はからない精神

 

カルカッタ・トーク

何かになること

 外の世界を観察すると、あらゆる国で益々大混乱が生じています。そしてこの国ではそれが極めて明らかです、それは露骨であり、手に取るように明らかです。不確かさや騒動が起こり、政治的な信頼性が失われ、世界中の政治家が事をより一層悪くしていると知ると、世界中の宗教がそれらの意味を全て失っていると知ると、これら全てを見て取ると、自分自身を原理主義者と呼ぶ人たちが現れます、彼らは聖書やコーランや様々のいわゆる宗教的な経典に戻って、もし彼らがそれらの書物に従うなら大混乱は少なくなると考えます。これが世界中で起こっていることです、過去に戻り、何らかの信仰や伝統にしがみつきます。ほとんどの我々が何らかの仕方でこのように行っています。非常に非常に混乱していて、騒がしく、危険で戦争を準備している世界の中にいると、人は自然に何らかの種類の安全性を願います、我々の内や外に。外の世界には大した安全性は生まれません。あなたは非常に裕福かもしれませんし、あなたは非常に政治的に力があるかもしれません、それともあなたは何らかの教条の中に、何らかの信仰の中に安全性を見つけるかもしれません、しかしそれらのどこの中にも絶対的な安全性はありません。人は安全性を欲します。我々全てが安全性を手にしなければなりません―衣食住という意味の安全性です。そしてまた、我々は内面的な安全性も欲します、我々に確信や安定感や力の感覚を与える何かを欲します。しかしいかなる信念の中にも、いかなる教義の中にも、いかなる理想の中にも安全性はありません。それらのどこにも安全性を見出さないと、人は過去に目を向けて、そうすることによって何らかの希望を、何らかの種類の言葉を、しがみつく何かを見つけたいと思います。
 あなたが何らかの種類の結論に、合理的な結論に、論理的な結論に、あるいは何らかの権威の結論に固執すればするほど、あなたはエネルギーを失います。何らかの結論があるところには、エネルギーの喪失があるに違いありません、なぜならあなたが何らかの結論に至ると―それは討論や議論の後にあなたが正しいと考える点に至ることを意味します―あなたは更に問うことを止めてしまうからです、そしてそれが世界で起こっていることです。我々はみな結論を欲しがります、神がいるのかどうか、何らかの平和が来るのかどうかなどです。内にも外にも安全性を欠いているので、我々が全面的に頼れる、我々が依存できる何かを欠いているので、我々に慰安や幸福感を与えてくれる何かを欠いているので、我々は何らかの伝統的な結論にしがみついて、そのために我々は問いかけるその創造的なエネルギーを失います。問いかけることは、見通すこと、調べること、探求すること、扉を開くこと、更に明らかにすることを意味します。しかし、ほとんどの我々はそのようなエネルギーを持っていないので、我々は我々が伝統とか書物とか何とかと呼ぶものに頼ります。
 話し手には、我々は新しい文化、新しい生活様式をもたらす創造的なエネルギーを発揮していないように思われます、なぜならこの国の古いブラフマンの文化が完全に消失しているからです―何らかの文化を我々は良いとか悪いとか言っているのではありません、恐らく三千年から五千年存在していた何らかの文化が完全にあっという間になくなりました、全く消え去りました。そして人は、疑問に思います、問います、なぜある独特の文化を長い間生きてきた人間が、なぜそのような文化が消え去ったのかと。恐らくそれは文化では全くありませんでした。それは一連の言葉にしかすぎませんでした、それはその背後に何の命も宿していないただの伝統にしかすぎませんでした。そこで、一緒に我々の精神と我々の心を探究する中で、我々の行動の全ての中心である、我々の感情の全ての中心である、あらゆる思考の中心である我々の頭脳の性質を探究する中で、我々はそのような創造的なエネルギーを放つことができるのかどうかを見てみます。我々はこのことを非常に注意深く検討しようとしています。
