クリシュナムルティ 人が世界を観察すると、この国だけではなく、ヨーロッパやアメリカやロシアや中国を観察すると、人は暴力が増大するのを見ます、個人的な生活の中だけではなく、集団的なそれの中にも。人々は些細なことで暴力的になるように思われます。この国では人々が言葉に、地域の言葉に対して暴力的です、そして、人々は世界の他の場所で戦争や破壊や反乱に関して暴力的です、あるいは、アメリカでは、黒人の白人に対する暴力などです。無政府状態や分裂状態や破壊に向かう一般的な傾向が存在して、ますます攻撃的になっています。そして、人がこのような事態を目にするとき、人は自分自身に問います、なぜなのかと。世界中のこの恐ろしい、破壊的な、残虐な暴力の原因は何でしょうか? 私はあなたがこの問いを自らに問うてきたかどうか知りません、なぜでしょうか? それとも、あなたはそれを避けられないこととして、生の一部として受け入れるのでしょうか?
我々の誰もが、その個人生活では、暴力的でもあります。我々は怒ります、我々は人々が我々を批判するのを嫌います、我々は我々自身の生活が干渉されるのに耐えられません、我々は非常に防御的です、従って、我々は攻撃的です、我々が何らかの信念や教条に固執するとき、あるいは、我々が我々のナショナリティを崇拝するとき、国旗と称される布切れをそうするとき。そのように、個人的に、我々の個人的な生の奥底で、我々は攻撃的です、我々は暴力的です、そしてまた、外面的にも、他の人たちとの関係性の中でも同様です。我々が野心を抱くとき、貪欲なとき、何らかの所有欲を抱くとき、我々もまた外面的に、集団的に、攻撃的であり、暴力的であり、破壊的です。
なぜこのようなことが今、歴史的現在の今、起こっているのでしょうか、そして、それはなぜいつも過去に起こっていたのでしょうか? とても沢山の戦争が起きました、とても沢山の分裂的、破壊的力が世界に放たれました、なぜでしょうか? その理由とは何でしょうか? その原因や理由を知ることが精神から暴力を一掃するということではありません。しかし、なぜ人間はいつの時代にもそのように暴力的で、残虐で、攻撃的で、残酷で、破壊的であるのかを―それら自身の種を破壊しているのかを―検討することは間違いではありません。もしあなたがそれを問うなら、あなたはその理由は何だと思いますか―心に留めておいて下さい、そのような説明や結論が暴力を排除することは決してないと。我々はいかに暴力から解放されるのかを検討します、しかし、最初に、我々はなぜそれらの暴力的な反応が存在するのかを検討しなければなりません。
私は思います、その理由の一つは、我々が動物から引き継いできた本能であると、それは動物に由来します。あなたは見たことがあります、犬が襲っているのを、あるいは、牛がそうしているのを―強いものが弱いものを襲っています。動物たちが攻撃的であり暴力的であるのは自然なことです。そして、人間がそれらから進化してきて、我々もまたその攻撃的な暴力や憎悪を引き継いできました、それは我々が領土権を手にするとき存在します―一か所の土地の権利です―あるいは、性的権利です、動物のそれのように。そのように、それが一つの理由です。それから、別の理由は環境です―我々の生きている社会です、我々が育ってきた文化です、我々が受けてきた教育です。我々は我々が生きている社会によって攻撃的であることを強いられます、誰もが自分自身のために戦うのです、誰もが何らかの地位、力、信望を欲します。人の関心はその人自身にあります。人はその家族やその集団やその国家などにも関心を寄せるかもしれませんが、本質的に、人の関心はその人自身にあります。人は家族を通して、集団を通して、国家を通して働くかもしれませんが、いつも人は自分自身を第一にします。そのように、我々が生きている社会がこの暴力をもたらす要因の一つです―つまり、それが我々に課す振舞です。生き残るためには、そう言われます、あなたは攻撃的でなければならない、あなたは戦わなければならないと。そのように、環境が暴力の要因として途方もない重要性を帯びます、そして、我々の生きているこの社会は我々全ての人間の産物です、我々自身がそれを生み出してきました。
