アラン W アンダーソン(A) クリシュナムルティさん、我々の前回の会話で、我々は恐れを議論してから、それの知識や時間に依存しない個人の変質との関係へ進み、さらに快楽へと進んで、我々の会話の最後に美の問題が生まれました。
クリシュナムルティ(K) 人は時々思います、なぜ美術館にそれほど沢山の絵画や彫像があるのかと。それは人が自然に触れることを止めたので他の人たちの有名な絵画を見るために美術館へ行かなければならないせいですか? そしてそれらの幾つかは驚くほど美しいのです。なぜそもそも美術館が存在しているのですか? 私はただ問うているだけです。私はそれらが存在するべきとか存在するべきではないとか言っているのではありません。私は世界中の多くの美術館へ行ってきました、そして専門家たちに案内されてそれらを見て回ってきました、そして私はいつもそのとき私が私にとってとても人工的に感じる他の人たちのその人たちが美と考えるものの表現をまるで見ているかのように感じてきました。そして私は思うのです、美とは何かと。なぜなら、あなたがキーツの詩を読むとき、人の心と非常に深い感情で人が書く詩を読むとき、彼はあなたに彼が感じる何かを、美のこの上なく精妙な本質であると彼が考える何かを伝えたいのです。
私はまた偉大な多くの大聖堂も見てきました、あなたが見てきたに違いないように、ヨーロッパ中のそれらを見てきました、そしてふたたびそこには人間の感情の表現があります、石造建築や驚くべき建造物の中に収められた信仰心や敬愛の念の表現があります。そしてこれらを見ていると、私はいつも驚きます、人々が美について話したり、書いたりするとき、それは人間によって作り出された何かなのか、それともそれはあなたが自然の中に見る何かなのか、あるいはそれはむしろ石や塗料や言葉とは何の関係もなくて、深い内面的な何かなのかと。そしていわゆる専門家たちと議論をしていると、しばしばそれはいつも“外にある何か”であり、近代絵画や現代音楽、ポップミュージックなどそれらはいつも何かとても恐ろしいほど人工的であると私には思われます。私は間違っているかもしれません。
しかし美とは何ですか? それは表現されなければなりませんか? それが一つの問いです。それは言葉や石や顔料や塗料を必要としますか? それともそれは恐らく言葉や建造物や彫像で表現されえない何かですか? それでは美とは何かのこの問いを見ていきましょう。私はそれを非常に深く見ていくためには人が苦しみとは何であるのかを知らなければならない、あるいは理解しなければならないと思います、なぜなら熱気なしにはあなたは美を手にすることができないからです―熱気という意味は、熱望のことではなく、計り知れない苦しみが生まれるときにやってくる熱気のことです、そしてそのような苦しみと共にあるとき、それから逃げないとき、この熱気が生まれます。熱気は“私”の、“自己”の、“自我”の完全な放棄を意味します。従ってそれは大いなる厳格さであり、それは宗教的な人たちがそれに与えてきた―その言葉の元々の意味である灰や、厳しさ、無味乾燥といったことに従う―意味の厳格さとは違って、それはむしろ大いなる美の厳格さです。
A はい、分かっています。
K 大いなる尊さの感覚であり、本質的に厳格な美の感覚です。そして厳格であるということは、言葉でではなく、あるいは思想的にではなく、本当に厳格であるということは“私”を余すことなく放棄すること、“私”をやり過ごすことを意味します。しかし人は、もし人が苦しみとは何であるのかを深く理解していないなら、そうなりえません。なぜなら熱気は“悲しみ”という言葉に由来するからです。その言葉の元々の意味は悲しみであり、苦しみです。
A 感じることです。
K 感じることです。宜しいでしょうか、人々は苦しむことから逃げてきました。私はそれが美と非常に深く関係していると思います、このことはあなたが苦しまなければならないということを意味しません。
A あなたが苦しまなければならないというのではない。