 霊妙な聴き方があります、霊妙な学び方があります。我々が学ぶのはほとんどが知識の収集蓄積です、数学や生物学や物理学を正に知るのではなく、我々は物理学についての多くの情報をじわじわ収集蓄積していき、それを頭脳に蓄え、そしてそれが物理学や数学や何かについての我々の知識になります。それが我々の行うことです、そしてそれが我々の言う学ぶことです―様々なテーマについて沢山の情報を収集蓄積すること―技術者として、天文学者として、政治家として。我々は、大工として、石工として、医者として、世の中で上手に行動するために知識を収集蓄積します、知識が収集蓄積されます、そこから我々は巧みにも拙くにも、効率的にも非効率的にも行動します。そこで、我々は一緒に知識とは何かを問わなければなりません、我々のお互いの関係性の中で知識がどのような位置を占めるのかを問わなければなりません。恐らく我々は職業を持つこと、良い科学者や医者や技術者などになることを除いて、生の中で知識がどのような位置を占めるのかを決して問うてきませんでした。我々は非常に真剣な問いかけをしています、つまり、知識は人間の関係性の中でどのような位置を占めるのかです。知識はいつも過去の中です。未来の知識というものはありません。知識は過去としての時間のプロセスを意味します。そしてこの知識は、科学的世界でも人間存在についても経験に基づいています。この経験は何百万年の間あるいは過去三百年の間収集されます。そしてそのような知識が更なる知識を、更なる探究を収集蓄積するために使われます、しかし知識はいつも過去の中です。そのことには疑う余地がありません。そして知識はいかなるものについても決して完全ではありません。それは事実です。そのように、我々の知識は頭脳に記憶として蓄積されます、そしてそのような記憶の応答が思考です。つまり、引き継がれてきているか或いは現在的に収集蓄積されている経験が知識になります。そうすると、そのような知識は記憶であり、それは過去です、そしてそのような記憶から起こる反応が思考です。このことは宜しいですか?
 そのように思考はいつも限られています。人は、例えば、科学的知識を収集蓄積してきました。そのような知識が常に付け加えられています、更に更に付け加えられています。そのように科学的知識は決して完全ではありません。思考は、それが何を行おうと、限られています。我々は断定的そして明確に言います、知識は限られていると。何ごとについても完全な知識はないので、知識はいつも無知の影を伴います。そして知識から生まれるどのような思考も否応なく断片的であるに違いありません、限界があり、限られているに違いありません、思考は計り知れない何かを、想像を超えた、何か無限なものを発明できます、しかしそれは依然として思考の活動です。人は神を発明できます、なぜならその人は神が自分にとっての慰安として、安心として必要と感じるからです、しかしそのような神は限られた思考の産物です。我々はこの点について非常に明瞭でなければなりません、我々は自分自身でこの事実を、この真理を見て取らなければなりません、思考はあらゆる環境下で、その思考が何であろうと、科学者のそれであろうと、偉大な哲学者のそれであろうと、いつも限られていて、狭く、限界のあるものであることを見て取らなければなりません。思考はナショナリティを発明してきました、そしてそれらを発明してきて人々の間に分断をもたらします―イスラム教徒とヒンズー教徒、ユダヤ人とアラブ人、共産主義者、社会主義者、資本主義者など。思考はこれら全てを発明してきました。あらゆる儀式が思考の産物です。そして思考は問題を作り出してきました、戦争や争いなどの問題を作り出してきました。そうして、思考はそれらの問題を解決しようとします。
 我々は思考が、政治的に、宗教的に、人間の間で、数知れない問題を作り出してきたのを見ます。そして思考は言います、「私がそれを解決する」と。そのような解決の中で、あなたは更に問題を生み出します。そのように生は益々複雑になっています、問題に溢れています、なぜなら我々は思考が唯一の装置であると考えるからであり、そして思考が限られているからです。このことは宜しいですか? そうすると我々は問うことができます、「新しい装置はあるのか」と。思考の性質とは何ですか? 思考は物質的なプロセスです、なぜならそれは正に頭脳自身の中に保持されているからです。思考が何を考えようと、何を発明しようと、それは物質的なプロセスの結果です。思考が神を作り出すとき、それは依然として物質的なプロセスです。思考は神聖ではありません。もしこのことが非常に明確なら、言葉ではなく、深く、根本的に明確なら、我々は問うことができます、新しい装置はあるのかと―高位の意識あるいは低位の意識ではありません、それは思考の別の発明です。
