クリシュナムルティ 我々は世界中で恐ろしいほどの驚くべき混乱を目の当たりにしています。至る所で人々は反目し合っています、個人のレベルだけではなく、人種的にも共同体的にも、国として集団として、あるいは人種として反目し合っています。ナショナリズムが蔓延って増殖しています。自由の余地が狭まっています、個人のレベルだけではなく、共同体的にも精神的にも狭まっています。宗教は人々を分断していて、それは人々を結びつける要素では全くなくなっています。そして、専制政治が左翼のものであろうと右翼のものであろうと増大しています。様々な宗教や宗派が数え切れないほど何千と世界中にあって、それぞれがそれぞれの真理を主張しています。宗教的専制支配も政治的専制政治と同様に真理が何であるのかを本当に探求する精神にとっては忌まわしいものであり、両者が増殖しています。カトリシズムはその教義や信条や破門制度などその他の全てと共に活動していて増殖しています、同様に、共産主義もその除名や排除などを通して、人間の権利の否定や、思考や自由の否定、貧困の蔓延、惨めな混乱を増殖させています。正に家の中が燃えています、文字どおり家の中が燃えていて、最終的な爆発が残されているだけです、それは原子爆弾です。これらすべてを我々は大なり小なり知っています。
誰もが、問題を明らかにするために何かをしなければならないと感じているだけではなく、単に知的にそう感じているだけではなく、問題の全てに応える差し迫った必要性を内面的にも感じています。人が問題の何かを余すことなく感じないとき、人は社会改革や古い宗教の再生に向かったり、ウパニシャッドやバガバッドギータや古代の思想に立ち返ったり、何かを約束するリーダーに追随したりします。人は自分自身で行えないとき、他の誰かに、何らかのグルや政治的指導者に頼るに違いありません。人は部分的に改革します、土地を供給したり、なだめたり、静めたり、共存したり、辞書に書かれている言葉の意味を自身や党の思想的思惑に沿った形に改ざんしたりします。宜しいでしょうか、腐敗が存在します、悲惨が存在します、世界中で工業化が進行しています、そして、革命とは無縁の工業化は人々の凡庸化とさらなる苦しみに行きつくだけです。
異なる種類の革命が必要です、それが私の議論したいことです、それが私の検討したいことです。しかし、人は宗教的組織の全くの不毛を完全に見て取らなければならないと私は思います、それらの組織の愚かさです、何らかの観念に単に追随する愚かさです、人間の救済と称する何らかのプランに単に追随することの愚かさのことです。真理を探究する精神にとって、宗教的リーダーはもはや何の意味もありません。あなたがこれらのことをどのように感じるのか私は知りませんが、我々があちこち見て回ったり、あちこち歩き回ったり、あちこち彷徨ったりすることに、私は人間の誠実さの驚くべき欠如を感じます、なぜなら、そのようにして我々は自分自身を政治的には党や党派などに売り渡しているからです、宗教的には書物に売り渡しているからです、社会的、政治的、宗教的な特効薬を押し売りする今どきの聖者に身を委ねているからです。私は実際に起こっていることを大袈裟に言っているのではありません、この不幸な国だけでなく、それは他の世界中で起こっていることです。
宜しいですね、あなたはこのことを知っています。私は起こっている事実を描写したにすぎません。事実についてあれこれ意見する精神は、狭い限られた破壊的な精神です。お分かりでしょうか。もう少し説明させて下さい。これは事実です、実際に世界で起こっていることです、あなたも私もそのことをよく知っています。あなたは事実をあなたなりに解釈します、そして、私は私なりに解釈します。事実の解釈は忌まわしいことです、それは、実際の事実を見ることを妨げて、実際の事実に何もできません。あなたと私が事実について議論を戦わすとき、事実については何もなされません。あなたは、恐らく、事実にさらに何かを付け加えることができます、事実についてさらに微妙なニュアンスや意味や意義を見つることができます、そして、私は事実にそれほどの意義を見出さないかもしれません、しかし、事実は解釈されうるものではありませんし、私は事実について意見できません。それはそういうことなのです。精神にとって、事実を受け入れることは非常に難しいのです。我々はいつも解釈しています、我々はいつも我々の偏った見方や条件付けや希望や恐れなどその他の全てに従って、それに様々な意味を与えています。もしあなたや私が意見を述べないで、解釈しないで、何らかの意義を与えないで事実を見ることができるなら、事実はもっとずっと生き生きします、もっと生き生きするのではなく、事実はそこにあります、ただそこにあります、他に何もいりません、事実にはそれ自身のエネルギーがあり、それがあなたを正しい方向へ導きます。様々な意見が我々を突き動かします、何らかの結論が我々を突き動かしますが、それらは我々を事実から引き離します。しかし、もし我々が事実に留まるなら、事実はそれ自身のエネルギーを持っていて、我々一人ひとりを正しい方向へ駆り立てます。