K しかし我々はもっと少しゆっくりと行かなければなりません、私は性急に事に進めすぎています。はじめに、我々は我々が美とは何であるかを知っていると当然のように考えます。我々はピカソやレンブラントやミケランジェロの作品を見て、我々はそれが何て素晴らしいのかと思います。我々は知っていると考えます。我々は本でそれについて読んできました、専門家たちがそれについて書いてきたものなどがあります。人はそれを読んで言います、はい、我々は他の人たちを通じてそれを吸収しますと。しかしもし人が本当に美とは何かを探究するなら、大いなる謙虚の感覚がなければなりません。人はこのように言うことから始めなければなりません、つまり、私は美が何なのか実際には知りませんと、私は美が何なのか想像できます、私は美が何であるのか学んできました、私は学校で、大学で、教えられてきました、私は本を読み、ガイド付きの見学もするなどあらゆることをしてきました、何千という美術館にも足を運びました、しかし実際に美の深さ、色彩の深さ、感情の深さを明らかにするためには、精神が大いなる謙虚の感覚でスタートしなければなりません、つまり、私は知りませんという謙虚の感覚です。ちょうど人が本当に瞑想とは何かを知らないように。人は人が知っていると考えます。我々は瞑想をそこへ至るときに議論します。そのように人は、もし人が美を探究するなら、大いなる謙虚の感覚でスタートしなければなりません、知らないという感覚です。その正に知らないということが美です。
A はい、私は耳を傾けてきて、私はあなたが言う美と熱気とのこの関係に自分自身を開くように努めてきました。
K 宜しいでしょうか、人間は個人的にだけではなく苦しんでいます、人間の計り知れない苦しみが存在します。それが正に宇宙に浸透しています。人間は物理的にも、心理的にも、精神的にも、あらゆる形で何世紀も何世紀も苦しんできました。母親は息子の死のせいで泣け叫びます、妻は夫が戦争や事故で手足などを失ったせいで泣き叫びます―世界には途轍もない苦しみが存在します、そしてこのような苦しみに気づくことは途轍もないことです。
A はい。
K 私は人々が気づかないのだと思います、ましてや世界の中に存在するこの計り知れない悲しみを感じるということならなおさらです。人々は自分自身の個人的な悲しみにとても関わっていて、人々はインドや中国や東洋の小村の貧しい男や女の悲しみを見過ごします、そこでの人々は恐らく十分な食事や清潔な衣服や心地よい寝床を決して手にすることがありません。そして戦争で殺される何千という人たちの悲しみがあります、あるいは全体主義世界の中で何百万人という人々がイデオロギーのために、専制政治によって、それら全ての恐怖のために処刑されています。そのように世界にこれら全ての悲しみが存在します。そして個人的な悲しみも存在します。そしてそれを本当に非常に非常に深く理解してそれを解決することなしに、熱気は悲しみから生まれないでしょう。そして熱気なしにどうしてあなたは美を見ることができますか? あなたは知的に絵画や詩や彫像を鑑賞できますが、あなたにはこの内面から迸り出る熱気の大いなる感覚が必要です、熱気の爆発が必要です。そしてそれがそれ自身で美を見ることができる感受性を生み出します。そのように、私はそれが悲しみを理解するためにはむしろ重要であると思います。私は美や熱気そして悲しみは関連していると思います。
A 私はそれらの言葉の順序に関心があります。我々が話してきた変質に関連して、私は悲しみから熱気へ、そして美へという流れがあると思います。
K その通りです。
A はい、どうぞ続けてください。
K 宜しいですか、キリスト教世界では、もし私が間違っていなければ、悲しみは一人の人物に預けられます、そしてその人物を通して我々は何とか悲しみから脱します、あるいは少なくとも我々は悲しみから逃げたいと思います。そして東洋世界では、悲しみはカーマの教義によって合理化されます。宜しいですか、カーマという言葉は“行うこと”を意味します。そして人々はカーマを信じます。つまり、あなたが過去生で行ってきたことをあなたは現生で償うか、あるいは現生で何らかの見返りを受けるかなどのことです。そのようにこれら二つの逃亡のカテゴリーがあります。そして何千という逃亡の形があります―ウィスキー、ドラッグ、セックス、ミサに参加することなどです。人は決して物事に留まってきませんでした。