他の理由の一つが人口過剰です。世界中で、このことが問題になっています、とりわけ、この国ではそうです。さらに多くの人たちが世界中に住むようになっています、そして、それら全ての人たちが要求します、そして、そうしなければなりません、雇用であり、食べ物であり、衣類であり、住処です。人々はそれらのために争っています、そして、人々は人々が大都市に住むときさらにもっと争っています、それらの都市はすでに人口過剰であり、人間たちのための空間がありません。我々が洗練されればされるほど、我々がいわゆる文明化されればされるほど、我々の住む空間が少なくなります。ベナレスやローマやロンドンやニューヨークの街を歩いて下さい―それらがどれほど混雑しているか見て下さい、それらの街の住居には人間の住む空間がほとんどありません。人々は狭い空間に何千ものネズミを住まわせる実験をしてきました。人々がそうすると、ネズミたちはあらゆる空間感覚や価値観を失います。幼子たちを抱えた母親たちは育児拒否に走ります、そして、暴力と秩序の乱れが増大します。そのように、空間の欠如がその途方もない暴力をもたらす要因の一つです。
しかし、暴力の主な要因は、私は思います、我々の誰もが内面的に、心理的に安全性を追い求めていることであると。我々の一人ひとりの中にある心理的に安全であろうとすること―内面的な安心感―が安全性の要求―外面的な要求―につながります。内面的に、我々の誰もが安全であること、確かであること、確実であることを願います。それが我々の皆が結婚に関する法律を手にする理由です、そうやって我々は女性あるいは男性を所有するのかもしれません、そうやって、我々は我々の関係性の中に安心を覚えるのかもしれません。もしその関係性が攻撃されると、我々は暴力的になります、それは心理的な要求です、内面的な要求です、それは我々のあらゆるものに対する関係性が確かでありたいと願うことです。しかし、いかなる関係性の中にも、確実性や安全性というようなものは存在しません。内面的に、心理的に、我々は安心したいと思います、しかし、永久的に安全というようなものは存在しません。あなたの妻、あなたの夫はあなたに背を向けるかもしれません、あなたの財産は革命の中であなたから奪い取られるかもしれません。そのように、それら全てが世界中に席巻して吹き荒れる暴力に寄与している要因です。私は思います、たとえ少しでも、世界中で起こっていることを、とりわけ、この不幸の国で起こっていることを、観察した人なら誰でも、大いに知的に学習しなくても、観察すると、自分自身の中で、それらのことが、外面的に見られるそれらのことが、その途方もない残虐性、無感覚、無関心、暴力の要因であると。
宜しいでしょうか、それらは言葉による説明です、(そして、我々はもっとそうできます、あるいは、それらをより詳細に検討できます)それらが、人と人との、その途轍もなく、破壊的で、残酷な関係性を生み出す主な要因の幾つかです。そうすると、我々は何を行うのでしょうか? 大なり小なり暴力の要因を確立してくると、内面的にも外面的にも、それらを確立してくると、次の問題が立ち上がります、つまり、我々はどのようにして精神を暴力から解放するのか、ということです。