 我々は一緒に明らかにしようとしています、思考とは全く異なる新しい装置があるのかどうかを、思考が全く触れてこなかったそれがあるのかどうかを、なぜなら思考が触れるものは何でも限りがあるに違いないからです、そして限りがあるので、それは必然的に争いを作り出すに違いありません、断片化をもたらすに違いありません、それが世界中で行ってきたように―宗教的断片化や政治的断片化などです。このことは宜しいですか? 我々はそこから進むことができますか? もしあなたが本当に真剣で、深く感心があるなら、もしあなたが人間に大いなる愛情を抱いているなら、あなたは問いかけるエネルギーを持っているに違いありません、明らかにしようとする駆り立てる何かを、熱気を持っているに違いありません。新しい装置が、日々腐敗していて、自らを破壊しているこの世界には、正に絶対的に必要です。思考の性質を問題にすることによって、疑うことによって、問うことによって、探ることによって、我々は自分自身で明らかにしようとしています、思考は、どのような次元であろうと、断片的であり、限られていて、限定的であると、そしてこの限界が頭脳を条件づけてきていると。頭脳は、技術的な世界で起こっているのを見ての通り、途方もない能力を持っています、しかしその能力は一方向にのみ発達させられてきました、それは技術的な世界です―医者、外科医、数学者、コンピューターの専門家などです。しかし人間の問題を―我々のお互い同士の争い、我々の悲しみ、痛み、悲哀と終わりない争い―技術的な世界は決して解決できません。いかなる政治家も、いかなるシステムも、いかなるメソッドもそれらに関係がありません。普通の人間として、我々は自分自身で明らかにしようとしています、思考によって触れられない新しい装置があるのかないのかを、時間の産物ではない、思考である進化的プロセスに囚われていないそれがあるのかないのかを。
 我々はこのことを一歩一歩検討していきます、もしあなたが進んでそうしたいなら、もしあなたが真剣なら。あなたは用心深く気を抜かずに気をつけている能力、感受性を持っていなければなりません、ですから、あなたはいかなるグループにも、いかなる信念にも、いかなる教条にも献身的であるはずがありません。あなたは本当に全世界的な精神を、自分自身の小さな問題に関心をもつちっぽけな小さな精神ではない精神を持つ必要があります。より偉大なことの中により瑣末なことは消え去ります。より偉大な人間性の中に僅かの些細な人間の問題は溶解します。人間の頭脳、精神、心の壮大な複雑さの理解なしに、あなたはいかなる問題も決して解決しないでしょう。ですから、どうか、自分自身で明らかにするために気をつけていてください、気を配っていてください、話し手の言うことを鸚鵡返しに言うのは止めてください。話し手には何の価値もありません。彼はただの電話機です、しかし彼の言うことの中に多分何か重要なものがあるかもしれません。ですから、見つけ出してください。
 あなたは自分自身を、あなたの妻を、通りの向こうの樹木を、そして通り過ぎるあの動物を言葉にしないで正に観察しようとしたことがありますか? あなたは樹木を言葉にしないで正に見ようとしたことがありますか、その樹木についてこれまでに思い描いてきた全ての印象を引き合いに出すことなく、ただその樹木を言葉にしないで正に観察しようとしたことが、それを見ようとしたことがありますか? あなたはそのようにしたことがこれまでありますか? あなたはあなたの妻やあなたの夫やあなたの政治家たちをそのように見たことがありますか? あなたは妻や夫や政治家たちを彼らの或いは彼女らのシンボルをやり過ごして彼ら或いは彼女らを正に見たことがありますか? あなたは話し手を言葉にしないで、彼に関する全てのくだらない話や全ての評判をやり過ごして彼を見ることができますか、あなたが彼について築き上げてきたイメージをやり過ごして彼を見ることができますか? 恐らく、話し手をそのように見ることは比較的容易でしょう、なぜなら彼はあなたを知らないからであり、あなたは彼を知らないからです。しかし、あなたの妻やあなたの夫を見ることはもっとずっと難しいことです。あなたはその動物を頭で何も思い描くことなく、何のイメージも抱かずに、それを言葉にしないで見ることができますか? 最初に、あなたが一言も言葉を使わずに、何も思い描くことなく見ることが、観察することが、凝視することができるかどうかに気づくことです、なぜなら、そうするとあなたはあなたの感受性を目覚めさせるからです。あなたはその埃に、その汚れに、その悲惨さに、その貧困に敏感ではありません、あなたはそれをただ受け入れてきました。この国の貧困は決して解決されません、決して解決されようとしません、もしあなたがあなたのナショナリティを完全に脱落させなければ。それはあなたが人と人との世界的な関係を理解したときのみ解決されるでしょう。そうすると国境というものはないでしょう。それをあなたは恐らく理解していません。そこで、私は思います、探求の、問いかけの最初の重要な質は、人が途方もなく鋭敏でなければならないことです。