人はいつも何らかの信仰に、何らかの行動に慰安を追い求めてきたか、あるいは自分自身よりも偉大な何かと一体化することに慰安を見出してきたかのいずれかです、しかし人は決して言ってきませんでした、さあ、私はこのことを現にあるとおりに見なければならない、私はそれに踏み込んでいかなければならなくて、それを他の誰かに預けてはならないと。私はそれを見ていかなければならない、それと面と向き合わなければならない、それを見なければならない、私は現実を知らなければならないと。そのように精神がこの悲しみから逃げないと、個人的なそれであれ、人類の悲しみであれ、もしあなたが逃げないなら、合理化しないなら、もしあなたがそれを乗り越えようとしないなら、もしあなたがそれを怖がらないなら、そうするとあなたはそれと共にいます。なぜなら“現実”から離れたいかなる活動もエネルギーの消散だからです。そのためにあなたは実際に“現実”を理解しません。“現実”が悲しみです。そして我々はそれから逃げる狡賢い手段と方法を編み出してきました。そうするともしあなたが何の逃亡も全く謀らないなら、あなたはそれと共にいます。私はあなたがこのようにしてきたのかどうか知りません。なぜなら誰もが生活の中であなたに途轍もない悲しみをもたらす事故や出来事に会うからです。それは出来事や何らかの言葉や事故や完全な孤独による引き裂かれた感覚などかもしれません。それらのことが起こって、それと共に全くの悲しみがやってきます。そこで精神がそれと共にいられるとき、それから立ち去らないでいられるとき、そこから熱気が生まれます。培われた熱気ではなく、技巧的に熱気を帯びようと試みるのではなく、熱気を帯びた活動がこの悲しみから後ずさりしないことで生まれます。それは余すことなく完全に悲しみと共にいることです。
A 私が考えているのは、我々が悲しみの中にいる人のことを話すとき、我々は人々が悲しんでいると言うことです。
K はい。
A そしてすぐに我々は考えます、その対策は“その反対のもの”を取り除くことであると、“その反対のもの”と共にいるとは言いません。あなたが話してきているとき、私は行動と熱気との間の対極的な意味の相互関係を見ていました。引き受けることができるのが熱気です、変えられることができるのが熱気です。一方、変化に影響を及ぼすために行うのが行動です。そしてこれが、もし私があなたを正しく理解しているなら、私の現にあることを引き受けられる正にそのときに、悲しみから熱気への動きでしょう。
K 全く逃げないとき、現実から離れて慰安を探し求めようとする欲望が全くないとき、そのような絶対的な、逃げることができない“現実”からこの熱気の炎が生まれます。そしてそれなしには美は存在しません。あなたは美について限がないほど沢山のことを書くかもしれませんし、あなたは驚くべき画家かもしれませんが、そのような内面の熱気の質なしには、悲しみの大いなる理解から生まれるそのような熱気の質なしには、私は美がどのように存在しうるのか分かりません。そしてまた人は人間が自然に触れてこなかったのを観察します。
A おお、はい。
K 完全に、とりわけ大都市で、そして小村や小集落でさえも、人間はいつも外向きであり、自分自身の思考に付きまとわれています、そうして人は多かれ少なかれ自然に触れることを止めてきました。自然は人にとって何も意味しません、つまり、それは非常に“素敵”なだけです。一度私は幾人かの友人と私の弟と何年も前にグランドキャニオンの前に立っていて、あの驚くべき、信じられないものを見ていました、その色や深さや影を見ていました、すると何人かの集団がやって来て、一人の婦人が言いました、素晴らしいですねと、そして隣の人が言いました、“さあ、行こう、お茶にしよう”と。そして彼らは立ち去っていきました。お分かりですか。それが世界中で起こっていることです。我々は自然に触れることを完全に止めました。我々はそれが何を意味するのか知りません。そしてまた我々は殺します。我々は食べ物のために殺します、我々は楽しみのために殺します、我々は気晴らしのために殺します―私はそれらのことに立ち入りません。そのようにこの自然との親密な関係の欠如があります。
