我々は苦しみについて、苦しみは消滅するのかどうかについて、そして死の意義について話すことが重要です。それは我々の生の一部です。我々は宗教の問題も検討すべきです、宗教の意味すること、宗教的な精神とは何か、そして瞑想です。我々は二人の友人として話し合います、これまで互いに知り合ってきた友人として話し合います、お互いに対立し合うのではなく、自分を弁護したり相手を非難したりするのではなく、問います、優しく探求します、なぜなら確実なものをもたないときにだけ人は真実を発見するからです。確実なものから始める人々は不確実なものに行き着きます。不確実なものから始めて、疑問に思い、問うて、疑って、探求する人々は、相対的に確実なものではない、絶対的に確実なものに行き着きます。
それでは、苦しみとは何ですか、それは消滅しますか? そしてもし苦しみがあると、愛はありえますか? 人間は世界中で信じられないほど苦しんできました。先の二つの世界大戦とそれ以前の五千年に及ぶ戦争で、実際には毎年の戦争で、男も女も数えきれない涙を流してきました。人は苦しんできました、そして苦しみ続けています。この国の貧しい人たちは苦しんでいます。病があり、苦痛があり、人間存在の苦悩があります。生は快いものではありません、生は混乱であり苦悶です。人はこれらのことに益々気づいています。人は非常にはっきりと分かり始めています、全ての人間が同じ重荷を背負っていることを、同じ悲しみに暮れていることを、特殊な悲しみではなく、息子の死あるいは兄弟の死あるいは妻や夫との別れではなく、人が何千年もの間に積み重ねてきた悲しみです。あなたの悲しみは人類の悲しみです、全ての人間の悲しみです、たとえあなたがロシアあるいは中国あるいはこの不幸な国に住んでいようと。
我々は悲しみの要因を問題にしています、悲しみの痛みを、悲哀を、悲しみと共にやってくる不安を、悲しみのもたらす全くの孤独を問うています。快楽と同じように、悲しみは私のものとして矮小化されます。我々は我々自身の特殊な悲しみに関するとき、我々はそれをおろそかにしたり、無視したりして、我々は人間の悲しみに関心を示しません、ところが、我々の意識は人間の意識です。人はこのことを非常にはっきりと理解しなければなりません、なぜなら我々の意識の性質を理解するとき、現実の我々を理解するとき、我々は我々の痛みや孤独、憂鬱、喜び、信念が全ての人間によって共有されていることを見始めるからです。あなたはある種類の神を信じるかもしれませんし、彼は別の種類の神を信じるかもしれません、しかし信じるということは共通していて一般的です、そしてそれが我々の意識です。それが現実のあなたです。あなたの話す言葉、あなたの食べる食べ物、気候、衣服、教育、ある種の言い回しの絶え間ない繰り返し、孤独、極まった死の恐怖など、それらが全ての人間のその上に立つ土台です。あなたはその人間です。あなたの意識は一個人の意識ではありません。それは神話や迷信を抱えた、イメージや恐れなどを抱えた全ての人間の意識です。これを理解することは重要です、知的にではなく、言葉でではなく、あなたの心で、あなたの精神で理解することが重要です、なぜなら、我々が死とは何かの問題に至るとき、我々ははじめに我々の意識の性質を、現実の我々の性質を理解しなければならないからです、我々のあるべき姿ではなく、日常生活の中の現実の我々を理解しなければならないからです。そのような現実は世界中のあらゆる人間によって共有されています。
我々が悲しみの性質を問うているとき、我々はあなたの特殊な、矮小な、小さな痛みや苦悶を議論しているのではなく、人類の苦悶を議論しているのです、そしてあなたは現に人類です。この問いかけは自分本位のものではありません。この問いかけは途轍もない可能性を開きます。どうか耳を傾けてください、自分自身で悲しみの性質を見つけ出してください、なぜ世界中の人間が拷問のような苦しみを、悲しみを経験しているのか明らかにしてください。悲しみとは何ですか、なぜ人間はそれを取り除いてこなかったのですか、それを投げ捨ててこなかったのですか? どうか自分自身でこれを問うてください。