我々は、先日、非常に有名な政治家と話していました、(どうか、世界を政治家から救い給え)彼は言っていました、暴力は生の必要な一部であると。政府関係者が暴力を常態として受け入れるとき、何か根本的な間違いが生じます、なぜなら、世界には平和が必要だからで、暴力ではないからです。人は平和でなければなりません、というのも、平和の中でこそ、人は真理とは何か、美とは何か、愛とは何かを明らかにすることができるからです。暴力を通して、あなたは愛とは何かを決して明らかにできません、あなたは、平和なしに、美とは何かを決して明らかにできません。そのように、暴力を日常生活に必須な一部として受け入れることは、この上なく歪んだ考え方です。
暴力という言葉にも大いなる説明が要ります、なぜなら、我々は思うからです、暴力は単にそのようなものであると、つまり、正気ではない人たちによって家が焼かれること、警察官と争うこと、“あなたはそうしてはいけない!”“あなたはそうすべきである!”と叫ぶ群衆と共に行進することであると、あるいは、戦争のことであると。それが我々の暴力と称するものです。しかし、暴力はそれよりもずっと微妙な何かです。例えば、あなたが自分自身を誰かと比較するとき、それは暴力の一部です、あなたが誰かを模倣していたり、誰かを抑圧しようとしていたりするとき、それは誰かと競うことですが、それもまた暴力の一部です。全社会的そして宗教的構造はその比較する信条に基づいています。あなた自身を誰かと計ること、そうして、その人と競争することはその暴力の一部です。あなたがあなたの欲望を抑圧するときもまた暴力の一部です。それはあなたがあなたの欲望に耽ることを意味しません。それの意味するのは、あなたが模倣するとき、何らかのパターンに順応するとき、そのパターンが社会によって確立されたものであろうと、自分自身で作ったものであろうと、つまり、あなたが模倣しているとき、順応しているとき、コントロールしているとき、自分自身に規律を課しているとき、自分自身を強いるとき―それもまた暴力の一部だということです。あなたが何かに従うとき、それもまた暴力の一部です―そして、ほとんどの人間は従うように躾けられています。再度、全インド的構造―ヒンドゥー教であれ、イスラム教であれ、カトリックであれ、なんであれ―その宗教的構造は服従、受容、権威に基づいていて、それら全ては暴力の一部です。
それでは、暴力とは何でしょうか―あなたは私の質問が分かりますか? 私は何に対して暴力的でいるのでしょうか? もしそれが社会に対する暴力なら、それは反乱になります、それは暴力の一種です。それから、服従の暴力があります、それはこう言います、“私は知りません、しかし、あなたは知っています”と。そうすると、あなたは私の権威になります、そして、私はあなたに従います。どうか、このことをあなた自身の中で検討して下さい、そして、話し手の言っていることをただ聞かないで下さい。明らかにして下さい! あなたが誰かを―それが誰であろうと―あなたのグル、あなたの教師、あなたの聖者に仕立て上げるとき、それは暴力の一種ではありませんか? それが誰であろうと、一度あなたがその人をあなたの権威として受け入れると、否応なく、あなたは暴力的になるに違いありません。なぜでしょうか? あなたが権威を受け入れるとき、なぜあなたは暴力的になるのでしょうか? なぜなら、他の種類の権威があるので―様々な権威です―あなたはあなたの権威が他のそれらより偉大であると主張したくなるように感じます。そこで、我々はその理由を明らかにする必要があります、何らかの権威を受け入れるとき―それが社会的な権威であろうと、あるいは、それがグルの精神的権威や書物の権威であろうと―なぜそれが暴力を生むのかを。それは暴力的です、世界中で、なぜでしょうか? あなたがコーランの権威を受け入れるとき、あるいは、バイブルのそれを受け入れるとき、あるいは、キリストのそれを受け入れるとき、それが何であれ、なぜそれが暴力の要因になるのでしょうか?