そのように、我々は世界で起こっている事実を知っています、解釈しないで何が起こっているのか知っています。解釈は政治家たちに任せておきましょう、彼らは目先のもの、可能なことを行います、そして、それらを彼らの観念や感情や結論などその他の全てに沿うように捻じ曲げます。彼らは地上の最も破壊的な人々です、彼らが高名な政治家であろうと無名な政治家であろうと。あなたはこのことが世界中で進行していることを目にします、人々を分断し、土地を分割し、彼らの偏った見方や取るに足らない狭小な意見に従って、彼らの観念を推し進めます。そして、これら全てを目にしていると、我々は、グルや聖職者や多くを知っていると称する人などによって導かれたこの頑迷な欲望をも目にします、それが頑迷なのは、もっと多く知っている人などいないからです。しかし、我々は、もっと多く知っている人々がいると考えます。我々が生きなければならないのは我々の生です、我々が取り組まなければならないのは、我々の悲惨さであり、我々の争いであり、我々の矛盾であり、我々の悲しみであり、それは他の誰のものでもないのです。不幸にも、我々は自分自身でそれらを解決できません、従って、我々は他の誰かに助けを求めます、そうして、我々はほとんど意味のないものに囚われます。
そうすると、これら全体を見渡して、地上で進行している途轍もない悲しみや混乱も見渡して、我々がこれらすべての問題に正しく応じるためは、異なる精神が必要です、宗教的精神ではありません、政治的精神ではありません、有能なビジネスマンの精神ではありません、過去あるいは書物の知識に精通した精神ではありません。我々には新しい精神が必要です、なぜなら、問題がとても大きいからです。
人はこの新しい精神を手にする重要性と逼迫性を見て取る必要性があると私は思います、いかにそれを手に入れるのかではありません。問題は本当に大きく、とても複雑で、とても繊細で、とても多様化しているので、そのような精神を持つ重要性を見て取らなければなりません、そして、それに取り組み、理解し、検討し、正しい行動が生まれるためには、全く新しい精神が必要です。その精神とは、物理的な性質のそれだけではありません、言語的に明瞭に考える良好な精神や、論理的に健全にいかなる偏った見方もしないで考えられる精神だけではなく、それは共感することや憐れみや愛情に満ちていて、慈しみや愛を備えた精神でもあります、そして、それは、直に見て取り、直に感じる精神でもあり、それは何かに導かれたのでも作られたのでもない、静けさで穏やかさの中に安寧を秘めた精神でもあります。そのような精神は、単に知的で言語的なそれではありません。そのような精神は、あらゆる感覚が目覚めていて、この上なく鋭敏で、生き生きと機能しています、それは精神の余すことのない全体です。そして、それはこの逼迫した現実に向き合うために新しくなければなりません。
人は過去を探究してきました、それを検討してきました、それを見てきました、人は過去についてあらゆることを知ります、科学者はご存じのように、それら全てを探究してきていて、ロケットや衛星で時間や空間の中を探究しています。電子機器が計算や翻訳や様々な領域で精神の機能を凌駕しています、それらの機器は平均的な頭脳や最も有能な頭脳の能力よりも効率よく機能するので、精神の機能を幾重にも凌駕します。そこで、再び、それら全てを見渡してみると、あなたには新しい精神が必要です、時間から解放されたそれです、もはや距離的空間的に考えない精神です、地平線を持たない精神です、拠り所や安息地を持たない精神です。あなたには、永遠な何かに取り組むためだけではなく、存在の目の前の問題に取り組むためにも、そのような精神が必要です。
従って、問題はこうです、我々一人ひとりが、そのような精神を持つことは可能かということです、徐々にではありません、それを育むのではありません、なぜなら、育むのは、発達させるのは、何らかのプロセスであり、時間を意味します。それは瞬時に生まれるのでなければなりません、時間とは無縁に、正に、今、変質するのでなければなりません。生は死です、死はあなたを待ち受けています、あなたは死と議論できません、生と議論できないように。それでは、そのような精神を持つことは可能ですか、達成する何かとしてではなく、ゴールとしての何かではなく、目的としての何かではなく、到達する何かとしてではなく、なぜなら、それら全ては時間と空間を意味するからです。我々には非常に都合のいいおごった考え方があります、発達する時間、到達する時間、成し遂げる時間、真理に近づいてゆく時間という考え方です、それは誤った考えであり、それは完全な幻想です。時間はその意味で幻想です。そのような精神は、逼迫している精神であり、今だけではなく、いつも逼迫していて、それは極めて必要なことです。そのような精神が生まれえますか、その意味するところは何でしょうか? 我々はこのことを議論できますか?