なぜあなたは、結婚しているにもかかわらず、子供たちがいるにもかかわらず、何らかの悲しみを、悲哀を、痛みを、孤独の悲しみを背負わなければならないのですか? あなたたちは孤独な人たちです。あなたたちは途轍もなくお互いを分離してきています。深い悲しみが生まれると、あなたは自分が何て孤独なのかと悟ります。我々は問うています、悲しみの要因の一つはこの孤独なのかと。孤独は我々の日常生活の結果です。我々の誰もが、上から下まで、人は分離した魂であり、分離した存在であって、人のあらゆる活動が自己中心的であると確信しています。この自己中心的な日常の活動は必然的に寂しさ、孤独、分離主義、分断をもたらします。我々は問うています、我々の考え方の中にある、我々の生き方の中にある、この孤立が悲しみの要因の一つであるのかと。
そして執着は悲しみの要因ですか? 私は私の妻に執着しています、私の息子に、私の記憶に、私の信念に、私の経験に執着しています。私はそれに執着しています。私は信じます、そして私はその信念に執着しています、そしてその信念が問われると、疑われると、揺さぶられると、不確かさが生じます、苦痛が生じます。それが悲しみの要因の一つですか? あらゆる信念から自由であることは可能ですか、一つの特別な信念や一つの特別な理想ではなく、あらゆる理想、あらゆる信念から全く自由であることは可能ですか? どうか聞かないでください、もし人が信念や理想から自由なら、それに取って代わるものは何ですかと。それは間違った質問です。どのような信念も、どのような理想も人々を分断するという真理を見てください。私は神が存在する或いは神は存在しないと信じます。私は何らかのイデオロギーを信じます―共産主義、社会主義、資本主義、それが何であれ、私はそのために進んで戦います、人々を殺します。我々は信じます、なぜならそれが我々に何らかの安心感をもたらすからです。あなたは神を信じるかもしれません、ほとんどのあなた方がそうであるように、なぜならそれがあなたに守られている感覚を、ガイドされていることを、安心などをもたらすからです。精神は発明してきました、頭脳は発明してきました、様々な形の安全性を―ナショナリズム、宗教的人物、そしていわゆる聖なる書物など。それら全てが何らかの安全性の質をもたらしてきました。実際には、安全性などありません。それは幻想です。信念や理想などは非常に非常に破壊的であると悟ることは、それらは人と人を分離していると悟ることは、そしてその真理を見ることは、叡智の働きです。叡智の中にだけ完全な安全性があります、あなたの信念の中にでも、あなたの神話や理想の中にでもありません。この叡智を発見することは―その叡智はあなたのものでも話し手のものでもなく、それは叡智です―誤りを誤りとして見て、誤りを終わらせることです。“現実”を実際に見ることです、想像するのではなく、それから逃げ去るのではなく、現実の我々を実際に見ることです、そうするとそのような探究の中に叡智が目覚めます。
そこで我々は問うています、痛みは、苦悩は、悲しみは、我々の精神の、思考の、行動の孤立からもたらされるのかと? 悲しみは我々の日常的な執着の結果ですか、我々の人々への執着の仕方の結果ですか? どうかこれらのことに目覚めてください、これらの真理を見てください。どうか執着の性質を探究してください。それは不安や恐れ、痛み、嫉妬、憎悪を生みます。それら全てが執着の成り行きです。あなたはあなたの妻あるいは夫に執着しています。その成り行きを見てください。あなた方は互いに依存しあっています、その依存性が何らかの安心の形をもたらします。その人が去るか死ぬかあなたから立ち去るかすると、あなたは苦しみます、苦悶します、あなたは疑いを、憎しみや悲しみを抱きます。あなたはこれらのことを知りませんか? それは何ら新しいことではありません。これは日常生活の事実です。それはあなたに起こらないかもしれません、しかし他の人たちに起こっています、何百万の人たちに起こっています。彼らの関係性の中には、悲しみ、恐れ、苦悶があります。