そのように、宜しいでしょうか、我々はますます技巧的になっています、ますます皮相的になっています、ますます言葉に埋もれています、絶え間なく流れる水の中にいるように、全く立ち止まることなく、流されるように生きています。そうして自然の成り行きで、技巧的なものがさらに重要になります―劇場、映画、お分かりですね、現代世界のあれやこれやです。そして非常に少数の人たちしか自分自身の中に美の感覚を、振る舞いの中にある美を持ち合わせていません。お分かりでしょうか。
A おお、はい。
K 振る舞いの中の美であり、言葉の使い方の中にある美であり、その声であり、歩き方です、謙虚の感覚です。そのような謙虚と共に、あらゆるものがとても優しく、穏やかになり、美が溢れるようになります。我々はそのようなものを全く持ち合わせていません。我々は美術館へ行きます、我々は絵画を習います、そして我々は精神の、心の、体の繊細さを、感受性を失ってきました、そして我々がこの感受性を失ってしまったとき、我々はどのようにして美が何であるのかを知りえるのでしょうか? そして我々が感受性を手にしていないとき、我々は感受性を磨くためにどこかへと出向きます。どこかのセミナーあるいはアシュラムあるいはどこかの腐った穴倉で我々は感受性を磨くのを習おうとします。胸が悪くなります。そうすると教授や教師として、あなたはどのようにこの質を手にするように学生を教育しうるのですか―このことが非常に非常に重要になっています。そうすると人は問う必要があります、何のために我々は教育しているのかと。何のために我々は教育されているのかと。誰もが教育されています。九十パーセントの人々が恐らくアメリカでは教育されています、読み書きなどのことを知っています、しかし何のためにですか?
A そしてまた事実であるのは、少なくとも何年もの私の教職の経験では、これらのいわゆる教授法の拡充で現代の学生が何年も前のケースよりも読み書きに気を配らなくなっています。
K 宜しいでしょうか、それが私の様々な大学や他の場所で話してきたとき私がいつも我々は何のために教育されているのかを問うてきた理由です。ただ輝かしい秘書になるためだけですか?
A そうなります。
K もちろんそうです。輝かしいビジネスマンや何であろうと。何のためですか? もし私に息子がいるなら、それは私にとって途轍もない問題です。幸運にも私には息子はいません、しかしそれは私にとって火急の問題です、つまり、私は私の子供たちをどうすればよいのかということです。子供たちをそれらの学校へ行かせて、そこで子供たちはただ本の読み書き以外は何も教えられないのですか、そして暗記の仕方を教えられて生の全領域を忘れるように言われるのですか? 子供たちは性や生殖などそのたぐいのことを教えられます。しかしそのあとは何ですか? 私にとってこのことは途轍もない問題です、なぜなら私はインドで七つの学校、イギリスで一つの学校に関係しているからです、そして我々はここカリフォルニアで学校を一つ作ろうとしています。それは火急の問題です、つまり、我々が我々の子供たちと接するということはどういうことなのかという問題です。子供たちをロボットにしたり、抜け目のない狡賢い秘書やこれやあれを発明する偉大な科学者にしたりするのですか、そうでないなら子供たちを見掛け倒しの精神をもった普通のさもしい他愛のない人間にするのですか? お分かりでしょうか。
A はい。
K そうすると人間は他の人間を美の中で育つように、善きことの中で育つように、大いなる愛情と気遣いの中で育つように教育できますか? なぜならもし我々がそうしないと、我々は地球を破壊しています、今そうしているように、今大気を汚しているように。我々人間は我々が触るものは何でも破壊しています。そのようにこのことは非常に非常に真剣なことです、つまり、我々は美について、快楽や恐れ、関係性、秩序などそれら全てについて話していますが、それらのいずれもがどの学校でも教えられていません。
A はい。私は正にその問題を私の授業で昨日取り上げました、そして学生たちは即座に我々はここで大学の上級コースを学んでいても、我々は決してこのことを聞いたことがないと頷きました。
K 宜しいでしょうか、それは悲劇です。
A そして我々はそのことを聞いてきていないので、我々が本当にこのようなことに耳を傾けることができるのかという問題が持ち上がります。