宜しいでしょうか、問題はこうです、我々は、全てを払拭して新しくスタートすることができるのか、ということです。そして、我々はそうしなければなりません、なぜなら、世界は全く新しいものになっているからです。空間は征服されています、機械が人間を凌駕しています、専制政治が増殖しています。我々の気づかない何か新しいことが進行しています。あなたは新聞を読むかもしれませんし雑誌を読むかもしれませんが、あなたはこの変化の動きや意義、動向、ダイナミックな性質に気づいていません。我々は我々には時間があると考えます。あなたは考えます、誰かが現れて、我々には時間があると言って、人々をなだめると。誰かが何らかのシステムに従って瞑想して言います、まだ我々には時間があると。そして、我々は言います、ウパニシャッドに立ち返ろう、宗教を再生させよう、まだ時間があると、そして、それにじっくり取り組もうと。どうか私を信じて下さい、時間というものはありません、いいえ、私を信じないで下さい、そういうことなのです。家が燃えているとき、あなたがヒンズー教徒であるとかイスラム教徒であるとか仏教徒であるとか議論している時間はありません、あなたがバガバッドギータやウパニシャッドを読んだかどうかを議論している時間はありません、そのようなことを議論している人は、家が燃えている事実に全く気づいていません。そして、家が燃えているとき、あなたはそのことに気づいていないかもしれません、あなたは鈍くて鈍感なのかもしれません、あなたは劣化してしまっているのかもしれません。
それでは、そのような精神の可能性を議論できますか? 皆さんはそのようなことをどのように議論しますか? このことをどのように探求しますか? 私は疑問を投げかけました、単に言葉の上だけではなく、私の全存在をかけてそうしました。あなたはそれに応えなければなりません。あなたは言えません、私は自分のやり方で行こうと思いますと、私はあれやこれやの社会に属しています、それで十分ですと、私の聖者は私に何か良いことをしてくれます、その人はその人の使命を心得ています、その人は良いことを行っています、その人は改革をしています、そして、私は自分自身の持ち場で私の行えるささやかなこと、その他の全てを行っていますと。これらは全て問題外です。
あなたはこれらをどのように探求しますか? あなたはどのように答えますか? あなたはどのように応じますか? それは可能ですか? 明らかに、あなたは知りません。あなたは可能であるともないとも言えません。もしあなたがそれは不可能であると言えば、あなたは何も行えません、あなたは自らドアーを閉じています。もしあなたがそれは不可能であると言い、あなたにはあなたのグルやあなたの聖者が必要であると言うなら、あなたは、心理的に、内面的に、自分自身を閉じてしまっています。もしあなたがそれは可能かもしれないと言うなら、そして、それが何らかの希望なら、その希望は絶望をも意味します。もしあなたがそれは可能かもしれないと言うなら、そして、それが何らかの希望ではないなら、それは可能かもしれないことを意味します、あなたは知りません。この二つの違いがお分かりでしょうか?