我々は問うています、執着はこの悲しみの要因の一つですかと。私は私の息子に執着していて彼が死にます、そうすると私は様々な形の慰めを発明します。私は悲しみに決して留まりません。留まるのです、逃げるのではなく、慰めを探し求めるのではなく、何らかの形の娯楽に逃げ込むのではなく、宗教的であろうと他の何かであろうと、そうではなくそれを見るのです、それと共に生きるのです、その性質を理解するのです―あなたがそのようにすると、悲しみが熱気への扉を開けます。あなた方は熱気をもつ人たちではありません、なぜならあなた方は悲しみの性質と悲しみの消滅を決して理解してこなかったからです。あなたは非常に怠惰になっています。あなたは何でも受け入れます、悲しみを受け入れます、恐れを受け入れます、あなたは政治家たちに、あなたのグルに、あらゆる書物や伝統に支配されることを受け入れます。それはあなたが決して自由であるのを望まないことを、あなたが自由であるのを、未知のものを恐れていることを意味します。あなたは様々な形の慰めになる、幻想的なイメージや希望を発明します。
それでは、悲しみについてこれらのことを言ったあとで、それを見たあとで、私の息子が死にます、私はどれほどか彼に執着しているか悟ります、私は彼を永遠に失ったと悟ります、そしてその悲しみと共にいます。あなたはこのことが分かりますか? それは花のようなものです。それは咲きます、それは花開きます、そしてそれは朽ち果てます。それはその日のうちに枯れ果てます。それは一週間後に枯れるかもしれません、しかしそれは枯れ果てます。あなたはそれに開花する機会を与えなければなりません―悲しみの開花であり、悲しみの消滅です。そうすると、あなたに熱気、活力、エネルギー、駆り立てる力が宿ります。悲しみがあるところに、愛はありえません。精神や頭脳が苦悶しているとき、それが孤独で自己中心的であるとき、どうしてそれは愛せますか? 愛は感情的なものではありません、愛は感傷的でも、ロマンチックでも、空想的でも、慰めになるものでもありません。それには途轍もない活力があり、それは死と同じくらい強力です。悲しみがあるとき、愛は生まれません。世界中のほとんどの人間は苦しんでいて、決して苦しみの問題を解決しません。そのように、彼らは愛することがどういうことか知りません。我々はいま愛を快楽に、性的な執着などの様々な形の快楽に貶めています。
我々は問う必要があります、愛は快楽かどうかを、愛は欲望かどうかを、愛は思考かどうかを。愛は育てられますか? 愛なしには、慈悲心なしには、その炎なしには、その叡智なしには、生には非常に僅かの意味しかありません。あなたは生の目的を発明するかもしれません、それを成し遂げることです、あなたはそのような類の他のすべてを知っています、しかし、この愛の根本的な美を欠いては、生には何の意味もありません。実際に、あなたの生は、あなたがそれを見るとき、職場へこの先五十年間毎日通うことになるとき、それは一体どういう意味を持つのですか―僅かのお金を持ち帰り、ささやかな力を得て、子供たちを育て、間違った種類の教育を与えて、この信じがたい残酷な世の中を継続しているのです。あなたは世界中の全ての書物を読むかもしれません、あなたは世界中の全ての博物館を訪れるかもしれません、あなたは様々な種類の話し手からこのように色々なトークを聞くかもしれません、しかしもしこの質がないなら、そのような大いなる感受性を伴った途方もない美的感覚を欠くなら、生には非常に僅かの意味しかありません。これを欠くと、あなたは世の中の益々災いとなり、あなたは世の中に益々混乱をもたらします。あなたは誰かを愛しますか? その愛は嫉妬や所有欲、支配欲、娯楽を含みますか? 悲しみがあるところに、愛はありえません、従って叡智は生まれません。愛にはそれ自身の叡智があります。慈悲心にはこの純粋な穢れのない叡智の質が備わっています。それがあるとき、そのような叡智がこの世の中に働きます。そのような叡智は思考の結果ではありません、思考は小さなことです。あなたがこれらを聞いて、あなたがこれらの真理を見て取るとき―もしあなたがそうすると―完全に愛しているという香りが立ちますか、その感覚が生まれますか、それともあなたはいつもの日常へ戻るのですか?