暴力とは何でしょうか? それは分断です、違いますか? あなたがバガヴァッドギーターの権威を受け入れて、私がコーランの権威を受け入れるとき、あなたと私は我々の信念や教条によって分断されるはずです。どのような形の分離も、分断も暴力を生みます。私は私の書物に固執します、私の権威に固執します、そして、あなたはあなたのそれに固執します。表面的に我々はお互いを許容するかもしれません、そのように生きるかもしれません、恐らく、同じ通りを共に歩くかもしれません、あるいは、同じ職場に行くかもしれません、しかし、内面的には、我々は分離しています、内面的にあなたと私は分断しています―あなたはヒンズー教徒であり、私はイスラム教徒であり、キリスト教徒であり、仏教徒であり、共産主義者であるなどです。そのように、本質的に、その分断は、信念や権威や心理的な排除によってもたらされるそれは、暴力を生みます、そして、暴力を生むだけではなく、あらゆる形の愛情や愛を排除するに違いありません。どうか、宜しいでしょうか、そのことをあなた自身の心の中で観察して下さい、単に話し手に耳を傾けないで下さい。どのようにあなたが同じ文化の出自ではない人を思うのか見て下さい、物事を同じように見ない人をどう思うのか見て下さい、あなたと異なる考え方をする人をどう思うのか見て下さい、あなたがあなた自身を誰か他の人よりも少し優れていると考えるときのケースです。何らかの偏見が生じるとき、分断が生じます、そして、偏見は思考の最も愚かな形です、そして、偏見を抱くことは最も愚かな生き方です。
......死んでやり過ごす守宮の尻尾とは何でしょうか?......
そうすると、人は何を行うのでしょうか? 我々人間が暴力的であると知って、分離していると知って(そして、それらは事実です、それは何らかの観念ではなく、理論ではなく、実際の事実です)我々はどうするのでしょうか? 外面的には、一つの普遍的な言語があります―外面的に、あなたは理解します。全世界に気を配る一つの政府がなければなりません、それは分離した国々にのみ関心を抱く分離した政府ではありません―インド、中国、ロシアあるいはアメリカ―なぜなら、それはいつも分断を生むからです―経済的、社会的そして階級的分断です。
そのように、最初に、外面的に、一つの言語です―ヒンドゥー語や英語ではなく、一つの普遍的言語です。それから、再び、外面的に、全人類のための世界的なプランです。内面的に、そうすると、それはもっとずっと興味深くなります、もっとずっと活力に満ちます、もっとずっと要請されます。
そうすると、どのようにして人間は、つまり、あなたはその暴力から解放されるのでしょうか? 人々はあらゆることを試みてきました、というのは、僧侶や托鉢者が出家するとき、その人は世俗のものを放棄するだけではなく、生のあらゆる残虐性も放棄します。しかし、その人はそうしていません。あなたは何らかのマントラを読誦するなどその他の全てを行うことによって暴力から逃げることはできません、あなたは恐らく何らかの事実から逃げることはできません。私は恐らく現にある通りの私から逃げることはできません。私は一連の逃亡の網の目を発明できます、しかし、それらの逃亡が否応なく途方もなく重要になって、従って、分離的になって、そして、それがまた暴力を生みます。そのように、最初に行うこと―それは事実から逃げないことです。どうか、このことに耳を傾けて下さい、私が暴力的であるという事実から逃げないことです。非暴力という観念の入る余地は全くありません、それはロマンティックな、非現実的な方式です。あらゆる観念形成、あらゆるイデオロギーは―現にある通りのものの対極にある、そうあるべきことというのは―ロマンティックな何かであり、事実ではありません。従って、人はあらゆる観念を捨て去らなければなりません―完全に。我々はそうできますか? もし我々が非暴力という観点で考えているなら、それはほとんどの我々が考えていることで、それでも、我々は暴力的ですが、我々は言います、“私は暴力的であってはならない”と、その“あってはならない”というのが非暴力でいるというパターンを生みます、つまり、非暴力は理想になります。しかし、事実はあなたが暴力的であるということです、そうすると、なぜロマンティックな、観念的な理想にこだわるのでしょうか? そうすると、それでは、あなたは事実と向き合えますか、逃亡とではありません。
最初に、そうすると、外面的な秩序がなければなりません、そして、普遍的な言語と全人類のためのプランがないなら、秩序はありえません、それはあらゆるナショナリティの消滅を意味します。そうすると、内面的に、精神があらゆる逃亡から解放されていなければなりません、そうすると、それは現にある通りの事実と向き合います。私は私が暴力的であるという事実に向き合うことができますか、そして、“私は暴力的であってはならない”と言わないで、それを非難したり、それを正当化したりしないでいられますか、ただ私が暴力的であるという事実に向き合えますか?