あらゆる宗教が言ってきました、あなたの感覚を抑えよ、あなたの感情を抑えよと、そうしてあなたは次第に感覚の鋭敏さを失ってきました。話し手は正に反対のことを言っています。話し手は言っています、あなたの感覚をこの上なく目覚めさせて、あなたの全ての感覚でもって世界を見なさいと。全感覚が余すことなく目覚めているそのような計り知れない感じで世界を見ると、その中に大いなる、途方もないエネルギー、美の感覚が生まれます。別の装置の探究の中で、我々が最初に目にするのは、人が、繰り返しや伝統、環境の抑圧によって鈍くなっているということです、環境は単に自然環境だけではなく、環境は政治家であり、指導者であり、我々の周りで進行している全てのものです。あなたは徐々にあらゆる感受性を失いました、創造するための全てのエネルギーを失いました、しかし我々は全く新しい何かをもたらすという意味の創造について話しています、そしてそのような能力、駆り立てる力、美を手にするためには、人は大いなる感受性を身につけなければなりません。あなたは、もしあらゆる感覚が余すことなく機能していなければ、余すことなく気づいていなければ、大いなる感受性を身につけることはできません。
 それでは、なぜ我々は我々自身を破壊してきたのでしょうか? 宗教は言ってきました、この国の経典と宗教的指導者たちは言ってきました、キリスト教世界は言ってきました、欲望を抑えよ、あなたの感情を抑えよ、女性を見るな、自分自身を痛めよと、そうすることによってのみあなたは神、ニルヴァーナ、解脱、あなたの願うものは何でも見つかりますと、そうすることによってのみあなたは悟るでしょうと、それは全くナンセンスです。どうしてあなたはあなたの持つこの上なく途方もない装置を破壊できるのですか―身体、その全ての感覚、その美を。それは途方もない装置です。それらの人々は言います、欲望を抑えよ、欲望に屈するなと。そこで我々は欲望の性質を理解しなければなりません。新しい装置を探究する中で、思考である古い装置はどのような人間の問題も解決していないということを正に悟ることが非常に重要です。それらを探究する中で、我々はいま欲望と呼ばれるこのことに行き当たりました。欲望とは何ですか? なぜ人々は言ってきたのですか、それを抑えろ、それを否定せよと。もしあなたがそれをもっと偉大な何かとみなすことができなければ、それはいつも苦闘する問題です。我々は抑圧することや避けること、逃げることなどを喧伝しているのではありません。我々は欲望の性質を、欲望がどのように生まれるのかを、なぜ我々はそれに囚われるのかを、なぜそれはそれほど途方もなく力強くなっているのかを一緒に探究しています。
 欲望とは何ですか? あなたは何か快い対象を見ます、美しい対象を、美しい女性や男性を見ます。あなたは彼あるいは彼女あるいはその対象を欲しいと思います。そういうことが起こるのです。あなたは素敵な車を見ます、ピカピカ光っている、良いライトを装備した、力強い車を見ます、そしてあなたはそれに触れます、中に乗ってみます、もしあなたがそれを手にすることができるなら、あなたはそれを所有する心地よさを感じます。そうすると欲望がそこに生じます。最初に、その対象が欲望を作り出します、あるいはその対象とは別に欲望が存在します、つまり、その対象が、車が欲望を作り出します、あるいは欲望が存在します、そしてその対象は様々に変わるかもしれません。我々は欲望の対象を議論しているのではありません―権力をもつ大臣あるいは首相、知事、経営者それとも才能のあるヴァイオリニストになること―我々は欲望の正に構造と性質を検討しています。もし我々がそれを理解するなら、言葉ではなく事実として理解するなら、それを抑圧するという問題は決して起こりません、それをコントロールしようとする問題は決して起こりません。我々はコントロールしてきて、誰がコントロールしようとしているのかを決して理解しません。我々は欲望をコントロールしてきました、我々は我々のセックスをコントロールしてきました、我々はコントロールするように育てられています。そして欲望が生まれる場面で、我々はそれを理解しようと、それを探究しようと、それを探り当てようとしていて、それをコントロールしようとはしていません。もしこのことが明らかなら、我々は一緒に欲望の真理の理解に進みたいと思います、それが生の中でどのような位置を占めるのか、それともそれは生の中のどこにも居場所がないのかを検討したいと思います。そうすると、我々は恐らく何らかの結論をもって始めることはできません、つまり、欲望を抑えよとか欲望のおもむくままにせよとかいうある種の結論です。我々はゆっくりと、躊躇しながら、注意深く、このことを、生の中の途方もない要因になっている、そして拷問にもなっているこのことを探究しようとしています。