我々は死の問題も一緒に話し合う必要があります。愛や憎しみ、痛み、悲しみ、恐れなどと同じように死は我々の生の一部です。あなたはそれを遅らせるかもしれません、あなたは言うかもしれません、私は十年以上生きなければならないと、しかしその終りに死が待っています。全ての人間が死を恐れます、あるいは死は避けられないと言ってそれを合理化してしまいます。我々が死と呼ぶその途方もない出来事の深さと十分な意義を理解するためには、あなたは自分自身の意識の性質、現実のあなたの性質を理解しなければなりません。もしあなたが現実のあなたを実際に、記述的にではなく、理解しないと、死は恐ろしいものになります。
もし我々が死の問題を検討したいと思うなら、我々は現実のあなたを理解しなければなりません―名前、姿、男、女、何らかの性質、何らかの傾向、特徴、欲望、痛み、不安、不確かさ、混乱などです。この混乱から、あなたは何か永久的なものを発明します―絶対的なもの、ブラフマンあるいは神。しかし現実のあなたは思考の活動です。その思考はあなたが自分の中に神の啓示を得たと考え出すかもしれませんが、それは依然として思考の活動です。そうすると、身体的な反応、受けた教育の差異、貧富の違いなどを除くと、現実のあなたとは何ですか? 実際に、自分自身を見ると、現実のあなたとは何ですか? あなたはこれら全てではないのですか? もしあなたの中に永久的な何かがあるのなら、なぜ他の何かに永久的なものを探し求めるのですか? 私の質問が分かりますか? 我々が言ったように、不確かなものから始めてください、知らないことから始めてください。これは現実のあなたです。あなたはあなたを鏡で見るとき、あなたはあなたの顔を知ります。同じように、内面的には、あなたはあらゆる苦闘、痛み、争い、悲惨、混乱です。それが現実のあなたです。それが全ての人間の状態です。そのように、あなたの意識はあなたのものではなくて、それは全ての人間がその上に立って共有する共通の土台です。もしそのことがはっきりと見て取られるなら、死とは何ですか?
死はあらゆるものの消滅です、私の快楽、私の記憶、私の経験、私の執着、観念、信念―それら全ての消滅です。しかし我々は消滅を好みません、我々にとって消滅は苦痛です。そこで我々は輪廻転生の中に慰めを発明します、探し求めます。違いますか? あなたは次に輪廻転生する生がどういうものになるのかを決して問いません。輪廻転生するものは何ですか―あなたの記憶であり、あなたの経験であり、あなたの希望であり、より良い生活であり、より良い家です。これは今のあなたの思いです。あなたは次の生に生まれ変わろうとしています。もしあなたが本当に、実際に、深く、あなたの生まれようとしているそのような次の生を信じるなら、感じるなら、今あなたの行っていることが取りも直さず重要です。あなたの今行っていることが、あなたの考えていることが、あなたの感じていることが、あなたの反応が途轍もなく重要です、なぜならそれがあなたの次の生を形作るからです。しかしあなたは信じません。現実は今のあなたの生です、そしてあなたはそれに進んで向き合おうとしません。死は避けられてしかるべき何かです。あなたはいつも死後何が起こるのかを問います。しかしあなたは死以前に何が起こるのか、あなたの生の中で今何が起こるのかを決して問うてきませんでした。あなたの生とは何ですか―働くこと、職場、お金、苦痛、努力、成功の階段を上ること。それがあなたの生です。そして死はそれら全てに終止符を打ちます。そこで、生きている間に終止符を打つことは可能ですか―あなたの執着に終止符を打つこと、あなたの信念に終止符を打つことです。終止符を打つこと、動機を持たずに、快楽とは無縁に、自ら進んで何かを消滅させる美です―あなたはそれができますか?