人がこう言うとき、いいえ、そのような精神は信じられません、私には無理でしょう、それは私の手に負えません、私には無理です、その人は、心理的に、内面的に、ドアーを閉じています。そして、人がこう言うとき、恐らく、それは可能です、私は知りません、確かに、その人はあらゆる希望とは無縁です。我々ははっきりさせなければなりません、希望に纏わるものは問題外です。あなたが希望を抱いた瞬間に欲求不満が生じるのは避けられません。お分かりでしょうか? 精神が希望を抱くと、欲求不満を招きます、何らかの希望を抱いている精神は、欲求不満の中を生きていて、探求することができません。どうか、このことを理解して下さい。そのように、それは可能かもしれないと言う精神は、何かを希望することとは無縁です。それは、このように言う精神ではありません、それは達成可能であると、なぜなら、もう一度言います、何かを達成することは希望を意味します、従って、何かを達成しようとするときには、いつも不成功が付きまといます、従って欲求不満を招きます。そのように、それは可能かもしれないと言う精神、そのような精神のみが探究し始めることができます。どうか、このことの重要性を理解して下さい、なぜなら、それは疑っていないからです、それは何かを受け入れていません、それは何かを否定していません。
三つの精神の状態があります、それは不可能であるとする精神、達成することを希望する精神、それは可能かもしれないとする精神です。初めの二つは異なる精神ですが、それらは時間的な観点から考えているだけです、希望や絶望や達成や欲求不満などの観点です。しかし、探求する精神は、それら二つとは無縁です。それでは、もしこのことが明確なら、このことの真理が明確なら、つまり、希望や絶望などそれら全てから解放されている精神のみが可能であるということ、それは、不可能である、それは少数の人たちだけのことであるとすることから解放されていて、それら二つを払拭して、それは可能かもしれないと言う精神のみが可能であるということです、そして、そのような精神のみが、探究することができます。それでは、宜しいでしょうか、あなたの精神の質とは何でしょうか?
質問者(Q) 我々は様々な恐れを抱いています、我々はそうした恐れを乗り越えられません。
クリシュナムルティ(K) 恐れを抱いている精神は探究できません。それは恐れからどのようにして解放されるのかの問題ではありません。もし私が探究しようとするなら、恐れはなくなります、恐れは二の次になります。山を登るとき、もし高齢であるとか若すぎるとかと恐れるなら、あなたは登山することはできないでしょう、従って、あなたは山へ登りません。しかし、もしあなたが山へ登る必要があると感じるなら、恐れは消え去ります、それは後方へ押しやられて、あなたは山へ登ります。
Q 探究する、あるいは試みるとはどういう意味でしょうか?
K 私は試みるという言葉を使っていません。私は探究すると言いました。私はその言葉を辞書的な意味で使っていませんが、それは精神が探究する、見ていくという意味でもあります。探究するためには、自由がなければなりません、精神はいかなる形の信念や結論にも縛られていてはなりません。探究することが意味するのは、あらゆる個人的な特質や虚栄心や希望などが、そのとき脇へ置かれていなくてはなりません、それは結果が重要ではないことを意味します。探究することが意味するのは、その正にプロセスの中で、私は苦しんでいる、私は変わるかもしれない、あるいは、途轍もない革命が、内面的に、外面的に、起こるかもしれないということです。そして、そのように探究するためには、明らかに、恐れや結論など我々にのしかかるあらゆるものが脇へ除かれなければなりません、いや脇へ除かれるのではありません、なぜなら、探究の逼迫性がそれら全てを脇へ除けるからです。探究の正に逼迫性や必要性がこの上なく重要になり、その他のものが二の次になります、それらは、その間全く意味を成しません。お分かりでしょうか? それは戦争のようなものです、戦争では、お分かりのように、あらゆるものが、あらゆる工場が、人間精神のあらゆるものが、あらゆるものが防衛に動員されます、人々は何らかの可能性や恐れや希望など考えていません、あらゆるものが投げ捨てられます。あなたの精神も同じです。今、あなたはこれらのことに耳を傾けています、あなたの精神は探究している状態ですか? あなたの精神はそのように探求していますか?