 欲望の源、原因は何ですか? 欲望の全活動を捉えるために、その意味するところ、その深さ、その真実を捉えるために、非常に非常に深くそれを検討してください。あなたに感覚が全くないなら、知覚は起こりません。知覚は、あなたがお店のガラス窓の中に何かを見るとき生じます、シャツやラジオや何かしらを見るとき生じます。あなたはそれを見ます―視覚です。そうしてあなたはその店に入り、それを触ります、そしてそれに触れることから、知覚が生じます。これは非常に単純です。あなたはその車を見ます、あなたはそれに触れます、あなたはそのライトや光沢を見ます―インドの車の美しさではありません、いくつかのヨーロッパの車は途方もなく美しい。航空機のように、それは途方もなく美しい―あなたはそれに触ります、あなたは窓の中に見たそのシャツを触ります、青いシャツです、そしてそれに正に触ることによって知覚が生じます。そうすると何が起こりますか? そうすると、もしあなたが非常に間近に観察するなら、思考は言います、もし私がそのシャツを着たなら、もし私がその車に乗ったら、何て素敵なんだろうと。そのように、思考が知覚からイメージを作り出すその瞬間が欲望の原点です。
 あなたは美しい樹木を見ます、それは人が作り出したものではありません。人は大聖堂、モスク、寺院、そしてそれらの中の全てのものを作り出してきました、しかし人はその樹木を作り出していません。人は自然を作り出していませんが、人は自然を破壊しています。宜しいですか、あなたは美しい樹木を見ます。あなたはそれがあなたの庭にあったらよいなと思います。そしてあなたはそれを見ます。その威厳、その影、その葉の上の光、その樹木の動きを知覚します。そこに知覚が生じます。そうすると思考が言います、もし私の庭にその樹があったら何て素敵なんだろうと。思考があなたの庭の中のその樹のイメージを作り出すと、その瞬間に欲望が生まれます。違いますか? 事実、感じること、知覚することは自然なことです。そうでなければ、あなたは麻痺しています。あなたは何らかを知覚するに違いありません、あなたの指には、あなたの目には感受性があるに違いありません、あなたが聴いているときには、見ているときには何らかの感受性が働いているに違いありません、あなたは見つめることに、見ることに鋭敏です―そのように見つめることから、見ることから、観察することから、知覚が必然的に生じます。それは起こるに違いありません、そうでなければ、あなたは目が見えないか耳が聞こえないかです。知覚が生じると、思考がイメージを作り出します、そしてその瞬間に欲望が生まれます。そういうことであるとあなたは分かりましたか? それとも、あなたは話し手の言ったことをただ繰り返すのですか、それとも、あなたはあなたの伝統に戻って我々は欲望を抑えなければならないと言うのですか、それとも、あなたは話し手の言っていることはナンセンスだと言うのですか? もしあなたが本当に欲望の問題を検討するなら、それは生の中で重要なことですが、あなたは自分自身で欲望の源、始まりを明らかにするでしょう。宜しいですか、問題は、車を見ること、そのシャツを見ること、女性を見ること、絵を見ることです、そして知覚が生じることです。思考が休止して、即座に何かを思い描かないことが、そのシャツを着たあなたのイメージを、その車に乗っているなどのあなたのイメージを作り出さないことができるかどうかを明らかにしてください。知覚とその知覚に影響を及ぼす思考との間にギャップが起こりえますか? 明らかにしてください。それはあなたの精神、あなたの頭脳を気を抜かずに気をつけているようにさせるでしょう。
 そしてまた、我々は、新しい装置を探究する中で、人は恐れから自由になりうるのかどうかも一緒に話す必要があります。我々は何かを恐れています、過去を、未来を、あるいは生きている今を恐れています、生き様が確かではありません、現在のプロセスが確かではありません。我々はいつもこのような恐れを抱いています。人は決してその問題を解決してきませんでした、人はそれから逃げてきました。人は、それを抑える、それを否定する、それから逃げる様々な手段をもっていますが、人は決してこの問題を解決してきませんでした。恐れがあると、恐ろしい活動が起こります、あらゆる種類の間違った行動が起きます。恐れの危険が本当にあると、あなたの体全体が、あなたの全精神が委縮します。これは我々が解決しなければならない問題です、理論的にではなく、現実に、そして完全に恐れから自由になることです。それは可能でしょうか?