K そして教師や教授は正直に言うのかどうかです、つまり、私は知りません、私はそれら全てのことについて学ぼうと思いますと。そのように、宜しいでしょうか、それが西洋文明―私はそれを非難しているのではありません―の主に商業主義や消費者主義に関連していて、それが非道徳的な社会である理由です。そして我々が人間の変質について話すとき、知識や時間の領域のそれではなく、それを越えて話すとき、誰がこのことに興味を持ちますか? 誰がそれに本当に気を配りますか? なぜなら父親は生計を立てるために仕事へ行き、母親もまた何らかの仕事をしていて、子供はただの一つの出来事にすぎません。
A これは恐らく私にとって行き過ぎた発言であると思いますが、私はそれは今ある点を付いていると思います、もし仮に十代の子が、あなたのそれを取り上げてきた次元で、あなたがそれを執拗に指摘する次元でこの問題を取り上げるなら、その子は正常であるのかどうかという問題が持ち上がります。
K はい、そうです。
A そのことで私はソクラテスのことを考えます、彼は非常にはっきりしていました、彼が知っているのはただ一つであると、つまり、彼は知らないと、そして彼はそのことをあまり口に出しませんでした、しかし彼は殺されるに十分な回数は口にしました、しかし人々は彼を殺すに十分なほど彼の言うことを真剣に聞きました! 現代なら私は彼が研究のために何らかの収容所へ入れられているだろうと思います。あらゆることが“調べ尽くされる”必要があるでしょう。
K それがロシアで起こってきたことです。彼らは人々を精神病院へ送って人々を破壊します。宜しいでしょうか、ここでは我々はあらゆるものを何らかの表面的な獲得のために、お金のためにないがしろにします。お金は力や地位、権威などあらゆるものを意味します。
A それはあなたが以前に成功について言ったことに戻ります。それはいつも水平軸上の後々のことです。
あなたが自然について話しているとき、私はあなたと学問の歴史的な観点からそれについての皮肉なユーモアを含むあることを共有したいと思いました、つまり、私は女神ドーンへのヴェーダのそれら驚くべき賛歌のことを考えました。
K おお、はい。
A バラ色の指をした夜明けの女神ドーンの現れる様子です、そして学者たちは驚きの表情を見せてきました、彼女への賛歌の数が他の神々と較べて少ないと。学者たちの注意は学問の中に向けられていて、その賛歌の質―その素晴らしい美―にではないのです、つまり、学者たちにとって重要なのは、どの神が―この場合はインドラが―リグヴェーダの中で最も多く記述されているかを明らかにすることです。宜しいですか、私は量が見過ごされてよいと言おうとしているのではありません、しかしもし問題があなたのそれを探究してきているように取り組まれていたなら、もっともっと深く取り組まれていたなら、私は学問が非常に違った道を歩んでいただろうと思います。我々は腰を下ろして、そのような賛歌が自らを明らかにするような仕方を教えられていたはずです、そしてそれをあれこれ比べることを止めるよう教えられていたはずです。
K それが私の言おうとしていたことです。宜しいですか、美や熱気や悲しみを議論するとき、我々はこの問題も検討する必要があります、つまり、行うとはどういうことですか? なぜなら何らかの行為がそれら全てに関係しているからです。
A はい、もちろんです。
K 行うとはどういうことですか? なぜなら生は何らかの行為だからです、生きることは何かを行うことだからです、話すことは行動だからです。あらゆるものが何らかの行為です、ここに座っていることは一つの行為です。話すことや対話すること、議論すること、物事を検討することは一連の行為であり、行為の中の活動です。そうすると、行うとはどういうことですか? 行うことは明らかに今の行いを意味します、行ったことでも行うでしょうということでもありません。その語は能動的現在形です、つまり、行うことであり、それはいつも行っていることです。それは時間の中と外の活動です―我々はそのことを少し後で検討します。それでは悲しみをもたらさない行為とは何ですか? 