Q あなたが話しているとき、ほとんどの我々は我々自身の問題を考えています。それが困難な点です。
K それは間違いです、そのような言い方を許して下さい。ほとんどの我々が自分自身の問題を考えています、なぜなら、我々が自分自身の問題によって条件づけられているからです、ですから、そのような問題が我々の主要な関心事であって、我々がここに来ているのは、我々がそれらの問題を解決できるかどうか知るためです。私はそれを知っていますし、あなたもそれを知っています。あなたは夫や妻とどのように過ごしたらよいのか知りたいのです、あなたは気づきとは何かを知りたいのです、あなたはあのグルやこの聖者は正しいのかどうか知りたいのです、死後に生があるのかどうか知りたいのです、死後に何があるのか知りたいのです、不死があるのかどうか知りたいのです、あなたが否定的な精神を持ったらどうなるのか知りたいのです、あなたはどのように瞑想するのか知りたいのです、あれやこれや問題が山積みです。家が燃えているとき何が起こりますか? 分かりませんか? 火事はあなたが抱えている問題よりももっと重要です、あなたが問題を抱えていないとは申しません、あなたは問題を抱えています、しかし、火事のほうがずっと重要です。これは共産主義者たちが遠回しにこう言うのとは違います、あなたの問題がそこにあるのだから、何らかの一定の方向の活動が重要ですと。私はそのような意味で言っているのでは全くありません、それは、わざとあいまいにした誤魔化しです。私は思います、あなたの問題は確かに重要ですが、あなたは、あなたがどのように探求するのかを理解すると、あなたは、それらにもっと完全に徹底して取り組むことになると。
宜しいでしょうか、あなたはこの国に腐敗が存在するのを知りませんか? あなたは貧困が存在するのを知りませんか? あなたは惨めさが存在するのを知りませんか、この国の至る所に惨めなことが起こっているのを知りませんか、美の欠如、愛の欠如、共感性の欠如です、それは驚くべき惨めさであり劣化です、この国では精神は死んでいるのですか? これらのことが分かりませんか?
Q それは外見上のことで、それは何か夢のようなものです。
K もしそれが夢なら、その中を生きて下さい、そうして、世界を夢として、マーヤーとして扱って下さい、気にしないで下さい、言われていることを聞き流して下さい。もしあなたが世界を幻想として扱うなら問題はありません。しかし、あなたが空腹のとき、仕事を失ったとき、次の食事にありつけるのかどうか分からないとき、あなたの妻があなたを残して去って行くとき、あなたには子供がいなくて子供が欲しいとき、死が絶えず待ち受けているとき、あなたは世界を幻想として扱いません、あなたは世界を幻想とは言いません。世界は大混乱の中にあります、好むと好まざるとにかかわらず。
Q 感情は精神の一つの姿でしょうか?
K 確かにそうです、私はそう言いました。精神は欲望や愛、憎しみ、嫉妬、情動などを含みます、それら全体が余すことなく活動していて息づいています。人は言います、世界はマーヤー、幻想であると、そして、ある人は言います、経済的な問題を先に解決しなさい、そうすればあらゆるものが解決します、パンが最初ですと、これらすべてが精神の中に含まれます。思考、反対思考、逼迫性、要求、残酷性、親切心、愛情、優しさ、これらすべてが精神です。それでは、宜しいですか、どうしてあなたは、あなたが病気であるかもしれない、手術が必要であると感じるようなとき、逼迫した感情にならないのでしょうか? なぜあなたには逼迫感が起こらないのでしょうか? あなたはどのように逼迫性を探究しますか?