このことは我々に非常に重要なことを問いかけます―私は思います、それは恐らく決定的な問いであると、つまり、見るということ、耳を傾けるということは何を意味するのか、ということです。というのも、もし私がどのように見るのか分からないなら、そうすると、私は必ず非難したり、あるいは、正当化したりするはずです、あるいは、何らかの逃亡の形を探し求めるはずです。それは、私が何かをどのように見るのか知らないために、私がそれを非難したり、それを正当化したり、“それは正しい”、“それは間違っている”、“そうであってはならない”、“そうあるべきである”と言ったりするのです。そのように、私は、最初に、見ることを学ばなければなりません、客観的にだけではなく、外面的にだけではなく、内面的にも学ばなければなりません。
樹木を見て下さい、どうか、宜しいでしょうか、これは非常に重要なことです。あなたは話し手がこのことをしばしば話すのを聞いてきたかもしれません、しかし、本当に樹木を見ることは行うことの最も難しいことの一つです。あなたは樹木を見ることができます、なぜなら、それは客観的で、あなたのその当の中心から離れているからです―それは向こうに存在します。あなたがその樹木を見るとき、あなたはどのようにそれを見ますか? あなたはそれをあなたの精神で見ますか、あるいは、あなたはそれをあなたの目で見ますか―あるいは、あなたはそれをあなたの目プラスあなたの精神で見ますか? あなたはこのことが分かりますか? もしあなたが樹木を見るとき、あなたはそれを視覚的にだけではなく、あなたの目で見るだけではなく、あなたの眼差しは何らかの記憶、何らかの連想も呼び起こします。私はその樹木を見て言います、“それはタマリンドである”と。私がそれはタマリンドであると言うとき、あるいは、ミモザ(それが何であれ)であると言うとき、私はすでに見ることを止めています。このことをあなた自身の中で観察して下さい。私の精神はすでに“それはタマリンドである”と言うことによって、気を散らしています、一方、樹木を見るためには、私はその見ることに完全に気を付けていなければなりません。そのように、見ることが唯一可能なのは、思考が決してその見ることに干渉しないときです。思考は記憶であり、経験であり、知識です、そして、それら全てが忍び寄るとき、それは見ることに、気を付けることに干渉しています。
宜しいでしょうか、樹木を見ることは極めて容易です、なぜなら、それはそこにある何かだからです。しかし、自分自身を見ること、現にある通りの自分を見ること―その暴力をいかなる非難もせずに、いかなる正当化もせずに、いかなる説明もせずに見ること、それをただ見ること―そうするためには、あなたは多くのエネルギーを手にしなければなりません、違いますか?
宜しいでしょうか、ここで起こっていることを観察して下さい。話し手があなたに何かを言っています、そして、耳を傾けるためには、あなたは余すことなく気を付ける必要があります。彼の言っていることを正に明らかにするためには、あなたは気を付けていなければなりません、しかし、もしあなたがメモを取っているなら、もしあなたが他の誰かを見ているなら、もしあなたが飽きているなら、もしあなたが眠たいなら、もしあなたが欠伸をしていたり、体を掻いていたりしているなら―あるいは、同意していたり、同意していなかったりしていたら―そうすると、あなたは完全に気を付けていません。そのように、その言葉に耳を傾けるためには、橋の上を通っている列車に耳を傾けるためには、木の葉を揺らす風の音に耳を傾けるためには、何となくではなく、それに耳を傾けるためには、あなたは途轍もないエネルギーを手にしなければなりません。そのようなことが生じるのは、言葉による説明のないときのみです―思考がこう言わないときです、“その樹木は心地よい”あるいは“その列車の騒音のせいで耳を傾けることができない”などと。
それでは、私は、そして、あなたはその暴力を見ることができますか(それらの要因を我々は幾分か説明してきました)我々はその暴力をいかなる正当化もしないで見ることができますか? それを非難しないで、我々はそれをそのある通りに見ることができますか?