消滅するとき、新しい何かが始ります。もしあなたが終止符を打つなら、何かが起こります、扉は開きます、しかしあなたはあなたが終止符を打つ前に扉が開くことを確かめたいのです。そのように、あなたは決して終止符を打ちません、決してあなたの動機に終止符を打ちません。死を理解することは、生を、内面的に終止符を打つ生を生きることです。
そしてまた我々は宗教と瞑想について一緒に話し合う必要があります。宗教とは何ですか? ほとんどのあなたたちにとって宗教とは何ですか―信仰や儀式ですか? もしあなたがキリスト教徒なら、あなたは救世主を信じます、ある特別な救済者を信じます、それら全ての儀式と共に、教会の中の、大聖堂の中のそれら全ての驚くべき美しい建築技術と共に信じます。あなたはミサを行っている大聖堂を見たことがありますか? それは壮大な光景で、大いなる美と非の打ちどころのない正確さで行われ、信仰し、あらゆる儀式を行い、礼拝を行い、毎日行い、そして何よりも神を信じる貧しい人々を印象づけます。それがあなたの宗教と呼ぶものです、そしてそれはあなたの日常生活とは絶対に全く何の関係もありません。あらゆる宗教が、組織的であろうなかろうと、言ってきました、「殺すな、人を愛せよ」と。しかしあなたは殺し続けています、あなたはあなたのナショナリズムである、あなたの民族主義である誤った神を崇拝し続けています。そのようにあなた方は互いに殺し合っています。それがあなた方みんなの宗教と呼ぶものです。宗教的な精神の性質を明らかにするためには、あなたはそれら全ての子供じみたものを脇へ除けねばなりません。あなたはそうしますか? 勿論そうしません。あなたはあなたの礼拝を、あなたの儀式を行い続けて、聖職者たちの奴隷になります。宗教は一つの娯楽の形になっています。あなたはそれら全てを払い除けて、いかなる宗教にも属さないでいられますか、キリスト教徒でもなく、ヒンズー教徒でもなく、仏教徒でもイスラム教徒でもなくいられますか? それら全てから離れてください、それらは何世紀にもわたるプロパガンダです。コンピューターのように、あなたはプログラムされています。あなたが「私はヒンズー教徒です」と言うとき、あなたは五千年もの間プログラムされてきています。あなたが宗教の性質を問おうとするとき、あなたはこれら全てから自由でなければなりません。あなたはそうしますか? 誤りであり幻想であるそれら全てのものから自由であるときに、あなたは瞑想とは何かを問い始めます、それ以前にではありません。争っている精神、格闘している頭脳は恐らく瞑想できません。あなたは毎日十分間坐禅するかもしれませんが、もし頭脳が争っているなら、頭脳が苦痛、不安、孤独感、悲しみを抱えているなら、あなたの瞑想の価値とは何ですか? 我々は瞑想とは何かを問おうとしています、どのように瞑想するのかではありません。あなたは尋ねてきました、「瞑想の仕方を教えてください」と、それはあなたに何らかのシステム、何らかのメソッド、何らかの実践法を授けることです。あなたは毎日の実践があなたの頭脳に及ぼす影響を知っていますか? あなたの頭脳は鈍く機械的になります、それは拷問を受けて、何らかの沈黙、何らかの体験を成就するように努力します。それは瞑想ではありません。それは政治家が大臣になるのと同じ別の形の成就にしかすぎません。あなたの瞑想の中で、あなたは悟りや沈黙を成就したいと思っています。それは同じパターンを形を変えて繰り返しているだけであり、あなたはそれを宗教的と言い、他の人はそれを政治的な成就と言うにすぎません。大した違いはありません。
瞑想とは何ですか、その言葉は何を意味しますか? もしあなたが辞書を引くなら、それはじっくり考えること、明確に考えられること、混乱を起こすことなく、個人的な目的を持たずに、明確に考えられることを意味します。それは明瞭性を必要とします。瞑想ははかることをも意味します、はかることです。我々はいつもはかっています、それは比較することです―私はこうです、私はそうなります、私はより良くなります―それは一つのはかるかたちです。“より良く”というのははかることです。あなた自身を他の人と比べることははかることです。あなたがあなたの息子か誰かにあなたはお兄さんのようにならなければならないと言うとき、それははかっているのです。我々ははかって生きています、我々はいつも比べています。それは事実です。我々の頭脳ははかるように条件づけられています―私は今日こうです、私は一年後には違うようになっていたい、物理的にではなく心理的に違うようになっていたい。それがはかることです。