あなたは世界の良好なものと共に良好な精神も欲しがります。あなたは両方を手にできません。世界の良好なものと私が言うのは、身にまとう衣服のことではなく、力が与えるもののことです、お金がもたらすもののことです、地位や特権がもたらすもののことです。我々はそれらのものを手にして生きたいと思うと共に、非常に良好な精神も手にしたいと思います、野心を抱かない精神であり、生きる喜びを感じる精神です。我々は両方を欲しがります、言い換えれば、我々は目先の野心、成就、欲求不満、争い、嫉妬、妬み、願望に関心があります、そして、我々はこうも言います、時間は測りがたいと、我々はそれら両方を一緒に生きたいのです。両方を手にすることはできません。良好な精神を手にすることは可能です、本当の精神です、そうすると、野心には居場所がありません、あなたは僅かの衣服や寝床やお金を手にするかもしれません、そして、それが全てです。良好な精神、本当の精神が重要です、他方ではありません、しかし、他方が我々にとっては重要です。
あなたの精神は探究していますか? あなたの精神は探究している状態にありますか? 明らかにそうではありません。それでは逼迫性を感じないあなたの精神でどのように推し進めますか? どうすればそのような精神は逼迫性を感じるのですか? あなたは自分自身の精神に気づきますか? 我々には新しい精神が必要です、余すことなく新しい精神です、この混沌とした世界に応える精神です。そこで、もしあなたがそれは不可能であると言うか、それともそれは達成可能なことであると別々のことを言っても、そのような精神のカテゴリーでは探究できません。私はあなたに問います、あなたの精神の状態とは何ですか、あなたはそれに気づいていますかと。それは不可能であるとあなたは言いますか、それとも、あなたは依然として希望やそれらの意義の観点から考えていますか? それとも、あなたの精神は言いますか、探究してみようと。
Q それは少々難しい。
K 生は難しいのです。ここに来るために時間に間に合うように朝起きることや、一時間半ここで待つこと、バスで来ること、何もしないで座っていることは難しいことです。快楽は難しくありませんが、それには難しさが付きまといます、しかし、我々は難しさや後悔や悔恨を伴わない快楽を欲します。精神が余すことなく生きることができるときにのみ、悔恨や困難や痛みが意味を成しません、そのようなときにのみ、生きて働く何かがあります。
それでは、あなたは気づいていますか? 気づいているとはどういう意味ですか? 気づくとはどういう意味ですか?
あなたは樹木をこれまで見守ったことがありますか? あなたはどのように樹木を眺めますか? あなたはどのように樹木を見ますか? あなたは枝を見ますか、あなたは葉を見ますか、あなたは果実を、花を、幹を見ますか、そして地下の根を想像しますか? どのようにあなたは樹木を見ますか? 加えるに、あなたは樹木をかつて眺めたことがありますか、あるいは、あなたはただその側を通り過ぎていただけですか? 恐らく、あなたはその側をただ通り過ぎていただけです、そのように、あなたは樹木を決して見守ったことがありません。しかし、あなたが樹木を眺めるとき、眺めて視覚的に見るとき、あなたは樹木の全体を見ますか、それとも葉だけを見ますか、それは樹木の全体ですか、それとも単に樹木の名前だけですか? どのようにあなたは樹木を見ますか? あなたは見ますか、その形や高さ、葉の美しさ、それと戯れる風、風に揺れる樹木、葉の性質、葉の感触、樹木の香り、枝、細い枝や太い枝、華奢な枝、風にそよぐ葉です。あなたは樹木の全体を見ますか? もしあなたがそれを全体として見ないなら、あなたは樹木を全く見ていません。あなたはそれを通り過ぎて言うかもしれません、木がある、とても素敵ですと、あるいはこう言います、それはマンゴーの木だと、あるいはこう言います、これらの木は何という名か知りませんと、それらはターマリンドの木かもしれませんと。しかし、あなたが立ち止まって眺めるとき、私は、実際のこと、事実を言っています、あなたは決してその余すことのない全体を見ていません、そして、もしあなたがその樹木の余すことのない全体を見ないなら、あなたはその樹木を見ていません。
気づくことはそれと同じです。もしあなたがそのように樹木を見るような意味で、あなたの精神の働きを余すことなく見ないなら、あなたは気づきません。樹木は根や幹や枝で存在しています、大きい枝や小さい枝や華奢な枝が上に伸びています、葉があります、枯れた葉や萎れた葉、緑の葉、虫食いの葉、歪んだ形の葉、落下する葉、果実、花々、あなたが樹木を見るとき、それら全体を見ます。それと同じように、あなたが、あなたの精神の働きを見守るとき、そのように文字通り気を付けているとき、あなたは、あなたが何かを非難していることや何かに同意していること、何かを否定していること、何かと争っていること、あなたの不毛さや絶望や希望や欲求不満などを意識します、それら全てに気づきます、一つのことだけではありません。そのように、あなたは非常にシンプルに、一か所を見て誰がこの絵を描いたのかと言うのではなく、全体の絵を見るように、あなたの精神に文字通り気を付けていますか? 絵全体を見るというのは、その青や赤、入り交ざった色彩、影、水の動き、空などを含みます。同じように、あなたは、あなたの精神の働きに文字通り気を付けていますか、その矛盾する働きや非難する態度に文字通り気を付けていますか、それは言います、これは良い、あれは悪い、私は嫉妬したくありません、私は良い人間でいたい、私はそれを手にしていない、私はそれが欲しい、私は愛されたいと、それら果てしなく続く精神のお喋りです。あなたはそのように文字通り気を付けていますか? 言わないで下さい、それは難しいと、どうしたらそうなるのかと。分析を始めないで下さい、言わないで下さい、これは正しいかと、私は正しくそれを見ているのかと、あるいは、いや、そうすべきではないと。あなたはそれら全てに余すことなく文字通り気を付けているのです。あなたは、そのようにあなたの精神に文字通り気を付けていますか?