人はそのことを問う必要があります、なぜなら、あらゆる行為が、我々が今そうしているように、後悔や矛盾、意味のない活動感覚、抑圧や順応などのいずれかであるからです。それがほとんどの人にとっての行為です、決まりきった行為であり、繰り返す行為であり、過去のことを思い出す行為であり、その過去の記憶に従って行う行為です。そのようにもし人が非常に深く行為とは何かを理解しないなら、人は悲しみが何であるのかを理解できないでしょう。そのように行為、悲しみ、熱気そして美があります。それらは全て一緒であり、それらは分離していません、分離した何かではありません、最後に美があり、始めに行為があるのではありません。そうでは全くありません、それは全て一つのことです。しかし、そのように見てみると、行為とは何ですか? 人が今知る限りでは、何らかの行為は何らかの方式に従っています、何らかの概念に従っています、あるいは何らかのイデオロギーに従っています、つまり、共産主義者のイデオロギーであり、資本主義者のイデオロギーであり、社会主義者のイデオロギーであり、あるいはキリスト教徒やヒンズー教徒の抱くイデオロギーなどです。そのように何らかの行為は何らかの観念の近似形です。私は私の概念に従って行動します。そのような概念は伝統的なものであるか、あるいは自分で拵えたものか、それとも何らかの専門家によって作り上げられたものです。レーニンやマルクスはそれを形作ってきました、そして人々はレーニンやマルクスが形作ってきたと人々が考えるものに寄り添って順応します。そのように行為は何らかのパターンに従います。お分かりですか?
A はい、分かります。私に思い至ることは、そのような専制政治の下で人は文字どおり何ごとかに追いやられます。
K その通りです。追いやられます、条件づけされます、残酷な目にあわされます。あなたは観念や観念を遂行する以外は何にも気を配りません。中国やロシアで起こっていることを見てください。そして、ここでも、同じことが形を変えて起こっています。そのように、我々が今知っているような行為は何らかのパターンへの順応です、未来のそれであるか過去のそれであるか、私が遂行する何らかの観念への順応です。私が行為の中で成し遂げる何らかの決意や決心です。過去が行為しているので、それは行為ではありません。私は私がこのことを明確にしているのかどうか分かりません。
A はい、我々はもし我々が何らかのパターンを生み出さないと秩序がもたらされないという根本的な信念の害をこうむっています。
K そのように何が起こっているのか分かりますか? 秩序が何らかのパターンという点です。
A はい、何らかのあらかじめ考えられたパターンです。
K 従ってそれは秩序の乱れであり、そしてそれに抗して賢明な人は戦います―その人は反抗するという意味で戦います。そのように、それが、もしあなたが美とは何であるのかを理解したいと思うなら、行うということがどういうことであるのかを理解することが非常に重要な理由です。観念とは無縁な行為がありえますか? 観念は―我々はギリシャ語からこのことを知りますが―見ることを意味します。観念は見ることを意味します、そしてそれは見ることと行うことを意味します。見て、それから何らかの結論を引き出して、それからその結論に従って行動するのではありません。知覚して、その知覚から何らかの信念あるいは方式を引き出して、その信念や観念や方式に従って行動するのではありません。我々がそのようにすると我々は知覚から離れてしまいます。我々は何らかの方式に従ってだけ行動していて、従って機械的になります。あなたは我々の精神がどれほど機械的になってきているか分かります。
A 必ずそうなります。