宜しいですか、はかることをしないで生きること、あらゆるはかりごとから全く完全に自由でいることは瞑想の一部です。それは、私はこれを実践しています、私は一年後に何かを成就するでしょう、ということではないのです。それは正に自己中心主義的な活動の性質であるはかりごとです。学校で我々は比べます、大学で我々は比べます。我々は自分自身をもっと頭の良い誰かと、もっと姿の良い誰かと比べます―このように絶えずはかることが行われています。あなたがそれを意識的に気づいていようと、あなたがこのようなはかる活動に気づいていなかろうと。瞑想ははかることを止めることです、比べることを止めることです、完全に。そこに意味されていることを見てください―心理的な痕跡が全くありません。明日というのは時間の中で現実をはかることです。このことが分かりますか? そのように、はかること、比べること、そして意志に基づく活動が完全に止まなければなりません。瞑想の中には意志に基づく活動はありません。瞑想のあらゆる形、あらゆるシステムは意志の活動です。意志とは何ですか? 私は瞑想します、私は静かに座ります、自分自身をコントロールします、私の思考を抑制して実践します―それら全てが欲望に基づく活動であり、それは意志の本質です。瞑想の中には意志の活動はありません。あなたはこれらの美が分かりますか? はかることがないとき、比べることがないとき、何かを成し遂げることや何かになることがないとき、自己の否定の沈黙が起こります。瞑想の中には自己はありません。そのように、精神は、頭脳は、瞑想の中のそれは全体的です。生の全体が瞑想であり、あなたが瞑想する一定の瞑想時間のことではないのです。瞑想は生きる全活動です。しかしあなたは瞑想をあなたの生から分離してきました、それはドラッグを使うのと同じようにリラックスするための一つの方法です。もしあなたが何かコカコーラあるいは他のコーラの名を繰り返し唱えたいのなら、それにも精神を鈍くする同じ効果があります、ところが、瞑想の中では、はかりごとがないとき、意志や精神に基づく活動がないとき、頭脳はあらゆるシステムから全く自由です。そうすると、大いなる自由の感覚が生まれます。その自由の中に完全な秩序が生まれます、それをあなたは生の中で手に入れなければなりません。そうすると、そのような精神状態の中に沈黙が生まれます、静かな精神を手に入れようと望んだのではなく、願ったのではなく、はかることからの自由が生まれます。そのような自由の中に絶対的な秩序が生まれます、沈黙が生まれます。
そうすると、神聖な何かがありますか、思考によって発明されたのではない何かがありますか? 寺院の中には、モスクの中には、教会の中には神聖な何ものもありません。それらは全て思考の発明です。あなたがそれら全てを捨て去ると、名状しがたき、時間とは無縁な何かがありますか、我々の日常生活の中に始まる大いなる美と余すことのない秩序の結果である何かがありますか? それが瞑想の生きている活動である理由です。もしあなたが我々の生の、我々の毎日の反応や振る舞いであるこれら全ての基礎を理解しないなら、あなたの瞑想には全く何の意味もありません。あなたはガンジス川の岸辺かどこかに座ってあらゆる種類のトリックをあなたに仕掛けることができます。それは瞑想ではありません。瞑想は日常生活に由来する何かです。それはあなたの生の活動です、そうするとその活動の中に自由、秩序が生まれます、そしてそれから大いなる沈黙が花開きます。あなたがその地点にやってくるときのみ、人は絶対的に神聖な何かがあると分かります。
1982年11月7日
ニューデリー
中野 多一郎 訳