Q 少しの時間、人は気を付けています。
K その紳士は言います、時々彼は良く気を付けていますと。それで十分ではないのですか? あなたは良く気を付けている感覚を知っています。あなたはそれが続かなければならない、一日中そうしていなければならないと言っているだけです。しかし、あなたは、今、そのように文字通り気を付けていますか、明日ではなく明後日ではなく今です。あなたは我々が一緒に話しているとき、そのように、今、文字通り気を付けていますか? 文字通り気を付けているということは、全体を見て取ることを意味して、何らかの言い争いや不安や希望など個々の何かに気を付けているのではなく、全体に文字通り気を付けていることを意味します。あなた方の幾人かは飛行機に乗ったことがありますね。上空から、あなたは地上を見渡します、大地が小さな区画に分断されています、上空からは国境や人間活動の舞台は見えません、地球はあなたのものでも私のものでもありません、上空から河川や樹木や岩や山々や砂漠が見えます、あなたは全体を見渡せます、その深さや高さが見えます、それら全ての美しさが分かります、上空から見ると痩せた土地も肥沃な土地と同じように美しいのです。そのように文字通り気を付けていると、地上の全てが見渡せます。
それでは戻りましょう。あなたの精神は探究していますか、良好な精神は何なのかではなく、新しい精神は何なのかではなく、探究していますか? なぜなら、新しい精神は何もないところから、完全な否定から生まれる何かだからです、新しい精神は、精神が完全に単独である革命的な状態からのみ生まれるからです。しかし、あなたが何らかの信念や結論や恐れや宗教的迷信や思想的観念的欲望に囚われているとき、精神は単独ではありえません、精神は何らかの影響下にあり単独ではありえません。あなたが誰かに追随しているとき、あなたが何らかの権威を帯びているとき、あなたが野心的であるとき、あなたが徳や非暴力を追い求めているとき、精神は何ものもないという感覚を抱きません、そのような状態のときにのみ余すことない気づきが生まれます、そのようなときにのみ余すことなく見て取ることになるのです。
それでは、あなたは、余すことのないそのような感覚で、新しい精神を探究するのではなく、我々全てが抱いている力や野心へ我々を突き動かす全構造を探究できますか? 力を手に入れたいという衝動です、お分かりでしょうか? 精神的な支配欲があります、お分かりでしょうか、聖者や克己の人、私は知っている、私はそれを書物で読みました、私はそれを成し遂げましたと言う人です。様々な物理的支配があります、お金や権威や地位による支配、機能的支配、権力をもつ要人や役人や主任技師や大物の側近になって支配することなどです。これらのことがお分かりでしょうか? あなたはそれを探究できますか? もしあなたがそれを探究するつもりなら、それらを完全に断ち切って下さい、時間をかけないで瞬時にそうして下さい。それでは、あなたは、文字通り気を付けているそのような感覚で、支配欲の構造を見て取れますか、それを探究し完全に分解できますか、そして、あなたがここを去るとき、あなたは時間の外にいられますか? そのとき時間は存在しません、なぜなら、その中に時間や空間や距離が含まれているからです。お分かりですか? お分かりでしょうか? それは支配欲を吸収し消化するかのようです。そのように完全に文字通り気を付けていて、それを検討して下さい、その全構造とあなたがその中で欲する部分を見て取って下さい、あなたを安心へと導くグルに追随することや師のもとへ赴くこと、師を信奉することなどです。あなた方の多くが何かを信奉しています、そして、あなた方は毎年ここへやって来ます、私はなぜなのか知りません。その人たちは彼らの寺院へ行ってもらいましょう、彼らの師のもとへ行ってもらいましょう、そこでどうぞ戯れて下さい、そこでどうぞ楽しい時を過ごして下さい、しかし、ここではあなたの時間と私の時間を無駄にしないで下さい。あなたは私のこうした思いを知っています。私は完全にそれら全ての外にいます、それらはすべて支配欲や権威や地位や安心につながります。しかし、それがあなたの願うことです、ですから、どうぞそうして下さい、それを追いかけて追い求めて下さい。
Q それら全てからどのようして自由になるのですか?