   恐れの原因は何ですか? 何らかの原因があるところには、いつもその原因の消滅があります。これは論理的であり、これは自然なことです。私は痛みを抱えているかもしれません、その原因は癌かもしれません。もし私がその原因を発見すれば、その痛みは無くなるでしょう、あるいはそれは末期的でしょう。我々は症状からその原因を調べます。我々は一緒に見ています、恐れの症状ではなく―闇を恐れたり、あなたの両親や孫たちを恐れたり、あなたの夫や妻を恐れたり、政治家などを恐れたりすることではありません。それらは全て恐れの症状であり、恐れの対象です、しかし我々はそのルーツは何かを問うています。それは樹を切り倒して、その正にルーツに行くようなものです。我々はそれを見ようとしています。
 最初に、我々は問います、恐れの原因は時間なのかと。それを注意深く見てみましょう。時間は恐れの主な原因ですか? それは、時間は明日であるから、明日何かが起こるかもしれないということであり、昨日あるいは何千という昨日に何が起こったのかということであり、今何かが起こるかもしれないということです。あなたは私の質問が分かりますか? 時間は恐れの要因の一つですか? 私は先週何か悪いことをしたかもしれません、そして私のしたことが苦痛を招きました、そして私はそれが再び起こらないでほしいと思います。つまり、“ほしいと思う”という言葉は未来を意味します。あなたはこのことが分かりますか? 時計時間があります、日の出と日の入りの時間があります、昨日、今日そして明日としての時間があります、昨日の記憶や経験としての時間、それを現在に修正した時間そしてそれを未来へ推し進める時間です。それら全てが時間です。物理的時間―ここからそこへの距離をカバーするためには、ある地点から別の地点へ、この場所からあなたの家へ行くためには時間を要します。いわゆる心理的な時間、内面的な時間があります。つまり、“私は年末により良い仕事にありつきたいと思う、私はいつかより良くなりたい、より立派か何かになりたいと思う、私は明日素敵な人に会いたいと思う”ということです。そのように“…したいと思う”という言葉は時間を意味します。そして、もう一つ、より良くという観念があります、私はこうですが、私はより良くなるでしょう、私は暴力的ですが、私は非暴力的になるでしょう。 “現にあること”と“現にあること”を他の何かに変えるこのプロセスは時間的なプロセスです。このことは宜しいですか? そのように、時間は恐れの要因です。私は生きています、私はエネルギーに満ちています、しかし何かで、事故で、私は死ぬかもしれません。私は死がいつもそこにあることを警告されています。そのように時間的な感覚が、時間的な合間があります。その時間的な合間はより良くなること、希望、自己発達などとして理解されます。私は何かを成し遂げたいと思う、私は成し遂げられないかもしれない。私は求職する、私はその仕事のために必要な能力がないかもしれない。そこで恐れが生じます。時間は恐れの要因の一つです。
 我々はどのように時間を払い除けるのかを言っているのではありません。我々は恐れの性質を検討しています。そうすると、思考が、考えるプロセスが恐れの別の要因ではありませんか? それを見てください。私は死ぬかもしれないと考えます。私は神が存在すると考えます、しかしあなたがやって来て、私の信念を脅かします、そして私は怯えます。そのように、過去の出来事を考えること、痛みが再び生じないことを望むこと、それについて考えることやそれが再び起こらないことを願うことは思考の活動です。そのように思考と時間が正に恐れのルーツです。物理的な時間―ここからあなたの家へ行くには時間を要します―あなたはそれを止められません。言葉を覚えるには、何らかの技術を覚えるには時間を要します。我々は時間が思考と同様に恐れの要因の一つであると分かります。そのように思考は何らかの活動です。違いますか? 時間は何らかの活動です。現実に、事実として、心理的な時間がありますか? あなたは私の質問が分かりますか? 時間の問題は思考の問題と同様に非常に重要です。我々は時間によって生きています。我々の知識の全てが時間に基づいています―暴力的にならないように格闘すること、何かになるように格闘すること、それらは全てはかることです。私は不幸です、暴力的です、孤独です、憂鬱です、不安です。それが“現実”です。それが事実です。