我々が暴力と称するものにあなたが完全に気を付けるとき、何が起こりますか―暴力は人間を信念や条件づけなどを通じて分離するものだけではなく、我々が個人的な安全性を追い求めるときにも、あるいは、社会的なパターンに沿って個人の安全性を追い求めるときにも生じます。あなたは、そのような暴力を、それに完全に気を付けることで、見ることができますか? そして、あなたがそのような暴力を完全に気を付けて見るとき、何が起こりますか? あなたが何かに完全に気を付けているとき―あなたが歴史や数学を学ぶとき、あなたの妻や夫を見るとき―何が起こりますか? 私は知りません、あなたがそのことを検討したことがあるのかどうかを―恐らく、ほとんどの我々は何かに完全に気を付けることを決してしてきませんでした―しかし、あなたがそうするとき、何が起こりますか? 宜しいでしょうか、気を付けるということはどういうことでしょうか? 確かに、あなたが完全に気を付けているとき、気遣いが生じます、そして、あなたが気遣うことはありえません、もしあなたが愛情を持ち合わせていないなら、愛を抱いていないなら。そして、あなたが愛を抱いて気を付けるとき、暴力が生じますか? お分かりでしょうか? 形式的に、私は暴力を非難してきました、私はそれから逃げてきました、私はそれを正当化してきました、私は言ってきました、それは自然なことであると。それら全てが気を付けていないことです。しかし、私が私の暴力と称してきたものに気を付けるとき―そのように気を付ける中に、気遣い、愛情、愛が生まれます―暴力の這い入る余地がどこにありますか?
そのように、我々がこの暴力の問題を検討するとき、気を付けるとはどういうことなのかを非常に深く理解することは重要です。
気を付けることは精神集中ではありません。精神集中は、何かを扱ううえで、この上なく愚かな方法です。小学生が教科書に集中したいと思うときに―むしろ、そうさせられるときに―その子が窓の外を見たいと思うと、何が起こりますか? その子は窓の外を見たいと思います、そして、先生が言います、“教科書を見なさい、集中しなさい”と。何が起こりますか? 何らかの争いが生じます、違いますか? その子は樹木の美しさを見たいと思うのです、あるいは、ただそれを何となく見たいと思うのです、あるいは、通り過ぎる人を見たいと思うのです、あるいは、羽づくろいをしている鳥を見たいと思うのです、そして、同時に、その子は教科書を見なければならないと感じるのです。そうすると、何が起こりますか? 何らかの争いが生じます、違いますか? その子は外の景色を見たいと思い、同時に、その子は教科書を見たいとも思います。その争いの中で、その子は教科書も樹木や鳥も見ていません、一方、もしその子が本当に気を付けているなら、その子は両方に、あらゆるものに気を付けているでしょう―その色彩に、その子の隣に座っている生徒たちに、その子たちがしていることに、その子たちがその子たちの頭を掻いていることに、あるいは、ノートを取っていることに、あるいは、気を付けていないことに、その子はあらゆるものに気づいています。
そうすると、暴力はねじ伏せられる何かではありません、抑圧される何かではありません、超越される何かではありません、変質させられる何かではありません、乗り越えられる何かではありません。暴力は見て取られる何かです。あなたが何かを気を遣って、気を付けて見て取るとき、あなたはそれを理解し始めます、従って、そうすると、暴力の這い入る余地は全くありません。気を付けていない人こそが、無思慮の人こそが、偏見を抱いている人こそが正に暴力的です。そのように、愚かな人が暴力的であり、気を付けている人はそうではありません、見て取る人、気を遣う人、愛を抱く人はそうではありません、そのような人には暴力の這い入る余地はありません、態度においても、言葉においても、行為においても。
―1967年10月10日 ラージカート
参考:krishnamurti Podcast;Aggression1