K どのようにして? あなたはそれら全てから自由になりたいと思っていません、もしあなたがそうしたいなら、あなたはその外に出ています。ですから、どのようにしてとは尋ねないで下さい、私はあなたに全く異なることを問うています。あなたはほとんど耳を傾けていません。私は新しい精神のことを話しています、どのようにしてそこに至るのかと言う精神ではありません。新しい精神は何かを成就しようとする精神ではありません、自由になりたいと願う精神ではありません。新しい精神は何らかの規律を通して成し遂げられる精神ではありません。新しい精神はどのようにして自由になるのかとは言いません。それはそのような状態に突然なるのであり、それは爆発です。私はあなたに明らかにします、あなたの全存在がどう爆発するのかを指摘します、それは徐々にではありません、それは時折あなたの都合に合わせるのではありません、それはあなたが何か他のことを考えているときではありません、それはあなたがこのことのために多少の時間を割くときではありません、それはあなたがあなたの生の全てを仕事や生計を立てることに費やすときではありません。私は指摘しています、文字通り気を付けている精神は、あなたの野心や支配欲や権威志向や地位志向や人々との関係を探究する精神を必要とします、あなたが大物と会うときのあなたの跪く様子やあなたの安全願望、仕事、地位などを探究する精神を必要とします。それらすべての構造を見て取って下さい、それに気づいて下さい。そして、あなたがそれに余すことなく気づくとき、あなたは、瞬時に、その外にいます、それは脱落しています。
Q あなたはこの種の革命の段階的なプロセスを否定するのですか、それとも、部分的に発見するのですか?
K 私は段階的プロセスを全く否定します、私は部分的に徐々に時間や距離や空間の中で発見するのを完全に否定します、私はどうしてそうなのかを説明してきました。“部分的”とは何を意味しますか? それが意味するのは条件であり、引き算や時間や徐々にということであり、ここからあそこということであり、一つの段階から次の段階ということです。それは何かを成し遂げることやそこへ至ること、何かになること、何かに到達することなどを意味します。そして、もしあなたがそれを検討するなら、あなたは分かるでしょう、これらすべてが怠惰な感覚を意味することや物事をそのまま受け入れること、昨日、今日、明日を受け入れること、大地や人々の分断を受け入れることなどであると。宜しいでしょうか、このシンプルなことが分かりませんか? あなたは樹木をどのように見ますか? 部分的に一つ一つですか、それとも全体としてそれを見て取りますか? 全体を見て取るには、途方もなくダイナミックなエネルギーを要します。あなたはそのようなエネルギーを部分的な一つ一つから得ますか? あなたは少しずつ親切なのですか? あなたは少しずつ愛しますか? もしあなたが少しずつ愛するなら、それは段階的なプロセスであり、それは習慣であり愛ではありません、それは繰り返しです。宜しいでしょうか、あなたはこれらのことが分かりませんか? どうか、宜しいでしょうか、あなたがあなたの野心を探究しているかどうか、支配欲の構造を探究しているかどうか、よく考えて下さい、あなたは少しずつではなく取り組まなければなりません、全体を見て取らなければなりません、そして、あなたが全体を見て取るとき、それは瞬時に消え去ります。