そうして「私は“現実”とは違う他の何かにならなければならない」という観念が起こります。そのように何かになるということは時間です、秘書から経営者になるには時間を要するように。その同じプロセスを我々は精神の領域へ、思考の領域へ持ち込みました。つまり、「私は暴力的です、わたしは非暴力的になります」、それはあなたが時間を招き入れているのです、時間の干渉を許しているのです。しかし、あなたが「私は暴力的です、私はそれを理解しようとしています、それを見ようとしています、それを見守っています、それを非常に素早く、深く検討しようとしています」と言うとき、時間は生まれません。しかしもしあなたが何か他のものになろうとしているなら、時間が生まれます。
 何かになること、それははかることですが、それには時間を要します。例えば、もしあなたが自分自身をもっと聡明な、もっと賢い誰かと比較するなら、その比較ははかることです。もしあなたが誰かと全く比較しないなら、あなたの神々、聖者たち、グルたちやその他の全てを含めて、それらと全く比較しないなら、何が起こりますか? あなたは現にあるとおりのあなたです。そこからスタートしてください、しかしあなたが比較すると、他の何かになろうとすると、あなたは決して自分自身を、現実のあなたを理解しません。そのように、時間は何かになることです、事実とは違う何かになることです。それは「私は暴力的です、私は非暴力的にならなければならない」ということです。非暴力は事実ではありません、それには何の現実味もありません。あなた方はそれについてこの国の中で多くを語りますが、それは存在しません。存在するのは暴力です。もしあなたが非暴力を忘れるなら、あなたは暴力と格闘できます、それを検討できます。暴力の理解は非常に長くかかるのか、それとも即座に理解されるのかのいずれかです。あなたの暴力の探究には時間がかかります、なぜならあなたは怠惰だからです、或いはあなたは言うからです「私はそれを明日探究します、それは重要ではありません」などと。しかし世界中に蔓延していて、人間を破壊している暴力に関心がある人は暴力の深さを理解したいと思い、その人はそれを即座に理解します。何かになろうとするところには、心理的な時間があるに違いありません。そのような何かになることは幻想です。事実は存在している何かです、その瞬間の現実のあなたです―あなたの怒りであり、あなたの反射的な反応であり、あなたの恐れです。それを見てください。時間が恐れの主な要因です、そして思考も。あなたは物理的な時間を止めることはできません、しかしあなたが内面的に時間の性質を理解し始めると、何かになることや何かにならないことを理解し始めると、そして思考の全活動を理解し始めると、それを抑えたり、否定したり、どのように私は思考をコントロールすべきかと言ったりしないと、そうすると、コントロールしようとするものは何ですか? コントロールしようとするものは思考の別の一部分です。
 もしあなたが本当に、深く、恐れの性質と心理的な恐れの余すことのない消滅に関心があるなら、人は時間の問題を深く検討しなければなりません、そして思考の構造と性質も検討しなければなりません。しかしもしあなたが「どうか恐れを取り除くメソッドを私に教えてください」と言うなら、あなたはひどく間違った質問をしています、なぜならその質問は正にあなたが自分自身を理解していないことを、あなたが自分自身を見てきていないことを意味するからです。死、争い、痛み、悲しみ、快楽、恐れ、瞑想、それら全ては我々の生であり、それを理解するためには人は活力を、力強さを持たなければなりません、そして、もしあなたが言葉にされたことを単に繰り返し言っているなら、もしあなたが何らかの信念に、何らかの結論にしがみついているなら、あなたはそのようなエネルギーを手にしないでしょう、そのようなものはあらゆるエネルギーを破壊します。エネルギーは自由を意味します、あなたの好きなことを行うということではなく、自由を意味します。
                                               1982年11月21日
                                                     カルカッタ
                                                 中野 多一郎 訳