K あなたはそれが人のこの重要な問いを発しなければならない理由が分かります、つまり、行うとはどういうことなのかと。それは何らかの繰り返しですか? それは何らかの模倣ですか? それは“現実”と“あるべきこと”あるいは“今までそうであったこと”との間の何らかの調整ですか? それともそれは何らかのパターンや信念や何らかの方式へ順応することですか? もしそうなら、必然的に争いが起こるはずです。なぜなら観念と行動との間に何らかの間隙が生じるからです、何らかのタイムラグが生じるからです、そしてその時間的な間隙の中で多くのことが起こります。その中で他の出来事が起こる分断です、従って必ず争いが起こるに違いありません。行動は従って決して完全ではなく、決して余すことのない全体ではなく、決して消滅しません。行うことは消滅することを意味します。宜しいですか、あなたは先日ベーダーンタという言葉を使いました。私は言われました、それは知識の消滅することを意味すると、知識の継続ではなく、その消滅です。そうすると、時間としての過去や未来に縛られていない、あるいは何らかの方式や信念や観念に縛られていない行い、何らかの行いというものがありますか? 見ることが行うことである行為です。
A はい。
K 宜しいですか、見ることが行うことであるということは自由の中の途方もない活動です。その他のものは自由ではありません、従って共産主義者たちは言います、自由というそういうものはないと、それはブルジョアの観念であると。もちろんそれはブルジョアの観念です、なぜなら彼らは観念や概念の中に生きていて、行うことの中に生きていないからです。彼らは観念に従って生きていて、それらの観念を行動の中で遂行します、しかしそれは行いではありません、行うことではありません。
A おお、はい。
K これが我々の西洋でも東洋でも世界中で行うことです、何らかの方式や観念、信念、何らかの概念、何らかの結論、何らかの決心に従って行動することであり、決して見ることが行うことになりません。
宜しいでしょうか、あなたは人が行為の中の自由とは何かを見始めるのが分かります。
A その通りです。
K 見ることが行うということが過去や何らかの方式や概念や信念である観察者によって阻まれます。観察者が知覚と行為との間に割って入ります。そのような観察者が分断の要因です、それは行動の中の観念であり結論です。そうすると我々は知覚が生じるときにのみ行えますか? 我々はこのことを我々が断崖絶壁の前に立つとき行います、危険を見てすぐに行動します。
A もし私が正しく記憶しているなら、気を抜かずに気をつけているという言葉はイタリア語の崖の間際に立つという意味に由来しています。
K 宜しいですか、非常に興味深いのは、我々は崖の危険性に条件反射します、蛇や危険な動物などに条件反射します、しかし我々はあなたが何らかの観念に条件反射しなければならない、そうでなければ行動というものはありえないという観念にも条件づけられています。
A はい、我々はそのように条件づけられています、ひどく条件づけられています。
K そのように我々は危険に対してこのような条件づけを受けています、そしてあなたは何らかの方式なしには、何らかの概念や信念などなしには行動できないという事実に条件づけられてもいます。そのようにそれら二つが我々の条件づけの要因です。そして今誰かが来て言います、“宜しいですか、それは行うことではありません、それは単なるこれまでのことの繰り返しにしかすぎません、それは修正されていても、それは行いではありません。行為とはあなたが見て行うことです”と。
A そしてそれへの反射的反応は、“おお、分かります、彼は行動に新しい定義を下しています”と。
K 私は定義を下しているのではありません。私はこのことを生涯を通じて行ってきました、私は何かを見て取って、私はそれを行います。例えば、ご存知のように、私は個人的な意味で言っているのではありません、多くの追随者たちを従えて広大な土地、五百エーカーや城やお金などを所有した非常に大きな精神的組織団体が少年である私の周りに形成されました。そして1928年に私は言いました、これは全て誤りであると、私はそれを解散して、その財産などを返しました。私はどんなにかそれが誤りであるのか見て取りました。見て取ることです、結論や比較するのではなく、宗教がそれをどのようにしてきたのかを見て取るのです。私は見て取って行動しました、従って決してどのような後悔も生じていません。決して言うことはありません、“おお、私には頼る人が全くいなかったので私は過ちを犯してしまった”と。お分かりですか?
A はい、分かります。我々は次の我々の会話で美を見ることと聞くことに関連させることができますか?
1974年2月22日
中野 多一郎 訳