れられるけれども、それには途轍もないエネルギーを要します。行者や聖者たちはあなたに言います、あなたは独身でいなさい、喫煙してはいけません、結婚してはいけません、あなたはこれやあれを行ってはいけませんと、そして、あなたは彼らに従います、しかし、そのように従うことによっては、そのエネルギーは得られません、それは葛藤と絶望を生むだけです。そのエネルギーは文字通り直に気を付けることによってもたらされます、それが新しい精神を生みます。
方向性とは無縁に爆発する精神のみが慈しむ精神であり、世界が必要としているのは慈しみであり、政策ではありません。慈しみは、新しい精神の紛れもない性質です。新しい精神は不可知の精神であるので、可知の精神によってははかられません、そして、そこへ踏み込んだ人は至福の状態を知ります、そのような恵みを知ります。